国学者 本居宣長は、古事記伝(1798)神代八之巻【稲羽ノ素菟の段】にて「鷺大明神」(さ

ぎだいみょうじん)について述べています。


伯耆ノ国人の云く、本国八橋郡束積(ツカツミ)村に、鷺(サギ)大明神と云あり。須佐之男ノ命を
祭ると云。同村に大森大明神と云あり。大穴持命を祭ると云。件の両社の神主細谷(ホソヤ)大和と云。
さてその鷺大明神を疱瘡(モガサ)の守護神なりと云て、そのわたりの諸人あふぎ尊みて、小児の疱瘡
の軽からむことを祈る。(中略)此れ因幡の気多の前とあるには合ハざれども、若シは菟神は此の社に
て、鷺とは、菟を誤りたるならむか。疱瘡を祈るも、此の段の故事に縁あることなり。(後略)
※下線は私。 
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店)

伯耆の束積の鷺大明神は、現 束積の中山神社の境内地の摂社としてあるわけですが、須佐之男ノ
命を祭ると云い、疱瘡の守護神なのだそうです。そして、この「鷺大明神」を、「菟(うさぎ)を
誤ったのではないか?」と書いているのです。「うさぎ」⇒「さぎ」へとの転訛というわけです。

転訛というので、自分がふと浮かんだのが、ここ
束積
に建てられた「素菟神社」ですが、
須佐之男
が祭られる「
素鵞(すが)神社
」の文字です。須賀神社とも書かれます。
誤ったという可能性のひとつとして思い浮かんだだけです。

しかし、鷺大明神を祭っているから、白兎神伝承の地であるというようには、本居宣長は書いては
いません。私は、
元々は
白兎神伝承と
鷺大明神は別物だと思います。

そもそも、
この
疱瘡(ほうそう)=天然痘の概念が、弥生時代には存在せず、日本に伝染していた
ことが後代のこととされています。⇒ ウィキぺディア 天然痘

ウィキぺディアからの引用です。
〝日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発に
なった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られた
 と考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が
送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来
 の神をないがしろにした神
罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。
 『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)
かるるが如し」とあり、
 瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録
と考えられる(麻疹などの説もある)。585年
 の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。〟

鳥取県・伯耆地方には、
束積以外も、鷺の神を祭る神社があります。
 
鷺神社  鳥取県西伯郡南部町倭3番 賀茂神社境内社

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南部町の賀茂神社境内社 鷺神社ですが、『鳥取県神社誌』(昭和10年)によれば、
もと雲伯の

国境渡太ノ峠と称する所に鎮座し古来疱瘡神として信仰厚く旧藩主池田氏の祈願所なりしと云いま
す。 ※
雲伯は、出雲国と伯耆国。

賀茂神社 本殿の「波乗り兎」  
鳥取県西伯郡南部町倭3番 

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南部町の賀茂神社本殿には、波乗り兎が彫られています。境内社鷺神社との関係なのか、あるいは
関係なく白兎神伝承地なのか、定かではありません。

鳥取県・因幡の国にはないのか調べて見ますと、高草郡に
天日名鳥命神社 という式内社があり、「
天鷺の宮」と呼ばれているらしい。
天日名鳥命は、天穂日命の御子で、日本書紀での
稲背脛命と同
神とされています。
ただ、ここの
鷺(サギ)は、
天三祇宮(アマサギノミヤ)=
天日名鳥命、天穂日命、天日鷲命の三神
を祭ることから由来するという説もあるらしい。

天日名鳥命神社  鳥取県鳥取市大畑字森崎874

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天日名鳥命神社 拝殿


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賀茂神社のように白兎に関係する彫り物がないか見てみましたが、何もありませんでした。

さて、本居宣長は、古事記伝
神代八之巻で、鷺大明神が白兎神に関係がないのか考察しながらも、
最後の追加考察で、そのことを否定する現・松江市の神魂神社神主から聞いた話を載せて
います。

"おひつぎの考

 菟神。出雲ノ国意宇ノ郡大庭神魂ノ社ノ神主秋上ノ得國云ク、素菟神は、今も因幡ノ國高草郡の海
 邊内海村に、白兎ノ社とてあり。今は高草ノ郡なれども、氣多ノ郡に並ビて、氣多の崎の内なり。か
 の伯なる鷺大明神と云は、出雲ノ大社にも同ジ名の社有て、疱瘡を祈る神なり。菟神は其れには非
 ず、といへりき。"        ※下線は私。                
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店

神魂神社神主秋上氏が云うところの出雲大社の社とは、
大穴持伊那西波岐神社(
出雲市大社町
鷺浦)
のことで、現在も
鷺大明神とも呼ばれています。
「菟神は其れに非ず」ということですけれど、稲背脛命が主祭神ですが、白兎神も
配祀されています。
うーん。
しかし、おそらく、さぎ⇒うさぎか、うさぎ⇒さぎのどちらかわかりませんが、長い歳月を
かけて、
習合したんではないのかなあと思います。

出雲地方にも鷺神社があるかと思い出しますと、そんなに見かけません。近代医学の発展で、
「疱
瘡の守護神」がいまや必要なくなったためか、元々少ないのかわかりませんが、松江市の忌部神社
の境内
社にありました。

忌部神社境内社 鷺神社   
島根県松江市東忌部町957


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by yuugurekaka | 2017-05-29 07:00 | 因幡の素兎

『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)で、白兎神社はどう書かれているかと云いますと、
以下のよう書かれています。

祭神 白兎神、豊玉姫命、保食神
由緒 大兎大明神又は兎の宮とも称す、其の創立年月は詳らかならずと雖も、祭神白兎神は、古事記
に「此稲羽之素莵者也於今者謂莵神也」と記し頗る著名なり、其の神代より縁故深き此の地に社殿を
創立し奉斎せる處にして、今も尚當時の淤岐島、水門、気多前、高尾山、戀坂、身千山、伏野等の遺
近隣に現存し頗る歴史に富む古社たり、往古兵燹に罹り社殿焼失し、境内亦頗る荒廃せしが、慶長
中氣多郡鹿野城主亀井武蔵守茲矩社殿を再興し、社領二十石二斗を寄進す、池田氏國主となるに及
びて亦尊崇篤く社領を寄付す、降りて、明治元年保食神を合祀し、同四年村社に列格せらる。大正元
年十二月二十六日末恒村大字内海字杖突下神ヶ岩鎮座無格社川下神社(祭神豊玉姫命)を合祀す、川下
神社は古來氣多ヶ前なる神ヶ岩に鎮座せられたりしが、白兎神社と等しく兵燹に逢ひ、寶暦十四年七
月三日再興したるものなり、尚当社は古來疱瘡麻疹傷痍縁結び等に霊験著しきを以て著名なり。

※下線は私。


『古事記』になった舞台は、ここなんだという書き方です。

しかし、内海の白兎神社が、古事記の伝承地として半ば定説となったのはいつのことなのでしょう。
また、白兎神が、「縁結びの神」に加えて、「疱瘡麻疹」の神になったのはいつのことなのでしょ
う。


参道脇のうさぎ
白兎に道案内されて、白兎神社に着くという感じである。

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砂で作られた八上姫・大国主命と白兎神

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勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』(大元出版)の「白兎神社と大黒歌碑」を
見ていて、ちょっと驚きました。大元出版なので、富家伝承なのかもしれませんが、私は斎木雲州
氏が書かれたものだけを『富家伝承』として記述しています。

白兎神社拝殿


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〝物部イクメ王の東征の際、出雲を攻略した菟上王は、因幡国西部の伏野にしばらく滞在した。菟上
王は豊王国・宇佐家の御子だったから、宇佐のウサギ神(月神)を信仰していた。
 月の中にウサギがいるので、「月読みの神」をウサギ神とも称した。ウサギ神宮の「ギ」を省略し
た言葉が、ウサ神宮の名前になったと言う、だから、宇佐王家の人は、名前に「菟」の字を付ける仕
来りがあった、菟はウサギの意味に使い、ウと発音した。菟上王の名が一例である。〟

 〝ヤマトのワニ王家・彦イマス王の御子・日子立彦はその頃、稲葉国(後で字が変わった)方面に
勢力を養っていた。かれは菟上王軍に降伏し、菟上王軍に降伏し、菟上王に協力することになった。〟 

〝豊王国軍の一部は占領軍として、稲葉国の伏野に残り、そこに宇佐社を建てた。祭神はウサギ神(
月神)と豊玉姫命である。〟
              (勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』大元出版 )
  

白兎神社本殿

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鳥取県の日本海沿岸に菟佐族、和邇族が分布し、敵であったり、味方になったり、長い歴史でいろ
いろな局面があったのだろうと思います。
九州豊国の宇佐神宮の創始にも、出雲族の末裔「大神比義(おおがの ひき)」が関係しており、
んだかよくわからない複雑な様相です。

by yuugurekaka | 2017-05-21 08:00 | 因幡の素兎

白兎神社 大鳥居   鳥取県鳥取市白兎603番地
この大鳥居は、昭和42年に建てられました。

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さて、白兎神社に来るのは何年ぶりでしょう。
過去記事 ⇒ 縁結びの神様 因幡の白兎 

■ 因幡鹿野藩初代藩主  亀井茲矩(かめい これのり)

角川日本地名辞典(昭和57年12月8日)によれば、
〝「因幡志」に「土人口碑に中比の乱世にや神光衰へ神祠も跡形なく、里諺も絶失ぬ事年久し」
 と、中世以降は社殿もないほどに衰微した。慶長年中にいたって気多郡鹿野城主亀井蔵守茲
 矩が夢に白兎の示現を見たのがきっかけとなり社殿を再興、社領も寄進した。〟とあります。

さて、白兎神社を再興させた亀井氏ですが、後に島根県の津和野藩主となる亀井氏です。 
 ⇒ ウィキペディア 亀井氏 
ウィキぺディアを見ると、〝亀井氏は紀伊国亀井を発祥とし、宇多源氏の佐々木氏の流れを汲む
されるが、信憑性に乏しく、穂積姓藤白鈴木氏流の亀井重清の流れとする説もある。〟と系譜は
のようですが、確実なことは、亀井茲矩の義理の父親である亀井秀綱は尼子経久側近として仕えた
事だそうです。

亀井茲矩自身は、尼子氏の家臣・湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉
湯町)に生まれ、山中幸盛(通称は鹿介)と出会い、毛利氏に敗れた尼子氏再興を目指す闘いに
加します。17歳の時には、現八頭郡八頭町市場の私部城(きさいちじょう)を任されます。
大菟明神を奉祭していた、あの八頭町です。

そして茲矩は、山中鹿介の養女(亀井秀綱の次女)をめとり、亀井姓を継ぎます。
詳しくは ⇒ ウィキペディア 亀井茲矩
尼子氏忠臣で有名な山中鹿介ですが、島根県民にとっては、日本酒の宣伝で「月山」(がっさん)
真っ先にに浮かびます。「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が、有名
です

尼子氏の居城富田城があった安来市広瀬町の「月山」ですが、元々は「勝日山」と呼ばれていま
た。月が登る山は、当然ながら、太陽も登ります。
元々は太陽信仰であったものが、月信仰に代わったのではないかと思います。

この尼子氏(あまごし)ですが、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家です。近江国甲良荘
尼子郷(滋賀県甲良町)に居住したのが、由来とか。
尼子氏が、月読命を奉祭していたのかどうかは、調べて見ましたが、よくわかりません。
     
大国主命と白兎の石像 
西方には道の駅が、あり、東方に石像がある。

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今は、恋人たちの聖地のように演出されています。このようにきれいに整備されないと、観光客は
まらないもののようです。
行った日は日曜日でしたが、若い男女のペアで賑わっていました。

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by yuugurekaka | 2017-05-17 14:46 | 因幡の素兎

■ 伏野

白兎海岸にある有名な白兎神社の東に行った小山に、「伏野神社(ふしのじんじゃ)」があります。
この「伏野」という地名は、古くは鎌倉時代には既に書物で見られるらしい。
「伏野」をグーグルで検索すると、下記のグーグル地図が出てきます。

現在の伏野 グーグル地図

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白兎神社の近くの神社で、前から気になっておりまして、この度参拝しました。
西からの(たぶん)参道は、木製の鳥居でした。

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伏野神社    鳥取県鳥取県鳥取市伏野2255番

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祭神 須佐之男命、猿田彦神
 由緒 起源沿革詳かならず、神代の昔に於て白兔神伏し給ひし野なるを以て、大字名を伏野と称し
    次いで社名となす、正徳四年本殿屋根の葺替をなす、明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供
    進神社に指定せらる。〟      (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )


「白兔神伏し給ひし野なる」が、「伏野」の起源と書いてあります。

現在の祭神は、須佐之男命、猿田彦神で
、宇佐族ではないですが、
おそらくこの伏野にも、
菟佐族
が住んでいたに違い
ありません。

伏野神社  本殿と境内社

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■ 高草郡の老兎

ここの伏野という集落は、古代「高草郡」の中だったようです。高草郡とは⇒ ウィキペディア 高草郡
因幡国造の本拠地は、ウィキペディアによると、高草郡、八上郡と書かれています。

因幡国造は、『国造本紀』では、彦坐王の子、つまり和邇氏系と思われますが、宇部神社祠官伊福
部氏の系の方が、栄えているように見えます。しかし、高草郡の式内社や八上郡の中心地が土師郷
であったことを合わせて考えると、土師氏の一族がかなり力を持っていたように思えます。

さて、この高草郡ですが、因幡国風土記 逸文だとされる話が、『塵袋』(ちりぶくろ)という鎌
倉時代中期の書物にっています。

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※竹林の写真は、高草郡の中ではなく、八頭町の船岡竹林公園のものです。

〝白兎

  因幡の記を見ると、この国に高草の郡がある。その名の由来に二つの解釈がある。その一つは、
 野の中の草が高く生えているので、高草の野という。その野を郡の名とした、というものである。
 もう一つは、竹草の郡とする説である。ここには昔竹林があった。それで竹草というのである。竹
 は草が長いという意味で竹草というのであろうか。その竹の事を説明すると、昔この竹の中に老い
 た兎が住んでいた。ある時、急に洪水が起こって、その竹原が水没した。浪にあらわれて竹の根も
 掘られ、皆崩れて抜けてしまったので、兎は竹の根に乗って流れてしまったところ、おきの島につ
 いた。水嵩(みずかさ)が減って後に、本の所に帰ろうと思うけれども、海を渡る方法がなかった。
 その時、海
の中にワニという魚がいた。この兎がワニに言うことには、「お前の仲間はどれぐらい
 多いのか」。
ワニが言うことには、「我々の仲間はとても多くて海に満ちている」という。
後略
 …
    (『塵袋』第十  現代語訳 中村啓信監修・訳注『風土記 下』  角川ソフィア文庫)
  
後略のところは、古事記の『稲羽の素兎』とほとんど同じです。
菟佐族は、八上郡だけでなく、高草郡にも分布していたのかもしれません。


by yuugurekaka | 2017-05-15 07:00 | 因幡の素兎

福本の白兎神社  鳥取県八頭郡八頭町福本 

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宇佐家伝承の云う大国主命に与えられた土地とは、八上郡全てではなく、この土師郷を中心とした
場所だったのではないでしょうか。

〝 このような条理遺構を残している因幡国は、隣国の伯耆国(鳥取県の西半分)とともに、古くから、
豪族の出雲族が、統治して開けていて、その統治下に、菟狹族や和邇族が生活していた。和邇族が、そ
の祖神をワニ神として祀っていたように、菟狹族は、ウサ神を氏神として祀っていた。〟

そして、オオクニヌシノミコトが、菟狹族に無償で与えた因幡国八上の地に移住して、この地を開拓
して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・北九州・東九州地方にまで発展し、古の菟狹国をつ
くって繁栄するに至った。〟     (宇佐公康著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 木耳社)

縄文~弥生時代に移り住んで、宇佐族はいつまでここにいたのでしょうか。
因幡国八上郡から美作国へ、そして山陽の安芸国へと移り住んでいったのか、奈良時代には既に、
土師氏に明け渡してしまったのか。確かめる手段はなにもありません。

はたまた土師氏が、兎神を奉祭していたのでしょうか?
土師氏系図を見ると、大江氏祖に「土師兎」なる名前が見えます。野見宿禰より数えて10代目で
宇佐族と同族化したのでしょうか。八上郡には土師郷と大江郷もあります。何か関係があるのかも
しれません。

土師氏系図

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江戸時代初期の鳥取藩医・小泉友賢(1622-16919)著 『稲葉民談記』(1688)には、

土師百井  大菟明神
福本    大菟明神
池田    大菟明神
内海    大菟明神

と、あります。内海(現在の鳥取市白兎)を除いて、3か所が土師郷に集中しています。
土師郷の3つの神社を回ってみました。


福本の白兎神社  鳥取県八頭郡八頭町福本 
第55代仁明天皇(833~850年)の時代に位を戴いたと伝えられる。
明治元年に村社となり、大正3年に同町宮谷(みやだに)の賀茂神社に合祀された。

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池田神社 鳥取県八頭郡八頭町池田

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土師百井神社は、なかなか見つかりませんでした。車でおんなじ場所往ったり来たりしてました。
神社の鳥居をすぐ探そうとしていたのが、間違いでした。「慈住寺」というお寺の境内にあったか
らです。
そういえば、『慈住寺記録』なる文書があり、大日霊尊(天照大神)が、この中山に降臨した際、
うさぎが道案内し、道祖白兎大明神として、祀神(ししん)としてこの中山の四か村の氏神として
崇めたと云います。

土師百井(はじももい)神社 鳥取県八頭郡八頭町土師百井 
 
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成田山青龍寺 鳥取県八頭郡八頭町下門尾46

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下門尾にある青龍寺には、江戸時代に造られた
福本の白兎神社の本殿が、厨子(ずし)として安置
されています。大正時代に白兎神社が、宮谷の賀茂神社に合祀されたため、大正3年にこちらに引
き受けられたとのことです。
あいにく、私が行ったときはお留守だったので、その本殿を見ることができませんでした。
正面上部には、波兎(なみうさぎ)の木彫りがなされているそうです。

青龍寺ですが、710年天明天皇の命によって、開かれた古寺であり、古くは「花喜山浄光寺」と
呼ばれていました。ここのお寺にもまた、天照大神が中山に降臨した際、うさぎが道案内をしたと
いう江戸時代に書き写された「城光寺縁起」があります。

霊石山を含めた中山の西麓が、猿田彦命ーサイノカミが、天照大神を道案内したという最勝寺縁起
り、この中山の南麓の「慈住寺」、「城光寺」には、その猿田彦命ではなく、道祖白兎明神が
道案内をしたということは、たぶん、中山の西麓には出雲族が住んでおり、南麓には、宇佐族が住
んでいたということになるんでしょうか。
西麓ではサイノカミ信仰、南麓では、兎神信仰だったのではないでしょうか。

by yuugurekaka | 2017-05-11 15:56 | 因幡の素兎

中山の南麓を訪ねました。
霊石山を含めて 「中山」と云うらしい。「此山国の中央にありて最も勝れたるの地」(最勝寺
縁起 写本)ということで、因幡国の中央だということからのようですが、伯耆の素兎伝承の神
社も中山神社で、「中山」という名そのものが、宇佐族に何か関係があるのかしらと、思ったり
します。そういえば、岡山県美作にも「中山神社」があることが思い起こされます。

さて、その中山の展望台から、現・八頭町(やずちょう)の街を眺めてみました。

展望台 周辺案内図

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字が小さくて読めないと思いますが、白兎伝説のゆかりの地が表示されています。


展望台から見える街並み



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中山の南側の平野を国中平野といいます。現在は、中山の側の麓というよりは、平野部の八頭町役
場付近が中心なのかもしれませんが、奈良時代は、万代寺遺跡(郡家跡と推定される)や、土師百
井廃寺跡が、中山の麓にあることを考えると、中山の麓が中心地であったように思います。

現在の街の姿をもって、古代の都市を想像するのは、大概間違った先入観をもたらします。たとえ
ば、松江市ですが、今まで出雲国の政治の中心地がどこだったかを考えると、奈良時代は、大庭町
・大草町付近だったのに、中世においては、安来市富田城などということを、現在の街の姿から、
だれがすぐ想像できるのでしょうか。

現在の私都川(きさいちがわ)や八東川(はっとうがわ)の川筋も、古代は当然違ったはずで、そ
れゆえ発展している場所は違ったのでしょう。


土師百井廃寺跡 鳥取県八頭郡八頭町土師百井

7世紀中頃から8世紀初めの白鳳時代に建てられた慈住寺跡と推定される遺跡です。
中門、金堂(東西18m、南北18m)、講堂(東西30m、南北19m)、回廊(幅5.4mの基壇)、塔、南門等で
構成されている法起寺式の大伽藍だったようです。

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さて、古代の中心地であったであろう八上郡・土師郷ですが、角川地名辞典で調べると、〝近世の
土師郷(はじのごう) 寛文年間 稲村・門尾(上門尾)・福本・池田・土師百井5ヶ村 「稲葉
民談記」、「因幡志」と「因伯郷村帳」はこれに下門尾を加えた6ヶ村〟と書かれております。
古代も概ねここら辺だったのでしょう。

古墳が多い地域なので、土師部の人達が多く住んでいたのでしょうが、近くに大江郷も見られるこ
とを考えると、八上郡自体が、野見宿禰の後裔の豪族が力をもっていた地域だったのかもしれませ
ん。

国土地理院地図 中山の麓

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by yuugurekaka | 2017-05-05 10:38 | 因幡の素兎