1)尾張氏・物部氏 同祖
 
『海部氏勘注系図』(→ウィキペディア 海部氏系図 )や『先代旧事本紀』に見られる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命)、つまり尾張氏の祖である天火明命と物部氏の祖の饒速日尊が同じ神だということであるが、一見異伝のように感じるけれど、『古事記』『日本書紀』や『姓録』の底流に流れているのではないかと思う。

斎木雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話 (おおもと新書)』によれば、日向神話の海幸(火照命)・山幸(彦火火出見尊)、仲の悪い兄弟―尾張氏と物部氏を表現したものであるという。神武天皇の、諱は、彦火火出見である。本来尾張氏物部氏同祖で、尾張氏は、天火明命の天神であるが、物部氏(彦火火出見)との対比上、倭国造が地祇に位置づけられてしまったのではないかと自分は思う。

またの名天照国照彦天火明尊は、天神でありながらも地祇の祖という素戔嗚を表わしているものないかと思う。このあおりを受け、出雲族との密接度から紀氏の大元の系譜──、つまり天火明命→天香山命(天香語山命ともいう)という流れが、素戔嗚命→五十猛命という地祇系という別の表現を生じさせたのではないか。(天香山命の別名が、武位起命ータケイタテとなっており、五十猛、イタテ神とも考えられている。)

天香久山    藤原京の東に位置する天香久山(天香具山)。

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実際の所、尾張氏・物部氏同祖というのが本当の話なのか疑いを感じざるを得ないが、氏族間の取り決めというかそういうものがあったと思う。
 さて、出雲国造家の祭る神は天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。〟(『令義解』)であり、元々素戔嗚尊であった。出雲大社の祭神も、『先代旧事本紀』に「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)ということを考えると、当時の物部氏や出雲国造家にとっては、元々の構想として、大国主命ではなく素戔嗚尊であったのかもしれない。

ヤマタノオロチを切ったとされる十握剣が、物部氏の石上神宮に祭られており、ヤマタノオロチの体から出てきたとされる天叢雲剣(草薙剣とも言う)が尾張氏の熱田神宮に祭られているということから考えても、素戔嗚尊が、尾張氏と物部氏をつなぐ神として、創出されたのではないかと思う。

2)出雲国造神賀詞

まずは、ウィキペディアから引用する。
〝出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。

『延喜式』にその文章が記述され、『貞観儀式』に儀式の内容が記されているが、前者の文章は8世紀中期以後の内容であると推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。〟 

服属儀礼か? 復奏儀礼か?
奈良時代に、なぜに、弥生時代設定の国ゆずりの話を奏上しないといけないのかという、時代錯誤的なというかリアリティーの無いものをしないといけないのかという疑問が自分の中にある。それを服属だの復奏だのという前に、単なる儀礼としても、その時代の、必要性にかられてされたものであると思う。
まずは、前提として、氏族としての天神や地祇の設定を認めないといけない。また、アマテラス大神から派遣されてきた天穂日命の子孫であるところの出雲国造が、出雲族の祖先神を鎮め、都を防衛させますなどということを宣言しないといけない。それが、その当時どういう意味があったのか。

続きを書き加えていきます。

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# by yuugurekaka | 2018-10-13 00:45 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

1)壬申の乱 

いわゆる 672年に起こった皇位継承をめぐって起きた内乱である。 天智天皇の御子・大友皇子(弘文天皇)近江朝側)に、皇弟である大海人皇子(後の天武天皇)が反旗をひるがえし、皇族・豪族が二派に分れて戦った。その結果、大友皇子は敗北し自殺し、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。そして、この乱を境に天皇の神格化と律令体制の整備とが急速に進んだ。〟 (株式会社平凡社百科事典マイペディアより)と、されている。

壬申の乱に登場する豪族の主な武将たちであるが、以下に記す。なにぶん、当事者たちが、『日本書紀』の書かれる時代に存在した人たちなので、さしさわりがって、全てが本当ではないのかもしれない。

近江朝側の登場人物
中臣金石上麻呂(物部連麻呂蘇我臣赤兄、蘇我果安、書直薬、智尊、穂積臣百足、穂積五百枝、犬養連五十君、忍坂直大麿呂、谷直塩手、佐伯連男、壹岐史韓国、樟使主磐手、廬井造鯨、大野君果安、田辺小隅、山部王、境合部連薬、秦友足、社戸臣大口、土師連千嶋

大海人皇子側
大伴連吹負、大伴連馬来田、書首根麻呂、大伴連御行、栗隈王、美濃王、小子部連鉏鈎、三野王、秦造綱手、忌部首子人村国連依、土師連真敷、物部連雄君(朴井雄君)、稚桜部五百瀬、三輪君子首、三輪君高知麻呂、田中臣足麻呂、当麻公広嶋、鴨君蝦夷、紀臣阿閇麿、坂本臣財、坂田公雷、紀臣堅麻呂、星川臣麻呂、膳臣麿漏、当麻公広麻呂、布勢朝臣御主人(阿倍御主人尾張宿禰大隈尾張連馬身大分君稚臣、出雲狛

これを見ると、磯城王朝時代からの古い著名な豪族(大伴氏、三輪氏、鴨氏、阿倍氏、尾張氏、紀氏など)の大半が、大海人皇子側についているのがわかる。また、どの系統かわからぬが、出雲姓の出雲狛の名も見える。つまりは出雲姓の豪族が、出雲国ではない近畿にも分布していたのだ。

一番驚くのが、藤原律令体制の時代の一角を担う物部氏(石上氏)・中臣氏が、壬申の乱の負け組であることだ。天武朝で、壬申の乱の功臣の氏族が一時は出世するが、持統天皇時代から没落が始まり、それとは反対に、物部氏(石上氏)・中臣氏(藤原氏)が官僚の要職をしめる流れになっていく。

2)物部氏と中臣氏

改めて、飛鳥時代の物部守屋氏と中臣氏の軌跡を『日本書紀』から見ていくと、このコンビで、戦った内乱がもう一つある。丁未の乱(ていびのらん)である。仏教の礼拝を巡り、廃仏派である物部守屋・中臣勝海と祟仏派の蘇我馬子が対立していており、結果として厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族と蘇我氏を筆頭とする諸豪族が勝利し、物部氏はこれを契機に衰退したと言われる。

時代をさらにさかのぼると、仏教公伝の欽明天皇の時代に既に、物部尾輿(もののべ の おこし)は、中臣鎌子(藤原鎌足とは別人)と共に廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立している。

さて、丁未の乱における中臣勝海の動きであるが、ウィキペディアによると、次の通り。
排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舎人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。

この彦人皇子(→ ウィキペディア 押坂彦人大兄皇子 )であるが、敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫であり、息子である舒明天皇(田村皇子)から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)というように、中臣氏は、息長王家の皇統に寄り添っていく。

3) 天つ神と国つ神の分類

天神・地祇いわゆる、天つ神と国つ神であるが、中臣氏による大宝律令後の神祇革命―神道の国家的再編後に行われたのではないかと、私は思っている。天つ神と国つ神の分類は何によるものであろうか。たとえば、大辞林 』の書かれてある一般的な考え方である。

〝天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。 〔日本では、高天原(たかまのはら)に生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする〕〟(三省堂 『大辞林 第三版』)

仮に高天原をヤマトだとすると、三輪山の大神をはじめ、事代主命やアジスキタカヒコ命などを奉祭する氏族が、地祇系とされていて、所在地とは関係がないようだ。また、ヤマトの所在地自体の倭国造の祖が、そもそも地祇となっている。
天皇家に縁がある氏族が、天つ神かというと、そういうわけではない。『日本書紀』では、神武天皇の皇后が、事代主命の娘(媛蹈鞴五十鈴媛命)と書かれており、三代に渡り、事代主命系の皇后とされており、それも理由になっていない。
先住民族が国つ神で、後から来たのが天つ神という説も強いが、宇佐氏とか尾張氏など天つ神なので、これも一貫性がないように思う。
では、壬申の乱の大海人皇子側が、地祇系かというと、(大伴氏や忌部氏は、地祇系でもいいように思うが)、そうなってはいない。
さらに賀茂氏や紀氏においては、天神系と地祇系の二つが発生する事態にいたっている。より古い方が、地祇系であるという見方が、強いのであるが、本当にそうなのだろうか。

ばくぜんと出雲系が地祇であろうと思われている。天照大御神⇔素戔嗚命の陰陽対立から、高天原から追放された素戔嗚命の子孫の神々を地祇ととらえるのが、もっとも正しいような気がする。
素戔嗚命自体が、高天原から地上に降りた時点で、国つ神に転化したのなら話がわかる。
しかし、『令義解』(りょうのぎげ)(833年)の書物(→ウィキペディア 令義解 )には、〝天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。地祇者。大神。大倭。葛木ノ鴨。出雲大汝神等類是也。〟とあり、出雲国造斎神(素戔嗚命のこと)は天神出雲大汝神(大国主命のこと)は地祇となっている。それと、大倭であるが、倭国造の関連する社であると思われるが、倭国造の祖(椎根津彦)は、海部氏の系統と思われるが、記紀では、素戔嗚命の子孫だとは書かれていない。

大神神社(おおみわじんじゃ)拝殿    奈良県桜井市三輪1422 

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深堀すると、なぜ地祇なのか明確な基準がわからなくなってくる。
さて、メインテーマの「国譲り神話」に戻るが、視点を変えると、「出雲族の政治の舞台からの名誉ある引退」の話にも見える。──ここでは、出雲族に出雲国造家を入れると、話が見えなくなる。なぜならば、国譲りを迫る側が、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)では、出雲国造の祖「天夷鳥命(あめのひなどり」と物部氏の祖「布都怒志命(ふつぬし)」になっているからである。

また、この国譲りを迫る側が、『古事記』では、藤原氏の祖ー「建御雷神(たけみかづち)」「天鳥船神(あめのとりふね)」となっている。『日本書紀』では、物部氏の祖「經津主神(ふつぬし)」藤原氏の祖「武甕槌神(たけみかづち)」を加えて、事代主命への使者として熊野諸手船(くまののもろたふね)またの名は天鴿船(あまのはとふね)に使者の稻背脛神(いなせはぎ)ー出雲国造家の祖となっている。

三つの書物で、まとめると、本によってコンビは違うけれど、藤原氏・物部氏・出雲国造家の三者ということができる。戦後古代史家のいうように、作り話と言えば、身も蓋もないが、この氏族の構造から、出雲国造家もヤマト中央につながって、壬申の乱やその後の持統体制に向けて、中臣氏(藤原氏)や石上氏(物部氏)と連携した働きをしたのではないかと想像してしまう。出雲国造家が、中臣氏・石上氏の命を受けて働いたという確たる文書など存在しないが、そう感じてしまう。

地祇の出雲族の名誉ある政治的引退であるが、政治的引退を迫られるのは、国譲りを推し進めた側の天津神も結局は同じことで、国造から国司へとの転換という大宝律令体制の宿命から、出雲国造家自体も政治的実権を失うこととなる。祭政分離政策の一環として、神社の宮司家になっていく、または社家になる、という国家的な再編成が行なわれたのではないかと思われる。

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# by yuugurekaka | 2018-10-05 11:09 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

『先代旧事本紀』の巻十国造本紀では、出雲国造の起源について以下のように記載されている。

出雲国造
崇神朝の御世に、天穂日命の十一世孫の宇迦都久努を国造に定められた。

それと符合する起源話が、『日本書紀』 崇神紀の60年の記事にある。いわゆる「出雲神宝検校」の話である。その伝承地の一つが出雲市大津町止屋の淵であるが(詳しくは過去記事→ 出雲国造の系譜の謎(2) )、雲南市加茂町神原神社の周りも伝承地の一つであることを、『雲陽誌』(1717年)で、知った。

ここ加茂町の神原は、『出雲風土記』には地名起源として、「所造天下大神(大国主命)の神宝を積み置かれたところ」と、述べられている。

神原かんばらごう
郡家ぐうけ正北九里   りの所にある。古老が伝えて言うには、所造あめのした天下つくらしし大神おおかみが、かみの御財みたからを積み置かれたところである。それでかんたから郷というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである。”(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

ここの宝は、昨今、加茂岩倉遺跡の事ではないかという話も多いが、加茂岩倉遺跡は、仮にそこが神原郷であったのならかなり北の方である。


赤川 島根県雲南市加茂町神原 

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1)雲陽誌

『雲陽誌』は、まず『出雲風土記』を抜粋したうえで、神原神社の神寶明神を説明した後、『日本書紀』崇神紀と垂仁紀に見られる「出雲神宝検校」を記載する。矢口大明神などの神社仏閣等を説明した後、神原の地を説明する。ここの地も往古は、八百万の神迎祭をしていたらしく、神々は、佐陀の社へいくことが書かれていた。

川  大東加茂より流て簸の川に入、
土手 上神原より下神原の間千四百間あり、此土手下を昔止屋の淵といふ、松井淵ともいふ、里俗つたふる、
   歌
   八雲路や松井の水の清けれは
     八百萬代の神は御手洗水(みたらし)
兄塚 振根の墓なり、塚頭古木あり、
すくも塚 入根の墓なり、松の老樹あり、
大舎押 神腹の中の高山なり、古振根隠たるところなり、

『雲陽誌』に書かれたこの地の伝承をどうみるかであるが、
①『日本書紀』の「出雲神宝検校」問題につながる元々の伝承が、神原の地にあった。
②『日本書紀』の記事と『出雲風土記』の記事から、後に「出雲神宝検校」伝承地とされた。
③「出雲神宝検校」とは関係ないが、『日本書紀』の記事につながる別の伝承地であった。
の3説が浮かぶ。
①の見方が最も素直な見方であるが、自分は、初め②であった。しかし、いろいろと考察しはじめると、③ではないかと思い始めた。

2)神原神社古墳

古墳とか遺跡から古代史を考えることが、科学的で実証的とされるが、公共工事でたまたま見つかった遺跡だけでストーリーを考えるには、資料が足りないのではないかと自分は思っている。例えば、近年島根県では荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡、田和山古墳、隣県での妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡など、びっくりするような遺跡が発見されているが、まだまだ、どこかに重要な遺跡が埋まっているのではないかと思う。

神原神社古墳は、赤川左岸の河岸段丘上に立つ神原神社の本殿下にあった。赤川の堤防の拡幅等の河川改修工事が行うために、1972(昭和47)
年に発掘調査され、「景初三年」(239年)の紀年銘を持つ三角縁四神四獣鏡(→ウィキペディア 三角縁神獣鏡 )や鉄製素環頭大刀などが出土した。「景初三年」という魏の年号が記された鏡は、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳で出土した物の2面しか発見されていない。

折しも、崇神紀の出雲神宝検校の話で強調される「鏡」が発見されたわけである。

「玉菨鎮石(たまものしづし) 出雲人(いづもひとの)祭(いのりまつ)る 真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ) 押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主」
現代語訳 水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。(『日本書記(上)』 宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より)

なんだか、まだ神宝の鏡が、赤川の水底にまだ埋まっているかのような感じのする話だ。
なお、この近くでは、神原正面北遺跡群 (方墳14基以上)、土井・砂遺跡(方墳6基)のように、もっとも古い方墳が多く発見されている。

神原神社古墳  
神原神社の東側に復元されている竪穴式石室。前期古墳で、周溝を加えた 35m× 30mの南北に長い方形墳であった。

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富家伝承(大元出版『出雲と蘇我王国』『古事記の編集室』など)には、神原古墳は、武内宿祢の墓と書かれている。武内宿祢と見て、頭が混乱してしまった。武内宿祢は、記紀では景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の時代に登場、『水鏡』では仁徳天皇55年に280歳で死去などと書かれ、実在性が疑われる人物とされる。

しかし、富家伝承本によると、武内宿祢とは家柄の名前であり、武内大田根(初代?)武内ソツ彦、武内ツク・・・という代々の武内宿祢の個人名を省いたとしている。武内宿祢の後継する氏族が、古代官僚の名家(紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など)ばかりなので、武内宿祢を伝説化する必要があったのか、あるいはまた別の意図があったのかわからない。

さて、ここに登場する武内大田根であるが、景行天皇の時代の人では無くて、垂仁天皇の時代の人で、九州から大和に攻め上がる物部王家の側についていたが、大和の磯城王家側に寝返った人物として書かれ、物部氏の追撃を逃げて、東出雲王家の富家をたより、因幡を通り、出雲国に逃げて、出雲国で一生を終えたという。『古事記』では、孝元天皇皇子の彦太忍信命と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたとされるので、垂仁天皇時代でちょうど良いのかもしれない。

さらに腹違いの弟、甘美内宿祢(うましうちのすくね)が、山城国宇治から神原の東に移り住んで、ここの地名が「宇治」となったという。
(甘美内宿禰は、内臣の先祖とされ、この「ウチ」とは山城国綴喜郡有智郷とされている。→ ウィキペディア 甘美内宿禰 

この甘美内宿禰との関わりであるが、『日本書紀』では、応神天皇の時代に登場し、またいつの時代の話か混乱する。ただ、『日本書紀』に書かれたことが真実だと疑わない思考だと、富家伝承のストーリーがなかなか頭に入らない。
この『日本書紀』のストーリーであるが、少し、「出雲神宝」の話にちょっと似ている。武内宿祢が、筑紫国に派遣されている間、甘美内宿禰が天皇に讒言する。天皇は武内宿祢の弁明を受けて、磯城(しき)川のほとりで、探湯(くかだち)ー呪術的な裁判法でうけいの一つを行い、勝った武内宿祢が甘美内宿禰を殺そうとする。天皇に許されて甘美内宿禰は死なず、紀直らの隸民になるという話である。

出雲神宝問題にでてくる、丹波の氷香戸辺が話す言葉の歌「真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)」「甘美御神」に強調される「甘美」(うまし)であるが、当然、出雲臣の「甘美韓日狹(うましからひさ)」を暗にたたえる意味合いのように思えるが、富家伝承と神原神社古墳のことを前提に想像すると、鏡を持ち込んだの武日照命ではなくて、武内宿祢の弟の甘美内宿祢で、そういう伝承が、出雲神宝問題の創作につながったのではないのだろうかとも思える。

3)出雲臣 三系

戦後の古代史家でも、出雲臣家の兄弟の話と考える人は少なかったようで、井上光貞氏のように、東出雲の意宇勢力と西出雲の杵築勢力の二系の話である。
また、水野 祐氏の場合は、出雲神宝の話から、出雲臣家の系譜を三つの系列を見る。『水泳御魂考』(大和書房発行『古代出雲と大和』所収)に、以下のような表が載っていた。(本では、縦書き)

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根拠は、日本書紀の記事と代表人名の漢字のことぐらいしか、記述してなかった。

富家伝承では、以下のようになっている。ちなみに『姓氏録』では、土師氏の系譜(土師氏・菅原氏・秋篠氏・大枝氏)は、全て飯入根を祖としている。

出雲振根      神門臣家    大国主命(八千矛)の系統  西出雲王家 
飯入根       向家(富家)  事代主命の系統       東出雲王家 
甘美韓日狹・鸕濡渟 出雲国造家   天穂日命・武夷鳥命の系統 

改めて、「国譲り神話」を読んでみると、お隠れになる神が三神出てくる。大国主命、事代主命、天若日子である。
考えてみるに、大国主命と事代主命がお隠れになるというのは、出雲臣を始祖天穂日命 一系のみにするという、そういう隠喩ではなかったのかなどと思ったりする。それと、この天若日子であるが、富家伝承本『古事記の編集室』では、武内宿祢をモデルとしたものではないかと書かれてあったが、自分には、天火明命をモデルとしているのではないかと思える。

『先代旧事本紀』『海部氏勘注系図』にあって、記紀神話に無いもの、ー天火明命は、事代主命の妹 高照姫命と婚姻しー、『播磨風土記』『丹後風土記』にあって、記紀神話に無いもの、天火明命はオオナムチの息子ーそういう、天火明命が出雲族と婚姻関係を結び国王になろうとした伝承を記紀では書かなかったという暗号のようなものではなかったのだろうか…。



日本書記  巻五 崇神天皇  抜粋 
 
六十年秋七月十四日、群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)の、天から持ってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」と
いわれた。 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の先祖の武諸隅(たけものろすみ)を遣わして奉らせた。

このとき出雲臣の先祖の出雲振根(いずもふるね)が神宝を管理していた。しかし筑紫国(つくしのくに)に行っていたので会えなかった。
その弟の飯入根(いい入りね)が皇命を承り、弟の甘美韓日狹(うましからひさ)子の鸕濡渟(うかづくぬ)とに持たせて奉った。

出雲振根(いずものふるね)が筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差し出したということを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めて、「数日待つべきであった。
何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と。
これから 何年か経ったが、なお恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思った。

それで弟を欺いて、「この頃、止屋(やむや)の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」と言った。弟は兄について行った。
これより先、兄は密かに木刀を造っていた。形は本当の太刀に似ていた。
それを自分で差していた。弟は本物の刀を差していた。淵のそばに行って兄が弟にいった。
「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」 と。
弟は兄の言葉に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端におき水にはいった。後からの弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合うことになったが、
弟は木刀抜くことができなかった。兄は弟の 飯入根(いい入りね)を斬り殺した。時の人は歌に詠んで言った。

ヤクモタツ、イズモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサハマキ、サミナシニ、アハレ。出雲健(いずもたける)が 侃(は)いていた太刀は、 葛(つづら)を沢山巻いて
あったが、中身がなくて気の毒であった。 ここに甘美韓日狹(うましからひさ)・鸕濡渟(うかづくぬ)は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。そこで吉備津彦と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを遣わして、出雲振根を殺させた。出雲臣等はこの事を恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。丹波の氷上の人で名は氷香戸辺が、皇太子活目尊に申し上げて、
「私のところの小さなこどもが、ひとりで歌っています。水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。これはこどもの言葉のようではありません。あるいは神が取り憑いて言うのかもしれません」といった。そこで皇太子は天皇に申し上げられた。天皇は勅して鏡を祭らせなさった。 — 後略 —      
                               日本書記(上)  宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より


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# by yuugurekaka | 2018-09-30 08:28 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

当然ながら、『古事記』や『日本書紀』がそのまま史実ではない。
様々な氏族伝承史実創作(作り話)が、混じり合った書物であろうかと思う。神話の部分だけが、創作や伝承だけではなく、一見そのようなことがあったと思える新しい時代(天武天皇時代)にも、創作というかなんらかの演出がほどこされているのではないかと感じる。
また、神話については、陰陽学的視点ばかりではなく、なんらかの史実の隠喩が含まれているのではないかという気がする。
「国譲り神話」も、史実では無く、だが、それを国譲り神話が表わす意味が何を示すか、あるいはいつの時代のことを投影しているか、学者によって、さまざまな見立てがある。

1) 井上光貞説

例えば、いまだに古代史界に底流が流れていると思われる井上光貞説である。
『大化改新』(1954年 要書房発行。補訂版1970年 弘文堂書房発行)の抜粋であるが、
“出雲には幾つかの文化地帯があるらしく、特に、上流に熊野神社をもつ意宇川流域一帯と、下流に杵築大社のある簸川流域一帯とは、古墳の分布状態(斎藤忠氏の古墳地名表では前の地帯に三十一、後の地帯に六、また島根半島に十一の古墳をあげている)、古代神社の分布密度(風土記、神明帳)からみて、特にきわだっているのであって”として、
出雲国に「オウ」の勢力と「キヅキ」の勢力が存在するとした上で、
“神代の出雲平定の物語と崇神朝の出雲神宝の物語とは杵築大社の方のキズキの地方を舞台にし、オウとはほとんど関係が無い。”と、国譲り神話の場所がキヅキの場所であり、平定する側の神々が、オウの勢力がであると示す。ただ、“クマノ(熊野)のモロタ船に関係のあるコトシロヌシのあるところあるところは気になるところであるが、”として、熊野に関係のある事代主命は、平定される側の神であるという矛盾も書かれている。

そして、“出雲平定とはキズキの平定のことであることがわかる。これに反しオウの勢力は、大和朝廷の側にたっており、またこの氏が国造となったようである。”となる。ゆえに、日本(和)国の国譲りでは無くて、ヤマト王権の力を借りて出雲国内部のキズキ勢力をオウ勢力が押さえたという話となる。
結論として“大和朝廷による出雲の征服とは出雲一帯を支配した支配したキズキの勢力との戦いで、そのさいオウの出雲氏は朝廷に加担し、その結果、国造に任じられたものであること、その征服は武力を伴なうと共に祭祀権の収奪でもあったこと、征服とは土着社会の秩序を破壊することではなくて、在来の身分関係を保存しつつその秩序のまま部制に再編するものであったことなどである。”

それで、この国譲りの話がいつの時代のことを投影したものかについては、弥生時代などという学者はほとんどいない。井上光貞氏は、“征定の事実を六世紀に近いころとみているのである。” 
まあ、新しい時代の話である。通説ではヤマト王権の成立が、概ね4世紀ごろの話なので、譲るべきヤマト王権が存在しないので、そういう論法になるのかもしれない。

井上氏のこの説は、古墳時代後期の出雲東部と西部の古墳の形状や環頭太刀の違いから、西部は物部氏、東部は蘇我氏と結びつき、物部氏の没落に伴って、東部の出雲氏が出雲国を統一するにいたったというような通説の、バックボーンとして生きているように思われる。


礫島(つぶてじま)
稲佐の浜から、日御碕に向かう途中に見える島。出雲風土記で、「黒島」に比定される島。
稲佐の浜で力比べをした高天原のタケミカズチとタケミナカタ神が、大きな岩をどこまで飛ばせるか力比べをして、大岩が重なり合ったできた島と伝えられている。
中央の大きな岩は、高さが15m近くあり、周りの丸石も、直系5mあるそうだ。
何か祭祀遺跡のようにも見える。

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2) 上山春平 

『古事記』『日本書紀』に対する藤原不比等加担説は、だれが言い出したのかを調べていくと、上山春平著『神々の体系』(中公新書)に行き着く。時の右大臣 藤原不比等に記紀編纂の主導権があり、藤原氏の政治の武器として、編纂されるのは当然のことと思われる。
──そういう趣旨から考えると、『出雲風土記』も、出雲国造廣島の政治的な意図が反映するのは当然であり、在地の素朴な神話が、中立的に書かれたと考える方が不自然である。

上山春平氏は、古事記の神統譜が、対照的な構成(高天原系と根の国系)(イザナギとイザナミ)(アマテラスとスサノオ)等となっており、さらに両系未分のアメノミナカヌシから出発し、高天原系と根の国系に分かれ、最終的にイワレヒコへの統合される(中つ国の主)(オオクニヌシ→ニニギ→)という論理となっていることを述べている。

その上で、藤原氏の歴史的役割を、“記紀の完成(『古事記』は七一二年、『書紀』は七二○年)にわずかに先行する大宝律令の完成(七○一年)と平城京の完成(七一○年)が、律令国家の本格的活動を展開するために必要な舞台であった。そして、その律令国家の設計にあたった官僚グループの中心にあったのが、藤原鎌足・不比等父子であり、鎌足は大化の改新によって律令国家建設の地ならしをし、大宝律令の実質的な編纂主任の役割をはたすと同時に、平城遷都の主たる推進力となった不比等は、律令国家の運営をはじめて軌道にのせたのである。”(上山春平著『神々の体系』中公新書)と、位置づけると同時に、

“天武・持統”に極まる皇権回復の試みも、天皇家をふくむ旧来の豪族たちの伝統的な富と力の基盤を掘りくずす効果をもつ律令制を確立させる方向に作用し、少なくとも結果的に見れば、鎌足・不比等以来、律令制の推進力となった新興の藤原氏(記紀の記述をそのまま受けいれる立場からみれば、藤原氏の前身たる中臣氏は古来からの名門豪族のようにみえるが、記紀の制作主体として藤原不比等を想定する私の見地からすれば、記紀制作の一つの重要なねらいが、大伴や物部等の名門とは比較にならぬ新興のみすぼらしい家柄にメーキャップをほどこす点にあったのではないか、という疑いが濃厚であり、後にその根拠を示したいと思う)の独占的な実権掌握への動きを促進したかっこうになっており”上山春平著『神々の体系』中公新書)と、結果的な側面を述べる。

記紀を通じて、神祇体系を再編、大宝律令の神祇官ー中臣氏、太政官ー藤原氏の二本立て構想を実現していくになる。


藤原京 694年(持統8年)~710年(和銅3年)の16年間、初めて都城制を敷いた都である。

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さて、問題の「国譲り神話」の見立てであるが、

“天上の神が地上の天皇に化肉する「現神」成立の秘密を解き明かす、持統および元明と不比等との協力体制にとって必要となった女帝から孫へという前例のない皇位継承の祖形を提示する意味を持った。”(上山春平著『続 神々の体系』中公新書)※太字は私。

“「国譲り」の場面で活躍する藤原氏の氏神タケミカヅチ(文献にタケミカヅチが藤原氏の氏神としてあらわれるのは、八世紀後半であるが…省略)は、大化クーデターで活躍した鎌足の投影として、「岩戸がくれ」や「天孫降臨」の場面で神事にゆかりのある神々と共に活躍する中臣氏の祖神アメノコヤネは、神職を本来の氏の職業とする中臣氏の投影としてとらえることができる。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)

“タカマノハラ系の神々にたいするネノクニ系の神々の「国ゆずり」の話に、大化の改新を転機とする神祇体系の根本的な変革の事実が投影されているのではないか、という点である。氏姓制の原理が律令制の原理に置き換えられてゆく過程で、氏姓制のもとで優位にあった神々は、律令制にふさわしい新たな神々に優位を奪われ、自らは劣位に甘んずるほかはなかったに違いない。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)

それで、この氏姓制のもとで優位にあった例として葛城の神々、高鴨のアジスキタカヒコと下鴨のコトシロヌシが述べられ、ネノクニ系のオオクニヌシの子神にされ、ネノクニ系に組み入れられてしまったと述べている。
納得できる面もかなりあるが、その論点からは、私は海部氏ー尾張氏は、微妙な位置にあるのではないかという思いが浮かんだ。葛城の神々と同様、大和の先住氏族であるからである。
籠神社で見た亀に乗った像があったが、神知津彦命は、天火明命の子孫となっているので、天神の系譜だが、やはり地祇となっている。
「大和国 神別 地祇 大和宿祢 出自神知津彦命也」
また、その逆で、
「大和国 神別 天神 飛鳥直 天事代主命之後也」
の系譜も姓氏録に見られる。記紀に国譲り神話と矛盾した記述もあるがゆえ、地祇の位置づけに反対したのかもしれない。

葛城の神々と出雲国との関係については、上山氏は神祇体系の再編で関連付けられたとしている。
“三輪山の神と同様な運命をたどった大和の名神たちのうちで、とくに注目に値するのは、葛城山麓を拠点とする古来の名族たちによって斎き祭られた高鴨のアヂスキタカヒコネと下鴨のコトシロヌシである。この二柱の神々は、オホクニヌシの子神として系譜づけられ、あたかもその本拠が「根の国系」のふるさとである出雲であったごとくに記紀の神代巻きに書かれている。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)※太字は私。

そういう話は、戦後の著名な古代史家に言われ続けているので、あらためて、びっくりしないが、
出雲大社の創建というのが、上山氏の言うような律令体制の構築・神祇体系の根本的な変革と大きく関係していたのではないかと思う。

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# by yuugurekaka | 2018-09-18 23:58 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

子どもの頃から出雲大社に初詣に行っていたが、
弥生時代に国譲りのような事件があったのだろうなということを長い間信じていた。
仮に作り話であったにせよ、先住民族として出雲族というものが、国造りをしてきたということを表しているんだなあと思っていた。

──その、「出雲族」であるが説明するのが、結構難しい。
出雲国に住んでいる氏族かというと、そうではない。出雲族は京都や奈良や関東や九州にも分布していた。例えば、『新撰姓氏録』(815年)に見られる京都の出雲氏である。全て天孫の天穂日命の子孫と書かれている。

左京  神別 天孫 出雲宿祢  天穂日命天夷鳥命之後也
左京  神別 天孫 出雲     天穂日命五世孫久志和都命之後也
右京  神別 天孫 出雲臣   天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也  
右京  神別 天孫 神門臣   同上
山城国 神別 天孫 出雲臣  同神子天日名鳥命之後也  
山城国 神別 天孫 出雲臣  同天穂日命之後也。

写真は京都の賀茂川。京都の賀茂川の西側には、平安時代出雲臣が分布したであろう。

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出雲の神ー大国主命や事代主命の子孫の氏族として説明するのが一番良いと思えるが、上記のように、出雲国には、天穂日命の子孫はいても大国主命や事代主命の子孫はいないとされている。
だが、大和には居た。『新撰姓氏録』には、大国主命や事代主命の子孫を標榜する氏族が記述されている。

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也 
地祇  和仁古    大国主六世孫阿太賀田須命之後也  
地祇  長柄首    天乃八重事代主神之後也

長柄神社(ながらじんじゃ)本殿  奈良県御所市名柄271
現在の祭神は、下照姫命 である。

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出雲国に大国主命や事代主命の子孫がいなくて、大和国に子孫がいるとはいかなることか。

『日本書紀』の記載では、国譲りの後の神武天皇の東征の後、事代主命の娘が皇后となり、事代主命の子孫が代々の天皇の皇后となっていく記述がある。こういうことを考えると、出雲VS大和の構図がそもそもどうなのか、疑問が出てくる。

だから、出雲国は大和の北西(黄泉の国)に位置したので、たまたま神話の舞台に選ばれたに過ぎないという説が有力であった。
あんな田舎の場所で、大型の古墳も発見されないような場所に、王朝があるはずがないというのが、戦後の定説である。


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# by yuugurekaka | 2018-09-07 23:53 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(2)

■上宮太子の御子 

富家伝承の本を読んでいるが、書いてあることの奇抜さに驚かせられる。それで、本当だろうか?と疑ってしまう。それで、すぐ検証してみたくなり、他の書物を読んでみる。いや「検証」などと言う事は、博学のもののいうことであり、浅学の私にとっては、まず、いろいろな書物を読んで、富家伝承本の登場人物をまず一人一人を調べ、通説を確認していくという基礎知識が必要になってくる。その繰り返しでこの3年間過ぎたような気がする。

「日置氏の足跡」のテーマも、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)を読んで思いついた。富家伝承本『出雲と蘇我王国』(大元出版)では、日置氏はヤマト王権の実権を握る蘇我王家の命を受けて、蘇我氏の親戚である出雲王家(富家、神門臣家)の古墳造りに派遣されたように書かれていた。

しかし、『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)では、上宮王家の二人の御子(日置王、財王)が、皇位継承問題の激化を避けるため、推古天皇より上宮王家を分散するために、出雲国に派遣されたという話となっている。ちなみに山背大兄王一族の危機であるが、記紀では、蘇我氏の横暴から山背大兄王一族の滅亡となっているが、富家伝承では、息長氏王家VS石川氏王家の対立(中大兄王VS山背大兄王)の中で、蘇我氏ではなく息長氏王家側の中臣鎌子(後の藤原鎌足)手を下したとしている。

上宮太子は、通説的には聖徳太子の異称とされてるが、『日本書紀』では、聖徳太子として事績が伝説化されており、古代史の世界では聖徳太子不存在説も言われている。富家伝承本でも、上宮太子は実在する人物だが、聖徳太子は、架空の人物であり、“仏教界で「日本仏教の開祖」として作り上げた菩薩の名”としている。

唐本御影(とうほん みえい)より聖徳太子と二王子像。右の人物が山背大兄王とされている。

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    By 不明 - Japanese Painting Anthlogy, ed.et publ. by SINBI-SHOIN, TOKYO, 1941, パブリック・ドメイン, Link 


■推古天皇の娘ー菟道貝蛸皇女

『上宮聖徳法王帝説』によれば、「日置王」「財王」は山背大兄王と同じく、蘇我馬子の娘ー刀自古郎女を母として山背王・財王置王片岡女王の四人の御子となっている。(→ ウィキペディア 山背大兄王 
ちなみに、妃・橘大郎女には、白髪部王・手島女王の御子、妃・膳大郎女には舂米女王・長谷王(泊瀬仲王)・久波太女王・波止利女王・三枝王・伊止志古王・麻呂古王馬屋古女王がいることになっている。

しかし、『日本書紀』では敏達天皇と推古天皇の皇女ー菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)が、「東宮聖德」に嫁いだとある。富家伝承系図では、日置王」「財王」の母は、この貝蛸皇女で、「山背大兄王」「片岡女王」は、石川刀自古姫の御子となっている。(蘇我氏は、登場せず、石川臣の系譜となっている。)

さて、なぜ「日置王」「財王」という名称なのかという疑問がでてきた。たとえば、「財王」(たからのみこ)であるが、皇極・斉明天皇も宝女王(たからのひめみこ)とも云われる。また、反正天皇や仁賢天皇の皇女にも宝(財)の名が見られる。皇子女の宮の名称で、いわゆる御名代部であったと思われる。付随して、財日奉部(たからひまつりべ)という集団が存在する。財部の中で、太陽祭祀に従事した集団であったのかもしれない。

財部などは、王族によって、継承ー相続されてきた私有民達であり、あるいはそこで養育されてきたのかもしれない。
ウィキペディアによると、部民制は、“職業を軸とした職業部と、所属対象を軸とした豪族部および子代・御名代の2つのグループに分かれる。”
日置部は、一般的には職業部と考えられているが、これもまた皇子宮の御名代部であったのかもしれない。

そして、この子代(こしろ)・御名代(みなしろ)は、ウィキペディアでは、王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例がある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。”と、ある。「改新の詔」で廃止されるまで続いたとされるが、人だけ奉仕しても成り立たぬ気がする。付随して屯倉(みやけ)という直轄地が地方にもたくさんあったのではないか?

額田部皇女 推古天皇

日本書紀』敏達天皇の項で、「6年(577)2月条に詔して日祀部(ひまつりべ)、私部(きさいべ)を置く」の記事がある。私部とは、皇后の私有部民であって、つまり、ここでの皇后は推古天皇であり、推古天皇が皇后として、日奉部を領有していたことを示しているのだろうか。また、私部は、並立的に日奉部とは別個に皇后の職務をたすける部があったのだろうか。

仏教の伝来と共に習合が進んでいく片方で、太陽祭祀として神道が純化する流れもあったのではないか。
推古女帝というところから、太陽祭祀ー巫女として、天照大御神が皇祖神として体系化される出発点でもあったのか?

推古天皇の諱(いみな)は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)である。御名代部としての額田部で養育されて、またその額田部の屯倉や部民を相続、領有していたのかもしれない。出雲国でも額田部氏の分布があるので、出雲国でも部民や屯倉が設定されていたのか?
ウィキぺディアによると、“額田部のルーツは応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)の名代であるとも、田部の一種であるとも、554年(欽明天皇15年)に誕生した額田部皇女(のちの推古天皇)の資養や王宮の運営の基盤であるとも言われているが、部民制は5世紀後半、雄略天皇の時代に施行されたと言われており、また大和政権と出雲東部の勢力情況からして、5世紀のものとは想定しにくいため、後者が有力な説である。” 

ところで、日置部は何か。日奉部とどういう関係があるか、さっぱりわからない。たとえば、日招きや宮廷の日読(かよみ)をつかさどるものとする説・卜占暦法を主とし太陽祭祀に従事する者という説があるが、『日本書紀』推古天皇 10年10月の記事に「冬10月に、百済の僧 観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、并て遁甲方術の書を貢る。是の時に、書生34人を選びて、観勒に学び習はしむ。陽胡史の祖玉陳、歴法を習ふ。大友村主高聡、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ。」(岩波文庫より)とある。暦を作る職務ということなら、何か日置部の関連ありそうなことが書かれていてもよさそうな気がするが、何もない。
なにか特定の職務というより、御名代部として存在していたと考える方が、わかりやすいように思う。

■富家伝承  日置王額田部財王

日御碕神社 上社  島根県出雲市大社町日御碕455

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以下は、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)の抜粋である。

“皇后は貝蛸皇女を生んだが、後者に額田部と日奉部を与えた。”
“推古女帝は、「寺から夕日を拝めるように、鳥居を建てよ。寺は西向きに造れ」と指定した。夕日を拝むのは、炊屋姫の出身・額田家の信仰であり、その日奉部の仕事でもあった。”(四天王寺の鳥居)
貝蛸皇女から日奉王には日奉部の領地が与えられ、額田部財王には額田部の領地が相続されていた。
“その政所では、欽明帝の指示により、日置氏が神門臣家の古墳を造り続けた。日奉王の時期には、すでに大念寺古墳などが造られていた。”

日置王ではなく、なぜ日奉王?と思ったら、

“日置氏は朝鮮系の氏族であった。日奉部は敏達天皇が設置した。その日奉部を炊屋姫から受け継いで、日奉王となった。しかし都では息長系の勢力が強くなったから、その迫害をさけるため日置氏の名前を継いだ。さらに日置王は祖母の推古女帝の希望に基づき、日御碕神社を建てる仕事に専念した。

アメノヒボコ・神功皇后を祖とする息長王家と石川臣家(『日本書紀』では蘇我氏)の緊張関係の中で、日奉部→日置部に名称変更になったような話である。
日置氏の起源は、神功皇后の御子 応神天皇の御子 大山守命とも、あるいは、姓氏録の「左京 諸蕃 高麗日置造  出自高麗国人伊利須意弥也」に見られる「高麗 伊利須使主 」の系譜なのか、しかし、これは斉明紀2年の伊利之(いりし)を同一人物とすると、大分後代の話だ。

次に日置王の兄、財王の記述である。

“一方の兄・財王は、出雲王国の王(意宇)郡舎人郷(安来市月坂・赤塚・野方方面)に就任した。” “その地の正倉は欽明帝の御代に設置され、日置臣シビが、大舎人として仕事を行ったと風土記に書かれている。その正倉役に財王が就任したことによる。”
“かれの正式の名は、額田部臣財王であった。”
“正倉の元もとの役は、倉米を換金し旧富王家の古墳を造る仕事であった。財王は富古墳群内に、いわゆる山代方墳を造った”

ガイダンス山代の郷の展示物
山代方墳と石舞台古墳の類似性を説明した図。富家伝承によると、石舞台古墳は蘇我馬子ではなく、用明天皇の寿陵となっている。


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“財王は寿陵を神魂神社の横(風土記の丘)に造った。それは出雲式の方突方墳(岡田山1号墳)であった。そこには円頭太刀などが収められていた。”

「額田部臣」の銘文のある円頭太刀   八雲立つ風土記の丘 資料学習館

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“岡田山1号墳の東に、財王の子孫の古墳ができた。それは御崎山古墳、と呼ばれている。その墳頂には日御碕神社の分社が建っている。これは財王の子孫が、日置王の子孫と仲が良かったことを示している。御崎山古墳からは獅嚙環頭大刀が出土した。これは都から手に入れたもので、円頭太刀よりも後に流行した形であることを示している。”(以上 斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 より)

御崎山古墳 松江市大草町 
全長約40mの前方後方墳である。

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参考文献  斎木雲州 著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 
      遠山美都男 著『古代王権と大化の改新』雄山閣出版
      井上辰雄 著 『太陽祭祀と古代氏族ー日置部を中心としてー』 
                         東アジアの古代文化 第24号 大和書房 
      木本雅康 著 『日置・壬生吉志と氷川神社 一古代の方位信仰を手がかりとして一』
      小川光三 『ヤマト古代祭祀の謎』 学生社
まあ読んだだけで記事にはあまり生かされていない。

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# by yuugurekaka | 2018-08-21 19:58 | 日置臣 | Trackback | Comments(2)

■なぜに「十羅刹女社」


日御碕神社は、中世の時代、「十羅刹女(じゅうらせつにょ)社」とも呼ばれていた。

まずは十羅刹女とは何か。ウィキペディア 十羅刹女 によると、“仏教の天部における10人の女性の鬼神。鬼子母神と共に法華経の諸天善神である。” “釈迦から法華経の話を聞いて成仏できることを知り、法華経を所持し伝える者を守護する”神だそうである。

太陽神「天照大御神」であるのなら、本地仏は、「大日如来」がふさわしいと思われるが、どうして十羅刹女なのだろうか。江戸時代の地誌『雲陽誌』(1717年)によると以下の通り。


雲陽誌 巻之十

日沈宮
(前略)
耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり、
衆説区々なりしに老祀官の語けるは、上社は素盞嗚尊に田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女をあはせ祭、下社は天照大日孁貴に正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命の五男をあはせまつれり、 上の社下の社すへて十神なり、故に十羅刹女といふか、天暦の帝深此宮を崇、日の字を加たまふ、故に日御崎と号す、 古今祭礼不怠霊験惟新なり

上社が、素戔嗚尊+宗像三女神、と下社が、天照大御神+正哉吾勝尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命の五柱で、合わせて10神、それで、十羅刹女か?などと書かれている。だが女神は4神である。江戸時代の学者もよくわからないのだ。


神宮寺の関係だろうか。日御碕神社の神宮寺は、現在別の所にあり、曹洞宗であるが、曹洞宗島根第二宗務所のサイトによれば、 「天暦2(948)年62代村上天皇の勅願により、日御碕神社の境内に伽藍を創建、神宮寺と号し、別当職を司った。当時は真言宗だったと伝えられる。」とある。法華経の諸天善神を真言宗で祀るのか。


■中世の出雲神話


…と思っていたとき、平安時代の末期、御白河法王の撰である『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の一節が浮かんだ。

「聖の住居ははどこどこぞ、箕面よ勝尾よ播磨成る播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日御碕、南は熊野の那智とかや」である。出雲の鰐淵寺や日御碕は、「聖の住所」ー山岳修験の拠り所として平安貴族の間でも有名なところであった。鰐淵寺は、修験道から天台宗に転じたと云われている。“寺に残る経筒には仁平元年から3年(1151 - 1153年)にかけて書写した法華経を「鰐淵山金剛蔵王窟」に安置したとの銘があり”(ウィキペディア 鰐淵寺 )かなり前から、比叡山延暦寺と関係があったという。


―ウィキペディアの記事を見ていて、このお寺の起源が、いかに古いのかということにびっくりした。あくまで伝承であるが推古天皇といえば、寺の創始段階ではないか。と、同時に出雲風土記になぜ書いてないのか不思議である。お寺にある仏像が、持統天皇時代のものもあるから、出雲風土記の時代には存在したと思われる。それと、日下部氏由来の日下町と、鰐淵寺が地図上では近いということ。彦坐王日下部氏ーつまりは和邇氏、あの鰐(わに)は、和邇氏から来ているんではなかろうか?同じ智春上人が開寺したという万福寺も日下町から近い。


中世には、出雲大社が神仏習合時代、鰐淵寺が別当寺であり、祭神は素戔嗚尊だった。そして、日御碕神社も、中世には杵築大社の末社に取り込まれていた時期もあったということなので、その関係で、法華経の諸天善神である十羅刹女として本地仏が位置づけられたのでは無かろうかとの思いが浮かんだ。

鰐淵寺を中心とした縁起では、釈迦が法華経を初めて説いた場というインドの鷲霊山(りょうじゅせん)の一部が砕け落ちて、海に漂っているのを、素戔嗚尊が引き寄せ打ち固めたのがの島根半島であるとされる。

奈良の出雲風土記時代にある、八束水臣津野命が新羅や高志などの国のあまった土地に綱をかけて引き寄せたという国引き神話が、仏教と習合して、素戔嗚尊がインドの鷲霊山のかけらを打ち固めたというものに変容したと思われる。


十羅刹女の伝説

『雲陽誌』のそもそもの伝説、「耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり」というところであるが、「花山院長親耕雲明魏」の「修造勧進状」(1422年)の文書には、「杵築大明神の季女である十羅刹女」は無い。
孝霊天皇六十一年十一月、月国の悪神が、荒地山(あらちやま)の旧土を復さんと欲して攻めてきた。日御碕霊神が、防いだというものだ。

日御碕神社の社伝では、
孝霊天皇六十一年(神話時代)十一月十五日、月支国王彦波瓊が、兵船数百艘をひきつれてわが出雲の日御碕に攻めて来た。なぜ攻めて来たかというと、むかし、日本の八束水臣津野命が、出雲の国を大きくしようというので、新羅の御崎から国の余りをひっぱって来て、今の杵築の御崎をつくりあげられたが、あれをとりかえすために来たのであった。さあ大変というので、日御碕では小野検校家の先祖・天之葺根命十一世の孫の明速祇命(あけはやずみのみこと)が防戦これつとめられた。また遠祖須佐之男命も天から大風を吹かせてこれを助けられた。そのために彦波瓊の大軍はことごとく海のもくずと化した。このとき彦波瓊の兵船がその艫綱を結びつけていたのが、今も沖合に見える艫島であるという”(石塚尊俊 編著『出雲隠岐の伝説』 第一法規発行)

社伝においては、日御碕神社の宮司家の祖先である明速祇命となっているが、石見地方での伝説では、それが胸鉏比売(むなすきひめ)であったり、田心姫(十羅の賊を滅ぼし、十羅刹女の名を賜わう)となっている。 詳しくは→ ウィキペディア 胸すき姫 

石見神楽での演目「十羅」では、彦羽根という鬼神と戦うのが、素戔嗚尊の末女である十羅刹女となっており、「雲陽誌」の「杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現」と合致する。




■素戔嗚尊の末娘はだれか

石見地方での伝説から考えると、素戔嗚命の末娘は宗像三女神の田心姫であると思う。しかし、記紀では、確か田心姫は長女であるはず。しかし、日本書紀の本書では最初に生まれた女神であるが、『日本書紀』第一の一書(別の説)では、3番目に化生し、名は「田心姫」で、辺津宮に祀られる。とある。『日本書紀』第三の一書でも、3番目に化生し、名は「田霧姫」で、辺津宮に祀られるとある。
『古事記』では、田心姫が大国主神との間に阿遅鉏高日子根神と下照姫(したてるひめ)を生むとしているが、富家伝承では、天之冬衣神の妻神である。

日御碕神社境内社 宗像神社

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日御碕神社の境内社 宗像神社であるが、自分が調べる限りでは。宗像三女神を祀っているのではなく、田心姫命を祀っているようだ。
もしや太古、太陽の巫女神として田心姫命を祭っていたのではないか。
また、本地仏として十羅刹女になったいきさつは、全く不明であるが、女傑の宗像族が日本海を行きかっていたということから来ているのではなかろうか。しかし、九州の宗像大社の奥津宮の本地仏は、大日如来となっていて十羅刹女ではないが。
あくまで、私の想像である。

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# by yuugurekaka | 2018-08-13 18:09 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)

1)経

経島(ふみしま)は、お経の本を載せる机のように見えるから、その名が付いたそうだ。「文島」又は「日置島」とも云う。出雲風土記時代、日御碕神社の下社ー日沉宮(ひしずみのみや)の元宮であるの「百枝槐社(ももええにす)」があったと云われている。
日御碕神社の神域として一般の上陸は禁じられている。8月7日の例祭(「夕日の祭り」)、神官が経島に上陸し、現在の経島神社において神事が行われる。

沈む太陽と経島

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日沈宮の御由緒は、次の通り。

日沈宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(ふみじま)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎祀り給うたと伝う。
 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。
 そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に紳殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝槐社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。


現在の日御碕神社は、寛永21年(1644年)徳川三代将軍家光の命によって造営されたもので、権現造りである。日光東照宮建立の翌年寛永14年より建立着工し、7年の歳月をかけて完成した。

当時は、現在の上社・下社、楼門・廻廊等に加えて、薬師堂・多宝塔・護摩堂・大師堂・三重塔・鐘楼などが建立されていた。(明治の神仏分離により、仏塔の類は解体されてしまった。)だから、現在の日御碕神社が、江戸時代そのままというわけではない。

日御碕神社  島根県出雲市大社町日御碕455
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日御碕神社楼門   島根県出雲市大社町日御碕455


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江戸期の地誌『懐橘談』を見ると、

『懐橘談 下』(前編1653,後編1661)
“耕雲明魏記に云 雲州日御崎大明神と即杵築大明神の季女に而十羅刹女の化現也 荒地山の鎮守也 孝霊天皇六十一年現霊異云々
一説には伊弉冊尊(ママ)軻遇突智を斬て剣の鐔より垂血激越て神となる 甕速日神次に熯速日神と申奉るこれ御崎の明神ともいへり
衆説まちまちなりしに詞官の語りけるは 上の三社は田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女に素盞烏を合祭せり 下の五社は正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命五男に天照太神を合祭りて 上の社下の社で都て十羅刹女と崇奉りし故に杵築より先此宮にまいり下向して大社は参り侍る古法なり

となっている。造営の時点の祭神は、上社ー素戔嗚尊と宗像三女神、下社ー天照大御神と正哉吾勝尊(アメノオシホミミ)・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命、(いわゆる「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話の構成になっている)となっていることがわかる。しかし、「衆説まちまちなりし」ということで、昔からそうだったかといわれると怪しい。
中世には「杵築大明神の季女(末娘)に而十羅刹女」というように「十羅刹女が祭神」の社のようにもなっていた。大国主命の末娘は、だれかとすぐ思いがちだが、中世の杵築大明神とは素戔嗚尊であった。

2)日の出日の入りの角度

日置というからには、夏至(太陽が一番強い日)、冬至(太陽が一番弱い日)の日没の方向が関係があるのではないかという説に基づいて、自分も考えてみた。自分は、その説には腑に落ちた感じはしない。でも、いろいろと線を引っ張って、一応やってみる。
便利なサイトがあった。→ 日の出日の入り時刻方角マップ

そのサイトを利用して日御碕神社の周辺に地図に線を引いてみた。赤い線が、夏至の日の出・日の入りで、黄色い線が冬至の日の出・日の入りである。上社の元宮ー隠ヶ丘に中心に置くと、冬至の日の入り線上に、経島がある。

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次に宗像神社を中心に置くと、夏至の日の入り方向に経島神社がある。
ちなみに、現在の日御碕神社を見ると、上社は夏至の日の出方向の角度に沿って建っているが、下社の方は、夏至の日の入り方向とは、少し角度がずれていた。

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実際に宗像神社の前に立ってみたが、経島の方向は見えなかった。
残念ながら、経島に沈む太陽を奉拝する場所でも無いようである。まあ よくわからない。
しかし、これは現在の祭祀場を踏まえての考察である。

3)日御碕神社 海底遺跡

『大社史話 第167号』(平成23年6月23日発行 大社史話会)の岡本哲夫さんの文章を見て、大変驚いた。
海面上昇や地殻変動に伴い、いままで地上にあったものが、海底に沈んでしまったという祭祀遺跡が、日御碕の海底で発見されていたというのだ。
インターネットで検索したら、いろいろと出てきた。



参道、石段や岩屋だとか、写真やYOUTUBEの動画を見る限り、祭祀場のように見える。

いつの時代、海底に沈んだのかわからないが、一つの説として、880年の出雲地震が考えられている。(「三代實録」に 「二七日丁未、出雲國言、今月十四日、地大震動、境内神社佛寺官舎、及百姓居廬、或顛倒或傾倚、損傷者衆、其後迄干二十二日、晝一二度、夜三四度、微震動、猶未休止、」と、ある。)ただ、海底に沈むような大きな地震ならば、当然出雲大社が倒壊しても不思議はないが、そういう記事はない。全くもって謎である。

日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。

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# by yuugurekaka | 2018-08-06 09:08 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)

『出雲国風土記』(733年)の意宇郡の総記の国引神話に出てくる「米支しねき豆支ずき御崎みさき」が、現在の日御碕である。日御碕に建てられている、日御碕の灯台に登ったのは、18歳ごろか、あるいは30歳頃か…もう思い出せない。
もう7月なので、ウミネコはもうここにはいない。日御碕と云えば、ウミネコが有名だが、一年中いるわけではない。

出雲日御碕灯台  島根県出雲市大社町日御碕秋台原山1478
石造灯台としては日本一の高さの灯台である。

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日御碕に鎮座する有名な日御碕神社だが、出雲地方では珍しい朱色に染まった神社であり、素戔嗚尊を上社(神の宮)で祀り、天照大御神を下社(日沈宮)で祀るという、特異な構成の感じがする神社だ。
上社の元宮は、日御碕灯台の南方の『隠れが丘』にあり、出雲風土記では、出雲郡の在神祇官社『美佐伎社』であったとされ、天照大御神を祀る下宮(出雲風土記では、不在神祇官社『百枝槐社とされる。)とは別のところにあったという。

自分が思うに、『古事記』、『日本書紀』よりも前の時代は、『美佐伎社』『延喜式』では「御碕神社」)というからには、岬神として猿田彦命』を祀っていたのはなかろうか?


“(前略)此因に愚見御批判を仰ぎ度は 此神の名猿田と云ふ語は やがて亦ミサキと同じ義なりしならんかと思はるゝことに候 古史伝には猿田はサダにして 出雲の佐陀大神は同じ神なりと論ぜられ候 出雲の佐陀は島根半島の中央にて 現今の社地は海角には非ず候へ共 此半島は即ち狭田ノ国にて 西にも東にもミサキは有之候” (『柳田国男全集 第一巻 石神問答』 筑摩書房 1999年6月30日発行)

海角(かいかく)…陸地が海に突き出た細い部分、岬   

詳しくは → 加賀の潜戸(6) 佐太大神 岬神説 ~柳田国男『石神問答』~


島根半島東部に存在する『加賀の潜戸(かかのくけど)』であるが、出雲風土記時代は、加賀の潜戸で誕生したのは、サダの大神であったものが、中世には、天照大神に替えられてしまったのだ。詳しくは → 加賀の潜戸 (3) 猿田彦命ではなく天照大神だった。
猿田彦命自体に、太陽神的な性格があるので、太陽神=皇祖神 天照大御神に再編されると、天照大御神にすり替わってしまったのではないかと思う。


日御碕灯台の周りには、遊歩道が整備してあり、東側には、日本三景の松島にならって名付けられた「出雲松島」なる絶景ポイントがあった。

出雲松島

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東北方面には、桁掛(けたかけ)半島の洞窟が何個か見える。
その中の一つが、「のろの洞窟」という名の洞窟がある。どの穴かよくわからないが、「ふた割れ」「舟磯」「のろの洞窟」「つばくろ穴」と名前がついているらしいので、かなり右手にある穴なのかもしれない。
なぜに「のろ」?奄美諸島と沖縄諸島で云われるところの祭祀主の女性の「のろ」なんだろうか? → ウィキペディア ノロ
洞窟そのものが祭祀場であることが多いが、もしや、「加賀の潜戸」のような、「日光感精型」の祭祀場だったのかも?
しかし、一説によれば、元は「布の洞窟」であり、なまって「ぬの」が「のろ」になったとも云われているそうだ。

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さて、表題の上の宮(神の宮)の元宮であるが、日御碕灯台の前の駐車場の前の道路に面した丘にある。登り口がどこか探したら、海に向かう道の途中にあった。

隠れが丘 参道

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この参道を歩いていくと、隠れが丘の「神の宮」に着いた。
ここのお宮の由来であるが、

神代の昔、素盞鳴尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂(みたま)はこの柏葉の止る所に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に美佐伎なる隠ヶ丘に止った。よって御子神天葺根命はここを素戔嗚尊の神魂の鎮まります霊地として根の国の根源として中央より厚く遇せられ”とある。

隠れが丘 神の宮

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ここの鳥居の方向から察すれば、朝日の出を拝むというよりは、夕日を拝む方向である。
根の国とは、黄泉の国と同じような死後の世界とも云われるが、もしやそれは、太陽がこの世界からお隠れになるー日が沈んだ世界を云うのではないかなと思った。素盞鳴尊が高天原で狼藉を働き、天照大御神が岩戸にお隠れになり、この世が暗黒になるという神話があるが、狼藉を働かなくとも、太陽は毎日西の方角に消え、この世は暗黒に包まれる。また東の方向から、太陽が誕生する。

日御碕から見える沈む太陽

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大古ーいつの時代の昔かわからないが―には、翌日にはまた東から、太陽に現われてほしいという沈む夕日にお願いをするという素朴な信仰であったのではないかしら。


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# by yuugurekaka | 2018-07-28 11:00 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)

今市大念寺古墳  島根県出雲市今市町鷹の沢1696  
島根県最大(全長約92m)の前方後円墳(6世紀後半)。石棺は日本最大級の大きさである。


■欽明天皇の頃


『出雲風土記』(733年)には、神門郡に「日置」の名前が付いた「日置郷」の由来が書かれている。


日置( へき)郷。郡家の正東四里、志紀(しき)(しま)宮御宇(みやにあめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)(きん)(めい)天皇)の御世に、日置(へきの)伴部(ともべ)たちが遣わされて宿停(とどま)り政務を執った所である。だから日置という。”

(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


日置の伴部が、欽明天皇(509年~571年)の時代に派遣されたという。欽明天皇は、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によれば、次の通り。


“第 29代に数えられる天皇。名はアメクニオシハラキヒロニワノミコト。継体天皇の皇子。母は皇后手白香 (たしらか) 皇女。6世紀なかば在位。この欽明朝に百済の聖明王が仏像経論を献じた。公式にはこれが仏教の最初の渡来とされているが,崇仏に関し蘇我,物部両氏の対立があった。対外的には,朝鮮との関係が新羅の進出に伴ってふるわず,日本人出先官憲の不正,失政も手伝って,危機にあった任那は新羅の傘下に入り,任那日本府はついに滅ぼされた。天皇はこのことを遺憾とし,その回復を遺詔して薨去したといわれる。宣化天皇の皇女の石姫を皇后とし,大和磯城島金刺宮に都した。陵墓は奈良県高市郡明日香村の檜隈坂合陵。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)


欽明天皇の時代の特徴は、まとめると、①仏教の最初の渡来。そして、蘇我氏の勃興。②仏教を巡って蘇我氏(祟仏)VS物部氏 (廃仏派) ③任那の滅亡である。『出雲風土記』における日置氏の役割、お寺を作るー仏教の普及ということも職務としてあったのではないか。東出雲の方墳、前方後方墳と西出雲の円墳、前方後円墳の古墳ということや倭風大刀の分布から、西出雲は、物部氏の影響と云われるが、西出雲での日置氏はお寺を作っているし、蘇我氏との関係が強いのでは?とも、思ってしまう。


■上塩冶築山古墳

神門郡日置郷にあ上塩冶築山古墳(かみえんやつきやまこふん)である。古墳時代後期後半の古墳である。墳丘や石室・石棺の規模や副葬品の豪華さから出雲西部では最高位のものとされ、今市大念寺古墳の後継の大首長の墓と云われている。詳しくは→ ウィキぺディア 上塩冶築山古墳

上塩冶築山古墳  島根県出雲市上塩冶町262


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現在の形は、中世から崩されており、方墳にしか見えないが、円形の周溝跡が発見されたことから、現在では円墳であると推定されている。しかし、北方に前方部がある可能性も完全に否定されていないので、前方後円墳の可能性もある。
山陰地方では最も長い全長14.6 mの切石積み横穴式石室が有り、玄室内には大小2つの刳抜式(くりぬきしき)家形石棺が置かれている。

この横穴式石室は、6世紀前半から西日本で作られるようになったが、なぜだか、神門郡の大きな古墳は、ほとんど開口部が下記の図のように、南西方面を向いているものが多い。(今市大念寺古墳・宝塚古墳・妙蓮寺山古墳・放ㇾ山古墳など)

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ただ全部が正確に南西45度というわけではなく、上塩冶築山古墳は西南西、宝塚古墳は、南南西というように、古墳ごとに厳密ではないようだ。
なぜに、南西なのか、考えてみたが、もしや冬至の日没の角度(南方に約30度)が関係しているのかな?などと思った。(逆に言えば、横穴の奥が夏至の日の出に向かっているとも言える。)
まあ、よくわからない。
冬至 夏至 春分秋分.svg
By すじにくシチュー - 投稿者自身による作品, CC0, Link

しかし、上塩冶地蔵山古墳(7世紀前半においては、9.2mの横穴式石室が、南西ではなく、南東を向いている。もしかしたら葬られた豪族が違うのかな。


上塩冶地蔵山古墳  島根県出雲市上塩治町472
現在、墳丘が、掘削されて15mの方墳のように見える。

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■参考文献■
出雲市教育委員会 2004年3月 発行 『上塩冶築山古墳』
出雲市文化財課  2017年3月発行  『こふマップ』


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# by yuugurekaka | 2018-07-19 07:30 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)