ところで、野見宿禰の角力の相手方とされ当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや)葛城山
の麓、當麻の地ですが、アメノヒボコを祖とする神功皇后(じんぐうこうごう)を輩出した葛城氏
族のいた場所です。葛城氏に、始祖アメノヒボコの但馬氏が…と混乱しそうな話です。
野見宿禰が打ち負かしたアメノヒボコ族は、ここ葛城山の麓で、葛城氏と同族化して子孫が花開い
たのです。

“そののち三代はすべて多遅摩氏を名乗っているから、これらは皆、多遅摩母家に生まれ者であろう。
然るに清日子に至って、長駆して当摩の咩比に婿入して酢鹿之諸男、妹竈由良度美と云う一男一女
を生んだ。…中略…但馬氏の清日子が葛城氏に来って生んだが葛城氏を承けて名乗り、又葛城の地に
住むことは母家本位の当時の制度にあっては、至極当然なことであって、その清日子の女に、更に清日
子の兄比多訶が来って婚した結果の所生が葛城之高額姫であるのも固より自然である。葛城之高額姫は、
その御名に御母の族を承け、その御居も亦御母の地葛城に坐すことが窺われるのである。”
                      (高群逸枝 母系制の研究 (上) 講談社文庫42、43頁)

                 
※ 葛城之高額姫…神功皇后の母親 
下線、赤色は私。
                      
■ 初瀬(はせ)の起源

奈良県桜井市初瀬は、現在長谷寺周辺を言いますが、元々は三輪山南麓、巻向山南麓を含む、大和川
上流(初瀬川)流域の地域です。
明治以降の歴史を見てみますと、1889年(明治22年)4月1日、式上郡 初瀬村、白河村、出雲
穏村、柳村、角柄村が合併し、式上初瀬村が成立。その後初瀬町となりますが1959年(昭和34
年)2月23日、桜井市に編入され、瀬町は無くなります。

この初瀬の名前の起源ですが、古くは泊瀬(はつせ)と呼ばれ、大和盆地に流れる大和川の河口
近であり、上古の時代の船着場(泊瀬)からきているようです。
また、この地域は、大和川上流の初瀬川を囲む長い谷となっており、東に長谷寺(はせでら)があ
り、そこから長谷(はせ)と呼ばれるようになったとの説もあるようです。


初瀬観光センターにあった地図を抜粋させてもらいました。
巻向山の麓に「出雲」の地名が見えます。

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ここまでが通説ですが、泊瀬でよばれていたであろう奈良時代より前の時代も、果たしてそうだっ
たのでしょうか。
ここの地域は、野見宿禰が祖の土師の里だったことを考えると、土師(はぜ)から、その転訛して、
「はせ」と呼ばれるに到ったのでないだろうかと思うのです。
土師は、「はじ」と読むのが正しく、「はぜ」と読むのは間違いであるという反論が成り立つと思
いますが、播磨国の土師の里は、実に土師を「はぜ」と読ませるのです。信原克哉著『相撲の始祖
 野見宿禰の墓屋』(ブックハウスHD発行)によると、現住所名の兵庫県たつの市揖西町土師
けでなく、鈴鹿、堺、福知山、香寺なども同じく「はぜ」と呼ぶのだそうです。
漢字自体が、かなり後代になって入ってきたわけですから、もともと、土師も当て字であったはず
で、大昔(弥生時代や古墳時代)はどう読んでいたか、はっきりしないのだと思います。


初瀬川(大和川)

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■ 奈良の出雲(いずも)の地名

近鉄線長谷駅で降り、西に歩いて約20分で、出雲の地名にたどり着きます。
ここに野見宿禰の墓と伝わる古墳があったのです。

歩道橋に見える出雲の地名  桜井市立桜井東中学校に向かう歩道橋

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三輪山の周りには、ここ出雲村(現在は、桜井市出雲で、村名ではありません。)だけではなく、
中世には、狭井神社の北方にある「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」付近の「出雲屋敷」や三輪山
の北西の桜井市江包を中心とした「出庄」なる荘園の名前に残っていました。

私思うに、ここの出雲の地名は、「出雲国」の地名とは直接関係が無く、出雲の姓氏をもった豪族
が住んでいた足跡ではないのだろうかと思います。
しかし、新撰姓氏録(815年)によれば、大和には、出雲臣などの姓氏は見られません。
でも、垂仁天皇の頃、出雲氏の「本姓を改めて」、土師宿祢の姓氏となったのだから、大和の出雲
氏は消滅したのかもしれません。あるいはまた、京都に都が移ったのに伴い出雲臣は移住して行っ
たのかもしれません。

そもそも、大和の地元に住んでいた出雲族(大国主命や事代主命を祖と仰ぐ豪族)は、出雲の姓
名乗っていません。
たとえば、「新撰姓氏録」の大和国の「神別」を見ると以下の通りです。

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
天孫  土師宿祢   天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也  
天孫  贄土師連   同神十六世孫意富曽婆連之後也
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也 
地祇  和仁古    大国主六世孫阿太賀田須命之後也 
地祇  長柄首    天乃八重事代主神之後也  

なんで事代主命が天神なのかと怒りだす人がいるかもしれませんが、初期ヤマト王権の皇后を輩出
した母族であるので、母族の氏祖ー事代主命を天神として奉ったとして、そう不自然なことではあ
りません。

上記「新撰姓氏録」はわかりやすい系譜であって葛城王朝の王家(尾張氏や葛城氏等)と姻を
結んで、始祖変更した豪族もいれると、どれだけの氏族が、出雲族と関係した氏族なのかわかりま
せん。

さて、ここの出雲の姓ですが、戦後の歴史家の通説では、天穂日命を祖とする出雲国造家の氏姓の
みをいいますが、私の前回の記事の通り、事代主命を祖とする出雲氏もいたと思います。

先に出雲国とは直接関係ないと書きましたが、
はなから大和の地元の出雲族の豪族が、出雲姓を名乗ってないところを見ると、東出雲の豪族が移
り住んでいたんではないか。(大国主命の系統が、出雲国においては出雲臣ではなく、神門臣を名
乗っているとこをみると、事代主命の系統ではないのかしら。)


■ 野見宿禰の墓

桜井市出雲の地区の神社として、十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)が、巻向山の南麓に鎮座
ています。

十二柱神社 桜井市出雲650 

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ここの神社には野見宿禰の五輪塔があります。
祭神は、数えると16柱ではありますが、7代+5代で12なのでしょう。

神世七代の神
国常立神(くにとこたちのかみ)、国狭槌神(くにのさづちのかみ)、豊斟淳神(とよむくのかみ)、泥土煮・沙土煮の
神(うじに・すじにのかみ)、大戸之道・大苫辺の神(おおとのじ・おおとまべのかみ)、伊邪諾・伊邪冊の神(いざな
ぎ・いざなみのかみ)、面足・惶根の神(おもたり・かしこねのかみ)
地神五代の神
天照大神(あまてらすおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火日
出見尊(ひこほほでみのみこと)、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

野見宿禰も大物主も現在は祀っていませんが、祭神は時代によって変わるものです。ここの出雲の
伝承では、大昔は神殿が無く、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1,700mの嶺の上にあった古
の出雲集落地)の磐座を拝んでいたようですので、もともとは三輪山の山の神を拝んでいた社で
ったのかもしれません。吉野裕子氏によれば、山の神と12という数は密接に関係しているらし

狛犬を支えるお相撲さん
十二柱神社の入り口にある二基の狛犬は、文久元年(1861年)の作。
4人のお相撲さんが、異なった姿で抱えています。

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ここの境内には、野見宿禰の五輪塔があります。
花崗岩の粗造りで鎌倉時代のものらしい。
となれば、最低でも鎌倉時代には、野見宿禰の墓信仰が既にあったことになります。
この五輪塔は、もともとは野見宿禰の墓との伝承のある古墳から運ばれてきたようです。
神社に五輪塔…どうやって拝んでいったらいいか、ちょっと頭が混乱してしまいましたが、仏式で
手を合わせて拝みました。
古い神社には、参道の入り口や、境内の境界のところに、よくお地蔵さんがあって、柏手は打たず
に拝むのですが、いつもの通りです。

境内にある五輪塔


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ここの神社は、第25代武烈天皇 泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)伝承地でもあります。日本
書紀には残虐非道な行いばかり書かれているけれど、ここの土地にあるということは、出雲族も支
えたんでしょうか?

武烈天皇泊瀬列城宮伝承地 石標と説明板

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十二柱神社の参拝が終えて、五輪塔が元々あった古墳のあった出雲村字太田(ただ)へ行ってきました。

日本書紀では大物主命の子とされる大田田根子(おおたたねこ)ー実際はかなり後代の子孫であろ
ー の「田田(たた)」と関係はありはしないかなどと勝手な想像します。
大正九年(1920年)に到って古墳の土は取り除かれ現在のような平坦な状態になったとのこと
です。古い絵図では、おおざっぱな円墳が描かれていましたが、本当に円墳なのか定かではないと
いうことです。

今はひっそりと、野見宿禰塚跡 の石碑が田んぼの中にありました。



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参考文献

池田雅夫著 池田雅之・谷口公逸編 『野見宿禰と大和出雲』 彩流社
信原克哉著『相撲の始祖 野見宿禰の墓屋』 ブックハウスHD
高群逸枝著 『母系制の研究』講談社文庫 
鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社学術文庫
鳥越健三郎著『神々と天皇の間』朝日新聞社
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版
斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版


by yuugurekaka | 2016-11-20 20:10 | 野見宿禰

額田王歌碑前から見える三輪山


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■出雲族は初期ヤマト王権の母族


垂仁天皇の命により出雲国より召し出され大和にやってきた野見宿禰をテーマをするにあたり、話の
成り行き上、舞台となった大和に行かないと話が進みません。
朝4時に起きて電車に飛び乗り、JR三輪駅についたのは、11時過ぎでした。
一番驚いたことは、三輪駅というのが無人駅だったことです。行くまで頭に描いた三輪駅のイメージ
は、大神神社(おおみわじんじゃ)の参拝客でごったがえす大きな都会の駅だったのです。
逆にほっとしました。人が多いのは苦手なのです。駅前のかなり伝統ありげな三輪ソーメン屋さんで
早めの昼飯を食べて大神神社の参道を歩いていきました。

大神神社 二の鳥居  

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大神神社 拝殿   奈良県桜井市三輪1422

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この大神神社の祭神 大物主命ですが、『古事記』『日本書紀』では、確か「少彦名命」「事代主命」
だったと思うのです

でも自分が読んだ古代史の本には、そういうことは殆ど書かれていなくて、改めて『日本書紀』を読ん

みましたが、やはりそう書いてありました。


大己貴神と少彦名命の項の本書の抜粋ですが


“大己貴神が「そうです。分かりました。あなたは私の幸魂奇魂です。今どこに住みたい住みたいと

思われますか」と。答えていわれる。「私は日本国の三諸山に住みたいと思う。」と。そこで宮をそ

の所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神のみ子は賀茂の君たち・大三輪の

君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫である。別の説では、事代主神が、大きな鰐になって、三島の溝樴姫、

あるいは玉櫛姫という人の所に通われた。そしてみ子姫蹈鞴五十鈴姫命を生まれた。これが神日本磐

余彦火火出天皇(神武天皇)の后である。…中略…

すると高皇産霊尊がお聞きになって、「私が産んだ子は皆で千五百程ある。その中の一人の子は、い

たずらで教えに従わない子がいた。指の間からもれ落ちたのは、きっと彼だろう。可愛がって育てて

くれ」といわれた。これが少彦名命である。

                (宇治谷 猛 訳『日本書紀(上)』  講談社文庫52頁53頁)


ここで「別の説では」と書かれておりますが、

日本書紀の別の項で、神武天皇の正后は事代主命の子、姫蹈鞴五十鈴姫命ということが書かれて

いるので

三輪山の祭神=大物主命=少彦名命=事代主命は、疑いのないことだと思います。

ただ、少彦名命は、大国主命の「幸魂奇魂」ということも書かれており、

三輪山の神は、大国主命と上書きされるにいたり、なんだか手の届かぬ神話的存在となっていま

す。


さて、(『日本書紀』本書によれば)事代主命に系統のお妃は、神武天皇の皇后にとどまらず、

二代綏靖天皇の五十鈴依姫(事代主命の次女)、三代安寧天皇の渟名底仲媛(事代主神の孫ー

鴨王の娘)というように三代に渡ります


ここから、察するに、事代主命の系統は、初期ヤマト王権(葛城王朝)の后を出身する母族で

あったのでしょう。だから、記紀の「国譲り神話」にあまり重きを置くと、出雲VS大和にな

ってしまいますが、初期においては、むしろ、磯城において出雲族は天皇家を支える豪族であ

ったということになります。


しかし、『日本書紀』(本書)に記述はそうなっていますが、磯城県主女や十市県主女など『日

書紀』(一書)や『古事記』は別の皇后の名前が書いてあります。でも、高群逸枝『母系制

の研究』を読むと、ほぼ同族のようです。


“志紀氏の如くは、神武紀に「弟磯城黒速云々為磯城県主一」とある氏が基本となっているのである

ことは、多氏の氏神社多神宮の所在地が大和国十市にあること、その十市県主が、磯城氏であること

(此の地より物部系をも発す。…中略…)、磯城氏は鴨玉家(神八井耳命の御母家)と殆ど同氏の如

く記紀には見えていること(例えば御所生師木津日子玉手見命であるが、紀では(○鴨玉家女)五十

鈴依媛であって…中略…)等によって、鴨玉家といい、磯城氏というのも、何れも母系を相交錯する

極めて親密なる地祇族の一団であることが想像される。”

                  (高群逸枝 母系制の研究 (下) 講談社文庫75、76頁)


“されば思うに事代主裔の鴨玉家と、磯城県主家とは同家であって、神武御宇より孝元御宇まで御外

威の権を恣にしたのは、太田説の如く弟磯城の裔であったと見てもよいであろうが、同時に事代主命

の裔であることの寧ろ妥当なるを私は云いたい。

                  (高群逸枝 母系制の研究 (下) 講談社文庫76、77頁)



先の神武天皇段階で、婚姻を結んでいることになっているので、天津神VS国神などそもそも

論外な話であり、また婚姻関係を結んで同族化して、天神を名乗る出雲族が存在したのも全く自

然なことのように思えます。少彦名命が、天津神の祖の高皇産霊尊や神皇産霊尊の手の平から

ぼれたとする出自の由来ではないかと思います。

そういうことから、考えると、菅原道真公が、天神として祀られたことにももしや何か関係があ

るのか?と思いが浮かびました。


この三輪山の西方には、崇神天皇磯城端籬宮跡(しきみずがきのみやあと)がありますが、初期

ヤマト王権(いわゆる)を支えた母族の拠点地を奪い、都を開いたのでしょうか?

それもなかなかうまくいかず、出雲族とうまくやることで、大物主を祀ることをしたのでしょう

か?


■穴師山の相撲神社


山の辺の道を北上し、ようやっと、三輪山の西北、穴師の相撲神社に到達しました。

相撲神社の下った所には第12代景行天皇の宮跡纒向日代宮や第11代垂仁天皇の宮跡とされる

巻向珠城宮址があります。


ここが、「国技発祥の地」カタヤケシの伝承地らしい。


相撲神社   奈良県桜井市穴師 祭神は野見宿禰。


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相撲神社境内のお相撲さんの石像


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カタヤケシ由緒の説明板

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■穴師坐兵主神社の祭神は、どなたか?


この穴師山をさらに登ったところに穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)がありま

す。小さなお社ですが、かなりの古社です。


鳥越健三郎著『神々と天皇の間』(朝日新聞社)の説明を借りると、

“延喜の制で月次・相嘗・新嘗ともに官幣をうける最高位の神社をしらべると、大神大物主神社、

穴師坐兵主神社・大和坐大国魂神社、石上坐布留御魂神社の四社である。

つまり、ものすごく社格の高い神社(延喜式内名神大社)です。

詳しくは→ウィキペディア  穴師坐兵主神社


穴師坐兵主神社 奈良県桜井市穴師1065

三殿並立の合殿の神社で、左側が、穴師大兵主神社、中央が穴師坐兵主神社、右側が巻向坐若御魂神社。

現在の鎮座地は、穴師大兵主神社で、中央の穴師坐兵主神社は、弓月岳にあったようだが、その弓月岳比定地には竜王山・

穴師山・巻向山の3つの説がある。


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中央の穴師坐兵主神社(現在は三殿合祀の神社の名前となっていますが)の祭神について、様々

な説があるようです。垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇

が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったとも云われます。また、兵主神社の分布が但

(七社)に多い事や、御神体が「日矛」ということから、アメノヒボコ説もあるようです。


しかし、鳥越健三郎著『神々と天皇の間』(朝日新聞社)によれば、日矛そのものは『旧事本紀』

は、鏡であることを述べており、『大倭本紀』では、鏡三面と子鈴一合をつくり、鏡の一面は

伊勢神宮へ、一面は紀伊の国懸神宮へ、のこる一面と子鈴は穴師の兵主神社へおさめたと書かれ

ています


この神社の名前の「兵主」ですが、内藤湖南氏によれば、『史記』封禅書には、秦の始皇帝が山

東省に旅した時、斉の国(中国山東省付近)で元来祀っていた八神(一、天主、二、地主、三、

兵主、四、陰主、五、陽主、六、月主、七、日主、八、四時主)の三番目であるそうで、弓月岳

の名称などから、秦氏が持ち込んだものとしているそうです。


富家伝承では、天火明命(=饒速日=素戔嗚尊)は、徐福で、秦に滅ぼされた斉の国の人という

ことだったので、故郷の神を持ち込んだのかもしれません。(あるいは後代になって、子孫が持

ち込んだのかもしれませんが…)


ここの神社は、そもそも、どの豪族の神社だったのか不明の神社のようです。

富家伝承の本(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版)をまた読んでみました。

“笛吹に住んだ尾張家の一部は、後に三輪山の西北麓・穴師に移住した。その地名は穴師(金属

製錬者)が住んだことによる。”

尾張家(海部家)となれば、天香語山命=五十猛命。(ちなみに斎木雲州氏によれば、「射楯」

字は、天火命の子、「イソタケ」を「イタテ」に当てはめたものだそうです。)

ここで、大きな疑問がまた。尾張家の神社となれば、初期ヤマト王権の葛城王朝です。

三輪山や穴師山の麓が、物部系の崇神、垂仁、景行天皇の宮跡だったとする通説と矛盾を感じま

す。


富家伝承の系譜図簡略抜粋(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版より)

尾張氏の系譜は書いてありませんが、海部家と天村雲命まで系譜が同じです。

なお高照姫は、葛城山の御歳神社の祭神で、八千矛(大国主命)の娘下照姫とは別の神様です。



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続く


by yuugurekaka | 2016-11-05 07:00 | 野見宿禰

野見宿禰が亡くなったこの日下部の里ですが、日下部氏の名前からきています。

日下部氏とはどんな氏族だったか?


“日下部氏の如くは、物部系、丹波系、有馬皇子系、伊勢国造系?阿部系、隼人系の諸系が蝟集して

いる。然し、此氏は大部曲をなす氏であって、部民は同部に属しても必ずしも同族ではなく、従って

出自の異るのも当然であるという解釈が成り立つ。”

                (高群逸枝 『母系制の研究 (上) 』  講談社文庫132頁)


となれば、出雲国西部にホムチワケ伝承を持ち込んだと思われる(自分の思い込みかも)開化天

皇の裔と、播磨国日下部の里の日下部氏は、同族とは限らないわけです


■ 祖変  氏族の祖を変えることをいう。

まず、そういう前提で、日下部氏の系譜を高群逸枝著の『母系制の研究』を調べて見ましたら、

但馬国造の所で、


“こゝに但馬氏は、日槍系を没し、開化天皇を祖とするに至ったが、更に隣国丹波国造より婿を招い

たと見えて但馬国造に二祖を派生するに到った。天孫本紀に「(○火明命)六世孫建田背命、神服連、

海部直、丹波国造、但馬国造等祖」とあるのが此れである。

爰(ここ)に但馬国造は同母族を根拠として、皇別の開化帝裔、神別の火明命裔の二派を生じ、交互

に国造の職を承けたのであろうと思われるが、其後此族は、又又祖変して孝徳天皇を仰ぐに到り、

馬氏を没して日下部氏に改名したらしい。” 

                    (高群逸枝 母系制の研究 (上) 講談社文庫108頁)


そういうことであれば、ここの日下部氏は、但馬氏系の「日下部氏」だった可能性もあります。

となれば、ここで野見宿禰と戦乱があって、討死にしたことも想定できます。

それはなぜか。


■ 出雲族VS天日槍命 


出石神社(いずしじんじゃ)鳥居    兵庫県豊岡市出石町宮内99

天日槍命を祀っている。縄文時代、出石市一帯は海だったという。


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出石神社本殿


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天日槍命(アメノヒボコ)を元々は祖とした但馬氏ですが、天日槍命は、「播磨風土記」にて出

雲族と対立、領土紛争の様子が随所にちりばめられています。

                         (詳しくは→ ウィキペディア アメノヒボコ 


“渡来神である天日槍命が宇頭川(揖保川)にやってきた。土着の神である葦原志許乎命に「宿ると

ころはないか」と尋ねたところ、志許は海中を許可した。すると日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを

見せ、そこに宿った。日槍の勢いに危機を感じた志許は、先に国占めをしようと川をさかのぼってい

った。このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため、粒丘と呼ばれるようになった。

葦原志許乎命と天日槍命は山からお互い3本の葛を投げた。志許の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2

は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになっ

た。                         (ウィキペディア 播磨風土記り) 


宇頭川(揖保川)上流  兵庫県

野見宿禰神社から伊和神社に北上する所で写しました。


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伊和神社参道  兵庫県宍粟市一宮町須行名407 

出雲から来た伊和大神は、何代目オオナムチだったのか?


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天日槍命が、八代目オオナムチの葦原志許乎命の時代の人だというのは、日本書紀の垂仁天皇

の記述と大きく矛盾しますが、日本書紀の記述では、天日槍命と、その子孫の話がいっしょく

たに同時期に書かれており信用できません。

垂仁天皇の時代より、はるか昔の時代ではなかったろうかと思います。


■ 向家(富家)伝承では


出雲王族向家(富家)伝承では、大庭を拠点とする東の出雲王国を崩壊させたのは、物部軍で

すが、先に攻めてきて田和山神殿を破壊したのは田道間守(→ウィキペディア 田道間守)率

いる但馬軍です。

出雲王国崩壊後、垂仁天皇の時代に、但馬勢力の増長を食い止めんがために出雲族を討伐軍と

して差し向けられた戦いの話が、野見宿禰V当麻蹴速の相撲起源話に転化したそうです。野見

宿禰率いる出雲軍は、但馬軍には勝ったが、その後、播磨国日下部の里で、野見宿禰が毒殺さ

れたのです。


“富家の名前を「野見」家に変えて、野見大田彦と名のって兵を集めた。野見大田彦にひきいられ

て出陣したイズモ軍は、奈良盆地に西北から侵入した。…中略… 野見の活躍により、イクメ大王

の支配は安定した。大王は喜び、物部勢力での家柄の敬称「宿祢」を、野見大田彦に与えた。以後

かれは、野見宿祢を名のった。

野見宿祢の軍勢が田道間のタジマ勢力に勝った事件は、古事記には野見宿祢が角力で当麻蹴速(田

道間守)を負かした話に変えて書かれた。…中略…かれが奈良から郷里に帰る途中、播磨国の竜野

で、食事に招待された。ところが、その家の料理には毒が盛られていた。その結果、彼は不慮の死

を遂げた。その家の主はヒボコの関係者だったことが、後でわかったと伝えられる。”

                    (斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版50-51頁)


出石そば  


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出石神社から播磨の国に自動車で南下しているとき、ドライブインで「10割蕎麦」ののぼりが

目につき、そのざるそばを注文しました。出雲そばと違って、色が白いです。でも、とっても

おいしかったです。

山葵をすりおろして食べました。10割蕎麦は柔らかくてぽろぽろ切れるものとの先入観があり

ましたが、結構こしがありました。


続く


by yuugurekaka | 2016-10-23 07:00 | 野見宿禰

出雲国菅原天満宮に出雲の人たちが野見宿禰の分骨を持ち帰ったという、兵庫県たつの市に行って

きました。播磨風土記(715年頃?)には、野見宿禰の出雲墓屋の記述があります。



“日下部の里。人の姓によって名とする。土は中の中。

立野(たつの)。立野と名づけた理由は、昔、(はに)()弩美(のみ)宿禰(すくね)が出雲の国に行き通い、日下部の野で宿り、

病気を患って死んだ。その時、出雲の国の人がやってきて並び立ち、人々は川の礫石(さざれいし)を取り上

げて運び渡して、墓の山を作った。だから、立野と名づけた。その墓屋(はかや)を名づけて出雲の墓屋

とした。”

    (中村啓信 監修・訳注 『風土記 上』 角川文庫  播磨風土記 揖保の郡より)


揖保川 兵庫県たつの市 鶏籠山が龍野の町を見下ろしている。


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この揖保川の小石を出雲の人たちは、バケツリレーのごとく、お墓の山に運んだのでしょうか。

野見宿禰は、出雲の国と大和の国を往来し、播磨国日下部野で病死したと伝えられています。
川を見下ろす鶏籠山の奥の的場山の中腹には、野見宿禰の墓とされる野見宿禰神社があります。

的場山の麓の龍野公園から入って、龍野神社の右脇の参道を登って行きます。
この野見宿禰塚の石碑を登って行きます。


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かなりの急な坂道です。
伝承地と云うところは、いつもこのように軽い登山のようになってしまいます。

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やっと最後の石段に到達しました。ふう。

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この急な石段を登って行くと、出雲大社と同じ神紋(二重亀甲に剣花菱)の石の扉がありました。
出雲国造家(千家氏・北島氏)では、野見宿禰は第13世出雲国造(襲髄命)ということになっ
ています。

野見宿禰神社 兵庫県たつの市龍野町北龍野  

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ここからは、古代の日下部の里であったと想定される龍野町の町並みが、眺めることができました。
相撲の元祖とされているので、力士たちの玉垣が見えます。
「朝潮太郎」の名前が見えます。何代目なのでしょうか。

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石の扉があるので、何も見えないかと思いきや、古墳の周りに道があります。
どうも円墳のようで、ぐるりと円墳の周りを歩くことができました。
古墳の頂上には、祠があります。

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古墳の後ろから見たところです。石で囲ってありますが、この石が、播磨風土記の出てくる石とは、
思えません。後から整備された石でしょう。

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さて、ここの古墳が、野見宿禰の墓と云われるようになった由来をインターネットでいくら調べても
何も出てはきません。実際は、一つの候補地、比定地でしかないのですが、ここの古墳の築造年代さ
えもわかりませんでした。
松江市の図書館に行って調べて見ましたが何もありませんでした。
インターネットで調べるには、限界があるものです。

試しにアマゾンで、兵庫県相生市出身のドクター信原克也さんの本(『相撲の始祖 野見宿禰の墓屋』)
を見つけ注文したら、たつの市や相生市等の野見宿禰墓伝承地の詳しい資料が載っていました。
その本の抜粋ですが

“明治三十六年編の『揖保郡地誌』に「天保年間まで古い松の木があり、すべすべした五尺ほどの川
 石があったが、誰が持ち去ったのか無くなってしまっている。塚の上の広さは三間、高さは二十間
 あって、明治十五年にここから一尺あまりの古剣一振と曲玉、壺の欠片などが出土したので、内務
 省に提出した。その後、有志たちがこの塚を修理し、麓に一祠を建てて社殿としようと計画…以下
 省略”

となっています。江戸時代の後期まで、なんで埋もれたままなったのだろう。

そして、ここが野見宿禰の墓に比定された経緯については、
『龍野市史』(昭和53年、56年、59年)は、
“「この野見宿禰墓は横穴式石室を持つ径約二十米の円墳で、この付近では規模ももっとも大きくか
 つ保存状態も良好で、これが野見宿禰の墓に比定されたのは納得できる。その上剣や曲玉などが出
 土したのだから、関口啓之亟と土屋善之助の二人は、あたら功臣の墳墓が荒廃しているのを嘆き、
 出雲大社の千家尊福男爵に照会し、かつ諸方有志の助成賛同を得て、墳墓を修理し、かつ山麓に一
 祠を建立し、神社を創立することを計画した」 ”となっており

さらに小林伊代治氏の『野見宿禰墳墓の由来』という小冊子には、東京帝国大学分科大学教授文学博
の萩野由之氏の文書が引用されており、その経緯が載っていました。
“文久年間、萩の藩士で世良孫槌という人物が、藩主毛利候の祖先である野見宿禰の墓が龍野山の麓
 に 在ることを信じて、粒坐神社の社司関口啓之亟にその委細を問い合わせた。…中略…そこで県
 の役人 が来て調べたところ、松の根から祭器の破片も見つかった。こうしてこれら出土品と剣の
 一片は内務省に届けられたが、関口啓之亟はこれらの事実からこの墓が野見宿禰のものであると断
 定した」”

そして、現在の「野見宿禰神社」に到るまでの過程が、『相撲の始祖 野見宿禰の墓屋』に書かれて
いました。野見宿禰墳墓古墳墓屋を「野見宿禰神社」と改称したのが、昭和35年3月のことだそう
で、ここが、古くからの伝承地ではないようです。

実際、『揖保郡誌』(昭和六年一月一日発行 龍野新聞社)には、
“揖保郡内に野見宿禰の墳墓と言伝えられているものが四つある。一つは現在の野見宿禰塚、即ち
 龍野神社の背後にある。今一つは龍野中学校西手の山にある狐塚と称するもの。他の一つは揖西村
 土師鶏池(いっさいむらはじにわとりいけ)の中央にある古墳である。また神戸村那波野(かんべ
 むらなはの)と、揖西村土師の境笹竿(ささざお)と称するところにある古墳がそれであると云わ
 れ、いずれが本物であるか全く迷宮に入っている。
 右の総てに就いて宮内省の古文書の中に野見宿禰墳墓は小神西楽寺(おがみさいらくじ)にありと
 記されてあるから、龍野中学校西手の山にある狐塚が最も真(まこと)らしい。…中略…今日の野
 見宿禰墳墓なるものを古墳を修理して作り毎年四月一日祭典を行い山麓に神社(こうしゃ)を建設
 しようとして中絶した。其の後狐塚が正墳であるとの説が有力になったのである。

つまりは、当時の比定地として①的場山(昔の本には臺山ー台山と記述されている)中腹の野見宿禰
神社の墳墓②龍野中学校(現龍野高校)グラウンド裏の狐塚古墳③布施村土師(現揖西町土師)奥田
にある鶏塚④土師大陣原にある宿禰塚古墳(現相生市那波野)があったということです。
でも、この比定地以外にあるかもしれません。

狐塚古墳 兵庫県たつの市龍野町日山五胎山

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『揖保郡誌』に書かれた、最も有力な野見宿禰の墳墓としての狐塚ですが
方墳か円墳で、横穴式石室があり、全長9.7m、玄室長5.2、幅2.1、高2.45mとありました。
6世紀後半の築造のようです。
野見宿禰が、垂仁天皇の頃の人だと仮定すると、まあ弥生時代後期か古墳時代前期頃の話で、6世
紀後半では、野見宿禰の墓とするには、時代に大きな無理があるように思います。
ここもどうなのでしょうか。

しかし、ここの古墳の近くに白鷺山墳丘墓という弥生時代から古墳時代初頭の古墳が、あるようです。
候補地は、野見宿禰神社の墓以外にも、龍野町にはまだまだありそうな気がします。
では、野見宿禰を祖とする土師氏族の住んでいたであろう二つの候補地はどうなのでしょう。
そこの場所は、揖保川から遠く、「日下部の里」比定地から離れていて、どうも違う気がします。

大きな疑問がわいてきました。子孫が祖先の伝承を残していくものと思えますので、
揖西町土師や相生市那波野での伝承として書かれるというのが自然のように思えるのですが
なぜ、播磨風土記には、そこから離れた「日下部の里」の話として載っているのでしょうか。

続く

by yuugurekaka | 2016-10-19 23:14 | 野見宿禰

松江市内から国道9号線を西に行き、玉造温泉を通り過ぎ、宍道町来待ストーンの看板を目印に

南に登る(左折)と菅原の里に到達します。

学問の神様「菅原道真公 生誕の地」と伝わる所ではありますが、島根県民にもそのことが、あ

まり知られていない気がします。


菅原の里 島根県松江市宍道町上来待菅原  

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なぜここが菅原道真の生誕の地なのでしょう。

かなりの人たちは、誕生地は、奈良や京都市だと思われていることでしょう。 

菅原道真公の父親である、菅原是善( → ウィキペディア 菅原是善 )は、出雲国庁に派遣

れていた役人でした。

菅原氏の祖先である野見宿禰の墓をたずねて当時の山田村(現在の菅原の里)に訪問されました。

その時案内をした乙女を気に入られ、国庁に召されることになりました。


是善卿は任期が終わり、京都に帰ることになりました。

しかし、この乙女は是善卿の子を身ごもり、山田村で道真公を出産されました。承和十二年(8

5年)6月25日のことです。道真公が6歳の春に、道真公は母親と伴に都に上がり、是善卿の

ところで暮らすことになりました。


ここの伝承が、ここの菅原天満宮に伝わる「菅原聖廟記」という古書に記載されているそうで

す。

詳しくは→ 出雲国 菅原天満宮


鼻繰梅の御神木 (社務所の前庭にあり)
ここの梅の種には尖頭部に小さな穴があるそうです。道真公が幼少の頃、梅の種に穴をあけ、糸を通して遊んでいた
ものが下に落ちて芽を出し、大きくなったという伝承があるようです。 


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菅原天満宮 拝殿    島根県松江市宍道町上来待1834

神社の創建は、天歴5年(951年)だそうです。


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菅原天満宮 本殿 

現在の社殿は、寛文三年(1663年)で、扉には松江藩の絵師・狩野永雲の筆五彩の雲に金泥の双龍が描かれてい

るそうです。



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さて、菅原是善卿が、拝礼に訪れた野見宿禰の墓ですが、石段を登り、境内に上がると、右

手にまた小さな石段があり、そこを登ったところにあります。



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野見宿禰のお墓

播磨風土記には、野見宿禰は兵庫県たつの市で病死し、出雲国からやってきた人たちが、野見宿禰を埋葬し出雲墓屋を
つくった話が載っていますが、その時の人たちが「分骨」を持ち帰り、埋葬したと説明板に書かれていました。

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全国に「野見宿禰のお墓」というものがありますが、

どこの墓が本当か、などということを問題にしようとは思いません。

少なくともここのお墓は「分骨」と述べられています。

日本書紀では、「相撲の元祖」とも登場し、天皇の埋葬儀礼を担った土師氏の始祖ですので、その

後継の豪族がそれぞれ野見宿祢を祀ったのではないのでしょうか。

(詳しくは →ウィキペディア 野見宿禰 


さて、埴輪伝承で有名な野見宿禰ですが、土師氏として新たな氏族(天穂日命14世の子孫と日本

書紀には書かれている)を起こしたのですが、なぜ「土師氏」から、「菅原氏」となったのでしょ

うか。


平安時代初期に編纂された『続日本紀』でその箇所を探しました。


“ そこで、祖先がなしてきたことを顧みますと、吉事と凶時が相半ばしていて、天皇の喪礼の時

には葬儀を掌り、祭りの日には祭事に与かっております。このように奉仕してきましたことは、ま

ことに世間の習慣にも合致しておりました。ところが今はそうではなく、もっぱら葬儀のみに与か

っております。先祖の職掌を深く考慮してみますに、本意はここにはありません。そこで居住地の

地名にちなんで、土師を改めて菅原の姓にしていただきますようお願い致します、と。”

(続日本紀 光仁天皇 天応元年六月~七月)

                      宇治谷 猛 現代語訳 講談社学術文庫 274P


“ 十二月三十日 天皇は外従五位下の菅原宿禰道長・秋篠宿禰安人やすひとらに勅して、それぞれ朝臣

姓を賜い、また正六位以上の土師宿禰諸士もろじらに「大枝朝臣」の氏姓を賜わった。その土師にはすべ

てで四つの系統があり、中宮(桓武天皇の生母、高野新笠)の母親の家は毛受もずの系統に属していた。

そこで、毛受の系統の土師には「大枝朝臣」を賜い、その他の三つの土師の系統の者らには、「秋

篠朝臣」や「菅原朝臣」を名乗らせたのである。”

(続日本紀 恒武天皇 延暦九年十一月~十二月)

                   治谷 猛 現代語訳 講談社学術文庫 446P~447P


そうですか。元々は、吉事の祭祀にも携わっていたのですね。

時代にそぐわなくなっていたので改姓を申し出て許されたということらしいです。

さて、土師氏のこの四つの系統ですが、宇治谷氏の解説によれば①和泉の百舌鳥野(大鳥郡土師郷)
本貫とする土師氏②菅原の里(平城右京三条二坊付近)の菅原氏(旧土師氏)③添下郡秋篠(平
城右京京北秋篠)の秋篠氏(旧土師氏)④河内の古市(志紀郡土師郷・丹比郡土師郷)を本貫と
る土師氏。



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菅原天満宮の近くのそば屋「天神蕎麦工房」で割り子蕎麦を食べました。

インターネットで十割蕎麦をやっていると書かれており、待ち望んでお邪魔しましたが、

現在は十割そば粉が、手に入らず、やっていないとのこと。残念!

でも、それでも、ここのそばはたいへんおいしかったです。

蕎麦の好みは人それぞれだと思いますが、自分の中でのランキングは上位です。

(店は、土日と、特定の日しかやっておりません。)



続く

by yuugurekaka | 2016-10-04 13:10 | 野見宿禰