思いついたのが、その日の夕方。

豊岡まで、JRの鈍行列車で乗り継いで、豊岡駅前のビジネスホテルで一泊。

豊岡駅で7時前の電車に乗り、天橋立駅に着いたのが、8時過ぎでした。

駅を出て、海を見ると、これが日本三景の天橋立ですか―。


下の写真は、駅側ではなく、北側の籠神社の上の傘松公園から写したものです。

天橋立は、丹後風土記逸文によれば、イザナギノミコトが天に通うことを目的として立てた梯子が、

休んでいるうちに倒れたものだと云います。


“初めの名を天の椅立と名付け、後の名を久志浜と名付けた。そう名付けたわけは、

国土をお生みになった大神である伊射奈芸命が、天に通おうとして、椅を作ってお立てになっ

た。それで、天の椅立と名付けた。伊射奈芸命がおやすみになっている間にその椅が倒れてし

まった。

それで、伊射奈芸命は霊妙な働きが表れたことを不思議に思われた。それで、久志備の浜と名

付けた。これを中古の時代には久志といっていた。ここから東の海を与謝の海といい、西の海

を阿蘇の海という。この両面の海に、種々の魚貝等が住んでいる。但し、蛤はすくない。”

     (釈日本紀 巻五「天浮橋」の抜粋 
          現代語訳 中村啓信監修・訳注『風土記 下』角川ソフィア文庫 より)

「ハマグリが少ない」の言は、よけいな気がします…が、イザナギノミコトに関係した地域なんだ

なと思いました。



傘松公園から見える天橋立  京都府宮津市

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■ 海部氏勘注系図に見られる高照姫


天橋立を渡ったところに、籠(この)神社が、鎮座しています。なんで籠(かご)なのか、彦火火

出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、龍宮に行ったことから命名されたとい

う。


祭神の彦火明命ですが、(⇒ウィキペディア 天火明命『日本書紀』では、ニニギノミコトの子ども、

あるいは、兄となっています。

また、祭神は、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊となっているらしい。

籠神社(このじんじゃ)一の鳥居   京都府宮津市字大垣430

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籠神社の宮司家、海部氏(あまべし)の所蔵する海部氏系図ですが、最古の系図として昭和51年

1976年)6月国宝に指定されました。『籠名神社祝部氏係図』と、『籠名神宮祝部丹波国造海

直等氏之本記』(以後「海部氏勘注系図」と称す)から成っています。

(詳しくは ウィキペディア 海部氏系図  ) 


さて、その内容の一部ですが、


◇ 国宝 海部氏勘注系図 巻首(原本 漢文) 抜粋 ◇


始祖 彦火明命

 またの名 天火明命 またの名 天照國照彦火明命 またの名 天明火明命 またの名 天照

 御魂命。

 この神は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三の御子にして、母は高皇産霊神の娘 栲幡千々姫

 命です。

 彦火明命が高天原に坐しし時、大己貴神の娘―天道日女命をめとって天香具山命を生みます。

 天道日女命はまたの名 屋乎止女命と云います。

 大己貴神は、多岐津姫命、またの名 神屋多底姫命をめとって、屋乎止女命、

 またの名 高光日女命を生みます。

                   …中略… 

 ここに火明命は佐手依姫命をめとって穂屋姫を生みます。

 佐手依姫命は,またの名 市杵嶋姫命、またの名 息津島姫命 またの名 日子郎女神です。

                   …後略…


(籠神社の宮司 海部光彦編『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』を

                         参考に平易な文章に変えました。)



大己貴神(おおなむち)の娘 天道日女命(別名 高照姫命)をめとったとあります。

つまりは、大己貴神が義理の父親になります。

記紀の編集者が見たら怒り出すような系図ですが、『播磨風土記』や『丹後風土記』でも、父親と

なっています。

詳しくは拙なるブログで⇒ スサノオ一族の上陸地(4) 播磨風土記・丹後風土記

それと、宗像三女神の市杵嶋姫命もめとったとあります。


なんと天孫族は、始祖からして既に、出雲族や宗像族と婚姻していることになります。

そして、その天火明命の後の海部氏、尾張氏が、初期大和王権の王族として葛城王朝を造っていく

ことになります。

富家伝承では、天火明命の孫となる天村雲命が、丹波から南下、磯城登美一族(大和の出雲族)と

三輪山の麓で初の王都を築くことになるそうです。つまりは、物部の東征は、もっと後代の話とい

うことになります。


それから、抜粋したところには載せてないですが、天火明命のまたの名として饒速日命あります。

つまり九州から攻め上がってきた物部氏と丹波から南下した尾張氏が、同祖ということです。


籠神社拝殿前の狛犬
鳥居をくぐって、そのさきの安土桃山時代の作品で国の重要文化財に指定されている狛犬がありました。
山陰では目にすることもない型の狛犬ですね。

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さて、写真はここまでで、拝殿からは、カメラNGとなっていました。過去に参拝された方のブログが
たくさんあることを考えると、カメラNGになったのはここ数年のできごとなのかもしれません。
どういう拝殿、本殿なのかは、⇒ ウィキペディア 籠神社


■ 『先代旧事本紀』に見られる高照姫

さて、物部系の『先代旧事本紀』(⇒ ウィキペディア 先代旧事本紀) では、どのように高照姫を述べ

ているかと云うと、

( 天璽瑞宝  さんのホームページの現代語訳を引用させていただきました。)


“その大己貴神の子は、合わせて百八十一柱の神がいらっしゃる。

 まず、宗像の奥都嶋にいらっしゃる神の田心姫命を娶って、一男一女をお生みになった。

 子の味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)は、倭国葛木郡の高鴨社に鎮座されている。

 捨篠社(すてすすのやしろ)ともいう。

 味鉏高彦根神の妹は下照姫命。倭国葛木郡の雲櫛社に鎮座されている。


 次に、辺都宮にいらっしゃる高津姫神(たかつひめのかみ)を娶って、一男一女をお生みに

 なった。子の都味歯八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)は、倭国高市郡の高市

 社(たけちのやしろ)に鎮座されている。または甘南備飛鳥社(かんなびのあすかのやしろ)

 という。

 都味歯八重事代主神の妹は高照光姫大神命(たかてるひめのおおかみのみこと)。倭国葛木

 郡の御歳(みとし)神社に鎮座されている。

                       (『先代旧事本紀』巻四 地祇本紀 )



なんと高照姫命には大神命の称号がついています。

『海部氏勘注系図』に書かれていることと、『先代旧事本紀』に書かれていることを合わせて、系

図を作成すると以下の通りとなります。大己貴(大穴持とも書く)が、富家伝承では、何代にも渡

る役職名であって固有名詞でないとすることを考えると、同じ名前ではありますが、別の神という

ことになりましょう。(富家伝承系図とは多岐津姫・田心姫・下照姫の記載が違っています。)

東出雲王家出身の天冬衣命の子どもであり、高照姫は、事代主の妹ということになります。

また、高照姫命と事代主命は、母系をたどると宗像族となり、海人族の性格を持ちます。


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籠神社の奥宮、現在の真名井神社に参拝しました。昔は匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)

・与謝宮(よさのみや)・久志濱宮(くしはまのみや)とも呼ばれていたらしい。

主祭神は、伊勢神宮外宮の豊受大神です。


籠神社の奥宮 真名井神社
現在修造中で、拝殿前も工事中のトラックがありました。

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丹後風土記(残欠本)を見ると、丹後が豊受大神の発生源のようです。(天女伝説)

九州の豊国の「豊」の始まりがここだったとは。

天火明命が丹波に来る前は、丹波の元々の祖神だったのかもしれない。

通説的には、天照大神の食事のお世話をする神として、天照大神と半ばセットになっていますが、

たぶん、そういう単純な話ではないようです。

富家伝承では、三輪山の太陽神を奉祭していた磯城登美族(大和の出雲族)と月神を奉祭する豊族

(宇佐族)と宗教戦争が勃発し(狭穂姫命VS豊鋤入姫)、大和に居られなくなり、太陽神信仰の祭

祀場所を探し彷徨うことに至ったように書かれていました。(斎木雲州著『古事記の編集室』大元

出版)

天照大神の2度目の遷宮地であった籠神社ですが、その期間は4年ほどであったようです。


続く


by yuugurekaka | 2016-12-03 14:40 | 高照姫 (天道日女命)

お隣の鳥取県にある日吉津村(ひえづそん)に行ってきました。

日吉津村は、米子市に囲まれた鳥取県唯一の村です。

イオンモール日吉津もあり、映画も松江市よりはいろいろ見れたり、お笑い芸人もよく来たり

しますので若い人たちは、松江市からもよく行くようです。

日野川の流域の東側に位置します。

最近雨ばかり降っていましたが、久しぶりに雨が止みました。しかし、曇り空でした。

日野川の土手から、大山を写しましたー。


日吉津村から見える大山

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なぜに日吉津村に来たかというと、

このごろは、斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』を神社・遺跡巡りのガイドブックにしている

のですが出雲国造神賀詞(かんよごと)に出てくる神様、「賀夜奈流美命」のことが載っていま

して、鳥鳴海命(9代目大穴持)が日吉津村の地名である「蚊屋」に祀られたから、賀夜奈流美

命とも呼ばれるようになったと書かれていました。※賀夜奈流美命は、大和の飛鳥坐神社の祭神

その祀られている神社が、日吉津村の蚊屋島(かやしま)神社だというので、参拝したくなり来

てみました。

かなり立派な社殿でした


蚊屋島神社  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354

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現在の祭神です。


祭神 天照皇大神、高比売命(たかひめのみこと)

合殿=豊受姫命、大年神、天萬栲幡豊秋津姫命、天手力雄命、天若彦神

合祀=級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、素盞鳴尊、大己貴命、事代

主神、金山彦神


しかし、残念ながら、現在は「賀夜奈流美命」の名前は見えません。

おかしいなと思い、過去の事柄が載っている、

『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年発行)を見てみました。



拝殿の額と龍の彫刻 
拝殿と向拝の上部に3体の龍が彫られており、
江戸中期松江藩の木工方「小林如泥」の晩年の作と伝えられているようです。

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“ 創立年代詳ならざれども、当社は旧天照高比売命を祀りしとの口碑あり。

 然るに社領証文を始め棟札及び神主裁許状などによれば日吉津村大神宮とも伊勢宮とも、

 又後には天照皇大神宮とも記して、専ら天照皇大御神を祀りしが如くに見ゆ。

 是れ天照の字に泥み天照大御神と思ひ誤りて大神宮とも伊勢宮とも唱えしものか。

 此故にや美濃村旧家進氏の雑集紀に「日吉津大神宮」の祭神往古と今と相違有之」と云えり。

 かく祭神に相違を来たせしも古よりの口伝の捨て難くてか、嘉永の社帳以後は天照高比売命

 をも合せ祀りしものと思はる。

 伯耆誌に「郡中顕要の社なり社殿に祭神 天照大御神豊受姫命と記し、衣川氏の作るれる祝詞

 も(田蓑日記に見ゆ」右の趣なれど確徴ある事を聞かず、又天乃佐奈咩神と称するは前年或人

 三代実録に因りて設けたる説なりと云へり。

 今按ずるに三代実録に元慶七年十二月二十八日庚申伯耆国正六位上天照高丹治女神云々授従五位下と

 ある神にはあらざるか。

 此神は古事記伝に大己貴命の御子高比売(一名下照比売命)にやとあり。

 若し然らば天照の文字より誤り伝へて後世伊勢大神宮と称するにや、此他考ふる所無し」と云えへり。

 又旧神職田口家氏の伝へに、代々弓射る事と雉子の肉を食ふ事を厳く禁ず(当社の氏子鹿の肉を食はず

 との伝もあり)

 之れ天若彦の古事に因みてなるべし。

 今上の祭神より考ふるに豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見

 命、猿田彦大神、 天太玉命、神倭姫命は天照大御神を主神とせるより祀りしなるべく、大己貴命、

 事代主神、賀夜奈流美神(以上嘉永以後の社帳に拠る) 

 天若彦神は天照高日女神を主神とせるより合せ祀りしものならんか。

 されば当社の祭神は昔は天照高日女神なりしを、何時の頃よりか誤り伝へて天照大御神と変りしも、

 古き伝への捨て難く天照高丹治女神をも合せ祀ることとなりて主神二柱となりしならんかと云へり。”

 以下略


「賀夜奈流美神」の名前確かにありました。

ところで、現在「天照皇大神、高比売命」の二神を祀っていますが、

元々は、「天照高比売命」を祀っていて、

「天照」の冠がついているので、「天照大御神」と誤ったのではないかと。

そして、本当の祭神は三代実録に載っている884年頃の「天照高丹治女神」のことではないかと。

「天照高比売命」「天照高丹治女神」、この神は、

まぎれもなく、丹後国一宮の籠神社(京都府宮津市大垣)の祭神「彦火明命」(天火明命)の妻

神 高照姫(別名 天道日女命)ではないですか。

「天照高丹治女神」の「高」は「高姫」の「高」、「丹治」は「丹波を治める」だと思うのです。

この高照姫は、「海部氏勘注系図」によると大己貴命(おほなむち)の娘となっています。


そういえば、天火明命も別名「天照国照彦火明命」で「天照」の冠が付いています。 

本殿


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続く

by yuugurekaka | 2016-11-27 21:25 | 高照姫 (天道日女命)

黄泉平良坂 峠に登って行く道

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高群逸枝『日本婚姻史』(1963年)を読んでいて、黄泉比良坂の異説として、自分の頭の中で一度は流れてしまったけれど、出雲族と物部族との婚姻関係を学習するに到り、頭の中でまた現実的な説として蘇ってまいりました。


“妻問婚では、愛がなくなれば通わなくなる。女の側には、来た男をかえすという手段があった。しかし、重婚規定も離婚宣言もなく、平安ごろは、「床去り」「夜離れ」と呼ばれたが、すべてはあいまいで、復活する例も多かった。

男酋と女酋のばあいには、その背後に人民をひかえているので、そう簡単にはいかなかった。イザナギとイザナミの離婚では、ヨモツヒラ坂で千引の岩ごしに両人が対立し、コトドワタシ(絶縁の誓い)をした。最後にイザナギが、「ウカラ離れむ。ウカラ負けじ。」といった。いったん結合して同族となったが、ここに両者の離婚を契機として、ふたたび分離し、敵となって相見えむ」という意味である。”(高群逸枝『日本婚姻史』至文堂 54頁)


黄泉平良坂 千引岩


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もしやこれは、出雲族(イザナミ)と物部族(イザナギ)の離婚のことではないのか?

神代の時代は、妻問婚です。となれば、物部族(ここでは、物部氏ということではなく、海部氏、紀氏、尾張氏を指す)が出雲族と婚姻すれば、東出雲王家の家に足しげく通ったでしょう。基本的に妻問婚の時代は、女性は自分の氏族から離れないわけであるから、男神が通うしかありません。

―しかし、丹後風土記や播磨風土記で、ホアカリノミコトの后である天道日女命高照姫)の記事があるのは特殊な事例なのか、どういうことなのか、今のところよくわかりません。

 

イザナミが、火之迦具土(ひのかぐつち)を生んで、女陰に火傷してお亡くなりになる話ですが…、通説的には、「出産の事故」あるいは考古学的に「製鉄のかまど」などと云われますが、裏の意図としては、出雲族との決別の話ということではないのでしょうか。

火之迦具土神、ひの…迦具…かぐ…、…もしや天香具山命(ホアカリノミコトの子)では?

火と出産との関係を考えると、二二ギノミコトと木花咲耶姫の火中出産の話が思い出されます。

二二ギノミコトが、自分の子ではなくて国津神の子ではないかと疑い、木花咲耶姫が母屋に火をつけて証明する話です。(詳しくは ウィキペディア天孫降臨の火中出産の項目へ →ウィキペディア 天孫降臨 


当時としては、一夫一婦制ではなく、対偶婚なので、疑いが生じても不思議はないですが、実際の子であっても、そういう誓約をしていれば女神が焼け死ぬということがあったのではないでしょうか。


奇想天外な説に思われるかもしれませんが、その後のイザナギの行動がそう思わせるのです。

黄泉平良坂から戻ってイザナギが、出雲からピューンと九州の日向に飛んで橘の小門の阿波岐原(あはきはら 宮崎県宮崎市阿波岐原町)で禊をおこなうのです。

富家の伝承によれば、「徐福」は、二度来日し、最初は和名ホアカリを名乗り出雲族と婚姻関係を結び天香具山命を授かり、海部王朝の系譜をつくり、二度目の来日でニギハヤヒを名乗り崇神天皇につながる九州物部王朝の系譜をつくったとされています。


イザナギという日本創建神話の男神とは、もしやニギハヤヒのことを表わしているのではないのかしら、そういう思いが浮かびました。

ニギハヤヒは、天道日女命高照姫)と離婚し、出雲族と決別し、日本には居なくなり、残された天香具山命は、母族である出雲族に依拠していったのではないかと。


黄泉平良坂の賽の神


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久那土の神は、もともと、共同体を同族化し縁を結ぶ神であったものでしょう。いつしか物部族との対立の過程で、お互いの領土の境を示す神に転化したのではないのでしょうか。


続く


by yuugurekaka | 2016-03-27 22:19 | 黄泉比良坂

黄泉比良坂  島根県松江市東出雲町揖屋


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黄泉比良坂(よもつひらさか)、つまり「あの世」と「この世」の境、何やら幽界につながる4次元世界の入り口のように考えますと、やはり神話の世界の話に過ぎないのかな…と思えてきます。

そして、実際の黄泉比良坂を何度か歩いてみますと、ただの峠の道のようにしか見えません。

しかし、古事記・日本書紀になぜこの東出雲町揖屋のこの峠の話が載っているのでしょうか。

問題なのは、この話が何を意味しているのかということ、また、なぜ黄泉比良坂がこの場所なのかです。

まずは、場所について考えてみます。


古事記の黄泉比良坂を知らない方はこちらをどうぞ→松江市観光協会 黄泉比良坂物語


★ 東出雲の王都の入り口か ? ★

グーグルアースの下記の地図を見ればわかりますが、この黄泉比良坂を超えた西側の黄泉の国側には出雲臣の拠点というべき、意宇川の流域に意宇平野が広がっています。




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その意宇川の川上を登っていくと、東出雲のカンナビ山、茶臼山が見え、その南側に出雲国庁跡が見えます。さらに西の方に行くと、(富家伝承によると)東出雲王(向家)の王宮だったとされる神魂神社があります。

意宇川 下流

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カンナビ山 (茶臼山)と出雲国庁跡地

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つまりは、東出雲王家の拠点にたどりつく最後の峠であったということになります。

古代の地形がどうだったか、再検討は必要に思いますが、奈良時代に出雲臣の拠点が西の出雲郷(いまの斐川町)に移る以外は、おおむね変化ないと思われます。

「出雲VS大和」というように対立の図式で語られることが多いのですが、天津系の神々が出雲族の妻と婚姻関係を結んでいることもまた多いわけで、―例えば 神武天皇から3代に渡って事代主命の末裔―葛城登美家から后を迎えています。

また、それ以前にも、物部族の祖―饒速日(=ホアカリノミコト)は、東出雲王家から高照姫(天道日女命)を后に迎え、天香具山命を生んでいます。(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』)

父系をたどれば、天津神ですが、母族が出雲族の場合も多いのです。


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続く


by yuugurekaka | 2016-03-26 09:00 | 黄泉比良坂