2016年 03月 06日
天なるや 弟棚機の… 下照姫と阿遅須枳高日子
さて、下照姫といえば、記紀に載っている歌が頭に浮かぶであろう。
古事記には1首、日本書紀には、2首載っており、「ひな振り」(田舎風の歌)と云われている。その、記紀ともに載っ
ているこの一首。下照姫の夫アメノワカヒコに親族が、弔問に訪れたアヂシキタカヒコネを親族が、アメノワカヒコと
間違えて、「生き返った」と思われアヂシキタカヒコネが怒り、喪屋を切り伏せ、蹴とばしてしまった。その時、阿遅須
枳高日子の名をアメノワカヒコの親族に明らかにしないといけないと思い歌ったのである。
壹宮(いちみや)神社 鳥取県西伯郡大山町上方1124
主祭神は、アマノオシホミミであるが、下照姫とアメノタカヒコが一緒に暮らした場所との伝承がある。
拝殿が修造中であった。
天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に
穴玉はや み谷 二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ
(あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに
あなだまはや み谷 ふたわたらす あぢしき たかひこねの神ぞ)
この歌の訳は、
“高天の原にいます 若い織姫が 首にかけたる 玉の首飾り
その首飾りの 穴玉よ、輝くごと
深い谷を 二つまたいで輝きわたらせる
アヂシキタカヒコネの神にいますぞ ” 『口語訳 古事記 三浦佑之訳・注釈』(文春文庫)より
1)七夕の織女と下照姫
いわゆる七夕を「たなばた」と呼ぶのは、古来機を織る女性を「棚機女(たなばたつめ)」と呼んだらしい。
(本居宣長『古事記伝』)。
この歌がどのような意味を持つかであるが、それ以上、よくわからない。民族学者折口信夫氏にその解説があった。
折口信夫によれば中国から伝来した七夕の風習と、日本古来の川辺で機を織りながら神を待つ棚機女の話が融合
したようだ。→青空文庫 折口信夫 『たなばたと盆祭りと』
付随して、柳田国男氏の『日本の伝説 機織り御前』→青空文庫 柳田国男 『日本の伝説』では、もともとは、若
い男神に新しい神衣を織ってさしあげる話が、近代になっての伝承として山姥の話に転化していることが興味深い。
また、この中国伝来の七夕説話~織姫星と牽牛星~であるが、中世に到っては、牽牛星を天雅彦、織姫星→長者
の娘という設定に代わる「天雅彦草子」が作られている。→ウィキペディア 天雅彦草子
下照姫命がこういう棚機女の歌をうたうから、機織りの氏族 倭文氏が下照姫を奉祭している理由の一説な
のかもしれない。
阿須伎神社 (出雲大社 境外摂社) 島根県出雲市大社町遙堪1473
2)阿遅須枳高日子と天香香背男
そもそもこの歌は、アメノワカヒコをうたったものではなく、アヂスキタカヒコを歌った歌である。なぜに七夕の星の歌?
と思うが、思いつくのが星神 天香香背男の存在である。またの名を天津甕星(あまつみかぼし)と云う。
天香香背男は、高天原が出雲平定(古事記では『国譲り』)に乗り出す前に、やつけておかないといけない神とされ
ている。“「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香香背男です。どうかまずこの神を除
いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。”(『日本書紀 一書 第二』 宇治谷 孟 現代語訳
講談社文庫より)
外の敵に向き合うために、まず内部の矛盾を解決しないといけないということなんだろう。名の「天香香背男」という
のが、「天背男」に出雲神を表す蛇の古語である「カカ」を挿入していること(通説では星神だから 「かか」は輝くと
いう意味)を考えると、出雲族と婚姻関係を結んで、出雲族とは戦争をしたくない氏族であったのだろう。
天津甕星(あまつみかぼし)と聞いて、また浮かぶのが、阿遅須枳高日子の祖父神 赤衾伊努意保須美彦佐倭気
(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ)の妻神の天甕津日女(あめのみかつひめ)です。「天の…」と、いうからには、
出雲族ではなく高天原の系譜であろう。また、阿遅須枳高日子の妻神は、天御梶日女(あめのみかじひめ)でこれ
また、「天」と「みか」の名前がついている。(名前が似ているから、同じ神かはどうかわからないが、仮に同神であ
ったとしても弥生時代だと対偶婚なので、祖父神と孫神の妻が同じであっても問題はなかろう。)
もしや、天津甕星と天甕津日女命は同族であったのではないだろうか?
この天甕津日女命は、出雲風土記の出雲郡伊農郷や秋鹿郡伊農郷に登場してくる。また、天御梶日女命は、楯
縫郡神名樋山にて「阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多宮の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。」
との記載あり。
伊努神社 島根県出雲市西林木町376
天甕津日女命の夫 赤衾伊努大住比子佐倭氣命 が主祭神で祀られている。
ここの神社は風土記の出雲郡伊努郷にあり、出雲市美野町382番地にある伊努神社は秋鹿郡伊農郷にあり、
島根県松江市鹿島町南講武602 多久神社
天甕津日女命が主祭神である。ここは風土記の
出雲の神門臣家と婚姻関係を結んだ天甕津日女命であるが、なぜだか尾張国逸文の丹羽郡吾縵郷(愛知県一
宮市)にも登場する。
“尾張国 風土記逸文 (『釈日本紀』卷十)
吾縵(あづら)郷
尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品
津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋
ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、
多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者
が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。
天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか
否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行
き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必
ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこ
の地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建ててt神を祀った。(「吾が作
った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世
の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”
多久神社 島根県出雲市多久町274
楯縫郡多宮村にあり天御梶姫命 多伎都彦命 を祀っている。
この多具(たく)国というのが、秋鹿郡、島根郡多久川周辺をさすのか、楯縫郡の多宮の村なのかわからな
いが、ともかく出雲国に登場する神が、ホムツワケ伝承の出雲大神に代わって、祟り神として尾張国にも登
場するのである。尾張の国で祀りなさいということは、もともと、天甕津日女命の氏族は、この尾張が本拠
地だったのかもしれない。
尾張国大国霊神社神職家の系図によると始祖が天背男命で尾張氏の遠祖であるという。また、先代旧事本紀
で饒速日が天下った時に随行した32人衆の中に天背男命(天神立命):山背久我直等祖、天背斗女命(天背男
命):尾張中嶋海部直等祖(どうも書籍によって天背男命の記述が違うらしい。インターネットの記述も混乱が見られ
るようだ。)の名が見られる。
さて、下照姫の歌に戻るが、阿遅須枳高日子は、「み谷 二渡らす」というところだが、折口信夫氏では、「長大な
蛇体」を表すということだが、私が思いついたのが、この二渡らすとは、一つは葛城の鴨氏、もう一つは尾張氏で、
二つの天津神の系譜をもつ氏族と婚姻関係をもって、氏族の隆盛に一役買ったのではないかという考えだ。(尾張
氏の系譜には阿遅須枳高日子は出てこないが…)
出雲族は、結び付くと「悪神」と揶揄されるネガティブな面と、ジョーカーのごとく切り札としても使わ
れる親族でもあったのではないだろうか。