八上郡12郷の中に『佐井郷』があります。名前からして、「サイの神」を奉祭した氏族から由
する郷名でないかと想像できます。出雲族は、サイの神 三神(クナドの大神・幸姫神・猿田彦命)
を奉祭していたそうなので、ここに大国主命の後裔の出雲族が住んでいたのかもしれません。

どこが、その『佐井郷』の比定地なのか、調べてみましたら、
霊石山の西の麓、河原城の前の千代川流域の周辺ではないかとされているようです。
ここは八上姫の郷ー曳田郷の北隣に位置しています。

霊石山中腹の御子岩の方から河原城を眺める

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以下『角川日本地名大辞典31巻 鳥取』からの引用です。

〝「稲葉民談記」の中世の郷保庄の記載順、「因幡志」のこの記述から推定すると、佐井の位置は
河原町渡一木【わたりひとつぎ】から河原町河原付近一帯となる。古代の佐井郷も千代【せんだい】
川左岸域の河原町河原付近一帯であったのであろう。「稲葉民談記」は「河の中に小き島あり。之を
サ井と名く。此所昔の村の跡なるや、此所何如なる大水にも流されすして、久しく残りしかは,犀は
水中に棲みて水の害を受けす。此所実に犀のすみかなる故に、かくの如く云ふならむとて土人相伝へ
しか」と地名の由来を記している。しかし,このあたりに犀が生息していたとは考えられないので
一考を要する。佐井の「井」の文字から考えると水に関係する地名に由来しているのかもしれない。
式内社久多美神社が河原町谷一木【たにひとつぎ】に祀られている。〟
                         『角川日本地名大辞典31巻 鳥取』

※ 犀は、動物のサイ。
※ 『因幡民談記』(いなばみんだんき)は、江戸時代初期の1688年成立の地誌。
  鳥取藩の侍医の小泉友賢(1622―1691)の著作  

ただ文禄2年(1593年)の洪水前は、千代川の川筋は、もっと西の山際の方だったようです。
(参考→ 古事記の倭ごころ )だから、大水に流れ去れない小さき島という由来が、そうだったのか
疑わしい気がします。

江戸時代初期には、既に「サイの神」(一般的には賽の神と書かれる。道祖神と習合したとされる。
→ ウィキペディア 道祖神 )は、忘れられた神だったのかもしれません。
このサイの神は、「佐斐」(境港市)、「狭井」「斎」「妻」「幸」「西」とも書かれたようで、
全国に地名として残っています。大和の三輪山にも大物主命の荒魂を祀った狹井神社があります。

狹井神社(狹井坐大神荒魂神社) 奈良県桜井市大字三輪狭井

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改めて、八上郡の地名を見ると、「西御門」という地名があることにも、気になります。この「御
」、という地名も出雲地方や石見地方の、大国主命に由来する場所の地名にあり、もしや、大国
命の御殿があったところではないか…などと妄想が浮かびます。

ところで、この『佐井郷』がどこまでの範囲かはわかりませんが、おおむね霊石山の西麓だとは思
いますが、北の方に「袋河原」「布袋」という集落があります。
この「袋」というのは、大国主命が、背負っていた袋を置いたことに由来すると云われています。

国土地理院地図 霊石山の西麓

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河原城から見える河原、袋河原の集落

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千代川の川岸の道路を歩いて霊石山が眺めてみました。歩いていて思いましたが、奈良の三輪山の
西の麓を歩いたときを思い出しました。この山も、カンナビ山で東から山から登る太陽神を奉祭し
ていたのではないかと。
今では、太陽神=皇祖神・天照大御神というように体系化されて、国津神VS天津神の象徴のように
思われていますが、出雲族はもともと、太陽神を奉祭していたそうです。

上袋河原のバス停留所から見える霊石山

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山の中腹に御子岩が肉眼でも見えます。
実際に近くまで行きました。下記は御子岩の説明。

天照大神が行臨の時、道案内の神として猿田彦命が先導し、この岩に「冠」を置かれたので御
 岩とも云った。猿田彦命は、道祖神であり、この岩はその御神体として道行く人の目標であった。
 古歌に
「因幡なる神の御子岩しるしあらば、過ぎ行く秋の道しるべせよ」とある。

                                    河原町観光協会〟  
御子岩 

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なぜ猿田彦命のことを「御子神」と云うのか、だれの「御子」なのか、長い間わかりませんでした
が、父 クナドの神、母 幸ノ神の御子ということで「御子神」と云うらしいです。

この霊石山の頂上近くに、天照大神がこの山に降りてきたということで「伊勢が平」といわれる場
所があり、皇居石、夫婦石と呼ばれる石があるそうです。私は、頂上付近を歩き回ったが、その場
所がわかりませんでした。

この霊石山の西南の麓には、猿田彦命が天照大神(大日霊女尊)を先導したとする、『最勝寺縁起』
の存する最勝寺があります。
ちなみに古事記、日本書紀では、猿田彦命が瓊瓊杵尊を先導する話がありますが、天照大神を伊勢
地に導したのも、猿田彦命の末裔の宇治土公(うじつちぎみ)の遠祖・大田命とも云われてい
ます。

最勝寺 鳥取県鳥取市河原町片山29

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by yuugurekaka | 2017-04-21 22:10 | 因幡の素兎

新潜戸

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現在、潜戸で誕生した神様は、「猿田彦命」とされていまして、いろいろなパンフレットや説明板

には佐太大神=猿田彦命と説明されています。

しかし、それはあくまで明治以降からだと思われます。


出雲風土記(733年)に書かれる加賀の潜戸は、誕生する神は、佐太大神であり、生んだ母神は神

魂命の子ー支佐加比売命となっています。

だから、「猿田彦命」とはどこにも書かれていません。


ともかくも奈良時代は、母神ー支佐加比売命、誕生神ー佐太大神あったものが、中世以降(どこが

始まりは正確にわかりませんが)には母神ーイザナミのミコト、誕生神ー天照大神、佐太大神ーイ

ザナギノミコト・イザナミノミコトになった模様です。


それも、江戸時代まで続き、明治の国家による神道の再編の中で、現在の支佐加比売命・猿田彦命

に変わったもののようです。


『潜戸縁起』

加賀大津の代官家(よこや)に『潜戸縁起』という本が3冊あるそうです。そのうちの一冊は、

代がわかりませんが、一冊は宝暦三年(1753年)八月吉日金津真治とあり、もう一冊は宝暦九

年十二月初五日之写 金津八坡と記してあるそうです。

宝暦というのは、江戸幕府第9代将軍徳川 家重の時代です。


なお『潜戸縁起』のことが、雲陽誌(1717年)にも書かれているので、『潜戸縁起』の原本そ

のものはかなり古く書かれていたものと思われます。


その内容ですが、

“伊弉諾尊と伊弉冉尊は、淡路島に天下られてから、一万二千年の間、陰陽のことは、知られなか

ったが、あるとき、川すずめの振舞を見てやっとわかられ、和合されて、十か月目に、お産のひも

を解かれ、そこを潜戸と名付けられた。お生まれになったのが、天照大神で、幼名は、宇宝童子どうじ

その後、すめらみことと名付けられ、のちに天照大神と申し上げるようになった、と記されています。”


“天照大神がお生まれになったとき、イザナキは、加賀よしよしと言われ、お二方とも加賀よろびよろこばれた。この

地を加賀かかと名付けられたのは、こんなめでたい意味があり、赤ん坊が生まれると今でも、よろこび

というのは、これからはじまったのだ。と、そして、母のことを、かか、というのもこれがもとだ、

と記されています。” 

                 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)より

 
新潜戸の鳥居
           
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元々の『潜戸縁起』が、いつの時代かはっきりしませんが、それに先立つ(?)佐陀大社(現在の

佐太神社)の『佐陀大社縁起』(明応四年)にも、『潜戸縁起』と同じような内容が記されていま

す。明応四年は、1495年で室町時代です。


『佐陀大社縁起』

抑南瞻部州大日本国出雲州嶋根郡佐陀大明神者、即天地開闢曩祖、陰陽最初元神、
伊弉諾・伊弉冊尊也

そもそも、南贍部州(なんせんぶしゅう)の大日本国の出雲国島根郡の佐陀太明神とは、 すなわち、

天地開闢の祖である、陰・陽の最初の神である伊弉諾・伊弉冊の尊です。


一 伊弉冊者為伊弉諾尊妃。妃有妊、別居於加賀潜戸。 於是天照太神誕生。 是故
彼岩窟中有御乳房形作石。 于今其露滴不断故海中草依受此乳味潤其味皆甘矣。

伊弉冊は伊弉諾尊のお妃となり、妊娠されました。「加賀の潜戸」に別に住まわれました。 この

場所で天照大神が誕生しました。あの岩窟の中には乳房の形をした石があるそうです。

今も、その露の滴は途切れていないので、海草はこの乳味の潤を享受し、皆甘いのです。 

一 加賀者伊弉冊尊棲潜戸而未出時天下暗、出潜戸時天下忽明。于時伊弉諾言赫々、
是故其地名加賀也。

『加賀』は、伊弉冊尊が潜戸にお棲みになり、外にお出にならない時には、天下は暗かったが、

潜戸をお出になると、天下はたちまち明るくなりました。

その時、伊弉諾尊が「赫々(かくかく)たり」(光り輝くさま)と言われました。このため、其

の地を「加賀」と名付けられたのです。



神社の祭神でも長い歴史の中で、神道の変化に伴い、すり替わったりするものですが、加賀の潜

戸の祭神も変わっていたのです。


             参考文献 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)


by yuugurekaka | 2016-07-10 14:20 | 出雲風土記