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金持(かもち)神社の謎

金持(かもち)神社は、パワースポットとして県外からも祈願にたくさんの人が来られるようです。
何がパワースポットかというと、神社名が「金持」(かねもち)だから、例えば宝くじを買って当たるように祈願する人が多いです。
ただでさえ、収入の少ない私です、この物価だけで大きく目減りするので、少しでも収入が増えればとお祈りしました。

金持神社の謎とは名づけましたが、正確に言うと、金持神社が関連する出雲市の長浜(ながはま)神社の古代の素性のことが一番の謎なのです。

金持神社の由来

祭神は 天之常立尊(あめのとこたちのみこと)、八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)、淤美豆奴命(おみずぬのみこと)です。

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“弘仁元年(810年)伊勢の神宮御遷宮に向けて、出雲国薗妙見宮の神官の次男が出発するにあたり、「道中安全の為」と玉石を御守神として袋に入れて旅をしていました。しかし、この金持の地まで来たときに玉石袋が急に重くなり、どうすることもできずその場において伊勢に急いだそうです。時を同じくして、梅林家(現宮司)先代の吉郎左衛門に宮造りをするよう神夢があったことで、この玉石を金持の氏神として崇め奉ったと伝えられています。”(金持神社 公式ホームページより) 黒字強調は私。

「出雲国薗妙見宮」というのが、現在の長浜神社(島根県出雲市西園町上長浜4258)であり、長浜神社は金持神社の主祭神と同じです。金持神社が天之常立尊を祭神にしているのは、昔 金持神社が妙見信仰の宮であった証でもあります。

※ 妙見信仰とは?

 妙見宮は一般的に北極星・北斗七星を神格化した「妙見菩薩(北辰妙見)」を祀りますが、神仏分離以降、天之常立神(あめのとこたちのかみ)や国之常立神(くにのとこたちのかみ)の神々に置き換えられることが多いのです。

長浜神社のホームページを見ると、妙見宮と名乗ったのは、中世以後と書かれており、奈良時代などの古代は、「出雲神社」だったとしています。
だとしたら、810年にはすでに妙見宮と名乗ったのでしょうか?
この出雲神社の比定社は、別所の諏訪神社や出雲平野の富(とび)神社の説がありますが、長浜神社の鎮座地が出雲郡ではなくて、神門郡であったことから否定的な意見を述べる学者も多いです。(しかるに、後の時代に出雲郡から神門郡に移動したと考えれば、そんなに問題ではありません。)

自分の頭の中には、式内社 大穴持神社 というもうひとつの比定社があります。これは、出雲郡の筆頭であり、出雲大社の祭神が素戔嗚命に変わってしまったから、分離したのではないかという説があります。一般的には、これは廃絶したことになっています。

もし、これが遷座して後の長浜神社になったと仮定したら(私の妄想)、ここの金持神社は、勧請したんだから、大穴持神社だったんじゃなかろうか。
ここでは金は、ゴールドではなくて、鉄のことらしいですが、「金持」の「持」は、もしかして「大穴持」から来たんではないかと。

ともあれ、金持神社に参拝しましょう。

金持神社の鳥居

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石段

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金持神社 拝殿 
鳥取県日野郡日野町金持74

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かなりの参拝客がおられました。
境内に人がいなくなるまでかなりの時間待ちました。

金持神社 本殿

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絵馬がびっしりかけられています。
祈願のおかげで宝くじに当たったとか書いてありました。

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# by yuugurekaka | 2026-02-01 21:16 | 神社探訪 | Trackback | Comments(0)

目木川と山

奈良の賀茂族 太多彦命の墓|美作国米来(めき)神社_e0354697_18063710.jpg

私は、兵庫県朝来市の粟鹿(あわが)神社の古文書『粟鹿大明神元記』から、奈良県の賀茂族が西に移動して、原住民の出雲族を平定したと思いました。
その記事はこちらです。⇩


奈良県のつまりヤマト王権の賀茂族の始祖 大田田根子命の息子の一人である太多彦命(たたひこのみこと)は、『粟鹿大明神元記』では、但馬国朝来郡の粟鹿村(現在の兵庫県朝来市)に住み、そのお墓は美作国大庭郡米木原に在ると書かれています。

“美作国大庭郡神直(みわノあたい)、石見国大市郡神直、的大神直、倭三川部、吉備国品治部、葦浦君(あしうらノきみ)等の先祖 大多彦命、磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)御宇初国所知御間城入五十瓊殖(はつくにしらすみまきいりひこにゑ=崇神)天皇の時、国内の従わぬ人を平服させた。

大国主神の術魂荒魂を桙・楯・太刀や鏡に取りつけ西国に派遣きれた。この時、初めて男女に調物(税)が課せられた。(大多彦命は)但馬国朝来郡の粟鹿村に住んだ。大多彦命の墓は、美作国大庭郡米木原に在る。”(『粟鹿大明神元記』より)

なんで、美作国大庭郡米木原なのでしょうか。但馬国朝来郡からかなり西です。
美作国(現在の岡山県の北部)には、現在や過去の地名からでもわかるように、賀茂族が濃厚に分布したことがわかります。

今はどこに太多彦命の墓があるのかわかりませんが、墓があるとされる目木にある米来(めき)神社に参拝しました。

米来(めき)神社鳥居
岡山県真庭市目木589

奈良の賀茂族 太多彦命の墓|美作国米来(めき)神社_e0354697_18075179.jpg

コトバンクによる解説です。

“旧郷社。祭神は大己貴命・仲哀天皇・応神天皇・神功皇后で、相殿に韓神・素戔嗚命などを祀る。また境内社の祖霊(みたま)神社には中世当地方の豪族であった福島・有元・牧・二宗の四家の祖霊を祀っている。美和(みわ)郷の総社とされる。「作陽誌」に惣社と記され、九月一五日の祭には、当地の八幡宮、樫村東谷(かしむらひがしだに)の守宗(もりむね)神社(現守吉神社)二座、余野下(よのしも)村の大津(おおつ)神社、当社の神輿が小童谷(ひじや)に参集、のち当社で合同祭礼が行われた。”(コトバンク) 

米来神社 拝殿

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米来神社 釣殿(つりどの)と本殿

奈良の賀茂族 太多彦命の墓|美作国米来(めき)神社_e0354697_18070760.jpg

境内社 祖霊(みたま)神社 中世の豪族である福島・有元・牧・二宗の四家の祖霊を祀っているそうです。

奈良の賀茂族 太多彦命の墓|美作国米来(めき)神社_e0354697_18083989.jpg

祖霊(みたま)神社の本殿かな?

奈良の賀茂族 太多彦命の墓|美作国米来(めき)神社_e0354697_18081930.jpg

境内社 石灯籠には、天満宮と彫ってありましたが、少彦名神社と思われます。

奈良の賀茂族 太多彦命の墓|美作国米来(めき)神社_e0354697_18072501.jpg

少彦名(スクナヒコナ)命は、出雲や伯耆では、「手間天神」とも言われます。手間=天満なのかもしれません。
三輪山の神は、大物主命で、大国主命の和魂(にぎたま)だとかいろいろ言われていますが、『古事記』だけから読むと、元々は少彦名(スクナヒコナ)命だったと思います。

ちなみに一般的には天満宮は、菅原道真を祀ります。
菅原道真の祖先は天穂日命ということになっていますが、富家伝承では、本当は少名彦命=事代主命が祖先だそうな。(少彦名ではなく少名彦だそうです。)

米来神社の由緒や境内社については、 岡山県神社庁 米来神社 を参考にしました。


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# by yuugurekaka | 2026-01-22 19:20 | 賀茂族 | Trackback | Comments(3)

美作国(現在の岡山県の北部)一宮である中山神社です。

中山神社(岡山県津山市一宮695)の狛犬_e0354697_16303071.jpg

社伝(『中山神社縁由』)によると、祭神は、

主祭神
鏡作神(かがみつくりのかみ)
相殿神
天糠戸神(あめのぬかどのかみ)
石凝姥神(いしこりどめのかみ) 

であり、慶雲4年(707年)に、伽多野部長者乙丸(肩野物部乙丸とも)が祀っていた大己貴命の宮所を中山神に譲ったことで中山神社が成立したそうな。

ということは、元々は出雲族が分布していたと思われますが、後の時代に、祭神が変えられたということなのでしょう。



もともとの宮所に祀られていたとされる神社

国司社(くにししゃ) 祭神:大国主神。


中山神社(岡山県津山市一宮695)の狛犬_e0354697_16295024.jpg

ちっちゃくて隅っこにあります。総神殿ぐらい大きくても良いと思うけどなあ。

総神殿(惣神殿) 祭神:山上山下120社。

中山神社(岡山県津山市一宮695)の狛犬_e0354697_16271248.jpg

美作の国中12郡の大小神社の神を祀るようです。
神社の統合の結果のような神社だと思われます。寛保2年(1742年)の造営だそうです。

中山神社の拝殿と本殿

中山神社(岡山県津山市一宮695)の狛犬_e0354697_16265081.jpg

大へん立派な本殿です。本殿は、1559年に尼子晴久が再建したもので、入母屋造妻入の他地方には例を見ない「中山造」と呼ばれる構造だそうです。

本殿の後ろの左側に、猿神社の参道がありました。その表示があるならば、参拝せざるをえません。


中山神社(岡山県津山市一宮695)の狛犬_e0354697_16263319.jpg

『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、当社の祭神は猿神であると書かれているが、その神社はここに由来するのだといいます。

さてここの神社の狛犬(こまいぬ)は、寄進年は江戸時代の明和元年(1768)だそうですが、極めて古い(中世の)タイプです。
古いタイプは阿(あ)の唐獅子と吽(うん)の角の生えた狛犬のコンビです。

現在の狛犬と呼ばれているのは、江戸時代に中国から入ってきた怖い獅子のコンビが主流です。


阿の唐獅子

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顔がいわゆる現代の狛犬(唐獅子です)ではなく、コミカルな顔をしています。
別に猿ではなくて、中世の時代の唐獅子は、こんな顔です。

吽の狛犬

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この狛犬には、ちゃんと一本の角が生えています。
比較ですが、松江市の八重垣神社の随身門の中にある室町時代の狛犬も、角があり、コミカルな顔立ちをしています。顔自体は、獅子も狛犬も同じみたいです。

室町時代の八重垣神社の木彫りの狛犬

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出雲地方に多い「構え獅子」のタイプの狛犬(実際は唐獅子)もありました。

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# by yuugurekaka | 2026-01-14 17:20 | 神社探訪 | Trackback | Comments(0)

古墳時代前期つまり古墳出現期時代の御墓です。

一般的には前方後円墳体制と言って、一番大きなものは前方後円墳、二番目が前方後方墳、三番目が円墳、四番目が方墳というランクがあり、大きさもそのような秩序があると言われています。
だから、ほとんどの地域で、前方後円墳がでかい。なのに、ここ美作(みまさか)国(現在の美作市、真庭市、津山市周辺)に限っては、前方後方墳の方がでかい、特異な地域なのです。

その大きな前方後方墳を見に行きました。

植月寺

植月寺山古墳 岡山県勝田郡勝央町植月東_e0354697_17451836.jpg

このお寺の背後に古墳があります。

お寺の受付に貼ってあった説明図

植月寺山古墳 岡山県勝田郡勝央町植月東_e0354697_17460051.jpg

お寺で拝んでから、お坊さんに、前方後方墳を見に行くことをお知らせしました。

説明図の通り、前方後方墳に向かいます。

植月寺山古墳 上の方が後方部です。

植月寺山古墳 岡山県勝田郡勝央町植月東_e0354697_17501431.jpg

でかいです。墳長91m。後方部の高さ9m。


古墳の説明板

植月寺山古墳 岡山県勝田郡勝央町植月東_e0354697_17522860.jpg

なんで美作国では、前方後方墳の方がでかいのでしょう。
自分の仮説です。地祇(国津神)の賀茂族のお墓でないでしょうか。

前回の兵庫県朝来市の粟鹿(あわが)神社の伝承では、奈良県の大田田根子の末裔(賀茂族)が西に征圧に向かったことが書かれていました。
美作国には、賀茂(鴨)神社の系統も多いのです。
それで、賀茂族の首長墓ではないか?と思ったのです。

天神地祇の分類が、ある説では、持統天皇時代とも言われるけれど、古墳時代にあのように前方後円墳(円墳)、前方後方墳(方墳)の大きく2系統があることからすると、古墳時代にはすでに天神地祇の分類がったのではと、思い始めました。

奈良の賀茂族の西遷については、別サイトで書いています。
  ⇩

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出雲国風土記の世界にこの一冊。



# by yuugurekaka | 2026-01-05 18:06 | 賀茂族 | Trackback | Comments(0)

なんとか高速道路を突っ走って、日が暮れるまでになんとか間に合いました。

鳥居の前になんと立砂(たてずな)がしてあります。珍しいです。

粟鹿神社(あわがじんじゃ) 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152

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もう暗くなり始めていました 。

随身門には、木で造られた「獅子と狛犬」がありました。説明板では江戸時代の初期であろうと書かれていましたが、正真正銘の狛犬(こまいぬ)(ツノがある)を見るのは、めったにありません。


祭神は、彦火火出見尊  日子坐王(ひこいますおう)を祭神とする説もあるらしいですが、
大昔の祭神は大国主命の御子 天美佐利命(あめのみさりのみこと)のようです。

拝殿

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倭国大乱の時代 賀茂族が西征に向かった

ここの神社の古文書『粟鹿大明神元記』では、第11代垂仁天皇の時代に、天美佐利命(あめのみさりのみこと)が荒振る神であるために大彦速命が朝廷に申し出て祀ることとなり、大彦速命の曾孫が「神部直」(みわべあたい)の氏姓を賜って但馬国造に定められたということです。

大彦速命というのは、奈良の大神神社の祭祀を担ったとされる大田々祢古命(おおたたねこのみこと)の末裔です。つまり、賀茂族です。

また、その古文書には、大彦速命の父である太多彦命は、崇神天皇の時代に、西国に派遣され、国内の従わぬ人を平服させたとあります。
「国内の従わぬ人」とはだれでしょう。
新羅の王子アメノヒボコミコトも、播磨や但馬にいたことが、日本書紀に書かれていますので、渡来の人々もいたと思われますが、葦原の中津国を治めていたのが大国主命だったわけですから、それは出雲族だったはずです。

賀茂族が征圧に西に向かったのなら、先住民は反抗して暴れるのは当たり前です。
そして大国主命の御子 天美佐利命(あめのみさりのみこと)が荒振る神となったのでしょう。

賀茂族の西遷の足取りについては、別サイトに書きました。
         ⇩

本殿と拝殿

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この本殿裏に四道将軍の一人、日子坐王(ひこいますのおう)の墓があるそうな。(発掘はされていない)
日子坐王を祖とする日下部氏が、但馬国造でここの社家であった由縁だそうです。

境内社 厳島神社
池に小島をつくる標準的なスタイルですね。

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境内社 床浦神社  祭神 大己貴命

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境内社 茗荷神社  祭神 草野姫命(かやのひめのみこと)
日本神話に登場する草の神様で、別名を野椎神(のづちのかみ)ともいい、山の神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の妻(または娘)とされています。
ここの神社の神紋に関係があるそうです。(神紋は、茗荷に菊)


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境内社は他に、天満宮、猿田彦神社、稲荷社がありました。


# by yuugurekaka | 2025-12-29 18:18 | 賀茂族 | Trackback | Comments(0)