☆母神イザナミをしのぶ神在り祭


松江市内から、熊野大社のある松江市八雲町の入り口の峠(神納峠)を越えた所に、「岩坂陵墓参考地」というところがあります。いわゆる女神イザナミのお墓とされるところです。


「岩坂陵墓参考地」のある神納山(かんのやま)


 『雲陽誌』(1717年)によれば、男神イザナギを追った女神イザナミが、自らの魂をこの地に納め

  た場所なので「神納」というそうだ。



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宮内省が明治33年全国数か所のイザナミ御陵伝説地の中から陵墓伝説地として指定し、現在も宮内庁が管理しています。扉があり中に入ることはなりません。


「岩坂陵墓参考地」


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島根県東部には、イザナミを葬った比婆山の伝承地が多く、イザナミを祭神として祀る神社も多いのです。

夫婦なのだから、イザナギも同時に祀られてしかるべきと思うのですが、神社巡りをしていて感じるのは、イザナミ女神単独が多く、イザナギ男神の存在感が薄いということです。


それゆえ、イザナミがたまたま東出雲で亡くなったということではなく、もともと東出雲の氏族の神だったのではないかと思うのです。

ホアカリノミコト=饒速日(先代旧事本紀)の后、天道日女命が、イザナミであったのなら、----------私の妄想にすぎないかもしれませんが、いろいろな意味で、符号があいます。(※籠神社 海部氏勘注系図では、天道日女命は大己貴神の娘です。)


旧暦十月を全国では、「神無月」といい、出雲地方では、逆に「神在月」です。出雲大社に―大国主命の下―、全国の神様がに集まって会議をする、そういうことが頭に浮かびましょうが、実に松江市の(東出雲の)佐太神社、神魂神社、熊野大社は、いずれもイザナミを祀って神在祭を行います。

→ 島根県 : 神在月に集う

仮に天道日女命のことであるとすれば、天津神の系譜(海部氏、紀氏、尾張氏等)の母神ともなるわけで、全国から集まらないといけない理由にもなるでしょう。


☆出雲族と物部族との和合


先の岩坂陵墓参考地の意宇川をはさんで東側に劔(つるぎ)神社があります。神社の名前から、物部系の神社が浮かんできますが、現在、伊弉册命(いざなみのみこと) 大山祇命(おおやまつみのみこと) 中山祇命(なかやまつみのみこと)麓山祇命(はやまつみのみこと) 正勝山祇命(まさかやまつみのみこと) 籬山祇命(ひなやまつみのみこと)を祀っています。


劔神社拝殿 島根県松江市八雲町日吉10


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富家伝承によれば、出雲進駐軍司令官・物部十千根命が、東出雲王宮神魂神社を使用していたため、神魂神社境内地にあった物部氏の神フツを祀っていたものを、八雲町に遷宮したものが劔神社だそうです。(斎木雲州『出雲と蘇我王国』大元出版 64ページ)



劔神社の本殿の2種類の千木


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斎木雲州氏によれば、横そぎ(内そぎ)=女神を祀った千木、縦そぎ(外そぎ)=男神を祀った千木という俗説は誤りで、元々は、縦そぎ=出雲系、横そぎ=九州物部系だったそうです。そういえば、出雲大社の女神を祀っている境内社も縦そぎです。


ここの劔神社の横そぎ、縦そぎ混合の千木は、一般的にはイザナミとイザナギの和合を示すものかもしれませんが、元々が物部の神社だということを考えれば、出雲族と物部族の和合を表わしたものでないでしょうか。 



by yuugurekaka | 2016-03-31 09:28 | 黄泉比良坂

黄泉平良坂 峠に登って行く道

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高群逸枝『日本婚姻史』(1963年)を読んでいて、黄泉比良坂の異説として、自分の頭の中で一度は流れてしまったけれど、出雲族と物部族との婚姻関係を学習するに到り、頭の中でまた現実的な説として蘇ってまいりました。


“妻問婚では、愛がなくなれば通わなくなる。女の側には、来た男をかえすという手段があった。しかし、重婚規定も離婚宣言もなく、平安ごろは、「床去り」「夜離れ」と呼ばれたが、すべてはあいまいで、復活する例も多かった。

男酋と女酋のばあいには、その背後に人民をひかえているので、そう簡単にはいかなかった。イザナギとイザナミの離婚では、ヨモツヒラ坂で千引の岩ごしに両人が対立し、コトドワタシ(絶縁の誓い)をした。最後にイザナギが、「ウカラ離れむ。ウカラ負けじ。」といった。いったん結合して同族となったが、ここに両者の離婚を契機として、ふたたび分離し、敵となって相見えむ」という意味である。”(高群逸枝『日本婚姻史』至文堂 54頁)


黄泉平良坂 千引岩


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もしやこれは、出雲族(イザナミ)と物部族(イザナギ)の離婚のことではないのか?

神代の時代は、妻問婚です。となれば、物部族(ここでは、物部氏ということではなく、海部氏、紀氏、尾張氏を指す)が出雲族と婚姻すれば、東出雲王家の家に足しげく通ったでしょう。基本的に妻問婚の時代は、女性は自分の氏族から離れないわけであるから、男神が通うしかありません。

―しかし、丹後風土記や播磨風土記で、ホアカリノミコトの后である天道日女命高照姫)の記事があるのは特殊な事例なのか、どういうことなのか、今のところよくわかりません。

 

イザナミが、火之迦具土(ひのかぐつち)を生んで、女陰に火傷してお亡くなりになる話ですが…、通説的には、「出産の事故」あるいは考古学的に「製鉄のかまど」などと云われますが、裏の意図としては、出雲族との決別の話ということではないのでしょうか。

火之迦具土神、ひの…迦具…かぐ…、…もしや天香具山命(ホアカリノミコトの子)では?

火と出産との関係を考えると、二二ギノミコトと木花咲耶姫の火中出産の話が思い出されます。

二二ギノミコトが、自分の子ではなくて国津神の子ではないかと疑い、木花咲耶姫が母屋に火をつけて証明する話です。(詳しくは ウィキペディア天孫降臨の火中出産の項目へ →ウィキペディア 天孫降臨 


当時としては、一夫一婦制ではなく、対偶婚なので、疑いが生じても不思議はないですが、実際の子であっても、そういう誓約をしていれば女神が焼け死ぬということがあったのではないでしょうか。


奇想天外な説に思われるかもしれませんが、その後のイザナギの行動がそう思わせるのです。

黄泉平良坂から戻ってイザナギが、出雲からピューンと九州の日向に飛んで橘の小門の阿波岐原(あはきはら 宮崎県宮崎市阿波岐原町)で禊をおこなうのです。

富家の伝承によれば、「徐福」は、二度来日し、最初は和名ホアカリを名乗り出雲族と婚姻関係を結び天香具山命を授かり、海部王朝の系譜をつくり、二度目の来日でニギハヤヒを名乗り崇神天皇につながる九州物部王朝の系譜をつくったとされています。


イザナギという日本創建神話の男神とは、もしやニギハヤヒのことを表わしているのではないのかしら、そういう思いが浮かびました。

ニギハヤヒは、天道日女命高照姫)と離婚し、出雲族と決別し、日本には居なくなり、残された天香具山命は、母族である出雲族に依拠していったのではないかと。


黄泉平良坂の賽の神


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久那土の神は、もともと、共同体を同族化し縁を結ぶ神であったものでしょう。いつしか物部族との対立の過程で、お互いの領土の境を示す神に転化したのではないのでしょうか。


続く


by yuugurekaka | 2016-03-27 22:19 | 黄泉比良坂

黄泉比良坂  島根県松江市東出雲町揖屋


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黄泉比良坂(よもつひらさか)、つまり「あの世」と「この世」の境、何やら幽界につながる4次元世界の入り口のように考えますと、やはり神話の世界の話に過ぎないのかな…と思えてきます。

そして、実際の黄泉比良坂を何度か歩いてみますと、ただの峠の道のようにしか見えません。

しかし、古事記・日本書紀になぜこの東出雲町揖屋のこの峠の話が載っているのでしょうか。

問題なのは、この話が何を意味しているのかということ、また、なぜ黄泉比良坂がこの場所なのかです。

まずは、場所について考えてみます。


古事記の黄泉比良坂を知らない方はこちらをどうぞ→松江市観光協会 黄泉比良坂物語


★ 東出雲の王都の入り口か ? ★

グーグルアースの下記の地図を見ればわかりますが、この黄泉比良坂を超えた西側の黄泉の国側には出雲臣の拠点というべき、意宇川の流域に意宇平野が広がっています。




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その意宇川の川上を登っていくと、東出雲のカンナビ山、茶臼山が見え、その南側に出雲国庁跡が見えます。さらに西の方に行くと、(富家伝承によると)東出雲王(向家)の王宮だったとされる神魂神社があります。

意宇川 下流

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カンナビ山 (茶臼山)と出雲国庁跡地

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つまりは、東出雲王家の拠点にたどりつく最後の峠であったということになります。

古代の地形がどうだったか、再検討は必要に思いますが、奈良時代に出雲臣の拠点が西の出雲郷(いまの斐川町)に移る以外は、おおむね変化ないと思われます。

「出雲VS大和」というように対立の図式で語られることが多いのですが、天津系の神々が出雲族の妻と婚姻関係を結んでいることもまた多いわけで、―例えば 神武天皇から3代に渡って事代主命の末裔―葛城登美家から后を迎えています。

また、それ以前にも、物部族の祖―饒速日(=ホアカリノミコト)は、東出雲王家から高照姫(天道日女命)を后に迎え、天香具山命を生んでいます。(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』)

父系をたどれば、天津神ですが、母族が出雲族の場合も多いのです。


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続く


by yuugurekaka | 2016-03-26 09:00 | 黄泉比良坂

ここの仁摩町には、御門(みかど)という地名があったようである。(今もあるのかもしれないが)

その近くにはスサノオ一族の上陸地の伝承のある韓島があり、大国主命もまたその島と高麗と往来

したとの伝承があるようである。


もしや、その御門(みかど)とは、雲南市三刀屋町の「御門」の類の、つまり大国主命の王宮があ

ったのでは?などと一瞬考えがが浮かんだ。

そして、そこを拠点として、大国主命は、阿多伽耶主のところを行き来したのかなと妄想を膨らま

した。


しかし、ここは、よく考えてみれば、国分寺霹靂(びゃくりゃく)神社の元宮があったところで、

そもそも、石見国の国分寺があったという印としての「御門」なんだよなと思い直してみた。

石見国の国分寺は、浜田市国分町の金蔵寺境内だが、その前に仁摩町に国分寺があったようでそれ

が浜田市に移転したようである。


さて、仁摩町には現在も大国という地名があり、奈良時代にはすでに大国郷があった。そこの神社

はどこなのだろうと探してみるに八千矛山大国主神社であることがわかったが、インターネットで

いくら探しても出てこない、観光の名所にも載っておらず、地元の人に聞いてなんとかわかった。

ここのバス停の手前を左手に(東に)行くと、すぐそこは八千矛山だった。


     バス停


     

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かなり急な坂を登っていくと、お宮に着くことができた


     八千矛山大国主神社  島根県大田市仁摩町大国1137番地1

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大きな岩が境内にいくつもあります。磐座信仰の山なのかな。



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    八千矛山大国主神社 拝殿


                      

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     八千矛山大国主神社 本殿


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大国郷の八千矛山大国主神社なのに、どうして、ここの場所がインターネットの地図にも載ってい
ないのか。その理由は、神社の歴史にありそうだ。社伝によると

“八千矛山に御鎮座大国主神とて、出雲の国より高麗に渡り給い、帰途当村のつづき邇摩の海、唐島に着き給

い、此里に来り給い、大樹の松に雨露を凌ぎの由にて、其地を今に笠松と申伝え、蒼生尊崇奉りて、仮に殿を

奉遷し候処となす。それより八千矛山に宮居を定め給うによって大国と申す由、大国主神御鎮座の所を氏宮と

申して、往古より此の神を氏神と尊仰奉り候、其後足利家より八幡宮を氏神に祭る可しと御布令これ有候云々”


かなり古い神社で 昔の大国村の氏神さんだったものが、室町時代?には氏神が石見八幡宮にすり

替わってしまったようである。

なんとも悲しい感じがするが、長い歴史の中で、神社の祭神が変わったり、政治権力の影響を受け、

栄枯盛衰はつきものである。


実際、江戸時代の終わりには、小さな祠が森の中にひっそりとあったようである。


“近世に到っては小祠僅かに森中にかくれて久しく荒廃にまかせていた。文久の頃、津和野藩士野之口隆正が

此地に来たって深くこれを憂い、広く宣伝して大いに復興を計った。大国村安井好尚、これに感激して境内を

拡張、社殿の改築、村社列格等のことを主唱し、これにより諸般の問題が達成されたのは明治八年の頃であっ

た。”

                (昭和8年島根県教育会原編 小林俊二 修訂編纂「石見六郡社寺誌」)


つまり、八千矛山大国主神社は古くて新しい神社というわけである。神社再建の契機となった野々

口隆正は、この神跡に感動して、姓を大国と改めた程であったという。その時、72歳だった。

→ ウィキペディア 大国隆正


その再建されたお宮は、この場所ではなく、ここから山をさらに登っったところにある、御籠り岩

こもりいわ)のところだった。旧境内は風害にかかりやすく、参詣者の危険、祭儀執行困難等

り、明治38年3月10日に現座地に移されたようだ。


境内の右手に、石段があり案内の木柱が立っていた。



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本殿の上をだいぶ登ったが、いまだ御籠り岩に着かない。

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かなり山道を登ったが、いまだ旧境内地に着かない。ここを踏み外したら、確かに危険だ。

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平坦な道になった。どうやら、御籠り岩に着いたようである。


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御籠り岩は、この巨岩かと思っていたが、この巨岩の下の巨岩が積み重なった空洞というか、

岩窟だった。


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     御籠り岩~みこもり穴~


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中をのぞき込んだら、岩を削った石段が見えた。降りてみようかなと思ったが、戻ってこれな

い気がした。そういうことになったら、人様にご迷惑だろうと思い、降りるのは止めた。


御籠り岩の前に、大国隆正の歌が刻まれていた。


この山に まつりたたえん 行くすえを

萬代とやいわむ 八千矛の宮


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全国に大穴持命と少名彦命の巡行伝説として、志都乃石室(しづのいわや)伝承地があるが、巡行
の仮の住まいとして天然の岩窟が使われたのではないかというのが通説であるが、この二神が岩
に閉じ込められてお隠れになってしまったという悲しみからも、伝説となったのだろうと思い、祈
った。

参考文献      昭和47年 仁摩町役場発行 「仁摩町誌」
          昭和8年 島根県教育会原編 小林俊二 修訂編纂「石見六郡社寺誌」


by yuugurekaka | 2016-03-11 01:11 | 大国主命の国づくり

さて、下照姫といえば、記紀に載っている歌が頭に浮かぶであろう。

古事記には1首、日本書紀には、2首載っており、「ひな振り」(田舎風の歌)と云われている。その、記紀ともに載っ

ているこの一首。下照姫の夫アメノワカヒコに親族が、弔問に訪れたアヂシキタカヒコネを親族が、アメノワカヒコと

間違えて、「生き返った」と思われアヂシキタカヒコネが怒り、喪屋を切り伏せ、蹴とばしてしまった。その時、阿遅須

枳高日子の名をアメノワカヒコの親族に明らかにしないといけないと思い歌ったのである。


      壹宮(いちみや)神社 鳥取県西伯郡大山町上方1124

      主祭神は、アマノオシホミミであるが、下照姫とアメノタカヒコが一緒に暮らした場所との伝承がある。



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     拝殿が修造中であった。

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天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に

        穴玉はや み谷 二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ

(あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに

              あなだまはや み谷 ふたわたらす あぢしき たかひこねの神ぞ)


この歌の訳は、

“高天の原にいます 若い織姫が 首にかけたる 玉の首飾り

その首飾りの 穴玉よ、輝くごと 

深い谷を 二つまたいで輝きわたらせる 

アヂシキタカヒコネの神にいますぞ ”       『口語訳 古事記  三浦佑之訳・注釈』(文春文庫)より


1)七夕の織女と下照姫


いわゆる七夕を「たなばた」と呼ぶのは、古来機を織る女性を棚機女(たなばたつめ)」と呼んだらしい。

(本居宣長『古事記伝』)。

この歌がどのような意味を持つかであるが、それ以上、よくわからない。民族学者折口信夫氏にその解説があった。

折口信夫によれば中国から伝来した七夕の風習と、日本古来の川辺で機を織りながら神を待つ棚機女の話が融合

したようだ。→青空文庫 折口信夫 『たなばたと盆祭りと』


付随して、柳田国男氏の『日本の伝説 機織り御前』→青空文庫 柳田国男 『日本の伝説』では、もともとは、若

い男神に新しい神衣を織ってさしあげる話が、近代になっての伝承として山姥の話に転化していることが興味深い。

また、この中国伝来の七夕説話~織姫星と牽牛星~であるが、中世に到っては、牽牛星を天雅彦、織姫星→長者

の娘という設定に代わる「天雅彦草子」が作られている。→ウィキペディア 天雅彦草子  


下照姫命がこういう棚機女の歌をうたうから、機織りの氏族 倭文氏が下照姫を奉祭している理由の一説な

かもしれない。



     阿須伎神社 (出雲大社 境外摂社) 島根県出雲市大社町遙堪1473


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2)阿遅須枳高日子と天香香背男


そもそもこの歌は、アメノワカヒコをうたったものではなく、アヂスキタカヒコを歌った歌である。なぜに七夕の星の歌?

と思うが、思いつくのが星神 天香香背男の存在である。またの名を天津甕星(あまつみかぼし)と云う。

ウィキペディア 天津甕星


天香香背男は、高天原が出雲平定(古事記では『国譲り』)に乗り出す前に、やつけておかないといけない神とされ

ている。“「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香香背男です。どうかまずこの神を除

いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。”(『日本書紀 一書 第二』 宇治谷 孟 現代語訳  

講談社文庫より)  


外の敵に向き合うために、まず内部の矛盾を解決しないといけないということなんだろう。名の「天香香背男」という

のが、「天背男」に出雲神を表す蛇の古語である「カカ」を挿入していること(通説では星神だから 「かか」は輝くと

いう意味)を考えると、出雲族と婚姻関係を結んで、出雲族とは戦争をしたくない氏族であったのだろう。


天津甕星(あまつみかぼし)と聞いて、また浮かぶのが、阿遅須枳高日子の祖父神 赤衾伊努意保須美彦佐倭気

(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ)の妻神の天甕津日女(あめのみかつひめ)です。「天の…」と、いうからには、

出雲族ではなく高天原の系譜であろう。また、阿遅須枳高日子の妻神は、天御梶日女(あめのみかじひめ)でこれ

また、「天」と「みか」の名前がついている。(名前が似ているから、同じ神かはどうかわからないが、仮に同神であ

ったとしても弥生時代だと対偶婚なので、祖父神と孫神の妻が同じであっても問題はなかろう。)


もしや、天津甕星と天甕津日女命は同族であったのではないだろうか?

この天甕津日女命は、出雲風土記の出雲郡伊農郷や秋鹿郡伊農郷に登場してくる。また、天御梶日女命は、

縫郡神名樋山にて「阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多宮の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。」

との記載あり。

                      

     伊努神社  島根県出雲市西林木町376 

   

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     天甕津日女命の夫 赤衾伊努大住比子佐倭氣命 が主祭神で祀られている。

     ここの神社は風土記の出雲郡伊努郷にあり、出雲市美野町382番地にある伊努神社は秋鹿郡伊農郷にあり、

     天甕津姫命が主祭神である。


                       

     島根県松江市鹿島町南講武602 多久神社 



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     天甕津日女命が主祭神である。ここは風土記の嶋根郡である。




出雲の神門臣家と婚姻関係を結んだ天甕津日女命であるが、なぜだか尾張国逸文の丹羽郡吾縵郷(愛知県一

宮市)にも登場する。


尾張国 風土記逸文  (『釈日本紀卷十)

吾縵(あづら)郷

 尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品

津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋

ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、

多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者

が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。

天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか

否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行

き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必

ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこ

の地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建ててt神を祀った。(「吾が作

った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世

の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”

                 『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  (角川ソフィア文庫)


     多久神社 島根県出雲市多久町274



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     楯縫郡多宮村にあり天御梶姫命 多伎都彦命 を祀っている。



この多具(たく)国というのが、秋鹿郡島根郡多久川周辺をさすのか、楯縫郡多宮の村なのかわからな

いが、ともかく出雲国に登場する神が、ホムツワケ伝承の出雲大神に代わって、祟り神として尾張国にも登

場するのである。尾張の国で祀りなさいということは、もともと、天甕津日女命の氏族は、この尾張が本拠

地だったのかもしれない。


尾張国大国霊神社神職家の系図によると始祖が天背男命で尾張氏の遠祖であるという。また、先代旧事本紀

で饒速日が天下った時に随行した32人衆の中に天背男命(天神立命):山背久我直等祖、天背斗女命(天背男

命):尾張中嶋海部直等祖(どうも書籍によって天背男命の記述が違うらしい。インターネットの記述も混乱が見られ

るようだ。)の名が見られる。


さて、下照姫の歌に戻るが、阿遅須枳高日子は、「み谷 二渡らす」というところだが、折口信夫氏では、「長大

体」を表すということだが、私が思いついたのが、この二渡らすとは、一つは葛城の鴨氏、もう一つは尾張氏で、

二つの天津神の系譜をもつ氏族と婚姻関係をもって、氏族の隆盛に一役買ったのではないかという考えだ。(尾

氏の系譜には阿遅須枳高日子は出てこないが…)


出雲族は、結び付くと「悪神」と揶揄されるネガティブな面と、ジョーカーのごとく切り札としても使わ

れる族でもあったのではないだろうか。


by yuugurekaka | 2016-03-06 07:00 | 下照姫

倭文氏の祖である建葉槌命(天羽槌雄神)は、下照姫とどんな関係があるのか?

全国の倭文神社をインターネットで調べてみるが、倭文神社で必ずしも下照姫を祀っていないようである。

そうかと思うと、奈良県の葛城市のホームページに以下の記載がある。→葛城市役所 棚機神社


棚機神社  奈良県葛城市太田小字七夕
画像 出典 葛城市役所 棚機神社

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5世紀頃、葛城山麓の(北端に位置する當麻町)周辺では葛城氏(葛城地方を本拠として四世紀

末~五世紀に活躍した古代豪族)を中心とする有力豪族が存在し、その中には、染色技術を生業

とする置始(おきそめ)氏や、機織技術に富んだ倭文氏などの伴造(とものみやつこ)(大和政権

に職能奉仕をした技術者集団の長)がおり、中国南朝や朝鮮半島(百済・新羅)などから我が国にい

ままで伝来していなかった機台付の機(タナバタとは棚のある機、機台に組み立てられた立体的

な機のこと)やそれを織る織女、オトタナバタの説話や七夕儀礼(中国では機織り技術の向上を

願う儀式)が三者一体となってもたらされました。

これを置始氏や、倭文氏が最初に受容していたので、七夕儀礼を天羽槌雄神(あめのはづちの

おのかみ)(機織の術を教え授けられた神)やシタテルヒメ(渡来系の機織り集団に奉斎された

女神)を祭神とする、本来の鎮座地である(當麻町)葛城市太田で、日本最初の棚機の儀式が行

われていたと考えられます。”


新撰姓氏録(815)によると

 「大和国神別(天神) 委文宿祢 出自神魂命之後大味宿祢也」

 「摂津国神別 (天神) 委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」

という記述も見られる。委文も倭文も同じ意味らしい。


倭文氏は、カミムスビ系の氏族のようである。同じカミムスビ系の氏族として、県犬養連・瓜工連・

多米連・間人連・紀直・額田部連等が見られる。タカムスビ系とどう違うのか、今のところ知識がな

くてわからないが、系譜とは大半父系でつながっているので、もしや母族だとか関係しているのか

しら。


この新撰姓氏録と符合しているように洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、

神魂命─角凝魂命─伊佐布魂命─天底立命─天背男命─天日鷲命という

ような系譜となっている。

そして、その後が天羽雷雄命とつながるようである。(この天背男という名は、星神の天香香背男に名

前が似ている!?)


 さて、鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』(講談社学術文庫)を読んでいたら、天平11年(739年)

「出雲国大税賑給歴名帳」(いずものくにたいぜいしんごうれきめいちょう)が載っており、そ

の当時の出雲郡と神門郡の二部の扶養を要する高年の者や年少者の属す戸主の姓氏が記述され

ていた。



下照姫とされる(神社や風土記にその記載はないが)阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祀っている

多伎神社のある神門郡多伎郷であるが、40名記載のうち倭文部臣族二戸、倭文部一戸の名が

見える。

倭文部の名が見えるのは、神門郡滑狭郷の二戸と、多伎郷にしか見えない。



多伎神社 島根県出雲市多伎町多岐字笠無639



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それと、多伎郷には、伊福部十戸もある。伊福部も神門郡滑狭郷二戸、出雲郡漆沼郷一戸以外

には他の郷には見られない。伊福部は、鳥取県東部―因幡の国に勢力を持っていた豪族である。


このことを考えて思ったことだが、元々は阿陀加夜努志多伎吉比賣命=多岐津姫(宗像)だった

ものが、因幡から伯耆以東に基盤を持っていた下照姫に祭神がすり替わって、阿陀加夜努志多伎

吉比賣命=大国主命の御子(下照姫)になってしまったのではないか。

(富家伝承による阿陀加夜努志多伎吉比賣命=多岐津姫、八上姫の娘神=下照姫という前提の

考えに基づく)



倭文神社 夫婦岩

鳥取県東伯郡 湯梨浜町大字宮内754


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さて、話は戻るが、建葉槌命は下照姫とどういう関係があるのか。機織りの神というのだから、たぶん

秦族だと思われる。(ちなみに倭文氏の祖 角凝魂命は、大阪府阪南市石田の波太神社に祀られて

いる。)下照姫と結婚したと仮定するならば、建葉槌命=天若彦ではないか。


多久神社 島根県出雲市多久町274

    天御梶姫命 多伎都彦命 を祀っている。



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出雲族と同族化平和路線に走ったために、徐福(饒速日)に誅されてしまったのではないだろうか?

古事記で下照姫の兄とされる味鋤高彦命であるが、后の名は、天御梶姫であり、「天の」というだか

ら、天津神であり、この姫も同じ秦族であったのではないだろうか?

この神の系譜もまた出雲族と同族化して、誅されるにいたったのではないだろうか?




by yuugurekaka | 2016-03-01 01:32 | 下照姫