2016年 04月 30日
神門臣の拠点はどこだったか? (5) 朝山六神山
1)神門寺廃寺跡
神門郡朝山郷が、神門臣のそもそもの拠点だったとよく言われます。それは、神門臣たちが建
てた寺とされる「新造院」が、朝山郷にあるのが一つの理由のようです。飛鳥時代~奈良時代
はそうだったのかもしれませんが、それ以前は、あちこちに拠点があったのではないのだろう
か、たとえば石見の仁摩町にもあったのだろうか、いやいや、そもそも島根県内だけの話で想
像するのが間違いで、日本の国譲りの話が、出雲国の国譲りに間違って理解される原因になる
のかもしれません。
神門寺 島根県出雲市塩冶町821番地
現在では、朝山郷の新造院として比定されているようです。神門寺境内廃寺は、瓦類から七世紀後半までさかのぼ
ることが出来るようです。
朝山郷となると朝山郷の領域がどこまでだかようわかりません。神門川東岸を細長くびよーんと
したのが朝山郷なのかしら。出雲風土記の記載が間違っているという説もありますが、加藤義成
氏の説ように、元々馬木不動さん付近にあったものが、移転されたというのもあるやもしれませ
ん。それと出雲風土記では、新造院を建てた人物の名前が記載されているのに、なぜだか神門郷
だけは、神門臣たち、刑部臣たちとしか記載されていません。
いろいろとわからないことだらけですが、風土記記載の朝山郷そのものに行ってみます。
2)もしや朝堂院の郷では?
“朝山郷。郡家の東南五里五十六歩の所にある。神魂命の御子、真玉着
玉之邑日女が鎮座していらっしゃった。そのとき、所造天下大神、大穴
持命が娶りなさって、朝毎にお通いになった。だから、朝山という。”
(解説 出雲風土記 島根県古代文化センター編 今井出版)
朝山神社 島根県出雲市朝山町1404 宇比多伎山に鎮座しています。
御祭神は真玉着玉之邑日女命・神魂命・大己貴命。
ここの記載で初めは、いわゆる大国主命の妻問い婚の地名説話に思えました。
しかし、妻問いというものは、暗くなって来て一夜を共にし、朝に他所に帰ることです。
“朝ごとに毎日通う”とは、一体全体どういうことなのか。
朝…うーん。朝で思い浮かぶのは、朝廷…朝堂院…。(朝堂院とは、 → ウィキペディア 朝堂院 )
そうだ、大穴持命の政治や祭祀を行うところが、ここの朝山郷にあったのではないだろうか…そう
いう考えが浮かびました。
なんで、帝は「早朝に政務を行う」のかわかりませんが、孝徳天皇が定めた礼法によれば、冠位を
有する官人は、毎朝午前4時ごろまでに、朝廷南門の外に並び日の出ととも庭に入って天皇に再拝
することになっていたといいます。(→ウィキペディア 朝政 )
3)朝山六神山
この“郡家の東南五里五十六歩”というのが、朝山神社がある宇比多伎山です。この朝山郷には、
宇比多伎山をはじめ朝山の盆地を囲むような「朝山六神山」の記載があります。
“宇比多伎山。郡家の東南五里五十六歩の所にある。
(大神の御屋である。)
稲積山。郡家の東南五里七十六歩の所にある。
(大神の稲積である。)
陰山。郡家の東南五里八十六歩の所にある。
(大神の御蔭である。)
稲山。郡家の正東五里一百一十六歩の所にある。
(東に樹林がある。ほかの三方は磯である。大神の御稲である。)
桙山。郡家の東南五里二百五十六歩の所にある。
(南と西に樹林がある。東と北は磯である。大神の御桙である。)
冠山。郡家の東南五里二百五十六歩の所にある。
(大神の御冠である。)”
(解説 出雲風土記 島根県古代文化センター編 今井出版)
※ 磯は、海岸の磯だけではなく、岩石の露出した岩場らしいです。
大国主命の御屋=王宮、稲を積んだ所、御蔭=髪飾り、稲、鉾、冠というように、大国主命の御
用物(ごようもの)に山々を見立てた山のようです。実際に、行ってみましたが、山々が連なっ
ていてどこがその山なのか、よくわかりませんでした。
そこで山々が、わかりやすく分離した地図がないものか調べたところ、マピオンの地図がありま
した。マピオンの地図に、風土記記載の山を書き入れてみました。
その山は、加藤義成氏の比定地です。
加藤義成説の六神山比定地
宇比多伎山 中央の山。
から山道を登って朝山神社に参拝したことがありますが、かなりの急な道です。
今でこそ、自動車で境内近くまで登れますが、昔の人たちは、かなりの脚力がなければ、参拝すら
できなかったのでしょう。
稲積山 南中学校の方から写しました。前方に見える山ではなくて、前の杉尾神社のある丘です。
うーむこれもわかりにくいです。稲が積んであるようには見えません。
冠山 この冠山が非常にわかりにくいです。どれかなー。中央に見えるは、出雲市立南中学校。
風土記記載では、桙山と距離が同じなので、桙山の東の山も丸くて、冠山でいいような気がする
のですが…。桙山と陰山の間の南側の山も、加藤説とは別の冠山の比定地らしいです。
北側の姉山や立巌トンネルが走っている山が、かなり存在感がありました。これが六神山だと
わかりいいんですが。
姉山 中世に姉山城がありました。