■なぜに「十羅刹女社」


日御碕神社は、中世の時代、「十羅刹女(じゅうらせつにょ)社」とも呼ばれていた。

まずは十羅刹女とは何か。ウィキペディア 十羅刹女 によると、“仏教の天部における10人の女性の鬼神。鬼子母神と共に法華経の諸天善神である。” “釈迦から法華経の話を聞いて成仏できることを知り、法華経を所持し伝える者を守護する”神だそうである。

太陽神「天照大御神」であるのなら、本地仏は、「大日如来」がふさわしいと思われるが、どうして十羅刹女なのだろうか。江戸時代の地誌『雲陽誌』(1717年)によると以下の通り。


雲陽誌 巻之十

日沈宮
(前略)
耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり、
衆説区々なりしに老祀官の語けるは、上社は素盞嗚尊に田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女をあはせ祭、下社は天照大日孁貴に正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命の五男をあはせまつれり、 上の社下の社すへて十神なり、故に十羅刹女といふか、天暦の帝深此宮を崇、日の字を加たまふ、故に日御崎と号す、 古今祭礼不怠霊験惟新なり

上社が、素戔嗚尊+宗像三女神、と下社が、天照大御神+正哉吾勝尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命の五柱で、合わせて10神、それで、十羅刹女か?などと書かれている。だが女神は4神である。江戸時代の学者もよくわからないのだ。


神宮寺の関係だろうか。日御碕神社の神宮寺は、現在別の所にあり、曹洞宗であるが、曹洞宗島根第二宗務所のサイトによれば、 「天暦2(948)年62代村上天皇の勅願により、日御碕神社の境内に伽藍を創建、神宮寺と号し、別当職を司った。当時は真言宗だったと伝えられる。」とある。法華経の諸天善神を真言宗で祀るのか。


■中世の出雲神話


…と思っていたとき、平安時代の末期、御白河法王の撰である『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の一節が浮かんだ。

「聖の住居ははどこどこぞ、箕面よ勝尾よ播磨成る播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日御碕、南は熊野の那智とかや」である。出雲の鰐淵寺や日御碕は、「聖の住所」ー山岳修験の拠り所として平安貴族の間でも有名なところであった。鰐淵寺は、修験道から天台宗に転じたと云われている。“寺に残る経筒には仁平元年から3年(1151 - 1153年)にかけて書写した法華経を「鰐淵山金剛蔵王窟」に安置したとの銘があり”(ウィキペディア 鰐淵寺 )かなり前から、比叡山延暦寺と関係があったという。


―ウィキペディアの記事を見ていて、このお寺の起源が、いかに古いのかということにびっくりした。あくまで伝承であるが推古天皇といえば、寺の創始段階ではないか。と、同時に出雲風土記になぜ書いてないのか不思議である。お寺にある仏像が、持統天皇時代のものもあるから、出雲風土記の時代には存在したと思われる。それと、日下部氏由来の日下町と、鰐淵寺が地図上では近いということ。彦坐王日下部氏ーつまりは和邇氏、あの鰐(わに)は、和邇氏から来ているんではなかろうか?同じ智春上人が開寺したという万福寺も日下町から近い。


中世には、出雲大社が神仏習合時代、鰐淵寺が別当寺であり、祭神は素戔嗚尊だった。そして、日御碕神社も、中世には杵築大社の末社に取り込まれていた時期もあったということなので、その関係で、法華経の諸天善神である十羅刹女として本地仏が位置づけられたのでは無かろうかとの思いが浮かんだ。

鰐淵寺を中心とした縁起では、釈迦が法華経を初めて説いた場というインドの鷲霊山(りょうじゅせん)の一部が砕け落ちて、海に漂っているのを、素戔嗚尊が引き寄せ打ち固めたのがの島根半島であるとされる。

奈良の出雲風土記時代にある、八束水臣津野命が新羅や高志などの国のあまった土地に綱をかけて引き寄せたという国引き神話が、仏教と習合して、素戔嗚尊がインドの鷲霊山のかけらを打ち固めたというものに変容したと思われる。


十羅刹女の伝説

『雲陽誌』のそもそもの伝説、「耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり」というところであるが、「花山院長親耕雲明魏」の「修造勧進状」(1422年)の文書には、「杵築大明神の季女である十羅刹女」は無い。
孝霊天皇六十一年十一月、月国の悪神が、荒地山(あらちやま)の旧土を復さんと欲して攻めてきた。日御碕霊神が、防いだというものだ。

日御碕神社の社伝では、
孝霊天皇六十一年(神話時代)十一月十五日、月支国王彦波瓊が、兵船数百艘をひきつれてわが出雲の日御碕に攻めて来た。なぜ攻めて来たかというと、むかし、日本の八束水臣津野命が、出雲の国を大きくしようというので、新羅の御崎から国の余りをひっぱって来て、今の杵築の御崎をつくりあげられたが、あれをとりかえすために来たのであった。さあ大変というので、日御碕では小野検校家の先祖・天之葺根命十一世の孫の明速祇命(あけはやずみのみこと)が防戦これつとめられた。また遠祖須佐之男命も天から大風を吹かせてこれを助けられた。そのために彦波瓊の大軍はことごとく海のもくずと化した。このとき彦波瓊の兵船がその艫綱を結びつけていたのが、今も沖合に見える艫島であるという”(石塚尊俊 編著『出雲隠岐の伝説』 第一法規発行)

社伝においては、日御碕神社の宮司家の祖先である明速祇命となっているが、石見地方での伝説では、それが胸鉏比売(むなすきひめ)であったり、田心姫(十羅の賊を滅ぼし、十羅刹女の名を賜わう)となっている。 詳しくは→ ウィキペディア 胸すき姫 

石見神楽での演目「十羅」では、彦羽根という鬼神と戦うのが、素戔嗚尊の末女である十羅刹女となっており、「雲陽誌」の「杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現」と合致する。




■素戔嗚尊の末娘はだれか

石見地方での伝説から考えると、素戔嗚命の末娘は宗像三女神の田心姫であると思う。しかし、記紀では、確か田心姫は長女であるはず。しかし、日本書紀の本書では最初に生まれた女神であるが、『日本書紀』第一の一書(別の説)では、3番目に化生し、名は「田心姫」で、辺津宮に祀られる。とある。『日本書紀』第三の一書でも、3番目に化生し、名は「田霧姫」で、辺津宮に祀られるとある。
『古事記』では、田心姫が大国主神との間に阿遅鉏高日子根神と下照姫(したてるひめ)を生むとしているが、富家伝承では、天之冬衣神の妻神である。

日御碕神社境内社 宗像神社

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日御碕神社の境内社 宗像神社であるが、自分が調べる限りでは。宗像三女神を祀っているのではなく、田心姫命を祀っているようだ。
もしや太古、太陽の巫女神として田心姫命を祭っていたのではないか。
また、本地仏として十羅刹女になったいきさつは、全く不明であるが、女傑の宗像族が日本海を行きかっていたということから来ているのではなかろうか。しかし、九州の宗像大社の奥津宮の本地仏は、大日如来となっていて十羅刹女ではないが。
あくまで、私の想像である。

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# by yuugurekaka | 2018-08-13 18:09 | 日置臣 | Trackback

1)経

経島(ふみしま)は、お経の本を載せる机のように見えるから、その名が付いたそうだ。「文島」又は「日置島」とも云う。出雲風土記時代、日御碕神社の下社ー日沉宮(ひしずみのみや)の元宮であるの「百枝槐社(ももええにす)」があったと云われている。
日御碕神社の神域として一般の上陸は禁じられている。8月7日の例祭(「夕日の祭り」)、神官が経島に上陸し、現在の経島神社において神事が行われる。

沈む太陽と経島

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日沈宮の御由緒は、次の通り。

日沈宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(ふみじま)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎祀り給うたと伝う。
 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。
 そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に紳殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝槐社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。


現在の日御碕神社は、寛永21年(1644年)徳川三代将軍家光の命によって造営されたもので、権現造りである。日光東照宮建立の翌年寛永14年より建立着工し、7年の歳月をかけて完成した。

当時は、現在の上社・下社、楼門・廻廊等に加えて、薬師堂・多宝塔・護摩堂・大師堂・三重塔・鐘楼などが建立されていた。(明治の神仏分離により、仏塔の類は解体されてしまった。)だから、現在の日御碕神社が、江戸時代そのままというわけではない。

日御碕神社  島根県出雲市大社町日御碕455
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日御碕神社楼門   島根県出雲市大社町日御碕455


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江戸期の地誌『懐橘談』を見ると、

『懐橘談 下』(前編1653,後編1661)
“耕雲明魏記に云 雲州日御崎大明神と即杵築大明神の季女に而十羅刹女の化現也 荒地山の鎮守也 孝霊天皇六十一年現霊異云々
一説には伊弉冊尊(ママ)軻遇突智を斬て剣の鐔より垂血激越て神となる 甕速日神次に熯速日神と申奉るこれ御崎の明神ともいへり
衆説まちまちなりしに詞官の語りけるは 上の三社は田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女に素盞烏を合祭せり 下の五社は正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命五男に天照太神を合祭りて 上の社下の社で都て十羅刹女と崇奉りし故に杵築より先此宮にまいり下向して大社は参り侍る古法なり

となっている。造営の時点の祭神は、上社ー素戔嗚尊と宗像三女神、下社ー天照大御神と正哉吾勝尊(アメノオシホミミ)・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命、(いわゆる「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話の構成になっている)となっていることがわかる。しかし、「衆説まちまちなりし」ということで、昔からそうだったかといわれると怪しい。
中世には「杵築大明神の季女(末娘)に而十羅刹女」というように「十羅刹女が祭神」の社のようにもなっていた。大国主命の末娘は、だれかとすぐ思いがちだが、中世の杵築大明神とは素戔嗚尊であった。

2)日の出日の入りの角度

日置というからには、夏至(太陽が一番強い日)、冬至(太陽が一番弱い日)の日没の方向が関係があるのではないかという説に基づいて、自分も考えてみた。自分は、その説には腑に落ちた感じはしない。でも、いろいろと線を引っ張って、一応やってみる。
便利なサイトがあった。→ 日の出日の入り時刻方角マップ

そのサイトを利用して日御碕神社の周辺に地図に線を引いてみた。赤い線が、夏至の日の出・日の入りで、黄色い線が冬至の日の出・日の入りである。上社の元宮ー隠ヶ丘に中心に置くと、冬至の日の入り線上に、経島がある。

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次に宗像神社を中心に置くと、夏至の日の入り方向に経島神社がある。
ちなみに、現在の日御碕神社を見ると、上社は夏至の日の出方向の角度に沿って建っているが、下社の方は、夏至の日の入り方向とは、少し角度がずれていた。

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実際に宗像神社の前に立ってみたが、経島の方向は見えなかった。
残念ながら、経島に沈む太陽を奉拝する場所でも無いようである。まあ よくわからない。
しかし、これは現在の祭祀場を踏まえての考察である。

3)日御碕神社 海底遺跡

『大社史話 第167号』(平成23年6月23日発行 大社史話会)の岡本哲夫さんの文章を見て、大変驚いた。
海面上昇や地殻変動に伴い、いままで地上にあったものが、海底に沈んでしまったという祭祀遺跡が、日御碕の海底で発見されていたというのだ。
インターネットで検索したら、いろいろと出てきた。



参道、石段や岩屋だとか、写真やYOUTUBEの動画を見る限り、祭祀場のように見える。

いつの時代、海底に沈んだのかわからないが、一つの説として、880年の出雲地震が考えられている。(「三代實録」に 「二七日丁未、出雲國言、今月十四日、地大震動、境内神社佛寺官舎、及百姓居廬、或顛倒或傾倚、損傷者衆、其後迄干二十二日、晝一二度、夜三四度、微震動、猶未休止、」と、ある。)ただ、海底に沈むような大きな地震ならば、当然出雲大社が倒壊しても不思議はないが、そういう記事はない。全くもって謎である。

日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。

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# by yuugurekaka | 2018-08-06 09:08 | 日置臣 | Trackback

『出雲国風土記』(733年)の意宇郡の総記の国引神話に出てくる「米支しねき豆支ずき御崎みさき」が、現在の日御碕である。日御碕に建てられている、日御碕の灯台に登ったのは、18歳ごろか、あるいは30歳頃か…もう思い出せない。
もう7月なので、ウミネコはもうここにはいない。日御碕と云えば、ウミネコが有名だが、一年中いるわけではない。

出雲日御碕灯台  島根県出雲市大社町日御碕秋台原山1478
石造灯台としては日本一の高さの灯台である。

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日御碕に鎮座する有名な日御碕神社だが、出雲地方では珍しい朱色に染まった神社であり、素戔嗚尊を上社(神の宮)で祀り、天照大御神を下社(日沈宮)で祀るという、特異な構成の感じがする神社だ。
上社の元宮は、日御碕灯台の南方の『隠れが丘』にあり、出雲風土記では、出雲郡の在神祇官社『美佐伎社』であったとされ、天照大御神を祀る下宮(出雲風土記では、不在神祇官社『百枝槐社とされる。)とは別のところにあったという。

自分が思うに、『古事記』、『日本書紀』よりも前の時代は、『美佐伎社』『延喜式』では「御碕神社」)というからには、岬神として猿田彦命』を祀っていたのはなかろうか?


“(前略)此因に愚見御批判を仰ぎ度は 此神の名猿田と云ふ語は やがて亦ミサキと同じ義なりしならんかと思はるゝことに候 古史伝には猿田はサダにして 出雲の佐陀大神は同じ神なりと論ぜられ候 出雲の佐陀は島根半島の中央にて 現今の社地は海角には非ず候へ共 此半島は即ち狭田ノ国にて 西にも東にもミサキは有之候” (『柳田国男全集 第一巻 石神問答』 筑摩書房 1999年6月30日発行)

海角(かいかく)…陸地が海に突き出た細い部分、岬   

詳しくは → 加賀の潜戸(6) 佐太大神 岬神説 ~柳田国男『石神問答』~


島根半島東部に存在する『加賀の潜戸(かかのくけど)』であるが、出雲風土記時代は、加賀の潜戸で誕生したのは、サダの大神であったものが、中世には、天照大神に替えられてしまったのだ。詳しくは → 加賀の潜戸 (3) 猿田彦命ではなく天照大神だった。
猿田彦命自体に、太陽神的な性格があるので、太陽神=皇祖神 天照大御神に再編されると、天照大御神にすり替わってしまったのではないかと思う。


日御碕灯台の周りには、遊歩道が整備してあり、東側には、日本三景の松島にならって名付けられた「出雲松島」なる絶景ポイントがあった。

出雲松島

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東北方面には、桁掛(けたかけ)半島の洞窟が何個か見える。
その中の一つが、「のろの洞窟」という名の洞窟がある。どの穴かよくわからないが、「ふた割れ」「舟磯」「のろの洞窟」「つばくろ穴」と名前がついているらしいので、かなり右手にある穴なのかもしれない。
なぜに「のろ」?奄美諸島と沖縄諸島で云われるところの祭祀主の女性の「のろ」なんだろうか? → ウィキペディア ノロ
洞窟そのものが祭祀場であることが多いが、もしや、「加賀の潜戸」のような、「日光感精型」の祭祀場だったのかも?
しかし、一説によれば、元は「布の洞窟」であり、なまって「ぬの」が「のろ」になったとも云われているそうだ。

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さて、表題の上の宮(神の宮)の元宮であるが、日御碕灯台の前の駐車場の前の道路に面した丘にある。登り口がどこか探したら、海に向かう道の途中にあった。

隠れが丘 参道

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この参道を歩いていくと、隠れが丘の「神の宮」に着いた。
ここのお宮の由来であるが、

神代の昔、素盞鳴尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂(みたま)はこの柏葉の止る所に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に美佐伎なる隠ヶ丘に止った。よって御子神天葺根命はここを素戔嗚尊の神魂の鎮まります霊地として根の国の根源として中央より厚く遇せられ”とある。

隠れが丘 神の宮

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ここの鳥居の方向から察すれば、朝日の出を拝むというよりは、夕日を拝む方向である。
根の国とは、黄泉の国と同じような死後の世界とも云われるが、もしやそれは、太陽がこの世界からお隠れになるー日が沈んだ世界を云うのではないかなと思った。素盞鳴尊が高天原で狼藉を働き、天照大御神が岩戸にお隠れになり、この世が暗黒になるという神話があるが、狼藉を働かなくとも、太陽は毎日西の方角に消え、この世は暗黒に包まれる。また東の方向から、太陽が誕生する。

日御碕から見える沈む太陽

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大古ーいつの時代の昔かわからないが―には、翌日にはまた東から、太陽に現われてほしいという沈む夕日にお願いをするという素朴な信仰であったのではないかしら。


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# by yuugurekaka | 2018-07-28 11:00 | 日置臣 | Trackback

今市大念寺古墳  島根県出雲市今市町鷹の沢1696  
島根県最大(全長約92m)の前方後円墳(6世紀後半)。石棺は日本最大級の大きさである。


■欽明天皇の頃


『出雲風土記』(733年)には、神門郡に「日置」の名前が付いた「日置郷」の由来が書かれている。


日置( へき)郷。郡家の正東四里、志紀(しき)(しま)宮御宇(みやにあめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)(きん)(めい)天皇)の御世に、日置(へきの)伴部(ともべ)たちが遣わされて宿停(とどま)り政務を執った所である。だから日置という。”

(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


日置の伴部が、欽明天皇(509年~571年)の時代に派遣されたという。欽明天皇は、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によれば、次の通り。


“第 29代に数えられる天皇。名はアメクニオシハラキヒロニワノミコト。継体天皇の皇子。母は皇后手白香 (たしらか) 皇女。6世紀なかば在位。この欽明朝に百済の聖明王が仏像経論を献じた。公式にはこれが仏教の最初の渡来とされているが,崇仏に関し蘇我,物部両氏の対立があった。対外的には,朝鮮との関係が新羅の進出に伴ってふるわず,日本人出先官憲の不正,失政も手伝って,危機にあった任那は新羅の傘下に入り,任那日本府はついに滅ぼされた。天皇はこのことを遺憾とし,その回復を遺詔して薨去したといわれる。宣化天皇の皇女の石姫を皇后とし,大和磯城島金刺宮に都した。陵墓は奈良県高市郡明日香村の檜隈坂合陵。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)


欽明天皇の時代の特徴は、まとめると、①仏教の最初の渡来。そして、蘇我氏の勃興。②仏教を巡って蘇我氏(祟仏)VS物部氏 (廃仏派) ③任那の滅亡である。『出雲風土記』における日置氏の役割、お寺を作るー仏教の普及ということも職務としてあったのではないか。東出雲の方墳、前方後方墳と西出雲の円墳、前方後円墳の古墳ということや倭風大刀の分布から、西出雲は、物部氏の影響と云われるが、西出雲での日置氏はお寺を作っているし、蘇我氏との関係が強いのでは?とも、思ってしまう。


■上塩冶築山古墳

神門郡日置郷にあ上塩冶築山古墳(かみえんやつきやまこふん)である。古墳時代後期後半の古墳である。墳丘や石室・石棺の規模や副葬品の豪華さから出雲西部では最高位のものとされ、今市大念寺古墳の後継の大首長の墓と云われている。詳しくは→ ウィキぺディア 上塩冶築山古墳

上塩冶築山古墳  島根県出雲市上塩冶町262


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現在の形は、中世から崩されており、方墳にしか見えないが、円形の周溝跡が発見されたことから、現在では円墳であると推定されている。しかし、北方に前方部がある可能性も完全に否定されていないので、前方後円墳の可能性もある。
山陰地方では最も長い全長14.6 mの切石積み横穴式石室が有り、玄室内には大小2つの刳抜式(くりぬきしき)家形石棺が置かれている。

この横穴式石室は、6世紀前半から西日本で作られるようになったが、なぜだか、神門郡の大きな古墳は、ほとんど開口部が下記の図のように、南西方面を向いているものが多い。(今市大念寺古墳・宝塚古墳・妙蓮寺山古墳・放ㇾ山古墳など)

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ただ全部が正確に南西45度というわけではなく、上塩冶築山古墳は西南西、宝塚古墳は、南南西というように、古墳ごとに厳密ではないようだ。
なぜに、南西なのか、考えてみたが、もしや冬至の日没の角度(南方に約30度)が関係しているのかな?などと思った。(逆に言えば、横穴の奥が夏至の日の出に向かっているとも言える。)
まあ、よくわからない。
冬至 夏至 春分秋分.svg
By すじにくシチュー - 投稿者自身による作品, CC0, Link

しかし、上塩冶地蔵山古墳(7世紀前半においては、9.2mの横穴式石室が、南西ではなく、南東を向いている。もしかしたら葬られた豪族が違うのかな。


上塩冶地蔵山古墳  島根県出雲市上塩治町472
現在、墳丘が、掘削されて15mの方墳のように見える。

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■参考文献■
出雲市教育委員会 2004年3月 発行 『上塩冶築山古墳』
出雲市文化財課  2017年3月発行  『こふマップ』


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# by yuugurekaka | 2018-07-19 07:30 | 日置臣 | Trackback

出雲国出雲郡の大領(長官)をつとめる日置氏であるが、代々長官を務めていた家系であったように思う。そうなると、出雲平野の開拓の初期段階から、つまり出雲臣が意宇郡から移動してくる前から既に住み着いていたのではなのかなあと想像する。それがいつの時代かはっきりしないのだが、我々が思っているよりもはるか昔だったのではないのかとと思い始めた。

■ホムツワケ伝承の跡地


           

垂仁天皇の時代の物言わぬ誉津別皇子(ホムチワケオウジ)の伝承地には、神門氏、日下部氏、日置氏、鳥取部氏、品治部氏が関係しているように思われる。日置氏が中心氏族であった出雲郡出雲郷には(河内郷だったかもしれないが)、白鳥を捕らえた伝承地の求院(ぐい)という地名が存在する。

斐川町の
鵠(くぐい)神社の説明板によると、
鵠が捕らえられる前に飛び越えた川を鳥越川といい、捕らえた地は、「くぐい」が「ぐい」になり、求院という地名になったと言われる。

鵠神社(くぐいじんじゃ) 出雲市斐川町求院 八幡宮境内社    
祭神 誉津別王

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それと、『出雲風土記』に見える神門郡高岸郷、仁多郡三澤郷に見えるアジスキタカヒコの説話━大人になっても髭ぼうぼうで言葉がしゃべれないという記述━は、ホムツワケ皇子とかなり似ている。垂仁天皇の御子=ホムツワケ皇子と大国主命の御子=アジスキタカヒコ命と、どこかで話が習合してしまったかのように見える。

■尾張国の日置氏の起源
ホムツワケ伝承と日置氏との関係は、尾張国風土記(逸文)に見られる。

尾張国 風土記逸文  (『釈日本紀』卷十)
吾縵(あづら)郷
 尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。
天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこの地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建てて神を祀った。(「吾が作った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”
  『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  (角川ソフィア文庫)※ 下線と太字は、私。

阿豆良神社  愛知県一宮市あずら1-7-19

Azura Jinja-Shrine 20150724.JPG
             By 円周率3パーセント - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link



垂仁天皇の頃の話とは、応神天皇の時代よりはるか昔である。垂仁天皇の御子ホムツワケ皇子が、大人になってもしゃべれない理由が、出雲大神の祟りであったものが、尾張風土記では、(出雲大神の子孫と結婚したと思われる)出雲の多具(たく)の国のアマノミカツヒメの祟りということになっている。記紀に崇神天皇の項で、三輪山の大物主の子孫オオタタネコに祭らせたという話があるので、この日置部等が先祖に当たる建岡の君も、アマノミカツヒメの子孫である可能性もあるのではないか?


この建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き、縵(かづら)に作って、占いをして、アマノミカツヒメの神がいる所を探し、社を建てたという話だ。もしや、日置部氏とは、神社やお寺を建てる場所を占いで、決めるというのが主要な職務であったのかもしれないと、思った。


この尾張国風土記の記事を裏付けるように、出雲風土記天甕津日女命(秋鹿郡)あるいは天御梶日女命(楯縫郡)の記載がある。

なお天甕津日女命は、大国主命の系譜の臣津野命の子の赤衾伊努意保須美比古佐倭気命の妻であり、天御梶日女命は、大国主命の御子のアジスキタカヒコ命の妻である。名前が似ているが、同一神であったかどうかはわからない。


島根県松江市鹿島町南講武602 多久神社 祭神 天甕津日女命


多久神社 島根県出雲市多久町274
御祭神 多伎都彦命・天御梶姫命

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■尾張氏の日置日女命


このアマノミカツヒメであるが、尾張風土記に出てくるくらいだから、尾張氏の系譜の神だったのではないかと思う。

先代旧事本紀 巻五 天孫本紀で尾張氏の系譜を見ると、
始祖 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
子  天香語山命 異腹の妹の穂屋姫を妻として、一男を生む
孫  天村雲命  阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女を生む。
三世 天忍人命  異腹の妹の角屋姫、又の名は葛木の出石姫を妻として、二男を生む。
   次に 天忍男命  葛木の国つ神・剣根命の娘・賀奈良知姫を妻として、二男一女を生む。
   妹に忍日女命。
四世 瀛津世襲命[又は葛木彦命という。尾張連らの祖である]。天忍男命の子。孝昭天皇の時代、大連
   となって仕えた。
   次に建額赤命。葛城の尾治置姫を妻として、一男を生む。
   妹に世襲足姫命[又の名を日置日女命]。腋上池心宮に天下を治められた孝
   昭天皇(観松彦香殖稲天皇)の皇后となり、二人の皇子をお生みになった。すなわち、天足彦国押
人命と、次に孝安天皇(日本足彦国押人天皇)がこれである。
   同じく四世孫・天戸目命。天忍人命の子。葛木の避姫を妻として二男を生む。
   次に天忍男命。大蝮壬生連らの祖である。

五世孫以下 省略。

アマノミカツヒメに似た名前の女神は出て来ない。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊よりも前の時代の尾張国にいた女神だったのかもしれない。
しかし、5代天皇・孝昭天皇の皇后『日本書紀』本文では)世襲足姫命(よそたらしひめ)の別名が、日置日女命である。
もしや、この時代から、皇后の「御名代部」として日置部が発生して、なんどとなく、再編されてきたのではないかという思いが浮かんだ。また、この世襲足姫命は、ホムチワケ伝承の登場人物、彦坐王の御子たちの関連氏族である和珥氏の祖とされる天足彦国 押人命の母でもある。


富能加神社(ほのかじんじゃ)   島根県出雲市所原町3549

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出雲国神門郡に存在する、ホムチワケ皇子と出雲の肥長比売命を結ばれた檳榔(あじまさ)の長穂の宮跡の伝承がある富能加神社である。「ほのか」というからには、星神信仰とも関係があるように思う。星神と云えば、天津甕星ー天香香背男が浮かぶ。単に名前が似ているだけかもしれないが、「天背男命」という尾張氏の遠祖がいる。なんとなくではあるが、尾張氏も関係しているような気がする。


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# by yuugurekaka | 2018-06-24 11:07 | 日置臣 | Trackback

Descent of Amitabha over the Mountain

                 絹本著色山越阿弥陀図 (京都・禅林寺(永観堂)所蔵)


日置部が、どういう職務を与えられていた職業部なのか、様々な説がありよくわからないが、日置氏一族は、沈む太陽への信仰を持っており、出雲風土記に書かれるところを見ると、お寺を作っているということだけはわかる。
いつの時代か、また、日置氏がどうなのかをさておいて、考えてみる。


まずは、仏教と日が沈む信仰とは、なんぞや?とインターネットで、検索すると、
「西方浄土」やら、「日想観」という言葉が出てくる。

「日の入り給ふ所は、西方浄土にてあんなり。いつかわれらもかしこに生れて、物を思はですぐさむずらん」(平家物語)
この世の西方、太陽が沈む先の、十万億の仏土を隔てたところに存在する阿弥陀如来が構えられた極楽浄土の世界があるとする。
そして、この信仰は、浄土思想固有のものだけでなく、日本人の「お彼岸」というか、春分の日・秋分の日ということに関係してくるらしい。

〝浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。
しかし、彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはないことから、民俗学では、元は日本古来の土俗的な祖霊信仰が起源だろうと推定されている。五来重は彼岸という言葉は「日願(ひがん)」から来ており、仏教語の「彼岸」は後から結びついたものであるという。

さらに検索すると、折口信夫の『山越しの阿弥陀像の画因』(→青空文庫 折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』)という随筆が、出てきた。
ちなみに、この随筆の発端となった『山越しの阿弥陀像』は、京都・禅林寺のものではなく、東京・大倉集古館にある冷泉為恭の筆によるものである。

原始的な太陽崇拝のなごりと云われる、日の伴(ひのとも)のことが述べられている。

〝昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀ひまつりをする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙ごい)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、かえって来る。これをともと謂っている。宮津辺では、日天様にってんさま御伴おともと称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。〟(折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)

また、この度のテーマである日置部(へきべ)や日奉部(ひまつりべ)のことが述べられている。なるほど、名称が違うので、日置部=日奉部ではなくて、「置く」は、「算盤の上で、ある数にあたる珠たまを定置することなのか。また、太陽の運行で、歳時・風雨・豊凶を卜知するということが、具体的には置くという職務で、ばくぜんと暦というよりは、稲作の時期などが関係していないかなどと思ったりもする。

〝宮廷におかせられては、御代みよ御代の尊い御方に、近侍した舎人とねりたちが、その御宇ぎょう御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播でんぱした。此が、日奉部ひまつりべ(又、日祀部ひまつりべ)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲かきべの事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひきへき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤そろばんの上で、ある数にあたるたまを定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)

源為憲の「口遊くゆう」に、「術にはく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法ぼくほうである。置くが日を計ることに関聯かんれんしていることは、ほぼ疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)


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# by yuugurekaka | 2018-06-10 22:05 | 日置臣 | Trackback

■氏族分布

七三九年の『出雲国大税賑給歴名帳』では、扶養する高年の者および年少者の属す戸主の姓氏だけを記しており、属するすべての氏族名を記してないが、大方の氏族の分布がわかる。

河内郷(百一名中八十五名記載され、十六名欠)
日置部臣 二十三戸
日置部首 四戸日置部 一戸建部臣 二戸、建部 一戸、日下部首 二戸、山長首 一戸、神門臣族 二戸、林臣族 一戸 

河内郷は、日置氏が圧倒的であり、拠点であったろうと思える。

■河内国との関わり


『雲陽誌』(1717年)の「上郷」に「河内」を称する「河内明神」の記載があり、はてな?と思える箇所がある。

河内明神 何の神をまつるや未知、古老傳云河内國より勧請せり、故に俚民河内明神と申なり、社四尺に五尺承応年中建立の棟札あり、祭禮九月廿九日、

河内国から勧請したので河内明神?
河内郷にあるから、河内明神ではないのか。『出雲風土記』(733年)では『斐伊大河がこの郷の中を北へ流れる。だから河内という。』というのが、そもそも由来ではないのだろうかと、疑問に思った。しかし、その片方で、『出雲風土記』は地元の人が考えたので、正しいというように考えがちだが、そもそも「河内国に由来するから河内郷」という説もありうるのではないかと思った。

河内明神が、現在の河内神社であろう。

河内神社 島根県出雲市上島町3495

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『神国島根』によると
〝河内神社 
[主祭神] 木花開耶姫命
[由緒・沿革] 創立不詳といえども文亀年中の社記に当社は風土記にいう河内郷河内神社に座して郷の中土に御座これ有る処、洪水の節、今地に移す、その後を神田という。式外の社とも登載あり、明治五年二月村社に列せられる。
明治四十三年十一月三十日許可を得、明治四十四年十月十九日上郷神社に合併す。昭和二十三年九月一日神社本庁統現の承認を得て、御祭神を今の場所に奉遷、河内神社を再建す。

河内神社と称するがゆえ、もともとは河内郷の中心地、上津の方に合ったと思える。斐伊川は暴れ川であるため、宮が流されるようになって、現在地になったのではあるまいか。
しかし、なぜ、木花開耶姫なのだろう。河内郷であったところには、なぜだか、日向神話にまつわる祭神の神社が多い。


■日置氏の系譜


「新撰姓氏録」(815年)で、日置氏の系譜がないか調べた。

右京 皇別 日置朝臣 朝臣 応神天皇皇子大山守王之後也 

なんだ京都の右京ではないかと、思えるが、この応神天皇は、奈良から河内に都を移した天皇である。
第15代天皇の応神から始まる王朝は、河内国に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」と呼ばれる。当時の「河内国」は、「当時、律令制以前の為、律令制以後の摂津国、河内国、和泉国、全ては河内であった。」(→ウィキペディア 河内王朝 )
これで、日置氏と河内がつながった。

この大山守皇子(おおやまもり の みこ)であるが、高城入姫命を母として、仁徳天皇や菟道稚郎子の異母兄になり、記紀では、跡継ぎ争いで船を転覆させられ、水死した皇子であり、大山守命とも云われる。『日本書紀』応神天皇記では、山川林野を掌る役目としたとある。
『古事記』には後裔氏族として土形の君(ひじかたのきみ)幣岐の君(へきのきみ)榛原君(はりはらのきみ)が、書かれている。ウィキぺディア 大山守皇子 )

また、同母兄に、額田大中彦皇子がいる。『日本書紀』では、游宇宿禰と屯田の帰属をめぐる争う伝承と、闘鶏氷室(つげのひむろ)の起源説話に登場する。出雲の仏経山の周りに斐川町神氷氷室なる地名もあり、もしや何か関係があるのかしらなどと思った。
額田部氏の起源にも関係しているのではないかなというのも浮かぶ。

木花開耶姫命の父神は、大山津見神である。応神天皇の御子大山守命と名前が似ている。もしかしたら、習合したんではないだろうか。まあ 大した根拠も無く、想像でしかない。

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# by yuugurekaka | 2018-05-24 09:22 | 日置臣 | Trackback

■出雲郡 河内郷
『出雲風土記』(733年)の出雲郡
役所のNO.1 大領は、日置部臣である。出雲郡だから、出雲臣ではないのだ。

斐伊川と赤川が合流する所 島根県出雲市斐川町阿宮 

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河内郷。郡家の正南一十三里一百歩の所にある。斐伊大河がこの郷の中を北へ流れる。だから河内という。ここに(つつみ)がある。長さ一百七十丈五尺。〔うち七十一文の広さは七丈、九十五丈の広さは四丈五尺ある。〕〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

「河内郷」は、この郷の中を斐伊川が流れているので、河内と云うのだそうだ。斐伊川の両側の流域が河内郷である。

阿宮とは反対側の上津の方から見た斐伊川 

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来てみてわかったが、出雲のカンナビ山 仏経山の南の麓に、河内郷が存在する。下記の見える山が、仏経山で下に斐伊川が流れている。上方が、斐伊川町下阿宮で、下方が上島町上津である。

グーグルアース 仏経山の南方付近

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河内郷
新造院

ここでもまた日置氏は、新造院という寺を建てている。中心部の「出雲郷」ではなくて「河内郷」にある。日置氏自体は、もしや河内郷を拠点としていたのだろうか。

〝新造院一所。河内郷の中にある。厳堂(ごんどう)を建立している。郡家の正南一十三里一百歩の所にある。もとの大領の日置部臣布禰(へきべのおみふね)が造った寺である。〔布禰は今の大領佐底麻呂(さてまろ)の祖父である。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)

こんどは臣姓である。大領の祖父ということだから、700年ごろには、もうお寺を建てていたのだろうか。河内新造院の場所は、確定されていないが、比定地の一つが、現在の上乗寺の近辺である。


上乗寺の山門  島根県出雲市上島町49

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「上乗寺」の縁起文には、「出雲風土記二新造院トアルハ当寺の前身二シテ、ソハ当村大谷部落奥ナル高瀬山麓二現在寺床ト称する地アリテ、ソコニ作ラレヰタルモノノ如し、出雲風土記ノ編纂ガ天平五年二月故ソレヨリ十余年後ナル勝寶年中華厳宗ノ僧二ヨリ現地移転セラレルト伝フ」と書かれている。
上乗寺の近くの「西円寺」も縁起文によれば、かつては新造院と号したと伝えている。(『上津郷土史』)

また、斐伊川をはさんで反対側の下阿宮では、1987年、標高200メートルの山頂付近に塔・金堂を持つ「天寺平廃寺」が、発見された。

参考文献  関 和彦著 『出雲風土記』註論 明石書店発行

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# by yuugurekaka | 2018-05-20 09:00 | 日置臣 | Trackback

■北新造院


出雲風土記(733年)の意宇郡山代郷の寺院の記載である。
山国郷では、「日置部根緒」今度は、「日置君目烈」、日置氏は、官位に関わりなく、個人名が出ており、新造院を建てているようだ。

〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北四里二百歩の所にある。厳堂を建立している。〔僧はいない。〕日置君目烈(へきのきみめづら)が造営した。〔この人は、出雲神戸の日置君 鹿麻呂(かまろ)の父である。〕〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私

北新造院跡(来美廃寺)  復元された参道・石段 


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松江市営来美アパート裏の丘にある。このように石段だけ見ているとさっぱりわからないが、説明板にイメージ図が書いてあって、古代の寺院をおぼろげながら想像できる。

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左下に講堂、上段に厳堂(金堂)、金堂(こんどう)の脇には、東西に塔があったと推定されているようだ。
金堂の両脇に塔を作るのが変則的であるそうだ。
出雲風土記が書かれた時代には、全て建てられていたかわからないが、こんな立派な寺院になぜ「僧はいない。」というのがピンとこない。まだ、出雲地方では、仏教が普及する過渡期であったのだろうか。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された金堂の
石段
 

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金堂の推定されるところには、全国的にも珍しい仏像の台座である須弥壇(しゅみだん)があったようだ。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された
須弥壇

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中央に蓮華座(れんげざ)、左右に脇侍(きょうじ)の像が安置されていたと推定されている。
また、金堂の東側の塔の上の飾りの相輪(そうりん)は、全国的にも珍しい石製だったそうだ。(一般的には銅製)

■南新造院


南新
造院は、日置氏がたてた寺院ではなく出雲臣が建てた寺院である。


〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北二里の所にある。教堂(きょうどう)を建立している。〔住僧が一人いる。〕飯石郡小領の出雲臣弟山(いいしぐんしょうりょうのいずものおみおとやま)が造営した。〟

〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


実際に行ってみると、北新造院と比べて一見小さい気がするが、中心部に民家が立っていたりして、
見学できるところは、ほんの一部分でしかない。
道路を挟んで向こうの南側に直径約1、2メートルの柱穴5つと、1メートル以上の深さがある溝の跡などあり、南新造院の敷地は、かなり広いものと思われる。

南新造院跡ー
四王寺(しわじ)基壇跡 

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この教堂は、講堂と解されているようだ。なぜ、教堂のみ建てたと書かれているのだろう。少しずつ建てたのだろうか。また、飯石郡役所のNO.2であった出雲臣弟山が、なぜここ意宇郡山代郷に建てたのだろうか。そもそも、ここが出奔の地だったのだろうか。
後に出雲国造となる人物であるが、そもそも出雲国造も何系かあったのだろうか。


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# by yuugurekaka | 2018-05-14 00:17 | 日置臣 | Trackback

■舎人郷(とねりごう)


舎人郷正倉推定地 
島根県教育委員会の表示板 

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舎人郷。

郡家の正東二十六里の所にある。志貴島宮御宇天皇(欽明天皇)の御世に、倉舎人君(くらとねりのきみ)たちの先祖、日置臣志毘(へきのおみしび)が大舎人(おおとねり)としてお仕え申し上げた。そしてここは、志毘が住んでいたところである。だから、舎人という。この郷には正倉がある。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


この舎人郷(とねりごう)の由来の「大舎人(おおとねり)」とは何か?

〝大舎人  おおとねり
令制で,左右大舎人寮に属し,宮中で宿直,供奉 (ぐぶ) などを司った下級官人。四位,五位の子や孫から選ばれ,定員は各 800人 (のち左右合せて 400人) であった。〟(出典 ブリタニカ国際大百科事典 )

令制以後については673年(天武2)5月,仕官する者をまず大舎人(おおどねり)寮に収容し,その才能を試験したのち適当な職務につかせた。これは,天皇に近侍し,宿直や遣使をつとめる間に天皇に忠節をつくす習慣を養わせ,このように養成された大舎人を他の官司の官人に任じ,天皇による支配を官司に浸透させるしくみであったことを物語る。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)

ヤマト王権の中央集権を強めるために、天皇の傍で働くことで、教育され、その後適当な職務についたお役人なのだな。

■ 日置氏とは太陽祭祀にかかわりある氏族

日置氏がヤマト王権の中央集権化を強めるそういう職務である大舎人を派遣する豪族だったということなのだと思う。
もともとの出雲族というよりは、ヤマト中央との関係が強い氏族で全国に展開していったのだろう。あるいは、中央での職務を担うことで日置氏という一氏族を形成したのかもしれない。

よく言われることだが、日置氏は日神祭祀に関わる職務を担っていたという。いつの時代かわからないが、欽明天皇の頃には、太陽神ー皇祖神として位置づけられ、それを伝播する役割が主なものだったのか。
職務も時代時代によって変わり、ヤマト王権の中央集権化という役割がそもそもの役割だったのかな。

日御碕神社 日沈宮    
島根県出雲市大社町日御碕455

祭神 天照大御神 


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地上の聖火は天上の日神よりもたらされるがゆえに,日置氏は日神祭祀にかかわるようになったらしい。伊勢の斎宮の付近に日置氏が分布し,日置田が置かれていたり,また東の伊勢に対して落日西海の地にあるとして,日沈宮(ひしずみのみや)と称された出雲の日御碕(ひのみさき)神社の神官が日置一族であった。このことは,日置氏が文字どおり太陽祭祀にかかわりある氏族であり,日置部が日祀部(ひまつりべ)とともに古代天皇の日神的権威を奉斎し,全国に鼓吹することを職掌とした宗教的部民であったと考えられる。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)


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# by yuugurekaka | 2018-05-06 07:00 | 日置臣 | Trackback