Descent of Amitabha over the Mountain

                 絹本著色山越阿弥陀図 (京都・禅林寺(永観堂)所蔵)


日置部が、どういう職務を与えられていた職業部なのか、様々な説がありよくわからないが、日置氏一族は、沈む太陽への信仰を持っており、出雲風土記に書かれるところを見ると、お寺を作っているということだけはわかる。
いつの時代か、また、日置氏がどうなのかをさておいて、考えてみる。


まずは、仏教と日が沈む信仰とは、なんぞや?とインターネットで、検索すると、
「西方浄土」やら、「日想観」という言葉が出てくる。

「日の入り給ふ所は、西方浄土にてあんなり。いつかわれらもかしこに生れて、物を思はですぐさむずらん」(平家物語)
この世の西方、太陽が沈む先の、十万億の仏土を隔てたところに存在する阿弥陀如来が構えられた極楽浄土の世界があるとする。
そして、この信仰は、浄土思想固有のものだけでなく、日本人の「お彼岸」というか、春分の日・秋分の日ということに関係してくるらしい。

〝浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。
しかし、彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはないことから、民俗学では、元は日本古来の土俗的な祖霊信仰が起源だろうと推定されている。五来重は彼岸という言葉は「日願(ひがん)」から来ており、仏教語の「彼岸」は後から結びついたものであるという。

さらに検索すると、折口信夫の『山越しの阿弥陀像の画因』(→青空文庫 折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』)という随筆が、出てきた。
ちなみに、この随筆の発端となった『山越しの阿弥陀像』は、京都・禅林寺のものではなく、東京・大倉集古館にある冷泉為恭の筆によるものである。

原始的な太陽崇拝のなごりと云われる、日の伴(ひのとも)のことが述べられている。

〝昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀ひまつりをする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙ごい)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、かえって来る。これをともと謂っている。宮津辺では、日天様にってんさま御伴おともと称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。〟(折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)

また、この度のテーマである日置部(へきべ)や日奉部(ひまつりべ)のことが述べられている。なるほど、名称が違うので、日置部=日奉部ではなくて、「置く」は、「算盤の上で、ある数にあたる珠たまを定置することなのか。また、太陽の運行で、歳時・風雨・豊凶を卜知するということが、具体的には置くという職務で、ばくぜんと暦というよりは、稲作の時期などが関係していないかなどと思ったりもする。

〝宮廷におかせられては、御代みよ御代の尊い御方に、近侍した舎人とねりたちが、その御宇ぎょう御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播でんぱした。此が、日奉部ひまつりべ(又、日祀部ひまつりべ)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲かきべの事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひきへき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤そろばんの上で、ある数にあたるたまを定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)

源為憲の「口遊くゆう」に、「術にはく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法ぼくほうである。置くが日を計ることに関聯かんれんしていることは、ほぼ疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)


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# by yuugurekaka | 2018-06-10 22:05 | 日置臣 | Trackback

■氏族分布

七三九年の『出雲国大税賑給歴名帳』では、扶養する高年の者および年少者の属す戸主の姓氏だけを記しており、属するすべての氏族名を記してないが、大方の氏族の分布がわかる。

河内郷(百一名中八十五名記載され、十六名欠)
日置部臣 二十三戸
日置部首 四戸日置部 一戸建部臣 二戸、建部 一戸、日下部首 二戸、山長首 一戸、神門臣族 二戸、林臣族 一戸 

河内郷は、日置氏が圧倒的であり、拠点であったろうと思える。

■河内国との関わり


『雲陽誌』(1717年)の「上郷」に「河内」を称する「河内明神」の記載があり、はてな?と思える箇所がある。

河内明神 何の神をまつるや未知、古老傳云河内國より勧請せり、故に俚民河内明神と申なり、社四尺に五尺承応年中建立の棟札あり、祭禮九月廿九日、

河内国から勧請したので河内明神?
河内郷にあるから、河内明神ではないのか。『出雲風土記』(733年)では『斐伊大河がこの郷の中を北へ流れる。だから河内という。』というのが、そもそも由来ではないのだろうかと、疑問に思った。しかし、その片方で、『出雲風土記』は地元の人が考えたので、正しいというように考えがちだが、そもそも「河内国に由来するから河内郷」という説もありうるのではないかと思った。

河内明神が、現在の河内神社であろう。

河内神社 島根県出雲市上島町3495

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『神国島根』によると
〝河内神社 
[主祭神] 木花開耶姫命
[由緒・沿革] 創立不詳といえども文亀年中の社記に当社は風土記にいう河内郷河内神社に座して郷の中土に御座これ有る処、洪水の節、今地に移す、その後を神田という。式外の社とも登載あり、明治五年二月村社に列せられる。
明治四十三年十一月三十日許可を得、明治四十四年十月十九日上郷神社に合併す。昭和二十三年九月一日神社本庁統現の承認を得て、御祭神を今の場所に奉遷、河内神社を再建す。

河内神社と称するがゆえ、もともとは河内郷の中心地、上津の方に合ったと思える。斐伊川は暴れ川であるため、宮が流されるようになって、現在地になったのではあるまいか。
しかし、なぜ、木花開耶姫なのだろう。河内郷であったところには、なぜだか、日向神話にまつわる祭神の神社が多い。


■日置氏の系譜


「新撰姓氏録」(815年)で、日置氏の系譜がないか調べた。

右京 皇別 日置朝臣 朝臣 応神天皇皇子大山守王之後也 

なんだ京都の右京ではないかと、思えるが、この応神天皇は、奈良から河内に都を移した天皇である。
第15代天皇の応神から始まる王朝は、河内国に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」と呼ばれる。当時の「河内国」は、「当時、律令制以前の為、律令制以後の摂津国、河内国、和泉国、全ては河内であった。」(→ウィキペディア 河内王朝 )
これで、日置氏と河内がつながった。

この大山守皇子(おおやまもり の みこ)であるが、高城入姫命を母として、仁徳天皇や菟道稚郎子の異母兄になり、記紀では、跡継ぎ争いで船を転覆させられ、水死した皇子であり、大山守命とも云われる。『日本書紀』応神天皇記では、山川林野を掌る役目としたとある。
『古事記』には後裔氏族として土形の君(ひじかたのきみ)幣岐の君(へきのきみ)榛原君(はりはらのきみ)が、書かれている。ウィキぺディア 大山守皇子 )

また、同母兄に、額田大中彦皇子がいる。『日本書紀』では、游宇宿禰と屯田の帰属をめぐる争う伝承と、闘鶏氷室(つげのひむろ)の起源説話に登場する。出雲の仏経山の周りに斐川町神氷氷室なる地名もあり、もしや何か関係があるのかしらなどと思った。
額田部氏の起源にも関係しているのではないかなというのも浮かぶ。

木花開耶姫命の父神は、大山津見神である。応神天皇の御子大山守命と名前が似ている。もしかしたら、習合したんではないだろうか。まあ 大した根拠も無く、想像でしかない。

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# by yuugurekaka | 2018-05-24 09:22 | 日置臣 | Trackback

■出雲郡 河内郷
『出雲風土記』(733年)の出雲郡
役所のNO.1 大領は、日置部臣である。出雲郡だから、出雲臣ではないのだ。

斐伊川と赤川が合流する所 島根県出雲市斐川町阿宮 

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河内郷。郡家の正南一十三里一百歩の所にある。斐伊大河がこの郷の中を北へ流れる。だから河内という。ここに(つつみ)がある。長さ一百七十丈五尺。〔うち七十一文の広さは七丈、九十五丈の広さは四丈五尺ある。〕〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

「河内郷」は、この郷の中を斐伊川が流れているので、河内と云うのだそうだ。斐伊川の両側の流域が河内郷である。

阿宮とは反対側の上津の方から見た斐伊川 

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来てみてわかったが、出雲のカンナビ山 仏経山の南の麓に、河内郷が存在する。下記の見える山が、仏経山で下に斐伊川が流れている。上方が、斐伊川町下阿宮で、下方が上島町上津である。

グーグルアース 仏経山の南方付近

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河内郷
新造院

ここでもまた日置氏は、新造院という寺を建てている。中心部の「出雲郷」ではなくて「河内郷」にある。日置氏自体は、もしや河内郷を拠点としていたのだろうか。

〝新造院一所。河内郷の中にある。厳堂(ごんどう)を建立している。郡家の正南一十三里一百歩の所にある。もとの大領の日置部臣布禰(へきべのおみふね)が造った寺である。〔布禰は今の大領佐底麻呂(さてまろ)の祖父である。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)

こんどは臣姓である。大領の祖父ということだから、700年ごろには、もうお寺を建てていたのだろうか。河内新造院の場所は、確定されていないが、比定地の一つが、現在の上乗寺の近辺である。


上乗寺の山門  島根県出雲市上島町49

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「上乗寺」の縁起文には、「出雲風土記二新造院トアルハ当寺の前身二シテ、ソハ当村大谷部落奥ナル高瀬山麓二現在寺床ト称する地アリテ、ソコニ作ラレヰタルモノノ如し、出雲風土記ノ編纂ガ天平五年二月故ソレヨリ十余年後ナル勝寶年中華厳宗ノ僧二ヨリ現地移転セラレルト伝フ」と書かれている。
上乗寺の近くの「西円寺」も縁起文によれば、かつては新造院と号したと伝えている。(『上津郷土史』)

また、斐伊川をはさんで反対側の下阿宮では、1987年、標高200メートルの山頂付近に塔・金堂を持つ「天寺平廃寺」が、発見された。

参考文献  関 和彦著 『出雲風土記』註論 明石書店発行

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# by yuugurekaka | 2018-05-20 09:00 | 日置臣 | Trackback

■北新造院


出雲風土記(733年)の意宇郡山代郷の寺院の記載である。
山国郷では、「日置部根緒」今度は、「日置君目烈」、日置氏は、官位に関わりなく、個人名が出ており、新造院を建てているようだ。

〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北四里二百歩の所にある。厳堂を建立している。〔僧はいない。〕日置君目烈(へきのきみめづら)が造営した。〔この人は、出雲神戸の日置君 鹿麻呂(かまろ)の父である。〕〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私

北新造院跡(来美廃寺)  復元された参道・石段 


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松江市営来美アパート裏の丘にある。このように石段だけ見ているとさっぱりわからないが、説明板にイメージ図が書いてあって、古代の寺院をおぼろげながら想像できる。

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左下に講堂、上段に厳堂(金堂)、金堂(こんどう)の脇には、東西に塔があったと推定されているようだ。
金堂の両脇に塔を作るのが変則的であるそうだ。
出雲風土記が書かれた時代には、全て建てられていたかわからないが、こんな立派な寺院になぜ「僧はいない。」というのがピンとこない。まだ、出雲地方では、仏教が普及する過渡期であったのだろうか。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された金堂の
石段
 

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金堂の推定されるところには、全国的にも珍しい仏像の台座である須弥壇(しゅみだん)があったようだ。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された
須弥壇

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中央に蓮華座(れんげざ)、左右に脇侍(きょうじ)の像が安置されていたと推定されている。
また、金堂の東側の塔の上の飾りの相輪(そうりん)は、全国的にも珍しい石製だったそうだ。(一般的には銅製)

■南新造院


南新
造院は、日置氏がたてた寺院ではなく出雲臣が建てた寺院である。


〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北二里の所にある。教堂(きょうどう)を建立している。〔住僧が一人いる。〕飯石郡小領の出雲臣弟山(いいしぐんしょうりょうのいずものおみおとやま)が造営した。〟

〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


実際に行ってみると、北新造院と比べて一見小さい気がするが、中心部に民家が立っていたりして、
見学できるところは、ほんの一部分でしかない。
道路を挟んで向こうの南側に直径約1、2メートルの柱穴5つと、1メートル以上の深さがある溝の跡などあり、南新造院の敷地は、かなり広いものと思われる。

南新造院跡ー
四王寺(しわじ)基壇跡 

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この教堂は、講堂と解されているようだ。なぜ、教堂のみ建てたと書かれているのだろう。少しずつ建てたのだろうか。また、飯石郡役所のNO.2であった出雲臣弟山が、なぜここ意宇郡山代郷に建てたのだろうか。そもそも、ここが出奔の地だったのだろうか。
後に出雲国造となる人物であるが、そもそも出雲国造も何系かあったのだろうか。


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# by yuugurekaka | 2018-05-14 00:17 | 日置臣 | Trackback

■舎人郷(とねりごう)


舎人郷正倉推定地 
島根県教育委員会の表示板 

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舎人郷。

郡家の正東二十六里の所にある。志貴島宮御宇天皇(欽明天皇)の御世に、倉舎人君(くらとねりのきみ)たちの先祖、日置臣志毘(へきのおみしび)が大舎人(おおとねり)としてお仕え申し上げた。そしてここは、志毘が住んでいたところである。だから、舎人という。この郷には正倉がある。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


この舎人郷(とねりごう)の由来の「大舎人(おおとねり)」とは何か?

〝大舎人  おおとねり
令制で,左右大舎人寮に属し,宮中で宿直,供奉 (ぐぶ) などを司った下級官人。四位,五位の子や孫から選ばれ,定員は各 800人 (のち左右合せて 400人) であった。〟(出典 ブリタニカ国際大百科事典 )

令制以後については673年(天武2)5月,仕官する者をまず大舎人(おおどねり)寮に収容し,その才能を試験したのち適当な職務につかせた。これは,天皇に近侍し,宿直や遣使をつとめる間に天皇に忠節をつくす習慣を養わせ,このように養成された大舎人を他の官司の官人に任じ,天皇による支配を官司に浸透させるしくみであったことを物語る。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)

ヤマト王権の中央集権を強めるために、天皇の傍で働くことで、教育され、その後適当な職務についたお役人なのだな。

■ 日置氏とは太陽祭祀にかかわりある氏族

日置氏がヤマト王権の中央集権化を強めるそういう職務である大舎人を派遣する豪族だったということなのだと思う。
もともとの出雲族というよりは、ヤマト中央との関係が強い氏族で全国に展開していったのだろう。あるいは、中央での職務を担うことで日置氏という一氏族を形成したのかもしれない。

よく言われることだが、日置氏は日神祭祀に関わる職務を担っていたという。いつの時代かわからないが、欽明天皇の頃には、太陽神ー皇祖神として位置づけられ、それを伝播する役割が主なものだったのか。
職務も時代時代によって変わり、ヤマト王権の中央集権化という役割がそもそもの役割だったのかな。

日御碕神社 日沈宮    
島根県出雲市大社町日御碕455

祭神 天照大御神 


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地上の聖火は天上の日神よりもたらされるがゆえに,日置氏は日神祭祀にかかわるようになったらしい。伊勢の斎宮の付近に日置氏が分布し,日置田が置かれていたり,また東の伊勢に対して落日西海の地にあるとして,日沈宮(ひしずみのみや)と称された出雲の日御碕(ひのみさき)神社の神官が日置一族であった。このことは,日置氏が文字どおり太陽祭祀にかかわりある氏族であり,日置部が日祀部(ひまつりべ)とともに古代天皇の日神的権威を奉斎し,全国に鼓吹することを職掌とした宗教的部民であったと考えられる。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)


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# by yuugurekaka | 2018-05-06 07:00 | 日置臣 | Trackback

■山国郷 新造院


『出雲風土記』(733年)を見る限りでは、日置氏(ひおきうじ、へきうじ)はお寺を出雲国に造りに来たのではないか?仏教の普及ということが職務にあったのではないかと思ってしまう。

【三】 意宇郡の寺院

新造院一所。山国郷の中にある。郡家の東南三十一里一百二十歩の所にある。三重塔が建立されている。山国郷の人、日置部根緒が造営した。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


新造院比定地  安来市上吉田町の釈迦堂跡 


山国郷新造院の比定地である釈迦堂跡であるが、地図を見てもなかなか場所がわからなかった。
車を降りて周辺の道路をあっち行ったりこっち行ったりした。
まずは山国郷の位置を確認する。安来市の南方面、奈良時代は舎人郷の南に隣接している。

教昊寺(きょうこうじ)近くの島根県教育委員会の表示板   

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ちなみに山国郷の地名起源だが、布都努志命(ふつぬし)が登場するところを見ると、奈良時代は物部氏が居たのだろうか。

山国郷(やまくにごう)。郡家の東南三十二里二百三十歩の所にある。布都努志命が国をめぐりなさったとき、ここにおいでになっておっしゃられたことには、「この土地は絶えず【原文…止まなくに。】見ていたい。」とおっしゃった。だから山国という。この郷には正倉がある。島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


別所の松崎神社の近くをうろうろしていた所、表示板を発見。ようやくたどり着いた。
小道をあるいてすぐの平地に、新造院跡地があった。

島根県教育委員会の表示板   島根県安来市上吉田町別所

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新造院比定地  安来市上吉田町の釈迦堂跡

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新造院跡地がある小山の反対側(北側)であるが、こちらからは登り路は無く、入れなかった。

釈迦堂跡がある山


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■日置部とは…


全国に分布する「日置部」であるが、下記は『世界大百科事典 第2版』の引用である。 


〈ひきべ〉〈へきべ〉などとも読む。日置を戸置(へき)の意に解し,民戸をつかさどるものとする説(伴信友,栗田寛),日招きや宮廷の日読(かよみ)をつかさどるものとする説(柳田国男,折口信夫),さらには卜占暦法を主とし太陽祭祀に従事する者という見解も出された。一方,神事や祭祀にかかわり合いながら,それらの手工業生産にも当たる性格も指摘されてきた。もともと日置氏は宮内省主殿寮殿部(とのもり)の負名氏(なおいのうじ)の一つで,本拠は大和国葛上郡日置郷にあり,地縁的にも職掌的にも同じ負名氏の鴨氏と類縁の関係にあったと考えられている。(『世界大百科事典 第2版』  株式会社平凡社)


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# by yuugurekaka | 2018-05-01 15:01 | 日置臣 | Trackback

■ 紀伊の熊野三社との統合

中世には紀州の熊野信仰の影響が強まり。いつからそうなったのかわからないが、近世には熊野大社は紀伊の熊野三山と統合して、上の宮は事解男・速玉男・伊弉冉の三神を「熊野三社」と云い、下の宮は天照大神・素戔嗚命・五男三女を祭り、「伊勢宮」と呼んだ。だから、古の熊野大社とは全く違う形になってしまったわけである。
しかし、明治の神道再編の中で、上の宮は廃し、下の宮一つにまとめて、熊野神社となった。
国幣中社にされ、その後大正五年に国幣大社に昇格した。そして、昭和52年には社名も熊野大社となり、現在に到っている。

熊野大社 上の宮跡地    熊野大社から約500メートル南のところにある。

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■ 紀伊と同名の神社

『延喜式』神名帳(927年)を見ると、出雲国と同名の式内社が多いことに気づく。
出雲も紀伊国も熊野坐神社」の社格は共に「名神大社」となっているが、須佐神社や伊達神社などが、「名神大社」で紀伊国の方が高い。(出雲国は小社)
そのことから、紀伊国が素戔嗚命や五十猛命の本源地とする説もある。
出雲は単に神話の舞台に利用されたとするがっかりした説も古代史に根強い。

紀伊国の出雲国と同名の神社

名草郡 加太神社    小社
名草郡 伊達神社(
いたてじんじゃ) 名神大社 
在田郡 須佐神社   名神大
牟婁郡 熊野早玉神社  
牟婁郡 熊野坐神社  名神大

加多神社  島根県雲南市大東町大東362  
祭神は、少彦名命 

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紀伊国名草郡にも存在し、出雲国大原郡に存在する「加多神社」の祭神スクナ彦命(記紀では少彦名命)であるが、その登場する場面で、
日本書紀では、「少彦名命、行きて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷に適しぬ」とあり、ここでも「熊野」が出てくる。紀伊の熊野ともとれ、和歌山の潮御崎の伝承も存在する。

また、古事記では、「オホクニヌシが、出雲の美保の岬にいました時じゃが、波の穂の上を、アメノカガミ船に乗っての、」(三浦佑之 訳・注釈 口語訳 『古事記』文春文庫 )ということから、熊野の御崎は、出雲の美保関となっている。
「熊野」という言葉が、「神の」という一般的な使い方だったのかもしれない。

美保関と言えば、事代主命である。富家伝承では、スクナ彦は、副王であり、(主王がオオナムチ)、八代目スクナ彦である事代主命のことを云う。単に出雲族の神ではなく、同族化の原理で、紀氏も親戚である。だから、同名の神社が存在しても不思議はないし、どちらかが本物で勧請とかいうものではないのだろう。

■ 事代主命の子孫

物部氏の伝承であると云われる『先代旧事本紀』では、なぜだか事代主命の子孫の系譜が詳しく述べられている。出雲の国ではなくて、大和の国の賀茂氏、大神氏の系譜のようである。しかし、出雲氏、神門氏との婚姻のことも書かれている。

「御孫の都味歯八重事代主神は、大きな熊鰐となって、三嶋の溝杭の娘、活玉依姫のもとに通い、一男一女がお生まれになった。
御子は、天の日方奇日方の命と申し上げる。
この命は、橿原の朝の御世の御命令で食国の政治を掌る大夫となって奉仕された。
妹の姫鞴五十鈴姫の命は橿原の朝の皇后となり、二児がお生まれになった。神渟河耳天皇、次に彦八井耳命と申し上げる。
次の妹五十鈴依姫命は葛城の高丘の朝の皇后となられて、一児がお生まれになった。磯城津彦玉手看の天皇である。

三世の孫、天の日方奇日方の命。またのお名前は阿田都久志尼命と申し上げる。
この命は、日向の賀牟度美良姫を妻として一男一女がお生まれになった。
御子は建飯勝の命で、妹は渟中底姫の命と申し上げる。この命は軽の地の曲峡の宮で天下を治められた天皇の皇后となり、四柱の御子がお生まれになった。大日本根子彦耜友天皇、次に常津彦の命、次に磯城津彦の命、次に研貴彦友背の命と申し上げる。

四世の孫、建飯勝の命は、出雲の臣の娘・沙麻奈姫を妻として一男がお生まれになった。

五世の孫、建甕尻の命またの名は建甕槌命、または建甕之尾命と申し上げる。
この命は伊勢の幡主の娘、賀貝呂姫を妻として一男がお生まれになった。

六世孫、豊御気主命は、またの名前を建甕依命と申し上げる。
この命は紀伊の名草姫を妻として一男がお生まれになった。

七世孫、大御気主命は、大倭国の民磯姫を妻として二男がお生まれになった。

八世の孫、阿田賀田須命は、和迩の君たちの先祖である。次に建飯賀田須命は、鴨部の美良姫を妻として一男がお生まれになった。

九世の孫、大田々祢古の命は、またの名を大直祢古の命と申し上げる。
この命は出雲神門臣の娘、美気姫を妻として一男がお生まれになった。

十世の孫、大御気持の命は、出雲の鞍山祇姫を妻として三男がお生まれになった。

十一世の孫、大鴨積の命は、磯城の瑞垣の朝の時代に賀茂の君の姓を授かった。次に、弟の大友主の命は、同じ朝の時代に大神の君の姓を授かった。次に田々彦の命は、同じ朝の時代に神部の直・大神部の直の姓を授かった。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社より なお解説は省略。) 

事代主命の系譜に国譲りの「建甕槌命」(タケミカヅチノ命)が出てびっくりする。
6世孫の豊御気主の命であるが、紀州の名草姫を妻とするとある。はて、神武東征の熊野村の話に、神武天皇の行く手を阻む女首長「名草戸畔」が登場するが、もしや、この名草姫がモデル?などと思ったりもする。

「熊野」というのが事代主命や紀氏が関係しているのかなとちょこっと思った次第である。

■ 速玉社

出雲国にもある「速玉社」であるが、一般的には、現 熊野大社境内社・伊邪那美神社に合祀されているとされている。
しかし、『出雲神社巡拝記』(1833)には、「大庭村 国造北島舘古屋敷内 速玉大明神 記云 速玉社 式云 速玉神社 祭神 はやたまのをの命」ともある。

出雲風土記や延喜式の云う速玉社・速玉神社は国造北島家の古屋敷内にあるというのだ。
その社跡は、神魂神社に向かう参道脇にあった。
現在は、神魂神社境内社・稲荷神社に合祀されているが、出雲国造家にとっては大変重要な社であったようである。


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この社の祭神、「速玉之男命」はイザナギの命が、黄泉の国に訪問したときに、イザナミの命と離縁を決意しつばを吐いたが、吐かれたつばから生まれた神が、「速玉之男命」である。

海部氏、物部氏伝承によれば、天火明命=饒速日命ともされる。姓氏録をみると、天火明命を祖とする尾張氏、饒速日命を祖とする物部氏というように完全なイコールではない。富家伝承本には更に天火明命=饒速日命=さらに素戔嗚命と書かれている。

自分には、黄泉の国の話を考えると、
イザナミの命の離縁前のイザナギの天火明命で、離縁後のイザナギの命が饒速日命のように思える。それからすると、吐いたつばは離縁を象徴していて、饒速日命の別名のようにも感じる。

さて、「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)という『先代旧事本紀』の祭神の変更だが、出雲国造家の内部からもたされたものかわからないが、自分には壬申の乱から持統天皇以後の中央の豪族の権力関係が大きく影響したのではないかと思っている。


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# by yuugurekaka | 2018-04-29 16:25 | 熊野大社 | Trackback

■ 祭神
熊野大社の説明板によると、熊野大社の祭神は熊野大神櫛御気野命であり、素戔烏尊の別名とされている。
しかし、祭神は歴史に伴って代わるものである。
あの出雲大社の祭神でさえ、中世には大国主命から素戔嗚命に変わってしまった。だから、熊野大社の祭神も変わっていたとしても不思議はない。
富家伝承(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版)によれば、熊野大社の祭神はサイノカミ三神(クナド大神、佐毘売神、猿田彦大神)と事代主命であったそうである。

出雲国造出雲臣廣島 編纂の『出雲風土記』(733年)の意宇郡の出雲神戸(いずもかんべ)の説明に
伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈子(まなこ)、熊野加武呂乃命(くまのかむろ)」とある。
イザナギの命の愛しい子どもとあり、熊野の「神聖な祖神」と解釈されている。男神なのか女神なのか具体的にはわからない。

さらに、『出雲国造神賀詞』(716年~833年 文献に載っているのは)には(いつの段階の文書かわからないが)
「伊射奈伎乃真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」(太字は私)とある。「まなこ」の上に「日」が、付いている。イザナギの命の真奈子で日の神は、天照大神である。だったら、女神かと思いきや、」が付いているので男神である。女神の場合、加夫呂美(かむろみ)となるはずだ。そして、具体的な名として、「櫛御気野命とある。霊妙な
食物の神あるいは穀物霊ということだ。出雲国造が奉祭する神なので、初代 天穂日命を想定したものだとわかりやすいが、天穂日命は、天照大御神の子なので、イザナギの子では無く孫に当たる。

クナト大神も、記紀では、イザナギの命が、黄泉の国から逃げかえるときに発生した神であり、『古事記』では、衝立船戸神で、『日本書紀』一書においては、岐神(元の名は来名戸祖神)なっており、イザナギのマナ子とも言えなくもないが、記紀成立以降、朝廷に赴いて出雲国造が、述べるとなると、三貴神を指すと思われる。思われるが、たいへん歯切れが悪い。須佐之男命と断定されるにいたったのは、物部氏の伝承と云われる『先代旧事本紀』~大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている~が、影響しているのだろうか。

「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)

ただ、この文章からは、おられるというだけで、熊野大神は素戔嗚尊であるとは書かれていないし、もし主祭神のことを指すのであれば杵築大社がすでに大国主命から素戔嗚尊に変わっていたことになる。
また大きな古い神社は、社家が一つとは限らない。社家ごとに、複数の社が有って、別々の神を祀っていたのであろうか。

■ 『初天地本紀』
平安中期の『長寛勘文』に引用される『初天地本紀』──紀国の熊野信仰について述べられた文章であるが、出雲国の熊野大社についても書かれている→ウィキペディア 長寛勘文  ──によると、

「伊謝那支命(いざなぎのみこと)が恵乃女命(えのめのみこと)を娶(めと)り、大夜乃売命(おおやのめのみこと)、足夜乃女命(たるやのめのみこと)、若夜女命(わかやめのみこと)の三女神を生んだ(このうち大夜乃売命は熊野大神の妃となる。)ところが、陸上に立ち給うとき、左肩を押し撫でたときに加巳川比古命を、また右肩を押し撫でたとき熊野大御神加夫里支久之弥居怒命(かぶりしみけぬのみこと)を、また髻中(もとどり)から須佐乃乎命(すさのおのみこと)を、それぞれ化成した。次に、「此時金国之八熊野之波地降来伊豆(毛)国、到熊野村、柱太知(ふとしり)奉而加夫里支熊野大御神地祇神皇又御児后大夜女命、山狭村宮柱太知奉而、静坐大御神云是也」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう より)(太字は私)

この『初天地本紀』によれば、熊野大神は、素戔嗚命の兄弟であり、素戔嗚命とは別神となっている。そして、同じイザナギの命の娘の大夜乃売命が、熊野大神の妃神であり山佐村に鎮座しているということだ。
記紀とは全く別の筋立てであるが、この熊野山の東側には、「延喜式」の「山狹神社」「同社坐久志美氣濃神社」に比定される、山狭神社二社(上山神社・下山神社)が存在する。熊野山(天狗山)の反対側で、同じ神ークシミケㇴの命を祭っていたわけである。

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山狭神社(上山狭神社)  島根県安来市広瀬町上山佐598   


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山狭神社(上山狭神社) 拝殿 


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この熊野大神の御妃の「大夜乃売命」であるが、松前 健氏の解説だが、
「内遠は、イザナギの禊ぎの際に生まれた大綾津日神の女性形だと考えたが、かなり無理である。重胤は、大屋津姫命の母神でスサノヲの妃神の一人だと考えたが、そんなにまわりくどく考える必要もない。実は端的に大屋津姫の異名にほかならない。オホヤノメもオホヤツヒメも、つまるところは所有格の助詞「ノ」と「ツ」の違いだけで、同じ神に過ぎないのである。」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう)

ちなみに大屋津姫命は、記紀において、五十猛命の妹神となっている。

山狭神社(下山狭神社) 島根県安来市広瀬町下山佐1176


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山狭神社(下山狭神社)境内社  久志美気濃神社  扁額  

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熊野山から流れ出る水が、西には意宇川に、東は山佐川に流れて飯梨川と一つになり、野城の大神の鎮座する飯梨平野に流れていく。

山佐川 

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■ 参考文献 ■ 萩原龍夫・石塚尊俊・中野幡能 著 『仏教文化選書 神々の聖地』 株式会社佼成出版社  

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# by yuugurekaka | 2018-04-18 19:28 | 熊野大社 | Trackback

■ 熊野山

『出雲風土記』に載っているカンナビ山は、平野部から概ね山の姿がよくわかる。しかしながら、熊野山(現 天狗山)の山容は麓の熊野大社からも見えない。
どこから見えるのだろうかと、場所を探すがなかなかその場所が見つからない。
地図上で見ると、須賀神社の奥宮がある八雲山がちょうど西側に位置する。そこで、八雲山に登ってみて、写したのが下の写真である。


東出雲地方(旧八束郡・旧松江市)の中では、最も高い山で、610.4メートルある。

麓から仰ぎ見て拝む山ではないように思う。現在は、天狗山というが、過去には天宮山とも云ったという。『出雲風土記』(733年)の時代は、熊野山と云い、熊野大神の社があったと書かれている。


熊野山。郡家の正南一十八里の所にある。〔檜(ひ)・檀(まゆみ)がある。いわゆる熊野大神の社が鎮座していらっしゃる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


グーグルアースの地図から見る熊野大社と天狗山の位置


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天狗山の登山者用の駐車場に止めて、歩いて行った。始めは、登山道ではなく林道を歩いていく。


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意宇川に流れる熊野山の川を左手に見ながら、道を歩いていく。山の間から、水がしみ出していた。そこでは、平野部では聞いたことのないような、不思議なカエルの声がする。そのカエルの正体を見ていた。黒っぽい痩せっぽちのカエルだった。


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いよいよ登山道の入り口に到達した。


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突然細い登山道となった。傍らに小川が流れていた。


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谷の左手の細い道を登って行ったが、小川の源流というか、

山水が湧き出ているところに来た。「意宇の源」と表示されていた。


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『出雲風土記』にも、意宇川に熊野山が水の源と書かれていた。実際には、ここだけではなく、山のいろいろな場所から水が湧き出て、川になっていると思う。


意宇(おう)川。源は郡家の正南一十八里にある熊野山から出て北に流れ、東に折れ、流れて入海に入る。〔年魚・伊具比がいる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


■ 元宮 


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笹が生えているところが多くなった。

駐車場から約1時間、『斎場』と書かれている所にきた。その先には、「磐座」(いわくら)が見える。


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説明板によると、熊野大社の斎場跡(祭場跡)で、元宮平(げんぐがなり)と云われている地で、磐座のあるところが熊野大社の元宮だという。『日本書紀』(720年)の斉明天皇五年(659年)に「出雲国造に命じて厳かな神の宮を建てさせた。」との記述があるが、それまでは磐座をご神体として、祭祀のみが行なわれていたのだろうか?

“人間が五穀豊穣や国家の安穏を祈る際にはカミの来臨のために「ヒモロギ」(神籬)や「岩クラ」などと呼ばれる臨時の神の座を作って、そこにカミを招請して、数々の食べ物を捧げ、祈願する。祈願が済むとカミは帰還せられる。そのありかは定かならぬものである。カミはいつも天や山などの高いところなど、人界とは隔絶した場所にいて、人間には見えない存在だった。”(大野晋著『日本人の神』河出文庫)

古代において、より高い山の頂の近くに神は降臨する存在として考えられた。
神は漂い彷徨し移動する存在と考えられ、それゆえ山の麓に依代としての神社そのものが麓に移動してきたとも考えられる。  

 


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# by yuugurekaka | 2018-04-03 00:32 | 熊野大社 | Trackback

「謎」と言えば、すべてが謎である。だから、題名にいちいち「謎」というのも考えものかもしれない。ただ、「真実の」とか肩肘はっていうつもりは全くない。
まずは、この「熊野」という名称である。紀伊国の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)も同じく「熊野」で有名であるが、なぜ同じ「熊野」という名のだろう

■ 奥まった所 説

熊野大社拝殿  島根県松江市八雲町熊野2451番

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当然ながら、古い言葉は、漢字の当て字なので、熊、熊野は、動物の熊とは関係なく、「くま」という言葉がどのように使われているかということから考えないといけない。

たとえば、『出雲風土記』(733年)の飯石郡・熊谷郷の記載に 
久志伊奈太美等与麻奴良比売くしいなだみとよまぬらひめいのちが、妊娠にんしんして出産しゅっさんしようとなさるときに、生むうむところお求めおもとめになった。そのときにここにきておっしゃられたことには、「とても奥深い【原文久々麻々志枳くまくましき】谷である。」とおっしゃられた。だから、熊谷くまたにという。”
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)と、ある。

ここでは、「奥深い」という意味で使われている。

熊野という地名は、全国にあり、丹後国では、「熊野郡」なる郡名(現 京丹後市の久美浜町各町)として使われている
また、紀伊国は大化改新(645)まで、北部は木国、南部は熊野国と呼ばれ、それぞれ国造が置かれていた。(ちなみに熊野国造は、饒速日命の後裔で物部氏である。)
紀伊続風土記』(1839年)には、「熊野は隈(くま)にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱(おううつ)なるを以て名づく」と書かれている。

漢字は違うが、肥後国に「球磨郡」(くまぐん)(現 熊本県 南部)もある。

それぞれ、奥深い谷のようなところにある。


■ 神 に供 え る 米 あるいは神そのも 説 


「くま しね 」(奠稲・糈米) という言葉がある。『大辞林 第三版』によると、


“神仏に捧(ささ)げる洗い清めた白米。洗い米(よね)。お洗米(せんまい)。くま。おくま。” 


「くま」だけで、神に奉る米を意味する。また、「しね」自体が、「米」の古語なので、「くま」自体が、神と同義語なのかもしれない。

神のカミはクマからきたとする説もある。神に供える米はクマシネ(供米)と表記されるが,供米と表現される以前に,クマには隠れるという意味があった。すなわち,奥深く隠れた存在をカミとし,そこから発現してくる力を畏怖したものとみている。“(平凡社 世界大百科事典 第2版 )


『古事記』では、紀伊国の熊野村の起源が、神武天皇の東征神話に出てくる。 “大熊 髣(ほの)かに出で入りてすなはち失せき。

通説的現代語訳では、熊野村についた時に大きな熊が現われ、見えたり見えなかったりして、消えてしまう。すると、神武天皇は病に倒れ、東征軍も皆倒れ伏してしまう。


これも熊という動物と云う必然性も無く、先住の荒ぶる神ー三輪山の大神と同じく、大熊と表現としているともとれる。『日本書紀』では、「大熊」は登場せず、女首長「名草戸畔」や、「丹敷戸畔」の名前が出てくる。丹敷戸畔」が誅されたとき、神が毒気を吐いて東征軍を萎えさせたとある。


■ 稲作の初期段階


今でこそ、田圃は広大な平野にあるが、古代はむしろ奥深い谷間にて稲作が行なわれていた。広大な平野部での稲作は、大規模な治水灌漑事業を必要とする。


“水田稲作農耕は用水路と排水路が整備された水田を必要とする。中世末までは、土木技術や国家的統率力は未熟だったため、水田は、大河川流域にではなく谷戸(谷田)と称する河川支流の小さな谷間の流域につくられるか、小さな溜池の周りにつくられた小規模水田群であったという。実際平安時代から室町時代のなか頃まで、耕地面積はほとんど増加していない。”(伊藤松雄著『里の植物観察記』 春風社)


熊野大社前を流れる意宇川


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参考 

法政大学 『日本古語 と沖縄古語 の 比較研 究 一 熊本 ・ 熊襲 ・八 十隈の 「 くま」 を解 く一 外間 守善』



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# by yuugurekaka | 2018-03-22 21:46 | 熊野大社 | Trackback