2016年 05月 13日
出雲臣の謎 斐川平野 (3) ホムチワケ伝承と斐川 求院
過去に出雲市の神戸川の中流にある富能加神社で、ホムツワケ伝承のことを記事にしましたが、
神門川の出雲市所原町の富能加神社は、ホムチワケとヒナガヒメが一夜を共にした場所との伝
承ですが、話の舞台はそこではなく、『古事記』では、斐川平野で話が展開しています。

旧千家村の南方に、求院(ぐい)というところがあります。
昔は、求院村があり、明治22年(1889年)に出西村に含まれるようになりました。
この地名の求院(ぐい)ですが、白鳥を示す古名の「白鵠(くぐい)」からきているそうです。
日本書紀の記載では、垂仁天皇の御子ホムツワケは、30歳になって髭が長く伸びているのに
言葉がでませんでした。天皇の御前で、空を鳴きながら飛んでいく白鳥を観たホムツワケ皇子
が、「是何物ぞ」と言ったので、天湯河板挙に命じて後を追わせ、出雲国、あるいは但馬国で大人になっても髭ぼうぼうで言葉がしゃべれないという記述は、『出雲風土記』神門郡高岸郷、 仁
多郡三澤郷に見えるアジスキタカヒコの説話にかなり似ています。

しかるに、『古事記』における垂仁紀のホムチワケの話は、簡単ではありません。
白鳥を捕らえても、御子は結局しゃべることはありませんでした。
垂仁天皇が寝ていると夢にお告げがありました。
「わが宮を、天皇の大殿と並ぶほどに作り直したならば、御子は必ず言葉をはなすだろう。」
出雲の大神の祟りであるということがわかりました。
記紀の話の上では、国譲りの時、タカムスビや天照大神との約束の出雲大社は結局建てられて
いなかった、あるいは修造されなかった…だから、祟ったという展開です。
それでホムチワケを出雲に行かせ、出雲の大神(ここでは葦原色許男=大国主命)のお宮に拝み
にいくことにしました。
お伴には、曙立王(あけたつのおう)~開化天皇の皇子である彦坐王の孫~と、弟の菟上王に
しました。
出雲の大神を拝み終えたホムチワケを肥の川(斐伊川)の中州ににわか作りの宮をつくり籠ら
します。出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が、川下に青々とした木々を山の
ように飾り、お食事を献上しようとした時に、御子は
「青葉の山に見えるのは山に見えるけれども山ではない。もしや、出雲のいわくまの曾の宮に
います葦原色許男の大神 の祭場ではなかろうか。」と言葉を発しお尋ねになったのでした。
この垂仁天皇の御子に応対した岐比佐都美とは、どのような氏族なのでしょう。
出雲国造は、大庭の地から西出雲に移動してくるのが716年ということなので、東出雲の出
雲国造家の系譜にはどうしても思われません。

