出雲臣の謎 斐川平野 (5) 消される出雲王家 富家

出雲郡出雲郷の朝妻の里の出雲積は、どの系譜の出雲姓なのでしょうか?

お隣に神門臣の分れた(神門臣古彌(かんどのおみこみ)を健部とお定めになった。)健部郷があ

り、出雲積とは、神門臣のもともとの姓氏なのかしら…とも思いが浮かびます。


「新撰姓氏録」(815年)では、

神門臣は、右京・天孫で、 「天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也」となっておりまして、「天穂日

命」が祖とは全く思われませんが、もともとは出雲姓を名乗っていたんでしょうか?


出雲郷の朝妻の里の神社の祭神を探っていきますと

朝妻の里には、稲田姫を祀った祠の存在する稲城の森があります。

朝妻の里 稲城の森の祠

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また、出西の八幡宮と同じ境内の「久武神社」があります。

「久武神社」(江戸時代は久茂大明神)は、ここが4度目の遷座地らしいですが、出雲風土記(7

33年)には、「久牟社」と記載されており、素戔嗚尊が稲田姫を稲城の森にかくまって妻問いし

た時に、雲が立ち上り、「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに」と謳われたというのがご由緒のよう

です。


久武神社・出西八幡宮

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稲田姫と素戔嗚尊の須賀の宮は、雲南市大東町の須賀神社が有名ですが、その同じ伝承をもつのな

ら、東出雲の出雲氏が 持ち込んだのではないかと私には思えます。

ちなみに富家伝承では、元々は初代オオナムチの菅之八耳と后・稲田姫の話で、菅之八耳が素戔嗚

尊に変えられてしまっということですし、富(とび)神社の祭神は、現在は祭神が違うけれど、

最初は、菅之八耳と后・稲田姫だったようです。


さて、この富神社ですが、斎木雲州氏以外で富家との関係を書いたものがないか図書館で調べまし

たが、斐川町発行の書物では発見することはありませんでした。富神社の由緒を見ても、富家のこ

とは一言も書いてないし、郷土史家の書かれた本でも、富神社は、飛び地から富(とび)というな

どと書かれており、キツネにつままれたような気持になりました。


富神社 

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出雲大社の上官(じょうがんと読むらしい)家であり、中世に富郷(斐川町富村)、阿吾郷(斐川

町阿宮)、林木荘(東 林木町、西林木町)が知行地だった富家の存在すら書かれていないとは、い

ったい全体どういうことなのでしょうか。


いろいろ探して一冊ありました。島根県古代文化センター発行の「富家文書」(1997年3月3

1日発行)です。

あって ほっとしましたが、出雲国造家(北島家)の分家だと書かれていて、(出雲国造家から婿

を入れたりはしていますが)またもや がっくりきました。


いまだ出雲王朝説も古代史の中では少数派でしかないし、出雲王家の末裔の豪族が実在していると

いうのは異説でしかないのです。



曽枳能夜神社の前のお地蔵さん

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この富家が中世に関係があったであろう地域の鼻高山の麓や仏経山の麓の道をあるいてびっくりし

たのは、路傍のお地蔵さんの 多さです。峠や道の分岐点というレベルではなく半端なく多いのです。

地蔵菩薩はいろいろな説がありますが、豊作や治山、治水などの役割を持ち、サイノカミと習合し

たとも言われていますが、さてどうなのでしょう。


来阪神社参道のお地蔵さん


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Commented by Junichi Tai at 2018-11-16 19:42 x
以前、京都の久家に“富家”(フケと呼ぶ}がありました。下毛野君を祖とする家系です。富家最後の家主は高野山の名家の養子となりましたが、戦後まもなく宮崎で亡くなりました。末裔の方は今だおられると思います。何らかの関連でも?
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by yuugurekaka | 2016-05-21 02:06 | 出雲臣の西進 | Trackback | Comments(1)