続いて樋口神社から南方の曳田郷の近くの神社を歩いてみました。渡一木神社の
鳥居から、霊石山
が見えます。

渡一木神社(わたりひとつぎじんじゃ) 鳥取県鳥取市河原町渡一木31

〝祭神 素盞鳴尊
 由緒 創立沿革詳かならず、往古より荒神宮と称す。明治元年八月渡一木神社と改称し郷社久多美
    神社の摂社なり。〟        (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )

※下線、赤字は私。



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元々は、「荒神宮」だったと云います。山陰では、荒神=須佐之男命とされるのが多いから、祭神
須佐之男命
となる例が多いと思います。また、記紀では、
須佐之男命
が出雲の祖神と描かれてい
すの
で、荒
神は、いわゆる祖霊信仰の古い形態だったのかもしれません。

一氏族の奉祭する荒神信仰が、集落として発展して、地主神、産土神、村の氏神さまとなっていっ
ったのではないか。
また、斎の木に藁蛇を巻き付けるという形が、祠、神社いうように発展した、ある一つのパタ
―ン
だったのではないか。古代豪族の首長の館が、神社になったというパターンもあったと思われます
が、荒神祭祀という所から、神社に到る回路もあったのだろうと思います。

袋河原神社 鳥取県鳥取市河原町袋河原207

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祭神  帯中津日子命、品田和気命、息長帯比売命、素盞鳴命、罔象女命
 由緒 創立年代明かならず、古くより素盞鳴命(一に大国主命と称す) を祀りて氏神となし荒神宮
 称せしが、當村の対岸に片山村あり、曾つて洪水の際河身東に移動したるより片山村民の当地に
 移住せる者夥しく終に其の片山時代に氏神なりし片山字宮原鎮座八幡宮を村の氏神として崇敬し
 古来より当村鎮座荒神宮を摂社となせり、因幡誌に「氏神分八幡宮在片山村」と記せり之なり、
 文化四年十二月十五日終に八幡宮を勧請して荒神宮と相殿に奉祀し世々産土神八幡宮と称せり、明
 治元年十月二十九日村字下平鎮座岩瀧神社祭神 罔象女命を合祀す、此の時荒神宮は再び社殿を
 新築して境内に別に奉祀せり、次いで袋河原神社と改称し明治五年三月村社に列格せらる、降りて
 明治四十三年十一月二十三日再び境内鎮座荒神宮を合祀す。 
                     (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )

次に
樋口神社
の北方の袋河原の神社に行きました。角川地名辞典では、佐井郷ではない気がします
けれど…。

ここの神社も、元は荒神宮だったようです。
千代川が東から西に移動したので、集落も移動したようです。それに伴って、
片山神社の氏神の八
幡様が移ったように由緒に書かれています。渡一木神社と違うのは、同じ荒神宮ですが、
須佐之
だけではなく、「一に大国主命と称す」と荒神=大国主命とも書かれているところです。

袋河原神社に移ってきたという片山の神社に行ってみました。現在は、「大山津見神」が祭神のよ
うですが、明治10年の「鳥取県神社誌」当時は、八幡様を祀っていたけれど、どういう経緯があっ
て、祭神が変わったのかわかりません。

片山神社 鳥取県鳥取市河原町片山729

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祭神 帯中彦命、誉田別命、気長足姫命
 由緒 古老の口碑に建保年中同村鎮座國英神社の御分霊並みに帯中彦命を勧請奉祀し八幡宮と称せ
 しが明治元年八月片山神社と改称し同五年三月國英神社の摂社となす。
                     (『鳥取県神社誌』昭和10年 鳥取県神職会 編 )

「建保」といったら、鎌倉時代の1213年から1219年頃のことです。
しかし、その前は、どのような祭神を祭っていたのでしょう。ここも、もしや荒神宮であったの
はないかしら。「大山津見神」は、山の神です。日本書紀に登場する山の神は、概ね蛇です。

“駿河国風土記には、荒神こうじんは他の大社の末社ですなわち、その神の荒魂あらたま(註:神の荒々しい側面、

 荒ぶる神)であるとの説が記録されておりますが、末社ではない独立した荒神が極めて多い以上

 は、成立しない説であり、社寺の境内に荒神を祀るのは、地主神の思想に基づくものであるのは、

 疑いが無いと思います。雲陽誌(註:享保二年=1717年に松江藩士、黒澤くろさわ長尚ながひさが編纂した島

 根の地誌)や東作志とうさくし(註:正木輝雄が編纂した美作国=今の岡山県、東部の地誌)を見れば荒神

 は、正しくは山野の神であり、その数の多い事はなお東国の山神と同じでございます。特に注意

 すべきは出雲の美作に限った事ではなく、多くの荒神にはまったく社殿が無い事です。〟

                           (柳田国男 著『石神問答』)


『荒神は、正しくは山野の神』、そこを考えると、太古、霊石山の「山の神」を各集落で荒神様と

して祭ったのではなかろうか…という思いが浮かんできます。

塞ノ神=幸ノ神⇒荒神という転訛か、あるいは、吉野裕子説である「顕(あら)波波木神」⇒荒波

波木⇒荒神という転訛か、いろいろな説が考えられますが、ともかく、自分には神社祭祀以前の信

仰のような気がします。


※ここでは、竈の神や三法荒神の話ではなくて、地荒神の話です。



by yuugurekaka | 2017-04-29 22:09 | 因幡の素兎

江戸時代の文献でもって、弥生時代・古墳時代のことを推し測るということは、当然無理がありま
すが、現代の神社の祭神でもってそれを推し測るのはもっと無理があると思うのですが、とりあえ
ずは祭神を調べてあれこれ頭をめぐらすのです。

菟神を奉祭する氏族分布も当然時代によって違ったものであろうし、神社の栄枯盛衰というものが
時の権力によって左右されたのではないかと思います。
霊石山の西の麓の神社を歩いてみました。


まずは、河原城に上がってみました。
足を運べば、新しい気づきがあるものです。
ここにも、八上姫たちの新しい像がつくられていました。

河原城にあった因幡の素兎・八上姫と大国主命の像


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河原城から見える霊石山

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霊石山も見る場所から形が変わって見えます。吉野裕子氏によれば、カンナビ山は蛇がとぐろをま
いたような円錐形であるという。

まずは、河原城山の麓の樋口神社に行ってみました。

ここの祭神は、市杵島姫命です。宇佐氏伝承の本を読んだところ、「母祖 市杵島姫命」と書かれ
ていました。もしや、宇佐族?と思いましたが、樋口神社の由緒を見ると違うようです。
後代に習合した水の神様「弁天様」から来ているように思えます。

樋口神社 鳥取県鳥取市河原町河原2番



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祭神 市杵島姫命、保食神 
由緒 天正の頃亀井鹿野城主当町より旧高草郡中一円の潅漑用大水路を掘鑿せしが、次いで明暦年間
其の取入れ口なる大樋の傍に水路守護の神として市杵島姫命を奉祀す、現社地是なり、世々弁財天社
と称す、降りて明治元年八月境内鎮座稲荷大明神(祭神 保食神) を合祀し、樋口神社と改称す、然
して郷社久多美神社の摂社となす。
                      『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)

樋口とは、
「樋」(とい)の入口という意味。 ここの神社の裏手の西側は、「
大井手用水」という
因幡鹿野藩初代藩主 亀井が1602年(慶長7年)から、7年の歳月をかけ開削したもので、
農業用水等として地域に欠かせない用水路となっており、疎水100選にも選ばれています。
→ 疏水百選 千代川から大井手用水に取り入れ水路がここに造られていました。

なおこの亀井公(亀井 茲矩)は、高草(鳥取県鳥取市白兎海岸)の白兎神社を再興したお殿様です。

樋口神社の位置  グーグルの地図

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この樋口神社の前には、六地蔵さんが祀られていました。六地蔵は、ウィキぺディアによれば、
〝これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基
づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。〟
また〝他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に、多く建てられた。また道祖神信仰と結びつき、町
外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。これを本尊とする祭りとして地蔵盆
がある。〟 

サイノカミが、習合したものなのか、あるいは、水害によって供養された場所なのか、わかりません
が、案外神社よりも「起源」が古いのかもしれません。

樋口神社前のお地蔵さん

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by yuugurekaka | 2017-04-26 20:33 | 因幡の素兎

八上郡12郷の中に『佐井郷』があります。名前からして、「サイの神」を奉祭した氏族から由
する郷名でないかと想像できます。出雲族は、サイの神 三神(クナドの大神・幸姫神・猿田彦命)
を奉祭していたそうなので、ここに大国主命の後裔の出雲族が住んでいたのかもしれません。

どこが、その『佐井郷』の比定地なのか、調べてみましたら、
霊石山の西の麓、河原城の前の千代川流域の周辺ではないかとされているようです。
ここは八上姫の郷ー曳田郷の北隣に位置しています。

霊石山中腹の御子岩の方から河原城を眺める

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以下『角川日本地名大辞典31巻 鳥取』からの引用です。

〝「稲葉民談記」の中世の郷保庄の記載順、「因幡志」のこの記述から推定すると、佐井の位置は
河原町渡一木【わたりひとつぎ】から河原町河原付近一帯となる。古代の佐井郷も千代【せんだい】
川左岸域の河原町河原付近一帯であったのであろう。「稲葉民談記」は「河の中に小き島あり。之を
サ井と名く。此所昔の村の跡なるや、此所何如なる大水にも流されすして、久しく残りしかは,犀は
水中に棲みて水の害を受けす。此所実に犀のすみかなる故に、かくの如く云ふならむとて土人相伝へ
しか」と地名の由来を記している。しかし,このあたりに犀が生息していたとは考えられないので
一考を要する。佐井の「井」の文字から考えると水に関係する地名に由来しているのかもしれない。
式内社久多美神社が河原町谷一木【たにひとつぎ】に祀られている。〟
                         『角川日本地名大辞典31巻 鳥取』

※ 犀は、動物のサイ。
※ 『因幡民談記』(いなばみんだんき)は、江戸時代初期の1688年成立の地誌。
  鳥取藩の侍医の小泉友賢(1622―1691)の著作  

ただ文禄2年(1593年)の洪水前は、千代川の川筋は、もっと西の山際の方だったようです。
(参考→ 古事記の倭ごころ )だから、大水に流れ去れない小さき島という由来が、そうだったのか
疑わしい気がします。

江戸時代初期には、既に「サイの神」(一般的には賽の神と書かれる。道祖神と習合したとされる。
→ ウィキペディア 道祖神 )は、忘れられた神だったのかもしれません。
このサイの神は、「佐斐」(境港市)、「狭井」「斎」「妻」「幸」「西」とも書かれたようで、
全国に地名として残っています。大和の三輪山にも大物主命の荒魂を祀った狹井神社があります。

狹井神社(狹井坐大神荒魂神社) 奈良県桜井市大字三輪狭井

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改めて、八上郡の地名を見ると、「西御門」という地名があることにも、気になります。この「御
」、という地名も出雲地方や石見地方の、大国主命に由来する場所の地名にあり、もしや、大国
命の御殿があったところではないか…などと妄想が浮かびます。

ところで、この『佐井郷』がどこまでの範囲かはわかりませんが、おおむね霊石山の西麓だとは思
いますが、北の方に「袋河原」「布袋」という集落があります。
この「袋」というのは、大国主命が、背負っていた袋を置いたことに由来すると云われています。

国土地理院地図 霊石山の西麓

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河原城から見える河原、袋河原の集落

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千代川の川岸の道路を歩いて霊石山が眺めてみました。歩いていて思いましたが、奈良の三輪山の
西の麓を歩いたときを思い出しました。この山も、カンナビ山で東から山から登る太陽神を奉祭し
ていたのではないかと。
今では、太陽神=皇祖神・天照大御神というように体系化されて、国津神VS天津神の象徴のように
思われていますが、出雲族はもともと、太陽神を奉祭していたそうです。

上袋河原のバス停留所から見える霊石山

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山の中腹に御子岩が肉眼でも見えます。
実際に近くまで行きました。下記は御子岩の説明。

天照大神が行臨の時、道案内の神として猿田彦命が先導し、この岩に「冠」を置かれたので御
 岩とも云った。猿田彦命は、道祖神であり、この岩はその御神体として道行く人の目標であった。
 古歌に
「因幡なる神の御子岩しるしあらば、過ぎ行く秋の道しるべせよ」とある。

                                    河原町観光協会〟  
御子岩 

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なぜ猿田彦命のことを「御子神」と云うのか、だれの「御子」なのか、長い間わかりませんでした
が、父 クナドの神、母 幸ノ神の御子ということで「御子神」と云うらしいです。

この霊石山の頂上近くに、天照大神がこの山に降りてきたということで「伊勢が平」といわれる場
所があり、皇居石、夫婦石と呼ばれる石があるそうです。私は、頂上付近を歩き回ったが、その場
所がわかりませんでした。

この霊石山の西南の麓には、猿田彦命が天照大神(大日霊女尊)を先導したとする、『最勝寺縁起』
の存する最勝寺があります。
ちなみに古事記、日本書紀では、猿田彦命が瓊瓊杵尊を先導する話がありますが、天照大神を伊勢
地に導したのも、猿田彦命の末裔の宇治土公(うじつちぎみ)の遠祖・大田命とも云われてい
ます。

最勝寺 鳥取県鳥取市河原町片山29

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by yuugurekaka | 2017-04-21 22:10 | 因幡の素兎

■因幡の八上郡とは

霊石山

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大国主命が八十神(異母兄弟達)と八上姫に結婚を申し込みに行ったとされる八上郡に行きました。
本を読んでイメージした八上郡とは全然違っていました。小さな一つの盆地のように思っていまし
たが、霊石山の麓に流れる3本の川(曳田川、千代川、八東川)に分かれた谷間のような地域でし
た。

菟佐族が分布したのは、おそらく、右手(東側の)の八東川流域の開けた地域だと思えました。
八上姫を初めとする豪族が住んでいたのは、左手の(西側)曳田川の流域だったのかな。

八上郡をウィキぺデイアで調べると

〝古事記神話因幡の白兎に登場する八上姫(やかみひめ)が地名由来である。12郷を有する因幡
 国内で最大規模の郡であった。郡家の所在地は万代寺遺跡(現・八頭町)とされるほか、同町福
 井にある西ノ岡遺跡も一時期、郡家であったとする説もある。『延喜式』などに見える莫男(ま
 くなむ)駅は八上郡家付近に所在したと考えられる。〟

Google Earthで見る八上郡の一部

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平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』に記された八上郡の12の郷は以下の通りです。

若桜郷
丹比(たじひ)郷
刑部郷
亘理(わたり)郷
日部(くさかべ)郷
私部(きさいべ・きさいちべ)郷
土師郷
大江郷
散岐郷
佐井郷
石田郷
曳田(ひけた)郷

この丹比(たじひ)郷は、たぶん第28代宣化天皇の裔なる多治比氏に由来する郷でしょう。

全体的には、品部に由来する郷が多いですね。日下部、私部、刑部、土師郷…。
土師氏と、その後継の大江氏は、霊石山の麓から南方に分布していったようにも見えます。
霊石山中腹には、猿田彦命を祀った磐座があります。

この亘理(わたり)とは、隠岐島の由良姫神社の祭神に由来するのか、あるいは品部の渡部なの
か。古代の八上郡は「因幡国内で最大規模の郡」で、ヤマト中央と密接な関係にあったと思われ
ます。

品部とはなんだったか、改めて調べてみます。以下、ウィキぺデイアの記事。

〝職業部
 具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。海部(あま
 べ)・錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)・麻
 績部(おみべ)・渡部(わたりべ)・犬養部(いぬかいべ)・馬飼部・鳥飼部・解部(ときべ)
 などの例がある。
 子代(こしろ)・御名代(みなしろ)王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)
 ・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例が
 ある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の
 回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。
 豪族部
 諸豪族の名を帯びる部。例として畿内の有力豪族巨勢臣の巨勢部・尾張連の尾張部・大伴連の
 大伴部・蘇我臣の蘇我部などがある。
 これらを総称して、部ないし品部という(品は「しなじな」、すなわち「諸々」の意)。

 こういった分類は便宜的なもので、このように截然と区別・区分されるわけではない。例えば
 土師部は、土師器を作るという職業部であると同時に、土師氏という豪族の名を帯びる豪族部
 でもある。〟 (以上 ウィキペディア 部民制 

河原城  鳥取県鳥取市河原町谷一木1011
霊石山の反対側の山に築城されている。正式名称は「丸山城」。

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■八上姫を祀る神社

売沼(めぬま)神社 鳥取県鳥取市河原町曳田字上土居169

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〝式内社 賣沼神社
 一、祭神 八上姫命
 由緒「延喜式神名帳」に「八上郡賣沼神社」とある神社でありまして、中世より「西日天王」とい
 っておりましたが、元禄年間よりもとの賣沼神社という名にかはりま  した。御祭神は「八上姫
 神」でありまして 御祭日は十月一日を大祭としております 「古事記」の伝えるところによると、
 出雲国の大国主神は八上姫神をオキサキになさろうとしてこの因幡国にお出になりま した。途中
 で白兎の難をお救いになりま して、この白兎神の仲介で八上姫神と首 尾よく御結婚になりました。
 この神話伝説は漂着した外地の舟人たちが千代川を さかのぼって、まずこの曳田郷をひらいたこと
 に間違はありません。対岸山麓の前方後円墳を神跡とするのも決して単なることとは云えないようで
 あります。〟(説明板より)


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曳田川のせせらぎの音が聞こえ、とても安らかな気持ちになる境内でした。

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境内前を流れる曳田川

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本殿

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古代の川辺で祭祀が行なわれたのかなと想像しましたが、元宮は対岸の梁瀬山の方だったらしいの
です。梁瀬山の中腹には、前方後円墳(全長50m、幅19m、高さ4m)があり、嶽古墳という八上郡最大
古墳があります。
八上姫は、大国主命と同時代の人なので、弥生時代の姫様だから、古墳は、八上姫と云われている
けれど後の子孫の墓ではないでしょうか。

八上姫公園から見える梁瀬山 

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嶽古墳の説明板

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■曳田氏 中央に進出?

八上姫の後裔の豪族ですが、曳田郷を治めていたということだから、曳田氏だったのだろうと思い
ましたが、なかなか、古代の因幡にそういう文献が見当たりません。
インターネットで検索したら、後代の、平安時代末期に因幡の尾張氏ー八上郡司を務める豪族で佐
治氏の分家の曳田氏が出てきます。(→ ウィキペディア 佐治氏 


大和国城上郡にも、曳田邑があり、『延喜式』神名帳に「曳田神社」が見えます。(比定神社 乘
田神社(ひきた)神社 桜井市白河285 )
この曳田氏ですが、匹田(ひきた)・辟田(へきた)・引田(ひきた)・疋田(ひきた)とも書か
れるようです。漢字が後代になって入ってきたからそういうことなったと思いますが、それゆえ、
かなり古い豪族だと類推できます。

この曳田(ひきた)を拠点とした引田氏ですが、古代豪族として、三輪引田君、大神引田朝臣とし
て、名が見えます。
三輪氏の族のようで、大国主命の裔の一族らしいですが、なぜだか、二重の複氏を名乗っていま
す。
三輪氏・大神氏だけかと思いきや、阿部引田氏、物部引田氏…などの複氏もあります。
また、『新撰姓氏録』でも調べて見ました。これまた額田部氏との複氏。

 大和国神別
 額田部引田連――同神十三世孫、意富伊我都命の後

よほど母族の名を残さなければならない事情があったと思えますが、残念ながら、始祖が父系なの
で、たとえば、『母祖 八上姫命』というのは出てきません。

『姓氏家系大辞典 』(太田亮 著 角川書店)で、引田氏を一つ一つ調べて見ましたが、因幡八
郡の曳田氏と大和の引田氏との関連性を何も見つけることはできませんでした。

しかし、因幡・八上郡から大和に進出するということがあったとしてもなんら不思議はなかろうと
思います。


by yuugurekaka | 2017-04-05 23:47 | 因幡の素兎