伯耆の名の起こり   波波伎神社    

伯耆国(ほうきのくに)の「伯耆」ですが、箒神(ほうきがみ)から、名前の由来が来て
いるのではないか?ということが、真っ先に浮かびます。
箒とは、掃除に使うそれですが、古事記の天若日子の「もがり」の記述のところで、魂を掃き
集める係「帚持」が、話として出てきます。

“菷は掃除の道具ではあるが、前述のように祭祀等にて用いられてきた神聖な道具でもあり、日
本の庶民の間においても菷神(ははきがみ・ほうきがみ)という神が宿るとされた。
菷神は産神(うぶがみ)のひとつである。掃除の行為である「掃き出す」ということが出産と
結びついたためといわれるが、古名である「ははき」が「母木」に通じるところからともいわ
れる。また箒の形が依代(よりしろ。神道において神事の際に一時的に神が宿るもの。たとえ
ば榊の束)に似ているために信仰対象になったともいわれる。
妊婦の枕もとに立てて安産を祈ったり、産気づいたときに燈明を点けて妊婦に拝ませる、そし
てその箒で妊婦の腹をなでるということも行われた。新品の菷で妊婦の腹をなでることが安産
につながるとも信じられた。
このように、菷は神聖なものであるため、それを跨いだり踏みつけるなどのことを忌み、罰が
あたるなどと考える風習は各地に伝わっている。” ( ウィキペディア 箒 より ) 

箒(ほうき)そのものが、古代において 掃除の道具であったかどうか、わかりません。
本来は、祭祀の道具だったのかもしれません。

さて、「伯耆国風土記」逸文に「伯耆国の由来」が書かれていました。
“或書に引る風土記には、手摩乳(てなづち)、足摩乳(あしなづち)が娘、稻田姫、八頭(やまた)の
蛇(をろち)の呑まむとする故に、山中に遁(に)げ入りき。
時に、母遲く來ければ、姫、「母來ませ、母來ませ」と曰ひき。
故、母來の國と號(なづ)く。後に改めて伯耆の國と為す。云々。”
                              (『諸国名義考』 1809)

ヤマタのオロチ伝説の話から、「ヤマタのオロチが来るから、お母さん来て。ははきませ」とい
うことから名前が付いたということになっています。
出雲風土記の中に「ヤマタのオロチ退治」の話が無くて、伯耆国風土記にあるとは。
ますます、ヤマタのオロチ退治が、日野川流域の孝霊天皇の鬼退治の話をモチーフにしたものか
あるいは、大国主命や事代主命の守り神が退治されるような失礼な話を地元の風土記には書くこと
が困難だったのかわかりませんが、ともかく、「伯耆」とは「ははき」から来ているということは
間違いのないことのようです。

六所神社の荒神さん    松江市大草町496 
出雲国府の跡地に鎮座している神社です。藁でつくった蛇が、口をぱっくり開けています。

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それと私が、「ははき」から思い出すのは、「アラハバキ神」です。→ ウィキペディア アラハバキ
アラハバキ神が何なのかいろいろな説がありますが、吉野裕子「蛇神説」が興味深いです。
吉野裕子さんによれば、“「はは」は「蛇の古語」であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるい
は「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
―中略― 伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、
つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われ
るというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつ
く。ちなみに、
「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」
になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説” 
                             (ウィキペディア アラハバキより)

この荒神さんですが、出雲地方の神社の裏の山でよく見ますが、元々は集落の山などで奉祭されていたと
聞きます。今や荒神さんは、スサノオノミコトだというのが通説になっていますが、元々は塞ノ神と同じ
ような出雲の古代の祖霊信仰だったのではないかと思います。


さて、鳥取県倉吉市に「波波伎(ははき)神社」という古来からある神社があるというので参拝してみました。
参道の雰囲気が、すでに古社という雰囲気でした。


波波伎(ははき)神社 参道  鳥取県倉吉市福庭654

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石段の下の古木
スダジイを中心に巨木がたくさんありました。巨木を見ているだけで、長い歴史の重みを感じさせられる気持になります。


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波波伎神社 拝殿



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写真ではそんな感じはしませんが、かなり大きな拝殿でした。
祭神は、八重事代主神です。
国譲りの際に、「天逆手(あるいは天栄手)」を打って、
青柴垣に籠ったというのが、ここの宮であると云います。
当社の西800mには、祭神の上陸地に「ワタガラヒ」と伝えられる場所があるそうです。
もしかしたら、古代では、海がすぐ近くだったんでしょうか。

波波伎神社 本殿

全国的には一般的な流れ造りの本殿です。出雲地方では、大社造がほとんどなので新鮮です。

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巨大なタブの木のそばにある荒神様・稲荷様
倉吉駅近くの上井神社にも「荒神稲荷様」の境内社がありましたが、ここらの地域では、荒神さんとお稲荷さんを一緒に
祀るようです。
波波伎神社だから、いわゆる藁蛇の荒神さんがあるとばかり思っていたのですが、そうではありませんでした。

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福庭古墳

“古墳時代後期の古墳で、横穴式石室を埋葬施設としている。墳丘は直径35m、高さ4mの円墳。石室は、全長9.5
m、幅2.2m、高さ2.3mの規模。奥壁と側壁に大きな切石を立て、一枚石の天井石を置いている。遺体を安置す
る玄室に入ったところに石を横長に立てているが、これは安置場所を区画する石障と考えられている。石室入口(玄門)
の天井石には、扉を観音開きに開閉する時に都合のよい感じの段がつけられているが、装飾のためと思われる。なお、
奥壁の一部などに赤色顔料が残り、装飾古墳の可能性がある。7世紀前半代の築造と推定され、鳥取県における古墳の
終末段階を代表する古墳である。”(境内 説明版より)


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山陰の神社の杜に古墳がある確率は大変高い気がします。
昔は、古墳のある杜に神社があると漠然と思っていましたが、いわゆる古墳は、古墳時代のものが大部分です。
出雲王朝は、弥生時代に全盛期で、弥生時代にほろんだ王朝なので、むしろ神社の創建の方が、古墳よりも古いのではな
いかなどと思ってしまいます。ここの波波伎神社もいつからあるのか、不詳です。


「波伯国造は、志賀高穴穂(成務天皇)朝御代に牟邪志(武蔵)国造と同祖の兄多毛比命の児の大八木足尼(おおやきの
すくね)を国造に定め賜いき」 (国造本紀より)

伯耆国造(ほうきくにのみやつこ)の祖が、牟邪志(武蔵)国造と同じく、天穂日命なのに、なぜか事代主命を祀ってい
るのかという疑問があります。しかしながら、天穂日命の一族は、そもそも出雲神である「祟り神を遷し却る」役割を担
った一族でもあり、またあるいは、富家伝承によれば、大国主命や事代主命の一族は、出雲王国崩壊後、天穂日命の子孫
として名乗るしか生き延びる手段がなく、景行天皇の関東派兵の際、関東に進出して、関東の国造となったらしいので、
本当は、事代主神が祖先なのかもしれません。
どちらの理由にせよ、天穂日命を祖とする国造が、事代主神を祀っても不思議はないと思います。

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Commented by valmalete2 at 2018-08-25 21:13
お久しぶりです。
鳥取県神社誌に、
「平城天皇大同3年(大同類衆方)に、伯耆神は延喜式伯耆国河村郡波波伎神社当国国造祖神を祭る伯耆薬は伯耆国川村郡波波伎神社に伝ふと。」記載があります。
大同類衆方の編纂者(出雲宿禰廣貞)には、伯耆神=事代主神が伯耆国造祖神であると認識していたみたいですね。

Commented by yuugurekaka at 2018-08-27 20:55
> valmalete2さん
コメントありがとうございます。
日本初の医薬書となる「大同類衆方」に、出雲氏が関与しているということを考えるに、医薬の神様ー少名彦命の子孫として、医学を職務としたのだろうかと思ってしまいました。
安倍真直も「大同類衆方」に関わっていることがなぜに?と思う片方で、事代主命=少名彦命の末裔ということが関係してるんだろうか?などという思いが浮かびました。
伯耆国造というのは、天穂日命というより、事代主命が先祖という認識だったのかもしれませんね。
Commented by valmalete2 at 2018-08-30 21:53
確かに副王、少名比古繋がりですね。

伯耆国造は、武蔵国造、勝部氏祖先の海上五十狭茅の子の世代の人がなっていて、
出雲国大原郡の地名や神社が、伯耆の川村郡・久米郡に転写されていて興味深いです。

武蔵国造が祀った氷川神社は、出雲大原郡のヒイ神社から勧請されたもので、ヒイ神社は大原郡の
郡衙のあった場所の神社です。勝部は大原郡の郡司でした。

ハハキ神社のある福庭から天神川を遡った場所に、ハハキ神社を勧請した可能性がある大原神社、(大原里)があり、天神川を挟んで、久米郡側には、勝部郷があります。
ハハキ神は勝部氏らが祀っていた少名比古=事代主に違いないと思います。
大原郡に、加多神社があり少名比古が祀られています。

久米はもともとは出雲族と熊襲の混血で、神魂の末裔ですが、物部について出雲と敵対した人
々ですから、国譲りの最終的な舞台がこの近辺にあったとしてもおかしくないですね。
Commented by yuugurekaka at 2018-09-02 20:37
> valmalete2さん、コメントありがとうございます。
>伯耆国造は、武蔵国造、勝部氏祖先の海上五十狭茅の子の世代の人がなっていて、
>出雲国大原郡の地名や神社が、伯耆の川村郡・久米郡に転写されていて興味深いです。

そうですか。勝部氏ですか。
勝部氏もいろいろな地域に分布しておられますね、「地名や神社が転写されて」いるとは面白いですね。

>ハハキ神社のある福庭から天神川を遡った場所に、ハハキ神社を勧請した可能性がある大原>神社、(大原里)があり、天神川を挟んで、久米郡側には、勝部郷があります。

地図で確認しました。勝宿禰神社がありますね。
多くの湊神社があって、事代主命が多くの現在の祭神でびっくりしました。
それと、古代地名かどうかはわからないですが、打吹山の北側に向山があります。
興味深い地名が多い地域ですね。
Commented by valmalete2 at 2018-10-10 22:34 x
こんばんは、伯耆の話題ですが、
私が住んでいる関東の武蔵國造の子が伯耆國造になったと言うことになっています。
武蔵国造が最初に開拓したという伝説が残っている、武蔵国横見郡(吉見町)には、
久米田神社(倭文神社(式外社))があります。武蔵と伯耆も同じですね。

入間郡浅羽郷には勝呂神社があり、大彦の子のタケヌナカワワケ命の古墳と言われる
古墳の上に鎮座しています。
勝部は、新撰姓氏録に載っていない氏族で色々面白いです。出雲を解くいいキーになりそう
に思いますが、諏訪神の末裔であるため、一時期出雲を離れていたはずで、
ずっと出雲に居た富家や神門家の研究は難しそうです。
Commented by yuugurekaka at 2018-10-12 15:22
> valmalete2さん
武蔵国造の子がなにゆえ伯耆国造になるという、距離の遠さを埋める理由というものが、不思議ですね。
お武家の時代の朝山氏が勝部臣の末裔で佐陀神社の宮司家だということぐらいしか、知りませんが、着目して、少しずつ勉強していきます。
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by yuugurekaka | 2015-12-31 20:44 | 伯耆 | Trackback | Comments(6)