■ 亀甲神社の道祖神
鳥取県米子市淀江町の「上淀白鳳の丘展示館」の展示物の中に、亀甲神社(かめのこうじんじゃ)の
道祖神の写真がありました。歴代の道祖神の姿の変容が面白く感じました。
神社の場所を職員さんに聞いて、直接見に行きました。
※ 道祖神とは ⇒  ウィキペディア 道祖神

米子市指定有形文化財の標示がありましたー。
〝サイノカミともよばれ、子どもの守り神、縁結びの神様として親しまれている。白亀がこの近くの
海岸に上陸し、「亀甲」の地名の由来になったと伝えられる。〟

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亀甲神社の鳥居の方から、入らないと。


亀甲神社鳥居      米子市淀江町中間642番地

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〝亀甲神社 鎮座地 西伯郡大和村大字中間字海道ノ上
 祭神 須佐之男命
 由緒 創立年月不詳、神木を以て荒神宮と稱す、大神山神社の摂社たり、明治元年神社改正の廢社とな
 りしを、同十二 年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改む。〟
                       (鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』昭和10年より)

これが、9体の道祖神さまか。あれ、数えると、11体あります。


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いわゆる男女の双体道祖神が8体、男根型が1体で9体らしい。
右前のおかめが描かれたものと(アメノウズメか?)、その後ろのタキシードとウェディングドレスを
身に着けたカップルが描かれたものは、平成2年に新たに付け加えられたもののようです。
男根型の左にある線彫りの双体道祖神は、文化13年(1816年)のものだそうです。

ここで多くみられる男女の双体道祖神ですが、鳥取県では、伯耆の西部にしか見ることができないそう
です。東は赤崎町から西は米子市、溝口町、江府町までに348が数えられているそうです。
(伯耆の東部(倉吉市など)はというと、石に一人の男の神像をほった単体の道祖神(サイノカミさん)
がほとんどだそうな。)

伯耆では、江戸時代の中頃から、石に男女の神様を彫って、御神体とすることが流行しました。伯耆で
最も古いものは、米子市尾高の安永5年(1776年)だそうです。

ここの つまり近世の、双体道祖神の歴史が古くないからと言って、道祖神(サイノカミさん)信仰そ
のものが新しいわけではありません。たぶん、もともとあった道祖神信仰が、時代時代によって、性格
が変わり、再編成、拡大再生産されてきたのではないかと私は思うのです。

ちなみに伯耆では、道祖神(サイノカミさん)の役割は、「縁結び」「子供の神」の性格が強いのが特
徴のようです。
一般的に云われる悪霊を封ずる塞の神、境界神としての道祖神とは、江戸時代の伯耆の地域ではまた違
たものだったのでしょう。

《参考文献》  淀江町教育文化事業団 『ザ・淀江 ―伯耆のサイの神さん―』


by yuugurekaka | 2017-08-15 18:34 | 塞の神

1)佐太大神=御子神


出雲風土記(733年)によれば

秋鹿郡の神社の項目に「佐太御子社」(現在の佐太神社)の記載があります。佐太神社では、佐

太の大神を祀っているのではないのですか?大神ではなくて、その御子(子ども)なのです。御

子は誰?と、新たな疑問が浮かんできます。


長い間そのことがわかりませんでしたが、

谷戸貞彦著『幸の神と龍』(大元出版)を読んでいて、これが答えかなと、思える箇所がありま

した。

161頁ですが、

“サルタ彦神は久那斗の大神の息子なので、「御子神」とも言われる。山陰民俗学会編集の『年

中行事』に、その記事がある。石塚尊俊(編集代表)の記述は次のとおり。

「ミコ神という名の信仰は出雲から美作・備中・備前・備後のところどころ、それに四国の讃岐

の讃岐・阿波・土佐の一部にある。…『雲陽誌』(1717年、出雲国の地誌)の秋鹿郡西谷の条に、

御子神、天鈿女命をまつる、同郡長江、御子神、天鈿女命なり、と出ている。…祭られている場

所は、裏側のナンドとユルリノマすなわち台所との間のウチオイと称する部屋で、ここが主人夫

婦の寝間になっている」”(赤字表記は、私)


天鈿女命と一緒に祀られるとなると、御子神は猿田彦ということになります。そして猿田彦が御

子神ならば、親が久那戸大神で母親が、幸の神というわけです。



さらに、この御子神というところですが、谷戸貞彦氏によれば、猿田彦命はもともとは、インド

シバ神の御子神ガネーシャであり、

“その神は後には仏教に取り入れられて、「聖天様」になるが、ガネーシャ信仰は、民間には古

代からあった。それを、出雲族が日本に持ってきたと、伝えられる。”

                        (谷戸貞彦著『幸の神と龍』 大元出版)


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2)佐太大神=象頭神

このガネーシャですが、象の頭の神様で、障がい除去の神様と言われております。この神は、役

割が、塞ノ神と同じで、悪霊の侵入を防ぐという障神(さえのかみ)です。


ウィキペディアによれば、

ヴィナーヤカVināyaka、無上)、ヴィグネーシュヴァラ(Vighneśvara、障害除去)、ガ

ネーシャGaeśa、群集の長)、ガナパティ(Gaapati、群集の主)との神名を持つ。元来は

障害神であったのが、あらゆる障害を司る故に障害を除去する善神へと変化した。

                           (ウィキペディア ガネーシャより)

 

頭が象であるがゆえ、鼻が長い。そして、いつしか、猿田彦命の風貌が「鼻長」から天狗の風貌

のように「鼻高」に変わったのかもしれません。


柳田国男氏によれば、岐神(猿田彦命も含めて)は、太古よりいる神で、様々なる神々、そして

象頭神とも習合し、里の守り神として成っていきました。

道祖神、御霊、象頭神、聖神、大将軍、赤口赤下の神など…なかなか習合度が高い神様です。


“例の石神及び岐神は昔より此国におはせし神にして 辺防を職掌とせられしやうなれども 

此上に猶道祖と云ひ御霊と云ひ象頭神と云ひ聖神と云ひ大将軍又は赤口赤舌の神と云ふなど

聞伝へし限、有る限の神を頼みて里の守護を任するやうに相成候か”  

                    (『石神問答』 34 柳田より松岡輝夫氏へ )


伊和神社 拝殿の象頭 兵庫県宍粟市一宮町須行名407    


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また、柳田国男氏は象を古くから「キサ」と云ったことも述べています。

“又遠江敷智郡岐佐神社は象神ならんか 象をキサと云ふことは古けれども 其義及由来を知る

能はず”                (『石神問答』 33 柳田より緒方翁へ 解説 )


現在、静岡市浜松市西区舞阪町舞阪 1973に鎮座している岐佐神社ですが、祭神は現在 蚶貝比売

命(キサガイ姫 佐太大神の母神 支佐加比売命)と蛤貝比売命 です。



加賀神社  島根県松江市島根町加賀1490 
枳佐加比売命を主祭神とし、伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大神、猿田彦命を配神としています。
元々は、加賀の潜戸にあったと伝えられています。


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なんたることか、佐太の大神の母神は、赤貝の神様だということでしたが、象の神様とも関係し

ていたのです。

このように、象と関係しているとなれば、佐太大神は、もう猿田彦命としか思われません。

道祖神とガネーシャ(歓喜天)が近世になって習合したとの説ですが、これはどうも出発点から、

猿田彦命は象頭神だったのかもしれません。 




参考文献  『謎のサルタヒコ』鎌田 東二 (編著) 創元社 
      『境界神としてのサルタヒコ』 張麗山 著 
      『幸の神と龍』谷戸貞彦著 大元出版 
      『新修平田篤胤全集第三巻』名著出版
      『柳田国男全集 第一巻 石神問答』 筑摩書房 
      『解説 出雲風土記』島根県古代文化センター編  今井出版
      『島根町誌 本編』 島根町教育委員会発行
         

by yuugurekaka | 2016-08-26 07:00 | サルタヒコ

ウィキペディアで佐太大神を祭っている佐太神社のことを調べますと、「近現代」のところに 

“明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、祭神を猿田彦命と明示するように指示

された際、神社側は一旦はそれを拒んだが、後に従った。”

と書かれています。(ウィキペディア 佐太神社


修造中の佐太神社   7月上旬の様子です。今年の9月には正遷座祭があります。  

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加賀の潜戸(3)で述べましたが、佐陀縁起には主祭神が、伊弉諾命・伊弉冉命となっており、

室町から江戸時代までずっとそれできているので たぶん、祭神を猿田彦命と言われても受け入れ

がたかったのだろうなと思います。

国学者平田篤胤が、『古史伝』を著し、佐太大神は猿田彦神であることを述べたことが影響して、
祭神が猿田彦命になったようにも書かれています。

さて、『古史伝』にはどのように書かれているのでしょうか。

他の箇所にも書かれているのかもしれませんが、目についたところは、以下のところです。


『古史伝』二十 巻

佐太の大神。眞龍云、佐太は地名なり。意宇の郡の文に、狭田國とあり。御名は地をもて、稱(たたえ)

申せば、まことの御名は知がたし。熊野大神、能義大神、宇沙都比古、宇沙都比売、など申すがごとし。

○猨田毘古の大神。猨田は佐田と訓べし。猿を古へは佐とのみも云りし故に、借りて書りと見ゆ。猨と

猿は同字なり。(中略)

さて此の神やがて佐太の大神なる由は、ただ比古てふ言の有り無しのみの違いにて、全く同じ御名なり。
其は出雲風土記に、三所に、佐太の大神と記し、神代紀に、猿田彦の大神とみづから名告まし、古語拾
遺も同じ。皇美麻命の御詔に、猨田毘古の大神と詔へり。然れば此は、尋常(このつね)に、大神と申
すとは異(かは)りて、刺国大神(さすくにおおかみ)などの類に、元より大神と申すべき由ありて負
い賜ひけむ。是同神なるべき一鐙(ひとつのあかし)なり。○大土之御祖神と申す御名の意は、既に注
へり。さて、此の大土の神、やがて猿田毘古の大神なる由は、伊勢の國度會の郡宇治山田の地主の神と
稱して祭れるに、此事も、すでに第七十四段の傳に云へり。(中略)猿田毘古の神、後に天照大御神を、
伊勢の狭長田伊須受之川上に到坐むと云ひて、御自は、伊勢の國に鎮坐るに符(かな)ひ、(中略)は
た其御孫大田の命と云を、宇治の土公氏といひ、此の命、垂仁天皇の御世に、天照大御神を、伊勢の宇
治の地に待受奉れるなどを、合わせ考へて知らる。(後略)



猿田彦神社 三重県伊勢市宇治浦田2-1-10    画像出典  ウィキぺディア 猿田彦神社 より


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『古史伝』二十八 巻

(前略)猨田毘古大神、やがて佐田大神にて、其の本郷は、出雲の国の佐田なるが、天の八衢に迎へ奉
りて、日向の高千穂に嚮導(みちびか)して、遂に其の本郷ならぬ、伊勢の佐那縣に到留り賜へる事は、
謂ゆる幽契ある事なる由を思ひ落されし故にぞ有ける。(中略) 猿田毘古神の猿田は、出雲の国の地名
なること、本よりにて、この猨は、獣の佐流の義に非ざれども、彼獣を佐とも佐流とも云し故に、猨田
てふ御名の佐を、やがて獣名の、佐流てふ言に翻成して、其の名を負てとは詔るなり。(後略)

                         新修平田篤胤全集第三巻 (名著出版)より


                    

この平田篤胤説の反論として、「佐太大神は出雲東部の土着の神で、猿田彦命は伊勢の国の神で

あって、出雲国の神ではない。」という意見をよく本などで見かけます。

しかし、この「出雲国の神ではない。」というのは、猿田彦命だけではなく、事代主命やアジス

キタカヒコ命にもあてはまります。

さらには、有名な出雲の神というのは全部、奈良の三輪山の麓の神様であって、「出雲国の神様

ではない。」という論が多いです。

確かに「出雲国の」神様ではないでしょう。

正しく言うならば、出雲国の神様ではなくて、「出雲族の神様」です。

司馬遼太郎氏の言葉をかりるならば、

“「出雲国」というのは、明治以前の分国で、今の島根県出雲地方をさす地理的名称だが、しか

し古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。種族名でもあっ

たに違いない。さらに古代出雲族の活躍の中心が、今の島根県ではなくむしろ大和であったとい

うことも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。その大和盆地の政教上の中心が、三輪山である。”

             (司馬遼太郎著『街道を行く 1 』~竹内街道~  朝日文庫)


だから、そもそも出雲族の神様なので、日本の全国いろいろな地域で、呼び名を変えて、奉祭さ

れているのは何の不思議もないことだと思うのです。

また猿田彦命は、クナトの神と同じように縄文時代からつながる原初的な神なので、そういう小

さな共同体の、土着の首長のごとく論ずることになじまないでしょう。


by yuugurekaka | 2016-08-01 20:21 | サルタヒコ

松江市島根町の日本海に面した潜戸鼻には、「加賀の潜戸」(かかのくけど)という景勝地があり

ます。ウィキペディア 加賀の潜戸  

その潜戸には、出雲風土記(733年)に載っている、佐太大神(さだおおかみ)の誕生の地である

新潜戸と賽の河原がある旧潜戸の二つがあります。


行った時には気づきませんでしたが、地図で見ると、新潜戸は、なんだか象の口みたいなところに

ありますね。


新潜戸と旧潜戸の位置


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出雲風土記に載っているような潜戸なのに、「新」潜戸とはこれいかに?

旧潜戸が「仏の潜戸」とも言われており、新潜戸は神が誕生したので「神潜戸」で、音読みの「シ

ン」で神→新になったという語呂合わせのような気もしますが、さて、どうなのでしょう。


寛政4年(1792年)の「島根(しまね)郡西組(ごおり     )(よろず)差出帳(さしだしちょう」には、「潜戸一か所、古潜戸ふるくけど一か所」と

記載があるところを見ると、新潜戸は「潜戸」、旧潜戸は元々は、「古潜戸」と言われていたようで、

それが「古→旧」に転化したのではないかと思えます。


また、旧潜戸は、「ふうくけど」とも呼ばれていたそうなので、「ふう」とか「ふる」に当て字で

「古」が当てられたんではないか?などとも思ったりします。


ところで、新潜戸と旧潜戸の違いは、構造的にはどういう違いがあるのでしょうか。


コトバンクの地名辞典による説明では 

“ 島根県の島根半島北岸、島根町潜戸鼻にある景勝海岸。海食を受けた洞門の新潜戸と洞窟(どう

くつ)の旧潜戸からなる。 国指定の名勝・天然記念物。大山隠岐(だいせんおき)国立公園に属し、遊

覧船で探訪できる。加賀(かか)の潜戸ともいう。”


どちらも海食を受けた洞窟なのですが、新潜戸は、海中の向こう側は明るく見える「洞門」であるの

に対して、旧潜戸は奥が見えない黄泉の世界の境界線のような「洞窟」なのです。


加賀の潜戸  新潜戸

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出雲風土記では、このように書かれています。

“郡家の北西二十四里一百六十歩の所にある。佐太大神のお生まれになった所であ
る。御母である神魂命(かみむすび)の御子、支佐加比売命(きさかひめ)が「暗
い岩穴である。」とおっしゃって、金の弓をもって射られた時に、光りかがやいた。
【原文…光加加明きき】から、加加という。〔神亀三年に字を加賀(かか)と改
 めた。〕” 
        (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


加賀の潜戸  旧潜戸(きゅうくけど)

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参考文献  『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)

続く     

by yuugurekaka | 2016-07-04 10:21 | 出雲風土記