『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)で、白兎神社はどう書かれているかと云いますと、
以下のよう書かれています。

祭神 白兎神、豊玉姫命、保食神
由緒 大兎大明神又は兎の宮とも称す、其の創立年月は詳らかならずと雖も、祭神白兎神は、古事記
に「此稲羽之素莵者也於今者謂莵神也」と記し頗る著名なり、其の神代より縁故深き此の地に社殿を
創立し奉斎せる處にして、今も尚當時の淤岐島、水門、気多前、高尾山、戀坂、身千山、伏野等の遺
近隣に現存し頗る歴史に富む古社たり、往古兵燹に罹り社殿焼失し、境内亦頗る荒廃せしが、慶長
中氣多郡鹿野城主亀井武蔵守茲矩社殿を再興し、社領二十石二斗を寄進す、池田氏國主となるに及
びて亦尊崇篤く社領を寄付す、降りて、明治元年保食神を合祀し、同四年村社に列格せらる。大正元
年十二月二十六日末恒村大字内海字杖突下神ヶ岩鎮座無格社川下神社(祭神豊玉姫命)を合祀す、川下
神社は古來氣多ヶ前なる神ヶ岩に鎮座せられたりしが、白兎神社と等しく兵燹に逢ひ、寶暦十四年七
月三日再興したるものなり、尚当社は古來疱瘡麻疹傷痍縁結び等に霊験著しきを以て著名なり。

※下線は私。


『古事記』になった舞台は、ここなんだという書き方です。

しかし、内海の白兎神社が、古事記の伝承地として半ば定説となったのはいつのことなのでしょう。
また、白兎神が、「縁結びの神」に加えて、「疱瘡麻疹」の神になったのはいつのことなのでしょ
う。


参道脇のうさぎ
白兎に道案内されて、白兎神社に着くという感じである。

e0354697_10461316.jpg

砂で作られた八上姫・大国主命と白兎神

e0354697_11404782.jpg

勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』(大元出版)の「白兎神社と大黒歌碑」を
見ていて、ちょっと驚きました。大元出版なので、富家伝承なのかもしれませんが、私は斎木雲州
氏が書かれたものだけを『富家伝承』として記述しています。

白兎神社拝殿


e0354697_11395421.jpg

〝物部イクメ王の東征の際、出雲を攻略した菟上王は、因幡国西部の伏野にしばらく滞在した。菟上
王は豊王国・宇佐家の御子だったから、宇佐のウサギ神(月神)を信仰していた。
 月の中にウサギがいるので、「月読みの神」をウサギ神とも称した。ウサギ神宮の「ギ」を省略し
た言葉が、ウサ神宮の名前になったと言う、だから、宇佐王家の人は、名前に「菟」の字を付ける仕
来りがあった、菟はウサギの意味に使い、ウと発音した。菟上王の名が一例である。〟

 〝ヤマトのワニ王家・彦イマス王の御子・日子立彦はその頃、稲葉国(後で字が変わった)方面に
勢力を養っていた。かれは菟上王軍に降伏し、菟上王軍に降伏し、菟上王に協力することになった。〟 

〝豊王国軍の一部は占領軍として、稲葉国の伏野に残り、そこに宇佐社を建てた。祭神はウサギ神(
月神)と豊玉姫命である。〟
              (勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』大元出版 )
  

白兎神社本殿

e0354697_23561534.jpg

鳥取県の日本海沿岸に菟佐族、和邇族が分布し、敵であったり、味方になったり、長い歴史でいろ
いろな局面があったのだろうと思います。
九州豊国の宇佐神宮の創始にも、出雲族の末裔「大神比義(おおがの ひき)」が関係しており、
んだかよくわからない複雑な様相です。

by yuugurekaka | 2017-05-21 08:00 | 因幡の素兎

中山の南麓を訪ねました。
霊石山を含めて 「中山」と云うらしい。「此山国の中央にありて最も勝れたるの地」(最勝寺
縁起 写本)ということで、因幡国の中央だということからのようですが、伯耆の素兎伝承の神
社も中山神社で、「中山」という名そのものが、宇佐族に何か関係があるのかしらと、思ったり
します。そういえば、岡山県美作にも「中山神社」があることが思い起こされます。

さて、その中山の展望台から、現・八頭町(やずちょう)の街を眺めてみました。

展望台 周辺案内図

e0354697_18540628.jpg

字が小さくて読めないと思いますが、白兎伝説のゆかりの地が表示されています。


展望台から見える街並み



e0354697_18550969.jpg

中山の南側の平野を国中平野といいます。現在は、中山の側の麓というよりは、平野部の八頭町役
場付近が中心なのかもしれませんが、奈良時代は、万代寺遺跡(郡家跡と推定される)や、土師百
井廃寺跡が、中山の麓にあることを考えると、中山の麓が中心地であったように思います。

現在の街の姿をもって、古代の都市を想像するのは、大概間違った先入観をもたらします。たとえ
ば、松江市ですが、今まで出雲国の政治の中心地がどこだったかを考えると、奈良時代は、大庭町
・大草町付近だったのに、中世においては、安来市富田城などということを、現在の街の姿から、
だれがすぐ想像できるのでしょうか。

現在の私都川(きさいちがわ)や八東川(はっとうがわ)の川筋も、古代は当然違ったはずで、そ
れゆえ発展している場所は違ったのでしょう。


土師百井廃寺跡 鳥取県八頭郡八頭町土師百井

7世紀中頃から8世紀初めの白鳳時代に建てられた慈住寺跡と推定される遺跡です。
中門、金堂(東西18m、南北18m)、講堂(東西30m、南北19m)、回廊(幅5.4mの基壇)、塔、南門等で
構成されている法起寺式の大伽藍だったようです。

e0354697_21513894.jpg

さて、古代の中心地であったであろう八上郡・土師郷ですが、角川地名辞典で調べると、〝近世の
土師郷(はじのごう) 寛文年間 稲村・門尾(上門尾)・福本・池田・土師百井5ヶ村 「稲葉
民談記」、「因幡志」と「因伯郷村帳」はこれに下門尾を加えた6ヶ村〟と書かれております。
古代も概ねここら辺だったのでしょう。

古墳が多い地域なので、土師部の人達が多く住んでいたのでしょうが、近くに大江郷も見られるこ
とを考えると、八上郡自体が、野見宿禰の後裔の豪族が力をもっていた地域だったのかもしれませ
ん。

国土地理院地図 中山の麓

e0354697_14052315.jpg


by yuugurekaka | 2017-05-05 10:38 | 因幡の素兎

■因幡の八上郡とは

霊石山

e0354697_23190859.jpg

大国主命が八十神(異母兄弟達)と八上姫に結婚を申し込みに行ったとされる八上郡に行きました。
本を読んでイメージした八上郡とは全然違っていました。小さな一つの盆地のように思っていまし
たが、霊石山の麓に流れる3本の川(曳田川、千代川、八東川)に分かれた谷間のような地域でし
た。

菟佐族が分布したのは、おそらく、右手(東側の)の八東川流域の開けた地域だと思えました。
八上姫を初めとする豪族が住んでいたのは、左手の(西側)曳田川の流域だったのかな。

八上郡をウィキぺデイアで調べると

〝古事記神話因幡の白兎に登場する八上姫(やかみひめ)が地名由来である。12郷を有する因幡
 国内で最大規模の郡であった。郡家の所在地は万代寺遺跡(現・八頭町)とされるほか、同町福
 井にある西ノ岡遺跡も一時期、郡家であったとする説もある。『延喜式』などに見える莫男(ま
 くなむ)駅は八上郡家付近に所在したと考えられる。〟

Google Earthで見る八上郡の一部

e0354697_21264342.jpg

平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』に記された八上郡の12の郷は以下の通りです。

若桜郷
丹比(たじひ)郷
刑部郷
亘理(わたり)郷
日部(くさかべ)郷
私部(きさいべ・きさいちべ)郷
土師郷
大江郷
散岐郷
佐井郷
石田郷
曳田(ひけた)郷

この丹比(たじひ)郷は、たぶん第28代宣化天皇の裔なる多治比氏に由来する郷でしょう。

全体的には、品部に由来する郷が多いですね。日下部、私部、刑部、土師郷…。
土師氏と、その後継の大江氏は、霊石山の麓から南方に分布していったようにも見えます。
霊石山中腹には、猿田彦命を祀った磐座があります。

この亘理(わたり)とは、隠岐島の由良姫神社の祭神に由来するのか、あるいは品部の渡部なの
か。古代の八上郡は「因幡国内で最大規模の郡」で、ヤマト中央と密接な関係にあったと思われ
ます。

品部とはなんだったか、改めて調べてみます。以下、ウィキぺデイアの記事。

〝職業部
 具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。海部(あま
 べ)・錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)・麻
 績部(おみべ)・渡部(わたりべ)・犬養部(いぬかいべ)・馬飼部・鳥飼部・解部(ときべ)
 などの例がある。
 子代(こしろ)・御名代(みなしろ)王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)
 ・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例が
 ある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の
 回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。
 豪族部
 諸豪族の名を帯びる部。例として畿内の有力豪族巨勢臣の巨勢部・尾張連の尾張部・大伴連の
 大伴部・蘇我臣の蘇我部などがある。
 これらを総称して、部ないし品部という(品は「しなじな」、すなわち「諸々」の意)。

 こういった分類は便宜的なもので、このように截然と区別・区分されるわけではない。例えば
 土師部は、土師器を作るという職業部であると同時に、土師氏という豪族の名を帯びる豪族部
 でもある。〟 (以上 ウィキペディア 部民制 

河原城  鳥取県鳥取市河原町谷一木1011
霊石山の反対側の山に築城されている。正式名称は「丸山城」。

e0354697_23144933.jpg

■八上姫を祀る神社

売沼(めぬま)神社 鳥取県鳥取市河原町曳田字上土居169

e0354697_23115893.jpg

〝式内社 賣沼神社
 一、祭神 八上姫命
 由緒「延喜式神名帳」に「八上郡賣沼神社」とある神社でありまして、中世より「西日天王」とい
 っておりましたが、元禄年間よりもとの賣沼神社という名にかはりま  した。御祭神は「八上姫
 神」でありまして 御祭日は十月一日を大祭としております 「古事記」の伝えるところによると、
 出雲国の大国主神は八上姫神をオキサキになさろうとしてこの因幡国にお出になりま した。途中
 で白兎の難をお救いになりま して、この白兎神の仲介で八上姫神と首 尾よく御結婚になりました。
 この神話伝説は漂着した外地の舟人たちが千代川を さかのぼって、まずこの曳田郷をひらいたこと
 に間違はありません。対岸山麓の前方後円墳を神跡とするのも決して単なることとは云えないようで
 あります。〟(説明板より)


e0354697_23123223.jpg

曳田川のせせらぎの音が聞こえ、とても安らかな気持ちになる境内でした。

e0354697_23124774.jpg

境内前を流れる曳田川

e0354697_23142121.jpg


本殿

e0354697_23133001.jpg

古代の川辺で祭祀が行なわれたのかなと想像しましたが、元宮は対岸の梁瀬山の方だったらしいの
です。梁瀬山の中腹には、前方後円墳(全長50m、幅19m、高さ4m)があり、嶽古墳という八上郡最大
古墳があります。
八上姫は、大国主命と同時代の人なので、弥生時代の姫様だから、古墳は、八上姫と云われている
けれど後の子孫の墓ではないでしょうか。

八上姫公園から見える梁瀬山 

e0354697_23174572.jpg

嶽古墳の説明板

e0354697_23121457.jpg

■曳田氏 中央に進出?

八上姫の後裔の豪族ですが、曳田郷を治めていたということだから、曳田氏だったのだろうと思い
ましたが、なかなか、古代の因幡にそういう文献が見当たりません。
インターネットで検索したら、後代の、平安時代末期に因幡の尾張氏ー八上郡司を務める豪族で佐
治氏の分家の曳田氏が出てきます。(→ ウィキペディア 佐治氏 


大和国城上郡にも、曳田邑があり、『延喜式』神名帳に「曳田神社」が見えます。(比定神社 乘
田神社(ひきた)神社 桜井市白河285 )
この曳田氏ですが、匹田(ひきた)・辟田(へきた)・引田(ひきた)・疋田(ひきた)とも書か
れるようです。漢字が後代になって入ってきたからそういうことなったと思いますが、それゆえ、
かなり古い豪族だと類推できます。

この曳田(ひきた)を拠点とした引田氏ですが、古代豪族として、三輪引田君、大神引田朝臣とし
て、名が見えます。
三輪氏の族のようで、大国主命の裔の一族らしいですが、なぜだか、二重の複氏を名乗っていま
す。
三輪氏・大神氏だけかと思いきや、阿部引田氏、物部引田氏…などの複氏もあります。
また、『新撰姓氏録』でも調べて見ました。これまた額田部氏との複氏。

 大和国神別
 額田部引田連――同神十三世孫、意富伊我都命の後

よほど母族の名を残さなければならない事情があったと思えますが、残念ながら、始祖が父系なの
で、たとえば、『母祖 八上姫命』というのは出てきません。

『姓氏家系大辞典 』(太田亮 著 角川書店)で、引田氏を一つ一つ調べて見ましたが、因幡八
郡の曳田氏と大和の引田氏との関連性を何も見つけることはできませんでした。

しかし、因幡・八上郡から大和に進出するということがあったとしてもなんら不思議はなかろうと
思います。


by yuugurekaka | 2017-04-05 23:47 | 因幡の素兎

■ 4弦?の琴 

4突起の琴 一式(弥生時代 中期後葉)

e0354697_00192057.jpg

青谷上寺地遺跡展示館にはいくつかの弥生時代の琴が展示してあった。下の写真のように〝ほぼ完全
な形
で出土〟〝天板には日・月・星を表わすように共鳴の孔が開けられている〟と書かれていた。
突起が4つある。一つの突起に一本の弦を括り付けると仮定すると4弦の琴であろうか。

家に帰って、インターネットで調べたところ、4突起=4弦とは言えないようで様々な説があるそう
だ。たとえば、一
つの突起に、2本の糸を回すこともできるし、そうなると8弦の琴となる。また、
突起ではなく、凹
部の凹んだところに弦を通したと仮定すると、3弦の琴になる。

琴そのものの起源はかなり古いようで、縄文時代の琴が青森県の八戸で、3,000年前の琴が出土してい
る。その使い方がYOUTUBEで投稿されていたが、2突起に各々弦を括り付けて2弦あるいは、1突起に2
弦の糸で4弦の琴とも想定される。

どんな糸を張ったのだろう。中国の古琴のように、絹糸だったのだろうか。
絹糸は、九州の
吉野ヶ里遺跡の絹織物の出土から、弥生時代には既にあったのである。

この箱型の琴、共鳴槽付きと云われるそうだが、ギターの箱のように音量の増幅を目的したと思える。
弦を突起に括り付けたとすると、その弦を集弦
孔に集めて(星形あるいは月型のところの穴?)、糸
引っ張ったようだ。

このままでは天板と弦がくっついているのでよく鳴らないわけなので、弦を浮かせるためのブリッジ
が必要となる。( 現代の筝でいえば、雲角・《
》角 )
それと、古墳時代の出土した琴には、琴柱(ことじ)という弦を支え音の高低を調節するものも出土
しているが、弥生時代にはどのように調律していたのだろうか

ただ素朴に、手で引っ張って音を整えていたであろうと想像しまいがちだが、実際は琴柱が合った方
が調律しやすいのではないかと思う。
琴柱がいっしょに出土していないので、そういうものは無かっ
たと考えるのは簡単だけれども、じゃあ
琴柱がないときは、どのようにしていたのだろうかというこ
とが疑問だ。

1弦、2弦という少ない弦だと、調律なるものはそれほど必要はないのかもしれないが、4弦、6弦
7弦と弦を増やすのなら、弦が同音を出すよりも、違う音階の音を出していたのだと想像される。
となれば、音の調整は当然やっていたと思われるので、どのようにやっていたのかが気になる。

■ 様々な弦数の琴 

上記の画像の琴のだけ出土していれば、この地域の琴は4弦(または3弦あるいは8弦)と思いがちであ
るが、展示されている他の琴の天板を見ると、4突起ではなくて、6突起だった。

天板に魚の絵が描かれた6突起の天板(弥生時代 中期後葉)

e0354697_20372028.jpg

また、青谷上寺地遺跡出土データベースを見れば、7突起の琴板があることがわかる。
この地域によって、琴の弦数の決まりごとはそもそもなかったのかなあと、思える。

多弦であれば、やっぱり調律が重要であって、ポロロ…ンとつま弾いて、美しい音が出たのではない
かと想像する。

琴は、琴を弾く埴輪がほとんど男性なので、祭祀では首長層の男性が弾く役割を担ったと云われてい
る。男性が琴を弾き、女性が巫女として神がかり託宣したのかな。
祭祀場は、山の磐座の前とか川辺等の水辺だと云われているが、ここの青谷の地域はどこが祭祀場だ
ったのか。

琴弾山神社 島根県飯石郡飯南町佐見 
出雲風土記に この山の峰に窟があり、大国主命の御琴があると書かれている。

e0354697_12062855.jpg


by yuugurekaka | 2017-03-13 12:00 | 弥生時代の遺跡

因幡と和邇氏

■ 因幡国造


因幡の国造は、どの氏族だったか?

『国造本紀』によれば成務天皇の御世に彦坐王の子・彦多都彦命が初めて国造に任じられたとある。

 ウィキペディア 因幡氏

彦坐王とくれば、和邇氏と関係が無いとは思えない。

彦坐王(ひこいますのおう)は、第9代開化天皇の第三皇子であり、和邇氏遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子だからである。→ ウィキペディア 彦坐王

つまり、彦坐王の母族は和邇氏ということだ。

また、彦坐王の後裔として、ホムチワケ伝承に関係する日下部氏がいる。日下部氏は、出雲国神門郡にも土着したと思われる。


■ 和邇氏の系譜


1)さて、この和邇氏であるが、「新撰姓氏録」(815年)を見ると

大和国 神別 地祇に 和仁古 大国主六世孫 阿太賀田須命之後也

とある。

出雲族の系譜というわけである。

この「阿太賀田須命」が、宗像氏の「吾田片隅命」が同じかどうかわからないが

宗像氏も姓氏録で見ると

右京  神別 地祇 宗形朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也

河内国 神別 地祇 宗形君  大国主命六世孫吾田片隅命之後也 

と、あり宗像氏と半ば同族のように見える。


2) しかし、この阿田賀田須命だが、先代旧事本紀(地祇本紀)では、

都味歯八重事代主神の八世孫、阿田賀田須命、和迩君たちの祖 

と、記載されている。

また記紀では、第5代 孝昭天皇の御子 天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)が、和邇氏の始祖とされている。
姓氏録では、皇別で「天足彦国押人命」「彦姥津命」の系譜が見える。以下 主なもの。

右京皇別 和迩部天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也 

山城国 皇別和迩部 小野朝臣同祖天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後 

摂津国 皇別和迩部 大春日朝臣同祖天足彦国忍人命之後也


■ 太陽信仰を持つ鍛冶集団説

ところで、「2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする」説を調べてみた。
山尾幸久著『日本古代王権形成史論』(1983年)に載っていた。以下 本の結論部分の抜粋。

“以上のように、ワニという日本語はもともと、朝鮮語のサヒに対応する意味(刀や鉏)を持っていたのであり、それゆえサヒから生じたことばサメにも対応したのであろう。したがって私見は次のごとく爬虫類の鰐の称呼に起源する南島語系の古い日本語ワニは、もとは海洋の主または支配者と信じられた鋭利な牙歯を持つ恐るべき神や、そのような歯で人を食う恐ろしい魚のことであったが、やがて鋭利な刀剣や鉏鋤が代表する威力ある鍛冶物をも意味するようになり、のちに朝鮮語との対応関係が習慣的に固定して鍛冶物のワニはサヒ、魚のワニはサメとも呼ぶようになった。

 してみると族称のワニは、鰐や鮫のトーテムとして理解しなくても、鍛冶師という社会的職能で解釈しうることになる。 

 なお角川源義「まぼろしの豪族和邇氏」(『日本文学の歴史1』一九六七年、角川書店)は、日子坐王を和邇氏が祭る日の神と見、同笵鏡の配布を日の神信仰の伝播とし、和邇の乙女が隠れた岡を「金鉏岡」という(雄略記)ことから、和邇氏が勢力下に〝製鉄工場〟をもっていたと想定している。論拠は異なるが、私見はこれに近い。” (山尾幸久著『日本古代王権形成史論』岩波書店  134頁)


by yuugurekaka | 2017-02-26 08:00 | 因幡の素兎