京都の賀茂川の西に出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)がある。
また、島根県安来市の飯梨川の川岸にも、同名の出雲路幸神社がある。
なぜ、同名の神社なのであろうか。
まずは、京都の出雲路幸神社。
京都に出雲氏はいたのか。


平安時代初期のの『新撰姓氏録』(815年)を見ても、出雲氏族の名前が見られる。

左京  神別 天孫 出雲宿祢 宿祢 天穂日命子天夷鳥命之後也
左京  神別 天孫 出雲      天穂日命五世孫久志和都命之後也
右京  神別 天孫 出雲臣  臣  天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也  
右京  神別 天孫 神門臣  臣  同上
山城国 神別 天孫 出雲臣  臣  同神子天日名鳥命之後也  
山城国 神別 天孫 出雲臣  臣  同天穂日命之後也

※『新撰姓氏録』を見ると、出雲姓は大国主命、事代主命を始祖とするものは見られない。すべて天穂日
命を始祖とするもので、天津神の系統としている。


京都の賀茂川 
賀茂川と高野川が出町柳で合流して鴨川になるらしい。一般的には鴨川なのかもしれないが…。
上賀茂神社と下鴨神社で、かもの字が違う。「かも」の表記は難しい。


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現在も京都賀茂川の西岸に、出雲路俵町や出雲路神楽町などの地名が見られる。平安京への遷都に伴っ
て、出雲氏族が移動したのかと思いきや、
正倉院の文書『山背国愛宕郡出雲郷計帳』(神亀3年ー726年)には、300名以上の出雲氏族の名前
が書かれているという。
つまり、奈良時代にはすでに京都に住みついていたのである。

また、出雲郷は上と下に分かれており、雲上里と雲下里と言ったようだ。
奈良時代から、ここの出雲臣一族が多くの下級官人を輩出したらしく、『出雲郷計帳』によれば雲上里で
12人、雲下里で18人の下級官人の名がみえ、ひとりを除くすべてが出雲臣氏出身であったそうである。

出雲路幸神社 京都府京都市上京区幸神町303

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サイノカミ三神の猿田彦神を祀っているから幸神社というのは明らかである。
この出雲路というのは京都の地名なのであろう。
猿田彦神は、道の神でもある。それゆえ、出雲「路」なのかもしれない。

現在ここの神社の京都御所のちょうど東北に位置し、「平安京」の鬼門封じの神社とも言われておる。
しかし、京都御所の位置であるが、平安遷都(延暦13年・794年)時は、現在の京都御所よりも1.7キ
ロ西の千本通り沿いにあったようだ。(→ウィキペディア 京都御所 )

なぜ、道祖神が「鬼門封じ」の神に選ばれたのであろうか。
たとえば、平安時代成立の法令集『延喜式・第一巻』(藤原時平/藤原忠平ら編集)6月祭条に記されて
いる道饗祭(みちあえのまつり)であるが、毎年6月と12月の2回、都の四隅道上で、八衢比古神(やち
またひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)の3柱を祀り、都や
宮城の中に災いをもたらす鬼魅や妖怪が入らぬよう防ぐ神事が行われた。(→ウィキペディア 道饗祭 )
いわゆる境界神サイノカミ三神は、京都では八衢比古神・八衢比売神・久那斗神と祭られたようである。

以上のように宗教上の理由も当然あったのだろうが、平安京の北東に出雲氏族が住む出雲郷があったこ
とを思うと、実体上の守りを、出雲氏が担っていたのだろうか。

出雲路幸神社の社伝によれば、当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661年)に再興
され、桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京の鬼門除守護神として改めて社殿を造営されたという。
また、平安遷都後は「出雲路道祖神」と云い、江戸初期に現在の地に遷座された際、「幸神社」と改め
たという。
なお、歌舞伎の創始者である出雲の阿国が、幸神社の稚児であり、巫女として仕えたという故実がある
ため、芸能上達を願う人々の祟敬を集めているようだ。


出雲路幸神社の位置 グーグル地図

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京都や奈良など地名に見える「出雲」は、おそらく、出雲国を本源地とする豪族の出雲氏の足跡だろうと
思う。壬申の乱(672年)には、大海人皇子(天武天皇)側についた人物として、出雲臣狛(いずもお
み こま)という人物が登場する。(→ ウィキペディア 出雲狛 出雲臣狛が、どこに住んでいたかわか
らないが、出雲氏は飛鳥時代にはすでに奈良か京都に住んでいたと思われる。

古事記や日本書紀に目を向ければ、垂仁天皇時代の野見宿禰、応神天皇没後に淤宇宿禰(おうのすくね)
という後の出雲氏の祖が見られる。となれば、出雲姓氏として存在しなくとも、弥生時代の後半から古墳
時代すでに、近畿地方に存在したことになる。
なお、この出雲姓は、『出雲国造世系譜』によれば、17世宮向(みやむく)臣の時、初めて、出雲姓を
賜ったと云い、反正(はんぜい)天皇4年のことであったという。


by yuugurekaka | 2017-09-28 13:04 | 塞の神

古い神社へ行ったとき、鳥居の近くにお地蔵さまがあり、なぜ、こんなところにお地蔵さんが?もしや、
サイノカミが担っていた「結界」のお地蔵さんかしら?などと思うのだが、有名な京都の宮津市の籠(
この)神社の奥宮である真名井神社へ行った時にも、参道に地蔵堂があった。これも、結界のお地蔵さ
か?などと勝手に思った

しかし、この地蔵さんの説明板を読むと、全くの見当違いということがわかる。真名井社の参道の
蔵さまは、「波せき地蔵」と言って、大宝の大地震(約1300年前)に大津波が起きて、ここで波が切り
返したというお地蔵さんだったのだ。 (→ ウィキペディア 波せき地蔵堂 

標高40メートルの地らしいが、もともとは大木に寄りかかるように置かれていて、1996年神社が地
堂を建てたようだ。
なんで、お地蔵さまなのだろう。地震や津波で亡くなった人たちの供養で建てられたのだろうが、あの
世とこの世の境界の石仏としての役割もお地蔵さんにはあるようだ。

波せき地蔵堂  京都府宮津市大垣 

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ウィキペディアで、お地蔵さま、つまり、地蔵菩薩を調べると、このように書いてある。

〝地蔵菩薩(地蔵菩薩)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。サンスクリット語ではクシティガルバ
(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])
と言う。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して
「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き
流しを付けた荘厳具)、錫杖。種字は ह (カ、ha)。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人
々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。日本における民間信仰では
道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供え
られている。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。
サイノカミが、たいへん習合度の高い神様で、「境界の神」「悪霊や疫病などを防ぐ神」「縁結びの神」
「子供の神」という多様な役割を持つように、お地蔵さんも「子供の守り神」以外にも多様な役割をもつ
ものと思われる。

西出雲のカンナビ山、仏経山の麓にたくさん見られるお地蔵さまの一つだが、番号が彫ってあり、なん
番号なのか、わからなかったが、「出雲三十三番観音霊場」への道標としての「丁地蔵」であることが
わかった。一丁ごと(約109メートル)に、建てられているから、多いはずだ。
現存する地蔵さまは、18世紀半ば~19世紀の半ばに製作されたもののようだ。


丁地蔵  曽枳能夜(そきのや)神社 島根県出雲市斐川町神氷823番地 
三十四丁と書かれている。

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出雲札所(観音霊場)の起源だが、約一千年前、花山法王(花山天皇)が、出雲の地に観音霊場を開き、
順拝されたのが始まりと伝えられている。
しかし、観音さまなのに、なぜ道標が、地蔵さまなのだろう。
他県の三十三番観音霊場をインターネットで見ると、丁石が観音像の場合も多いからだ。
地蔵さまが「道の仏さま」だからなのかしら。


賽の河原 加賀(かか)の古潜戸 
島根県松江市島根町加賀

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猿田彦大神とされる佐太大神が誕生したとされる加賀の潜戸の「新潜戸」に隣接している、賽の河原の
「旧潜戸」である。中世の仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」と思われるが、幼くして父母より先立った子
どもらがあの世で父母を思って積み石をしている、そこに鬼が来て、その積み石を壊す。そこへ地蔵さ
まが現れて子どもを救うという「賽の河原」である。

「賽の河原」というけれど、山にある場合が多い。加賀の潜戸の場合は、海岸の洞窟である。
洞窟は、黄泉国への入り口という信仰がある。
黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが投げた杖から岐神(クナド)の神が
生まれたという話があるが、あの世とこの世の境界神のサイノカミ(クナドの神も総じてサイノカミと
も呼ばれる)が、地蔵さまに転化したのかなあと思わされる。

『石の宗教』(五来 重 著 講談社学術文庫)という本がある。なぜ地蔵さまにサイノカミが習合す
るに至ったか、様々な理由が書かれていた。私はたいへん納得できた。

〝このような霊魂の往来を塞るための積石の代わりに、石棒を立てることもあって、石棒が男根形(コ
ケシ形)の石棒となり、これが道祖神の起源であることはすでに述べた。男根形の道祖神は明治維新の
「淫祠邪教の禁」で大部分撤去されたので、男神女神抱擁像の道祖神や文字碑だけが残ったに過ぎない。
ところが男根形の道祖神は、顔や袈裟衣を彫刻すれば、そのまま石地蔵になってしまう。石地蔵という
ものは、けっして図像や仏画や木彫の地蔵菩薩を石像化したものではなく、もともと石の宗教性から地
蔵が造形されたものであることを、私は主張するのである。〟
                          
〝そこで原始的な石の造形が、男根、女根であったことは、これが祖先のシンボルだったためである。
それを近代になるにつれて、祖先であることをわすれて、性的な興味をもつようになったので、恥ずか
しいという羞恥心をおこしたり、道徳的価値判断から「淫祠邪教」といったのである。明治維新の宗教
政策の一つに「淫祠邪教の禁」があって、撤去処分された石棒は莫大だったという。いま各地の考古資
料館などで、石棒や石杵として陳列されている完形品には、そのときの撤去物が多いと言われる。
                         (五来 重 著『石の宗教』講談社学術文庫)


by yuugurekaka | 2017-09-22 21:52 | 塞の神

1)伯耆のサイの神まつり 
まずは、淀江町教育事業団発行「未来にヒントを!! 伯耆のサイの神さん」からの抜粋です。(番号は、私がつけています。)

① 昔は、淀江町や中山町では、竹やむしろで子供がこもる小屋を作られたり、淀江町では小型のサイの神さんを宿に迎えて絵具などで採食し化粧することも行われました。

② 一二月十五日午前0時をすぎるとサイの神さんの前で火がたかれます。サイの神さんは縁結びの神さんで早くまいるほど良い縁があり、遅くなるほど縁遠くなるといわれ暗いうちからきそっておまいりするのです。

男の子はわらづとをせおわせた「わら馬」を、女の子は「わらづと」を持ってまいります。わら馬は尻尾を焼いて供えるか、木につるしたり木の上に投げかけます。

※ 藁苞(わらづと)とは、いわゆる、納豆をくるむ藁でつくった入れ物です。

④「カタ焼き」といって米の粉や小麦粉だんごの中にあんを入れ両面を焼き上げたもの、小豆飯、米なども供えます。中山町岡ではかならず塩けご飯の「くじら飯」が供えられます。

⑤中山町御崎では小屋ごと焼いたり、名和町塚宮神社には大塚と塚根の二体のサイの神さんがあって、お互いにきそいあって火をたきました。また、江府町尾上原では、サイの神さんのご神体はありませんが、村の入り口の祭場で火をたくといわれます。サイの神祭りは火祭りであったと言えるようです。

中山神社のサイノカミさん

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2)サイの神祭り・とんどさん

伯耆町のサイの神まつりの特徴を見て、思ったのは、これは「とんどさん」ではないか?と、思ってしまいました。
でも、出雲地方の「とんどさん」ではなくて、双体道祖神が多い地域で行われる小正月、1月15日に行われる行事のとんどさんです。
「とんどさん」と呼ばれておらず、「サイノカミさん」「道祖神祭り」と呼ばれているようです。

伯耆地方で行われるサイの神祭りは、12月15日ですが、もしや、旧暦の12月15日が、新暦に移って、1月15日に行われるようになったのではないか?などとも想像したりもします。でも伯耆地方では、サイノカミ祭りと別に、とんどさんは1月に行われます。

1月15日の小正月の行事は、南インドでも行われているようです。
「一月十五日の夜…、コダンダラマン教授の親戚の人たち十数人が立ち上がり、小さい子供が先頭に立って『ポンガロー ポンガル』と大声で叫びながら家の周りを廻り始めた。」「タミルでもポンガルの前日(つまり年末)に、大きな箱、着物、莚など古した物を焼く。現在はこの行事をBokiといっている。これは雷の神インドラの名である。年の初めに雨を乞う行事と見られるようになったわけである。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より) 

昨今では、出雲地方では1月15日ではなく、1月7日前後の日曜日に行うところも多いです。大正月を終えるための儀式に変容しているように思えます。しかし、「本来は一月十四日が年末なのでその年の使い古した物を焼く行事だった。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より)なのかもしれません。

しかし、なぜ、馬のしっぽをこがすのだろう。
新潟県のサイの神祭りでは、木でサイノカミさんを造り、いっしょに燃やすところが多いのだそうです。神様を燃やす!?いったいどういう意味があるのだろうと思いましたが、ふと、縄文時代の祭祀のことが思い浮かびました。

3)縄文時代の石棒信仰

縄文時代の遺跡からは、様々な石棒が発見されてもおりますし、日本だけではなく、古代の性器信仰は万国共通のことです。

一口に石棒祭祀と言っても、時代によって変化しているようです。

「中期末以降は、住居の廃絶にともなう儀礼行為の一環として、石棒を火にくべるという祭祀行為が盛んにおこなわれるようになり、それが発展して後期前葉以降に廃屋儀礼が活発化するという、おおまかな変化が指摘されるのである。」(山本暉久『住居跡出土の大型石棒についてーとくに廃屋儀礼とのかかわりにおいてー』,谷口 康浩編『縄文人の石神~大型石棒にみる祭儀行為~』 六一書房 )

神のしるしであった石棒は役目を終えると燃やされ破砕されたのです。
現代のサイの神祭りで、木のサイノ神さんが、燃やされるいう事例から、これももしや、縄文時代の石棒祭祀のことが何か関係がないのかしらと思った次第です。

ある説では、近世から始まったサイノカミ祭りと言われていますが、私には、民衆の間において、古代から脈々と受け継がれたのではなかろうかと思えます。

by yuugurekaka | 2017-08-25 23:30 | 塞の神

1)出雲地方に少ない 

ウィキペディア道祖神には、「全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。
甲信越地方や関東地方に多く、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野では、文字碑と双体像に大別され、
庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い。」と書かれています。

『雲陽誌』(1717年)を見ると、「荒神」とは別に、「幸神」として記載があります。
たとえば、意宇郡東岩坂の記載を見ると

「荒神三十五
 幸神二ヶ所
 山神二ヶ所 …」と、なっており、荒神さんの圧倒的な数にはおよびません。「幸神」ではなく「道祖神」との記載のある集落もありますがやはり数は少ないです。
                      
同族荒神というように奉祭する集落の単位そのものが、違っていたのかもしれません。

都我利神社の双体道祖神  島根県出雲市東林木町672

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2)近世の双体道祖神の分布状況

さて、下記は「日本の石仏、五七号」(1995)に載っている、長野県の道祖神研究家、若林栄一氏が
調査された全国の双体道祖神の数です。

      調査数     推定数
長野県  2584    2600 
群馬県  2228    2300
神奈川県  320    1300
新潟県   341     400
県   166     300
静岡県   307     300
岐阜県    69      70
愛知県    36      50
富山県    14      30
埼玉県    40      50
東京都    22      30
栃木県    20      30
福島県    10      30
千葉県    10      10
茨城県     1      10 
山形県     1      10 
青森県     1      10
鳥取県   347     360
岡山県     6      10
島根県    78      50


ここの数は、あくまで「双体道祖神」の道祖神塔の数であって、単体道祖神、文字塔、祠、丸石、木など
の形態は入っていません。
この表で見ると、長野県、群馬県が他を圧倒して多く、神奈川県、新潟県、県、静岡県が多く、本州
西部では、鳥取県が、抜きんでて多いようです。
しかし、なぜ、この地域のみに多いのか、原因がよくわかりません。

島根県は、極端に少ないというよりも、上位の県のように多いとは言えないが、かといって少ない地域で
なさそうです。

3)赤屋のサエの神

島根県出雲地方の道祖神は、概ね「境の神」として、主に樹木を神木として、藁馬などを奉祭するようで
す。しかしながら、旧能義郡赤屋村( 上小竹村、下小竹村、赤屋村、下十年畑村、上十年畑村、草野村)
においては、「境の神」というよりは、ほとんど、集落の中にあって、「縁結びの神」のようです。

山陰民俗会発行『山陰民俗』掲載の井塚 忠氏の昭和53年(1978年)の調査ですが、赤屋村だけで、
実に34ヶのサエの神(道祖神が確認されています。祭祀施設が、いわゆる道祖神塔ではなく、神木とし
ています。小宮(幸神社)や立石の彫字は、「才之神」「さえの神」「幸ノ神」と、あります。

『雲陽誌』で、旧赤名村の集落を見てみましたが、「幸神」のことは一切記載がありませんでした。おそ
らく、「荒神」や「幸神」そのものの厳密な把握自体が、困難だったのではないでしょうか。

赤屋のサエの神の祭日は、すべて12月15日としており、鳥取県伯耆地方と同じです。奉納物は、藁馬
で、子どもの数だけ作って奉納するのだそうです。
奉祭集団の単位は、荒神さんのように、多くは二、三十軒、小さくは一軒で、サエの神さんを祀っている
そうです。
赤屋村は、伯耆・出雲の境に位置するので、伯耆地方のサイの神と同じような性格を持っていると思われ
ますが、双体道祖神塔の築造ということに到らなかったようです。

《参考文献》石田 哲也(文)・椎橋 幸夫(写真・調査)著 『道祖神信仰史の研究』 名著出版 
      山陰民俗学会 『山陰民俗叢書6 家の神・村の神』 島根日日新聞社     


by yuugurekaka | 2017-08-20 22:55 | 塞の神