因幡と和邇氏

■ 因幡国造


因幡の国造は、どの氏族だったか?

『国造本紀』によれば成務天皇の御世に彦坐王の子・彦多都彦命が初めて国造に任じられたとある。

 ウィキペディア 因幡氏

彦坐王とくれば、和邇氏と関係が無いとは思えない。

彦坐王(ひこいますのおう)は、第9代開化天皇の第三皇子であり、和邇氏遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子だからである。→ ウィキペディア 彦坐王

つまり、彦坐王の母族は和邇氏ということだ。

また、彦坐王の後裔として、ホムチワケ伝承に関係する日下部氏がいる。日下部氏は、出雲国神門郡にも土着したと思われる。


■ 和邇氏の系譜


1)さて、この和邇氏であるが、「新撰姓氏録」(815年)を見ると

大和国 神別 地祇に 和仁古 大国主六世孫 阿太賀田須命之後也

とある。

出雲族の系譜というわけである。

この「阿太賀田須命」が、宗像氏の「吾田片隅命」が同じかどうかわからないが

宗像氏も姓氏録で見ると

右京  神別 地祇 宗形朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也

河内国 神別 地祇 宗形君  大国主命六世孫吾田片隅命之後也 

と、あり宗像氏と半ば同族のように見える。


2) しかし、この阿田賀田須命だが、先代旧事本紀(地祇本紀)では、

都味歯八重事代主神の八世孫、阿田賀田須命、和迩君たちの祖 

と、記載されている。

また記紀では、第5代 孝昭天皇の御子 天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)が、和邇氏の始祖とされている。
姓氏録では、皇別で「天足彦国押人命」「彦姥津命」の系譜が見える。以下 主なもの。

右京皇別 和迩部天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也 

山城国 皇別和迩部 小野朝臣同祖天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後 

摂津国 皇別和迩部 大春日朝臣同祖天足彦国忍人命之後也


■ 太陽信仰を持つ鍛冶集団説

ところで、「2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする」説を調べてみた。
山尾幸久著『日本古代王権形成史論』(1983年)に載っていた。以下 本の結論部分の抜粋。

“以上のように、ワニという日本語はもともと、朝鮮語のサヒに対応する意味(刀や鉏)を持っていたのであり、それゆえサヒから生じたことばサメにも対応したのであろう。したがって私見は次のごとく爬虫類の鰐の称呼に起源する南島語系の古い日本語ワニは、もとは海洋の主または支配者と信じられた鋭利な牙歯を持つ恐るべき神や、そのような歯で人を食う恐ろしい魚のことであったが、やがて鋭利な刀剣や鉏鋤が代表する威力ある鍛冶物をも意味するようになり、のちに朝鮮語との対応関係が習慣的に固定して鍛冶物のワニはサヒ、魚のワニはサメとも呼ぶようになった。

 してみると族称のワニは、鰐や鮫のトーテムとして理解しなくても、鍛冶師という社会的職能で解釈しうることになる。 

 なお角川源義「まぼろしの豪族和邇氏」(『日本文学の歴史1』一九六七年、角川書店)は、日子坐王を和邇氏が祭る日の神と見、同笵鏡の配布を日の神信仰の伝播とし、和邇の乙女が隠れた岡を「金鉏岡」という(雄略記)ことから、和邇氏が勢力下に〝製鉄工場〟をもっていたと想定している。論拠は異なるが、私見はこれに近い。” (山尾幸久著『日本古代王権形成史論』岩波書店  134頁)


by yuugurekaka | 2017-02-26 08:00 | 因幡の素兎

蛇のような線の絵が描かれた差物箱(弥生時代中期後葉)

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青谷上寺地遺跡展示館で土器や木工品に様々な生物が描かれているのを見た。
弥生時代は、蛇はまだ嫌われる存在ではなく神様だったのだろう。

様々な線が刻まれた

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上の長い線刻板は、船が描かれていると説明板に書かれていた。
右下の琴の天板や左下の指物板には、魚が描かれていた。
琴は6弦のようだ。魚というより、サメのようにも見えた。ここでの出土品で最も多いモチーフが
魚だそうだ。

サメと思われる絵が描かれた土器(弥生時代中期後葉)

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動物線刻琴側板(弥生時代中期後葉)

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3種類の動物が5匹描かれている。右側の角が巻いている動物は、羊との説があるそうだ。日本に
は当時はいなかったが中国にはいたようである。
しかし、うさぎの絵画が見当たらない。ここが因幡の国だから、うさぎの絵があってもよさそうな
気がして、展示してあるものを探したがそれらしい絵は無かった。

弥生時代の銅剣の絵に刻まれたサメの絵 鳥取県立博物館所蔵(安富コレクション)
銅剣の写真が展示してあった。

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どこで出土したか不明の弥生時代の銅剣であるが、サメの絵が一筆書きされた特徴から青谷上寺地
遺跡や周辺から出土した可能性が高いとのこと。
詳しくは→ 毎日新聞 弥生時代の銅剣 サメの絵画 サメ信仰、裏付け 地域色強い祭祀存在か /鳥取

銅剣も、琴も当時は祭祀の道具であったわけだし、それにサメが刻まれているとなると、サメは青
谷周辺に住んでいた氏族のトーテムだったのであろうか。
因幡の白兎のワニは、実は鮫であるという説が強いが、もしや、和邇氏の一族が住んでいたのか?
古代氏族の和邇一族は、大和国添上郡和邇が本拠地でそんなところに居ないという反論が聞こえて
きそうだが、2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説もあるよう
だ。→ ウィキペディア 和珥氏 



by yuugurekaka | 2017-02-23 22:27 | 弥生時代の遺跡

鳥取市の青谷上寺地遺跡(あおや かみじちいせき)のある遺跡展示館で弥生の古代米(朝紫という
名前の黒米)をいただいた。
ここの遺跡で出土した黒い米と、この「古代米」との関連性について、ほぼ同じ品種なのか後から
疑問になったけれど聞きそびれてしまった。
ちなみに「古代米」の定義は、→ ウィキペディア 古代米

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白米1合に小さじ1杯の黒米を入れて炊くように書いてあったが、うちの家には玄米しかないので、
玄米3合に小袋全部の黒米を入れて炊いた。
炊いたご飯は、赤飯みたいな色だ。黒米だけを箸で取って食べたら、味も小豆の皮のような味がし
た。(違うかも。)
玄米も味わい深いけれど、黒米を入れたら、さらに味わい深い。


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さて、これは現代人の食べ方であるが、弥生時代の人達はこういう食べ方をしていなかった。
青谷上寺地遺跡から弥生時代中期の木製のさじが数多く出土しており、蒸すのではなく、甕形土器
で水を加えて煮て、さじで食べられたのではないかと云われている。
蒸すための調理器具-甑(こしき)の出土は、まだ後代のようだ。(→ウィキペディア 甑 

青谷上寺地遺跡から出土した弥生時代中期ごろの米であるが、分析によれば、中国から直接日本に
伝わったものと、朝鮮半島をとおって日本に伝わったものが混ざっていたそうだ。

参考 ➡ 弥生ミュージアム  第四章 弥生時代の生活 2.食料
   ➡ 鳥取県埋蔵文化財センター 「弥生時代の米作り」



by yuugurekaka | 2017-02-22 12:55 | 古代遺跡