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朝ドラの南方熊楠氏 



あいみょんの主題歌ですが、最初はちょっと変わった曲だなあと思っていた。
違和感を感じつつも、主題歌も半年も聞くと、これは名曲だと思えてきた。


朝ドラを毎朝観ている。

半年でも、なかなか見続けるというのは大変である。
主人公に肩入れして観る気にさせるのも、脚本家次第なのかもしれない。

あくまでも、牧野富太郎氏をモデルとした創作で史実とはちょっと違うようである。
牧野富太郎氏の業績もさることながら、スエちゃんの働きには驚く。
史実では、スエちゃんは13人子供を産んで、9人育てたらしい。
私の祖母も9人育てたから、そういう時代と言えばそうなのかもしれないが。


さて、朝ドラも終盤だけれど、今、南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の神社合祀反対運動のことをやっている。
ドラマで南方熊楠は登場するかわからないが、史実では、牧野富太郎とはすれ違いで会ってはいないそうだ。

南方熊楠氏の神社合祀反対運動であるが、自然保護という観点だけではなくいろいろな主張がある。

文体が明治時代のものなので、読みづらい。
Wikipediaに観点がまとめてあった。

〝①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅する

図書館に南方熊楠全集があって、読むと、いつもため息がでそうになる。文体のせいだと思っていたが、それ以上に、知識が充満して、話があっちゃこっちゃして、自分の無知度が増幅してしまい、頭がショートしてしまうのだと今日気づいた。「博識」の度を超えている。


さて、その神社合祀であるが、明治政府は初期から、神社の再編をしている。今回の神社合祀の再編は明治の終わり(明治39年の第一次西園寺内閣)頃の話だ。10年足らずの間に、約20万社あった神社の約3分の1が消滅したそうである。

我々は、その明治に再編された神社を見ているのであり、自分も古代の足跡を見ている気になっているのを戒めないといけない。





# by yuugurekaka | 2023-09-17 22:37 | 日記 | Trackback | Comments(0)

高瀬川の最上流

西出雲王国の滅亡は、もしや斐伊川の氾濫?_e0354697_12400256.jpg

高瀬川の水の取り口である来原岩樋である。土木遺産となっている。
ここから斐伊川の水を取り入れて出雲市内へと高瀬川が伸びている。

つまり高瀬川は、人口の水路である。


西出雲王国の滅亡は、もしや斐伊川の氾濫?_e0354697_12402092.jpg


ここの説明版によると、来原岩樋をつくるのあたって、慶長18年(1613年)に本田久兵衛さんが岩樋を敷設して、初代大梶七兵衛さんが貞享4年(1687年)に高瀬川の取り口として、汗入樋(木樋)を作ったが、長くはもたず、三代目の大梶さん(忠左衛門麻朝則さん)が元禄13年(1700年)に岩樋を開削を完工したという。何代にもわたる大事業だなあ。

高瀬川を掘った大梶七兵衛さんの像
高瀬川の上に像が建てられていた。

西出雲王国の滅亡は、もしや斐伊川の氾濫?_e0354697_12412436.jpg


江戸時代の話が延々とつづき何?と思われるだろうが、
来原岩樋の場所が、出雲神宝事件の舞台地、止屋の淵の伝承地だから。

ここに伝承地の阿世利池があった。その池の西側には、杓子山があり、式内社 阿須理社が鎮座していたようだ。

ある本によると、斐伊川の砂が流れ込んで、止屋の淵であるところの阿世利池が埋まって消滅したそうだ。

水神様と荒神さんの祠がある止屋の淵伝承地


西出雲王国の滅亡は、もしや斐伊川の氾濫?_e0354697_12393346.jpg


出雲王の墓と言われる西谷墳墓群がすこぶる近いということに、3度目の訪問で初めて気づいた。なんで気づかなかったのだろう。

西谷墳墓群の前の弥生の森博物館へ行ってみた。
「出雲平野の開発を始めた弥生人」の特設展示(10月23日まで)をやっていた。

鉄製の農具とか木彫りの脚付合子(ごうず)とか弥生時代の村の技術力に驚いた。
ああいう展示品はいっぺん見てもさっぱり。その意味するところがなかなかわからない。

西谷墳墓群を支えた出雲市内の弥生の村は古墳時代前期には消滅したともある本には書かれていた。
前期古墳は、西出雲では全く作られなくなった。

ある歴史家の説では、このころ、西出雲の王国(原出雲王国というらしい)、物部氏に滅亡されたという。
だったら、物部氏の巨大な前方後円墳が出雲市内にあってもいいだろうと思うが無い。(1基ぐらいあっても良い気がする。)

斐伊川・神門川の氾濫で、弥生時代に村が消滅して、拠点を移したとは考えられないだろうか。

東出雲がヤマト王権と結びついて西出雲を滅ぼした(井上光貞説)というが、
東出雲の墳墓のある場所も、飯梨川流域(弥生時代・前期古墳)⇒大橋川流域⇒意宇川流域(山代・大庭)と移動していると言われている。

斐伊川の川上へと拠点を移動させた(三刀屋の松本古墳群など)とも、考えられないだろうか。
日本書紀の記事がどこまで現実を反映しているのだろう。

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# by yuugurekaka | 2023-09-16 13:51 | 日記 | Trackback | Comments(0)

高麻山 【 青幡佐久佐日古命 】_e0354697_11343683.jpg

加茂町と大東町の間の山 高麻山(たかさやま)です。195mあります。


『高麻山。古老の伝へていへらく、神須佐能蓑命の御子、青幡佐久佐日子命、是の山の上に麻蒔き殖ほしたまひき。故、高麻山という。即ち、此の山の峯に坐せるは、其の御魂なり』

つまりカンナビヤマです。

吉野裕子氏の説によれば、カンナビヤマは、蛇がとぐろをまいた姿の山がなりやすいとのこと。
確かにこの山も、その条件に合致しています。


高麻山は安山岩の岩石でできてお り、噴出地形だそうな。

高麻山の麓には、風土記の時代の郡家よりも前の時代の郡家があったのではないかとも言われています。

青幡佐久佐日子命は、八重垣神社の宮司家や出雲大社の上官家のご先祖です。

風土記には、スサノオのミコトの御子となっていますが、江戸時代の出雲国造家文書や、雲陽誌では、そうは言っておらず、稲田姫命の末裔と名乗っています。
なんでだろう?
元々住んでいた母族の末裔とする意味はなんででしょう。


高麻山の麓というべきか、馬鞍山 (まくらやま)の麓というべきか、幡屋神社のご由緒を見ると、阿波忌部が関係しているのではないか?と思わせる内容が書いてあります。

そうかあ、麻で機をおるから、青「幡」佐久佐日古命なのか。

幡というとすぐ秦氏を思い浮かべて、すぐ「渡来人」にむすびつける本が膨大にあるけれど、それも違うのではないか。
阿波忌部という部民の中に、渡来人も採用されていたのかもしれないが、すべて渡来人みたいに言うのはどうなのでしょう。

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# by yuugurekaka | 2023-09-15 12:14 | 出雲国風土記 | Trackback | Comments(0)

船岡山と阿波忌部

その山は、松江から忌部神社を横目に見ながら、奥出雲への道につながる三叉路を過ぎた道路沿いにある。

船岡山

船岡山と阿波忌部_e0354697_10374346.jpg

改めて見渡すと、たいへん整った古墳のような形状だ。
もしかすると、そういう古墳の形はあるのか調べると、「双円墳」にちょっと似ている。
でも、「双円墳」と言っても一例しかないそうなので、こういう形の古墳が一つあっても良いと思う。

船岡山と阿波忌部_e0354697_10492717.jpg

参道が、尾根づたいに伸びている。
ここも心臓のリハビリになるなあ。休憩しながらぼちぼち登って行った。

船林神社   島根県雲南市大東町北村18番地

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一番奥に、船林神社がある。
祭神は、阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへ わなさ ひこのみこと)。祭神は時代の要請でころころ変わるけれど、『出雲国風土記』に書いてあるので変更の余地がない。

なんで、阿波(今の徳島県)から、わざわざ神様がくるのだろうと長い間わからなかったが、大東町の幡屋神社と雲南市の高麻山(麻を蒔くという起源)の由緒や伝承を見ていて、阿波忌部(あわいんべ)が関係しているのではないか?と思うようになった。

また、「わなさ」という地名は今でも近くにあるけれど、『丹後風土記』に登場する神であることを考えると、海部氏も関係しているとも思われる。

阿波忌部は、品部のひとつであり、忌部氏との血縁ではないのかもしれない。
それを掌握していたのが、忌部氏か、あるいは出雲臣か、または海部氏の可能性もあるのでは?などとなんの証拠もないことをあれこれ考えている。

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# by yuugurekaka | 2023-08-29 12:15 | Trackback | Comments(0)

島根県雲南市大東町の幡屋神社 元宮へ行ってきました。

『神国島根』に載っていたご由緒によると、神代には太玉命の率いられた後裔忌部氏の一族がこの幡屋に止まって織布を職としていたと。

そうかあ。だから、近くに高麻山(たかさやま)があるのだなあ。

幡(はた)というのは、麻から機を織る「はた」なのだ。

近頃は、グーグルマップが正確に場所まで連れてってくれる。


幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_07585311.jpg

参道に入ったら、笹が・・・。大丈夫かなあ。


幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_07594960.jpg

笹があるのは入口付近だけでした。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08001789.jpg

長い石段です。心臓のリハビリのためにも、ぼちぼち登っていきます。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08010647.jpg

また泥の参道です。ほっとします。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08014411.jpg

ひゃー長い石段。リハビリの先生が言うには、ハードな運動がダメではなく、休憩をきちんととることが重要だと言っていました。
意識して休み休みして行きます。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08022614.jpg


この下の谷底に船石という石があるそうです。下をのぞいたら、かなり急で谷も深いので、自分には危険だと思い、やめました。
伝承では、この船石に乗って山城国より神様が来られたそうです。

太玉命が?と思いましたが、調べたところ、山城國佐女牛八幡宮の八幡様らしい。


幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08034719.jpg

ついに境内です。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08052948.jpg

奥に見えるのが磐座です。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08060935.jpg

参道の入り口に掲示してあった境内図の一部です。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08070523.jpg

近くで見た大磐座です。一番上が鏡岩で御神体らしい。
圧倒されます。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08063314.jpg

傍らに船子岩、船頭岩がありました。元は船石とで3つセットだったらしい。


幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08090210.jpg

右の谷は深くなく、降りてみました。
本殿だった石垣がいくつも落ちていました。

幡屋神社 元宮へ参拝す。_e0354697_08094745.jpg

昭和38年6月の洪水で崩落したらしい。それで現在のところに遷座されたようです。
現在の幡屋神社のところが、「イナサカ谷」であり、元宮よりも前の時代の場所だったとのこと。

磐座があるから、古代からずっと鎮座していると思いこんでいましたが、
ここの元宮は鎌倉時代に創建された場所「宮の谷」)なんだとか。

幡屋神社自体は、『出雲国風土記』(733年)には載っている古社です。



# by yuugurekaka | 2023-08-26 09:10 | Trackback | Comments(0)