■鵜鷺(うさぎ)の地

黄泉の穴の伝承地として有名な「猪目洞窟」をさらに西に行くと、鵜峠(うど)という地域に入り
ます。鵜峠をさらに西に行くと、鷺浦(さぎうら)という地域に到達します。

鵜峠(うど)浦
『出雲国風土記』(733年)には宇太保浜(うたほはま)と記されています。中世に宇道、宇峠とも呼ばれ、江戸時代に
鵜峠になったという。

e0354697_21521042.jpg

鵜峠+鷺浦で明治22年、「鵜鷺村(うさぎむら)」が誕生し、昭和26年(1951年)に大社町と
合併するまで存在しました。

鷺浦については、奈良時代より「鷺浜」なる地名があり、起源の古い地名であると思います。

鷺浦港  向こうに柏島が見える。
『出雲国風土記』(733年)には、すでに鷺浜(さぎはま)と記されている。

e0354697_23214540.jpg

伊奈西波岐神社

ここの鷺浦港に面したお宮が、出雲大社摂社「伊奈西波岐神社」です。式内社「大穴持伊那西波伎
神社」に比定されている神社です。鷺社とも呼ばれています。
祭神は、社名の通り稲背脛命(いなせはぎのみこと)です。

この神ですが、日本書紀の「国譲り神話」の所で出てまいります。

 "このときその子の事代ことしろ主神ぬしのかみは、出雲の美保みほの崎にいって、釣りをたのしんでおられた。
 あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。そこで、熊野の諸手船もろたふね(多くの手で漕ぐ早船か)
 に、稲背いなせはぎ諾否いなせを問う足)をのせてやった。そして高皇産霊尊の仰せを事代ことしろ主神ぬしのかみに伝
 え、その返事を尋ねた。" 
        ( 『日本書紀(上)』全現代語訳 宇治谷 猛 講談社学術文庫 )
 
古事記では稲背脛命ではなく「アメノトリフネ」が登場します。稲背脛命は、天穂日命の御子「
夷鳥命(あめのひなとりのみこと)」と、同神とされていますが、日本書紀では、同段に、大背おおそ
びのみ熊之くまの大人うし(またの名は武三たけみ熊之くまの大人うし)と書かれており、ここがそのように書いてないところを
見ると
武三たけみ熊之くまの大人うし=稲背脛命とは読み取れないように思えるのです。ともかく国譲りを承諾する
かどう
かを問う使者という役割を与えられた神には間違いがありません。

ここの
大穴持伊那西波伎
神社が、鷺社に呼ばれるにいたった背景がなんだったのでしょう。
鷺浦に鎮座しているというこ
ことなのでしょうが、天日名鳥⇒鷺ということからも、きているんで
しょうか?
古事記では、鷺(さぎ)は
天若日子の葬儀のときの、箒持ちの役割を担います。この箒は、「伯耆
耆」の由来とも
云われ、(伯耆風土記逸文では、「母来」となっています。)伯耆国造は、天穂日
命の系統ということになっているので、そういうこと
が関係しているのかしら

昭和41年御由緒調査書によれば「往古佐木といへる社号は延喜式神名帳に伊奈西波伎神社とあるを
以って神号を蒙り波伎と言ふべきを「は」と「さ」を通音を以て佐木と万葉書に記し来り一浦の名
も此社号より佐木浦といへり神号を象り(かたどり)社号とする例多し
…中略…防州岩国の住人某
奇想に出雲国佐木大明神と称し玉ひて疱瘡安全を守護し給ふとの託
宣有て夢覚ぬ翌朝家内へ白鷺一
羽翔入りて暫時有て飛去方を見れば出雲国の空に当れり誠に奇異の思いをなして速かに大社へ詣り
来り件の瑞夢を語りしより鷺の文字に改め書すと。」

ここに書かれているのは、「
伊奈西波伎社
」⇒「
波伎社」⇒「佐木社」⇒「鷺社」という転訛のよ

うです。

伊奈西波岐神社  
祭神稲背脛命   所在地 出雲市大社町鷺浦102  


e0354697_21511838.jpg

ところが、江戸時代の地誌、黒沢石斎著『懐橘談』(前編1653,後編1661)の「鷺の宮」の段では、
鷺社の祭神が、「素戔嗚命の妾」となっています。国譲りの段の登場する神とは、まったく縁の無
いものなっています。

"出雲国鷺宮は何れの神を祀り侍るやと牧童に尋ね侍れば是れは素盞鳴命の妾にてましましけるが天成
の霊質にて御契浅からざりしが後に天瘡を患ひ給ひ花の顔、忽に変じて悪女とならせ給ひ素戔嗚命と御
中もはやかれかれにならせ給ふ
かくて妾女我身の色衰へたる事を悲み、天神地祇に深く誓ひ給ひて末世の人民我に祈る事あらば疱瘡の
患を免れしめんと誓約し給ひし故に今に至る迄此の宮の石を取りて子児の守り袋に入れてかけぬれば痘
疹の病を脱ぐといひ伝へたりとぞ
年老ひたる社司の語りしは是は瓊瓊杵尊なり伝記にいふ所は昔神託童而祈我者免瘡之患爾来為痘瘡守
護神云々殊勝にぞ覚へ侍る」と"

「素戔嗚命の妾」とはいったいだれなのか?
弥生時代は対偶婚であって、そもそも「妾」なる概念そのものが無いはずですが、ともかく、疱瘡
を患って素戔嗚命と不仲になってしまいます。そこから、
稲背脛命=疱瘡に罹った
「素戔嗚命の妾」、
あるいは瓊瓊杵尊、というように別の伝承が組み合わさったような感じがします。

伯耆・南部町の鷺神社が、祭神 稲背脛命 磐長姫命としているところを見ると、瓊瓊杵尊と磐長姫
命が関係しているのかと思いましたが、そこは、元々別の神社の祭神で合祀されたもののようで違う
ようです。

ここの伊奈西波岐神社は、江戸時代、鷺大明神として全国的に有名だったようで、日向佐土原の修験
野田泉光院の『日本九峰修行日記』に"これ疱瘡の守護神日本第一也と云ふ"と書かれています。
ここの神社の石が「ご利益」があったということなのですが、宗教上の理由以外にも何か理由がある
のではと、ここの石の意味を考えてみました。
鷺浦には昭和10年代初頭に閉山するまで銅山があったようです。
銅は殺菌作用のある鉱物らしい。⇒一般社団法人 日本銅センター
それが関係したかどうかわかりません。

伊奈西波岐神社の灯籠の波乗り兎
鵜峠の大宮神社本殿にも波乗り兎の彫刻が施されています。

e0354697_15231378.jpg

■「素戔嗚命の妾」は、だれか?

伊奈西波岐神社から出雲大社までの山道を車で運転していると、突然道路下に大社造の神社が現れ
てびっくりします。大穴持御子神社、通称三歳社(みとせのやしろ)です。
富家伝承本によると、大和の葛城御歳神社が出雲に里帰りしたものという。

高比売神(高照姫命)、事代主命の兄妹は、出雲の神であると同時に、大和(葛城)の神でもあり
ます。

大穴持御子神社( 三歳神社 )   島根県出雲市大社町杵築東 
祭神 事代主神 高比売神 御年神

e0354697_21504592.jpg


長野県諏訪市大和に先宮神社(さきのみやじんじゃ)というこの高照姫命(高光姫命)を祀った神
社があります。古くは「鷺宮」さぎのみや、「鵲宮」さきのみやと呼ばれたようです。そして、こ
この祭神「光姫命」は、またの名を「稲背脛命」とされているとのことです。

社伝の一説によれば、高光姫命を首領に頂く大和の原住民は、建御名方神が諏訪に攻め入った時、
抵抗したがついには服従して、現在の社地から出ることを許されず、現在も境内前の小川に橋を架
けられていないそうです。
しかし、富家伝承によれば、高照姫命は、建御名方神のおばとなっています。

それはともかく、素戔嗚命は、富家伝承本によると彦火明命(=饒速日命)と同神であり、高光姫
命と結婚して丹波の海部王朝をつくり、その後、市杵島姫命と婚姻して、筑紫王朝をつくるという
ことになっています。海部氏勘注系図、先代旧事本紀でも、下記の系図となっております。
稲背脛命=素戔嗚命妾説ですが、高照姫命離縁説の伝承が背景にあるのかななどと思ったりもしま
す。

鳶大明神の本源地は、出雲の伊奈西波岐神社であると思いますが、白兎神と習合するにいたったこ
とは、その名の「さぎ」にあるのかもしれませんし、「皮が剥げる」といった疱瘡と素兎との共通
項からなったのかもしれません。ただ、太古からそうだったとは、自分には思えないのです。

e0354697_09165761.jpg

                                   


参考文献   
杉谷 正吉著『伊奈西波岐神社(鷺大明神)疱瘡守護神由来記』
                  (大社史話会発行『大社の史話第23号』)
       石破 洋著『イナバノシロウサギ総合研究』(牧野出版)
       宇佐 公康著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社
        斎木 雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話』 (おおもと新書)
       勝 友彦著『山陰の名所旧跡―地元伝承をたずねて』(大元出版)

by yuugurekaka | 2017-06-03 16:16 | 因幡の素兎

■ 竹取物語


月読命や豊受大神は、記紀において、ほとんど事績が述べられていません。それはおそらく、

記紀が編纂された時代には、大和中央に「月読命」や「豊受大神」を祀る豪族が、力もってい

なかったのではないかと思います。しかし、月読命」は、イザナギの生んだ三神のつでもあ

り、「豊受大神」は籠神社の奥の宮(元宮)であったことを考えると出雲族と同様に最も古い一

族であったと類推できます。

 

さて、月を考えてみると、かぐや姫の「竹取物語」が浮かんでまいります。

九世紀後半から十世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初の物語の一つであ

と言われています。月から来たかぐや姫に5人の貴公子がでてきますが、天武天皇・持統天皇

仕えた実在の3人が実名で(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)登場し、後の二人、庫持皇子

藤原不比等を、石作皇子は多治比嶋(丹比真人島)をモデルにしたと云われています。

詳しくは  ウィキペディア  竹取物語


記紀編纂時の重臣を揶揄しているので、記紀をねつ造し、月読命の事績をほとんど消してしまっ

た皮肉の書ではないかという話も、一つの説としてあるようです。

石上麻呂は、物部氏の末裔で、右大臣・左大臣を勤めました。


物部系の天皇の事績の周辺には、月読命を奉祭する菟狭(宇佐氏)族であろう名前が、ちらりち

らりと見えるものの、何も語っていません。神代の主軸は、アマテラスとスサノオばかりです。

アマテラスが皇祖神として定着する過程で、月読命の重要度が下がったのかもしれませんが、

申の乱が大きく影響しているのではないかと、んとなくですが、葛城王族であった尾張氏とか

の力が記紀に反映したのではないかと想像します。なんの証拠もないですが…。


■ 豊受大神と月神


竹取物語の月に帰る話ですが、ちょっとだけですが、丹後風土記(残欠の)竹野の郡、奈具社の

祭神 豊宇加能の命(とようかのめみこと)と似ています。豊宇加能の命は、八人の天女の一人

で、子どものいない老夫婦に一度天衣を取られ、人間界に住むことになりますが、酒をつくり、

その土地も豊かになって、老夫婦の生活を豊かにしました。しかし、十余年後、突然天に帰れと

言われ、嘆き悲しみます。天への帰り方もをすでにわからず、結局奈具の村でこころ穏やかにな

暮らすことになります。


豊宇加能の命が、豊受大神と同じかどうかはわかりませんが

丹波と「豊」は深いつながりがあります。通説では、「豊」は単なる美称、「受」は「食物」と

されています。しかし、富家伝承本では、「豊」は「菟狭族」を指すものと書かれていました。


この豊受大神ですが、伊勢神宮外宮にやってきた契機は記紀には書かれていません。

延暦二十三年(804年)撰進の『止由気宮儀式帳』(とゆけのみやぎしきちょう)には次のよ

うに書かれています。


〝①天照大神は雄略天皇の御代、伊勢の五十鈴川のほとりに祀られた。

 ②その時天照大神は、天皇の夢に現れて、「高天原からこの地に鎮座したものの、一柱で並んで

 鎮座する神がいない。そのため御饌(食事)を心穏やかにとることができないでいる。だから

 丹波国の「比治の真名井」にいる「豊受大神」(「止由気神」)を、私の御饌都(みけつ)の

 神として呼んでほしい」と告げた。

 ③驚いた天皇は、伊勢・渡会の山田原に宮処(みやどころ)を定め、豊受大神を丹波国から勧請

 し、御饌殿を造って天照大神の「朝の大御饌・夕の大御饌」を調達することにした。〟

                      (山本ひろこ著『中世神話』岩波新書より)

しかし、中世の伊勢神道(外宮神道・度会神道)によれば、豊受大神は、「天之御中主神」という

根源神と同神とされ、水神でもあり、月神であるとされています。詳しくは→ウィキペディア 伊勢神道

               

籠(この)神社奥宮 真名井神社 京都府宮津市中野 

豊受大神が主祭神。古称「匏宮」(よさのみや)「吉佐宮」(よさのみや)と呼ばれていた。


e0354697_19390673.jpg

この明治初期まで外宮の神主家であった度会(わたらい)氏ですが、始祖天牟羅雲命とも、天日別
命とも云われています。天日別命は、伊勢風土記伊勢の先住民族 出雲族の「伊勢都彦」を討伐平
定した人物です。(伊勢の名前は、出雲族の神の名前です。)

伊勢国風土記逸文によれば、天日別命(あめのひわけのみこと)は、天御中主尊の十二世の子孫と
あります。そして、伊勢都彦に国譲りを迫るのでした。記紀の国譲り神話のような話が、書かれて
います。

伊勢神宮にあまり関係が無いような出雲族ですが、延暦23年(804年)の『皇大神宮儀式帳』に
このように書かれています。
“度会の家田の田上の宮に着いた倭姫命を、宇治土公(うじつちぎみ)の遠祖・大田命が出迎えた。
 倭姫命が「そなたの国の名はなにか」と問うと、大田命は「度会国で、この川の名は、さこくし
 ろ五十鈴川と申します。この川上によい大宮処(おおみやどころ)があります」と答えた。さっ
 そくご覧になった倭姫命は、そこを大宮処と定めた。
                       (山本ひろこ著『中世神話』岩波新書より)

猿田彦命の子孫である大田命が、伊勢神宮の場所を導き、五十鈴川の川上一帯を献上したとされて
います。日本書紀一書(第一)では、二二ギノミコトを日向の高千穂に導いた後、伊勢の狭長田の
五十鈴に帰ることになっています。アメノウズメノミコトが、猿田彦命を送っていくことになりま
すが、古事記では、阿邪訶(あざか)で、ヒラブ貝に手を挟まれて溺れてしまったことや、アメノ
ウズメがナマコの口を小刀で切ったりと、なにやら意味深で、忍者の女人の術のような話が書いて
あります。

富家伝承本には、天孫降臨神話の段に出てくる猿田彦命は伊勢津彦であり、アメノウズメは菟狭族
で、豊鋤入姫命がモデルといような話が書いてありました。

■ 菟狭族と出雲族

伊勢神宮の一番最初の元宮である奈良の檜原神社には、豊鍬入姫宮があります。第11代垂仁天皇
になって、天照大神を豊鍬入姫命から離して…とあるので、もともと陰陽の対立の構図であったの
かもしれません。

この豊鋤入姫命の出自ですが、
第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(と
おつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女です。

紀氏といえば、葛城の王族として古い氏族ですが、高群逸枝『母系制の研究』(講談社文庫)によ
れば、
〝紀伊は古名を木、等という。元来出雲神族の開拓経営せる国土であるが、それは後にいう。

で、五十猛命を祖とする系統と、天道根命を祖とする系統の少なくとも2系は存在する氏族ですが、

〝記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖道彦」とあるが、二文、何れも国造
 祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。”と書かれています。

おそらく、崇神天皇の頃(それよりも前かもしれない)、紀氏と菟狭族との間に婚姻関係が発生し
たのだろうと思います。

豊鍬入姫宮 

e0354697_08172378.jpg

富家伝承によれば、垂仁天皇の命による野見宿禰を頭領とする出雲軍による第一次派兵で天ヒボコ
族の討伐をし、第二次派兵で豊国出身者の軍(菟狭族)を東国の上野国と下野国に追い払い、
出雲族は関東南部に落ち着き住みついて、関東の国造になったとあります。

なぜ出雲族と菟狭族がそういう敵対関係になったのか。西の出雲王朝が物部・豊国連合軍に滅ぼ
れ、菟狭族に葛城の出雲族(賀茂氏)がヤマトから京都まで追い出されたのだそうです。

下鴨神社(賀茂御祖神社)   京都府京都市左京区下鴨泉川町59 
神武天皇を導いたという八咫烏だという賀茂建角身命と娘の玉依姫命を祀っています。



e0354697_19370792.jpg



by yuugurekaka | 2016-12-31 18:27 | 月読命

■ 尾張氏、物部氏同祖 天火明命=饒速日命

丹波に発生した海部氏ー尾張氏の祖 火明命系と九州の日向から大和に攻め上がってきた物部の祖
が同祖というのは、なるほどと思う反面、後世のつくりごとでなかろうか?などの思いも浮かんで
きますがまずはそれを肯定して考えると、対出雲族では、尾張氏は半ば同族と化し、共に大和に葛
城王朝をつくる相手ですが、物部氏に到っては、西の出雲王朝を崩壊に導いた相手です。
いわゆる須佐之男命の和魂、荒魂の性格の違いのようにも見えます。

須佐之男命自体が、火明命あるいは饒速日命をモデルとした神だったと思うと
須佐之男命と出雲族との複雑な関係もなんとなくですが、そうかなあと思えてきます。

あの須佐之男命のヤマタのオロチ退治ですが、この年になるまであれこれ考えてきましたが
大国主命の系統の神門臣を(最終的には神門臣は、古志郷が拠点だった。ヤマタのオロチがやって
くる越とは出雲国古志郷だったのだろう。)やっつけて、西の出雲王朝を崩壊させた隠喩であった
のだろうと思っています。蛇信仰の出雲族なのに、オロチを切るはずはないのです。

物部氏は、初代天皇―天村雲命を神武天皇に挿げ替えて、尾張氏より、物部氏が大和では古いとい
うだけだけではあきたらず、ヤマト王権よりもさらに古い先住民族の出雲族の祖神を挿げ替えると
いう記紀の創作をしたんだと私は考えます。

ヤマタノオロチを切った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」)が、物部氏の神社「石上
布都魂神社」に祀られヤマタノオロチの体の中にあった草薙剣(別名「天叢雲剣」(あめのむらく
ものつるぎ))が尾張氏の神社「熱田神宮」に祀られているのが、暗に須佐之男命=火明命=饒速
日命を物語っているように思えるのです。

また、ヤマタノオロチの体の中にあった剣が、「あめのむらくも」という名がついているところを
見ると、出雲族のお腹から、
天火明命の孫(天村雲命)が生まれたということを云っているのかもしれません。

さて、須佐之男命が高天原で、狼藉を働き、天照大神が岩戸に隠れ、高天原が暗黒に包まれると
う話がありますが、
あれは、私思うに、物部氏・豊族(宇佐氏)の東征ー大和入りに伴って、葛城王朝の太陽神祭祀
できなくなったという隠喩ではないのだろうか?それで、天照大神は、鎮座する場所を巡りさまよ
うことになったのでしょう。

檜原神社  奈良県桜井市三輪1422 
崇神天皇の時代、宮中で祀っていた天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)にて
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が奉斎した所と伝わる。
天照大神の最初の遷宮地で、元伊勢と呼ばれる。

e0354697_08165243.jpg

■ 三輪山の太陽祭祀  

初瀬に行った折、初瀬小学校の近くのラーメン屋さんで、三つ鳥居と太陽暦の起源について教わり
ました。大神神社の三つ鳥居は、今より西北の所にあったらしく、そこから見える三輪山に登って
くる太陽の方向から、季節の節目がわかったといいます。

つまり、春分・秋分の日には三輪山から太陽が登るのを、三つ鳥居の真ん中の鳥居を通して見るこ
とができ、夏至の日の出は、左側の鳥居から見ることができ、冬至の日は、右側の鳥居から見える
という。

どこにそういう話が載っているのか、インターネットで調べましたら、 小川光三著『ヤマト古代
祭祀の謎』(学生社)に書かれているようです。
太陽の登る方向で、季節の変わり目を知る、なるほど、それによって、田植えをしたり、大きく
陽を仰ぎ見るという信仰が始まったのかもしれません。

さて、日本書紀の記載から考えると、三輪山の大神(事代主命あるいは大物主命)を奉祭していた
のは、葛城王朝の倭迹迹日百襲姫や、倭姫命のような独身の皇女だったようです。
しかし、三輪山の大神は、蛇体で、太陽神と違うではないか?そういう疑問が出てまいります。

箸墓古墳  奈良県桜井市箸中
宮内庁により、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓として治定されている。日本書紀 崇神天皇の条では倭迹迹日百
姫命は、三輪山の祭神大物主命の妻と書かれているが、当然ながら大物主命は先住民の祖神であって、生きている人間では
ない。また、倭迹迹日百襲姫命は7代天皇の娘であり、8代、9代、10代と生き抜いており、いったい何歳なのだろう。
 
e0354697_16360700.jpg

■ 蛇体のアマテラス

しかるに、アマテラスは蛇体との伝承もあります。
吉野裕子著『蛇巫から至高の女神へ ―アマテラスの変貌ー』の抜粋ですが、

〝皇女の使えるこの伊勢大神こそ実は蛇神という伝承がある。
 「伊勢神宮の滝祭りの宮は、いまこそ五十鈴川畔の手洗い場の側に、石だけが祀られている神社
  であるが、古来、重要な祭りに先立って祀られる社で、鎌倉時代は、場所も対岸にあって、こ
  の神こそ天照大神の前身とされている。その理由については、天照大神の神徳を五十鈴川の川
  水に祀るともいい、また鎌倉時代の『坂十仏参詣記』によれば、水底におられる竜宮がご神体
  ともいう。同じく鎌倉期の『扶桑略記』には、伊勢斎宮の夜ごとの蛇神との同床が伝えられ、
  荒木田神主家の伝承にも天照大神は蛇で、斎宮はその后である。そのために斎宮の御衾の下に、
  朝ごとに蛇のウロコが落ちている、とみえている(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』より要
  約)(斎宮とは斎内親王のこと)。 

                       ※ 斎内親王とは⇒ ウィキペディア 斎王
  
  要するに斎内親王は夜ごとに蛇と交わるべき蛇巫女であって、髪に櫛を挿すことによって蛇と
 化(な)りえたのであるが、斎内親王の本質はアマテラスのそれをそのまま引きつぐものである。
 とすれば、アマテラスこそ最高女蛇巫であったはずである。
                        (『吉野裕子全集 第11巻』人文書院 より)
 
この「夜ごとに蛇と交わるべき蛇巫女」を踏まえると、大昔は、太陽神は、男神であったはずです。
想像するに、ヒメヒコ時代(姉、あるいは妹、娘等がシャーマンとして祭祀を担い、弟あるいは兄、
父等が政治を担う)より、時代の変遷に伴って、男の天皇自らシャーマンとして祭祀することにな
り、天照大神が女性神に転化したしたのではないかという思いが浮かびます。
太古、女性が祭祀王として、地位が男性よりも高かったと思いますが、天照大神が女性神でもって
女性が地位が高かったという証明にはならないのではないかと思います。

ではその太陽の男神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ、アメノホアカリの別名)で
はないか、との説が浮かんできます、自分には全くそう思われません。
むしろ、大和から、アマテラスを叩き出した張本人ではないかと思うのです。

■ 天照大神、倭大国魂の対立

天照大神の祭祀が宮中にてできなくなる理由が、日本書紀崇神天皇の条に書かれております。

〝これより先、天照大神、倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢い
 を畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鋤入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀っ
 た。よって堅固な石の神籬を造った。また日本大国魂神は渟名城入姫命に預けて祀られた。とこ
 ろが、渟名城入姫命は、髪が落ち、体が痩せてお祀りすることができなかった。
                (『全現代語訳 日本書紀 』宇治谷 猛 講談社学術文庫)

 ※ 渟名城入姫命 第10代崇神天皇と、妃の尾張大海媛(意富阿麻比売)の間に生まれた皇女

通説では、倭大国魂神は、「大国主命の荒魂」となっていますが、そのあとの日本書紀の垂仁天皇
ところを読むと、そうは思えません。

〝このとき倭大国魂神が、穂積臣の先祖大水口宿禰にのりうつっていわれるのに、「最初はじまり
 のときに約束して、『天照大神はすべての天原を治めよう。代々の天皇は葦原中国の諸神を治め、
 私には自ら地主の神を治めるように』ということであった。…後略
                (『全現代語訳 日本書紀 』宇治谷 猛 講談社学術文庫)

始まりの時、イザナギに地上を治めるように言われた神は、日本書紀本書では、月読尊(青海原の
潮流を)と素戔嗚尊(天下を)です。しかし、素戔嗚尊は、「母について根の国に行きたい。」と
泣き、結局出雲の始祖となる展開です。
となれば、倭大国魂命は、素戔嗚尊である可能性が大です。それと、月読尊の可能性もあります。            

それから、体が痩せ細ってお祀りすることができなかった渟名城入姫命に代わって、大倭直の祖の、
長尾市宿祢(市磯長尾市)に命じて、倭大国魂神を祀らせます。
崇神天皇の条で、三輪山の大物主命をわざわざ事代命の子孫の大田田根子命を探し出し祀らせる話
がありますが、その時、大田田根子命とセットで記述されていますので、おそらく、大倭直の祖の、
市磯長尾市は、倭大国魂神の直系の子孫であると思われます。

市磯長尾市ですが、宇豆毘古(椎根津彦、珍彦)の7世孫です。この宇豆毘古というのが、神武天皇
東征神話に出てくる、亀に乗ってやって来て、水先案内や献策などを行う人物です。
籠神社には、亀に乗った銅像があり、籠神社に伝わる海部氏本紀の系図にも4代目倭宿禰として記
述されています。

始祖天火明命-天香語山命-天村雲命亦名天五十楯(妃-伊加利姫)-倭宿禰
始祖天火明命-天香語山命-天村雲命(妃-大屋津比売)-熊野高倉下      とあります。

しかし、海部氏勘注系図では、

始祖彦火明命-彦火火出見命-建位起命-宇豆彦命 ともあり、彦火火出見命は、綿津見大神の娘
である豊玉姫と結婚しています。
つまり、九州周りの豊族と結びついた物部氏の祖神 饒速日命であって、=月読命と結びついた
尊が倭大国魂神だったのではないのだろうか?
同じ天火明命の子孫ではあるが、出雲族と結びついた尾張氏では、倭大国魂神を祀ることはできな
ったということではないか…などと思いました。

続く


by yuugurekaka | 2016-12-27 07:10 | 高照姫 (天道日女命)

■ 高照姫命は、イザナミ命のモデル?

海部氏勘注系図および先代旧事本紀の系図を見て、私が強烈に思うのは、天火明命と高照姫命

の二人が、ヤマト王権の始原というものであって、高照姫命が、海部氏・尾張氏・紀氏、また

その後継の蘇我氏、阿部氏等の古代豪族の母祖神であるということです。


e0354697_15155308.jpg


しかしながら、高照姫命という女神は日本書紀に出てもきませんし、古事記では、下照姫命の

別名「高姫」となっており、戦後の古代史学者が、「下照姫命と同神」としており、全く存在

感がありません。

いわゆる葛城王朝の豪族の母祖神であるが故に、イザナミという国土創生神にされてしまった

のではないか…と、いうのが私の想像するところです。だから、東出雲の方には、イザナミ信

仰なるものがあり、島根県と鳥取県の県境や島根県東部と広島県の県境の山にイザナミ御陵な

る伝承地が集中してるのだと思います。


黄泉平良坂(よもつひらさか) 松江市東出雲町揖屋


e0354697_02592948.jpg

その上の、高照姫命の母の宗像三女神とも考えれるのかもしれませんが、黄泉比良坂」の伝

承地が江市東出雲町にあることを考えると、高照姫命をモデルとしているようにしか思えな

いのです。

しかし、国土創世の神が死ぬのか…?、ここが、理解に苦しむところですが、他にも私が、釈

然としないのは、①素戔嗚命の八岐大蛇退治(出雲の神様を切ってもいいのか?)②国譲り神

話(ヤマト王権を共に造っていてヤマトに国譲りもなかろう)と、③黄泉比良坂の話です。こ

の話をここで展開すると、ややこしくていけないのでまたの機会に譲ります。

火の神を生んで―カグツチー、あれは、天香具山命ではないかと思うのです。天香具山命は、

奈良の葛木坐火雷神社の祭神で製鉄の神でもあります。高照姫命は、出産でなくなったわけで

はなくて、丹後風土記に母子で登場してきます。たぶん、亡くなった場所はたぶん丹波でしょ

う。

一方のイザナギ命のモデルになった、天火明命は、母子を残して、ぴゅーんと九州の宗像族を

頼って行き、九州を開拓したのでしょう。

詳しくは 過去の記事 ⇒  黄泉平良坂の考察 (2)  イザナギとの離婚


黄泉比良坂近くにある神社、揖屋神社ですが、日本書紀 斉明五年(659)のところで出てくる

言屋社」比定地でもあり、かなりの古社です。『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社

「伊布夜社」の比定地でもあります。

この「揖屋」ですが、もともとは「いや」ではなく「いふや」だったのでしょう。


現在の祭神は、伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命です。元は東出雲王家の系統の神社

あったのではないかと自分は思います。この揖屋神社は、日本書紀斉明天皇の条で、天子の

死の予兆として描かれております。黄泉比良坂」といい「揖屋神社」といい「死」というも

のと関連付けられています。


このことは、通説的には、大和から見て日が沈む西の方向に出雲地方があるため、「黄泉の国」

として位置づけられたのではないかと云われていますが、私思うに、これは「東の(事代主系

出雲王家)雲の王朝は滅びた、死んだ。」ということを、述べている「隠喩」ではないで

うか。



揖屋(いや)神社 島根県松江市東出雲町揖屋2229

e0354697_01095782.jpg

揖屋神社の境内社を見てみます。々は、揖屋神社とは独立した「伊布夜社」の比定神社です
が、揖屋神社本殿の向かって右手にある三穂津姫神社です。
日本書紀では、大物主命がタカムスビ命に大和服従の意思を示すために、押し付けられた姫神
ですが、元々は出雲風土記に見られる奴奈川姫命の間に生まれた御穂須須美命だったのかもし
れません。


三穂津姫神社

e0354697_01101481.jpg

本殿の向かって右手にある
韓国伊太氐神社(からくにいたてじんじゃ)です。これまた、別の
「伊布夜社」の比定神社ですが、今の祭神は、素戔嗚尊と五十猛命ですが、一般的には五十猛
命を祭るのが多いですが、五十猛命=天香具山命、高照姫命の生んだ子です。
本殿の祭神、仮にイザナミのモデルが高照姫命であったとすれば、事代主命、高照姫命の兄妹
を両脇を子供たちが囲む格好になっているように思えます。

韓国伊太氐神社
                       
                       
e0354697_01102272.jpg


■ 出雲の発生源

「出雲郷」の地名表示

e0354697_01091205.jpg

揖屋神社から西方に行くと、「出雲郷」の地名に出合います。松江市東出雲町出雲郷ですが、
これは「いずものさと」「いずもごう」でもなく、「あだかえ」と読むのです。
それは、すなわち、出雲郷に阿太加夜(あだかや)神社があるからです。
現在、出雲市や出雲大社などが、出雲国(奈良時代の行政区分)西部にあり、出雲の地名の
本源地が、西部だと一般的に思われており、自分も長らくそう思っていましたが、鳥越憲三
郎著『出雲神話の誕生』や富家伝承本を学習するにつれて、「出雲」の発生源が東部(現在
の松江市)だったのではないかと思うようになりました。

阿太加夜神社  島根県松江市東出雲町出雲郷587


e0354697_01092704.jpg

出雲郷にある
阿太加夜神社ですが、『雲陽誌』(1717年)は「大穴持命の御子阿陀加夜怒
志多伎吉比売命は神門郡多岐に坐となり、今此里に阿太加夜社勧請なるへし」と現在の出
雲市多伎町の鎮座する多伎神社から勧請したというような説明をしています。しかし、『
出雲風土記』(733年)には「阿太加夜社」として、既に載っており、本当に勧請され
ものかは疑わしい感じがします。
阿陀加夜怒志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ)について、奥原碧雲著『島根県秋
鹿村誌大正11年)には、高姫命(亦名下照比売 亦名雅国玉神 亦名阿太加夜奴志
多岐喜比賣 亦名大倉比売)と書かれております。まあ下照姫命も書かれていますが、古
事記で同神と書かれているのでそれで同神となっているんだと思います。
富家の伝承本では、阿太加夜奴志多岐喜比賣は多岐津姫だということになっています。
海部氏勘注系図および先代旧事本紀では、高照姫命は、多岐津姫命の娘となっていますの
で、母と娘で一緒に住んでいたのかもしれません。

出雲市多伎町に分布する同じ祭神は何をあらわすか?と考えてみました。妻問婚のルール
からすると、事代主命や高照姫命は、筑前の母族で育っていくはずですがそういう感じが
全くしません。となれば、宗像族というのは、出雲族と半ば同族化して、いろいろな場所
に、領地というか、宗像族が住んでいたことになるのでしようか。

仮に阿太加夜奴志多岐喜比賣=高照姫命だとすると、これが大和葛城王家の母祖なので、
「稜威母(イズモ)」となったのではないか…。 
しかし、これは漢字から読んだ語源説なので、漢字とは新しいもので、違うような気も
ます。
出雲の説には、いろいろな学者が、いろいろな説を立てておりますが、あまり、自分に
腑に落ちたものではありませんが、今の所、高照姫命が始原というか、大和から見た母祖
ということが、「イズモ」に関係しているのではないか…という気持ちが強いです。

続く

by yuugurekaka | 2016-12-11 06:00 | 高照姫 (天道日女命)

思いついたのが、その日の夕方。

豊岡まで、JRの鈍行列車で乗り継いで、豊岡駅前のビジネスホテルで一泊。

豊岡駅で7時前の電車に乗り、天橋立駅に着いたのが、8時過ぎでした。

駅を出て、海を見ると、これが日本三景の天橋立ですか―。


下の写真は、駅側ではなく、北側の籠神社の上の傘松公園から写したものです。

天橋立は、丹後風土記逸文によれば、イザナギノミコトが天に通うことを目的として立てた梯子が、

休んでいるうちに倒れたものだと云います。


“初めの名を天の椅立と名付け、後の名を久志浜と名付けた。そう名付けたわけは、

国土をお生みになった大神である伊射奈芸命が、天に通おうとして、椅を作ってお立てになっ

た。それで、天の椅立と名付けた。伊射奈芸命がおやすみになっている間にその椅が倒れてし

まった。

それで、伊射奈芸命は霊妙な働きが表れたことを不思議に思われた。それで、久志備の浜と名

付けた。これを中古の時代には久志といっていた。ここから東の海を与謝の海といい、西の海

を阿蘇の海という。この両面の海に、種々の魚貝等が住んでいる。但し、蛤はすくない。”

     (釈日本紀 巻五「天浮橋」の抜粋 
          現代語訳 中村啓信監修・訳注『風土記 下』角川ソフィア文庫 より)

「ハマグリが少ない」の言は、よけいな気がします…が、イザナギノミコトに関係した地域なんだ

なと思いました。



傘松公園から見える天橋立  京都府宮津市

e0354697_09410131.jpg


■ 海部氏勘注系図に見られる高照姫


天橋立を渡ったところに、籠(この)神社が、鎮座しています。なんで籠(かご)なのか、彦火火

出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、龍宮に行ったことから命名されたとい

う。


祭神の彦火明命ですが、(⇒ウィキペディア 天火明命『日本書紀』では、ニニギノミコトの子ども、

あるいは、兄となっています。

また、祭神は、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊となっているらしい。

籠神社(このじんじゃ)一の鳥居   京都府宮津市字大垣430

e0354697_09411432.jpg


籠神社の宮司家、海部氏(あまべし)の所蔵する海部氏系図ですが、最古の系図として昭和51年

1976年)6月国宝に指定されました。『籠名神社祝部氏係図』と、『籠名神宮祝部丹波国造海

直等氏之本記』(以後「海部氏勘注系図」と称す)から成っています。

(詳しくは ウィキペディア 海部氏系図  ) 


さて、その内容の一部ですが、


◇ 国宝 海部氏勘注系図 巻首(原本 漢文) 抜粋 ◇


始祖 彦火明命

 またの名 天火明命 またの名 天照國照彦火明命 またの名 天明火明命 またの名 天照

 御魂命。

 この神は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三の御子にして、母は高皇産霊神の娘 栲幡千々姫

 命です。

 彦火明命が高天原に坐しし時、大己貴神の娘―天道日女命をめとって天香具山命を生みます。

 天道日女命はまたの名 屋乎止女命と云います。

 大己貴神は、多岐津姫命、またの名 神屋多底姫命をめとって、屋乎止女命、

 またの名 高光日女命を生みます。

                   …中略… 

 ここに火明命は佐手依姫命をめとって穂屋姫を生みます。

 佐手依姫命は,またの名 市杵嶋姫命、またの名 息津島姫命 またの名 日子郎女神です。

                   …後略…


(籠神社の宮司 海部光彦編『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』を

                         参考に平易な文章に変えました。)



大己貴神(おおなむち)の娘 天道日女命(別名 高照姫命)をめとったとあります。

つまりは、大己貴神が義理の父親になります。

記紀の編集者が見たら怒り出すような系図ですが、『播磨風土記』や『丹後風土記』でも、父親と

なっています。

詳しくは拙なるブログで⇒ スサノオ一族の上陸地(4) 播磨風土記・丹後風土記

それと、宗像三女神の市杵嶋姫命もめとったとあります。


なんと天孫族は、始祖からして既に、出雲族や宗像族と婚姻していることになります。

そして、その天火明命の後の海部氏、尾張氏が、初期大和王権の王族として葛城王朝を造っていく

ことになります。

富家伝承では、天火明命の孫となる天村雲命が、丹波から南下、磯城登美一族(大和の出雲族)と

三輪山の麓で初の王都を築くことになるそうです。つまりは、物部の東征は、もっと後代の話とい

うことになります。


それから、抜粋したところには載せてないですが、天火明命のまたの名として饒速日命あります。

つまり九州から攻め上がってきた物部氏と丹波から南下した尾張氏が、同祖ということです。


籠神社拝殿前の狛犬
鳥居をくぐって、そのさきの安土桃山時代の作品で国の重要文化財に指定されている狛犬がありました。
山陰では目にすることもない型の狛犬ですね。

e0354697_23234321.jpg


e0354697_23235501.jpg

さて、写真はここまでで、拝殿からは、カメラNGとなっていました。過去に参拝された方のブログが
たくさんあることを考えると、カメラNGになったのはここ数年のできごとなのかもしれません。
どういう拝殿、本殿なのかは、⇒ ウィキペディア 籠神社


■ 『先代旧事本紀』に見られる高照姫

さて、物部系の『先代旧事本紀』(⇒ ウィキペディア 先代旧事本紀) では、どのように高照姫を述べ

ているかと云うと、

( 天璽瑞宝  さんのホームページの現代語訳を引用させていただきました。)


“その大己貴神の子は、合わせて百八十一柱の神がいらっしゃる。

 まず、宗像の奥都嶋にいらっしゃる神の田心姫命を娶って、一男一女をお生みになった。

 子の味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)は、倭国葛木郡の高鴨社に鎮座されている。

 捨篠社(すてすすのやしろ)ともいう。

 味鉏高彦根神の妹は下照姫命。倭国葛木郡の雲櫛社に鎮座されている。


 次に、辺都宮にいらっしゃる高津姫神(たかつひめのかみ)を娶って、一男一女をお生みに

 なった。子の都味歯八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)は、倭国高市郡の高市

 社(たけちのやしろ)に鎮座されている。または甘南備飛鳥社(かんなびのあすかのやしろ)

 という。

 都味歯八重事代主神の妹は高照光姫大神命(たかてるひめのおおかみのみこと)。倭国葛木

 郡の御歳(みとし)神社に鎮座されている。

                       (『先代旧事本紀』巻四 地祇本紀 )



なんと高照姫命には大神命の称号がついています。

『海部氏勘注系図』に書かれていることと、『先代旧事本紀』に書かれていることを合わせて、系

図を作成すると以下の通りとなります。大己貴(大穴持とも書く)が、富家伝承では、何代にも渡

る役職名であって固有名詞でないとすることを考えると、同じ名前ではありますが、別の神という

ことになりましょう。(富家伝承系図とは多岐津姫・田心姫・下照姫の記載が違っています。)

東出雲王家出身の天冬衣命の子どもであり、高照姫は、事代主の妹ということになります。

また、高照姫命と事代主命は、母系をたどると宗像族となり、海人族の性格を持ちます。


e0354697_15155308.jpg


籠神社の奥宮、現在の真名井神社に参拝しました。昔は匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)

・与謝宮(よさのみや)・久志濱宮(くしはまのみや)とも呼ばれていたらしい。

主祭神は、伊勢神宮外宮の豊受大神です。


籠神社の奥宮 真名井神社
現在修造中で、拝殿前も工事中のトラックがありました。

e0354697_09415559.jpg

丹後風土記(残欠本)を見ると、丹後が豊受大神の発生源のようです。(天女伝説)

九州の豊国の「豊」の始まりがここだったとは。

天火明命が丹波に来る前は、丹波の元々の祖神だったのかもしれない。

通説的には、天照大神の食事のお世話をする神として、天照大神と半ばセットになっていますが、

たぶん、そういう単純な話ではないようです。

富家伝承では、三輪山の太陽神を奉祭していた磯城登美族(大和の出雲族)と月神を奉祭する豊族

(宇佐族)と宗教戦争が勃発し(狭穂姫命VS豊鋤入姫)、大和に居られなくなり、太陽神信仰の祭

祀場所を探し彷徨うことに至ったように書かれていました。(斎木雲州著『古事記の編集室』大元

出版)

天照大神の2度目の遷宮地であった籠神社ですが、その期間は4年ほどであったようです。


続く


by yuugurekaka | 2016-12-03 14:40 | 高照姫 (天道日女命)

お隣の鳥取県にある日吉津村(ひえづそん)に行ってきました。

日吉津村は、米子市に囲まれた鳥取県唯一の村です。

イオンモール日吉津もあり、映画も松江市よりはいろいろ見れたり、お笑い芸人もよく来たり

しますので若い人たちは、松江市からもよく行くようです。

日野川の流域の東側に位置します。

最近雨ばかり降っていましたが、久しぶりに雨が止みました。しかし、曇り空でした。

日野川の土手から、大山を写しましたー。


日吉津村から見える大山

e0354697_09422484.jpg

なぜに日吉津村に来たかというと、

このごろは、斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』を神社・遺跡巡りのガイドブックにしている

のですが出雲国造神賀詞(かんよごと)に出てくる神様、「賀夜奈流美命」のことが載っていま

して、鳥鳴海命(9代目大穴持)が日吉津村の地名である「蚊屋」に祀られたから、賀夜奈流美

命とも呼ばれるようになったと書かれていました。※賀夜奈流美命は、大和の飛鳥坐神社の祭神

その祀られている神社が、日吉津村の蚊屋島(かやしま)神社だというので、参拝したくなり来

てみました。

かなり立派な社殿でした


蚊屋島神社  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354

e0354697_09425489.jpg

現在の祭神です。


祭神 天照皇大神、高比売命(たかひめのみこと)

合殿=豊受姫命、大年神、天萬栲幡豊秋津姫命、天手力雄命、天若彦神

合祀=級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、素盞鳴尊、大己貴命、事代

主神、金山彦神


しかし、残念ながら、現在は「賀夜奈流美命」の名前は見えません。

おかしいなと思い、過去の事柄が載っている、

『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年発行)を見てみました。



拝殿の額と龍の彫刻 
拝殿と向拝の上部に3体の龍が彫られており、
江戸中期松江藩の木工方「小林如泥」の晩年の作と伝えられているようです。

e0354697_21114886.jpg

“ 創立年代詳ならざれども、当社は旧天照高比売命を祀りしとの口碑あり。

 然るに社領証文を始め棟札及び神主裁許状などによれば日吉津村大神宮とも伊勢宮とも、

 又後には天照皇大神宮とも記して、専ら天照皇大御神を祀りしが如くに見ゆ。

 是れ天照の字に泥み天照大御神と思ひ誤りて大神宮とも伊勢宮とも唱えしものか。

 此故にや美濃村旧家進氏の雑集紀に「日吉津大神宮」の祭神往古と今と相違有之」と云えり。

 かく祭神に相違を来たせしも古よりの口伝の捨て難くてか、嘉永の社帳以後は天照高比売命

 をも合せ祀りしものと思はる。

 伯耆誌に「郡中顕要の社なり社殿に祭神 天照大御神豊受姫命と記し、衣川氏の作るれる祝詞

 も(田蓑日記に見ゆ」右の趣なれど確徴ある事を聞かず、又天乃佐奈咩神と称するは前年或人

 三代実録に因りて設けたる説なりと云へり。

 今按ずるに三代実録に元慶七年十二月二十八日庚申伯耆国正六位上天照高丹治女神云々授従五位下と

 ある神にはあらざるか。

 此神は古事記伝に大己貴命の御子高比売(一名下照比売命)にやとあり。

 若し然らば天照の文字より誤り伝へて後世伊勢大神宮と称するにや、此他考ふる所無し」と云えへり。

 又旧神職田口家氏の伝へに、代々弓射る事と雉子の肉を食ふ事を厳く禁ず(当社の氏子鹿の肉を食はず

 との伝もあり)

 之れ天若彦の古事に因みてなるべし。

 今上の祭神より考ふるに豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見

 命、猿田彦大神、 天太玉命、神倭姫命は天照大御神を主神とせるより祀りしなるべく、大己貴命、

 事代主神、賀夜奈流美神(以上嘉永以後の社帳に拠る) 

 天若彦神は天照高日女神を主神とせるより合せ祀りしものならんか。

 されば当社の祭神は昔は天照高日女神なりしを、何時の頃よりか誤り伝へて天照大御神と変りしも、

 古き伝への捨て難く天照高丹治女神をも合せ祀ることとなりて主神二柱となりしならんかと云へり。”

 以下略


「賀夜奈流美神」の名前確かにありました。

ところで、現在「天照皇大神、高比売命」の二神を祀っていますが、

元々は、「天照高比売命」を祀っていて、

「天照」の冠がついているので、「天照大御神」と誤ったのではないかと。

そして、本当の祭神は三代実録に載っている884年頃の「天照高丹治女神」のことではないかと。

「天照高比売命」「天照高丹治女神」、この神は、

まぎれもなく、丹後国一宮の籠神社(京都府宮津市大垣)の祭神「彦火明命」(天火明命)の妻

神 高照姫(別名 天道日女命)ではないですか。

「天照高丹治女神」の「高」は「高姫」の「高」、「丹治」は「丹波を治める」だと思うのです。

この高照姫は、「海部氏勘注系図」によると大己貴命(おほなむち)の娘となっています。


そういえば、天火明命も別名「天照国照彦火明命」で「天照」の冠が付いています。 

本殿


e0354697_21121900.jpg

続く

by yuugurekaka | 2016-11-27 21:25 | 高照姫 (天道日女命)

黄泉平良坂 峠に登って行く道

e0354697_02595940.jpg

高群逸枝『日本婚姻史』(1963年)を読んでいて、黄泉比良坂の異説として、自分の頭の中で一度は流れてしまったけれど、出雲族と物部族との婚姻関係を学習するに到り、頭の中でまた現実的な説として蘇ってまいりました。


“妻問婚では、愛がなくなれば通わなくなる。女の側には、来た男をかえすという手段があった。しかし、重婚規定も離婚宣言もなく、平安ごろは、「床去り」「夜離れ」と呼ばれたが、すべてはあいまいで、復活する例も多かった。

男酋と女酋のばあいには、その背後に人民をひかえているので、そう簡単にはいかなかった。イザナギとイザナミの離婚では、ヨモツヒラ坂で千引の岩ごしに両人が対立し、コトドワタシ(絶縁の誓い)をした。最後にイザナギが、「ウカラ離れむ。ウカラ負けじ。」といった。いったん結合して同族となったが、ここに両者の離婚を契機として、ふたたび分離し、敵となって相見えむ」という意味である。”(高群逸枝『日本婚姻史』至文堂 54頁)


黄泉平良坂 千引岩


e0354697_03003312.jpg

もしやこれは、出雲族(イザナミ)と物部族(イザナギ)の離婚のことではないのか?

神代の時代は、妻問婚です。となれば、物部族(ここでは、物部氏ということではなく、海部氏、紀氏、尾張氏を指す)が出雲族と婚姻すれば、東出雲王家の家に足しげく通ったでしょう。基本的に妻問婚の時代は、女性は自分の氏族から離れないわけであるから、男神が通うしかありません。

―しかし、丹後風土記や播磨風土記で、ホアカリノミコトの后である天道日女命高照姫)の記事があるのは特殊な事例なのか、どういうことなのか、今のところよくわかりません。

 

イザナミが、火之迦具土(ひのかぐつち)を生んで、女陰に火傷してお亡くなりになる話ですが…、通説的には、「出産の事故」あるいは考古学的に「製鉄のかまど」などと云われますが、裏の意図としては、出雲族との決別の話ということではないのでしょうか。

火之迦具土神、ひの…迦具…かぐ…、…もしや天香具山命(ホアカリノミコトの子)では?

火と出産との関係を考えると、二二ギノミコトと木花咲耶姫の火中出産の話が思い出されます。

二二ギノミコトが、自分の子ではなくて国津神の子ではないかと疑い、木花咲耶姫が母屋に火をつけて証明する話です。(詳しくは ウィキペディア天孫降臨の火中出産の項目へ →ウィキペディア 天孫降臨 


当時としては、一夫一婦制ではなく、対偶婚なので、疑いが生じても不思議はないですが、実際の子であっても、そういう誓約をしていれば女神が焼け死ぬということがあったのではないでしょうか。


奇想天外な説に思われるかもしれませんが、その後のイザナギの行動がそう思わせるのです。

黄泉平良坂から戻ってイザナギが、出雲からピューンと九州の日向に飛んで橘の小門の阿波岐原(あはきはら 宮崎県宮崎市阿波岐原町)で禊をおこなうのです。

富家の伝承によれば、「徐福」は、二度来日し、最初は和名ホアカリを名乗り出雲族と婚姻関係を結び天香具山命を授かり、海部王朝の系譜をつくり、二度目の来日でニギハヤヒを名乗り崇神天皇につながる九州物部王朝の系譜をつくったとされています。


イザナギという日本創建神話の男神とは、もしやニギハヤヒのことを表わしているのではないのかしら、そういう思いが浮かびました。

ニギハヤヒは、天道日女命高照姫)と離婚し、出雲族と決別し、日本には居なくなり、残された天香具山命は、母族である出雲族に依拠していったのではないかと。


黄泉平良坂の賽の神


e0354697_22035545.jpg

久那土の神は、もともと、共同体を同族化し縁を結ぶ神であったものでしょう。いつしか物部族との対立の過程で、お互いの領土の境を示す神に転化したのではないのでしょうか。


続く


by yuugurekaka | 2016-03-27 22:19 | 黄泉比良坂

黄泉比良坂  島根県松江市東出雲町揖屋


e0354697_02592948.jpg


黄泉比良坂(よもつひらさか)、つまり「あの世」と「この世」の境、何やら幽界につながる4次元世界の入り口のように考えますと、やはり神話の世界の話に過ぎないのかな…と思えてきます。

そして、実際の黄泉比良坂を何度か歩いてみますと、ただの峠の道のようにしか見えません。

しかし、古事記・日本書紀になぜこの東出雲町揖屋のこの峠の話が載っているのでしょうか。

問題なのは、この話が何を意味しているのかということ、また、なぜ黄泉比良坂がこの場所なのかです。

まずは、場所について考えてみます。


古事記の黄泉比良坂を知らない方はこちらをどうぞ→松江市観光協会 黄泉比良坂物語


★ 東出雲の王都の入り口か ? ★

グーグルアースの下記の地図を見ればわかりますが、この黄泉比良坂を超えた西側の黄泉の国側には出雲臣の拠点というべき、意宇川の流域に意宇平野が広がっています。




e0354697_03024323.png


その意宇川の川上を登っていくと、東出雲のカンナビ山、茶臼山が見え、その南側に出雲国庁跡が見えます。さらに西の方に行くと、(富家伝承によると)東出雲王(向家)の王宮だったとされる神魂神社があります。

意宇川 下流

e0354697_03013725.jpg

カンナビ山 (茶臼山)と出雲国庁跡地

e0354697_03005525.jpg

つまりは、東出雲王家の拠点にたどりつく最後の峠であったということになります。

古代の地形がどうだったか、再検討は必要に思いますが、奈良時代に出雲臣の拠点が西の出雲郷(いまの斐川町)に移る以外は、おおむね変化ないと思われます。

「出雲VS大和」というように対立の図式で語られることが多いのですが、天津系の神々が出雲族の妻と婚姻関係を結んでいることもまた多いわけで、―例えば 神武天皇から3代に渡って事代主命の末裔―葛城登美家から后を迎えています。

また、それ以前にも、物部族の祖―饒速日(=ホアカリノミコト)は、東出雲王家から高照姫(天道日女命)を后に迎え、天香具山命を生んでいます。(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』)

父系をたどれば、天津神ですが、母族が出雲族の場合も多いのです。


e0354697_14525005.png

続く


by yuugurekaka | 2016-03-26 09:00 | 黄泉比良坂