■ 物部神社からどこを通って出雲へ 


富家伝承本によれば、物部・豊連合軍は、物部神社を本陣として、小田を通り、神門水海の東岸で、

真幸が丘公園北方の多聞院辺りにあった西出雲の王宮を攻めていったそうです。

しかし、陸路で行ったのか海路で行ったのか何も記述がありませんので、様々な神社の祭神や、(旧)

市町村誌を調べて、自分なりに推理してみたいと思います。

推理というのは偉そうで、想像といったほうがいいのかもしれません。


(旧)市町村誌や神社の由緒をいろいろと調べて見ましたが、

物部・豊軍が、西出雲の王都を攻め滅ぼしたような伝承は一切発見できませんでした。

それは、記紀が「国譲り」で、出雲の方が自主的に国を譲ったということが書かれているわけですか

ら、それに反するような話は、許されず、まあ書かれていなくて当然と思われます。


しかし、司馬遼太郎氏が、物部氏が出雲大社の「兵器庫」の鍵を管理していたという話は、『簸川郡

誌』(1940年)という書物に書かれていました。


物部神社を本陣として出立して、どの道を通ったのだろうか?

大田市から出雲市までというのは、仙山峠などあり、なかなか険しい道です。一番たやすいのが、海

岸へ出て、船で出雲平野を目指す道です。

そうなると、大田市の波根港だろうか。波根港には、立神岩、立神島なる景勝地があります。

立神(たてがみ)は、海の遥かかなたから神霊が依りくる意味らしいのですが、

逆に神が出立したところではないのかしらなどと、想像してみました。まあ、そういう伝承もありま

せん。


しかし、出雲と石見という行政区は、かなり後代のことなので、石見と云っても出雲勢力の中を堂々

と行くのはかなり危険な道、物部神社がかなり大田市の南方なので、山間の谷川の険しい道をたどっ

て、田儀港まで出て、船に乗ったとも思えます。

田儀には、「手引ヶ浦」の伝承があります。もしや、物部氏の手引き?と思いきや、多伎芸神社の祭

神、大国主命の娘ー阿陀加夜怒志多伎吉比売命の伝説です。以下『田儀村史』(昭和36年、多伎村

役場発行)からの要約です。

  

  姫が、ある朝、父の杵築の宮に行こうとすると、海神が出立を惜しんで、津波を起こし引きとめ

  ようとしました。姫は、「私は今父君のおめしをうけて杵築の宮にまいろうとここまで来たので

  ある。早く波をしずめ潮をひかせて道を開かせたまえ」と言って浜辺を通ろうとされると、大波

  がピッタリ止んでしまい美しい白浜にかえりました。それで、お供の者たちの手を引いて真一文

  字に稲佐の浜にお急ぎになりました。そのいわれで、手引き浦というようになったそうです。


■ 小田神社


さて、なぜ海路からか、出雲へと私が思ったのかですが、田儀からまた東に行った所に、小田神社

という古社がありまして、元々は、社は海の中の鸕鵜島(うのしま)に鎮座していたという話から

です。なぜに、神社が海上の小島に? なにかのメモリアルとしか思えません。


小田海岸

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ここの神社の祭神は、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。
配祀神は、豊玉姫命、鵜葺草葺不合命、玉依姫命で、日向神話の祭神たちです。
富家伝承によれば、彦火々出見尊は、饒速日命と市杵嶋姫命の御子です。

改めて、日本書紀を確認しました。
ニニギノミコトー彦火火出見尊(またの名火遠理命、山幸)ーウガヤフキアエズノミコトー神武天
皇という系譜ですが、神武天皇の別名、「彦火火出見尊」とも書かれていて、混乱する記述となっ
います。

小田神社 拝殿と本殿 
島根県出雲市多伎町小田503


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■ 差海から神西湖ー神門水海へ

そして、海で西進し、湖陵町差海辺りにかけて上陸したのではないか…と。
湖陵町の差海川を上って行くと、現在の神西湖(出雲風土記時代の「神門水海」)につながります。
ここの差海に鎮座する神社の祭神は、建御雷神、経津主神で、社伝によれば、国譲りに際して、「
須々美降リ玉ヒシ地ナルヲ以テ須々牟トイフベキヲ、後世佐志牟ト云へルナリ」ということです。

当地に上陸し、「須々美」(すすみ)が「須々牟」(すすむ)となり、「佐志武」(さしむ)とな
ったらしい。出雲地方の神社名は、「ほとんど意味不明」なので、こういう現代語の転訛で説明さ
れるとなんか違う気がします。また、この神社名の「佐志武」から地名の「差海」(さしうみ)に
なったそうです。

佐志武神社 
島根県出雲市湖陵町差海891

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佐志武神社 本殿と拝殿

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この差海から対岸の方向から(東北方向)から写した現在の「神西湖」(じんざいこ)の姿です。
神西湖は、古代の「神門水海」(かんどのみずうみ)の名残りです。
弥生時代には、斐伊川は宍道湖ではなく神門水海を流れていました。

出雲大社の前は、今のような広い平野ではなく、神門水海という大きな湖があったようです。
 
神門水海の名残 神西湖 

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差海からいったん上陸し、また船で知井宮の真幸ヶ丘(旧 山崎ヶ丘)の裏手に回ったのではない
のだろうか。そこから、智聞院遺跡の辺りにあったとされる西出雲の王宮に侵入したのではないか
しら。まあ、想像の域を超えることはありません。

弥生時代の神門水海
「神西湖親水公園」の看板に、私が黒字の地名を加工したものです。 


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その後どうなったかについては、過去記事へ。→神門臣の拠点はどこだったか? (4)西出雲王国滅亡の時

真幸ヶ丘から見える古志の街並み

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真幸ヶ丘に鎮座する智伊神社

元々は、神宮寺の智聞院にあったという。
富家伝承本によれば、宇佐家の菟上王が建てた神の宮とは、出雲大社ではなく、出雲王宮跡に建てた智伊神社だそうで
ある。


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by yuugurekaka | 2017-01-28 20:41 | 出雲王朝の崩壊

雪が降りました。

昨日まで降っていた雪が、ようやく止みました。
昨日は、人様の家の雪かきで体がぐったり、今朝は腰が痛くなって歩けないのではないか…と
少し心配しましたが、ちょこっと痛いだけで、歩くのに支障はありませんでした。

自分の家はどうかというと、
車の上に40センチぐらいの雪が積もっておりまして、
車も出せる状態ではないです。(やっと、今日 家の前の雪かきができました。)
だから、職場まで5キロぐらいあるのですが、歩いて行ったのです。
車で行けない程、積もっているわけではないですが
他の車のトラブルに巻き込まれたりするのが、まあわずらわしい。

1時間早くでればなんとかなる
すべったり、車が進まなかったり、そういう不確定要素が、最近は嫌のようです。
運転も不安ですが、体も不安です。

変形性膝関節症、頚椎症…と、ことあるごとの病院での診断に、がっくりときます。
それに今年は、また内視鏡の検査に行かないといけない年…。
60を前にして、だんだんと自分の体に用心深くなっています。

手嶌葵 - 明日への手紙


最近のお気に入り動画です。
ドラマの主題歌だそうですが、ドラマは見ていません。
手嶌葵さんの声が最近好きになって(ジブリの映画のファンではないです。)
CDを借りて、車の中や家で一緒に歌っています。
前向きな歌詞ですが、なんか、はかない気持になります。
この動画に出てくる、女の子がお人形さんと一緒に食べるシーンが寂しそうですが
(熊さんの人形だとずっと思っていましたが、よく見るとネズミさんであることがわかって、び
 っくりしまして、恥ずかしくなりました。)
自分の今の生活となんら変わらない気がします。

※このミュージックビデオは、ドラマの1シーンではなくて、ミュージックビデオのために作られ
 たものらしいです。
 

はて?なんでこんな人物がこういうブログを書いているのかですが、
もう十年も前になりますか、鳥取県の大学病院に2か月入院していて
退院後も、1か月おき2か月おきで通うことになりました。
そうしていると、鳥取県には、大国主命の再生神話の伝承地が多いということを発見しまして
行ってみたくなりました。

それを日常生活のブログの中の一つのコンテンツとしていました。
難病のブログでしたが、治ってしまったので、もう場違いな気がしまして、
今のブログのコンテンツだけ残しました。

昔はたんなる神社訪問記だったのです。
しかし、自分がなんで書いているのか、自分でも疑問になってきました。
だが書き続けているうちに、
自分の心のうちの一つの棘かなーと思うようになりました。
死ぬまで抜いておこうと。
だから、あんまり神様の「ありがたい話」はありません。

戦前、戦後のどちらも歴史に対して、自分には不信感があります。
大国主命も事代命も神話でしか過ぎず、
出雲王朝など、ヤマト王権を高めるためにつくられた大ウソである
云われてきた歴史です。


by yuugurekaka | 2017-01-25 22:38 | 日記

■物部の祖神を祀る神社


物部神社 島根県大田市川合町川合1545

※ 最近の画像ではありません。


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久しぶりに司馬遼太郎の『生きている出雲王朝』(『歴史の中の日本』所蔵 中公文庫)をあけて

見ました。(ここに、司馬遼太郎氏の出雲王家の末裔である産経新聞社時代の同僚W氏のことも書

かれているのですが、富家伝承本とはかなり違ったことが書かれてことに改めて気づきました。)

それはさておき、物部神社のくだりに。


“この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられた

 のではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前期の天穂日命など

 のころよりずっとくだり、崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物

 部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫の

 カギをここで預かっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来たものがあり、物議をかもしたこ

 ともあったという。”             (司馬遼太郎著『歴史の中の日本』中公文庫)


司馬遼太郎氏の云うところは、日本書紀の崇神天皇時代における出雲神宝問題に関わる出雲振根討

伐の話から発想されたものだと思います。そのときは、物部武諸隅が登場します。その次の垂仁天

皇には神宝検校役として、物部十千根が出てきます。

また石見国造は、景行天皇より、物部竹子連が石見国造として命ぜられて以降、物部氏が国造家だ

ったようです。


出雲国の監視のための軍事施設という説ですが、この物部神社は、出雲の国よりかなり離れていま

す。出雲の国の境には、多伎町田儀から、仙山峠という長い峠があり、朝山を越えて、大田市内か

ら三瓶山に向かったところにあります。出雲を攻め込むための軍事基地というならわかりますが、

監視目的だとちょっと場所が遠い気がします。


物部神社拝殿

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■祭神 ウマシマジ命

ここの祭神は、饒速日命と長髄彦の妹である三炊屋媛の間の御子とされるウマシマジ命(『日本書
紀』表記では、「可美真手命」、『古事記』表記では「宇摩志麻遅命」)ですが、社伝によれば、
天香具山命と共に物部の兵をひきいて尾張・美濃・越国を平定した後、播磨・丹波を経て石見国に
入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の賊を平定し、ここの八百山の麓に宮居を築き、この地で没し
たといいます。また、異母兄の天香具山命は新潟県の彌彦神社に鎮座したとのことです。


ウマシマジ命は、鶴に乗って石見国の鶴降山(つるぶさん)に降臨したとの伝承がある。

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この饒速日命の子…というのが、大きく時代考証を混乱させます。
彦火明命ー天香具山命ー天村雲命の海部・尾張氏の系譜を記紀は消し去り、神武東征(物部氏)の
話を挿入するわけですが、実に二度の「はつくにしらすすめらみこと」が物部氏で、それよりも前
もやっぱり物部氏だった…という話の落ちです。

大国主命や事代主命と同時代の人物を登場させることにより、「国譲り神話」をすべて疑わせるよ
うな展開です。ウマシマジ命が饒速日命の時代に出雲を平定するならば、そもそも国譲りなどする
必然性もないのです。

富家伝承によれば、長髄彦は、第八代孝元天皇の御子ー大彦命(父族祖天香具山命や母族祖ー事
命)であり、物部氏の東征に抗して、最後まで闘ったけれど、琵琶湖の東岸に逃れ、最終的に
北陸に移住したという。その子孫には、後に若狭(福井県)国造になった膳臣(高橋氏)や、高
国造になった道公家があるとのことです。なお、記紀では、大彦命(おおびこのみこと)は崇神
天皇の派遣した四道将軍として名前が出ています。

となれば、葛城王朝の末期の後代の話であり、葛城王朝もろとも出雲の王朝も崩壊させられたとい
うことでしょう。
どこの経路を通って、西出雲の王都を攻め入ったのでしょうか。

by yuugurekaka | 2017-01-18 19:47 | 出雲王朝の崩壊

稲佐の浜(いなさのはま) もしや奈良時代の話?


出雲大社より西へ1キロ行った所にある稲佐の浜です。ここが「国譲り神話」の舞台となっており、

大国主命に経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神の二神が、「国譲り」を迫ったと云われてい

る浜です。また経津主命は、物部氏の神で、甕槌神は中臣氏(藤原氏)の祭神であると云われて

います。


稲佐の浜 島根県出雲市 大社町杵築北稲佐


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しかし、同じ記紀に、天照大神のかなり後の子孫が東征をして、大和入りし、事代主命の娘や子孫

母族として、ヤマト王権を造るという大きく矛盾した話を載せていることを考えると、この国譲

り神話は、いったい何を意味しているのでしょうか。


史実ではないことはもちろんですが、記紀が書かれた時代のことを考えると、これは弥生時代の話

はなくて、もしや持統天皇の時代のことを言っているのではないかという思いが浮かびました。


よく言われることですが、天照大神のモデルは、天武天皇の後を継いだ女帝、持統天皇だとされて

ます。和風諡号の一つに「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)とあ

ります。→ウィキペディア 持統天皇


そうして考えていきますと、この「国譲り」を迫る経津主命のモデルは、石上麻呂(物部麻呂)で、

甕槌神のモデルは、藤原不比となります。

この二人、元明天皇の時代には、左大臣、右大臣を任じられています。


しかし、物部氏や中臣氏は、共に壬申の乱で天智天皇の太子・大友皇子側の忠臣です。壬申の乱で、

敗北した側ですので、本来は没落していっても不思議はありません。

天武天皇の側には、いわゆる出雲系豪族というか、葛城王朝系豪族の尾張氏、三輪氏、鴨氏などが、

(三輪君高市麻呂、尾張宿禰大隈、鴨蝦夷…)ついています。


しかるに、天武天皇の死後、大津皇子が謀反の疑いをかけられ自害させられるなど、謀略めいた事件

もあり、結局のところ、天智天皇の系統が、持統―文武ー元明…と続くのです。あの壬申の乱は一

体全体なんだったのでしょうか。

そして、物部氏や中臣氏は、没落するどころか、持統天皇、元明天皇に仕え、出世しています。「国

譲り神話」とは、天武天皇ー葛城王族達から、朝廷を奪い返したという隠喩なのかなあ…と。

さて空想は、このぐらいにしておきます。

 

薗の長浜 大社町の「稲佐の浜」から出雲市長浜にかけての砂丘

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一説によれば、「稲佐の浜」を、古くは、出雲大社前の浜だけではなく、はるか西方の田儀浦まで

を言ったようです。

物部・豊連合軍(物部氏+宇佐氏)は、杵築の浜では無く、もっと西の浜から上陸したのではない

だろうか。



by yuugurekaka | 2017-01-16 16:56 | 出雲王朝の崩壊

大和三山と 阿菩大神

■阿菩大神と播磨風土記 


西出雲の王墓群で有名な西谷墳墓群を斐伊川をはさんで、向こう岸の少し南に行った所に、播磨風土

記に出てくる阿菩(あぼ)大神を祀った伊佐賀神社があります。江戸時代は「伊保神社」と云われて

います。下の地図で伊保とある地名の所の神社です。

あれれ、対岸の船津町の下に、漢字は違いますが、九州の豊国の始祖、菟名手と同じ名前の地名が見

ますね。


国土地理院地図より

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現在の神社名は、伊佐賀神社ですが、『出雲国風土記』(733年)では、「加佐伽社」の比定されてい

ます。しかし、延喜式神名帳(927年)では、伊佐賀神社としての名前があります。

神社名自体がなぜ変わったのか、よくわかりませんが、出雲国造家第3世に「伊佐我」の名前もあり

す。


伊佐賀神社 島根県出雲市斐川町出西544
※ 最近写した画像ではありません

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伊佐賀神社の石段
かなり急な石段で、降りる時てすりをもっても不安でした。

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ここの神社の説明板によると、「揖保ふりきりの神」から「いぼふり神」となり、「伊菩→伊保大神」

となったと書かれていました。


私は、耳にしたことはありませんが、谷川健一著『列島縦断地名逍遥』(冨山インターナショナル発

行)によれば、出雲方言で、不服を言う事、不満に思い立腹して立ち去ることを“いぼをふる”と

うらしい。


さて、播磨風土記では、どのように書かれているのでしょうか。

〝播磨風土記 揖保の郡 上岡の里

出雲の国の阿菩大神が大倭の国の畝火・香簗・耳梨の三山が闘い合っているとお聞きになった。そこで
諫め止めようと思われて、上がって来られた時、ここに到って、闘いが止んだとお聞きになって、その
乗っていた船を覆せて鎮座した。だから、神阜と名づけた。丘の形は、船が覆ったのに似ている。〟
     (中村啓信 監修・訳注  橋本雅之 現代語訳 『風土記 上』  角川ソフィア文庫)

ここの話から思うに、
ヤマト王権の豪族の争い(山の争いは豪族の争いではなかろうか)に、出雲の王が出向いて、仲裁
だけの力があったのだろうということです。
富家伝承本によると、倭国大乱の時代、出雲族が治めていた播磨国は、アメノヒボコ族に取られ、そ
後、孝霊天皇・吉備津彦がアメノヒボコ族を攻め入って、出雲まで攻められたことになっているの
で、出雲美作道を通って仲裁に行けたのは、かなり、初期の時代のことだと思います。

揖保の地名が、阿菩大神の名前から来ているかと思いきや、葦原志許乎(大国主命)とアメノヒボコ
の逸話から、米粒の落ちた「粒丘(いひぼおか)」から「いぼ」が来ているのだそうな。
でも、阿菩(あぼ)から揖保(いぼ)になったことも考えられるし、もともと、いぼおおかみであり、
付けで揖保→阿菩の可能性もあるのではないかしら。そもそも弥生時代の話を奈良時代の書物で判
断すること自体に無理があるように思います。


■ 中大兄皇子 大和三山の歌

さて、この播磨風土記に出てくる大和三山の争い事と、その調停をしようと出雲からやってくる阿菩
大神の話は、有名な万葉集の中大兄皇子(なかつおほえのみこ)〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕
の三山(みやま)の歌にも出てきます。

一説には、天智天皇と天武天皇が、額田王との三角関係を歌ったものだと云われています。さて、ど
うなのでしょう。

大和三山の詳細については→ ウィキペディア 大和三山

藤原京から見る 天香久山(あまのかぐやま) 標高は152.4メートル
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〝巻1-13
 香具(かぐ)山は畝傍(うねび)を男々(おお)しと 耳梨と相諍(あらそ)ひき。
    神代よりかくなるらし。古(いにしへ)も然(しか)なれこそ、うつそみも、妻を争ふらしき 
 
 昔女山なる香具山が、同じ女山なる耳梨山と、畝傍山を男らしい山だ、と奪い合いをしたというが、
 恋の道にかけては、神代からそうだったのに違いない。(その後、人の世になって、幾千年経ってい
 るが)昔の神々も、そうであった所からして、肉身の人間も、配逑(つれあい)を取りあいするのに
 違いない。(この御製をもって、額田ノ女王を争われた、自己弁護の如く解する古来の学者の考えは、
 おそらくは誤解で、天皇にはそうしたお考えもなく、ただ三山の妻争いの伝説から、一般社会のこと
 を述べられたものと見るがよかろう。)
                    (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)
 
 
 藤原京から見る耳成山(みみなしやま) 標高は139.6メートル

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〝巻1-14
 香具山と耳梨山(みみなしやま)と争(あ)ひし時、
                       立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)

 香具山と耳梨山とが、夫(つま)争いに対抗しておった時分に、それをわけるために、わざわざ、
 雲から阿菩ノ大神が出て来られたという、ここがその印南の平原である。〟              
                     (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)


藤原京から見る畝傍山(うねびやま) 標高は198.49メートル

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私が、藤原京を訪れたときは、藤原京の中にあるグラウンドで、少年野球大会が開催されておりまし
た。それと、コスモスの撮影会なるものも催されていました。
私は、持統天皇時代の都を想像しつつ、大和三山の争いはいったい何を意味しているのかを考えなが
ら、ゆっくりと歩きまわりました。
以下 単なる私の想像です。

中大兄皇子の時代の神代とは、おそらく、葛城王朝の初期段階の話であったろう。
天香久山は、尾張氏の先祖である天香具山命の名の山でもあり。持統天皇は女帝ではあるが、男の天
皇が初期は多いので、たぶん男山であろう。そうなると、あの耳成山は、どこかの王家を指すので
ないか。
畝傍山だが、大和の出雲族ー磯城登美一族は、もとは、三輪山の前ではなくて畝傍山の背後の葛城山
方面にいたそうなので、磯城登美一族のお姫様をめぐっての争いだったのではないか。


■ 拝殿の前の丸石 

さて、話は伊佐賀神社にもどります。

伊佐賀神社拝殿前の丸石

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拝殿の前に丸石が置かれておりました。ちっちゃな狛犬が丸石を守るように相対しています。
西谷3号墓の「石主」を思い出しました。
案外、ここの神社も古墳の上に神社があるのではないかななどと想像しました。
阿菩大神の霊魂の依代なのかも。


西谷3号墓の石主

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〝第4主体の土器を取り除いていくと、玉砂利が出てきました。さらに掘り下げると、窪みの底から、
水銀朱で赤く塗られた円礫が出土しました。ちょうど遺体の上半身の真上あたりでした。〟
〝これらは、霊が憑依した依代、つまり「石主」だったと考えられます。〟
                         (出雲弥生の森博物館の展示説明板より抜粋)

玉(たま)は、魂(たましい)なんですね。
※西谷三号墓は弥生時代の終わりごろに造られた東西40m、南北30mの大形の四隅突出型墳丘墓
す。


■ 阿菩大神は何代目オオナムチか?

神社の説明板には、「御系統は不詳であるが・古史成文古史系図には焼太刀守大穂日子命として記載
されている。」とあります。この「古史成文」「古史系図」とは、平田篤胤の著書のようです。平田
篤胤 古史系図(1815年)で確認してみた所、「焼太刀守大穂日子命(やきたちひもりおほほびこの
みこと) 出雲国阿菩大神是呼」とあり、鹽冶毘古命(やむやびこ)の御子と記載してありました。
延喜式神名帳(927年)でも、出雲国神門郡に鹽冶日子命御子燒大刀天穗日子命神社とあります。

伊保神社(伊佐賀神社)略記 

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富家伝承本、の系図によれば、味鋤高彦御梶姫(アメノミカジヒメ)の御子である塩冶彦の御子に、
「速甕之建沢谷地乃身」の名前があります。

斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)からの系図抜粋

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この「速甕之建沢谷地乃身」が、「焼太刀守大穂日子命」と同じかわかりませんが、この神は大国
主命から数えて、4代目で、オオナムチ11代目です。その頃はいまだヤマト王権にも、力があった
ように思えます。
となれば、大国主命の「国譲り神話」とは、矛盾したものとなります。

by yuugurekaka | 2017-01-07 15:27 | 出雲と大和