野見宿禰の墓(4) 系譜の謎  出雲国飯石郡来嶋郷野見

■出雲国飯石郡の野見宿禰


出雲国から召し出された野見宿禰ですが、どうも比定地として分が悪いようです。

いろいろな本を見ますと、野見宿禰は元々出雲国の人ではない、三輪山の麓の大和の人間だった

とか書かれている本をよく見ます。


でも、これは野見宿禰にだけに言われることではなく、事代主命にも言えることです。

三輪山の近くで、日本書紀に何度か登場する事代主命や野見宿禰が、地元の「出雲風土記」(733

年)には1回も登場しないからです。


このことが、事代主命や野見宿禰は出雲の神ではないという一つの根拠になっていると思われま

す。しかし、出雲風土記は、第27世国造出雲臣広島が編纂したものであって、国司が監修したも

のではありませんから、出雲氏の様々な系統の力が何らかの作用をしたのではないか?(つまり

は事代命の系統が消されたということ)単なる憶測でしかないのですが…。


野見宿禰がさっぱり出てこない出雲風土記ですが、「野見」の地名は、飯石郡に出てまいります。


「野見 木見 石次の 三野 並びに、郡家の南西四十里なり。紫草あり。」

国道54号線上にある道の駅「赤来高原」で、野見宿禰伝承地の場所を聞いてから行きました。


野見野の看板    島根県飯南町上赤名呑谷 ここの山とそれに続く周辺の平野を野見野と言ったようです。





「出雲風土記」(733年) 野見野の比定地を示した説明板


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遠くに見える山々の風景が野見野の東方面



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そして、野見宿禰の墓があると聞きましたので行ってみました。国道54号線をはさんで野見野の

看板と反対側の南方面(広島方面)にその墓はありました。

野見宿禰伝承地には、必ずと言っていいほど、野見宿禰の墓がありますね。



糘塚古墳(すくもづかこふん)  飯石郡 飯南町 上赤名 中区上

元は直径20mの円墳で、7世紀ごろの村落首長墓だったと云われている。

地元ではこの古墳を「スクネ塚」と呼び、野見宿禰の墓とする伝承が残っている。




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■野見宿禰系譜の謎


本屋さんに鳥越健三郎著『出雲神話の誕生』(講談社学術文庫)が、高く積み上げられていました。

昭和41年3月発行の古い本ですが、今までも愛読されてきたのでしょう。 


しかし、この本は、ヤマト王権よりも前に先住民族の出雲大国家があったことを信じる者にとって

はありがたくない本です。出雲大国家など元々無く、時の政府に神話として、創作されたにすぎな

いということを、これでもかこれでもかと証拠を突き付けている本です。


しかし、鳥越健三郎氏の主張はともかく、その突き付けられている証拠の一つ一つそのものは、

私はなるほどと思うのです。



鳥越氏は、野見宿禰は、出雲国造家の系譜ではないのではないかと書いております。

国造家十一世から十四世までが特異な構成は、いわゆる『日本書紀』の出雲神宝問題や野見宿禰

の記述を反映させようと、後世、改作したものであると断定し、亦の名が記述されている国造は

系譜から除去すべきだとしています。


“A 出雲宿禰  天穂日命の子、天夷鳥命の後なり(左京神別)

   出 雲 臣  天穂日命の子、天日名鳥命の後なり(山城国神別)

 B 出 雲 臣  天穂日命の五世の孫、久志和都命の後なり(左京神別)

 C 出 雲 臣  天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)

   出 雲 臣  天穂日命の十二世の孫、宇賀都久野命の後なり(河内国神別)

   神 門 臣  天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)     

 D 土師連   天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別)

   土師宿禰  天穂日命の十二世の孫、可美飯入根命の後なり(右京神別)

   土師宿禰  秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十二世の孫、

          可美乾飯入根命の後なり(大和国神別)

   菅原朝臣  土師朝臣と同じき祖、乾飯入根命の七世の孫、大保度連の後なり(右京神別)

   秋篠朝臣  上に同じ。

   大枝朝臣  上に同じ。

   凡河内忌寸 天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別) 

 E 土師宿禰  天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(山城国神別)

   土師宿禰  秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)。

   土師連   上に同じ。

   石津連   天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)

『姓氏録』では以上の五つに分類できる。この中で野見宿禰の子孫であるD・Eが、祖先を野見

宿禰と記すか、あるいは飯入根としていることは注意すべきである。国造家の出雲臣・出雲宿禰、

また直接分かれた神門臣が、天夷鳥命か鵜濡渟の後を祖先とするに対し、その系統を異にしてい

ることがわかる。この野見宿禰のことは垂仁紀七年にみえているが、国造家との関係については

触れていない。”

               (鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』講談社学術文庫88頁~90頁)

※ 下線および赤字は、私。


なるほど、土師一族は、飯入根命を祖としています。この飯入根命は、向家(富家)伝承では、

向家(東出雲王家)の人物です。過去の記事では、奈良時代よりも前の歴代出雲国造系譜は、

少なくとも、大国主命の系の神門臣家、事代主命の系の向家、天穂日命の系の千家・北島家の

3つの系統があるのではないか(それはたぶん、但馬国造家のように、婚姻を通じ、「氏祖変

更」があったのではないか?)と書きました。(→『北島国造家文書』と向家伝承 

この『姓氏録』は、そういう矛盾を反映させているのではないだろうか。


補足ですが、ここの飯石郡には須佐神社の須佐郷があります。

高群逸枝『母系制の研究』の出雲国造の項を読んでいましたら、須佐神社の神主家の系統のこ

とが書かれていました。


“然るに、同国須佐郷にあって、式内須佐神社を斎く神主家も、家譜に依れば、成務朝より

造を奉じ、出雲氏を称しており、土俗も亦これを国造家と呼んで、大社の国造家に比している

という。(『姓氏家系大辞典』三〇五七頁)その家譜に「稲田首領須佐国造系譜与、脚摩乳命

(此の神、稲田宮主簀狭之八箇耳を云ふ。)、手摩乳命、両名の子稲田姫、素戔嗚命に御合ひ

まして、その御子清湯山主三名狭漏彦八島篠命ー大国主命ー国忍富命ー雲山命ー湯地主命ー彦

坂日子命ー大須我命ー国仁命(神武天皇二十年庚辰補、在職百八年)ー国里之命(安寧天皇十

五年丁卯補、在職百十九年)云々、国造出雲太郎益成(成務天皇二十八年戊戌補、同三十年癸

卯年、国造の号を賜ふ。依て始めて出雲太郎と号す。在職五十二年)云々」以下歴代国造を継

受し、連綿今日に至るという。”

             (高群逸枝『母系制の研究(上)』講談社学術文庫 200頁)

稲田姫の母族の末裔の系統のように書いてあります。

出雲氏には、まだ他にも系統があったのでしょう。2千年も経っているのでいろいろな系譜があっ

たとしても何の不思議もないことです。

           

国土地理院地図に見える集落の地名  

    現在の集落名「呑谷(のんだに)」は、“元は「ノミ谷」で音便によって変化したものである。”(赤名町誌)
    赤穴八幡宮の前に「向谷」の集落名が見える。
    島根県の地名で、時折見られるが、単に「向こう側」を示しているのか、向家と関係があるのか、ないのか
    わかりません



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赤穴八幡宮 飯石郡飯南町上赤名1652番地 

   元々は、770年の創建の松尾神社だったという。丹塗りの矢に姿を変えた大山咋(おおやまくい)の神に触れた

   玉依姫という女神が別雷神という子神を生んで、「松尾の森に宮処定めん」と鎮まったという神話がある。



          
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■オオナムチ末裔の野見宿禰



しかるに、赤来町誌(昭和47年11月3日)を読んでいると、ぎょっとする箇所を発見しました。

柳田国男氏の弟である松岡静雄氏ウィキペディア 松岡静雄の『記紀論究』の引用が載ってい

したが、天穂日命を祖としない野見の系統があるようです。



「野実連 大穴牟遅命之後也 (左京区)」


“野見宿禰は後出土師宿禰道長の上表並に新撰姓氏録によれば土師連(宿禰の祖)で、天穂日

命十四世の孫とあり、飯石郡野見(出雲風土記による)という地に居住した出雲臣の一族なる

ことは明らかで、その嫡流たるの故をもってスクネ(直系)と号したのであろう。この人は上

文のごとく朝廷に召し出されて、京師に転換したのであるが、その氏人は尚郷里に留まり、ヌ

ミをもって氏名としたと見えて、後日左京に来住したものに野実連と称する一門がある(姓

氏録未定雑姓)。

 大穴牟遅之後者と記注せられているのは頗る興味のあることで、師木二朝の御代に出京した

出雲臣等は、振根が朝命を抗拒したことを憚って、遠祖を天穂日命に託したが、本国に於ては

依然として大己貴の後裔と称していたことが立鐙せられるのである。

※ 下線および太字・赤字は、私。


天穂日命を祖とせず、オオナムチを祖とする野見の一族がいたのです。

ここではオオナムチと書いてあります。(向家伝承では、これは役職名で主王だったという)

今では、オオナムチは大国主命と同神とされてしまっています。

奈良の三輪山の大神が、当初は、スクナ彦、事代主命とされていたものが、大物主は大国主命

の幸魂、奇魂となって、しまいに同神となってしまったわけですが、

野見宿禰の活躍の場所が、主に三輪山の麓がだったことを考えると、

野見宿禰は、事代主命の系統だったのではないかと思われます。


続く





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Commented at 2018-02-26 12:12
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Commented at 2018-02-27 22:37
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by yuugurekaka | 2016-10-29 07:00 | 野見宿禰 | Trackback | Comments(3)