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出雲臣の謎 斐川平野 (3) ホムチワケ伝承と斐川 求院

過去に出雲市の神戸川の中流にある富能加神社で、ホムツワケ伝承のことを記事にしましたが、

→ 富能加神社 ~ ホムチワケノミコト 出雲大神の祟り ~

神門川の出雲市所原町の富能加神社は、ホムチワケとヒナガヒメが一夜を共にした場所との伝

承ですが、話の舞台はそこではなく、『古事記』では、斐川平野で話が展開しています。


しかし、このホムチワケ伝承は、どのような氏族たちに支えられて記紀に載るまでの話になっ
ていったのでしょうか?

鵠神社(くぐいじんじゃ) 出雲市斐川町求院 八幡宮境内社

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旧千家村の南方に、求院(ぐい)というところがあります。

昔は、求院村があり、明治22年(1889年)に出西村に含まれるようになりました。

この地名の求院(ぐい)ですが、白鳥を示す古名の「白鵠(くぐい)」からきているそうです。

日本書紀の記載では、垂仁天皇の御子ホムツワケは、30歳になって髭が長く伸びているのに

言葉がでませんでした。天皇の御前で、空を鳴きながら飛んでいく白鳥を観たホムツワケ皇子

が、「是何物ぞ」と言ったので、天湯河板挙に命じて後を追わせ、出雲国、あるいは但馬国で
白鳥を捕獲し献上しました。その功績により、湯河板挙は、姓をもらい鳥取造というようにな
りました。鳥取部・鳥養部・誉津部が定められたのもこのときであったといいます。

 大人になっても髭ぼうぼうで言葉がしゃべれないという記述は、『出雲風土記』神門郡高岸郷、 仁

  多郡三澤郷に見えるアジスキタカヒコの説話にかなり似ています。


曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ) 出雲市斐川町神氷823番地
出雲国造の祖と云われる岐比佐都美を祀っています。

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しかるに、『古事記』における垂仁紀のホムチワケの話は、簡単ではありません。

白鳥を捕らえても、御子は結局しゃべることはありませんでした。

垂仁天皇が寝ていると夢にお告げがありました。

「わが宮を、天皇の大殿と並ぶほどに作り直したならば、御子は必ず言葉をはなすだろう。」

出雲の大神の祟りであるということがわかりました。

記紀の話の上では、国譲りの時、タカムスビや天照大神との約束の出雲大社は結局建てられて

いなかった、あるいは修造されなかった…だから、祟ったという展開です。


 似たような話が、『尾張風土記』吾縵(あづら)の郷にあります。祟るのは、出雲大神ではなく、阿麻乃
 弥加都比女 (天甕津日女命)です。垂仁天皇の御子ホムチワケが、7歳になっても話さない…とあり
 ます。 そして、垂仁天皇は、日置部らの祖建岡君に、その神が誰で、どこにいるかを占わせます。

それでホムチワケを出雲に行かせ、出雲の大神(ここでは葦原色許男大国主命)のお宮に拝み

にいくことにしました。

お伴には、曙立王(あけたつのおう)~開化天皇の皇子である彦坐王の孫~と、弟の菟上王に

しました。

出雲の大神を拝み終えたホムチワケを肥の川(斐伊川)の中州ににわか作りの宮をつくり籠ら

します。出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が、川下に青々とした木々を山の

ように飾り、お食事を献上しようとした時に、御子は

「青葉の山に見えるのは山に見えるけれども山ではない。もしや、出雲のいわくまの曾の宮に

います葦原色許男の大神 の祭場ではなかろうか。」と言葉を発しお尋ねになったのでした。

この垂仁天皇の御子に応対した岐比佐都美とは、どのような氏族なのでしょう。

出雲国造は、大庭の地から西出雲に移動してくるのが716年ということなので、東出雲の出

雲国造家の系譜にはどうしても思われません


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by yuugurekaka | 2016-05-13 15:52 | 出雲臣の西進 | Trackback | Comments(0)