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天照らす 高照姫命 (5) 月読命

■ 竹取物語


月読命や豊受大神は、記紀において、ほとんど事績が述べられていません。それはおそらく、

記紀が編纂された時代には、大和中央に「月読命」や「豊受大神」を祀る豪族が、力もってい

なかったのではないかと思います。しかし、月読命」は、イザナギの生んだ三神のつでもあ

り、「豊受大神」は籠神社の奥の宮(元宮)であったことを考えると出雲族と同様に最も古い一

族であったと類推できます。

 

さて、月を考えてみると、かぐや姫の「竹取物語」が浮かんでまいります。

九世紀後半から十世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初の物語の一つであ

と言われています。月から来たかぐや姫に5人の貴公子がでてきますが、天武天皇・持統天皇

仕えた実在の3人が実名で(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)登場し、後の二人、庫持皇子

藤原不比等を、石作皇子は多治比嶋(丹比真人島)をモデルにしたと云われています。

詳しくは  ウィキペディア  竹取物語


記紀編纂時の重臣を揶揄しているので、記紀をねつ造し、月読命の事績をほとんど消してしまっ

た皮肉の書ではないかという話も、一つの説としてあるようです。

石上麻呂は、物部氏の末裔で、右大臣・左大臣を勤めました。


物部系の天皇の事績の周辺には、月読命を奉祭する菟狭(宇佐氏)族であろう名前が、ちらりち

らりと見えるものの、何も語っていません。神代の主軸は、アマテラスとスサノオばかりです。

アマテラスが皇祖神として定着する過程で、月読命の重要度が下がったのかもしれませんが、

申の乱が大きく影響しているのではないかと、んとなくですが、葛城王族であった尾張氏とか

の力が記紀に反映したのではないかと想像します。なんの証拠もないですが…。


■ 豊受大神と月神


竹取物語の月に帰る話ですが、ちょっとだけですが、丹後風土記(残欠の)竹野の郡、奈具社の

祭神 豊宇加能の命(とようかのめみこと)と似ています。豊宇加能の命は、八人の天女の一人

で、子どものいない老夫婦に一度天衣を取られ、人間界に住むことになりますが、酒をつくり、

その土地も豊かになって、老夫婦の生活を豊かにしました。しかし、十余年後、突然天に帰れと

言われ、嘆き悲しみます。天への帰り方もをすでにわからず、結局奈具の村でこころ穏やかにな

暮らすことになります。


豊宇加能の命が、豊受大神と同じかどうかはわかりませんが

丹波と「豊」は深いつながりがあります。通説では、「豊」は単なる美称、「受」は「食物」と

されています。しかし、富家伝承本では、「豊」は「菟狭族」を指すものと書かれていました。


この豊受大神ですが、伊勢神宮外宮にやってきた契機は記紀には書かれていません。

延暦二十三年(804年)撰進の『止由気宮儀式帳』(とゆけのみやぎしきちょう)には次のよ

うに書かれています。


〝①天照大神は雄略天皇の御代、伊勢の五十鈴川のほとりに祀られた。

 ②その時天照大神は、天皇の夢に現れて、「高天原からこの地に鎮座したものの、一柱で並んで

 鎮座する神がいない。そのため御饌(食事)を心穏やかにとることができないでいる。だから

 丹波国の「比治の真名井」にいる「豊受大神」(「止由気神」)を、私の御饌都(みけつ)の

 神として呼んでほしい」と告げた。

 ③驚いた天皇は、伊勢・渡会の山田原に宮処(みやどころ)を定め、豊受大神を丹波国から勧請

 し、御饌殿を造って天照大神の「朝の大御饌・夕の大御饌」を調達することにした。〟

                      (山本ひろこ著『中世神話』岩波新書より)

しかし、中世の伊勢神道(外宮神道・度会神道)によれば、豊受大神は、「天之御中主神」という

根源神と同神とされ、水神でもあり、月神であるとされています。詳しくは→ウィキペディア 伊勢神道

               

籠(この)神社奥宮 真名井神社 京都府宮津市中野 

豊受大神が主祭神。古称「匏宮」(よさのみや)「吉佐宮」(よさのみや)と呼ばれていた。


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この明治初期まで外宮の神主家であった度会(わたらい)氏ですが、始祖天牟羅雲命とも、天日別
命とも云われています。天日別命は、伊勢風土記伊勢の先住民族 出雲族の「伊勢都彦」を討伐平
定した人物です。(伊勢の名前は、出雲族の神の名前です。)

伊勢国風土記逸文によれば、天日別命(あめのひわけのみこと)は、天御中主尊の十二世の子孫と
あります。そして、伊勢都彦に国譲りを迫るのでした。記紀の国譲り神話のような話が、書かれて
います。

伊勢神宮にあまり関係が無いような出雲族ですが、延暦23年(804年)の『皇大神宮儀式帳』に
このように書かれています。
“度会の家田の田上の宮に着いた倭姫命を、宇治土公(うじつちぎみ)の遠祖・大田命が出迎えた。
 倭姫命が「そなたの国の名はなにか」と問うと、大田命は「度会国で、この川の名は、さこくし
 ろ五十鈴川と申します。この川上によい大宮処(おおみやどころ)があります」と答えた。さっ
 そくご覧になった倭姫命は、そこを大宮処と定めた。
                       (山本ひろこ著『中世神話』岩波新書より)

猿田彦命の子孫である大田命が、伊勢神宮の場所を導き、五十鈴川の川上一帯を献上したとされて
います。日本書紀一書(第一)では、二二ギノミコトを日向の高千穂に導いた後、伊勢の狭長田の
五十鈴に帰ることになっています。アメノウズメノミコトが、猿田彦命を送っていくことになりま
すが、古事記では、阿邪訶(あざか)で、ヒラブ貝に手を挟まれて溺れてしまったことや、アメノ
ウズメがナマコの口を小刀で切ったりと、なにやら意味深で、忍者の女人の術のような話が書いて
あります。

富家伝承本には、天孫降臨神話の段に出てくる猿田彦命は伊勢津彦であり、アメノウズメは菟狭族
で、豊鋤入姫命がモデルといような話が書いてありました。

■ 菟狭族と出雲族

伊勢神宮の一番最初の元宮である奈良の檜原神社には、豊鍬入姫宮があります。第11代垂仁天皇
になって、天照大神を豊鍬入姫命から離して…とあるので、もともと陰陽の対立の構図であったの
かもしれません。

この豊鋤入姫命の出自ですが、
第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(と
おつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女です。

紀氏といえば、葛城の王族として古い氏族ですが、高群逸枝『母系制の研究』(講談社文庫)によ
れば、
〝紀伊は古名を木、等という。元来出雲神族の開拓経営せる国土であるが、それは後にいう。

で、五十猛命を祖とする系統と、天道根命を祖とする系統の少なくとも2系は存在する氏族ですが、

〝記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖道彦」とあるが、二文、何れも国造
 祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。”と書かれています。

おそらく、崇神天皇の頃(それよりも前かもしれない)、紀氏と菟狭族との間に婚姻関係が発生し
たのだろうと思います。

豊鍬入姫宮 

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富家伝承によれば、垂仁天皇の命による野見宿禰を頭領とする出雲軍による第一次派兵で天ヒボコ
族の討伐をし、第二次派兵で豊国出身者の軍(菟狭族)を東国の上野国と下野国に追い払い、
出雲族は関東南部に落ち着き住みついて、関東の国造になったとあります。

なぜ出雲族と菟狭族がそういう敵対関係になったのか。西の出雲王朝が物部・豊国連合軍に滅ぼ
れ、菟狭族に葛城の出雲族(賀茂氏)がヤマトから京都まで追い出されたのだそうです。

下鴨神社(賀茂御祖神社)   京都府京都市左京区下鴨泉川町59 
神武天皇を導いたという八咫烏だという賀茂建角身命と娘の玉依姫命を祀っています。



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別サイトで 高照姫命のまとめ記事作りました! → 高照姫命と出雲族





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by yuugurekaka | 2016-12-31 18:27 | 天照らす高照姫 (天道日女命) | Trackback | Comments(0)