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■ 菟名手(うなて)

出雲市の、昔朝山郷であったところに、豊国(現在の福岡県東部および大分県全域)の国造の祖と同じ「宇那手(うなて)」の地名がある。
そこに櫛八玉命を祀る火守神社(ほもりじんじゃ)がある。(→ ウィキペディア 火守神社 
なぜに豊国と縁があるのか、いつからの地名なのか?

火守(ほもり)神社 島根県出雲市宇那手町1315   
出雲風土記(733年)には火守社とある。祭神 櫛八玉命。

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『出雲市地名考(下)』(永田滋史 著 出雲市教育委員会)によれば、文献の初出は、戦国期の慶長4年「市川元榮所領注文」に「同國同郡(出雲國神門郡)宇那手村百十九石八斗五升七合…」と見えるようで、いつの時代からの地名なのか定かではない。まずは、その「うなて」の記載のある『豊後国風土記』の抜粋である。

『豊後国風土記』

 豊 後 国(とよのみちのしりのくに)は、(もと)豊 前 国(とよのみちのくちのくに)(あは)せて(ひと)つの(くに)なり。昔者(むかし)(まきむくの)向日代宮(ひしろのみや)御宇(あめのしたしら)しめしし大足彦(おほたらしひこの)天皇(すめらのみこと)豊国(とよのくにの)(あた)(ひら)(おや)()名手(なて)(みことのり)して、豊国(とよのくに)(をさ)めしめたまふ。(中村啓信監修訳注 『風土記 下』角川ソフィア文庫)



■ 関東の国造


『日本書紀』を見ると、景行天皇の西征(九州征伐など)に随行して人物で、それで豊国の国造になったと思われる。『先代旧事本紀』巻第十 国造本紀ではどう書かれているか。


(とよの)国造(くにのみやつこ)

(せい)()天皇(てんのう)の時代に、伊甚(いじみ)国造(くにのみやつこ)と同祖・宇那(うなの)(すく)()を国造に定められた。


「菟名手」(うなて)ではなく「宇那足尼」(うなのすくね)となっている。同一人物なのか、その子孫なのか定かではないが、伊甚(いじみ)国造と同祖となっている。この伊甚(いじみ)は、上総国埴生郡ー千葉県の一部分である。では、その伊甚国造は、どう書かれているか。


伊甚(いじみの)国造(くにのみやつこ)

(せい)()天皇(てんのう)の時代に、安房国造(あわのくにのみやっこ)伊許保止(いこほとの)(みこと)の孫の伊己侶止(いころと)(あたい)伊甚(いじみの)国造(くにのみやつこ)に定められた


今度は安房国(あわこく)である。この安房国は、四国の阿波ではなく、千葉県の南部である。(→ ウィキペディア 安房国 )では、今度は安房国にはどう書かれているか。


阿波(あわの)国造(くにのみやつこ)

成務天皇の時代に、天穂日命の八世孫・弥都侶(みつろ)(ぎの)(みこと)の孫の大伴(おおとも)(あたいの)大瀧(おおたき)を国造に定められた。


なぜ、「阿波国」の漢字に変わっているかよくわからないが…。やっと、天穂日命の系譜であることがわかった。天穂日命となっているが、「東国諸国造 伊勢津彦之裔」という系図では、(→ 国立国会図書館デジタルコレクション『諸系譜』27ページ 天穂日命の上が、意美豆努命(八束水臣津命)になっているくらいだから、天穂日命というよりは、広く「出雲族」として考えたほうが良いと思われる。神話ではないので、上が天照大神とはなっていない。

伊甚神社  島根県松江市宍道町伊志見188 『出雲国風土記』(733年)では「伊自美社」
なぜだか 千葉県の伊甚(いじみ)国と同じ地名が、島根県東部(風土記時代は出雲郡)にもある。

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なぜに出雲族の国造が、関東に分布しているか。神話や伝承ぬきに考えると、東北→関東→大和→播磨→出雲という風に南下してきたとも想像もできるが、富家伝承本にはそのいきさつも書いてあった。
時は、景行天皇の頃である。

〝東国遠征を計った大王は、イズモ国に兵力の派遣を求めてきた。旧出雲王家は、豊国勢力を追い払うという隠された目的のために、派兵することになった。それには、訳があった。ヤマトに出雲系の磯城王朝があったとき、そこを豊国軍が真っ先に攻撃した。しかも出雲系の加茂氏を山城国に追い払った。それに向家が反感を持っていたからであった。〟(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』 大元出版)

〝イズモ軍は豊国出身者を攻撃して、東国に追いながら進軍した。豊国兵を上毛野国と下毛野国に追い払った後、出雲軍は関東南部に落ち着いた。上毛野国と下毛野国に住んだ豊来入彦の兵士の一部は、故郷にかえった。豊前国では、その里帰りたちが住んだ地域に、上毛郡や下毛郡の名が付いている。(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』 大元出版)

出雲族VS物部族・豊国族(宇佐族)の時代から、物部族出雲族VS豊国族(宇佐族)の時代への転換である。時代にによって敵であったり、味方であったりということもだが、敵であるが故に戦乱を避ける故に敵であっても、同族化ということもあったと思われる。出雲族の系譜の中に、「兎臣」が祖の勝部臣が見られる。あの兎臣の兎(うさぎ)も豊国族と関係があるのではないだろうか?

そうして考えると、もしやあの神話「イナバの白兎」というのは、関東での豊国族(宇佐族)と出雲族との戦争と和平ということを描いていたのではなかろうか?初期の国造は、因幡が、和邇族だが、その隣の伯耆は、関東からの出雲族である。

さて、肝心の「宇那足尼」あるいは、「菟名手」が、「東国諸国造 伊勢津彦之裔」という系図に見えない。『古代氏族系譜集成 中巻』(宝賀寿男 編著 古代氏族研究会発行)によると、武蔵国造祖の「兄多毛比命」(えたもひのみこと)の孫の「宇志足尼」が又の名と書かれていた。
実際氷川神社の社家系図に、
兄多毛比命ー武曽宿禰ー字那毘足尼宇志足尼 書き写し間違いでした。ー筑磨(物部直祖)、弟八背直(大伴部直祖)…、と見られる。出雲族を祖としながら、後継の物部氏が社家となっているという不思議さがある。

高群逸枝氏の見立てであるが、

〝出雲系は初め信濃を経て笠原氏となり武蔵へ入って来たこと、当時武蔵には多摩地方の所謂无邪志族、足立地方及び入間地方を結ぶ所謂胸刺族があり、笠原氏から発した出雲系は、まず多摩の无邪志族に伝わって其族を祖変せしめると共に、時恰国造制定時代であったため、武蔵国造家を多摩に起こした。次に多摩より発した系は更に隣国上総下総の地方(恐らく古来よりの同族ならん)を芋蔓式に祖変せしめて出雲系となし、その一環たる海上氏を経た系が、武蔵の足立に居する物部一派に来投して、これを祖変せしめた〟(高群逸枝 著 『母系制の研究』(上))

出雲族、物部族相交わるという感じであるが、豊国族(宇佐族)との影も感じる。膳氏の後裔である『高橋氏文』(逸文)によると、斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔であるという。ここにも「豊」の名前である。

 膳(かしわで)の起源 安房の国 


出雲族の国造が創始の安房国であるが、ここの安房国は膳氏の起源の場所でもあった。

以下日本書紀の抜粋。


〝冬十月上総(かずさ)国に行き、海路安房(あわ)水門(みなと)においでになった。このとき、覚賀(かくかの)(とり)(カクカクと鳴き容易に姿を見せない)の声が聞こえた。その鳥の形を見たいと思われ(    )、海の中までおいでになり、そこで大きな(はまぐり)を得られた。(かしわ)(でのおみ)の先祖で、名は磐鹿六(いわかむつ)(かり)(がま)の葉をとって(たすき)にかけ、蛤を(なます)に造ってたてまつった。それで六雁臣の功を誉めて、(かしわでの)大伴部(おおともべ)の役を賜わった。〟

                    (宇治谷 孟著『全現代語訳 日本書紀』 講談社文庫)


これに附随して、膳氏の後継であるの高橋氏の『高橋氏文』である。

〝『政事要略』所引『高橋氏文』逸文によると、六鴈命(六獦命/六雁命)が景行天皇728月に病で死去すると、天皇は大変悲しんで親王の式に准えて葬を賜り、宣命使として藤河別命・武男心命を派遣した。そして、六鴈命を宮中の食膳を司る膳職に祀るとともに、子孫を膳職の長官および上総国・淡路国(ここでは安房国)の長と定め、和加佐国(若狭国)は永く子孫らが領する国として授けたという。〟

                                 ( ウィキペディア 磐鹿六雁 より


あれ、安房の国造は、膳氏ではなく大伴氏であったはず。頭が混乱してくる。


〝初代代国造の大瀧が名乗っていたのは大伴氏(姓は直)である。この氏は出雲国造などと同系で、天皇の食膳調達(特にアワビの貢納)にあたる部民氏族の膳大伴部(かしわでのおおともべ、大伴部)を在地で統率する氏族であり、膳大伴氏(姓は直)ともいう。弘仁14年(823年)に大伴氏は伴氏(姓は直)と改めた。〟                              ( ウィキペディ 阿波国造 より


膳大伴部を現地で統率していたのは、膳氏ではなくて、大伴氏。ますます頭が混乱してくるが、おそらく阿部氏や出雲族や物部族がからみあって、一つの氏族の話としては捉えらないことになっているのだろう。
創始としては、膳の神(櫛八玉命)は出雲族(伊勢津彦)だと思うが、膳伴部自体は出雲族(大伴氏も含む)・阿部氏・物部族の結合なのかもしれない。



# by yuugurekaka | 2019-07-14 07:39 | 身逃げの神事 | Comments(0)

■ 赤人社

「湊社の次には赤人社を詣でるが、この祭神も別火氏の祖である。」(千家 尊統著 『出雲大社』 学生社発行)とあった。
赤人社の祭神は、万葉歌人 山部赤人である。(→ ウィキペディア 山部 赤人 
別火氏の先祖がなぜ山部赤人なのか、さっぱりわからない。

『雲陽誌』(1717年)にも、大社町「赤塚」の地名起源として、山部赤人の塚のことと、書かれている。

〝赤 塚
古老傳に曰和歌の仙山邊赤人の塚あり、故に赤塚といふしるしの松もありしか、往昔大風吹倒侍、赤人の傳詳ならす、聖武天皇の時の人ともいふ、人丸同時ともいへり、【古今】の序に赤人は人丸の下にたたむことかたくなん、
山邊神社【風土記】に載る山邊社なり、赤人の靈をまつる、祭日十月中の亥の日、〟(『雲陽誌』)

山辺神社 拝殿  - 島根県出雲市大社町杵築西

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「山部赤人」の名を聞いて、「なんだ、神代の祭神ではなく、新しい神社か。」と思ってしまいがちであるが、『出雲風土記』(733年)の時代には、山辺社3社が、すでに出雲郡に存在している。
もともと、山部赤人が祭神ではなかった可能性もあるかもしれないが、山辺氏(山部氏、山邊氏とも書く。)の氏神を祀った神社であったのは間違いないと思われる。

天平11年(739年)の『出雲国大税賑給歴名帳』(『正倉院文書』に所収)にも、漆沼郷に「山部直 一戸」とあり、山辺氏の存在がわかる。(たった1戸と思われるかもしれないが、『出雲国大税賑給歴名帳』には、扶養を要する高年の者や年少者の属する戸主の姓氏を列記したものであり、住んでいる氏族がすべて書かれているわけではない。)
 例えば、おとなりの石見国にも、式内社「山辺神社」(島根県江津市江津町112)が存在する。そこの社記によると、白雉三年(652年)に大和国山辺郡石上の石上神宮より勧請したものであるとのこと。( ウィキペディア 山辺神宮 石見国の山辺神社については、物部氏との関連ということになる。別火氏の先祖ということなら、物部十千根の石上神宝管理の話が思い起こされる。(『日本書紀』垂仁天皇記)
しかし、石上神宮を勧請するのなら、一般的には、石上社であると思う。

ただ山部が、職業部であり、いわゆる氏族としての山辺氏ではなく、神門臣系あるいは物部系としての山部があったかも?と考えることもできる。

■ 山部赤人の系譜

山部の姓氏起源は、ウィキペディア 伊予来目部小楯 によると、伊予来目部小楯 が播磨国の志自牟で(『古事記』表記)〝億計(おけ)王(後の仁賢天皇)・弘計(をけ)王(後の顕宗天皇)を発見し、民衆を動員して仮宮を建てさせた上で、朝廷に報告した。清寧天皇は驚き、さらに非常に喜んだという小楯はその功で山官(やまのつかさ)に任じられ、山部氏と連の姓を与えられた。そして「吉備臣」を副(そいつかい)として「山守辺」(やまもりべ)を部民としたと、ある。

鈴木真人『諸系譜』第二冊 山宿禰の系図(→ 国立国会図書館デジタルコレクション『諸系譜』第二冊54頁 によれば、山部赤人は、久米一族である伊予来目部小楯 (→ ウィキペディア 伊予来目部小楯 を始祖とする山部氏の六代目である。

伊予来目部小楯  歌子 ー 伊加利子 ー 比治 ー 足島大山上 ー 赤人上総少目外従六位下 ー 磐麻呂  

ウィキペディア 山部(品部) によると、山部氏は播磨国に広く分布し、法隆寺や上宮王家(いわゆる聖徳太子)と密接な関係があったのではないかと言われている。(岸俊男 説) 
播磨国の山部であるが、『播磨国風土記』賀古郡条には、関東の出雲国造系の系譜にある息長命(又の名、大中伊志治命)が、賀毛郡の山直の祖として登場してくる名前からして、息長家と思えるが、出雲臣比須良比売(いづものおみひすらひめ)を娶るとあり、母系で出雲族でつながっているものと思われる。久米族の前段に出雲族が山部として、分布していたのかもしれない。

上宮太子の系譜をさらに調べてみた。夫人に膳氏出身の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)、弟に来目皇子(久米王)、来目皇子の夫人に膳比里古郎女(ひろこのいらつめ)(菩岐岐美郎女の妹)とあり、上宮王家自体が久米氏や膳氏との関係が強かったと思われる。
上宮王家との関連が強いということから、上宮太子の御子(日置王・財王)とも関係が強いということから、山部氏が出雲国に随伴したのでないかなどと妄想が浮かんだ。


■ 富家伝承

『古事記の編集室』(斎木雲州著 大元出版)によれば、『日本書紀』は太安万侶が書かれたものとのことだ。〝日本書紀の注釈書に「弘仁私記」がある。その「序」に、日本書紀は舎人親王と太安万侶らが詔勅を受けて、編集した書物だ、と書かれている。〟『古事記』の序文には、稗田阿礼が語った歴史を太安万侶が編集したものだと書かれているが、『古事記の編集室』には、実際は、柿本人麿が書いたという話が載っている。

ちなみに兵庫県揖保郡太子町の「稗田神社」には、現在稗田阿礼が祀られているが、上宮太子妃である膳部菩岐々美郎女が元々の祭神であるという説もある。

話は戻るが、太安万侶とどう関係してくるかだが、『古事記の編集室』(斎木雲州著 大元出版)の抜粋である。
〝それ以前に出雲国司・忌部子人の指図により、国庁の近く(松江市竹矢町)に、太家屋敷と呼ばれる建物ができた。回りは生け垣で囲まれていた、という。そこに、太安万侶が監禁されていた。717年頃に、秘密の使いが大社町の向家を訪れ、こっそり会いたい旨を伝えた。使いと一緒に太屋敷の近くに行き話を聞いた、と向家では伝承されている。そのとき不思議にも、安万侶は山辺赤人と名乗った。〟

〝かれは自分と柿本人麿が、古事記と日本書紀を書いた、と話した。出雲の歴史は書かない予定だったが、自分が書くことを主張して、書くことになった、と話した。つまり、出雲王国を出雲神話に変えて、出雲国造は隠したが、古事記に17代にわたる出雲王名が書かれたことを、話した。向家の当主は、出雲人を代表して、お礼の言葉を述べた。また赤人はそのうちに、カズサの国に行く予定だ、とも言った。〟

元々の富家伝承では、太安万侶と山辺赤人の伝承は別々であったとのことである。しかし、仮説として、太安万侶が、山辺家に養子となって、解放され、上総の国で一生を終えたことが書かれていた。

〝安万侶は以前から、山辺家の養子になることが決まっていたらしい。日本書紀の天武紀元年6月に「山辺君安麻侶」の名が書かれている。山辺家の家系図によると、赤人はこの人の養子になっている。〟(『古事記の編集室』斎木雲州著 大元出版 )
前掲の『諸系譜』とは別の系図であるようで、
〝その近くに、赤人の親族の家が現在も存在する。そこには家系図があり、播磨国司だった山部連小盾を含む系図を知ることができる。小盾の息子が羽咋で、その子が山辺郡司の安麻呂となっている。〟〝赤人の子が安万呂で、赤人の孫が針間(播磨)万侶と花万侶と吾方(県)万侶となっている。〟(『万葉歌の天才―人麿の恋』斎木雲州著 大元出版 )

〝その後、かれはカズサへ行き、山辺家の養子になり、山辺兼輔を名乗り、真行寺を建てた。そちらにも、かれの子孫が実在する。〟
〝かれの墓は千葉県東金市田中、雄蛇ヶ池の南に立っている。〟(『古事記の編集室』斎木雲州著 大元出版より)

山辺神社 本殿  - 島根県出雲市大社町杵築西

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さて、テーマの赤人社であるが、
〝それで山辺赤人が出雲の恩人だと考えて、向家は山辺赤人の供養塔を建てた。それを地域の人は赤人塚と呼んだ。〟(『万葉歌の天才―人麿の恋』斎木雲州著 大元出版 )

結局、別火氏との山部赤人との直接的な血縁関係は無いように思えるが、記紀に大国主命に連なる出雲国王の系譜を書いてくれた太安万侶(山辺赤人)の感謝のために、赤人社を詣でるのかもしれない。

◆ 参考文献 

斎木雲州著 『古事記の編集室』 大元出版
斎木雲州著 『万葉歌の天才―人麿の恋』 大元出版

※アマゾンで注文するとなぜだか値段がつりあがっているものがありますが、本屋さんで取り寄せすると定価で購入できます。本屋さんによっては、取り寄せできぬ場合があるらしいですが、出版社に直接注文できるようです。


# by yuugurekaka | 2019-06-30 19:35 | 身逃げの神事 | Comments(0)

■ 杵築(出雲)大社社家順名書

近世における出雲大社の上官社家は、向家文書の社家順名書』を見る限りでは、北島・千家の両国造家 合わせて17人であり、北島方8人+千家方8人+別火家だったと思える。
それ以前はどうだったかと云うと、『向家文書』(現代語訳)によると、

〝一、上古より(出雲)国造(54代)孝時の世に至るまで、上官は7人いた。一三四三(康永2)年に国造が(北島と千家に)別れたとき、上官は3人ずつ両国造家に寄属した。一人は両家に属する上官(別火家)である。…(別々に神事を行うよう変わったために)両国造家は互いに、3人の欠員をおぎなった。以前からの規則に準じて、各国造家は上官7人で神事を務めさせられたから、新たに正式でない(影の)上官ができた。〟(斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』大元出版 巻末資料より ※ 太字強調は私)

上官は7人だったという。なぜに7人というか、本殿の七つの雲と社家数とも、何か関係があるのかしら。そう考えると、神魂神社の九つの雲はいったいなんなのだろうか。
この古(いにしえ)の7人の上官社家はどこか?

〝今に至るまで、古上官の向や、森脇、平岡、東、佐草、赤塚の緒家と影上官が両国造に、与えられた。〟(斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』大元出版 巻末資料より)

また、「出雲国造家文書」の『国造出雲政孝注記』(1228年)に上官座配の次第が載っており、当時は一列に並ぶ場合、国造・権検校・向・森脇・嶋・月貫・阿吾・佐草という順であったらしい。『杵築旧懐談』(大正十年 赤山登翁著)には、「古上官と云うは、千家方に平岡・月禾(東上官とも云ふ)、北島方にて向・森脇・佐草なり。」と、ある。

向家→富家など名前が変わったりするので、実際どの家がどれに対象とするかよくわからぬが、古上官は、向・森脇・佐草・平岡・東・島に別火家を加えた7家だったのだろうか?
ある中世史の本を読むと、ほとんど出雲国造家の分家みたいに書かれているがどうも違うようである。(系図を見ると国造家とは親戚関係ではあった。)
例えば、佐草家であるが、『懐橘談』黒沢石斎著 江戸時代初期の地誌)に、

〝脚摩乳・手摩乳を吾児の宮首となし給へば、今の国造は其苗裔にやと尋侍れば、左は候はず、八重垣の神主佐草氏こそ脚摩乳の後にて候へ、〟

とあり、天穂日命ではなく、足名椎命(『古事記』表記)の子孫ということらしい。

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明治元年の社中記事のなかに別火家の出自が書かれていた。

〝上官   別火千秋吉満(両国造の仲人)
この仲人上官の家伝で、当家は櫛八島士奴美ノ神の孫大国主(大己貴職)の孫(神門臣家)出身と云う。
一説には、十千根命(秋上家)の子孫とも。
大社御飯供を奉献する別火職である。7月4日(国造身逃げ神事)には、一子相伝の神秘(大国主御神霊の外出)神事を独行する。〟
        (斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』大元出版 巻末資料より ※ 太字強調は私)

さて、「櫛八島士奴美ノ神の孫」がだれなのかである。富家伝承の大名持(主王)の系図だが、「大名持」は、固有名詞ではなく、王の役職名だということだ。※ aは、向家(富家)、bは、神門臣家。

①菅之八耳(a)―②八島士之身(b)―③兄士之身(a)―④布葉之文字巧為(b)-⑤深渕之水遣花(a)―⑥臣津野(八束水臣津野命)(b)―⑦天之冬衣(a)―⑧八千矛(大国主命)(b)ー⑨鳥鳴海(事代主命長男)(a)―⑩国押富(a)ー⑪速瓮建沢谷地之身(b)

親子関係を示した系図ではないので、孫というのがだれのことを指すかわからないが、6代目オオナムチ臣津野(八束水臣津野命)と、11代目オオナムチ速瓮建沢谷地之身(はやみかのたけさわやぢ)の所なんだろうか、そんな気がする。『出雲風土記』の記事(「速」と「瓮」である)八束水臣津野命を祖とする出雲臣の系図からの勝手な想像である。ただ、出雲臣の系図では櫛八玉命は、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命の孫となっていた。(→ 出雲大社 身逃の神事の謎  (3) 天甕津日女命(あめのみかつひめ) )

■ 出雲大社における別火家の役割

別火家は、北島氏・千家氏両属の「別火職」であった。大社神主の資格を受けた国造は、家族とは別れて、神火で作ったご飯と料理を食べることになっており、別火職は火起こしに使う道具を管理する職務だった。それとは別に、出雲大社別火家(財氏)は、出雲大社本殿の鍵を管理する役目もあった。しかし、その固有の役目はこれだけではなかった。

県長元年(一二四九)六月杵築大社造営所注進状の抜粋である。杵築大社遷宮の儀式の様子が書かれている。

〝一、目代兼大行事源右衛門(入道宝蓮)并びに在庁書生御祓戸に着座。その時、別火散位財吉末以下の神人等、御解除の具持ちて参向す。次に別火解除申して御仮殿に帰参す。その後、延(筵)道の布薦、正殿と仮殿の間に敷く。次に目代・在庁官人、仮殿の御前に列座せしむ。その時御馬并びに御神宝物、各々次第に賜う。次ぎに国造・目代・在庁官人、襷襅を着す。その時、国造出雲義孝、大床において祝申す。仍って、参集の輩、各々御幣を賜る。次に別火吉末、大奴佐を以って延道を清め行く。次に御馬を引かる。次ぎに新造の御神宝物、目代・在庁官人、これを賜りて持ち奉る。次に御輿御行。次ぎに古御神宝物、上官神人賜りてこれを持ち奉る。〟

以下、長谷川博著 『戦国大名尼子氏の研究』(吉川弘文館発行)からの別火氏の解説。

〝その機能とは、遷宮の際神体の通る道を清める「延道役」と、本殿や宝殿の鍵の管理・開閉を独占的に担う「鎰役」である。 県長元年(一二四九)六月杵築大社造営所注進状によれば、宝治二年十月二十七日の杵築大社遷宮に際し「別火吉末以大奴佐延道行」くとあり、戦国期の資料に散見する「延道」「塩道」「御幣縁道」とは、仮殿から正殿に至る道を大幣(=「大奴佐」)を以って祓い清める役目であったことが知られる。
〝戦国期の資料からは、別火氏がこれら以外にも広範な独自な機能を果たしたことが知られ、遷宮の際の「杵役」「御鉾」「御弓」のほか、三月会「二番饗」の「御供取次」役を務めている。別火氏が古くから三月会について主導的役割を担っていたことは、かつての在国司朝山家伝来の「きうき(旧記)」において、すでに別火氏が「解除饗」の「奉行」を務めると記されていることから明らかである。

明治元年の社家順名書に確認できる上官・別火家は、今はもう出雲大社にいない。大国主命の末裔が、出雲大社の社家にいてはまずかったのか?
明治時代の神道の国家的再編とは、いったい何であったのだろうか。

◆ 参考文献 

斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』 (大元出版) 
長谷川博著 『戦国大名尼子氏の研究』(吉川弘文館発行)
島根県古代文化センター 『出雲大社文書 ―中世杵築大社の造営・祭祀・所領―』

# by yuugurekaka | 2019-06-17 14:15 | 身逃げの神事 | Comments(0)

平田の町を見下ろす旅伏山(たぶしさん)

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『島津家久上京日記』によれば、戦国時代には平田まで宍道湖があり、平田は港町であった。宍道湖は現在は、汽水湖であるが、「蓮一町はかり咲乱たる中」というように、ハスが一面に咲き乱れている風景が書かれており、この当時の塩分濃度はかなり薄かったと思われる。これはいったいどういうことだろうか? 斐伊川は、いまだ、宍道湖ではなく神門の海を流れていたはずである。

〝亦舟捍し行に、右ニ檜木の瀬とて城有、其より水海の末に蓮一町はかり咲乱たる中をさなから御法の舟にやとおほえ、漕通、平田といへる町に着、九郎左衛門といへる者の所に宿、拾郎三郎よりうり、亦玄蕃允より酒あつかり候、〟(『島津家久上京日記』)

また『雲陽誌』(1717年)に平田の前の宍道湖は、「里人伝て云此礒辺にし潮の出澤ありて、上古には塩を焼たりといへり、土人潮を汲て清をもしたりとなり、今にいたりて清する人は此水を用るなり、上の岡に塩の権現といふなり、毎年幣帛を奉てまつりあり、塩土老翁なりといひつたふ」と書かれている。上古というのが、いつのころかわからぬが、塩をつくるほどの湖だったかのように書かれている。
日向神話の「塩土老翁」(→ウィキペディア シオツチノオジ で、ここもまた物部氏の影と思ってしまったが、考えすぎで、「塩づくり」から来ているかもしれないと思い直したが、「上古には塩を焼たり」というのが、戦国時代にはハスが咲いていたという話を合わせて考えると解せない、やはり塩づくりとは無縁で、海神信仰で、「塩土老翁」を祭っていたのだろうか?

■ 楯縫郡  

『出雲風土記』(733年)には、平田の町がある楯縫郡の由来について下記のように述べている。

楯縫と名づけるわけは、神魂(かみむすひ)命がおっしゃられたことには、「わたしの十分に足り整っている天日栖宮(あめのひすみや)の縦横の規模が、千尋(ちひろ)もある長い栲紲(たくなわ)を使い、(けた)(はり)を何回も何回もしっかり結び、たくさん結び下げて作ってあるのと同じように、この(あめの)御量(みはかり)をもって、所造(あめのした)天下(つくらしし)大神(おおかみ)の住む宮を造ってさしあげなさい。」とおっしゃられて、御子の(あめの)御鳥(みとり)命を楯部として天から下しなさった。そのとき天御鳥命が天から退き下っていらして、大神の宮の御装束としての楯を造り始めなさった場所がここである。それで今にいたるまで楯や桙を造って神々に奉っている。だから楯縫という。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


杵築大社の創建神話と関連付けられた話であるが、ここは、物部氏の分布する郡であるわけで、実際は物部氏の称号「楯」に由来する郡名であったのではないかと自分は感じる。意宇郡の「楯縫郷」の地名由来からそう思える。
出雲国の物部氏は、饒速日命ではなく、布都努志命を祖として奉っていたようだ。

意宇郡 楯縫たてぬい郷。

郡家の東北三十二里一百八十歩の所にある。あめのいわたてを縫い直された。だから、楯縫という。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


宇美神社  島根県出雲市平田町宮西町688-1
御祭神 布都御魂神 
古くは愛宕山西北に廻大明神(宇美神社)が祀られていた。天正16年(1588年)には、廻大明神と、近江からやってきた平田を開拓した小村・杉原氏一族の氏神・熊野権現他7つの社を合わせて熊野権現社一社とされた。平田の町が、出雲風土記時代 入海(宍道湖)であったことを考えると、元は愛宕山自体が入海のすぐ近くであり、その海を標榜した社かなと思ったりもする。しかし、日本海沿岸の塩津の石上神社が旧地であるという説もある。



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物部氏は、『出雲風土記』(733年)当時は、郡司の主帳を務めている。大領が出雲臣という影響で、楯縫郡の由来が変化したのかしら。

楯縫郡の郡司 
主帳 无位 物部臣
大領 外従七位下勲十二等 出雲臣
少領 外正六位下勲十二等 高善史

ここの出雲臣であるが、なんとなく出雲国造家の系統とは違う感じがする。
なんで違う感じがするのかは、寺院の記事だ。出雲臣大田という名前であるが、「大田」というが、意宇郡の意多伎神社で猿田彦命を「大田命」として祭っていた。(大田命はさらに塩土老翁でもあることも書かれていた。)、崇神紀の三輪山祭祀でオオタネコが出てくるが、ここでも「オオタ」であり、事代主命系のような気がする。

新造院しんぞういん一所。田郷たごうの中にある。厳堂ごんどうを建立している。郡家ぐうけの正西六、一百六十の所にある。大領出雲いずもおみ大田おおたが造った寺である。

『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男 編著 古代氏族研究会発行)を見ていたら、出雲峯麻呂を親とする出雲臣大田の一族の系図があるようで、後裔に平安時代の医師の出雲広貞(→ウィキペディア 出雲広貞 )がいる家系のようだ。土師氏を経由しない菅原氏となっていた。

■ 宇乃治比古命

旅伏山の東麓である「楯縫郡沼田郷」であるが、『出雲風土記』では、湿地であろうということが書かれている。奈良時代は、現在の平田の町のほとんどは、湖の中にあったわけで、現在の愛宕山近くまで宍道湖だったと思われる。

郷。

郡家の正西八里六十歩の所にある。宇乃(うの)治比(ぢひ)()命が「湿地【原文…()()】の水で(かれ)(いい)をやわらかくふやかして食べることとしよう。」とおっしゃられて爾多と名を負わせなさった。そういうことなので爾多郷というべきなのだが、今の人はただ()()と言っているだけである。〔神亀三年に字を沼田と改めた。〕


ここに登場する「宇乃治比古命」は、遥か古の神だと思っていたが、『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男 編著 古代氏族研究会発行)の出雲臣の系図の中に、それも飯入根命の系譜の中に名前が載っていてびっくりした。


出雲国造出雲臣の系譜 抜粋
『古代氏族系譜集成 中巻』(宝賀寿男 編著 古代氏族研究会発行)990P~993P より

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同様に『出雲風土記』に登場する神門臣伊加曾然(かんどのおみいかそね)の名前も、隣に載っている。(ここには、書き出していないが、甘美乾飯根命の後に野見宿禰があり、野見宿禰の祖を飯入根命とする『姓氏録』とは違う系図である。)ちなみに、富家伝承本によれば、飯入根命は富家の系譜であった。

宇乃治比古命は、ここでは「置部臣」と書いてあり、後裔に『出雲風土記』に登場する「日置臣」の面々が記述してあったので、いわゆる日置氏の一族であると思われる。そして、この後の分系に、なんと物部氏が書かれている。
いわゆる系図の一般的な見方では、出雲臣の「分家」という観方なのかもしれないが、出雲臣の分家が日置氏や神門氏であるとは、全く思えない。思えないが、そういう観方をする人も多い。

日置臣や神門臣が後から発生したと考えるよりも、もともと日置臣や神門臣が存在して、飯入根命の時、例えば婚姻関係や養子縁組などがあり、親戚になったと考える方が理解しやすい。物部氏も、当然ながら、「置部臣」から後から分かれて発生したわけではなく、元々存在しており同族になったということを示しているのだろうと思う。

# by yuugurekaka | 2019-05-06 13:51 | 身逃げの神事 | Comments(1)

■ 宍道湖の最西端 

宍道湖の沈む夕日を眺めていると、宍道湖の遥か遠くに、宍道湖に浮かぶ一つの島に夕日が落ちていくように見える。しかしながら、宍道湖の西にそんな島などは無い。

道湖に沈む夕日

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一つの島に見えるのは、実は出雲国西部の山である。それも、一つの山ではなく、「鼻高山」と「旅伏山」が重なりあって、一つの山に見えている。弥生時代から奈良時代ごろまでには、宍道湖は鼻高山の麓付近まで、宍道湖が広がっており、西部と東部をつなぐ大きな港があったのではないかと思う

この鼻高山の南麓が、「赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命」の鎮座する「伊努郷」と、旅伏山の南麓が、大国主命の御子「和加布都努志命」の「美談郷」であり、旅伏山の東麓が、物部氏の分布する「楯縫郡」(たてぬいぐん)がある。鼻高山と旅伏山の間が、古の神門臣家と物部氏の接合点であったように想像してしまう。詳しくは過去記事 → 出雲大社と国譲り神話(7)出雲御崎山

なんで、またそういう話にこだわるかというと、出雲大社本殿の中に、大国主命と御客座五神の席とは別に、下段の扉に近い所に、半畳ほどの和加布都努志命(牛飼神)の席があると知ったからである。これは、もしや、別火氏と関係があるのではないか。別火氏の祖神ではないかと想像してしまったからである。

■ 秋鹿郡の和加布都努志命 

赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命」に由来する郷が、出雲郡だけではなく、楯縫郡と秋鹿郡(あきかぐん)の境界の伊農(いぬ)郷にも出てくる。それと同時に、出雲郡美談郷と同じように、お隣の大野(おおの)郷に「和加布都努志命」が登場する。

伊努神社 島根県出雲市美野町382 
天甕津日女命を祀る。

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伊農(いぬ郷。郡家の正西一十四里二百歩の所にある。出雲郡伊農いずもぐんいぬごうに鎮座していらっしゃる赤衾伊農あかふすまいぬ須美比すみひ古佐和こさわ能命の后、あめのみかつ日女ひめ命が国をめぐりなさった時に、ここにいらしておっしゃられたことには、「伊農よ【原文…伊農波いぬは】。」とおっしゃられた。だから、あしはやる(あしはやる)伊努という。〔神亀三年に字を伊農と改めた。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


大野(おおの)郷。郡家の正西一十里二十歩の所にある。和加布(わかふ)()()()能命が狩りをなさった時に、郷の西の山に狩人をお立てになって、猪を追って北の方にお上りになったが、(くま)内谷(うちのたに)(くまうちのたに)に至ってその猪の足跡がなくなってしまった。そのときおっしゃられたことには、「自然と猪の足跡が失せてしまった。【原文…亡失()せき】」とおっしゃられた。だから内野という。それが、今の人は誤って大野と呼んでいるだけである。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)



『出雲風土記』には、出雲郡と同様に隣接して、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命「和加布都努志命」の記事があるので、これはワンセットな話で血縁関係の話だと想像する。「和加布都努志命」は、大国主命の御子と書かれているので、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命の子ではない、となれば、孫ではないかと思う。
富家伝承本によると、神門臣家の系譜は、「臣津野ー佐和気ー八千矛(大国主命)」ということだから、(※臣津野=八束水臣津野命 、佐和気=赤衾伊能意保須美比古佐和気能命)、やはり味鋤高彦根神と同様に孫だったと思われる。ただ、弥生時代は、近代のような単婚ではなく、対偶婚であったはずで、単純ではなくて、大国主命の御子というよりも、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命」の間の孫というのが、適した表現なのかもしれない。

この祖母にあたると思われる、この天甕津日女命(あめのみかつひめ)が全く謎であるが、美濃国大野郡の「花長上神社」「 花長下神社 」の祭神であり、この神社の由来につながる尾張風土記逸文にも登場する。垂仁天皇ホムチワケ伝承に関係するが、天甕津日女命の時代が遥かに古く、どうつながるかわからないが、鼻高山麓に、若倭部氏や日下部氏が分布し、ホムチワケ皇子の系譜ー開化天皇裔でそういう伝承が作られたのではないかという想像ぐらいしかできない。
「天の」という神名なので、海部氏(尾張氏)の系譜なんだろうかと真っ先に頭に浮かぶが、火明命、饒速日命同神、尾張氏物部氏同祖という話もあるので、この神もまた尾張氏物部氏同祖なのかなどと思ってしまう。

■ 水戸神ー天甕津日女命

東国諸国造 伊勢津彦之裔」という系図がある。武蔵国造などいわゆる関東の国造の系図だ。どこの神社あるいはどこの家から収集されたのかわからないが、国立国会図書館デジタルコレクションで開示されていた。わかりやすくするために、ワープロで打ち込んでみた。(私の目では、全部読み取れないで、読み取れないところは□□□□□とした。)
原本の系図全体が見たい方は、→ 国立国会図書館デジタルコレクション『諸系譜』27ページ

関東の国造(伊勢津彦裔)の系図抜粋  中田憲信編『諸系譜』より

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一つ一つ見ると、面白い。記紀とは違って、天穂日命の親が、天照大御神ではなく、「意美豆努命」となっている。
正しいか、正しくないかみたいな見方をするとどうしようもないが、個別に見るといろいろな見方ができる。
まず、又の名つまり、「一、別名」は、同じ神ではないと思われる。天穂日命=赤衾伊能意保須美比古佐和気能命であるはずがない。それは、おそらく、別の神も同じことが言えると思う。また、この別名 熊野大隅命は、一般的には天穂日命とされているが、赤衾伊能意保須美(おおすみ)比古佐和気能命であるわけで、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命のことなのかもしれない。

また『播磨風土記』では、伊勢津彦命(→ ウィキペディア 伊勢津彦 は、伊和大神(大国主命)の御子である。それから考えると、天穂日命ー天夷鳥命を、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命ー大国主命に置き換えるとつじつまが合う。

さて、問題の「天甕津日女命」であるが、天夷鳥命の隣に、「母水戸神 天甕津日女命」とあり、伊佐我命の別名に「一 櫛八玉命」とある。櫛八玉命は、別火氏の祖である。

思うにこの系図は、出雲国造家、神門臣家、富家、別火家などの「合体」系図であると考えた方がわかりやすい。
物部氏との接点で考えると、物部氏の系譜で、若桜部氏の祖に出雲醜大臣」(いずもしこおおおみのみこと)という出雲姓の物部氏がいる。この系図にも見えるように、大祢命が、「(出雲)色多利姫」と婚姻関係で、子どもが出雲姓になったと思われる。(しかし、『天孫本紀』では、饒速日命の三世孫大祢命は、出雲醜大臣の兄で、饒速日命の孫の彦湯支命が、出雲色多利姫と結婚したと書かれている。ともかく、出雲醜大臣の母が、「出雲色多利姫」ということに変わりない。)
出雲「族」と物部氏は、かなり早い段階で婚姻関係が発生していることになる。


# by yuugurekaka | 2019-04-29 07:00 | 身逃げの神事 | Comments(0)

奈良時代には出雲大社の前には、神門の水海という大きな湖があった。中世にも依然として大きな湖として、水運を担った港があった。近世には、河川堆積により一気に埋め立てられたとされる。

神門(かんどの)(みず)(うみ)

郡家(ぐうけ)の正西四里五十歩の所にある。周りは三十五里七十四歩ある。中には鯔魚(なよし)()()須受枳(すずき)(ふな)玄蠣(かき)がある。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


鯔魚(なよし)は、ボラ。鎮仁(ちに)は、チヌ。魚の種類から、当時の神門水海は、汽水湖であったと思われる。

神戸川(かんどがわ)河口
今は神戸川河口だが、奈良時代には神門の水海と日本海との結節点だった。

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■ 湊原  

出雲大社摂社・湊社の有る場所が、「湊原」という場所で、「大湊」という大きな港があったらしい。地誌にその説明があったが、その当時の地図を見ないと、文書の意味がさっぱりわからない。

〝大湊というのは、斐伊川と神戸川の河口部北岸の湊原地域にあった港のことで、湊社というのもこの港から生まれた名称であった。この湊社は、さきに述べたように、七月五日の爪剝神事に先立って、別火財氏が神降しをして田の神を迎え(四月八日の影向神事も同様であったかも知れない)、そして十月十八日の神上げ神事においてこれを送り出す場であり、こうした田の神の送迎の場であったこと自体の中に、杵築大社及び出雲国全体にとって、この地域がいかに重要な意味を持っていたかがよく示されている。この大湊は、その名称からも推測されるように、出雲国を代表するとりわけ大規模な港であったと考えられ、湊社の存在から考えても、それが中世の早い時期から港として賑わっていたことが推測できる。この地域に残る伝承によれば、かつてこの湊原地域は、五百石積の廻船が帆を上げたまま入港できる広い河口で、北側の入り江に停泊して交易が行われ、二〇〇戸余りの港町が形成されていたという。〟(大社町史編集委員会 『大社町史 上巻』 大社町発行)太字は、私)

湊社の位置
「島根県古代出雲歴史博物館」展示物の奈良時代の地形図に「湊社」(赤丸)の場所を加えたもの

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■ 大渡

『島津家久上京日記』(1575年)には、平田の町に泊まった後、杵築大社に参拝されたことが述べられており、その後、神門水海で船に乗ったらしく、「大渡」をして渡り賃をとられたようである。

〝廿三日、打立行て、きつきの大社に參、それより行々て大渡といへるわたり賃とられ、さて行て崎田といへる町の清左衛門といへるものゝ所ニ一宿、下總酒もてあそひ候、〟(太字は、私)

この大渡しとは、どこの港から、どこの港を渡ったのか、図書館で調べたら、大湊→園湊というのが「大渡し」であることが分かった。この園湊は、どこだったのか?斐伊川河口部の南岸」というのが、どこを示しているのかよくわからないが、「園」という名前から、薗松山(そのまつやま)のたもとというか現在の長浜町辺りを比定する説もあるらしいが、確定された説と云うものがないようだ。

〝この湊原の対岸、斐伊川河口部の南岸には園湊がある。この両港は、足利尊氏の三隅尊氏誅伐のための兵糧の送り出しに重要な役割を果たしている。この両港を結ぶ渡し場は大渡しと言われていたようで、湊原(大湊)は石見部からの陸路の渡河点にもあたり、大社参詣の入り口としても重要な位置を占めていたことが推察される。(『国富郷土誌』 国富公民館発行)太字は、私)

現在の地名で、それらしいところはないか、調べると、「芦渡」という地名がある。古志本郷遺跡の近くで、神門川の河口の西側であった場所である。『出雲市地名考』という本で調べると、奈良時代は、「足幡」だった。ここも、正応元年には、神門郡であった。

〝芦渡(あしわた)──蘆渡──足幡
 奈良期の天平11年(七三九)『出雲国大税賑給歴名帳』(正倉院文書)に足幡里(あしわたのさと)とみえ、古志郷内の三里の一つであったと推定される。
 正応元年(一二八八)11月『将軍惟康王家政所下文』(小野文書)に「出雲國 神門郡薗、林木 地頭併同蘆渡郷内門田参町、屋敷壹所若□□□郎藏人人道法師跡」とみえる。〟(永田滋史 著 『出雲市地名考(下)』出雲市教育委員会 )

出雲大社の築造する木材を神門水海をはさんで出雲大社の対岸の吉栗山から調達したことが、『出雲風土記』に述べられているので、必要度から考えて、神門川がつながる古志の近くの芦渡にあっても良さそうに思う。次なる目的地「崎田といへる町」が、一説によれば多伎町の田儀ということなので、水上交通だけ考えると、美久我林のあるところ、薗松山の一番南側、現在の湖陵町辺りにあったほうが便利だ。
ただ、宍道湖の港のように、どこでも、船着き場になりそうな地形の湖であったと想定できるし、港も複数あったに違いない。

# by yuugurekaka | 2019-04-22 08:54 | 身逃げの神事 | Comments(0)


不思議なお祭りがある。その中の一つ「身逃げの神事(亦の名はみみげの神事)」だが、サイト「しまね観光ナビ」の説明をお借りすると、下記の通りである。

〝8月14日深夜(午前1時)境内の門はすべて開放され、禰宜(ねぎ)は本殿に参拝し、大国主命の御神幸(ごしんこう)にお供する。湊(みなと)社、赤人(あかひと)社に詣で、稲佐の浜の塩掻島(しおかきしま)で祭事を行い、国造館から本殿へ帰着する。この神事の途中、人に逢うと出直しをしなければならないため、町内の人々は早くから門戸を閉ざし、外出も避けている。〟(しまね観光ナビ 出雲大社の祭りより)

湊社 島根県出雲市大社町中荒木

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この祭事中、出雲国造は国造館を出て、留守にする。(昔は一族の家に泊まったそうである。)つまりは、国造の留守の間に、大国主命の神霊が、本殿より出でて、禰宜をお共に湊社、赤人社などに神幸するということである。

現在は禰宜が、お供をするが、もともとは、大社社家の上官の別火(べっか)氏であった。なぜに、湊社、赤人社の二社なのだろうと思うが、「この社の祭神は櫛八玉命で大社社家上官の別火氏の祖先神であり、この身逃げ神事を奉仕するのが本来別火氏であったのだから、この神事はもともと別火氏の祭りであったと思われる。湊社の次には赤人社を詣でるが、この祭神も別火氏の祖である。」(千家 尊統著 『出雲大社』 学生社発行より)※太字は私。

火切り臼と火切り杵で起こした火を別火といい、その別火食を管理したのが別火職であったが、別火氏の役割はそれだけではなかった。『懐橘談』(黒沢石斎著 江戸時代初期の地誌)にはこのように記述されていた。


〝七月四日は国造及神官等身退(みひく)の館に参籠して祭あり、 
 別火といふ祠官是は財氏なりと申す、
 物部十千根大連が後胤にや、
 今に至るまで守鑰の役なり、
 彼別火今宵神を負うて社の内外ありくと言ふ、
 信じがたき事なり、
 故に人恐れて門戸を閉ぢて今宵外に出でず、
 若し出て神に逢へば忽ち死すと云ひならはせり〟

「今に至るまで守鑰の役なり」、出雲大社の本殿の鍵を守る役である。「別火氏という祠官これは財氏なり」 別火というのは職名であると思われ、財氏である。「物部十千根大連が後胤だろうか」ということだが、出雲大社の本殿の鍵を管理して、なぜ物部十千根大連の末裔なのか間違いではないか?と最初は思ったが、『出雲風土記』の多久国に登場する、大国主命の御子でワカフツヌシ命といういかにも物部氏の名前の御子が浮かび、これはもしや、大国主命の末裔であり、かつ物部十千根命の末裔ということではなかろうかと思った。同族化の原理で、親戚筋になったということなんだと理解した。

あくまで「出雲VS大和」、「出雲族VS物部氏」の構図だけで、歴史や神社を説明する人が多いが、それは歴史の一断面で、むしろ同族化した歴史の方が長いのではないか。そのせいで祖変が起こったり、系図が複雑怪奇なものになっているように思う。

次になぜに物部十千根命が、膳(かしわで)の神、火切りの神である櫛八玉命と結びつくかの謎であるが、過去の記事で書いた通り、膳氏には物部系があり、『高橋氏文』(逸文)を見ると、むしろ、火切りの仕事は物部氏の専売特許のように思う。

『姓氏録』にも、膳氏の末裔 若桜部造物部 十千根命の子孫が存在する。

和泉国  神別 天神 若桜部造  造  饒速日命七世孫止智尼大連之後也  
止智尼大連は、物部 十千根命のこと


# by yuugurekaka | 2019-04-15 10:00 | 身逃げの神事 | Comments(0)

加藤義成氏の説「延喜式によれば、この売布神社は玉作湯神社と来待神社との間にあって、今の鏡あたりあったのをその辺から移されたものであろう。」(『出雲国風土記参究』)だが、根拠は書かれてはいなかった。延喜式の記載が、「玉作湯神社 同社坐韓国伊太氐神社 売布神社 来待神社」となっているため、来待と玉作湯神社のだいたいの中間の場所として、鏡あたりと書いたのかもしれないが、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)には、売布神社とのつながりがある伝承が多いことがわかる。もしかしたら、加藤氏はそういう伝承を知っていたかもしれない。

その鏡地区であるが、松江から西に車を走らせると、「宍道湖ふれあいパーク」(鳥ヶ崎)を右手に見てすぐの場所だった。下記の写真で言うと遠くにガソリンスタンドの赤いところが見えるが、そこから南に(山の方向に)向かった地域である。

鏡地区の前の海 
宍道湖ふれあいパークの西側から撮影する。宍道湖ふれあいパークの近くに現在でも船着き場があった。

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なぜに「鏡地区」と言うのか、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)によると、〝「須勢理媛」が夫の「大国主命」が「越の八口」を平定して帰るのを此地に出迎え、小川の水を鏡として身繕いをした場所として「向鏡」と呼んだ。少し東の橋のたもとで待ったが日が暮れた。柳井地区の「待ち暮れ橋」(日暮れ橋)と伝承する。〟となっている。

ここの「鏡地区」と「柳井地区」の間が、ちょうど旧宍道町と旧玉湯町の境界線だった。「向鏡」(むこかがみ)の場所だが、海岸沿いの鏡地区の東側のところだ。『きまち書留帳』には、町が違うので「柳井地区」のことはほとんど書かれていないが、「柳井地区」も含めた伝承地だったのかもしれない。


グーグルアースの地図

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さて、その売布神社の伝承である。『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)の抜粋だが、

1)〝勝部一族も、来待石加工に転向するまでは「瑪瑙細工」をしていたと推定できる。佐倉に越えるあたりに「細見地区」がある。「細工」を主としたが、需要もへり、「石工」となって山を降りたと考えられる。
玉神社がそうである。江戸中期の「雲陽誌」に記してある。「鏡神社」のことである。「櫛明玉命」を祭神とする。御神体ははない。本来は「玉」であったらしい。「瑪瑙の玉」だったらしい。近世末頃に盗難にあったらしい。地区の古老は次のように語る。「いま御神体は八寸ほどの鏡だが、本殿の床に切れ目を入れて「神玉」を盗んだ。昭和60年頃まで床の「切れ目跡」は地区の数人が確認した。松江の古物商に持ちこまれた「玉」に「キズ」があり売れなかった。盗人は神罰をおそれ、「売布神社」に奉納した。」という。〟

鏡神社 島根県松江市 宍道町東来待332番地

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2)〝「鏡神社の使」は「兎」であった。松江から来た「籠かき」が、畑に遊ぶ「白兎」を捕らえて帰ったが、奇異のことが続出するので、そして「兎は鏡神社の使」と聞き、急ぎ売布神社に奉納した。〟

3)〝和多見の商人が、お宮の姫さんを、さらって帰ったのは「三月三日」の雛の節句の日のことだった。〟※ 和多見は、現在の売布神社がある地域名。

4)〝「売布神社の御輿」は「鏡の者」がかつがんと遷宮にならんと和多見の古老は伝えた。〟

5)鏡神社の「宮司家遠藤家文書」によれば、〝元禄十一年(一六九八)の鏡神社棟札に「両社一宇」とある。〟〝「雲陽来待山王記録」では「相殿二伊綱権現ノ神体アリ、此神ハ元来下ノ谷二有シ由申傳ル、祭礼三月三日」と記されている。「遠藤氏」は「伊綱社」は「売布神社」の元宮の「口伝」ありとする。〟

以上は、鏡地区と売布神社のつながりを示す伝承である。それで、売布神社の元宮がどこだったか、例えば「向鏡」であったり、『きまち書留帳』には、様々な説が、書かれていた。


おそらく鎌倉時代には松江の円城山に移動していたと考えられるので、はるか昔の話である。どこにあったのかわからなくとも不思議はない。出雲臣の西進の事柄と同じように、神社だけではなく氏族ごと東遷し白潟の周辺の開発に従事したのではないかと想像する。


■参考文献 
『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)

『島津家久上京日記』に沿って、平田や大社町湊原の港神の話を書こうと思ったが、もはや「売布神社の東遷」とは話が違うので、続編として、出雲大社境外摂社・湊社の祭神のことを書こうと思う。


# by yuugurekaka | 2019-04-10 21:32 | 膳氏 | Comments(0)

今回のテーマである「売布神社の東遷」から少し外れて、現在の売布神社よりもさらに東の港の話になったが、ここで、元々の鎮座地であったであろう宍道湖西方向の話にもどる。

加藤義成氏の説では、「延喜式によれば、この売布神社は玉作湯神社と来待神社との間にあって、今の鏡あたりあったのをその辺から移されたものであろう。」(『出雲国風土記参究』)となっている。なぜ鏡あたりなのかは、後述するとして、港神の性格として、水辺の結節点にあったのはないかと想定されると思う。来待~玉作湯神社の間ということであれば、奈良時代の地名で言えば、拝志郷(はやしのさと)の水辺の近くと思われる。

それで、それらしいところはないか、考えてみるに、来待川の河口付近が頭に浮かぶ。しかし、それらしい神社の跡とか伝承がない。

来待川 下流付近

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■来海(きまち)

現在の地名は、「来待」(きまち)であるが、『和名類聚抄』(平安中期)では、郷名として「拝志」とは別に「來待」が見られるが、荘園の名前として「来海荘」があり、明治26年まで「来海村」だった。『出雲風土記』時代には、郷名としては存在しないが(拝志郷の一部だったと思われる)、神社名として「支麻知社」川名として「来待川」となっている。もともと「きまち」であったのは、まちがいない。なぜ、「海」となったかであるが、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)によると、3説あるようだが、「高木房市説」が興味深い。昭和12年の来待村報で高木村長が、大森の「オンべ」の下の「舟繋ぎ松」あたりまで海だった。「来海上り」と書いた荷物を積んだ唐船という帆船が往来し、荷札など畧記し「来海上り」とし、結果ここが「来海」になった説。

その「きまち」の由来であるが、『きまち書留帳』によると、(1)大物主命が猪谷で兄弟達が猪を追いだすのを「待った」という。「猪ダアー」と兄弟達が叫び、焼けた石を落とし、飛びついた命は「ヤケド」して頭の毛がなくなり、そのために「頭布」をかぶっているという。(2)大国主命は北陸遠征のとき「吾が御心波夜志(はやし)」といったのが拝志郷の起源で、妻の「須勢理媛」が、大国主命が「来る」のを待った」のが起源(3)「来待神社」は、大和の大神神社の神霊「大物主命」を勧請したという。神が「来る」のを「待った。」のが起源。(4)「神有月」に全国の神様が「来る」のを「待った」説。(5)後代の話であるが、「雲陽軍実記」などに、毛利軍が「木町」で灘手と山手に分かれ「月山」を目指した條がるそうで、実際来待の「長源寺」の灯篭に「木町谷」とあったようだ。

さて、来待川の上流の「来待神社 」を訪ねてみる。


来待神社  島根県松江市宍道町上来待241

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大森大明神や、三社大明神とも呼ばれた。右殿に五十猛命、中央に大物主櫛甕玉命、左殿に積羽八重事代主命であり、これが三社大明神の由縁のようだ。社伝によれば、崇神天皇の頃、大和國の大物主命勧請すとある。大物主命を三輪より来ますと人々が待ったから「来待」というに至ったという。他、事代主命がここに神社を建てられて、大物主命を大御和からお迎えしたという。

(現在は大物主命=大国主命の和魂となっているが、元々三輪山に祭られていたのは、大和の祖神たる自分自身の神霊ではなかったか。氏神から、事代主命を祖としない氏族も含めて大和の産土神に転化するために、「大物主命」という神霊が作られたのではないか?などとこの頃思う。)

この三神の取り合わせは何?紀氏の始原的祖ー五十猛命をなぜ祀るのか?あくまで想像だが、元々は、売布神社のように、五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命の三神だったのだろうか?
もしや、来待とは、紀(木)町=つまり紀氏が住んでいた所ではないのだろうか。町というのはこう漢字で書くと、近世から現代の言葉のように感じるが、古語辞典で調べると、一区画や市場の意味として出てくる。
その、紀氏の定義づけであるが、阿部氏と同様、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とする古代豪族である。紀氏の国造家としては、紀伊国が有名であるが、三国国造家をはじめとする蘇我氏などの北陸(いわゆる越の国)にも勢力をもっていた。

高群逸枝の紀伊国造家の分析だが、五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命の三神を奉祭する。
紀伊は古名を木、毛という。…中略…然し、道根命の事蹟は記紀いずれもこれを欠いており、記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖菟道彦」とあるのが最初の氏人であるが、二文、何れも国造祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。…中略…按ずるに、紀伊国造に二系あり、国造本紀記載の道根裔の国造は、式日前国懸二社を奉祭する後代の国造であって、本来の国造は、式名草郡伊太祁曾神社、大屋都比売神社、都麻都比売神社を奉祭する出雲族であったと思われる。〟(高群逸枝『母系制の研究』(上)講談社文庫より)(太字は私)

■ 拝志郷

ここ来待は、奈良の出雲風土記(733年)の時代、意宇郡拝志郷だった。

〝拝志郷(はやしごう)。郡家の正西二十一里二百十歩の所にある。所造天下大神命が、越の八口を平定しようとお出かけになったときに、ここの林が盛んに茂っていた。そのときおっしゃられたことには、「わたしの御心を引き立てるものである。」とおっしゃった。だから林という。〔神亀三年に字を拝志と改めた。〕この郷には正倉がある。

        

           (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


出雲風土記では、大国主命の「越の八口平定の話」と、木々の「林」と、「御心を引き立てる=はやす(栄やす)」の話がミックスされているが、元々は古代豪族の林氏の話であると思われる。
『出雲風土記』 意宇郡の群司に「主政外少初位上勲十二等 林臣 とあり、林氏の跡は意宇郡に確かに存在した。もしや、越の国から来た林氏の一族だったのだろうか?

その林氏の系譜だが、たとえば『姓氏録』に見られる皇別の林氏である。紀氏の一族である。

左京  皇別 林朝臣 朝臣 石川朝臣同祖武内宿祢之後也
河内国 皇別 林朝臣 朝臣 武内宿祢之後也


和名類聚抄』(平安中期)で同様な「はやしのごう」がどれくらいあるか、調べてみた。漢字は当て字なので、違う字もあるが、「はやし」ないし「はいし」と読ませるものをあげた。(抜けがあるかもしれない。)

かなりの数である。林氏は全国に分布し、有力な氏族であったと思われる。『出雲風土記』に描かれるいわゆる越の国(下線部)にも「拝師郷」はあった。


加賀国 石川郡拝師郷

越中国 礪波郡拝師郷

丹波国 天田郡拝師郷、何鹿郡拝師郷

丹後国 与謝郡拝師郷

備中国 浅口郡林郷、小田郡拝慈郷、英賀郡林郷

山城国 紀伊郡拝志郷、久世郡拝志郷

河内国 志紀郡拝志郷

尾張国 中島郡拝師郷

常陸国 茨城郡拝師郷

阿波国 阿波郡拝師郷

讃岐国 山田郡拝師郷

伊予國 越智郡拝志郷、浮穴郡拝志郷


膳氏が国造家であった若狭国に始まり北陸道の諸国は、孝元天皇の御子ー大彦命の末裔、その子孫の武内宿祢の末裔が国造家を務めた氏族が多い国々だった。ここ拝志郷は、その北陸道と関係が強い地域だったのかもしれない。


# by yuugurekaka | 2019-04-02 14:51 | 膳氏 | Comments(0)

大橋川の東の結節点をさらに東に行き 訪ねてみる。大橋川を東に出ると中海に到達する。
中海には、意宇川が流れている。当然ながら、意宇川の河口付近にも、中世には港があった。
中世の文書には、「八幡津」「ウマカタノ津」「アタカイノ津」といった港を表わす様々な津が載っている。

さまざまな名前なので、大きな港というより、複数の船着き場だったのかもしれないし、異名で同じ港であったかもしれないが、古代の中心地の玄関口な場所だけに、交通の要所として水運のための港が潤っていたはずである。

国土地理院地図でみる意宇川河口付近 
赤いペンで注目する場所に丸を書いた。揖屋干拓地もあり、河口部分は古代の地形とは違う。

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意宇川 下流付近

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■ 出雲江

出雲江と書いて「あだかえ」と読ませるのは、江戸時代の学者もすでに分からなくなっていたようで、『雲陽誌』では
〝出雲江 
【風土記】に伊弉奈枳乃麻奈古座とあり、俚民出雲里と書てあたかへと讀、或人のいはく加茂の競馬の事書たりし文を見るに、出雲江の馬一匹とあるをあたかへと假名付たりと語、しかれは中古よりいひならはせる事にや、出雲江にも阿太加夜の神社を勧請す、故に本名出雲江をいはすして阿太加夜といひけるにや、いまた詳ならず、猶博覧の人に尋へし、〟

出雲江を「あだかえ」と読む由来はわからずとも、意宇川下流に鎮座する阿太加夜神社が関係しているのはだれにもわかる。江戸時代には、芦高明神あるいは足高明神とも呼ばれた。『雲陽誌』は、神門郡多伎郷の多伎神社を勧請したものと決めつけている。しかし、勧請したものなら、普通「多吉社」を名乗るものだと思う。『出雲風土記』では多伎郷は「多吉社」で、ここの阿太加夜神社は既に「阿太加夜社」で載っている。
この阿太加夜社の祭神ー阿太加夜奴志多岐喜比賣命であるが、富家伝承本によると、宗像三女神の「多岐都比売命」で、阿太加夜社の辺りに姉の「多紀理毘売命」も前に住んでいた場所だったらしい。意宇川の下流にある港神として、古くから海運の女神を祭っていたものだろう。(詳しくは過去記事→ 天照らす高照姫命(3)出雲の起源 

意宇川を遡っていくと、令制国の国司が政務を執る国庁が置かれた国府につく、つまりは、意宇川流域は古代の出雲国の政治の中心地だった。

阿太加夜神社 島根県松江市東出雲町出雲郷588 
『出雲風土記』では「阿太加夜社」である。

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■ 出雲国守護

しかし、古代の中心地だけではなく、中世でも、意宇川流域が政治の中心地だった。出雲国の守護職の居城であった能義郡広瀬町の富田城(→ウィキぺディア 月山富田城  が一元的に、政治の中心地のように自分は思い込んでいたが、そうではなかった。戦国武将・尼子氏においては、富田城が軍事的拠点であったのは間違いないと思えるが、それよりも前は、どこに守護所があったのかよくわかっていないが、意宇川下流域ー竹矢郷付近に守護所があったのではないかと思える。

足利尊氏が全国に安国寺を建立するに際して、出雲国では、康永4年(1345)竹矢郷の円通寺が当てられ、安国寺に改称した。(この円通寺であるが、宝亀4年(773)光仁天皇の勅願によって出雲国分寺建立の30年後開山されたものであり元々古い。)松江藩3代目藩主京極忠高が、が父親である京極高次の菩提を弔うために建立した供養塔がある。

近世初頭の話であるが、時代をさかのぼると、佐々木文書では永正5年(1508年)守護・京極政経が安国寺で死亡したとされており、その父持清の墓もあるという。京極氏の「出雲国での菩提寺のようである。


出雲国安国寺 島根県松江市竹矢町993

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京極高次 宝篋印塔 
若狭国(福井県小浜市)藩主であった京極高次の菩提を弔うため、越前産の笏谷石(しゃくだにいし)で作られている。

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さて、この京極氏であるが、中世の出雲国においては、縁が深い。下記の出雲国の守護一覧を見れば、一目瞭然であるが、14世紀半ばの京極高氏に始まり、戦国時代の16世紀初めまで続く。
さらに、京極氏の同族である、佐々木氏、そこから出雲国に土着した塩冶氏、京極氏より別れた同族の尼子氏も含めると、鎌倉時代からほとんどが近江・佐々木氏の流れの守護だった。


出雲国 守護(→ ウィキペディア 出雲国 )より

鎌倉幕府               室町幕府  
1190年~1199年 - 安達親長      1336年~1341年 - 塩冶高貞  
【この間の守護職は不明】       1341年~1343年 - 山名時氏
1225年~1233年 - 佐々木義清     1343年~1349年 - 京極高氏
1233年~1248年 - 佐々木政義     1349年~1352年 - 山名時氏
1248年~1278年 - 佐々木泰清     1352年~1365年 - 京極高氏
1284年~1288年 - 塩冶頼泰      1365年~1366年 - ?
1303年~1326年 - 塩冶貞清      1366年~1368年 - 京極高氏 
1326年~1336年 - 塩冶高貞      1368年~1379年 - 京極高秀
                   1379年~1385年 - 山名義幸 
                   1385年~1391年 - 山名満幸
                   1391年~1392年 - ?
                   1392年~1401年 - 京極高詮
                   1401年~1413年 - 京極高光
                   1413年~1439年 - 京極持高
                   1439年~1441年 - 京極高数
                   1441年~1470年 - 京極持清
                   1470年~1471年 - 京極孫童子丸
                   1472年~1473年 - 京極乙童子丸
                   1473年~1508年 - 京極政経
                   1508年~15??年 - 京極吉童子丸
                   1551年~1560年 - 尼子晴久
                   1560年〜1566年 - 尼子義久   

■ 大彦の後也

この近江の佐々木氏であるが、近江国蒲生郡佐々木荘を発祥にした宇多源氏ー源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族とも云われ(→ウィキペディア 佐々木氏 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺に鎮座す沙沙貴神社が氏神である(→ ウィキペディア 沙沙貴神社 )社伝では、神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。


沙沙貴神社(ささきじんじゃ) 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1番

一座・少彦名命 - 祖神・産土神

二座・大彦命(大毘古神) - 古代沙沙貴山君の祖神・四道将軍

三座・仁徳天皇(大鷦鷯尊) - 沙沙貴にゆかりある祭神

四座・宇多天皇・敦実親王 - 宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖神


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By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link



『日本書紀』では孝元天皇段に、兄の第一の皇子・大彦命阿倍臣膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡て七族の始祖なりと、書かれている。いわゆる阿部氏の系統である。
出雲国との由縁がなぜ深いのか原因はわからないが、家臣の土着化も含めて、佐々木一族のもたらした影響は、神社仏閣に対しても少なからずあると思う。

■参考文献

長谷川博史 著『松江市ふるさと文庫15 中世水運と松江 城下町形成の前史を探る』松江市教育委員会

# by yuugurekaka | 2019-03-27 09:50 | 膳氏 | Comments(0)