人気ブログランキング |

奈良時代には出雲大社の前には、神門の水海という大きな湖があった。中世にも依然として大きな湖として、水運を担った港があった。近世には、河川堆積により一気に埋め立てられたとされる。

神門(かんどの)(みず)(うみ)

郡家(ぐうけ)の正西四里五十歩の所にある。周りは三十五里七十四歩ある。中には鯔魚(なよし)()()須受枳(すずき)(ふな)玄蠣(かき)がある。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


鯔魚(なよし)は、ボラ。鎮仁(ちに)は、チヌ。魚の種類から、当時の神門水海は、汽水湖であったと思われる。

神戸川(かんどがわ)河口
今は神戸川河口だが、奈良時代には神門の水海と日本海との結節点だった。

e0354697_20464240.jpg

■ 湊原  

出雲大社摂社・湊社の有る場所が、「湊原」という場所で、「大湊」という大きな港があったらしい。地誌にその説明があったが、その当時の地図を見ないと、文書の意味がさっぱりわからない。

〝大湊というのは、斐伊川と神戸川の河口部北岸の湊原地域にあった港のことで、湊社というのもこの港から生まれた名称であった。この湊社は、さきに述べたように、七月五日の爪剝神事に先立って、別火財氏が神降しをして田の神を迎え(四月八日の影向神事も同様であったかも知れない)、そして十月十八日の神上げ神事においてこれを送り出す場であり、こうした田の神の送迎の場であったこと自体の中に、杵築大社及び出雲国全体にとって、この地域がいかに重要な意味を持っていたかがよく示されている。この大湊は、その名称からも推測されるように、出雲国を代表するとりわけ大規模な港であったと考えられ、湊社の存在から考えても、それが中世の早い時期から港として賑わっていたことが推測できる。この地域に残る伝承によれば、かつてこの湊原地域は、五百石積の廻船が帆を上げたまま入港できる広い河口で、北側の入り江に停泊して交易が行われ、二〇〇戸余りの港町が形成されていたという。〟(大社町史編集委員会 『大社町史 上巻』 大社町発行)太字は、私)

湊社の位置
「島根県古代出雲歴史博物館」展示物の奈良時代の地形図に「湊社」(赤丸)の場所を加えたもの

e0354697_19500948.jpg

■ 大渡

『島津家久上京日記』(1575年)には、平田の町に泊まった後、杵築大社に参拝されたことが述べられており、その後、神門水海で船に乗ったらしく、「大渡」をして渡り賃をとられたようである。

〝廿三日、打立行て、きつきの大社に參、それより行々て大渡といへるわたり賃とられ、さて行て崎田といへる町の清左衛門といへるものゝ所ニ一宿、下總酒もてあそひ候、〟(太字は、私)

この大渡しとは、どこの港から、どこの港を渡ったのか、図書館で調べたら、大湊→園湊というのが「大渡し」であることが分かった。この園湊は、どこだったのか?斐伊川河口部の南岸」というのが、どこを示しているのかよくわからないが、「園」という名前から、薗松山(そのまつやま)のたもとというか現在の長浜町辺りを比定する説もあるらしいが、確定された説と云うものがないようだ。

〝この湊原の対岸、斐伊川河口部の南岸には園湊がある。この両港は、足利尊氏の三隅尊氏誅伐のための兵糧の送り出しに重要な役割を果たしている。この両港を結ぶ渡し場は大渡しと言われていたようで、湊原(大湊)は石見部からの陸路の渡河点にもあたり、大社参詣の入り口としても重要な位置を占めていたことが推察される。(『国富郷土誌』 国富公民館発行)太字は、私)

現在の地名で、それらしいところはないか、調べると、「芦渡」という地名がある。古志本郷遺跡の近くで、神門川の河口の西側であった場所である。『出雲市地名考』という本で調べると、奈良時代は、「足幡」だった。ここも、正応元年には、神門郡であった。

〝芦渡(あしわた)──蘆渡──足幡
 奈良期の天平11年(七三九)『出雲国大税賑給歴名帳』(正倉院文書)に足幡里(あしわたのさと)とみえ、古志郷内の三里の一つであったと推定される。
 正応元年(一二八八)11月『将軍惟康王家政所下文』(小野文書)に「出雲國 神門郡薗、林木 地頭併同蘆渡郷内門田参町、屋敷壹所若□□□郎藏人人道法師跡」とみえる。〟(永田滋史 著 『出雲市地名考(下)』出雲市教育委員会 )

出雲大社の築造する木材を神門水海をはさんで出雲大社の対岸の吉栗山から調達したことが、『出雲風土記』に述べられているので、必要度から考えて、神門川がつながる古志の近くの芦渡にあっても良さそうに思う。次なる目的地「崎田といへる町」が、一説によれば多伎町の田儀ということなので、水上交通だけ考えると、美久我林のあるところ、薗松山の一番南側、現在の湖陵町辺りにあったほうが便利だ。
ただ、宍道湖の港のように、どこでも、船着き場になりそうな地形の湖であったと想定できるし、港も複数あったに違いない。

# by yuugurekaka | 2019-04-22 08:54 | 身逃げの神事 | Trackback | Comments(0)


不思議なお祭りがある。その中の一つ「身逃げの神事(亦の名はみみげの神事)」だが、サイト「しまね観光ナビ」の説明をお借りすると、下記の通りである。

〝8月14日深夜(午前1時)境内の門はすべて開放され、禰宜(ねぎ)は本殿に参拝し、大国主命の御神幸(ごしんこう)にお供する。湊(みなと)社、赤人(あかひと)社に詣で、稲佐の浜の塩掻島(しおかきしま)で祭事を行い、国造館から本殿へ帰着する。この神事の途中、人に逢うと出直しをしなければならないため、町内の人々は早くから門戸を閉ざし、外出も避けている。〟(しまね観光ナビ 出雲大社の祭りより)

湊社 島根県出雲市大社町中荒木

e0354697_20320765.jpg

この祭事中、出雲国造は国造館を出て、留守にする。(昔は一族の家に泊まったそうである。)つまりは、国造の留守の間に、大国主命の神霊が、本殿より出でて、禰宜をお共に湊社、赤人社などに神幸するということである。

現在は禰宜が、お供をするが、もともとは、大社社家の上官の別火(べっか)氏であった。なぜに、湊社、赤人社の二社なのだろうと思うが、「この社の祭神は櫛八玉命で大社社家上官の別火氏の祖先神であり、この身逃げ神事を奉仕するのが本来別火氏であったのだから、この神事はもともと別火氏の祭りであったと思われる。湊社の次には赤人社を詣でるが、この祭神も別火氏の祖である。」(千家 尊統著 『出雲大社』 学生社発行より)※太字は私。

火切り臼と火切り杵で起こした火を別火といい、その別火食を管理したのが別火職であったが、別火氏の役割はそれだけではなかった。『懐橘談』(黒沢石斎著 江戸時代初期の地誌)にはこのように記述されていた。


〝七月四日は国造及神官等身退(みひく)の館に参籠して祭あり、 
 別火といふ祠官是は財氏なりと申す、
 物部十千根大連が後胤にや、
 今に至るまで守鑰の役なり、
 彼別火今宵神を負うて社の内外ありくと言ふ、
 信じがたき事なり、
 故に人恐れて門戸を閉ぢて今宵外に出でず、
 若し出て神に逢へば忽ち死すと云ひならはせり〟

「今に至るまで守鑰の役なり」、出雲大社の本殿の鍵を守る役である。「別火氏という祠官これは財氏なり」 別火というのは職名であると思われ、財氏である。「物部十千根大連が後胤だろうか」ということだが、出雲大社の本殿の鍵を管理して、なぜ物部十千根大連の末裔なのか間違いではないか?と最初は思ったが、『出雲風土記』の多久国に登場する、大国主命の御子でワカフツヌシ命といういかにも物部氏の名前の御子が浮かび、これはもしや、大国主命の末裔であり、かつ物部十千根命の末裔ということではなかろうかと思った。同族化の原理で、親戚筋になったということなんだと理解した。

あくまで「出雲VS大和」、「出雲族VS物部氏」の構図だけで、歴史や神社を説明する人が多いが、それは歴史の一断面で、むしろ同族化した歴史の方が長いのではないか。そのせいで祖変が起こったり、系図が複雑怪奇なものになっているように思う。

次になぜに物部十千根命が、膳(かしわで)の神、火切りの神である櫛八玉命と結びつくかの謎であるが、過去の記事で書いた通り、膳氏には物部系があり、『高橋氏文』(逸文)を見ると、むしろ、火切りの仕事は物部氏の専売特許のように思う。

『姓氏録』にも、膳氏の末裔 若桜部造物部 十千根命の子孫が存在する。

和泉国  神別 天神 若桜部造  造  饒速日命七世孫止智尼大連之後也  
止智尼大連は、物部 十千根命のこと


# by yuugurekaka | 2019-04-15 10:00 | 身逃げの神事 | Trackback | Comments(0)

加藤義成氏の説「延喜式によれば、この売布神社は玉作湯神社と来待神社との間にあって、今の鏡あたりあったのをその辺から移されたものであろう。」(『出雲国風土記参究』)だが、根拠は書かれてはいなかった。延喜式の記載が、「玉作湯神社 同社坐韓国伊太氐神社 売布神社 来待神社」となっているため、来待と玉作湯神社のだいたいの中間の場所として、鏡あたりと書いたのかもしれないが、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)には、売布神社とのつながりがある伝承が多いことがわかる。もしかしたら、加藤氏はそういう伝承を知っていたかもしれない。

その鏡地区であるが、松江から西に車を走らせると、「宍道湖ふれあいパーク」(鳥ヶ崎)を右手に見てすぐの場所だった。下記の写真で言うと遠くにガソリンスタンドの赤いところが見えるが、そこから南に(山の方向に)向かった地域である。

鏡地区の前の海 
宍道湖ふれあいパークの西側から撮影する。宍道湖ふれあいパークの近くに現在でも船着き場があった。

e0354697_16220540.jpg


なぜに「鏡地区」と言うのか、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)によると、〝「須勢理媛」が夫の「大国主命」が「越の八口」を平定して帰るのを此地に出迎え、小川の水を鏡として身繕いをした場所として「向鏡」と呼んだ。少し東の橋のたもとで待ったが日が暮れた。柳井地区の「待ち暮れ橋」(日暮れ橋)と伝承する。〟となっている。

ここの「鏡地区」と「柳井地区」の間が、ちょうど旧宍道町と旧玉湯町の境界線だった。「向鏡」(むこかがみ)の場所だが、海岸沿いの鏡地区の東側のところだ。『きまち書留帳』には、町が違うので「柳井地区」のことはほとんど書かれていないが、「柳井地区」も含めた伝承地だったのかもしれない。


グーグルアースの地図

e0354697_16222590.jpg

さて、その売布神社の伝承である。『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)の抜粋だが、

1)〝勝部一族も、来待石加工に転向するまでは「瑪瑙細工」をしていたと推定できる。佐倉に越えるあたりに「細見地区」がある。「細工」を主としたが、需要もへり、「石工」となって山を降りたと考えられる。
玉神社がそうである。江戸中期の「雲陽誌」に記してある。「鏡神社」のことである。「櫛明玉命」を祭神とする。御神体ははない。本来は「玉」であったらしい。「瑪瑙の玉」だったらしい。近世末頃に盗難にあったらしい。地区の古老は次のように語る。「いま御神体は八寸ほどの鏡だが、本殿の床に切れ目を入れて「神玉」を盗んだ。昭和60年頃まで床の「切れ目跡」は地区の数人が確認した。松江の古物商に持ちこまれた「玉」に「キズ」があり売れなかった。盗人は神罰をおそれ、「売布神社」に奉納した。」という。〟

鏡神社 島根県松江市 宍道町東来待332番地

e0354697_16230620.jpg

2)〝「鏡神社の使」は「兎」であった。松江から来た「籠かき」が、畑に遊ぶ「白兎」を捕らえて帰ったが、奇異のことが続出するので、そして「兎は鏡神社の使」と聞き、急ぎ売布神社に奉納した。〟

3)〝和多見の商人が、お宮の姫さんを、さらって帰ったのは「三月三日」の雛の節句の日のことだった。〟※ 和多見は、現在の売布神社がある地域名。

4)〝「売布神社の御輿」は「鏡の者」がかつがんと遷宮にならんと和多見の古老は伝えた。〟

5)鏡神社の「宮司家遠藤家文書」によれば、〝元禄十一年(一六九八)の鏡神社棟札に「両社一宇」とある。〟〝「雲陽来待山王記録」では「相殿二伊綱権現ノ神体アリ、此神ハ元来下ノ谷二有シ由申傳ル、祭礼三月三日」と記されている。「遠藤氏」は「伊綱社」は「売布神社」の元宮の「口伝」ありとする。〟

以上は、鏡地区と売布神社のつながりを示す伝承である。それで、売布神社の元宮がどこだったか、例えば「向鏡」であったり、『きまち書留帳』には、様々な説が、書かれていた。


おそらく鎌倉時代には松江の円城山に移動していたと考えられるので、はるか昔の話である。どこにあったのかわからなくとも不思議はない。出雲臣の西進の事柄と同じように、神社だけではなく氏族ごと東遷し白潟の周辺の開発に従事したのではないかと想像する。


■参考文献 
『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)

『島津家久上京日記』に沿って、平田や大社町湊原の港神の話を書こうと思ったが、もはや「売布神社の東遷」とは話が違うので、続編として、出雲大社境外摂社・湊社の祭神のことを書こうと思う。


# by yuugurekaka | 2019-04-10 21:32 | 膳氏 | Trackback | Comments(0)

今回のテーマである「売布神社の東遷」から少し外れて、現在の売布神社よりもさらに東の港の話になったが、ここで、元々の鎮座地であったであろう宍道湖西方向の話にもどる。

加藤義成氏の説では、「延喜式によれば、この売布神社は玉作湯神社と来待神社との間にあって、今の鏡あたりあったのをその辺から移されたものであろう。」(『出雲国風土記参究』)となっている。なぜ鏡あたりなのかは、後述するとして、港神の性格として、水辺の結節点にあったのはないかと想定されると思う。来待~玉作湯神社の間ということであれば、奈良時代の地名で言えば、拝志郷(はやしのさと)の水辺の近くと思われる。

それで、それらしいところはないか、考えてみるに、来待川の河口付近が頭に浮かぶ。しかし、それらしい神社の跡とか伝承がない。

来待川 下流付近

e0354697_20461885.jpg


■来海(きまち)

現在の地名は、「来待」(きまち)であるが、『和名類聚抄』(平安中期)では、郷名として「拝志」とは別に「來待」が見られるが、荘園の名前として「来海荘」があり、明治26年まで「来海村」だった。『出雲風土記』時代には、郷名としては存在しないが(拝志郷の一部だったと思われる)、神社名として「支麻知社」川名として「来待川」となっている。もともと「きまち」であったのは、まちがいない。なぜ、「海」となったかであるが、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)によると、3説あるようだが、「高木房市説」が興味深い。昭和12年の来待村報で高木村長が、大森の「オンべ」の下の「舟繋ぎ松」あたりまで海だった。「来海上り」と書いた荷物を積んだ唐船という帆船が往来し、荷札など畧記し「来海上り」とし、結果ここが「来海」になった説。

その「きまち」の由来であるが、『きまち書留帳』によると、(1)大物主命が猪谷で兄弟達が猪を追いだすのを「待った」という。「猪ダアー」と兄弟達が叫び、焼けた石を落とし、飛びついた命は「ヤケド」して頭の毛がなくなり、そのために「頭布」をかぶっているという。(2)大国主命は北陸遠征のとき「吾が御心波夜志(はやし)」といったのが拝志郷の起源で、妻の「須勢理媛」が、大国主命が「来る」のを待った」のが起源(3)「来待神社」は、大和の大神神社の神霊「大物主命」を勧請したという。神が「来る」のを「待った。」のが起源。(4)「神有月」に全国の神様が「来る」のを「待った」説。(5)後代の話であるが、「雲陽軍実記」などに、毛利軍が「木町」で灘手と山手に分かれ「月山」を目指した條がるそうで、実際来待の「長源寺」の灯篭に「木町谷」とあったようだ。

さて、来待川の上流の「来待神社 」を訪ねてみる。


来待神社  島根県松江市宍道町上来待241

e0354697_20462964.jpg

大森大明神や、三社大明神とも呼ばれた。右殿に五十猛命、中央に大物主櫛甕玉命、左殿に積羽八重事代主命であり、これが三社大明神の由縁のようだ。社伝によれば、崇神天皇の頃、大和國の大物主命勧請すとある。大物主命を三輪より来ますと人々が待ったから「来待」というに至ったという。他、事代主命がここに神社を建てられて、大物主命を大御和からお迎えしたという。

(現在は大物主命=大国主命の和魂となっているが、元々三輪山に祭られていたのは、大和の祖神たる自分自身の神霊ではなかったか。氏神から、事代主命を祖としない氏族も含めて大和の産土神に転化するために、「大物主命」という神霊が作られたのではないか?などとこの頃思う。)

この三神の取り合わせは何?紀氏の始原的祖ー五十猛命をなぜ祀るのか?あくまで想像だが、元々は、売布神社のように、五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命の三神だったのだろうか?
もしや、来待とは、紀(木)町=つまり紀氏が住んでいた所ではないのだろうか。町というのはこう漢字で書くと、近世から現代の言葉のように感じるが、古語辞典で調べると、一区画や市場の意味として出てくる。
その、紀氏の定義づけであるが、阿部氏と同様、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とする古代豪族である。紀氏の国造家としては、紀伊国が有名であるが、三国国造家をはじめとする蘇我氏などの北陸(いわゆる越の国)にも勢力をもっていた。

高群逸枝の紀伊国造家の分析だが、五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命の三神を奉祭する。
紀伊は古名を木、毛という。…中略…然し、道根命の事蹟は記紀いずれもこれを欠いており、記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖菟道彦」とあるのが最初の氏人であるが、二文、何れも国造祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。…中略…按ずるに、紀伊国造に二系あり、国造本紀記載の道根裔の国造は、式日前国懸二社を奉祭する後代の国造であって、本来の国造は、式名草郡伊太祁曾神社、大屋都比売神社、都麻都比売神社を奉祭する出雲族であったと思われる。〟(高群逸枝『母系制の研究』(上)講談社文庫より)(太字は私)

■ 拝志郷

ここ来待は、奈良の出雲風土記(733年)の時代、意宇郡拝志郷だった。

〝拝志郷(はやしごう)。郡家の正西二十一里二百十歩の所にある。所造天下大神命が、越の八口を平定しようとお出かけになったときに、ここの林が盛んに茂っていた。そのときおっしゃられたことには、「わたしの御心を引き立てるものである。」とおっしゃった。だから林という。〔神亀三年に字を拝志と改めた。〕この郷には正倉がある。

        

           (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


出雲風土記では、大国主命の「越の八口平定の話」と、木々の「林」と、「御心を引き立てる=はやす(栄やす)」の話がミックスされているが、元々は古代豪族の林氏の話であると思われる。
『出雲風土記』 意宇郡の群司に「主政外少初位上勲十二等 林臣 とあり、林氏の跡は意宇郡に確かに存在した。もしや、越の国から来た林氏の一族だったのだろうか?

その林氏の系譜だが、たとえば『姓氏録』に見られる皇別の林氏である。紀氏の一族である。

左京  皇別 林朝臣 朝臣 石川朝臣同祖武内宿祢之後也
河内国 皇別 林朝臣 朝臣 武内宿祢之後也


和名類聚抄』(平安中期)で同様な「はやしのごう」がどれくらいあるか、調べてみた。漢字は当て字なので、違う字もあるが、「はやし」ないし「はいし」と読ませるものをあげた。(抜けがあるかもしれない。)

かなりの数である。林氏は全国に分布し、有力な氏族であったと思われる。『出雲風土記』に描かれるいわゆる越の国(下線部)にも「拝師郷」はあった。


加賀国 石川郡拝師郷

越中国 礪波郡拝師郷

丹波国 天田郡拝師郷、何鹿郡拝師郷

丹後国 与謝郡拝師郷

備中国 浅口郡林郷、小田郡拝慈郷、英賀郡林郷

山城国 紀伊郡拝志郷、久世郡拝志郷

河内国 志紀郡拝志郷

尾張国 中島郡拝師郷

常陸国 茨城郡拝師郷

阿波国 阿波郡拝師郷

讃岐国 山田郡拝師郷

伊予國 越智郡拝志郷、浮穴郡拝志郷


膳氏が国造家であった若狭国に始まり北陸道の諸国は、孝元天皇の御子ー大彦命の末裔、その子孫の武内宿祢の末裔が国造家を務めた氏族が多い国々だった。ここ拝志郷は、その北陸道と関係が強い地域だったのかもしれない。


# by yuugurekaka | 2019-04-02 14:51 | 膳氏 | Trackback | Comments(0)

大橋川の東の結節点をさらに東に行き 訪ねてみる。大橋川を東に出ると中海に到達する。
中海には、意宇川が流れている。当然ながら、意宇川の河口付近にも、中世には港があった。
中世の文書には、「八幡津」「ウマカタノ津」「アタカイノ津」といった港を表わす様々な津が載っている。

さまざまな名前なので、大きな港というより、複数の船着き場だったのかもしれないし、異名で同じ港であったかもしれないが、古代の中心地の玄関口な場所だけに、交通の要所として水運のための港が潤っていたはずである。

国土地理院地図でみる意宇川河口付近 
赤いペンで注目する場所に丸を書いた。揖屋干拓地もあり、河口部分は古代の地形とは違う。

e0354697_14504258.jpg

意宇川 下流付近

e0354697_14514432.jpg

■ 出雲江

出雲江と書いて「あだかえ」と読ませるのは、江戸時代の学者もすでに分からなくなっていたようで、『雲陽誌』では
〝出雲江 
【風土記】に伊弉奈枳乃麻奈古座とあり、俚民出雲里と書てあたかへと讀、或人のいはく加茂の競馬の事書たりし文を見るに、出雲江の馬一匹とあるをあたかへと假名付たりと語、しかれは中古よりいひならはせる事にや、出雲江にも阿太加夜の神社を勧請す、故に本名出雲江をいはすして阿太加夜といひけるにや、いまた詳ならず、猶博覧の人に尋へし、〟

出雲江を「あだかえ」と読む由来はわからずとも、意宇川下流に鎮座する阿太加夜神社が関係しているのはだれにもわかる。江戸時代には、芦高明神あるいは足高明神とも呼ばれた。『雲陽誌』は、神門郡多伎郷の多伎神社を勧請したものと決めつけている。しかし、勧請したものなら、普通「多吉社」を名乗るものだと思う。『出雲風土記』では多伎郷は「多吉社」で、ここの阿太加夜神社は既に「阿太加夜社」で載っている。
この阿太加夜社の祭神ー阿太加夜奴志多岐喜比賣命であるが、富家伝承本によると、宗像三女神の「多岐都比売命」で、阿太加夜社の辺りに姉の「多紀理毘売命」も前に住んでいた場所だったらしい。意宇川の下流にある港神として、古くから海運の女神を祭っていたものだろう。(詳しくは過去記事→ 天照らす高照姫命(3)出雲の起源 

意宇川を遡っていくと、令制国の国司が政務を執る国庁が置かれた国府につく、つまりは、意宇川流域は古代の出雲国の政治の中心地だった。

阿太加夜神社 島根県松江市東出雲町出雲郷588 
『出雲風土記』では「阿太加夜社」である。

e0354697_14523521.jpg

■ 出雲国守護

しかし、古代の中心地だけではなく、中世でも、意宇川流域が政治の中心地だった。出雲国の守護職の居城であった能義郡広瀬町の富田城(→ウィキぺディア 月山富田城  が一元的に、政治の中心地のように自分は思い込んでいたが、そうではなかった。戦国武将・尼子氏においては、富田城が軍事的拠点であったのは間違いないと思えるが、それよりも前は、どこに守護所があったのかよくわかっていないが、意宇川下流域ー竹矢郷付近に守護所があったのではないかと思える。

足利尊氏が全国に安国寺を建立するに際して、出雲国では、康永4年(1345)竹矢郷の円通寺が当てられ、安国寺に改称した。(この円通寺であるが、宝亀4年(773)光仁天皇の勅願によって出雲国分寺建立の30年後開山されたものであり元々古い。)松江藩3代目藩主京極忠高が、が父親である京極高次の菩提を弔うために建立した供養塔がある。

近世初頭の話であるが、時代をさかのぼると、佐々木文書では永正5年(1508年)守護・京極政経が安国寺で死亡したとされており、その父持清の墓もあるという。京極氏の「出雲国での菩提寺のようである。


出雲国安国寺 島根県松江市竹矢町993

e0354697_14511010.jpg


京極高次 宝篋印塔 
若狭国(福井県小浜市)藩主であった京極高次の菩提を弔うため、越前産の笏谷石(しゃくだにいし)で作られている。

e0354697_14505983.jpg

さて、この京極氏であるが、中世の出雲国においては、縁が深い。下記の出雲国の守護一覧を見れば、一目瞭然であるが、14世紀半ばの京極高氏に始まり、戦国時代の16世紀初めまで続く。
さらに、京極氏の同族である、佐々木氏、そこから出雲国に土着した塩冶氏、京極氏より別れた同族の尼子氏も含めると、鎌倉時代からほとんどが近江・佐々木氏の流れの守護だった。


出雲国 守護(→ ウィキペディア 出雲国 )より

鎌倉幕府               室町幕府  
1190年~1199年 - 安達親長      1336年~1341年 - 塩冶高貞  
【この間の守護職は不明】       1341年~1343年 - 山名時氏
1225年~1233年 - 佐々木義清     1343年~1349年 - 京極高氏
1233年~1248年 - 佐々木政義     1349年~1352年 - 山名時氏
1248年~1278年 - 佐々木泰清     1352年~1365年 - 京極高氏
1284年~1288年 - 塩冶頼泰      1365年~1366年 - ?
1303年~1326年 - 塩冶貞清      1366年~1368年 - 京極高氏 
1326年~1336年 - 塩冶高貞      1368年~1379年 - 京極高秀
                   1379年~1385年 - 山名義幸 
                   1385年~1391年 - 山名満幸
                   1391年~1392年 - ?
                   1392年~1401年 - 京極高詮
                   1401年~1413年 - 京極高光
                   1413年~1439年 - 京極持高
                   1439年~1441年 - 京極高数
                   1441年~1470年 - 京極持清
                   1470年~1471年 - 京極孫童子丸
                   1472年~1473年 - 京極乙童子丸
                   1473年~1508年 - 京極政経
                   1508年~15??年 - 京極吉童子丸
                   1551年~1560年 - 尼子晴久
                   1560年〜1566年 - 尼子義久   

■ 大彦の後也

この近江の佐々木氏であるが、近江国蒲生郡佐々木荘を発祥にした宇多源氏ー源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族とも云われ(→ウィキペディア 佐々木氏 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺に鎮座す沙沙貴神社が氏神である(→ ウィキペディア 沙沙貴神社 )社伝では、神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。


沙沙貴神社(ささきじんじゃ) 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1番

一座・少彦名命 - 祖神・産土神

二座・大彦命(大毘古神) - 古代沙沙貴山君の祖神・四道将軍

三座・仁徳天皇(大鷦鷯尊) - 沙沙貴にゆかりある祭神

四座・宇多天皇・敦実親王 - 宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖神


Sasaki-jinja, shaden.jpg
By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link



『日本書紀』では孝元天皇段に、兄の第一の皇子・大彦命阿倍臣膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡て七族の始祖なりと、書かれている。いわゆる阿部氏の系統である。
出雲国との由縁がなぜ深いのか原因はわからないが、家臣の土着化も含めて、佐々木一族のもたらした影響は、神社仏閣に対しても少なからずあると思う。

■参考文献

長谷川博史 著『松江市ふるさと文庫15 中世水運と松江 城下町形成の前史を探る』松江市教育委員会

# by yuugurekaka | 2019-03-27 09:50 | 膳氏 | Trackback | Comments(0)

大橋川の西端に白潟の港があったのが、今度は大橋川の東端の馬潟付近を見てみる。
馬潟」といえば、今年、三大船神事の一つである「ホーランエンヤ」がある。9日間にわたって行なわれる〝松江城山稲荷神社式年神幸祭の通称であり、簡単に説明すれば松江城山稲荷神社の御神霊を船に乗せて阿太加夜神社を往復し、五穀豊穣を祈願する祭礼である。
現在は、10年に一度催されており、今年は、渡御祭 5月18日(土)、中日祭 5月22日(水) 還御祭 5月26日(日)となっている。詳しくは → ホーランエンヤ2019 公式ホームページ

文化5年(1808)の神幸祭の際に、風雨が激しくなって、御神霊を載せた船が危ない状態になった時、馬潟村の漁師が助けて芦高神社(阿太加夜神社)まで無事送り届けた。そこから馬潟村の櫂伝馬船が神輿船の曳き船を務めるようになり、矢田、大井、福富、大海崎の櫂伝馬船が加わるようになったようである。

なお、このホーランエンヤの起源は、慶安元年(1648年)で、徳川三代将軍家光の時代である。中世から近世にかけて、いかに大橋川の水上交通(内陸水運)が重要であったかということを示している。


中海大橋から見える馬潟付近の大橋川

e0354697_20365730.jpg

■ 八幡荘・馬形

馬潟は、奈良時代は、意宇郡山代郷の一部であった。そして、この頃は、朝酌渡という渡し船が馬潟にはあり、北方に向かう交通の要衡だった。
戦国時代に地名として、「まかつた」「馬方町」「馬形」「馬からた原」と見える。船着き場に馬を留めておく場所があったのだろうか。

朝酌渡を上から眺めるような場所に石屋古墳(五世紀半ばの一辺40mの大型方墳)があり、造り出し部分に馬形埴輪が2体存在した。
「馬形」を古語辞典で調べると、〝うまがた【馬形】馬の形を木・紙などで作り、神馬の代りに神に奉るもの。〟(『岩波古語辞典』大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編)と、ある。相撲取りや椅子の埴輪も出土しているが、あるいは馬形埴輪を中心に作る場所であったのか、馬潟の地名の起源は定かではない。

石屋古墳から出土した馬形埴輪 
島根県立八雲立つ風土記の丘展示学習館

e0354697_12402224.jpg

大橋川と宍道湖の結節点に売布神社が、水門神の女神・速秋津比売神を祭っているが、大橋川と中海の結節点である馬潟でも、水戸神の男神・速秋津日子神を祀る(ゆき)神社が存在する。ここの鎮座地は、明治時代当初は、意宇郡馬潟村字高橋であった。江戸時代にも、井の奥渡や馬潟渡などの渡し船で川で渡っていた。「字高橋」というが、もしや膳氏の末裔高橋氏と関係があるのか? 

由貴神社  島根県松江市馬潟町266 
『出雲風土記』記載の古社であり、式内社。御祭神 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)。

e0354697_20370714.jpg

天和三年(1683年)の『出雲風土記鈔』に、「山代郷(中略)由貴社、同郷間潟村社也」とあった。『出雲神社巡拝記』(天保四年ー1833)には、「馬潟村王子大明神、記云 由貴社、式云 由貴神社」とあり、江戸時代には、「王子大明神」「王子権現」(雲陽誌)が一般的な名称だった。

この王子とは何なのか、「王子信仰」で、インターネット検索すると、〝神が王子の姿をとって現れる (王子神) とされる信仰。八幡信仰 (若宮八幡) ,八王子信仰 (日吉・祇園社) ,熊野信仰 (熊野神社) などがある。有名神社の信仰が広まるにつれて,その王子神が各地に勧請され,王子信仰は全国に広がっていった。〟(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

ここ馬潟周辺は石清水八幡宮の荘園(八幡荘)だったわけであるから、王子とは、応神天皇であったのかもしれない。(あるいはその御子仁徳天皇)
さて、天正 3 年(1575)6 月の『島津家久上京日記』に、「馬かたといへる村にて関とられ」という記述があった。ここでの関であるが、いわゆる奈良時代の剗(せき)とは意味合いが違っていたようだ。『解説 出雲風土記』(島根県古代文化センター編)によれば、剗は、「主に反乱の対策や、税収の減収につながる浮浪や逃亡などの人の流れを制限する機能」を担っていたということである。

平濱八幡武内神社  島根県松江市八幡町303 
出雲国最古の石清水八幡宮別宮で、創建年代は不詳であるが、天永2年(1111年)には別宮として創建されている。
富家伝承本では、初代武内宿祢が住んでいたところの記述あり。武内宿祢は、古代豪族紀氏の祖である。

e0354697_14320459.jpg

「尼子経久袖判多胡久愛預ヶ状写」(享禄3年ー1530年)5月には、「平浜別宮(平浜八幡宮)」領の中に「馬形」で徴収される「上分銭」があり、平浜八幡宮に対して年6貫文が納められることになっていた。「毛利元就袖判平浜別宮領書立」(永禄7年ー1564)8月では「平浜別宮」領八幡荘300貫の中に「馬形 上分共ニ」とあった。
「上分」とは神への捧げ物という意味で、海上を通過して神仏を拝む時の捧げ物として船舶から徴収され、関料(通行税)の起源といわれる。


■ 朝酌

出雲国風土記(733年)時代、ここには朝酌渡(あさくみのわたり)という大橋川の渡し船で行く官道(枉北道)があった。〔渡は八十歩、渡船が一隻ある。〕現在も矢田の渡しがあるが、少し東方の辺りが、朝酌渡ではないかと推定されている。

また大橋川の北岸の島根郡(馬潟は意宇郡の大橋川南岸)には、朝酌郷があった。

  あさくみ郷。郡家ぐうけの正南一十六十四の所にある。熊野()大神(おおかみ)命がおっしゃられて、朝御(あさみけの)(かむ)(かい)夕御(ゆうみけの)(かむ)(かい)のために、五つの(にえ)を奉仕する集団の居所をお定めになった。だから、朝酌という。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


古代は朝夕二食だったようである。それと、船が関係するところに、贄(にえ)という食事を奉仕する集団のこと(いわゆる膳夫)が述べられているのがわかる。この集団というのは、もしかして、膳氏(高橋氏)や若桜部氏に関する氏族なのだろうか。

■参考文献

式内社研究会『式内社調査報告 第二十巻』 皇學館大學出版部
長谷川博史 著『松江市ふるさと文庫15 中世水運と松江 城下町形成の前史を探る』松江市教育委員会


# by yuugurekaka | 2019-03-20 14:59 | 膳氏 | Trackback | Comments(0)

■ 袖師ヶ甫の岩崎鼻

売布神社の説明板によれば、白潟の地の前に、宍道湖南岸の袖師ヶ甫の岩崎鼻に売布神社は鎮座していた。さらにその前には、もっと宍道湖の西の方にあったのではないかと言われている。

〝当社の元の鎮座地は、古代名の意宇の入海(今の宍道湖)の西部湖岸と考えられ、潮の流れや地形の変動に伴い遷座され、岩崎鼻(袖師ガ浦)に鎮座した時代もあり、潟地が広がって白潟の地が形成されて現在地に遷座されたのが十三世紀頃と考えられ、「白潟大明神」とか、十五世紀には「橋姫大明神」とも称され、水郷「松江」の産土神として鎮座しました。〟(売布神社の説明板)

旧社地遥拝の儀礼と伝えられる七月十二日の「船御幸神事」がある。船で宍道湖を西方約1キロメートル移動し、宍道湖の南岸円成寺の方向に向かい船上から遥拝する。

宍道湖の北岸から見た円成山
近代的な建物が、島根県立美術館で、その向こう側の右手の山である。左手の山が床几山。


e0354697_15174932.jpg

この円成寺のある山には、現在は、寺町に移転している曹洞宗の望湖山龍覚寺があった。『雲陽誌』に「曹洞宗の禅刹なり。望湖山と云う。本尊釋迦。應永年中 青砥義清といふ者建立」と書かれた。(※應永年間は、1394~1428 )円成寺があるから現在は円成山と云うが、望湖山龍覚寺があった頃は、なんと言ったのだろう。

お寺の由緒によれば、宍道湖より上がった鎌倉時代の大日如来像を本尊とし、真言宗として開山。売布神社とともに在ったそうだ。永享5年(1433)鳥取大山町退休寺三世無余空圓大和尚をまねき曹洞宗として開山とのこと。青砥義清は、売布神社宮司家の御先祖であるという。


グーグル地図で見る白潟の街と円成山の位置
天神川の以北の平野部は、太古 宍道湖の水の中だったと思われる。

e0354697_15145850.jpg


夕暮れの天神川

e0354697_21311882.jpg


ここで大きな疑問が出てきた。大山寺縁起(応永5年─1398年)の時点で、橋のたもとに既に神社が描かれている。望湖山龍覚寺も応永年間に建てられてともに在ったとされている。そうなると、大山寺縁起に描かれたあの鳥居は何なのか。大山寺縁起に描かれた松の木のあの小山は、白潟の町の微高地を描いたものとされているが、二つの小山は、床几山と円成山と考えるしかなくなる。
──そうなると、白潟と末次をつなぐ白潟橋はなんなのか。仮に天神川にかかっていた橋とすると、島根半島につながる末次とはつながっていないことになる。応永年間に龍覚寺も売布神社の近くに作られたという話が頭を混乱させる。
それとも、応永年間ではなく、鎌倉時代の大日如来像が存在するということなので、お寺ももっと前に作られたとしないとつじつまがあわない。それか、応永年間だということを信用すれば、売布神社の故地に、龍覚寺を後に建てたと言う事になる。

「袖師ヶ甫の岩崎鼻」というが、現在の地形からは、鼻という突き出た所が無い。それもそのはず、袖師や嫁が島の周りは、埋め立て地であり、昔の地形は、概ねJRの鉄道が通っているところである。円成山も削られたようにも見える。
天神川と大橋川に挟まれた中州のようなところが、白潟の地である。
円成山の突き出た所と天神川の拡がった河口で湾のような地形だったと思われる。そこが、白潟という潟地が生まれる以前の港だったのか?


■ 堀尾家菩提寺 円成寺

e0354697_21435069.jpg


青砥判官義清開基した望湖山龍覚寺や旧鎮座地の売布神社が、円成山の北麓にあったのか、現在円成寺のある南麓だったのか定かではない。
さて、この円成寺は、松江開府の祖─堀尾吉晴の堀尾家の菩提寺であった。元は、龍翔山瑞応寺と号し、慶長16年(1611年)能義郡富田より城安寺を移し、現在の天倫寺のところにあり、新たに開山したものであった。

2代目松江藩主 堀尾忠晴は、13歳にして松江城初代城主となり、(堀尾吉晴は、息子の忠氏に家督を既に譲っており、松江城の完成目前に死亡した。)近世の城下町建設の礎を作り、寛永10年(1633年)35歳の若さで病気で亡くなった。堀尾家には跡継ぎが無く、その後、藩主京極忠高が寛永12年(1635年)瑞応寺を現在の場所に移し、堀尾忠晴公の法号「円成院」をもって、「鏡湖山 円成寺」と改称した。円成寺には忠晴公の墓がある。


◆ 参考文献 ◆

谷川健一編『日本の神々 7』白水社   
白根尚彦 編集・発行 『島根の寺院』 有賀書房


# by yuugurekaka | 2019-03-14 09:26 | 膳氏 | Trackback | Comments(0)

宝暦(1751~64)年間に書かれたとする『雲陽大数録』には、「白潟の地、白砂の土地故白潟と云なり」とあり、松江市の平野部で、もっとも古い時代に形成した沖積地であった。さらに、水運の拠点として栄えた松江平野の最初の町であった。
古代から中世にかけては、意宇川の流域が栄えていたと思われるが、中世の終わりから、港を抱えた白潟の町の重要性が大きく高まったと思われる。尼子氏VS毛利氏戦国時代には、わかっているだけでも2度も毛利に白潟の町は火を放たれるほど、尼子氏の重要な拠点であったようである。

現在の売布神社 現在は、新大橋南詰にある。近世初期には、ポートピア西側付近にあったとされる。1439年の社領寄進状には『橋姫大明神』、1594年の棟札には『白潟御橋姫大明神』、1679年の地域裁許状には『白潟宮』などと、神社名が記載されている。

e0354697_23382325.jpg

■ 膳夫の神  櫛八玉神

御祭神
主祭神 速秋津比賣神(水門ノ神、祓門ノ神)
相殿神 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命(樹種ノ神)
摂社神 櫛八玉神(漁労ノ神、調理ノ神)

さて、その売布神社の由緒によると、〝当社は遠く神代において摂社の御祭神である櫛八玉神が 潮路の八百会に座す速秋津比賣神を万物の生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、のちに樹種の神とされる 相殿の三神が合わせ祀られたと伝えられています。〟ということで、
速秋津比賣神の孫である櫛八玉神(くしやたまのかみ)が、祖神を祀ったことが、売布神社の創始だという。

この櫛八玉神であるが、『古事記』では、大国主命が国譲りを決めた後、多芸志の小浜で鵜に変身して海底の赤土をとり八十の平皿を作り海藻を刈って 、燧白・燧杵を作り、火を鑽り出し調理した、魚をたてまつる膳夫(料理人)になった神である。この膳夫の神である櫛八玉神は、水門(港、湊)の神でもあり、鑽りの神でもあるわけである。出雲大社摂社 湊神社にも祀られている。

売布神社拝殿

e0354697_23384504.jpg

ここの境内社であるが、金刀比羅神社、船霊神社、恵美須社、和田津見社など、海に関係する神々が多く、ここ白潟の地が、近世いかに水運、漁業の町として栄えていたのかを物語っている。

和田津見社
櫛八玉神・豊玉彦神・豊玉姫神を祀る。

e0354697_23390025.jpg

■ 売布の名前

この売布(めふ)の名前であるが、一説には、「清火を鑽り出すべき海布の生ずる所」と言われる。
また、全国にこの「売布」の名のつく神社が多数存在する。

『式内調査報告』第五巻から転載すると、

一、高賣布神社  摂津國河邊郡(現 兵庫県三田市酒井宮)。
  祭神 下照姫命・天稚比古命。
一、賣布神社 摂津國河邊郡(現 宝塚市売布山中町)。
  祭神 高比賣神・天稚彦神 
一、賣布神社 丹後國竹野郡木津村木津。
  祭神 不詳。
一、賣布神社 丹後國熊野郡下佐濃村女布。
  祭神 稱女布大明神・大咩布命。
一、賣布神社 但馬國城崎郡。
  祭神 不詳。

一見 一貫性がないようであるが、
最初の二つは、下照姫命(高姫命)と天ワカヒコ命という国譲り神話に関係があり、地祇と天神との婚姻である。もうひとつの稱女布大明神は、わからないが、「大咩布命」とは、若湯坐連の祖であ意富売布連であり、物部十市根命の末弟である。(『先代旧事本紀』)物部十市根命は、出雲神宝問題で登場し、出雲大社と関係がある。

加藤義成著『出雲国風土記参究』に、「賣布というのはもと物部氏の遠祖賣布命に関係があったかもしれない。」という一行があり、単なる語呂のように思ったが、膳氏(古代の食膳を管掌する 伴造氏族)や、若桜部氏の系譜を調べていくうちに、膳氏に阿部氏と物部氏の二系存在することがわかり、物部大咩布命と本当に関係があるのではないかと思うようになってきた。
宝塚市の売布神社の本来の祭神も、下照姫命ではなく物部氏の意富売布連と言われているらしい。 ウィキペディア 売布神社(宝塚市)

■ 膳氏の系譜

まず、『先代旧事本紀』国造本紀で、膳氏ゆかりの国造が無いか調べると、若狭国造がある。若狭国は、小浜港を抱える福井県南部であり、ヤマト王権の日本海出入り口として、「御食国(みけつくに)」であったとされる。皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料を貢いだと推定される国であった。

若狭国造(わかさのくにのみやつこ)
允恭朝の御代に、膳臣(かしわでのおみ)の祖・佐白米命(さしろよねのみこと)の子の荒砺命(あらとのみこと)を国造に定められた。

この膳氏であるが、ウィキペディアで調べると、 → ウィキペディア 膳氏

〝始祖は『日本書紀』・『高橋氏文』・『新撰姓氏録』によると、 孝元天皇の皇子、 大彦命(おおびこ の みこと)の孫にあたる磐鹿六鴈命(いわか むつかり の みこと)。『古事記』では大毘古命の子、比古伊那許士別命(ひこいなこじわけ の みこと)を祖としている。『新撰姓氏録』左京皇別・和泉皇別によれば、阿倍朝臣と同祖ともある。膳大伴部の伴造として朝廷の供御を主宰した。

始祖の磐鹿六鴈は、景行天皇の東国巡幸に隨行し、 上総国において 堅魚や 白蛤を調理して天皇に献上し、その功により以後天皇の供御に奉仕することを命ぜられ、また膳臣の姓を賜ったという。

また、〝684年(天武天皇13年)膳臣一族は朝臣の姓をいただき、『新撰姓氏録』左京皇別及び『高橋氏文』では天武天皇12年に氏の名を高橋氏と改めたと記されている。〟(太字強調は私)

ウィキペディアの記事だけを見ると、孝元天皇の皇子・ 大彦命の末裔」ー阿部氏の系譜としか、出て来ないが、『新撰姓氏録』(816年)を見ると、物部系も存在するのがわかる。※若桜部は、膳臣余磯(あれし)が賜った由来のもの。

左京   皇別    高橋朝臣  朝臣 阿倍朝臣同祖大稲輿命之後也
左京   皇別    膳大伴部     阿倍朝臣同祖大彦命孫磐鹿六雁命之後也
右京   皇別    若桜部朝臣 朝臣 阿倍朝臣同氏大彦命孫伊波我牟都加利命之後也
摂津国  皇別    高橋朝臣  朝臣 阿倍朝臣同祖大彦命之後也
和泉国  皇別    膳臣    臣  阿倍朝臣同祖大鳥膳臣等。付大彦命之後
右京   神別 天神 高橋連   連  饒速日命七世孫大新河命之後也
右京   神別 天神 若桜部造  造  饒速日命三世孫出雲色男命之後也  ※四世孫 物部長真胆連
山城国  神別 天神 高橋連   連  饒速日命十二世孫小前宿祢之後也    
河内国  神別 天神 高橋連   連  饒速日命十四世孫伊己布都大連之後也  
和泉国  神別 天神 若桜部造  造  饒速日命七世孫止智尼大連之後也  
止智尼大連は、物部 十千根命のこと

「若桜部」の由来の『日本書紀』履中天皇の条を見ると、
膳臣の余磯(あれし)→稚桜部臣
物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)→稚桜部造になったことがワンセットで述べられている。

また、宮内省内膳司に仕えた膳氏の末裔である高橋氏が安曇氏と勢力争いした際、古来の伝承を朝廷に奏上した家記『高橋氏文』(逸文)によれば、景行天皇に高橋氏の遠祖・磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)が、膳の姓を賜った話と同時に、若湯坐連らの始祖・物部意富売布連の子の豊日連に火を鑚らせた話、そして、斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔であるということが述べられている。

こうしてみると、膳氏は、阿部氏一系ではなく、物部氏と相交わるという感じである。
磯城王朝VS物部王朝という図式で、阿部氏VS物部氏という歴史を一つの断面で見ることもできるが、片方で、饒速日命が、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)の妹と婚姻しているという同族化の話(富家伝承では、登美能那賀須泥毘古は、大彦命)を考えると、母系をたどれば阿部氏、父系をたどれば物部氏ということも反映しているのかもしれない。また、その逆も考えられる。

○ 参考文献 ○

式内社研究会『式内社調査報告 第二十巻』 皇學館大學出版部
高群逸枝著 『母系制の研究(下)』 講談社文庫

# by yuugurekaka | 2019-03-09 08:42 | 膳氏 | Trackback | Comments(2)

松江の飲み屋街といえば、伊勢宮か東本町である。
私は、バスで伊勢宮の街に行くとき、いつも大橋南詰めで降り、西へ歩いて賣布(めふ)(以下売布神社と書く)の前を通る。現在の売布
神社は、新大橋のたもとに鎮座している。

夜の松江大橋

e0354697_21121099.jpg

■ 橋姫大明神

さて、この松江大橋の起源であるが、初代は、慶長13年(1608年)に作られ現在の橋が17代目だとされている。参考→ ウィキペディア 大橋(大橋川)
しかし、大山寺縁起応永5年─1398年)( → ウィキペディア 大山寺縁起 によれば、南北朝時代には既に白潟橋という橋が一本架かっていたとされており、橋のたもと(南側)に赤い鳥居も描かれている。
また、『昭和九年賣布神社調古文書棟札等寫』によると、
売布神社の社名は、永亨11年(1439年)「橋姫大明神」(若宮三河栄藤 社領寄進状)、名應4年(1495年)「白方御はしひめ」松浦道念寄進状)と呼ばれていた。
だから、松江の城下町ができる慶長13年以前にも、橋はあったわけであり、橋の南側に、橋の守護神として、橋姫大明神(売布神社)が存在していた。

この『橋姫大明神』の橋姫であるが、橋姫は、京都の宇治橋姫神社など、瀬織津姫(せおりつひめ)を祭神としているところが多いが、現在の売布神社の祭神は、瀬織津姫ではなく、同じ祓戸大神(→ ウィキペディア 祓戸大神 )の速秋津比売神(はやあきつひめ) である。ウィキペディアによれば、速開都比売神(はやあきつひめ)は、〝 河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む〟という役割の神のようである。

考えてみるに白潟橋の場所は、大橋川と宍道湖との結節点で、大橋川の河口付近(※宍道湖から中海側に水が流れているので、大橋川の入り口であり、河口という表現は微妙である。)に位置する。ただ『出雲風土記』(733年)時代の地形では、大橋川の大部分が朝酌町、矢田町あたりまで、宍道湖がくいこんだ地形であったとされている。しかしながら、出雲風土記時代は売布神社は、白潟橋のたもとではなく、宍道湖のもっと西方にあったという。その西側はどこだったか、また後述するとして、宍道湖東部が陸地化して、それに伴って、移動してきたと思われている。

宍道大橋から見える夕暮れの松江大橋

e0354697_02264128.jpg

■ 水戸神

また、天正 3 年(1575)6 月の『島津家久上京日記』によれば、売布神社のあった白潟という町には橋が架かっているだけではなく、船着き場があったようである。当時は、今と違って、海上交通が重要な意味を持っていた。米子の港→馬かたの関→白潟の港→平田の港という船による旅が読める。

〝一廿一日打立、未刻に文光坊といへるに立寄、やすらひ、軈而大仙へ参、其より行て緒高といへる城有、其町を打過、よなこといへる町に着、豫三郎といへるものゝ所ニ一宿、一廿二日明かたに船いたし行に、出雲の内馬かたといへる村にて関とられ行に、枕木山とて弁慶の住し所有、其下に大こん島とて有、猶行てしらかたといへる町に舟着、小三郎といへるものゝ所ニ立よりめしたへ、亦舟捍し行に、右ニ檜木の瀬とて城有、其より水海の末に蓮一町はかり咲乱たる中をさなから御法の舟にやとおほえ、漕通、平田といへる町に着、九郎左衛門といへる者の所に宿、拾郎三郎よりうり、亦玄蕃允より酒あつかり候、〟(『島津家久上京日記』)

『古事記』では速秋津比売神は、速秋津比古神と共に、伊邪那岐命・伊邪那美命の間に産まれた男女一対の神とされ、別名水戸神(みなとのかみ)とも記されている。速秋津比売神の「津」は「港」と一般的に解されているので、白潟の港の神というのが、速秋津比売神を祭神とした理由なのかもしれない。


# by yuugurekaka | 2019-02-17 10:13 | 膳氏 | Trackback | Comments(0)

1)富家伝承  

富家伝承によれば、「武志」の地は、出雲大社の建設の予定地であった。
〝出雲郡武志の北方には、宇賀という地名の山々がある。古事記には「ウカノ山(宇伽能山)の山本に、宮柱を建てる」という語句がある。これも武志が宮予定地だったことを示している。〟(斎木雲州著『古事記の編集室』 大元出版)

その建設予定地ではなく、杵築になったのは、
〝八千矛王の遺体は北山山地の竜山に埋葬されていたから、その山を拝む位置に社を建てるように、と神門臣家から指示があった。
八千矛王(大己貴命)をまつる社は、すでに神門臣家により飯石郡三刀屋郷(雲南市三刀屋町給下)に建てられていた。
七一六(霊亀2)年に建てられた杵築大社は、三屋神社から大国主の御神霊が遷座された。
(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』 大元出版)と、書かれている。※太字強調は、私。

なぜに竜山に埋葬されているのか。
あまり縁起のいい話ではないので、今まで記事にしていないが、
八代目オオナムチ 八千矛王(大国主命)と八代スクナヒコ 事代主命が、徐福の手下に、海崖の窟に閉じ込められ、大国主命と事代主命が亡くなってしまった話がある。富家伝承本を読んで最初にびっくりする所である。

「イナセハギに捕らわれた事代主は、粟島の裏の洞窟に幽閉された。八千矛王も猪目洞窟(出雲市猪目)に、幽閉された。」(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』 大元出版)
なお、現在粟島のある弓浜半島は、奈良時代「夜見島」であり、死の世界と結びついた名前がついている。

秦に滅ぼされた斉出身の徐福が、日本に上陸し、日本の国王をめざすため、日本の王族(向家ー富家)との婚姻関係を結ぶ(高照姫命と)が、その後、日本の国王と副王を亡き者にしたという話である。この徐福が、一度目の来日で和名「火明命」を名乗り、二度目の来日で和名饒速日命」を名乗るというのがさらに驚きの話である。さらに、この徐福を「素戔嗚命」として出雲族の祖にした神話が作られたとする。

グーグル地図 出雲大社と竜山の位置関係

e0354697_18545867.jpg

そして、出雲大社の祭神が、なぜ大国主命になったのかについては、
〝奈良時代までは、都の貴族も出雲王国のオオナムチ・八千矛王のことを覚えていた。かれが徐福の指図により、非業の死を遂げたことも知っていた。 そして、都の貴族たちの中には、海部王朝や物部王朝の子孫が多かった。かれらは、八千矛王の怨霊を恐れていたから、八千矛の神霊を祭って欲しいと考えていた。
 また磯城王朝もオホド王朝も、出雲王家の血が濃かった。その血を持つ家は、臣を名乗ることができた。奈良時代の貴族の大半は、出雲王家の血も受けていた。
 これらの貴族は逆の立場で、八千矛王を尊崇するために、大国主を祭って欲しい、と考えていた。〟(斎木雲州著『古事記の編集室』 大元出版)と、いうことらしい。


八代目オオナムチとスクナヒコが殺されたというのは大事件であるわけで、どこか別の文献あるいは伝承にも残っているはずと思い、図書館でいろいろ本を探すが何も出て来ない。忌まわしい事件であるし、関連する氏族にとっては、子孫としては残したくない話なので、荒魂を鎮めるがごとく、出雲大社に鎮まる大国主命と同様に封じ込めてしまったのかもしれない。

でも、よくよく考えてみると、万葉集「志都の石屋」の歌と『出雲風土記』宇賀郷の記載が、その伝承を暗示しているものかもしれない。

2)志都(しつ)の石屋(いわや)

「志都の石屋」伝承地の一つ 粟島神社の石碑   鳥取県米子市彦名町 
粟島神社のある弓浜半島は、奈良時代は島であり、「夜見島」と呼ばれていた。
 
e0354697_18413886.jpg

まずは、有名な万葉集の歌 オオナムチ・スクナヒコ コンビの志都の石屋の歌である。

万葉集(巻3-355)

(おふ)石村(しのすぐ)()真人(まひと)の歌一首

大汝(おほなむち)少彦名(すくなひこな) いましけむ

()()石屋(いわや)は、幾代(いくよ)()にけむ


大汝と、少彦名がいらっしゃった志都の石屋は、どれくらいの年月を経たのでしょう。

この歌をどこで詠んだのか、いろいろな説がある。有名な伝承地では、①島根県大田市静間町「静の窟屋」②島根県邑智郡邑南町岩屋「志都の石屋」⓷兵庫県高砂市阿弥陀町「生石神社(おおしこじんじゃ)石の宝殿」④鳥取県米子市彦名町「粟島神社」④和歌山県串本町潮岬「潮御崎神社」があるようだ。

「静の窟屋」 島根県大田市静間町  平田篤胤説では、「志都の石屋」比定地である。
海食洞で奥行は約45m、高さは約13m。元々ここに静間神社があったという。

e0354697_18410673.jpg

現代では、オナムチとスクナヒコが国づくりのため、いわや=洞窟を仮の宿にしたという伝説として一般的に理解されている。
しかし、弥生時代においては、既に首長層は高床式木造建築に住んでおり、高い地位の人が洞窟でキャンプをはるというのが、実際的な話としては想像できない。また、アイヌの伝承でも、海の洞窟は死の世界への入り口の話が多い。→ 青空文庫 「あの世の入口 ――いわゆる地獄穴について―― 知里真志保」 
むしろ、洞窟に神として鎮座していると理解したほうが想像できるように思う。大国主命は、『日本書紀』において、国譲りの後、幽界の神事を司るという話になっているわけである。


3)出雲風土記 黄泉の坂・黄泉の穴

とどのつまりが『出雲風土記』の宇賀郷の記事である。ここの海壁の洞窟は、黄泉の坂・黄泉の穴と呼ばれており、死と結びつけられている。

〝名は(なづきの)(いそ)。高さ一丈ばかり。上に生えた松が生い茂り、磯まで届いている。邑人が朝夕に往来しているかのように、また木の枝は人が引き寄せたかのようである。磯から西の方に(いわや)()がある。高さ・広さはそれぞれ六尺ばかりである。窟の中に穴がある。人は入ることができない。奥行きの深さは不明である。夢でこの磯の窟のあたりに行くと、必ず死ぬ。だから土地の人は古より今に至るまで、黄泉(よみ)の坂・黄泉の穴と名づけている。

(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


昭和23年に漁船の船置き場として利用するために拡張工事をした折に、発見された猪目洞窟が発見されてから、黄泉の穴の比定地にされているが、実際に行ってみると、恐ろしいところではない。

縄文中期の土器片も見つかっているが、弥生時代から古墳時代にかけての13体以上の人骨が見つかっている。また、ここには生活の遺跡として、木製品や土器、骨角器などの道具や、食料品の残骸と思われるものも出土している。 詳しくは 過去記事→ 出雲郡 宇賀郷(3)~「猪目洞窟」~


しかし、『大社の史話』という郷土史を読んでいて、猪目洞窟とは別に、鷺浦の巨大洞窟「ながらの窟」という比定地が存在するのを知った。

参考→ 島根県出雲市、「神話の国」黄泉の穴、脳島洞窟の形態と猪目洞窟


4)ながらの窟 


ながらの窟へは、陸伝いに行くのは困難ようである。

ながらの窟屋のある鷺浦には伊奈西波岐神社という神社がある。ここの祭神が、稲背脛命で『日本書紀』の国譲り神話では、事代主命へ使いに行く役割を持っているが、江戸時代初期の『懐橘談』(前編1653,後編1661)を見る限りでは、祭神が「素戔嗚命の妾」になっている。→『稲羽の素菟』(13) 鷺大明神の謎 ② 稲背脛命



ながらの窟を『出雲風土記』の宇賀郷の黄泉の坂・黄泉の穴に比定しているのは、郷土史家の梶谷実氏だ。


『大社の史話 186号』の佐藤雄一氏の文章の抜粋である。

〝『風土記』の海岸地形に関する記載は東から西に向かって順序だって記載されているが、これは『風土記』編纂に際し島根半島の地形把握が船によってなされ、登録されたことの反映であると考えられる。出雲郡には「脳島」が記載されているが、御津島ー御津浜、能呂志島ー能呂志浜、許豆島ー許豆浜(いずれも楯縫郡)などのように、同名の島と浜は対で記され、かつ同じ場所にあると考えられる。これらのこととから、梶谷氏は出雲郡に記載の脳島と脳磯についても同様の関係であり、脳島近くに脳磯があると想定し、猪目洞窟を脳磯と考えると『風土記』の記述とは矛盾することを指摘している。つまり、『風土記』を見る限り脳島が鵜峠と鷺浦の間にあったとするのはよさそうであるが、脳島と脳磯がセット関係であるならば、脳島も同じ場所にあるにあるはずで、猪目洞窟とは随分離れることになる。〟(佐藤雄一『出雲国風土記』に見える「黄泉の穴」 『大社の史話186号』記載)


なるほど、猪目洞窟は、かなり東の井呑浜にあり、西側にあると思われる脳磯からは離れている。


グーグルアースの地図 ながらの窟、竜山、鷺の浦 

ながらの窟の記載は、佐藤雄一氏の文章の地図を基にグーグルアースに移してみたもので、場所が正確でない可能性あり。


e0354697_18560056.jpg

さらに驚く話が、ながらの窟が、〝地元では「大国主命のろうや」「須佐之男命の穴」であるという伝承があるそうだ。〟
(佐藤雄一『出雲国風土記』に見える「黄泉の穴」 『大社の史話186号』記載)という話だ。
その伝承がなんなのか、他の大社町の郷土史を調べてみるがわからない。
 梶谷実氏の文章を見る限り、『古事記』に見える須佐之男命が、大国主命に課した根堅洲国の試練に①蛇の室屋(むろや)②ムカデ・蜂の室屋、⓷野焼き④頭のムカデ取りの話が出てくるが、須佐之男命が6世孫の大国主命を閉じ込めた室屋の話と思われる。梶谷氏は、ながらの窟を『出雲風土記』の黄泉の坂・黄泉の穴に比定しているが、さらに『古事記』に出てくる「根堅洲国」はここ、ながらの窟ではないかと言っておられるのだ。

改めて『古事記』を読んでみる。
大国主命は八十神たちに2度殺されてはその都度、蘇えり、木の国のオオヤビコ(五十猛神と同神と言われている。)経由で、根堅洲国に行き、試練を乗り越え、5世代前の先祖のスセリビメを連れて、黄泉つ平坂を抜け出すのだった。
最後に、それを見た須佐之男命の言葉。

〝―前略―おのれが葦原の中つ国を()べ治めてオホクニヌシとなり、またウツクシクニタマとなりて、そこにいるわが娘スセリビメを正妻(むかひめ)として、宇迦(うか)の山のふもとに、土深く掘りさげて底の(いわ)()に届くまで宮柱を府と太々(ふとぶと)と突き立て、高天の原に届くまでに()の上のヒギを高々と(そび)やかして住まうのだ、この(やつこ)め。〟

                   ~三浦佑之 訳・注釈 『口語訳 古事記』(文春文庫)~


そこには、国譲り神話とは別の、もう一つの出雲大社創建起源神話が書かれている。どっちを本当の起源話にしたかったのか迷いがあったのだろうか。ともかく、八千矛王が須佐之男命の室屋に閉じ込められていた話が、『古事記』そのものにあったわけである。改めて思うと、八十神という異母兄弟のねたみによって、2度八十神に殺される話も、徐福の手下に殺されてしまう話を反映しているのかもしれぬ。



◆ 参考文献 

斎木雲州 著 『出雲と蘇我王国―大社と向家文書』 大元出版

斎木雲州 著 『古事記の編集室―安万侶と人麿たち』大元出版

上山春平 著 『神々の体系』中公新書

上山春平著『続 神々の体系』中公新書

佐藤雄一 『出雲国風土記』に見える「黄泉の穴」  『大社の史話186号』記載 

井上光貞 著 『大化改新』(1954年 要書房。補訂版1970年 弘文堂書房)

水野 祐 著 『水泳御魂考』(大和書房発行『古代出雲と大和』所収)

鳥越憲三郎 著『出雲神話の誕生』講談社文庫

美多 実 著『古代文化叢書7 風土記・斐伊川・大社』 島根県古代文化センター

水野 祐  まぼろしの「神国」出雲王朝は存在したか 『伝説の神国出雲王朝の謎』KKベストセラーズ

石塚尊俊 「出雲大社」~谷川健一編『日本の神々 7』白水社

大加茂 真也  著 『八咫烏(ヤタガラス)の「超」日本史』 ヒカルランド


# by yuugurekaka | 2019-02-05 08:19 | 出雲大社 | Trackback | Comments(1)