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大和三山と 阿菩大神

■阿菩大神と播磨風土記 


西出雲の王墓群で有名な西谷墳墓群を斐伊川をはさんで、向こう岸の少し南に行った所に、播磨風土

記に出てくる阿菩(あぼ)大神を祀った伊佐賀神社があります。江戸時代は「伊保神社」と云われて

います。下の地図で伊保とある地名の所の神社です。

あれれ、対岸の船津町の下に、漢字は違いますが、九州の豊国の始祖、菟名手と同じ名前の地名が見

ますね。


国土地理院地図より

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現在の神社名は、伊佐賀神社ですが、『出雲国風土記』(733年)では、「加佐伽社」の比定されてい

ます。しかし、延喜式神名帳(927年)では、伊佐賀神社としての名前があります。

神社名自体がなぜ変わったのか、よくわかりませんが、出雲国造家第3世に「伊佐我」の名前もあり

す。


伊佐賀神社 島根県出雲市斐川町出西544
※ 最近写した画像ではありません

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伊佐賀神社の石段
かなり急な石段で、降りる時てすりをもっても不安でした。

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ここの神社の説明板によると、「揖保ふりきりの神」から「いぼふり神」となり、「伊菩→伊保大神」

となったと書かれていました。


私は、耳にしたことはありませんが、谷川健一著『列島縦断地名逍遥』(冨山インターナショナル発

行)によれば、出雲方言で、不服を言う事、不満に思い立腹して立ち去ることを“いぼをふる”と

うらしい。


さて、播磨風土記では、どのように書かれているのでしょうか。

〝播磨風土記 揖保の郡 上岡の里

出雲の国の阿菩大神が大倭の国の畝火・香簗・耳梨の三山が闘い合っているとお聞きになった。そこで
諫め止めようと思われて、上がって来られた時、ここに到って、闘いが止んだとお聞きになって、その
乗っていた船を覆せて鎮座した。だから、神阜と名づけた。丘の形は、船が覆ったのに似ている。〟
     (中村啓信 監修・訳注  橋本雅之 現代語訳 『風土記 上』  角川ソフィア文庫)

ここの話から思うに、
ヤマト王権の豪族の争い(山の争いは豪族の争いではなかろうか)に、出雲の王が出向いて、仲裁
だけの力があったのだろうということです。
富家伝承本によると、倭国大乱の時代、出雲族が治めていた播磨国は、アメノヒボコ族に取られ、そ
後、孝霊天皇・吉備津彦がアメノヒボコ族を攻め入って、出雲まで攻められたことになっているの
で、出雲美作道を通って仲裁に行けたのは、かなり、初期の時代のことだと思います。

揖保の地名が、阿菩大神の名前から来ているかと思いきや、葦原志許乎(大国主命)とアメノヒボコ
の逸話から、米粒の落ちた「粒丘(いひぼおか)」から「いぼ」が来ているのだそうな。
でも、阿菩(あぼ)から揖保(いぼ)になったことも考えられるし、もともと、いぼおおかみであり、
付けで揖保→阿菩の可能性もあるのではないかしら。そもそも弥生時代の話を奈良時代の書物で判
断すること自体に無理があるように思います。


■ 中大兄皇子 大和三山の歌

さて、この播磨風土記に出てくる大和三山の争い事と、その調停をしようと出雲からやってくる阿菩
大神の話は、有名な万葉集の中大兄皇子(なかつおほえのみこ)〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕
の三山(みやま)の歌にも出てきます。

一説には、天智天皇と天武天皇が、額田王との三角関係を歌ったものだと云われています。さて、ど
うなのでしょう。

大和三山の詳細については→ ウィキペディア 大和三山

藤原京から見る 天香久山(あまのかぐやま) 標高は152.4メートル
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〝巻1-13
 香具(かぐ)山は畝傍(うねび)を男々(おお)しと 耳梨と相諍(あらそ)ひき。
    神代よりかくなるらし。古(いにしへ)も然(しか)なれこそ、うつそみも、妻を争ふらしき 
 
 昔女山なる香具山が、同じ女山なる耳梨山と、畝傍山を男らしい山だ、と奪い合いをしたというが、
 恋の道にかけては、神代からそうだったのに違いない。(その後、人の世になって、幾千年経ってい
 るが)昔の神々も、そうであった所からして、肉身の人間も、配逑(つれあい)を取りあいするのに
 違いない。(この御製をもって、額田ノ女王を争われた、自己弁護の如く解する古来の学者の考えは、
 おそらくは誤解で、天皇にはそうしたお考えもなく、ただ三山の妻争いの伝説から、一般社会のこと
 を述べられたものと見るがよかろう。)
                    (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)
 
 
 藤原京から見る耳成山(みみなしやま) 標高は139.6メートル

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〝巻1-14
 香具山と耳梨山(みみなしやま)と争(あ)ひし時、
                       立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)

 香具山と耳梨山とが、夫(つま)争いに対抗しておった時分に、それをわけるために、わざわざ、
 雲から阿菩ノ大神が出て来られたという、ここがその印南の平原である。〟              
                     (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)


藤原京から見る畝傍山(うねびやま) 標高は198.49メートル

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私が、藤原京を訪れたときは、藤原京の中にあるグラウンドで、少年野球大会が開催されておりまし
た。それと、コスモスの撮影会なるものも催されていました。
私は、持統天皇時代の都を想像しつつ、大和三山の争いはいったい何を意味しているのかを考えなが
ら、ゆっくりと歩きまわりました。
以下 単なる私の想像です。

中大兄皇子の時代の神代とは、おそらく、葛城王朝の初期段階の話であったろう。
天香久山は、尾張氏の先祖である天香具山命の名の山でもあり。持統天皇は女帝ではあるが、男の天
皇が初期は多いので、たぶん男山であろう。そうなると、あの耳成山は、どこかの王家を指すので
ないか。
畝傍山だが、大和の出雲族ー磯城登美一族は、もとは、三輪山の前ではなくて畝傍山の背後の葛城山
方面にいたそうなので、磯城登美一族のお姫様をめぐっての争いだったのではないか。


■ 拝殿の前の丸石 

さて、話は伊佐賀神社にもどります。

伊佐賀神社拝殿前の丸石

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拝殿の前に丸石が置かれておりました。ちっちゃな狛犬が丸石を守るように相対しています。
西谷3号墓の「石主」を思い出しました。
案外、ここの神社も古墳の上に神社があるのではないかななどと想像しました。
阿菩大神の霊魂の依代なのかも。


西谷3号墓の石主

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〝第4主体の土器を取り除いていくと、玉砂利が出てきました。さらに掘り下げると、窪みの底から、
水銀朱で赤く塗られた円礫が出土しました。ちょうど遺体の上半身の真上あたりでした。〟
〝これらは、霊が憑依した依代、つまり「石主」だったと考えられます。〟
                         (出雲弥生の森博物館の展示説明板より抜粋)

玉(たま)は、魂(たましい)なんですね。
※西谷三号墓は弥生時代の終わりごろに造られた東西40m、南北30mの大形の四隅突出型墳丘墓
す。


■ 阿菩大神は何代目オオナムチか?

神社の説明板には、「御系統は不詳であるが・古史成文古史系図には焼太刀守大穂日子命として記載
されている。」とあります。この「古史成文」「古史系図」とは、平田篤胤の著書のようです。平田
篤胤 古史系図(1815年)で確認してみた所、「焼太刀守大穂日子命(やきたちひもりおほほびこの
みこと) 出雲国阿菩大神是呼」とあり、鹽冶毘古命(やむやびこ)の御子と記載してありました。
延喜式神名帳(927年)でも、出雲国神門郡に鹽冶日子命御子燒大刀天穗日子命神社とあります。

伊保神社(伊佐賀神社)略記 

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富家伝承本、の系図によれば、味鋤高彦御梶姫(アメノミカジヒメ)の御子である塩冶彦の御子に、
「速甕之建沢谷地乃身」の名前があります。

斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)からの系図抜粋

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この「速甕之建沢谷地乃身」が、「焼太刀守大穂日子命」と同じかわかりませんが、この神は大国
主命から数えて、4代目で、オオナムチ11代目です。その頃はいまだヤマト王権にも、力があった
ように思えます。
となれば、大国主命の「国譲り神話」とは、矛盾したものとなります。

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by yuugurekaka | 2017-01-07 15:27 | 出雲と大和 | Comments(0)