■出雲国飯石郡の野見宿禰


出雲国から召し出された野見宿禰ですが、どうも比定地として分が悪いようです。

いろいろな本を見ますと、野見宿禰は元々出雲国の人ではない、三輪山の麓の大和の人間だった

とか書かれている本をよく見ます。


でも、これは野見宿禰にだけに言われることではなく、事代主命にも言えることです。

三輪山の近くで、日本書紀に何度か登場する事代主命や野見宿禰が、地元の「出雲風土記」(733
年)には1回も登場しないからです。
このことが、事代主命や野見宿禰は出雲の神ではないという一つの根拠になっていると思われま
す。しかし、出雲風土記は、第27世国造出雲臣広島が編纂したものであって、国司が監修したも
ではありませんから、出雲氏の様々な系統の力が何らかの作用をしたのではないか?(つまり
は事代命の系統が消されたということ)単なる測でしかないのですが…。

野見宿禰がさっぱり出てこない出雲風土記ですが、「野見」の地名は、飯石郡に出てまいります。

「野見 木見 石次の 三野 並びに、郡家の南西四十里なり。紫草あり。」

国道54号線上にある道の駅「赤来高原」で、野見宿禰伝承地の場所を聞いてから行きました。


野見野の看板    島根県飯南町上赤名呑谷 ここの山とそれに続く周辺の平野を野見野と言ったようです。




「出雲風土記」(733年) 野見野の比定地を示した説明板


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遠くに見える山々の風景が野見野の東方面


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そして、野見宿禰の墓があると聞きましたので行ってみました。国道54号線をはさんで野見野の

看板と反対側の南方面(広島方面)にその墓はありました。

野見宿禰伝承地には、必ずと言っていいほど、野見宿禰の墓がありますね。


糘塚古墳(すくもづかこふん)  飯石郡 飯南町 上赤名 中区上
元は直径20mの円墳で、7世紀ごろの村落首長墓だったと云われている。
地元ではこの古墳を「スクネ塚」と呼び、野見宿禰の墓とする伝承が残っている。


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■野見宿禰系譜の謎  

本屋さんに鳥越健三郎著『出雲神話の誕生』(講談社学術文庫)が、高く積み上げられていまし

た。昭和41年3月発行の古い本であるが、今までも愛読されてきたのでしょう。

しかし、この本は、ヤマト王権よりも前に先住民族の出雲大国家があったことを信じる者にとっ

てはありがたくない本です。出雲大国家など元々無く、時の政府に神話として、創作されたにす

ぎないということを、これでもかこれでもかと証拠を突き付けている本です。

しかし、鳥越健三郎氏の主張はともかく、その突き付けられている証拠の一つ一つそのものは、

私はなるほどと思うのです。


鳥越氏は、野見宿禰は、出雲国造家の系譜ではないのではないかと書いております。

国造家十一世から十四世までが特異な構成は、いわゆる『日本書紀』の出雲神宝問題や野見宿禰
の記述を映させようと、後世、改作したものであると断定し、亦の名が記述されている国造は
系譜から除去すべきだとしています。


“A 出雲宿禰  天穂日命の子、天夷鳥命の後なり(左京神別)

   出 雲 臣  天穂日命の子、天日名鳥命の後なり(山城国神別)

 B 出 雲 臣  天穂日命の五世の孫、久志和都命の後なり(左京神別)

 C 出 雲 臣  天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)

   出 雲 臣  天穂日命の十二世の孫、宇賀都久野命の後なり(河内国神別)

   神 門 臣  天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟の後なり(右京神別)     

 D 土師連   天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別)

   土師宿禰  天穂日命の十二世の孫、可美飯入根命の後なり(右京神別)

   土師宿禰  秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十二世の孫、

          可美乾飯入根命の後なり(大和国神別)

   菅原朝臣  土師朝臣と同じき祖、乾飯入根命の七世の孫、大保度連の後なり(右京神別)

   秋篠朝臣  上に同じ。

   大枝朝臣  上に同じ。

   凡河内忌寸 天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり(摂津国神別) 

 E 土師宿禰  天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(山城国神別)

   土師宿禰  秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)。

   土師連   上に同じ。

   石津連   天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり(和泉国神別)

『姓氏録』では以上の五つに分類できる。この中で野見宿禰の子孫であるD・Eが、祖先を野見

宿禰と記すか、あるいは飯入根としていることは注意すべきである。国造家の出雲臣・出雲宿禰、

また直接分かれた神門臣が、天夷鳥命か鵜濡渟の後を祖先とするに対し、その系統を異にしてい

ることがわかる。この野見宿禰のことは垂仁紀七年にみえているが、国造家との関係については

触れていない。”

               (鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』講談社学術文庫88頁~90頁)

※ 下線および赤字は、私。


なるほど、土師一族は、飯入根命を祖としています。この飯入根命は、向家(富家)伝承では、

家(東出雲王家)の人物です。過去の記事では、奈良時代よりも前の歴代出雲国造系譜は、

少なくとも、大国主命の系の神門臣家、事代主命の系の向家、天穂日命の系の千家・北島家の

3つの系統があるのではないか(それはたぶん、但馬国造家のように、婚姻を通じ、「氏祖変

更」があったのではないか?)と書きました。(→『北島国造家文書』と向家伝承 

この『姓氏録』は、そういう矛盾を反映させているのではないだろうか。


補足ですが、ここの飯石郡には須佐神社の須佐郷があります。
高群逸枝『母系制の研究』の出雲国造の項を読んでいましたら、須佐神社の神主家の系統のこ
とが書かれていました。


“然るに、同国須佐郷にあって、式内須佐神社を斎く神主家も、家譜に依れば、成務朝より

造を奉じ、出雲氏を称しており、土俗も亦これを国造家と呼んで、大社の国造家に比している

という。(『姓氏家系大辞典』三〇五七頁)その家譜に「稲田首領須佐国造系譜与、脚摩乳命

(此の神、稲田宮主簀狭之八箇耳を云ふ。)、手摩乳命、両名の子稲田姫、素戔嗚命に御合ひ

まして、その御子清湯山主三名狭漏彦八島篠命ー大国主命ー国忍富命ー雲山命ー湯地主命ー彦

坂日子命ー大須我命ー国仁命(神武天皇二十年庚辰補、在職百八年)ー国里之命(安寧天皇十

五年丁卯補、在職百十九年)云々、国造出雲太郎益成(成務天皇二十八年戊戌補、同三十年癸

卯年、国造の号を賜ふ。依て始めて出雲太郎と号す。在職五十二年)云々」以下歴代国造を継

受し、連綿今日に至るという。”

             (高群逸枝『母系制の研究(上)』講談社学術文庫 200頁)

稲田姫の母族の末裔の系統のように書いてあります。
出雲氏には、まだ他にも系統があったのでしょう。2千年も経っているのでいろいろな系譜があっ
たとしても何の不思議もないことです。           

国土地理院地図に見える集落の地名  

    現在の集落名「呑谷(のんだに)」は、“元は「ノミ谷」で音便によって変化したものである。”(赤名町誌)
    赤穴八幡宮の前に「向谷」の集落名が見える。
    島根県の地名で、時折見られるが、単に「向こう側」を示しているのか、向家と関係があるのか、ないのか
    わかりません



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赤穴八幡宮 飯石郡飯南町上赤名1652番地 

  元々は、770年の創建の松尾神社だったという。丹塗りの矢に姿を変えた大山咋(おおやまくい)の神に触れた
  玉依姫という女神が別雷神という子神を生んで、「松尾の森に宮処定めん」と鎮まったという神話がある。

          
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■オオナムチ末裔の野見宿禰

しかるに、赤来町誌(昭和47年11月3日)を読んでいると、ぎょっとする箇所を発見しました。
柳田国男氏の弟である松岡静雄氏(→ウィキペディア 松岡静雄 )の『記紀論究』の引用が載っ
ていましたが、天穂日命を祖としない野見の系統があるようです。

野実連 大穴牟遅命之後也 (左京区)


“野見宿禰は後出土師宿禰道長の上表並に新撰姓氏録によれば土師連(宿禰の祖)で、天穂日

命十四世の孫とあり、飯石郡野見(出雲風土記による)という地に居住した出雲臣の一族なる

ことは明らかで、その嫡流たるの故をもってスクネ(直系)と号したのであろう。この人は上

文のごとく朝廷に召し出されて、京師に転換したのであるが、その氏人は尚郷里に留まり、ヌ

ミをもって氏名としたと見えて、後日左京に来住したものに野実連と称する一門がある(姓

氏録未定雑姓)。

 大穴牟遅之後者と記注せられているのは頗る興味のあることで、師木二朝の御代に出京した

出雲臣等は、振根が朝命を抗拒したことを憚って、遠祖を天穂日命に託したが、本国に於ては

依然として大己貴の後裔と称していたことが立鐙せられるのである。

※ 下線および太字・赤字は、私。


天穂日命を祖とせず、オオナムチを祖とする野見の一族がいたのです。

ここではオオナムチと書いてあります。(向家伝承では、これは役職名で主王だったという)
今では、オオナムチは大国主命と同神とされてしまっています。
奈良の三輪山の大神が、当初は、スクナ彦、事代主命とされていたものが、大物主は大国主命
魂、奇魂となって、しまいに同神となってしまったわけですが、
野見宿禰の活躍の場所が、主に三輪山の麓がだったことを考えると、
野見宿禰は、事代主命の系統だったのではないかと思われます。

続く


by yuugurekaka | 2016-10-29 07:00 | 野見宿禰

野見宿禰が亡くなったこの日下部の里ですが、日下部氏の名前からきています。

日下部氏とはどんな氏族だったか?


“日下部氏の如くは、物部系、丹波系、有馬皇子系、伊勢国造系?阿部系、隼人系の諸系が蝟集して

いる。然し、此氏は大部曲をなす氏であって、部民は同部に属しても必ずしも同族ではなく、従って

出自の異るのも当然であるという解釈が成り立つ。”

                (高群逸枝 『母系制の研究 (上) 』  講談社文庫132頁)


となれば、出雲国西部にホムチワケ伝承を持ち込んだと思われる(自分の思い込みかも)開化天

皇の裔と、播磨国日下部の里の日下部氏は、同族とは限らないわけです


■ 祖変  氏族の祖を変えることをいう。

まず、そういう前提で、日下部氏の系譜を高群逸枝著の『母系制の研究』を調べて見ましたら、

但馬国造の所で、


“こゝに但馬氏は、日槍系を没し、開化天皇を祖とするに至ったが、更に隣国丹波国造より婿を招い

たと見えて但馬国造に二祖を派生するに到った。天孫本紀に「(○火明命)六世孫建田背命、神服連、

海部直、丹波国造、但馬国造等祖」とあるのが此れである。

爰(ここ)に但馬国造は同母族を根拠として、皇別の開化帝裔、神別の火明命裔の二派を生じ、交互

に国造の職を承けたのであろうと思われるが、其後此族は、又又祖変して孝徳天皇を仰ぐに到り、

馬氏を没して日下部氏に改名したらしい。” 

                    (高群逸枝 母系制の研究 (上) 講談社文庫108頁)


そういうことであれば、ここの日下部氏は、但馬氏系の「日下部氏」だった可能性もあります。

となれば、ここで野見宿禰と戦乱があって、討死にしたことも想定できます。

それはなぜか。


■ 出雲族VS天日槍命 


出石神社(いずしじんじゃ)鳥居    兵庫県豊岡市出石町宮内99

天日槍命を祀っている。縄文時代、出石市一帯は海だったという。


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出石神社本殿


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天日槍命(アメノヒボコ)を元々は祖とした但馬氏ですが、天日槍命は、「播磨風土記」にて出

雲族と対立、領土紛争の様子が随所にちりばめられています。

                         (詳しくは→ ウィキペディア アメノヒボコ 


“渡来神である天日槍命が宇頭川(揖保川)にやってきた。土着の神である葦原志許乎命に「宿ると

ころはないか」と尋ねたところ、志許は海中を許可した。すると日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを

見せ、そこに宿った。日槍の勢いに危機を感じた志許は、先に国占めをしようと川をさかのぼってい

った。このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため、粒丘と呼ばれるようになった。

葦原志許乎命と天日槍命は山からお互い3本の葛を投げた。志許の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2

は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになっ

た。                         (ウィキペディア 播磨風土記り) 


宇頭川(揖保川)上流  兵庫県

野見宿禰神社から伊和神社に北上する所で写しました。


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伊和神社参道  兵庫県宍粟市一宮町須行名407 

出雲から来た伊和大神は、何代目オオナムチだったのか?


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天日槍命が、八代目オオナムチの葦原志許乎命の時代の人だというのは、日本書紀の垂仁天皇

の記述と大きく矛盾しますが、日本書紀の記述では、天日槍命と、その子孫の話がいっしょく

たに同時期に書かれており信用できません。

垂仁天皇の時代より、はるか昔の時代ではなかったろうかと思います。


■ 向家(富家)伝承では


出雲王族向家(富家)伝承では、大庭を拠点とする東の出雲王国を崩壊させたのは、物部軍で

すが、先に攻めてきて田和山神殿を破壊したのは田道間守(→ウィキペディア 田道間守)率

いる但馬軍です。

出雲王国崩壊後、垂仁天皇の時代に、但馬勢力の増長を食い止めんがために出雲族を討伐軍と

して差し向けられた戦いの話が、野見宿禰V当麻蹴速の相撲起源話に転化したそうです。野見

宿禰率いる出雲軍は、但馬軍には勝ったが、その後、播磨国日下部の里で、野見宿禰が毒殺さ

れたのです。


“富家の名前を「野見」家に変えて、野見大田彦と名のって兵を集めた。野見大田彦にひきいられ

て出陣したイズモ軍は、奈良盆地に西北から侵入した。…中略… 野見の活躍により、イクメ大王

の支配は安定した。大王は喜び、物部勢力での家柄の敬称「宿祢」を、野見大田彦に与えた。以後

かれは、野見宿祢を名のった。

野見宿祢の軍勢が田道間のタジマ勢力に勝った事件は、古事記には野見宿祢が角力で当麻蹴速(田

道間守)を負かした話に変えて書かれた。…中略…かれが奈良から郷里に帰る途中、播磨国の竜野

で、食事に招待された。ところが、その家の料理には毒が盛られていた。その結果、彼は不慮の死

を遂げた。その家の主はヒボコの関係者だったことが、後でわかったと伝えられる。”

                    (斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版50-51頁)


出石そば  


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出石神社から播磨の国に自動車で南下しているとき、ドライブインで「10割蕎麦」ののぼりが

目につき、そのざるそばを注文しました。出雲そばと違って、色が白いです。でも、とっても

おいしかったです。

山葵をすりおろして食べました。10割蕎麦は柔らかくてぽろぽろ切れるものとの先入観があり

ましたが、結構こしがありました。


続く


by yuugurekaka | 2016-10-23 07:00 | 野見宿禰

出雲国菅原天満宮に出雲の人たちが野見宿禰の分骨を持ち帰ったという、兵庫県たつの市に行って

きました。播磨風土記(715年頃?)には、野見宿禰の出雲墓屋の記述があります。



“日下部の里。人の姓によって名とする。土は中の中。

立野(たつの)。立野と名づけた理由は、昔、(はに)()弩美(のみ)宿禰(すくね)が出雲の国に行き通い、日下部の野で宿り、

病気を患って死んだ。その時、出雲の国の人がやってきて並び立ち、人々は川の礫石(さざれいし)を取り上

げて運び渡して、墓の山を作った。だから、立野と名づけた。その墓屋(はかや)を名づけて出雲の墓屋

とした。”

    (中村啓信 監修・訳注 『風土記 上』 角川文庫  播磨風土記 揖保の郡より)


揖保川 兵庫県たつの市 鶏籠山が龍野の町を見下ろしている。


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この揖保川の小石を出雲の人たちは、バケツリレーのごとく、お墓の山に運んだのでしょうか。

野見宿禰は、出雲の国と大和の国を往来し、播磨国日下部野で病死したと伝えられています。
川を見下ろす鶏籠山の奥の的場山の中腹には、野見宿禰の墓とされる野見宿禰神社があります。

的場山の麓の龍野公園から入って、龍野神社の右脇の参道を登って行きます。
この野見宿禰塚の石碑を登って行きます。


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かなりの急な坂道です。
伝承地と云うところは、いつもこのように軽い登山のようになってしまいます。

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やっと最後の石段に到達しました。ふう。

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この急な石段を登って行くと、出雲大社と同じ神紋(二重亀甲に剣花菱)の石の扉がありました。
出雲国造家(千家氏・北島氏)では、野見宿禰は第13世出雲国造(襲髄命)ということになっ
ています。

野見宿禰神社 兵庫県たつの市龍野町北龍野  

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ここからは、古代の日下部の里であったと想定される龍野町の町並みが、眺めることができました。
相撲の元祖とされているので、力士たちの玉垣が見えます。
「朝潮太郎」の名前が見えます。何代目なのでしょうか。

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石の扉があるので、何も見えないかと思いきや、古墳の周りに道があります。
どうも円墳のようで、ぐるりと円墳の周りを歩くことができました。
古墳の頂上には、祠があります。

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古墳の後ろから見たところです。石で囲ってありますが、この石が、播磨風土記の出てくる石とは、
思えません。後から整備された石でしょう。

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さて、ここの古墳が、野見宿禰の墓と云われるようになった由来をインターネットでいくら調べても
何も出てはきません。実際は、一つの候補地、比定地でしかないのですが、ここの古墳の築造年代さ
えもわかりませんでした。
松江市の図書館に行って調べて見ましたが何もありませんでした。
インターネットで調べるには、限界があるものです。

試しにアマゾンで、兵庫県相生市出身のドクター信原克也さんの本(『相撲の始祖 野見宿禰の墓屋』)
を見つけ注文したら、たつの市や相生市等の野見宿禰墓伝承地の詳しい資料が載っていました。
その本の抜粋ですが

“明治三十六年編の『揖保郡地誌』に「天保年間まで古い松の木があり、すべすべした五尺ほどの川
 石があったが、誰が持ち去ったのか無くなってしまっている。塚の上の広さは三間、高さは二十間
 あって、明治十五年にここから一尺あまりの古剣一振と曲玉、壺の欠片などが出土したので、内務
 省に提出した。その後、有志たちがこの塚を修理し、麓に一祠を建てて社殿としようと計画…以下
 省略”

となっています。江戸時代の後期まで、なんで埋もれたままなったのだろう。

そして、ここが野見宿禰の墓に比定された経緯については、
『龍野市史』(昭和53年、56年、59年)は、
“「この野見宿禰墓は横穴式石室を持つ径約二十米の円墳で、この付近では規模ももっとも大きくか
 つ保存状態も良好で、これが野見宿禰の墓に比定されたのは納得できる。その上剣や曲玉などが出
 土したのだから、関口啓之亟と土屋善之助の二人は、あたら功臣の墳墓が荒廃しているのを嘆き、
 出雲大社の千家尊福男爵に照会し、かつ諸方有志の助成賛同を得て、墳墓を修理し、かつ山麓に一
 祠を建立し、神社を創立することを計画した」 ”となっており

さらに小林伊代治氏の『野見宿禰墳墓の由来』という小冊子には、東京帝国大学分科大学教授文学博
の萩野由之氏の文書が引用されており、その経緯が載っていました。
“文久年間、萩の藩士で世良孫槌という人物が、藩主毛利候の祖先である野見宿禰の墓が龍野山の麓
 に 在ることを信じて、粒坐神社の社司関口啓之亟にその委細を問い合わせた。…中略…そこで県
 の役人 が来て調べたところ、松の根から祭器の破片も見つかった。こうしてこれら出土品と剣の
 一片は内務省に届けられたが、関口啓之亟はこれらの事実からこの墓が野見宿禰のものであると断
 定した」”

そして、現在の「野見宿禰神社」に到るまでの過程が、『相撲の始祖 野見宿禰の墓屋』に書かれて
いました。野見宿禰墳墓古墳墓屋を「野見宿禰神社」と改称したのが、昭和35年3月のことだそう
で、ここが、古くからの伝承地ではないようです。

実際、『揖保郡誌』(昭和六年一月一日発行 龍野新聞社)には、
“揖保郡内に野見宿禰の墳墓と言伝えられているものが四つある。一つは現在の野見宿禰塚、即ち
 龍野神社の背後にある。今一つは龍野中学校西手の山にある狐塚と称するもの。他の一つは揖西村
 土師鶏池(いっさいむらはじにわとりいけ)の中央にある古墳である。また神戸村那波野(かんべ
 むらなはの)と、揖西村土師の境笹竿(ささざお)と称するところにある古墳がそれであると云わ
 れ、いずれが本物であるか全く迷宮に入っている。
 右の総てに就いて宮内省の古文書の中に野見宿禰墳墓は小神西楽寺(おがみさいらくじ)にありと
 記されてあるから、龍野中学校西手の山にある狐塚が最も真(まこと)らしい。…中略…今日の野
 見宿禰墳墓なるものを古墳を修理して作り毎年四月一日祭典を行い山麓に神社(こうしゃ)を建設
 しようとして中絶した。其の後狐塚が正墳であるとの説が有力になったのである。

つまりは、当時の比定地として①的場山(昔の本には臺山ー台山と記述されている)中腹の野見宿禰
神社の墳墓②龍野中学校(現龍野高校)グラウンド裏の狐塚古墳③布施村土師(現揖西町土師)奥田
にある鶏塚④土師大陣原にある宿禰塚古墳(現相生市那波野)があったということです。
でも、この比定地以外にあるかもしれません。

狐塚古墳 兵庫県たつの市龍野町日山五胎山

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『揖保郡誌』に書かれた、最も有力な野見宿禰の墳墓としての狐塚ですが
方墳か円墳で、横穴式石室があり、全長9.7m、玄室長5.2、幅2.1、高2.45mとありました。
6世紀後半の築造のようです。
野見宿禰が、垂仁天皇の頃の人だと仮定すると、まあ弥生時代後期か古墳時代前期頃の話で、6世
紀後半では、野見宿禰の墓とするには、時代に大きな無理があるように思います。
ここもどうなのでしょうか。

しかし、ここの古墳の近くに白鷺山墳丘墓という弥生時代から古墳時代初頭の古墳が、あるようです。
候補地は、野見宿禰神社の墓以外にも、龍野町にはまだまだありそうな気がします。
では、野見宿禰を祖とする土師氏族の住んでいたであろう二つの候補地はどうなのでしょう。
そこの場所は、揖保川から遠く、「日下部の里」比定地から離れていて、どうも違う気がします。

大きな疑問がわいてきました。子孫が祖先の伝承を残していくものと思えますので、
揖西町土師や相生市那波野での伝承として書かれるというのが自然のように思えるのですが
なぜ、播磨風土記には、そこから離れた「日下部の里」の話として載っているのでしょうか。

続く

by yuugurekaka | 2016-10-19 23:14 | 野見宿禰

松江市内から国道9号線を西に行き、玉造温泉を通り過ぎ、宍道町来待ストーンの看板を目印に

南に登る(左折)と菅原の里に到達します。

学問の神様「菅原道真公 生誕の地」と伝わる所ではありますが、島根県民にもそのことが、あ

まり知られていない気がします。


菅原の里 島根県松江市宍道町上来待菅原  

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なぜここが菅原道真の生誕の地なのでしょう。

かなりの人たちは、誕生地は、奈良や京都市だと思われていることでしょう。 

菅原道真公の父親である、菅原是善( → ウィキペディア 菅原是善 )は、出雲国庁に派遣

れていた役人でした。

菅原氏の祖先である野見宿禰の墓をたずねて当時の山田村(現在の菅原の里)に訪問されました。

その時案内をした乙女を気に入られ、国庁に召されることになりました。


是善卿は任期が終わり、京都に帰ることになりました。

しかし、この乙女は是善卿の子を身ごもり、山田村で道真公を出産されました。承和十二年(8

5年)6月25日のことです。道真公が6歳の春に、道真公は母親と伴に都に上がり、是善卿の

ところで暮らすことになりました。


ここの伝承が、ここの菅原天満宮に伝わる「菅原聖廟記」という古書に記載されているそうで

す。

詳しくは→ 出雲国 菅原天満宮


鼻繰梅の御神木 (社務所の前庭にあり)
ここの梅の種には尖頭部に小さな穴があるそうです。道真公が幼少の頃、梅の種に穴をあけ、糸を通して遊んでいた
ものが下に落ちて芽を出し、大きくなったという伝承があるようです。 


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菅原天満宮 拝殿    島根県松江市宍道町上来待1834

神社の創建は、天歴5年(951年)だそうです。


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菅原天満宮 本殿 

現在の社殿は、寛文三年(1663年)で、扉には松江藩の絵師・狩野永雲の筆五彩の雲に金泥の双龍が描かれてい

るそうです。



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さて、菅原是善卿が、拝礼に訪れた野見宿禰の墓ですが、石段を登り、境内に上がると、右

手にまた小さな石段があり、そこを登ったところにあります。



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野見宿禰のお墓

播磨風土記には、野見宿禰は兵庫県たつの市で病死し、出雲国からやってきた人たちが、野見宿禰を埋葬し出雲墓屋を
つくった話が載っていますが、その時の人たちが「分骨」を持ち帰り、埋葬したと説明板に書かれていました。

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全国に「野見宿禰のお墓」というものがありますが、

どこの墓が本当か、などということを問題にしようとは思いません。

少なくともここのお墓は「分骨」と述べられています。

日本書紀では、「相撲の元祖」とも登場し、天皇の埋葬儀礼を担った土師氏の始祖ですので、その

後継の豪族がそれぞれ野見宿祢を祀ったのではないのでしょうか。

(詳しくは →ウィキペディア 野見宿禰 


さて、埴輪伝承で有名な野見宿禰ですが、土師氏として新たな氏族(天穂日命14世の子孫と日本

書紀には書かれている)を起こしたのですが、なぜ「土師氏」から、「菅原氏」となったのでしょ

うか。


平安時代初期に編纂された『続日本紀』でその箇所を探しました。


“ そこで、祖先がなしてきたことを顧みますと、吉事と凶時が相半ばしていて、天皇の喪礼の時

には葬儀を掌り、祭りの日には祭事に与かっております。このように奉仕してきましたことは、ま

ことに世間の習慣にも合致しておりました。ところが今はそうではなく、もっぱら葬儀のみに与か

っております。先祖の職掌を深く考慮してみますに、本意はここにはありません。そこで居住地の

地名にちなんで、土師を改めて菅原の姓にしていただきますようお願い致します、と。”

(続日本紀 光仁天皇 天応元年六月~七月)

                      宇治谷 猛 現代語訳 講談社学術文庫 274P


“ 十二月三十日 天皇は外従五位下の菅原宿禰道長・秋篠宿禰安人やすひとらに勅して、それぞれ朝臣

姓を賜い、また正六位以上の土師宿禰諸士もろじらに「大枝朝臣」の氏姓を賜わった。その土師にはすべ

てで四つの系統があり、中宮(桓武天皇の生母、高野新笠)の母親の家は毛受もずの系統に属していた。

そこで、毛受の系統の土師には「大枝朝臣」を賜い、その他の三つの土師の系統の者らには、「秋

篠朝臣」や「菅原朝臣」を名乗らせたのである。”

(続日本紀 恒武天皇 延暦九年十一月~十二月)

                   治谷 猛 現代語訳 講談社学術文庫 446P~447P


そうですか。元々は、吉事の祭祀にも携わっていたのですね。

時代にそぐわなくなっていたので改姓を申し出て許されたということらしいです。

さて、土師氏のこの四つの系統ですが、宇治谷氏の解説によれば①和泉の百舌鳥野(大鳥郡土師郷)
本貫とする土師氏②菅原の里(平城右京三条二坊付近)の菅原氏(旧土師氏)③添下郡秋篠(平
城右京京北秋篠)の秋篠氏(旧土師氏)④河内の古市(志紀郡土師郷・丹比郡土師郷)を本貫と
る土師氏。



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菅原天満宮の近くのそば屋「天神蕎麦工房」で割り子蕎麦を食べました。

インターネットで十割蕎麦をやっていると書かれており、待ち望んでお邪魔しましたが、

現在は十割そば粉が、手に入らず、やっていないとのこと。残念!

でも、それでも、ここのそばはたいへんおいしかったです。

蕎麦の好みは人それぞれだと思いますが、自分の中でのランキングは上位です。

(店は、土日と、特定の日しかやっておりません。)



続く

by yuugurekaka | 2016-10-04 13:10 | 野見宿禰