タミル語 日本語起源説

最近、大野晋(おおの すすむ)氏の「日本語の起源を古代タミル語にあるとしたクレオールタミ
ル語説」の本を何冊か借りて読んでいます。(➡ ウィキペディア 大野晋  
縄文時代後半から、遠いインドの南部から海を渡って日本に流れ着いて、弥生時代の文化をつく
ったということなんですが、私などには子供時代からの“朝鮮半島からの渡来”が頭に染み込んで
いて、そうう説が、にわかには信じられません。

タミル語を含むドラヴィダ語圏  ウィキペディア ドラヴィダ語族 より
 
e0354697_14005062.png
にわかには信じれませんが、著名な国語学者である大野氏が、バッシング覚悟でああもタミル語
説を追及されるには、なにかしらそれなりの理由があるに違いないと思いますし、そのかけらが
少しだけでもわかればと思い、少しずつ読んでいきます。

タミル語といえば、約18年前日本でもヒットしたタミル映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』を思い
出します。(インドは言語や文化が南北で大きく違い、北部インドを中心とするヒンディー語で
つくられる映画【ボリウッド】と南部インドの言語であるタミル語で作られる映画【コリウッド
の主な二つの映画があるようだ。)

映画 『ムトゥ 踊るマハラジャ “Thillana Thillana” (1995)


この映画を初めて見たとき、この歌と踊りにびっくりしました。
民族的なものと近代の音楽が結合し洗練されていることに特に感激しました。女優のミーナさん
の顔がまた愛くるしい。

さて、タミル語を話すドラヴィダ系の人が縄文時代の終わりに日本に来たということなんですが、
映画に出てくる人たちは、総じて色が薄黒くて日本人の顔とは大きく違います。
人種としては、南方モンゴロイドに属するらしい。
(➡ ウィキペディア ドラヴィダ人 

日本人の起源論としては、最近ではアイヌ人も含めて北方モンゴロイド説が言われているようで
してこのタミル語渡来説はいったいどうなのでしょうか。
(➡ ウィキペディア 日本人バイカル湖畔起源説 

出雲王族の末裔富家伝承では、出雲族はドラヴィダ族でアーリア人に追われ、南の海からではな
ゴビ砂漠を北に進み、シベリアのアムール川を筏で下って津軽半島に上陸したといいます。
それから南下し、全国に広がったそうです。

ユーラシア大陸の北方を移動する長い道程で、北方モンゴロイドと混血していったのでしょうか。


by yuugurekaka | 2016-06-29 14:09 | ドラヴィダ民族 渡来

“松江の宍道湖はアイヌが命名したシシヂ湖の訛りである。シシヂとは大きい陰門(shish拡
がれる、chi 陰門)。アイヌ語chitの訛りが「膣」で、chi部(恥部)の恥は漢字に
表現したときの当て字である。chiは陰茎をも意味したからである。” 
                   (北村博則著 『歯・口・舌のはなし』 文芸社) 

まず こういう説にも一理あると思うのは、漢字が中国から入ってきたのはかなり後のことであり
奈良時代においては、前からある日本語に、読みが同じ漢字を当てている場合が多いからです。
たとえば神社名や神名です。熊野大社の「熊野」は、動物の熊とは全く関係がないし、猿田彦命も
猿とは本来関係がないことなどです。

縄文時代は、縄文言語なるものがあって、現在の日本語とは違い、その駆逐された縄文言語がアイ
ヌ語に残存しているという説もあるからです。
縄文時代の後期にインドより、ドラヴィダ系の民族が日本に渡来して、ドラヴィダ系の言語(タミ
ル語)が入り、弥生時代の言語として、日本語の起源となったとする大野晋氏の説(かなり異説と
して否定されたらしい)もありますから、奈良時代よりも昔は、また違う言葉をつかって、地名を
つけていたのではないかと思うのです。

つまりは、縄文時代や弥生時代に使われていた地名が、漢字を当てることによって、別の意味に転
化した例は多いのではないかと思うわけです。
そのように考えていくと、「ししぢ」は、「宍道」の漢字が当てられて、本来の意味が変わったの
ではないかと思いが浮かぶのです。

宍道町 宍像岩 (ししかたいわ)
猪の岩というよりは、古代のホト岩信仰の祭祀場に見えます。


ただ、いわゆる言語学の本というのは、なにか語呂合わせのようにも感じますし、膨大な言語の理
解がない私は、本当かしらとつい思ってしまいがちです。
なにか他の著者でそういうような主張をしていないか、様々な本を探してみましたが、ありません。

『アイヌ語古語辞典(平山裕人著 明石書店 2013年12月20日発行)で調べてみました。

アイヌ語自体が、たぶん現代のものと古代のものとは変化しているのではないかと思いました。
中世の文献に残っている言葉だけ載っていました。

それで 「陰門」を調べると 
陰門
ボッキ(ホッキの項)『蝦夷拾遺』(1786年)
ボキ 『蝦夷方言藻汐草』(1792年)

あれれ ありません。
しかし、
チー が、 陰茎 『蝦夷方言藻汐草』(1792年)とありました。

ついでに陰茎で調べると、
ヌキで「陰」、タケリ『蝦夷拾遺』です。
またノキが 陰嚢 『蝦夷方言藻汐草』と書いてありました。
もしかしたら、野城大神の「ノキ」は、これではないかしら。

さて、この宍道郷が、なぜ「ししぢ」と呼ばれるに至ったのでしょうか。
グーグルアースを角度を変えて、加茂岩倉遺跡のある加茂町につながる宍道町の画像です。
この谷あいに国道54号線が走っています。この谷から来ているのでしょうか?

谷には、日本だけではなく、ヨーロッパでも、古代から女性の体が名づけられます。
アイヌ語と言わずとも、谷地(やち)は、明治時代の隠語として残っていたようです。

宍道町 国道54号線を中心に グーグルマップの画像

e0354697_09591074.png


宍道町の宍像岩(女夫岩)から、下に降りていくと溜池があります。
もともとの参道は、溜池の方からだったのだと云われています。

夫婦岩溜池 

e0354697_19454601.jpg

谷戸貞彦著 『幸の神と竜』(大元出版)には、こう書かれています。

“ここの地形を地図で見ると妙だ。甫登岩の西に大きな溜池がある。池の両側に足の形の岡が、甫
登岩のある腰の岡に続いている。腰からさらに、胴体が東に伸びる。
 そして、女神の腹の部分は、妊婦のおなかのように、丸く高くなっている。何という、ことだろ
う。古代人は女体そっくりな地形を、発見し選んだことになる。
 そして、彼女の股の所にピッタリ、甫登岩が鎮座している。これは偶然にしては、巧く出来すぎ
ている。私はこの甫登岩は、古代人たちが佐為神社の信仰の熱意で以って、他の所から引っ張って
きたものと考える。”

女岩遺跡を中心に谷間 グーグルマップの画像 
上が東方、下が西方面です。

e0354697_19460420.jpg



by yuugurekaka | 2016-06-23 20:54 | 出雲風土記

この宍道の由来として、出雲風土記にこう記載されています。


宍道郷(ししぢごう)。松江市宍道町宍道・白石・佐々布一帯の地域

郡家の正西三十七里の所にある。所造天下大神命が、狩りで追いかけなさった猪
の像が、南の山に二つある〔一つは長さ二丈七尺、高さ一丈、周り五丈七尺。一
つは長さ二丈五尺、高さ八尺、周り四丈一尺。〕。猪を追う犬の像〔長さ一丈、
高さ四尺、周り一九尺。〕、その形は、石となっているが、猪と犬以外のなに
ものでもない。今でもなお、存在している。だから、宍道という。
       
       (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


その所造天下大神命(あめのしたつくらししおほかみ)(大国主命の尊称)が狩りで追いかけた
猪の二つの石と犬の石が、石宮神社に今もあるようです。

石宮神社 島根県松江市宍道町白石638

e0354697_20290846.jpg

この宍道の由来として、出雲風土記にこう記載されています。鳥居をくぐって右手に見える大きな石がその猪の石の一つのようです。

鳥居をくぐって右手の猪石

e0354697_20292096.jpg

さて、もう1つの猪石はというと、鳥居をくぐって左手の手前の石が猪石のようです。

e0354697_20293195.jpg


拝殿が石垣のぎりぎりのところに建てられています。
どうやら、ご神体の犬石の位置を変えずに拝殿を作るしかなかったという感じがします。


石宮神社 拝殿

e0354697_20295780.jpg

石宮神社の犬石(ご神体)
ここの神社は、本殿はなく、ご神体が拝殿のうしろにあります。

e0354697_20285580.jpg

猪の石が、存在する出雲風土記記載の「宍道社」の論社は、この石宮神社と、女夫岩のある大森神
社です猪石はこの女夫岩でなかったのかとの考えもあります。
詳しくは→ 出雲の祖霊信仰 クナトの神
地元では、「ししいわ」とも呼ばれているようです。



この猪の道ということから、宍道(ししぢ)となり、それが、転じて「しんじ」となったそうな。
「宍」(しし)で検索すると 
 
宍、肉 - 古語で、食肉のこと。またそのために狩猟の対象となる動物のことで、
とりわけ鹿と猪を指す。 ( ウィキペディア 「シシ」

食肉にするための動物を宍(しし)と言い、鹿と猪を区別するときは、それぞれ「かのしし」「ゐ
のしし」といったのです奈良時代は、家畜ではなく鹿と猪を主に食べたんでしょう。

なんの因果か、女夫岩のすぐそばの南側には、島根中央家畜市場 がありました。
まさか、奈良時代からずっと「食肉」で上書きされているわけではないでしょうが


島根中央家畜市場  松江市宍道町白石1720 

e0354697_23304687.jpg

さらに宍道をあれこれ検索していたら、こういう本にヒット。
“アイヌ人は陰部の名称を地名にしたがる。松江の宍道湖はアイヌが命名したシシヂ湖の訛りであ
る。シシヂとは大きい陰門” (北村博則著 『歯・口・舌のはなし』 文芸社) 
えー!?…でも、そういう可能性もあるのではと思い、図書館に行き「アイヌ語古語辞典」やら
ミル語の本やら あれこれ調べてみます。

by yuugurekaka | 2016-06-12 08:19 | 出雲風土記

島根県の東部に位置するこの宍道湖。

宍道湖(しんじこ)は、日本の湖沼では六番目の大きさです。

流出河川は、中海につながる東側の大橋川、天神川であり、日本海につながる北東岸の佐陀川(1785年開削)。

汽水湖であり、宍道湖から獲れるシジミは、平成27年度漁獲高島根県全国一位(4,006トン)。


奈良時代は、「入り海」と呼ばれていますが、中海も「入り海」です。

また出雲風土記(733年)では、ばくぜんと「入り海」と呼ぶ以外に、

野代川の河口付近を「野代の海」と呼ばれていました。

万葉集でも、中海の意宇川の河口付近を「飫宇(おう)の海」と呼ばれている

ところを見ると、宍道湖・中海というような固有名詞は当時はなかったように思われます。


宍道湖ふれあいパークから宍道町方面  松江市玉湯町445-2


梅雨前の穏やかな宍道湖でした。

湖面がきらきら光り美しかったのですが、それを写真に収めるのは難しい。


e0354697_23272530.jpg

宍道湖ふれあいパークから松江市街方面 

e0354697_02211678.jpg


その入り海にどうして、宍道湖と名づけられたのでしょう。

出雲市と松江市のちょうど中間どころの宍道町(奈良時代は宍道郷)から

この汽水湖の名前が、宍道湖となったわけですが、その理由がわからない。

例えば「松江湖」や、「秋鹿湖」「玉造湖」でも良かったはずです。

奈良時代の表記から考えると、宍道川の河口付近が宍道の海と呼ばれたんでしょうが。


インターネットの検索では何も出てこなかったので、図書館で調べました。

平凡社発行 『島根県の地名』~日本歴史地名体系33巻~によれば


“近世以降宿場町宍道(現宍道町)の沖を宍道の海と呼んでいたのが定着して宍道湖となったという。

 文献上の初見は承応二年(1653年)成立の「懐橘談」上巻。意宇湖・松江湖とも称され、雅称として

 近世末の文人菅茶山が用いた碧雲湖がある。”


と、あります。

そうですかー。宍道郷が海上交通の要所で、宿場町だったのですね。

江戸時代には、松江藩主が領内視察や出雲大社参拝に向かう途中に休憩する場所である

3つの本陣(小豆沢家・木幡家・葉山家)がありました。

現在は木幡家のものが八雲本陣として(国の重要文化財)残されています。

詳しくは→出雲と松江に挟まれた小さな町の宿駅本陣~八雲本陣~ Travel.jp


現在は、観光遊覧船「白鳥号」とシジミ漁船しか見えませんが

当時は、宍道湖はたくさんの船が行き交う湖で、宍道郷は港町・宿場町として栄えていたのです。



宍道湖大橋から 嫁が島・宍道湖 

e0354697_23275283.jpg

夕日が沈む宍道湖 

e0354697_23281131.jpg

by yuugurekaka | 2016-06-10 13:18 | 出雲風土記