■「因幡の白兎」というが…

『古事記』には「稲羽の素兎」となっており、毛の色に言及していません。そもそも日本在来の「

二ホンノウサギ」は、褐色等の毛を有しており、積雪地帯では体毛が白に変化するそうです。

→ ウィキペディア ニホンノウサギ

ちなみに、隠岐島には「オキノウサギ」という固有種がいます。オキノウサギは白くならないと書

かれていましたが、あるブログでは、オキノウサギも白く生え変わったとの記事も見受けられます。


では、素兎(しろうさぎ)とは何か。本居宣長は、素はもしかしたら裸(あかはだ)の意味か…な

どと考察しています。


伊吹山のニホンノウサギ (画像出典→ ウィキペディア ニホンノウサギより)

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■ 古伝 宇佐家の伝承 


ウサギと鰐の話なので、菟神を奉祭する宇佐家の伝承本を読んでみようと、アマゾンで宇佐公康著

『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』を注文しましたが、品切れの様子で、いつまで経っても送られ

てこずあきらめていましたが、県立図書館にあることがわかり、昨年末から借りて読んでいます。


私は、菟狹族というのは九州の北東部の豊国周辺にばかり分布しているとばかり思っていましたが

本を読んでみて、中心は山陽の方だと書かれており驚きました。そして、元々は隠岐島にいたけれ

ど、和邇族との取引で、財産や領地を失ない(身ぐるみはがれて)、大国主命に与えられた因幡国

八上の地で再出発したといいます。以下、『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』の引用です。

※ 下線は私。


「稲羽」は因幡国で、現在の鳥取県の東半分の旧国名である。山陰道八ヵ国の一つで、因州ともいっ
 た。今の鳥取市と、岩美・八頭・気高の三郡が、この国にふくまれていた。古代の住民、縄文時代か
 ら弥生時代には、日本海に面した海岸地域に住み、三世紀の中頃から、六・七世紀ごろまで古墳時代
 には、その周辺の奥地に移り住んでいた。したがって、広い地域にわたって、条里制の遺構を残して
 いる。…中略…
 このような条里遺構を残している因幡国は、隣国の伯耆国(鳥取県の西半分)とともに、古くから、
 豪族の出雲族が、統治して開けていて、その統治下に、菟狹族や和邇族が生活していた。和邇族が、
 その祖神をワニ神として祀っていたように、菟狹族は、ウサ神を氏神として祀っていた。『古事記』
 に見える「稲羽の素菟」とは、実はこの菟狹族の族長をさしていったのであって、動物の白ウサギで
 はない。〟 

〝 白ウサギが、ワニザメに皮をはがれて、赤裸になったという伝説は、経済上の取引で、菟狹族が和
 邇族に、玄人くさい駆引を使って失敗し、和邇族から資産を押えられ、全部没収されて、赤裸になっ
 てしまったことを物語るものである。〟

〝この隠岐諸島に、菟狹族は石器時代から住みついて、自給自足体制による農漁業をいとなんでいたこ
 とは、島後の西郷町から、石器時代の遺物が発見されたことによって実証される。そして、その生活
 の九○%は、アマ(海士)による漁労・採取であったことは、菟狹族はウサ神、すなわち、ツキヨミ
 ノミコト(月読尊)をアマ(天)の神とするアマ(海)族であるという伝承によっても明らかである。〟

〝 菟狹族は、この教示を実行にうつし、隠岐諸島の領有権はもとより、物品貨幣の全財産の所有権を
 和邇族に移譲して、長年住みなれた島を去った。そして、オオクニヌシノミコトが、菟狹族に無償で
 与えた因幡国八上の地に移住して、この地を開拓して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・
 北九州・東九州地方にまで発展し、古の菟狹国をつくって繁栄するに至った。〟
           
                 (宇佐公康著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 木耳社)

■ 隠岐島と伯耆

宇佐家伝承を念頭において隠岐島と伯耆を考えてみようと思います。
まずは、隠岐の国造はだれであったのか。

意岐国造(おきのくにのみやつこ)は、国造本紀(先代旧事本紀)によれば、応神天皇(第15代)の
時代、孝昭天皇(観松彦香殖稲命、みまつひこかえしね)の弟とも言われる観松彦伊呂止命(みまつ
ひこいろとのみこと、観松彦色止)の5世孫である十挨彦命(とおえひこのみこと)を国造に定めた
ことに始まるとされています。

孝昭天皇といえば、第五代天皇で、大和葛城の出雲族と縁の深い天皇です。第一皇子が天足彦国押人
命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)で、和邇氏の祖とも云われる皇子です。
→ ウィキペディア 孝昭天皇 あながち、和邇族と無関係ではないと思われます。

ちなみに隠岐の国造は、大国主命の後裔を称する意岐(隠岐・億伎)氏が世襲して、古くから隠岐国
の玉若酢神社の神職を務めているという。

さて、宇佐家が関係した地域であれば、それらしい地名「豊」とかがあるはずです。そういう目で、
隠岐の地名を探しますと、島前海士町に「豊田」という地名がありました。江戸時代は、豊田村だっ
たようですが、ただ平安時代の『和名類聚抄』を見ると、隠岐の4郡12郷の地名にはありません。
ここ豊田の地では、「奈伎良比賣神社(なぎらひめじんじゃ)」という神社があります。式内社の
神大社となっています。

隠岐郡海士町豊田 周辺の国土地理院地図

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ここの伝承によれば、往昔伊予国から船出していた奈伎良姫は、日本海に入った折、暴風雨にあい、
途方にくれていたとき、遥か遠くに見える一点の灯火を頼りに進み、この豊田の地に、上陸し永住
したといいます。

伊予国から渡来した神です。宇佐族の系統の神とも思えますし、和邇族の系統の名前のようにも思
えます。何も証拠はありません。
なぜだか伯耆にも「なぎら」の名が同じ「奈喜良(なぎら)神社」があります。祭神は、あいにく
奈伎良姫ではなくて、大国主命です。まあ祭神は、変わるものです。

それと伯耆に「由良(ゆら)」という地名がありますが、島根県隠岐郡西ノ島町浦郷にある「由良
比女神社」(式内社の名神大社)と関係がないのでしょうか。由良比女は、元名「和多須神」とも
云われており、海童神あるいは須世理比売命ではないかと云われていますが、豊玉姫との説もあり
す。『古事記』では、豊玉姫は海神大綿津見神の娘で、出産の際、八尋和邇(やえひろわに)に
ります。

鳥取県(因幡・伯耆)には、菟狹族、和邇族が近接して分布しているようです。隠岐の神様も、ど
っちの系統の神かよくわかりません。おそらく長い歴史の中で、敵であったり味方であったり、ま
た同族化したり、いろいろなことがあってわかりにくいのだと思います。

奈喜良(なぎら)神社 鳥取県米子市奈喜良356番 
現在の祭神は、大国主命、天照大御神です。天照大御神は明治元年神社改正の際、合祀されたという。

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by yuugurekaka | 2017-03-25 22:01 | 因幡の素兎

江戸時代前期の儒者、貝原好古(かいばら よしふる)の『和爾雅』(1694年)には、伯耆 

素菟(うさぎ)大明神(だいみょうじんとの記載があります。

古事記には、『稲羽の素兎』の話として、載っていますが、伯耆国の束積郷(平安時代には既に

地名として存在しています。この束積とは出雲積、安積の「積」と何か関係があろうか?)

には、「伯耆の素兎」の伝承が残っています。


中山神社 鳥居   鳥取県鳥取県西伯郡大山町束積8番


『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)によれば、往昔 大森大明神と称し、明治元年

明治元年十月 束積社と改め、同五年十二月郷社に列せられ、同六年 束積神社と改称、同三十八年

九月二十六日中山神社と改称とあります。

祭神は、大己貴命、田心姫命、稲背脛命、倉稲魂命、御祖尊、稚産霊命、大山祇命、保食神、白兎

神とありました。


中山神社 拝殿   鳥取県鳥取県西伯郡大山町束積8番

   

      

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中山神社前の「伯耆の白兎」の説明板


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神社の前の説明板に「伯耆の白兎」の伝承が書かれています。


“束積に住む白兎が川をのぼる鱒の背を借り川を往き来していたが、過って鱒の背を踏みはずし溺れた。

 さいわい流れ木につかまり隠岐島まで流された。帰郷の念から鰐をだまし、皮を剥がれたところを大

 国主命に助けられた。

 「伯耆の白兎」の話は「因幡の白兎」と共に『古事記伝』で語られている。束積に帰って一休みした

 岩が「兎の腰掛け岩」として残っているほか、流れ木に助けられた川を「木の枝川」「甲川」と呼ぶ

 ようになった。

  村人は白兎の愛郷の念を偲び元の遊び場「古屋敷ヶ平ル」に社を建て「素菟神社」とした。この社

 は皮膚病(疱瘡)の守り神となり、平癒の節は笠を納めるのを例とし参拝者があとを絶たなかった。

 明治初年社が野火で焼失し、今は中山神社境内に再建され長く白兎の心情を保っている。

                            平成二年三月

                                 大山町教育委員会    

中山神社西参道の道祖神(サイの神)
伯耆地方では、サイの神にわらで作られた馬を供えるらしい。

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西側の参道に道祖神が祭られていました。素菟神の伝承地だから、藁のウサギかなと、単純に思っ
てしまいましたが、ウサギにしては足が長くてどうも違う気がします。
図書館に行って調べてみますと、伯耆地方には藁で作った馬を供える風習があるようです。
下記の引用は、中山町束積ではなくて、中山町岡地区の事例です。サイノカミ(幸の神)は、縁結
びの神様ということは聞いたことがありますが、耳の病気の神様という側面もあるようです。

“ 伯耆西伯郡中山町にはサイの神が少なくとも三十ヶ所はある。その中には神社の境内にあるものも
 少なくないが、これは道路工事その他のため遷されたものであって、元はやはり村境とか峠とかにあ
 ったものだという。たとえば岡地区では現在稲荷神社の境内にあるが、自然石そのままのものは少な
 く、大抵がその表面に男女の双体像を彫り出したり、また線刻したりしたものになっている。岡地区
 のも男女の双体像である。機能は一応耳の病の神だとなっているが、それよりもこの地方では縁結び
 の神という所が多い。しかしまた祭りには子供が参るものともしているのではっきりといわれないが、
 そこにはやはり子供の守り神という考えもあったことがしのばれる。…中略…
  十五日になると子供たちが参ってきた。子供のある家では子供の数ほど藁馬をつくり、これに団子
 二つ三つ苞に入れて負わせ、それを持って参らせる。…後略… ”
                    (『山陰の祭祀伝承』山陰民俗学会 平成九年 発行 )

さて、伯耆のうさぎが、鱒の背中を踏み外し、溺れそうなところをなんとか流れてくる木の枝をつ
かんで助かったという甲川(きのえがわ)を見に行きました。
木の枝川が、甲川となったのか、どうかわかりませんが、陰陽五行から木の枝(きのえ)→木の兄
(え→甲(きのえ)となったんだろうか。

甲川 (きのえがわ)
木の枝が、「甲」(きのえ)に転化したのか?

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そして、木の枝につかまって、日本海に面した甲川の河口に行ってみました。「伯耆の素兎」が、

ここから隠岐島に流れ着いたといいます。


甲川河口付近 
向こう側は日本海。

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この束積の甲川から、地図で見ますと、確かに直線的に隠岐島があります。マーカーした所が、束

積の中山神社があるところです。


“さて其の束積のあたりに、木の江川とて大キナル河ありて、其川の海に落る処、鹽津浦とて、隠岐
 知夫里湊その向ひに當れり。”(本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店)

                             

GOOGLEマップの地図 


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by yuugurekaka | 2017-03-20 23:35 | 因幡の素兎

■ 4弦?の琴 

4突起の琴 一式(弥生時代 中期後葉)

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青谷上寺地遺跡展示館にはいくつかの弥生時代の琴が展示してあった。下の写真のように〝ほぼ完全
な形
で出土〟〝天板には日・月・星を表わすように共鳴の孔が開けられている〟と書かれていた。
突起が4つある。一つの突起に一本の弦を括り付けると仮定すると4弦の琴であろうか。

家に帰って、インターネットで調べたところ、4突起=4弦とは言えないようで様々な説があるそう
だ。たとえば、一
つの突起に、2本の糸を回すこともできるし、そうなると8弦の琴となる。また、
突起ではなく、凹
部の凹んだところに弦を通したと仮定すると、3弦の琴になる。

琴そのものの起源はかなり古いようで、縄文時代の琴が青森県の八戸で、3,000年前の琴が出土してい
る。その使い方がYOUTUBEで投稿されていたが、2突起に各々弦を括り付けて2弦あるいは、1突起に2
弦の糸で4弦の琴とも想定される。

どんな糸を張ったのだろう。中国の古琴のように、絹糸だったのだろうか。
絹糸は、九州の
吉野ヶ里遺跡の絹織物の出土から、弥生時代には既にあったのである。

この箱型の琴、共鳴槽付きと云われるそうだが、ギターの箱のように音量の増幅を目的したと思える。
弦を突起に括り付けたとすると、その弦を集弦
孔に集めて(星形あるいは月型のところの穴?)、糸
引っ張ったようだ。

このままでは天板と弦がくっついているのでよく鳴らないわけなので、弦を浮かせるためのブリッジ
が必要となる。( 現代の筝でいえば、雲角・《
》角 )
それと、古墳時代の出土した琴には、琴柱(ことじ)という弦を支え音の高低を調節するものも出土
しているが、弥生時代にはどのように調律していたのだろうか

ただ素朴に、手で引っ張って音を整えていたであろうと想像しまいがちだが、実際は琴柱が合った方
が調律しやすいのではないかと思う。
琴柱がいっしょに出土していないので、そういうものは無かっ
たと考えるのは簡単だけれども、じゃあ
琴柱がないときは、どのようにしていたのだろうかというこ
とが疑問だ。

1弦、2弦という少ない弦だと、調律なるものはそれほど必要はないのかもしれないが、4弦、6弦
7弦と弦を増やすのなら、弦が同音を出すよりも、違う音階の音を出していたのだと想像される。
となれば、音の調整は当然やっていたと思われるので、どのようにやっていたのかが気になる。

■ 様々な弦数の琴 

上記の画像の琴のだけ出土していれば、この地域の琴は4弦(または3弦あるいは8弦)と思いがちであ
るが、展示されている他の琴の天板を見ると、4突起ではなくて、6突起だった。

天板に魚の絵が描かれた6突起の天板(弥生時代 中期後葉)

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また、青谷上寺地遺跡出土データベースを見れば、7突起の琴板があることがわかる。
この地域によって、琴の弦数の決まりごとはそもそもなかったのかなあと、思える。

多弦であれば、やっぱり調律が重要であって、ポロロ…ンとつま弾いて、美しい音が出たのではない
かと想像する。

琴は、琴を弾く埴輪がほとんど男性なので、祭祀では首長層の男性が弾く役割を担ったと云われてい
る。男性が琴を弾き、女性が巫女として神がかり託宣したのかな。
祭祀場は、山の磐座の前とか川辺等の水辺だと云われているが、ここの青谷の地域はどこが祭祀場だ
ったのか。

琴弾山神社 島根県飯石郡飯南町佐見 
出雲風土記に この山の峰に窟があり、大国主命の御琴があると書かれている。

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by yuugurekaka | 2017-03-13 12:00 | 弥生時代の遺跡