2016年 10月 29日
野見宿禰の墓(4) 系譜の謎 出雲国飯石郡来嶋郷野見
野見野の看板 島根県飯南町上赤名呑谷 ここの山とそれに続く周辺の平野を野見野と言ったようです。

「出雲風土記」(733年) 野見野の比定地を示した説明板

遠くに見える山々の風景が野見野の東方面

糘塚古墳(すくもづかこふん) 飯石郡 飯南町 上赤名 中区上
元は直径20mの円墳で、7世紀ごろの村落首長墓だったと云われている。地元ではこの古墳を「スクネ塚」と呼び、野見宿禰の墓とする伝承が残っている。

“A 出雲宿禰。 天穂日命の子、天夷鳥命の後なり(左京神別)。
出 雲 臣。 天穂日命の子、天日名鳥命の後なり(山城国神別)。
B 出 雲 臣。 天穂日命の五世の孫、久志和都命の後なり(左京神別)。
C 出 雲 臣。 天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)。
出 雲 臣。 天穂日命の十二世の孫、宇賀都久野命の後なり(河内国神別)。
神 門 臣。 天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)。
D 土師連。 天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別)。
土師宿禰。 天穂日命の十二世の孫、可美飯入根命の後なり(右京神別)。
土師宿禰。 秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十二世の孫、
可美乾飯入根命の後なり(大和国神別)。
菅原朝臣。 土師朝臣と同じき祖、乾飯入根命の七世の孫、大保度連の後なり(右京神別)。
秋篠朝臣。 上に同じ。
大枝朝臣。 上に同じ。
凡河内忌寸。 天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別)。
E 土師宿禰。 天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(山城国神別)。
土師宿禰。 秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)。
土師連。 上に同じ。
石津連。 天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)。
『姓氏録』では以上の五つに分類できる。この中で野見宿禰の子孫であるD・Eが、祖先を野見
宿禰と記すか、あるいは飯入根としていることは注意すべきである。国造家の出雲臣・出雲宿禰、
また直接分かれた神門臣が、天夷鳥命か鵜濡渟の後を祖先とするに対し、その系統を異にしてい
ることがわかる。この野見宿禰のことは垂仁紀七年にみえているが、国造家との関係については
触れていない。”
“然るに、同国須佐郷にあって、式内須佐神社を斎く神主家も、家譜に依れば、成務朝より国造を奉じ、出雲氏を称しており、土俗も亦これを国造家と呼んで、大社の国造家に比しているという。(『姓氏家系大辞典』三〇五七頁)その家譜に「稲田首領須佐国造系譜与、脚摩乳命(此の神、稲田宮主簀狭之八箇耳を云ふ。)、手摩乳命、両名の子稲田姫、素戔嗚命に御合ひ
まして、その御子清湯山主三名狭漏彦八島篠命ー大国主命ー国忍富命ー雲山命ー湯地主命ー彦坂日子命ー大須我命ー国仁命(神武天皇二十年庚辰補、在職百八年)ー国里之命(安寧天皇十五年丁卯補、在職百十九年)云々、国造出雲太郎益成(成務天皇二十八年戊戌補、同三十年癸卯年、国造の号を賜ふ。依て始めて出雲太郎と号す。在職五十二年)云々」以下歴代国造を継受し、連綿今日に至るという。”
国土地理院地図に見える集落の地名
現在の集落名「呑谷(のんだに)」は、“元は「ノミ谷」で音便によって変化したものである。”(赤名町誌)
赤穴八幡宮の前に「向谷」の集落名が見える。
島根県の地名で、時折見られるが、単に「向こう側」を示しているのか、向家と関係があるのか、ないのか
わかりません。

赤穴八幡宮 飯石郡飯南町上赤名1652番地
玉依姫という女神が別雷神という子神を生んで、「松尾の森に宮処定めん」と鎮まったという神話がある。

“野見宿禰は後出土師宿禰道長の上表並に新撰姓氏録によれば土師連(宿禰の祖)で、天穂日命十四世の孫とあり、飯石郡野見(出雲風土記による)という地に居住した出雲臣の一族なることは明らかで、その嫡流たるの故をもってスクネ(直系)と号したのであろう。この人は上文のごとく朝廷に召し出されて、京師に転換したのであるが、その氏人は尚郷里に留まり、ヌミをもって氏名としたと見えて、後日左京に来住したものに野実連と称する一門がある(姓氏録未定雑姓)。
大穴牟遅之後者と記注せられているのは頗る興味のあることで、師木二朝の御代に出京した出雲臣等は、振根が朝命を抗拒したことを憚って、遠祖を天穂日命に託したが、本国に於ては依然として大己貴の後裔と称していたことが立鐙せられるのである。”



