2016年 12月 31日
天照らす 高照姫命 (5) 月読命
■ 竹取物語
月読命や豊受大神は、記紀において、ほとんど事績が述べられていません。それはおそらく、
記紀が編纂された時代には、大和中央に「月読命」や「豊受大神」を祀る豪族が、力をもってい
なかったのではないかと思います。しかし、「月読命」は、イザナギの生んだ三神の一つでもあ
り、「豊受大神」は籠神社の奥の宮(元宮)であったことを考えると出雲族と同様に最も古い一
族であったと類推できます。
さて、月を考えてみると、かぐや姫の「竹取物語」が浮かんでまいります。
九世紀後半から十世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初の物語の一つである
と言われています。月から来たかぐや姫に5人の貴公子がでてきますが、天武天皇・持統天皇に
仕えた実在の3人が実名で(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)登場し、後の二人、庫持皇子は
藤原不比等を、石作皇子は多治比嶋(丹比真人島)をモデルにしたと云われています。
詳しくは ⇒ ウィキペディア 竹取物語
記紀編纂時の重臣を揶揄しているので、記紀をねつ造し、月読命の事績をほとんど消してしまっ
た皮肉の書ではないかという話も、一つの説としてあるようです。
石上麻呂は、物部氏の末裔で、右大臣・左大臣を勤めました。
物部系の天皇の事績の周辺には、月読命を奉祭する菟狭(宇佐氏)族であろう名前が、ちらりち
らりと見えるものの、何も語っていません。神代の主軸は、アマテラスとスサノオばかりです。
アマテラスが皇祖神として定着する過程で、月読命の重要度が下がったのかもしれませんが、壬
申の乱が大きく影響しているのではないかと、なんとなくですが、葛城王族であった尾張氏とか
の力が記紀に反映したのではないかと想像します。なんの証拠もないですが…。
■ 豊受大神と月神
竹取物語の月に帰る話ですが、ちょっとだけですが、丹後風土記(残欠の)竹野の郡、奈具社の
祭神 豊宇加能の命(とようかのめみこと)と似ています。豊宇加能の命は、八人の天女の一人
で、子どものいない老夫婦に一度天衣を取られ、人間界に住むことになりますが、酒をつくり、
その土地も豊かになって、老夫婦の生活を豊かにしました。しかし、十余年後、突然天に帰れと
言われ、嘆き悲しみます。天への帰り方もをすでにわからず、結局奈具の村でこころ穏やかにな
り暮らすことになります。
豊宇加能の命が、豊受大神と同じかどうかはわかりませんが
丹波と「豊」は深いつながりがあります。通説では、「豊」は単なる美称、「受」は「食物」と
されています。しかし、富家伝承本では、「豊」は「菟狭族」を指すものと書かれていました。
この豊受大神ですが、伊勢神宮外宮にやってきた契機は記紀には書かれていません。
延暦二十三年(804年)撰進の『止由気宮儀式帳』(とゆけのみやぎしきちょう)には次のよ
うに書かれています。
〝①天照大神は雄略天皇の御代、伊勢の五十鈴川のほとりに祀られた。
②その時天照大神は、天皇の夢に現れて、「高天原からこの地に鎮座したものの、一柱で並んで
鎮座する神がいない。そのため御饌(食事)を心穏やかにとることができないでいる。だから
丹波国の「比治の真名井」にいる「豊受大神」(「止由気神」)を、私の御饌都(みけつ)の
神として呼んでほしい」と告げた。
③驚いた天皇は、伊勢・渡会の山田原に宮処(みやどころ)を定め、豊受大神を丹波国から勧請
し、御饌殿を造って天照大神の「朝の大御饌・夕の大御饌」を調達することにした。〟
(山本ひろこ著『中世神話』岩波新書より)
しかし、中世の伊勢神道(外宮神道・度会神道)によれば、豊受大神は、「天之御中主神」という
根源神と同神とされ、水神でもあり、月神であるとされています。詳しくは→ウィキペディア 伊勢神道
籠(この)神社奥宮 真名井神社 京都府宮津市中野
豊受大神が主祭神。古称「匏宮」(よさのみや)「吉佐宮」(よさのみや)と呼ばれていた。