■鵜鷺(うさぎ)の地

黄泉の穴の伝承地として有名な「猪目洞窟」をさらに西に行くと、鵜峠(うど)という地域に入り
ます。鵜峠をさらに西に行くと、鷺浦(さぎうら)という地域に到達します。

鵜峠(うど)浦
『出雲国風土記』(733年)には宇太保浜(うたほはま)と記されています。中世に宇道、宇峠とも呼ばれ、江戸時代に
鵜峠になったという。

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鵜峠+鷺浦で明治22年、「鵜鷺村(うさぎむら)」が誕生し、昭和26年(1951年)に大社町と
合併するまで存在しました。

鷺浦については、奈良時代より「鷺浜」なる地名があり、起源の古い地名であると思います。

鷺浦港  向こうに柏島が見える。
『出雲国風土記』(733年)には、すでに鷺浜(さぎはま)と記されている。

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伊奈西波岐神社

ここの鷺浦港に面したお宮が、出雲大社摂社「伊奈西波岐神社」です。式内社「大穴持伊那西波伎
神社」に比定されている神社です。鷺社とも呼ばれています。
祭神は、社名の通り稲背脛命(いなせはぎのみこと)です。

この神ですが、日本書紀の「国譲り神話」の所で出てまいります。

 "このときその子の事代ことしろ主神ぬしのかみは、出雲の美保みほの崎にいって、釣りをたのしんでおられた。
 あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。そこで、熊野の諸手船もろたふね(多くの手で漕ぐ早船か)
 に、稲背いなせはぎ諾否いなせを問う足)をのせてやった。そして高皇産霊尊の仰せを事代ことしろ主神ぬしのかみに伝
 え、その返事を尋ねた。" 
        ( 『日本書紀(上)』全現代語訳 宇治谷 猛 講談社学術文庫 )
 
古事記では稲背脛命ではなく「アメノトリフネ」が登場します。稲背脛命は、天穂日命の御子「
夷鳥命(あめのひなとりのみこと)」と、同神とされていますが、日本書紀では、同段に、大背おおそ
びのみ熊之くまの大人うし(またの名は武三たけみ熊之くまの大人うし)と書かれており、ここがそのように書いてないところを
見ると
武三たけみ熊之くまの大人うし=稲背脛命とは読み取れないように思えるのです。ともかく国譲りを承諾する
かどう
かを問う使者という役割を与えられた神には間違いがありません。

ここの
大穴持伊那西波伎
神社が、鷺社に呼ばれるにいたった背景がなんだったのでしょう。
鷺浦に鎮座しているというこ
ことなのでしょうが、天日名鳥⇒鷺ということからも、きているんで
しょうか?
古事記では、鷺(さぎ)は
天若日子の葬儀のときの、箒持ちの役割を担います。この箒は、「伯耆
耆」の由来とも
云われ、(伯耆風土記逸文では、「母来」となっています。)伯耆国造は、天穂日
命の系統ということになっているので、そういうこと
が関係しているのかしら

昭和41年御由緒調査書によれば「往古佐木といへる社号は延喜式神名帳に伊奈西波伎神社とあるを
以って神号を蒙り波伎と言ふべきを「は」と「さ」を通音を以て佐木と万葉書に記し来り一浦の名
も此社号より佐木浦といへり神号を象り(かたどり)社号とする例多し
…中略…防州岩国の住人某
奇想に出雲国佐木大明神と称し玉ひて疱瘡安全を守護し給ふとの託
宣有て夢覚ぬ翌朝家内へ白鷺一
羽翔入りて暫時有て飛去方を見れば出雲国の空に当れり誠に奇異の思いをなして速かに大社へ詣り
来り件の瑞夢を語りしより鷺の文字に改め書すと。」

ここに書かれているのは、「
伊奈西波伎社
」⇒「
波伎社」⇒「佐木社」⇒「鷺社」という転訛のよ

うです。

伊奈西波岐神社  
祭神稲背脛命   所在地 出雲市大社町鷺浦102  


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ところが、江戸時代の地誌、黒沢石斎著『懐橘談』(前編1653,後編1661)の「鷺の宮」の段では、
鷺社の祭神が、「素戔嗚命の妾」となっています。国譲りの段の登場する神とは、まったく縁の無
いものなっています。

"出雲国鷺宮は何れの神を祀り侍るやと牧童に尋ね侍れば是れは素盞鳴命の妾にてましましけるが天成
の霊質にて御契浅からざりしが後に天瘡を患ひ給ひ花の顔、忽に変じて悪女とならせ給ひ素戔嗚命と御
中もはやかれかれにならせ給ふ
かくて妾女我身の色衰へたる事を悲み、天神地祇に深く誓ひ給ひて末世の人民我に祈る事あらば疱瘡の
患を免れしめんと誓約し給ひし故に今に至る迄此の宮の石を取りて子児の守り袋に入れてかけぬれば痘
疹の病を脱ぐといひ伝へたりとぞ
年老ひたる社司の語りしは是は瓊瓊杵尊なり伝記にいふ所は昔神託童而祈我者免瘡之患爾来為痘瘡守
護神云々殊勝にぞ覚へ侍る」と"

「素戔嗚命の妾」とはいったいだれなのか?
弥生時代は対偶婚であって、そもそも「妾」なる概念そのものが無いはずですが、ともかく、疱瘡
を患って素戔嗚命と不仲になってしまいます。そこから、
稲背脛命=疱瘡に罹った
「素戔嗚命の妾」、
あるいは瓊瓊杵尊、というように別の伝承が組み合わさったような感じがします。

伯耆・南部町の鷺神社が、祭神 稲背脛命 磐長姫命としているところを見ると、瓊瓊杵尊と磐長姫
命が関係しているのかと思いましたが、そこは、元々別の神社の祭神で合祀されたもののようで違う
ようです。

ここの伊奈西波岐神社は、江戸時代、鷺大明神として全国的に有名だったようで、日向佐土原の修験
野田泉光院の『日本九峰修行日記』に"これ疱瘡の守護神日本第一也と云ふ"と書かれています。
ここの神社の石が「ご利益」があったということなのですが、宗教上の理由以外にも何か理由がある
のではと、ここの石の意味を考えてみました。
鷺浦には昭和10年代初頭に閉山するまで銅山があったようです。
銅は殺菌作用のある鉱物らしい。⇒一般社団法人 日本銅センター
それが関係したかどうかわかりません。

伊奈西波岐神社の灯籠の波乗り兎
鵜峠の大宮神社本殿にも波乗り兎の彫刻が施されています。

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■「素戔嗚命の妾」は、だれか?

伊奈西波岐神社から出雲大社までの山道を車で運転していると、突然道路下に大社造の神社が現れ
てびっくりします。大穴持御子神社、通称三歳社(みとせのやしろ)です。
富家伝承本によると、大和の葛城御歳神社が出雲に里帰りしたものという。

高比売神(高照姫命)、事代主命の兄妹は、出雲の神であると同時に、大和(葛城)の神でもあり
ます。

大穴持御子神社( 三歳神社 )   島根県出雲市大社町杵築東 
祭神 事代主神 高比売神 御年神

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長野県諏訪市大和に先宮神社(さきのみやじんじゃ)というこの高照姫命(高光姫命)を祀った神
社があります。古くは「鷺宮」さぎのみや、「鵲宮」さきのみやと呼ばれたようです。そして、こ
この祭神「光姫命」は、またの名を「稲背脛命」とされているとのことです。

社伝の一説によれば、高光姫命を首領に頂く大和の原住民は、建御名方神が諏訪に攻め入った時、
抵抗したがついには服従して、現在の社地から出ることを許されず、現在も境内前の小川に橋を架
けられていないそうです。
しかし、富家伝承によれば、高照姫命は、建御名方神のおばとなっています。

それはともかく、素戔嗚命は、富家伝承本によると彦火明命(=饒速日命)と同神であり、高光姫
命と結婚して丹波の海部王朝をつくり、その後、市杵島姫命と婚姻して、筑紫王朝をつくるという
ことになっています。海部氏勘注系図、先代旧事本紀でも、下記の系図となっております。
稲背脛命=素戔嗚命妾説ですが、高照姫命離縁説の伝承が背景にあるのかななどと思ったりもしま
す。

鳶大明神の本源地は、出雲の伊奈西波岐神社であると思いますが、白兎神と習合するにいたったこ
とは、その名の「さぎ」にあるのかもしれませんし、「皮が剥げる」といった疱瘡と素兎との共通
項からなったのかもしれません。ただ、太古からそうだったとは、自分には思えないのです。

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参考文献   
杉谷 正吉著『伊奈西波岐神社(鷺大明神)疱瘡守護神由来記』
                  (大社史話会発行『大社の史話第23号』)
       石破 洋著『イナバノシロウサギ総合研究』(牧野出版)
       宇佐 公康著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社
        斎木 雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話』 (おおもと新書)
       勝 友彦著『山陰の名所旧跡―地元伝承をたずねて』(大元出版)

by yuugurekaka | 2017-06-03 16:16 | 因幡の素兎

国学者 本居宣長は、古事記伝(1798)神代八之巻【稲羽ノ素菟の段】にて「鷺大明神」(さ

ぎだいみょうじん)について述べています。


伯耆ノ国人の云く、本国八橋郡束積(ツカツミ)村に、鷺(サギ)大明神と云あり。須佐之男ノ命を
祭ると云。同村に大森大明神と云あり。大穴持命を祭ると云。件の両社の神主細谷(ホソヤ)大和と云。
さてその鷺大明神を疱瘡(モガサ)の守護神なりと云て、そのわたりの諸人あふぎ尊みて、小児の疱瘡
の軽からむことを祈る。(中略)此れ因幡の気多の前とあるには合ハざれども、若シは菟神は此の社に
て、鷺とは、菟を誤りたるならむか。疱瘡を祈るも、此の段の故事に縁あることなり。(後略)
※下線は私。 
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店)

伯耆の束積の鷺大明神は、現 束積の中山神社の境内地の摂社としてあるわけですが、須佐之男ノ
命を祭ると云い、疱瘡の守護神なのだそうです。そして、この「鷺大明神」を、「菟(うさぎ)を
誤ったのではないか?」と書いているのです。「うさぎ」⇒「さぎ」へとの転訛というわけです。

転訛というので、自分がふと浮かんだのが、ここ
束積
に建てられた「素菟神社」ですが、
須佐之男
が祭られる「
素鵞(すが)神社
」の文字です。須賀神社とも書かれます。
誤ったという可能性のひとつとして思い浮かんだだけです。

しかし、鷺大明神を祭っているから、白兎神伝承の地であるというようには、本居宣長は書いては
いません。私は、
元々は
白兎神伝承と
鷺大明神は別物だと思います。

そもそも、
この
疱瘡(ほうそう)=天然痘の概念が、弥生時代には存在せず、日本に伝染していた
ことが後代のこととされています。⇒ ウィキぺディア 天然痘

ウィキぺディアからの引用です。
〝日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発に
なった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られた
 と考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が
送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来
 の神をないがしろにした神
罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。
 『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)
かるるが如し」とあり、
 瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録
と考えられる(麻疹などの説もある)。585年
 の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。〟

鳥取県・伯耆地方には、
束積以外も、鷺の神を祭る神社があります。
 
鷺神社  鳥取県西伯郡南部町倭3番 賀茂神社境内社

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南部町の賀茂神社境内社 鷺神社ですが、『鳥取県神社誌』(昭和10年)によれば、
もと雲伯の

国境渡太ノ峠と称する所に鎮座し古来疱瘡神として信仰厚く旧藩主池田氏の祈願所なりしと云いま
す。 ※
雲伯は、出雲国と伯耆国。

賀茂神社 本殿の「波乗り兎」  
鳥取県西伯郡南部町倭3番 

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南部町の賀茂神社本殿には、波乗り兎が彫られています。境内社鷺神社との関係なのか、あるいは
関係なく白兎神伝承地なのか、定かではありません。

鳥取県・因幡の国にはないのか調べて見ますと、高草郡に
天日名鳥命神社 という式内社があり、「
天鷺の宮」と呼ばれているらしい。
天日名鳥命は、天穂日命の御子で、日本書紀での
稲背脛命と同
神とされています。
ただ、ここの
鷺(サギ)は、
天三祇宮(アマサギノミヤ)=
天日名鳥命、天穂日命、天日鷲命の三神
を祭ることから由来するという説もあるらしい。

天日名鳥命神社  鳥取県鳥取市大畑字森崎874

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天日名鳥命神社 拝殿


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賀茂神社のように白兎に関係する彫り物がないか見てみましたが、何もありませんでした。

さて、本居宣長は、古事記伝
神代八之巻で、鷺大明神が白兎神に関係がないのか考察しながらも、
最後の追加考察で、そのことを否定する現・松江市の神魂神社神主から聞いた話を載せて
います。

"おひつぎの考

 菟神。出雲ノ国意宇ノ郡大庭神魂ノ社ノ神主秋上ノ得國云ク、素菟神は、今も因幡ノ國高草郡の海
 邊内海村に、白兎ノ社とてあり。今は高草ノ郡なれども、氣多ノ郡に並ビて、氣多の崎の内なり。か
 の伯なる鷺大明神と云は、出雲ノ大社にも同ジ名の社有て、疱瘡を祈る神なり。菟神は其れには非
 ず、といへりき。"        ※下線は私。                
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店

神魂神社神主秋上氏が云うところの出雲大社の社とは、
大穴持伊那西波岐神社(
出雲市大社町
鷺浦)
のことで、現在も
鷺大明神とも呼ばれています。
「菟神は其れに非ず」ということですけれど、稲背脛命が主祭神ですが、白兎神も
配祀されています。
うーん。
しかし、おそらく、さぎ⇒うさぎか、うさぎ⇒さぎのどちらかわかりませんが、長い歳月を
かけて、
習合したんではないのかなあと思います。

出雲地方にも鷺神社があるかと思い出しますと、そんなに見かけません。近代医学の発展で、
「疱
瘡の守護神」がいまや必要なくなったためか、元々少ないのかわかりませんが、松江市の忌部神社
の境内
社にありました。

忌部神社境内社 鷺神社   
島根県松江市東忌部町957


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by yuugurekaka | 2017-05-29 07:00 | 因幡の素兎

江戸時代前期の儒者、貝原好古(かいばら よしふる)の『和爾雅』(1694年)には、伯耆 

素菟(うさぎ)大明神(だいみょうじんとの記載があります。

古事記には、『稲羽の素兎』の話として、載っていますが、伯耆国の束積郷(平安時代には既に

地名として存在しています。この束積とは出雲積、安積の「積」と何か関係があろうか?)

には、「伯耆の素兎」の伝承が残っています。


中山神社 鳥居   鳥取県鳥取県西伯郡大山町束積8番


『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)によれば、往昔 大森大明神と称し、明治元年

明治元年十月 束積社と改め、同五年十二月郷社に列せられ、同六年 束積神社と改称、同三十八年

九月二十六日中山神社と改称とあります。

祭神は、大己貴命、田心姫命、稲背脛命、倉稲魂命、御祖尊、稚産霊命、大山祇命、保食神、白兎

神とありました。


中山神社 拝殿   鳥取県鳥取県西伯郡大山町束積8番

   

      

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中山神社前の「伯耆の白兎」の説明板


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神社の前の説明板に「伯耆の白兎」の伝承が書かれています。


“束積に住む白兎が川をのぼる鱒の背を借り川を往き来していたが、過って鱒の背を踏みはずし溺れた。

 さいわい流れ木につかまり隠岐島まで流された。帰郷の念から鰐をだまし、皮を剥がれたところを大

 国主命に助けられた。

 「伯耆の白兎」の話は「因幡の白兎」と共に『古事記伝』で語られている。束積に帰って一休みした

 岩が「兎の腰掛け岩」として残っているほか、流れ木に助けられた川を「木の枝川」「甲川」と呼ぶ

 ようになった。

  村人は白兎の愛郷の念を偲び元の遊び場「古屋敷ヶ平ル」に社を建て「素菟神社」とした。この社

 は皮膚病(疱瘡)の守り神となり、平癒の節は笠を納めるのを例とし参拝者があとを絶たなかった。

 明治初年社が野火で焼失し、今は中山神社境内に再建され長く白兎の心情を保っている。

                            平成二年三月

                                 大山町教育委員会    

中山神社西参道の道祖神(サイの神)
伯耆地方では、サイの神にわらで作られた馬を供えるらしい。

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西側の参道に道祖神が祭られていました。素菟神の伝承地だから、藁のウサギかなと、単純に思っ
てしまいましたが、ウサギにしては足が長くてどうも違う気がします。
図書館に行って調べてみますと、伯耆地方には藁で作った馬を供える風習があるようです。
下記の引用は、中山町束積ではなくて、中山町岡地区の事例です。サイノカミ(幸の神)は、縁結
びの神様ということは聞いたことがありますが、耳の病気の神様という側面もあるようです。

“ 伯耆西伯郡中山町にはサイの神が少なくとも三十ヶ所はある。その中には神社の境内にあるものも
 少なくないが、これは道路工事その他のため遷されたものであって、元はやはり村境とか峠とかにあ
 ったものだという。たとえば岡地区では現在稲荷神社の境内にあるが、自然石そのままのものは少な
 く、大抵がその表面に男女の双体像を彫り出したり、また線刻したりしたものになっている。岡地区
 のも男女の双体像である。機能は一応耳の病の神だとなっているが、それよりもこの地方では縁結び
 の神という所が多い。しかしまた祭りには子供が参るものともしているのではっきりといわれないが、
 そこにはやはり子供の守り神という考えもあったことがしのばれる。…中略…
  十五日になると子供たちが参ってきた。子供のある家では子供の数ほど藁馬をつくり、これに団子
 二つ三つ苞に入れて負わせ、それを持って参らせる。…後略… ”
                    (『山陰の祭祀伝承』山陰民俗学会 平成九年 発行 )

さて、伯耆のうさぎが、鱒の背中を踏み外し、溺れそうなところをなんとか流れてくる木の枝をつ
かんで助かったという甲川(きのえがわ)を見に行きました。
木の枝川が、甲川となったのか、どうかわかりませんが、陰陽五行から木の枝(きのえ)→木の兄
(え→甲(きのえ)となったんだろうか。

甲川 (きのえがわ)
木の枝が、「甲」(きのえ)に転化したのか?

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そして、木の枝につかまって、日本海に面した甲川の河口に行ってみました。「伯耆の素兎」が、

ここから隠岐島に流れ着いたといいます。


甲川河口付近 
向こう側は日本海。

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この束積の甲川から、地図で見ますと、確かに直線的に隠岐島があります。マーカーした所が、束

積の中山神社があるところです。


“さて其の束積のあたりに、木の江川とて大キナル河ありて、其川の海に落る処、鹽津浦とて、隠岐
 知夫里湊その向ひに當れり。”(本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店)

                             

GOOGLEマップの地図 


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by yuugurekaka | 2017-03-20 23:35 | 因幡の素兎