お隣の鳥取県にある日吉津村(ひえづそん)に行ってきました。

日吉津村は、米子市に囲まれた鳥取県唯一の村です。

イオンモール日吉津もあり、映画も松江市よりはいろいろ見れたり、お笑い芸人もよく来たり

しますので若い人たちは、松江市からもよく行くようです。

日野川の流域の東側に位置します。

最近雨ばかり降っていましたが、久しぶりに雨が止みました。しかし、曇り空でした。

日野川の土手から、大山を写しましたー。


日吉津村から見える大山

e0354697_09422484.jpg

なぜに日吉津村に来たかというと、

このごろは、斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』を神社・遺跡巡りのガイドブックにしている

のですが出雲国造神賀詞(かんよごと)に出てくる神様、「賀夜奈流美命」のことが載っていま

して、鳥鳴海命(9代目大穴持)が日吉津村の地名である「蚊屋」に祀られたから、賀夜奈流美

命とも呼ばれるようになったと書かれていました。※賀夜奈流美命は、大和の飛鳥坐神社の祭神

その祀られている神社が、日吉津村の蚊屋島(かやしま)神社だというので、参拝したくなり来

てみました。

かなり立派な社殿でした


蚊屋島神社  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354

e0354697_09425489.jpg

現在の祭神です。


祭神 天照皇大神、高比売命(たかひめのみこと)

合殿=豊受姫命、大年神、天萬栲幡豊秋津姫命、天手力雄命、天若彦神

合祀=級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、素盞鳴尊、大己貴命、事代

主神、金山彦神


しかし、残念ながら、現在は「賀夜奈流美命」の名前は見えません。

おかしいなと思い、過去の事柄が載っている、

『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年発行)を見てみました。



拝殿の額と龍の彫刻 
拝殿と向拝の上部に3体の龍が彫られており、
江戸中期松江藩の木工方「小林如泥」の晩年の作と伝えられているようです。

e0354697_21114886.jpg

“ 創立年代詳ならざれども、当社は旧天照高比売命を祀りしとの口碑あり。

 然るに社領証文を始め棟札及び神主裁許状などによれば日吉津村大神宮とも伊勢宮とも、

 又後には天照皇大神宮とも記して、専ら天照皇大御神を祀りしが如くに見ゆ。

 是れ天照の字に泥み天照大御神と思ひ誤りて大神宮とも伊勢宮とも唱えしものか。

 此故にや美濃村旧家進氏の雑集紀に「日吉津大神宮」の祭神往古と今と相違有之」と云えり。

 かく祭神に相違を来たせしも古よりの口伝の捨て難くてか、嘉永の社帳以後は天照高比売命

 をも合せ祀りしものと思はる。

 伯耆誌に「郡中顕要の社なり社殿に祭神 天照大御神豊受姫命と記し、衣川氏の作るれる祝詞

 も(田蓑日記に見ゆ」右の趣なれど確徴ある事を聞かず、又天乃佐奈咩神と称するは前年或人

 三代実録に因りて設けたる説なりと云へり。

 今按ずるに三代実録に元慶七年十二月二十八日庚申伯耆国正六位上天照高丹治女神云々授従五位下と

 ある神にはあらざるか。

 此神は古事記伝に大己貴命の御子高比売(一名下照比売命)にやとあり。

 若し然らば天照の文字より誤り伝へて後世伊勢大神宮と称するにや、此他考ふる所無し」と云えへり。

 又旧神職田口家氏の伝へに、代々弓射る事と雉子の肉を食ふ事を厳く禁ず(当社の氏子鹿の肉を食はず

 との伝もあり)

 之れ天若彦の古事に因みてなるべし。

 今上の祭神より考ふるに豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見

 命、猿田彦大神、 天太玉命、神倭姫命は天照大御神を主神とせるより祀りしなるべく、大己貴命、

 事代主神、賀夜奈流美神(以上嘉永以後の社帳に拠る) 

 天若彦神は天照高日女神を主神とせるより合せ祀りしものならんか。

 されば当社の祭神は昔は天照高日女神なりしを、何時の頃よりか誤り伝へて天照大御神と変りしも、

 古き伝への捨て難く天照高丹治女神をも合せ祀ることとなりて主神二柱となりしならんかと云へり。”

 以下略


「賀夜奈流美神」の名前確かにありました。

ところで、現在「天照皇大神、高比売命」の二神を祀っていますが、

元々は、「天照高比売命」を祀っていて、

「天照」の冠がついているので、「天照大御神」と誤ったのではないかと。

そして、本当の祭神は三代実録に載っている884年頃の「天照高丹治女神」のことではないかと。

「天照高比売命」「天照高丹治女神」、この神は、

まぎれもなく、丹後国一宮の籠神社(京都府宮津市大垣)の祭神「彦火明命」(天火明命)の妻

神 高照姫(別名 天道日女命)ではないですか。

「天照高丹治女神」の「高」は「高姫」の「高」、「丹治」は「丹波を治める」だと思うのです。

この高照姫は、「海部氏勘注系図」によると大己貴命(おほなむち)の娘となっています。


そういえば、天火明命も別名「天照国照彦火明命」で「天照」の冠が付いています。 

本殿


e0354697_21121900.jpg

続く

by yuugurekaka | 2016-11-27 21:25 | 高照姫 (天道日女命)

ところで、野見宿禰の角力の相手方とされ当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや)葛城山
の麓、當麻の地ですが、アメノヒボコを祖とする神功皇后(じんぐうこうごう)を輩出した葛城氏
族のいた場所です。葛城氏に、始祖アメノヒボコの但馬氏が…と混乱しそうな話です。
野見宿禰が打ち負かしたアメノヒボコ族は、ここ葛城山の麓で、葛城氏と同族化して子孫が花開い
たのです。

“そののち三代はすべて多遅摩氏を名乗っているから、これらは皆、多遅摩母家に生まれ者であろう。
然るに清日子に至って、長駆して当摩の咩比に婿入して酢鹿之諸男、妹竈由良度美と云う一男一女
を生んだ。…中略…但馬氏の清日子が葛城氏に来って生んだが葛城氏を承けて名乗り、又葛城の地に
住むことは母家本位の当時の制度にあっては、至極当然なことであって、その清日子の女に、更に清日
子の兄比多訶が来って婚した結果の所生が葛城之高額姫であるのも固より自然である。葛城之高額姫は、
その御名に御母の族を承け、その御居も亦御母の地葛城に坐すことが窺われるのである。”
                      (高群逸枝 母系制の研究 (上) 講談社文庫42、43頁)

                 
※ 葛城之高額姫…神功皇后の母親 
下線、赤色は私。
                      
■ 初瀬(はせ)の起源

奈良県桜井市初瀬は、現在長谷寺周辺を言いますが、元々は三輪山南麓、巻向山南麓を含む、大和川
上流(初瀬川)流域の地域です。
明治以降の歴史を見てみますと、1889年(明治22年)4月1日、式上郡 初瀬村、白河村、出雲
穏村、柳村、角柄村が合併し、式上初瀬村が成立。その後初瀬町となりますが1959年(昭和34
年)2月23日、桜井市に編入され、瀬町は無くなります。

この初瀬の名前の起源ですが、古くは泊瀬(はつせ)と呼ばれ、大和盆地に流れる大和川の河口
近であり、上古の時代の船着場(泊瀬)からきているようです。
また、この地域は、大和川上流の初瀬川を囲む長い谷となっており、東に長谷寺(はせでら)があ
り、そこから長谷(はせ)と呼ばれるようになったとの説もあるようです。


初瀬観光センターにあった地図を抜粋させてもらいました。
巻向山の麓に「出雲」の地名が見えます。

e0354697_01051359.jpg


ここまでが通説ですが、泊瀬でよばれていたであろう奈良時代より前の時代も、果たしてそうだっ
たのでしょうか。
ここの地域は、野見宿禰が祖の土師の里だったことを考えると、土師(はぜ)から、その転訛して、
「はせ」と呼ばれるに到ったのでないだろうかと思うのです。
土師は、「はじ」と読むのが正しく、「はぜ」と読むのは間違いであるという反論が成り立つと思
いますが、播磨国の土師の里は、実に土師を「はぜ」と読ませるのです。信原克哉著『相撲の始祖
 野見宿禰の墓屋』(ブックハウスHD発行)によると、現住所名の兵庫県たつの市揖西町土師
けでなく、鈴鹿、堺、福知山、香寺なども同じく「はぜ」と呼ぶのだそうです。
漢字自体が、かなり後代になって入ってきたわけですから、もともと、土師も当て字であったはず
で、大昔(弥生時代や古墳時代)はどう読んでいたか、はっきりしないのだと思います。


初瀬川(大和川)

e0354697_01053746.jpg

■ 奈良の出雲(いずも)の地名

近鉄線長谷駅で降り、西に歩いて約20分で、出雲の地名にたどり着きます。
ここに野見宿禰の墓と伝わる古墳があったのです。

歩道橋に見える出雲の地名  桜井市立桜井東中学校に向かう歩道橋

e0354697_01050374.jpg

三輪山の周りには、ここ出雲村(現在は、桜井市出雲で、村名ではありません。)だけではなく、
中世には、狭井神社の北方にある「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」付近の「出雲屋敷」や三輪山
の北西の桜井市江包を中心とした「出庄」なる荘園の名前に残っていました。

私思うに、ここの出雲の地名は、「出雲国」の地名とは直接関係が無く、出雲の姓氏をもった豪族
が住んでいた足跡ではないのだろうかと思います。
しかし、新撰姓氏録(815年)によれば、大和には、出雲臣などの姓氏は見られません。
でも、垂仁天皇の頃、出雲氏の「本姓を改めて」、土師宿祢の姓氏となったのだから、大和の出雲
氏は消滅したのかもしれません。あるいはまた、京都に都が移ったのに伴い出雲臣は移住して行っ
たのかもしれません。

そもそも、大和の地元に住んでいた出雲族(大国主命や事代主命を祖と仰ぐ豪族)は、出雲の姓
名乗っていません。
たとえば、「新撰姓氏録」の大和国の「神別」を見ると以下の通りです。

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
天孫  土師宿祢   天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也  
天孫  贄土師連   同神十六世孫意富曽婆連之後也
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也 
地祇  和仁古    大国主六世孫阿太賀田須命之後也 
地祇  長柄首    天乃八重事代主神之後也  

なんで事代主命が天神なのかと怒りだす人がいるかもしれませんが、初期ヤマト王権の皇后を輩出
した母族であるので、母族の氏祖ー事代主命を天神として奉ったとして、そう不自然なことではあ
りません。

上記「新撰姓氏録」はわかりやすい系譜であって葛城王朝の王家(尾張氏や葛城氏等)と姻を
結んで、始祖変更した豪族もいれると、どれだけの氏族が、出雲族と関係した氏族なのかわかりま
せん。

さて、ここの出雲の姓ですが、戦後の歴史家の通説では、天穂日命を祖とする出雲国造家の氏姓の
みをいいますが、私の前回の記事の通り、事代主命を祖とする出雲氏もいたと思います。

先に出雲国とは直接関係ないと書きましたが、
はなから大和の地元の出雲族の豪族が、出雲姓を名乗ってないところを見ると、東出雲の豪族が移
り住んでいたんではないか。(大国主命の系統が、出雲国においては出雲臣ではなく、神門臣を名
乗っているとこをみると、事代主命の系統ではないのかしら。)


■ 野見宿禰の墓

桜井市出雲の地区の神社として、十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)が、巻向山の南麓に鎮座
ています。

十二柱神社 桜井市出雲650 

e0354697_01045509.jpg

ここの神社には野見宿禰の五輪塔があります。
祭神は、数えると16柱ではありますが、7代+5代で12なのでしょう。

神世七代の神
国常立神(くにとこたちのかみ)、国狭槌神(くにのさづちのかみ)、豊斟淳神(とよむくのかみ)、泥土煮・沙土煮の
神(うじに・すじにのかみ)、大戸之道・大苫辺の神(おおとのじ・おおとまべのかみ)、伊邪諾・伊邪冊の神(いざな
ぎ・いざなみのかみ)、面足・惶根の神(おもたり・かしこねのかみ)
地神五代の神
天照大神(あまてらすおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火日
出見尊(ひこほほでみのみこと)、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

野見宿禰も大物主も現在は祀っていませんが、祭神は時代によって変わるものです。ここの出雲の
伝承では、大昔は神殿が無く、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1,700mの嶺の上にあった古
の出雲集落地)の磐座を拝んでいたようですので、もともとは三輪山の山の神を拝んでいた社で
ったのかもしれません。吉野裕子氏によれば、山の神と12という数は密接に関係しているらし

狛犬を支えるお相撲さん
十二柱神社の入り口にある二基の狛犬は、文久元年(1861年)の作。
4人のお相撲さんが、異なった姿で抱えています。

e0354697_01063273.jpg

ここの境内には、野見宿禰の五輪塔があります。
花崗岩の粗造りで鎌倉時代のものらしい。
となれば、最低でも鎌倉時代には、野見宿禰の墓信仰が既にあったことになります。
この五輪塔は、もともとは野見宿禰の墓との伝承のある古墳から運ばれてきたようです。
神社に五輪塔…どうやって拝んでいったらいいか、ちょっと頭が混乱してしまいましたが、仏式で
手を合わせて拝みました。
古い神社には、参道の入り口や、境内の境界のところに、よくお地蔵さんがあって、柏手は打たず
に拝むのですが、いつもの通りです。

境内にある五輪塔


e0354697_01042762.jpg

ここの神社は、第25代武烈天皇 泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)伝承地でもあります。日本
書紀には残虐非道な行いばかり書かれているけれど、ここの土地にあるということは、出雲族も支
えたんでしょうか?

武烈天皇泊瀬列城宮伝承地 石標と説明板

e0354697_18253868.jpg


十二柱神社の参拝が終えて、五輪塔が元々あった古墳のあった出雲村字太田(ただ)へ行ってきました。

日本書紀では大物主命の子とされる大田田根子(おおたたねこ)ー実際はかなり後代の子孫であろ
ー の「田田(たた)」と関係はありはしないかなどと勝手な想像します。
大正九年(1920年)に到って古墳の土は取り除かれ現在のような平坦な状態になったとのこと
です。古い絵図では、おおざっぱな円墳が描かれていましたが、本当に円墳なのか定かではないと
いうことです。

今はひっそりと、野見宿禰塚跡 の石碑が田んぼの中にありました。



e0354697_01062480.jpg




参考文献

池田雅夫著 池田雅之・谷口公逸編 『野見宿禰と大和出雲』 彩流社
信原克哉著『相撲の始祖 野見宿禰の墓屋』 ブックハウスHD
高群逸枝著 『母系制の研究』講談社文庫 
鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社学術文庫
鳥越健三郎著『神々と天皇の間』朝日新聞社
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版
斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版


by yuugurekaka | 2016-11-20 20:10 | 野見宿禰

額田王歌碑前から見える三輪山


e0354697_13471610.jpg


■出雲族は初期ヤマト王権の母族


垂仁天皇の命により出雲国より召し出され大和にやってきた野見宿禰をテーマをするにあたり、話の
成り行き上、舞台となった大和に行かないと話が進みません。
朝4時に起きて電車に飛び乗り、JR三輪駅についたのは、11時過ぎでした。
一番驚いたことは、三輪駅というのが無人駅だったことです。行くまで頭に描いた三輪駅のイメージ
は、大神神社(おおみわじんじゃ)の参拝客でごったがえす大きな都会の駅だったのです。
逆にほっとしました。人が多いのは苦手なのです。駅前のかなり伝統ありげな三輪ソーメン屋さんで
早めの昼飯を食べて大神神社の参道を歩いていきました。

大神神社 二の鳥居  

e0354697_13495368.jpg

大神神社 拝殿   奈良県桜井市三輪1422

e0354697_13501278.jpg


この大神神社の祭神 大物主命ですが、『古事記』『日本書紀』では、確か「少彦名命」「事代主命」
だったと思うのです

でも自分が読んだ古代史の本には、そういうことは殆ど書かれていなくて、改めて『日本書紀』を読ん

みましたが、やはりそう書いてありました。


大己貴神と少彦名命の項の本書の抜粋ですが


“大己貴神が「そうです。分かりました。あなたは私の幸魂奇魂です。今どこに住みたい住みたいと

思われますか」と。答えていわれる。「私は日本国の三諸山に住みたいと思う。」と。そこで宮をそ

の所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神のみ子は賀茂の君たち・大三輪の

君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫である。別の説では、事代主神が、大きな鰐になって、三島の溝樴姫、

あるいは玉櫛姫という人の所に通われた。そしてみ子姫蹈鞴五十鈴姫命を生まれた。これが神日本磐

余彦火火出天皇(神武天皇)の后である。…中略…

すると高皇産霊尊がお聞きになって、「私が産んだ子は皆で千五百程ある。その中の一人の子は、い

たずらで教えに従わない子がいた。指の間からもれ落ちたのは、きっと彼だろう。可愛がって育てて

くれ」といわれた。これが少彦名命である。

                (宇治谷 猛 訳『日本書紀(上)』  講談社文庫52頁53頁)


ここで「別の説では」と書かれておりますが、

日本書紀の別の項で、神武天皇の正后は事代主命の子、姫蹈鞴五十鈴姫命ということが書かれて

いるので

三輪山の祭神=大物主命=少彦名命=事代主命は、疑いのないことだと思います。

ただ、少彦名命は、大国主命の「幸魂奇魂」ということも書かれており、

三輪山の神は、大国主命と上書きされるにいたり、なんだか手の届かぬ神話的存在となっていま

す。


さて、(『日本書紀』本書によれば)事代主命に系統のお妃は、神武天皇の皇后にとどまらず、

二代綏靖天皇の五十鈴依姫(事代主命の次女)、三代安寧天皇の渟名底仲媛(事代主神の孫ー

鴨王の娘)というように三代に渡ります


ここから、察するに、事代主命の系統は、初期ヤマト王権(葛城王朝)の后を出身する母族で

あったのでしょう。だから、記紀の「国譲り神話」にあまり重きを置くと、出雲VS大和にな

ってしまいますが、初期においては、むしろ、磯城において出雲族は天皇家を支える豪族であ

ったということになります。


しかし、『日本書紀』(本書)に記述はそうなっていますが、磯城県主女や十市県主女など『日

書紀』(一書)や『古事記』は別の皇后の名前が書いてあります。でも、高群逸枝『母系制

の研究』を読むと、ほぼ同族のようです。


“志紀氏の如くは、神武紀に「弟磯城黒速云々為磯城県主一」とある氏が基本となっているのである

ことは、多氏の氏神社多神宮の所在地が大和国十市にあること、その十市県主が、磯城氏であること

(此の地より物部系をも発す。…中略…)、磯城氏は鴨玉家(神八井耳命の御母家)と殆ど同氏の如

く記紀には見えていること(例えば御所生師木津日子玉手見命であるが、紀では(○鴨玉家女)五十

鈴依媛であって…中略…)等によって、鴨玉家といい、磯城氏というのも、何れも母系を相交錯する

極めて親密なる地祇族の一団であることが想像される。”

                  (高群逸枝 母系制の研究 (下) 講談社文庫75、76頁)


“されば思うに事代主裔の鴨玉家と、磯城県主家とは同家であって、神武御宇より孝元御宇まで御外

威の権を恣にしたのは、太田説の如く弟磯城の裔であったと見てもよいであろうが、同時に事代主命

の裔であることの寧ろ妥当なるを私は云いたい。

                  (高群逸枝 母系制の研究 (下) 講談社文庫76、77頁)



先の神武天皇段階で、婚姻を結んでいることになっているので、天津神VS国神などそもそも

論外な話であり、また婚姻関係を結んで同族化して、天神を名乗る出雲族が存在したのも全く自

然なことのように思えます。少彦名命が、天津神の祖の高皇産霊尊や神皇産霊尊の手の平から

ぼれたとする出自の由来ではないかと思います。

そういうことから、考えると、菅原道真公が、天神として祀られたことにももしや何か関係があ

るのか?と思いが浮かびました。


この三輪山の西方には、崇神天皇磯城端籬宮跡(しきみずがきのみやあと)がありますが、初期

ヤマト王権(いわゆる)を支えた母族の拠点地を奪い、都を開いたのでしょうか?

それもなかなかうまくいかず、出雲族とうまくやることで、大物主を祀ることをしたのでしょう

か?


■穴師山の相撲神社


山の辺の道を北上し、ようやっと、三輪山の西北、穴師の相撲神社に到達しました。

相撲神社の下った所には第12代景行天皇の宮跡纒向日代宮や第11代垂仁天皇の宮跡とされる

巻向珠城宮址があります。


ここが、「国技発祥の地」カタヤケシの伝承地らしい。


相撲神社   奈良県桜井市穴師 祭神は野見宿禰。


e0354697_13474452.jpg

相撲神社境内のお相撲さんの石像


e0354697_13481327.jpg

カタヤケシ由緒の説明板

e0354697_13485189.jpg



■穴師坐兵主神社の祭神は、どなたか?


この穴師山をさらに登ったところに穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)がありま

す。小さなお社ですが、かなりの古社です。


鳥越健三郎著『神々と天皇の間』(朝日新聞社)の説明を借りると、

“延喜の制で月次・相嘗・新嘗ともに官幣をうける最高位の神社をしらべると、大神大物主神社、

穴師坐兵主神社・大和坐大国魂神社、石上坐布留御魂神社の四社である。

つまり、ものすごく社格の高い神社(延喜式内名神大社)です。

詳しくは→ウィキペディア  穴師坐兵主神社


穴師坐兵主神社 奈良県桜井市穴師1065

三殿並立の合殿の神社で、左側が、穴師大兵主神社、中央が穴師坐兵主神社、右側が巻向坐若御魂神社。

現在の鎮座地は、穴師大兵主神社で、中央の穴師坐兵主神社は、弓月岳にあったようだが、その弓月岳比定地には竜王山・

穴師山・巻向山の3つの説がある。


e0354697_13504706.jpg


中央の穴師坐兵主神社(現在は三殿合祀の神社の名前となっていますが)の祭神について、様々

な説があるようです。垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇

が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったとも云われます。また、兵主神社の分布が但

(七社)に多い事や、御神体が「日矛」ということから、アメノヒボコ説もあるようです。


しかし、鳥越健三郎著『神々と天皇の間』(朝日新聞社)によれば、日矛そのものは『旧事本紀』

は、鏡であることを述べており、『大倭本紀』では、鏡三面と子鈴一合をつくり、鏡の一面は

伊勢神宮へ、一面は紀伊の国懸神宮へ、のこる一面と子鈴は穴師の兵主神社へおさめたと書かれ

ています


この神社の名前の「兵主」ですが、内藤湖南氏によれば、『史記』封禅書には、秦の始皇帝が山

東省に旅した時、斉の国(中国山東省付近)で元来祀っていた八神(一、天主、二、地主、三、

兵主、四、陰主、五、陽主、六、月主、七、日主、八、四時主)の三番目であるそうで、弓月岳

の名称などから、秦氏が持ち込んだものとしているそうです。


富家伝承では、天火明命(=饒速日=素戔嗚尊)は、徐福で、秦に滅ぼされた斉の国の人という

ことだったので、故郷の神を持ち込んだのかもしれません。(あるいは後代になって、子孫が持

ち込んだのかもしれませんが…)


ここの神社は、そもそも、どの豪族の神社だったのか不明の神社のようです。

富家伝承の本(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版)をまた読んでみました。

“笛吹に住んだ尾張家の一部は、後に三輪山の西北麓・穴師に移住した。その地名は穴師(金属

製錬者)が住んだことによる。”

尾張家(海部家)となれば、天香語山命=五十猛命。(ちなみに斎木雲州氏によれば、「射楯」

字は、天火命の子、「イソタケ」を「イタテ」に当てはめたものだそうです。)

ここで、大きな疑問がまた。尾張家の神社となれば、初期ヤマト王権の葛城王朝です。

三輪山や穴師山の麓が、物部系の崇神、垂仁、景行天皇の宮跡だったとする通説と矛盾を感じま

す。


富家伝承の系譜図簡略抜粋(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版より)

尾張氏の系譜は書いてありませんが、海部家と天村雲命まで系譜が同じです。

なお高照姫は、葛城山の御歳神社の祭神で、八千矛(大国主命)の娘下照姫とは別の神様です。



e0354697_13472612.jpg
続く


by yuugurekaka | 2016-11-05 07:00 | 野見宿禰