富家の伝承によれば、そもそもスサノオノミコトが存在しないようです。
この大田市の大浦港に上陸するのは、古代中国の秦の始皇帝より派遣された徐福ウィキペディア 徐福
と童男童女たち一行だそうです。じょ・・・じょふく?びっくりぽんです。

「徐福」と言われると、一般的には山陰地方は、伝承地は無いことになってしますし
どうもピンと来ません。紀元前3世紀時代の話のようですが、この「徐福」が和名として、一度目の
来日で「饒速日(にぎはやひ)」を名乗り、二度目の来日で「火明(ほあかり)」を名乗ったようです。

一見突飛な説のように思えますが、物部氏系の伝承とされる
先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)→ウィキペディア 先代旧事本紀 では、「またの名を天火明命
またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほの
みこと)。」となっています。

古事記では、火明命はニニギノミコトの兄です。火明命=饒速日命とは。
さらに、古事記でスサノオノミコトで述べられていることを加えると、スサノオ=火明命=饒速日命と
いうことになります。

下記は斎木 雲州著『出雲と大和のあけぼの』 144頁、145頁に乗っている出雲王家の系図からの抜粋ですが、
古事記、日本書紀で語られる系図とは違うので、ちょっと混乱します。
古事記、日本書紀では、大国主命一神に収斂されてしまって、なにがなんだかわかりませんが、宗像三女神も
このような婚姻関係で、初代ヤマト王権とつながりがあったとは。


e0354697_14525005.png
日本書紀では、五十猛命と大屋姫は兄妹となっていますが、この系図では夫婦となっており、大屋姫は
スサノオノミコトの娘ではなく、アヂスキタカヒコノミコトの娘です。

物部氏の祖が、饒速日であることは、よく知られたことです。
出雲大社のあるところの近くの(奈良時代の)楯縫郡(たてぬいぐん)には、物部氏ゆかりの布都御魂
を祀った神社が三社あります。
そのうちの一社である塩津浦の石上神社ですが、「スサノオ誕生の地」との伝承があるそうです。
スサノオ=饒速日命ということなら、なんら無関係な話ではありません。
そもそもスサノオが持っていた十拳剣(別名 天羽々斬剣)が、天理市の石上神宮に祀られているわけ
ですから。

石上神社  出雲市塩津町279

e0354697_16241521.jpg


by yuugurekaka | 2016-01-30 16:27 | スサノオ一族 上陸地

さて、韓浦(大浦)に上陸したスサノオノ命他三神ですが、なぜ三神なのでしょう。
日本書紀第五が、大きく影響していると思うのです。

“一書(第五にいう。素戔嗚尊が言われるのに、「韓郷には金銀がある。わが子の治める国に、舟がなかっ
 たらよくないだろう」と。そこで髭を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の
 毛は槙の木になった。眉の毛は、樟(くすのき)になった。そして、その用途をきめられて、いわれるのに、
 「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。桧は宮をつくる木によい。槙は現世の寝棺を造るのによい。
 そのために沢山の木の種子を皆播こう」と。この素戔嗚尊の子を名づけて五十猛命という。妹の大屋津姫
 命。次に枛津姫命。この三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。その後に素戔嗚尊が熊
 成峰においでになって、ついに根の国におはいりにjなった。”
                                 『日本書紀 上』宇治谷 猛  講談社学術文庫
                                

韓浦に上陸してその後どうなったかというと、当地に残る伝承では、三神が「神別れ坂」にて分かれます。

神別れ坂  島根県大田市五十猛町
五十猛命と大屋津姫命、抓津姫命の三神が分かれた場所として石碑が建っています。

e0354697_23203836.jpg


そして、また再会します。

逢浜(おうはま)  島根県大田市五十猛町
五十猛命(イソタケルノミコト)と大屋津姫命(オオヤツヒメノミコト)が逢った浜だと云われています。
大屋町から五十猛町の逢浜に流れている川を逢浜川といいます。


e0354697_23182484.jpg


逢い浜の近くの丘に五十猛神社があります。

五十猛神社 島根県大田市五十猛町湊183


e0354697_23200017.jpg


“社殿によると須佐之男命が五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命と朝鮮半島からの帰途、この地に上陸、
五十猛命はここに残って木種を播き殖産につとめ、湊の宮山に祀られという。また須佐之男命は大浦に
留まって韓神新羅神社に祀られ、湊の近くの坂(神別れ坂)で須佐之男命と別れた姫神二柱はそれぞれ
造林や機織りなどの業をひろめ、大屋津姫命は大屋の大屋姫神社に、抓津姫命は川合の物部神社の
境外社漢女(からめ)神社に祀られたという。”                        (白石昭臣)
                                    谷川健一 編『日本と神々』7巻 白水社より

五十猛神社 本殿

e0354697_23201946.jpg


ここらへんの神社の造りですが、本殿が小ぶりな流造りが多いようです。
大社造りばかりの出雲地方と、石見地方ではここが大きく違ってきます。

大屋姫神社  島根県大田市大屋町大屋261番地1

e0354697_23211668.jpg


大屋姫神社 本殿


e0354697_15221545.jpg

大屋町には、鬼村という地域があり、鬼岩や大歳神社などあり、大国主命の伝承もある地域ですが、道に
迷ってしまい、大屋姫神社神社のみの参拝となってしまいました。

漢女神社(からめじんじゃ) 物部神社境外社    島根県大田市川合町川合


e0354697_00391237.jpg



五十猛神社の社殿によれば、大浦の韓神新羅神社に留まり、鎮座したことになっているスサノオの命です
が、大田市大田町神西山の喜多八幡宮の社記によれば

“「太古、須佐之男命の一行は朝鮮半島からの帰途、五十猛海岸に上がり、現在の神別れ坂で他の神々
と別れたあと須佐之男命はさらに東に進んで百済海岸に上陸、そこから大田に到って土地を開き、農業、
殖産につとめた。この命を祀ったのが境内社来成神社である。」”            (白石昭臣)
                                   谷川健一 編『日本と神々』7巻 白水社より   

日本書紀 第四の記載に、高天原からの追放→新羅の国 曽尸茂梨(ソシモリ)に降臨とあるところから、
サノオの命は、朝鮮半島の渡来神であるかのように半ば通説的に語られることが多いですがていますが、
伝承を見ると、「新羅」と思ったら、「百済」であったり、「韓」と表現したと思ったら、「漢」や「唐」であったり、そ
の出自に関しては全く謎の多い神です。


by yuugurekaka | 2016-01-27 08:00 | スサノオ一族 上陸地



国道9号線を車で走っていくと、大田市街から抜けて、日本海が大きく見えてきます。
昔務めていた医療器の営業マン時代、そこら辺りから、海岸線にそって、急激なカーブやアップダウンの道が続いて
いくので、気をしめ直していたよなあと、その頃を思い出します。毎月1回~2回は、この道を通っていました。

この視界に広がる海岸を「五十猛海岸」といいます。
この「五十猛」いそたけ、日本書紀に出てくる「イソタケル」の神の名前です。
そして、ここの町は大田市五十猛町です。つまり、神様の名前がそのまま町の名前になっています。

神様の名前はここだけではなく、五十猛町に隣接して「大屋町」(大屋姫命)、「(旧)大国村」(大国主命)と続き
ます。いつ頃 その名前がついたのか定かではありませんが、少なくとも奈良時代には、「大国郷」が見られるので、
最近のことではないのだ思います。

五十猛海岸


e0354697_23183852.jpg

韓島  島根県大田市仁摩町宅野
宅野は、奈良時代「託濃」と言われ、山陰道の駅があったところで、交通の要所であったのではないのでしょうか?

e0354697_23161512.jpg

宅野港の沖合にある3つの島。中央に見える島が、韓島(からしま)で、左に見える麦島(むぎしま)(無木島)で、写真
には写っていませんが、後ろにある島が、逢島(おおしま)です。


韓島に見える白い鳥居は、韓島神社のものです。この神社にはスサノオノミコトが祀られています。
スサノオノミコトが、新羅(しらぎ)より、五十猛命(いたけるのみこと)や、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命
(つまづひめのみこと)を連れて韓島に寄り、韓島の洞窟で濡れた衣を着替えた後、大浦港(五十猛漁港)に上陸したと伝え
られています。

天の岩舟(磐船)で、天から鳥上山に降ってくると言われるよりも、ずっとリアルな伝承のように思います。

大浦港  島根県大田市五十猛町大浦  
古くは、「韓浦」と呼ばれていたようです。
背後に見られる山は、韓郷山(カラゴヤマ)です。異国の名前を冠した地名が多いようです。
ここの大浦には、国の重要無形民族文化財に指定されているグロがあります。
グロと呼ばれる独特の形の大きな仮屋を浜辺に作り、歳徳神(としとくじん)を迎え、豊漁や無病息災を祈願し、最後に正
月飾りとともに仮屋を焼き払う伝統的な行事です。(詳しくは→ ダイドードリンコ日本の祭り 五十猛のグロ


e0354697_23205365.jpg

この大浦港に鎮座している神社が、「韓神新羅神社」(からかみしらぎじんじゃ)です。
祭神が、武進雄命(スサノオノミコト)、大屋津姫命、抓津姫命です。

韓神新羅神社

e0354697_23175029.jpg


韓神新羅神社拝殿


e0354697_23173692.jpg

“素戔嗚尊、新羅より帰って、大浦の灘にある神島に上陸しませりと伝える”
                      (昭和8年島根県教育会原編 小林俊二 修訂編纂「石見六郡社寺誌」)

神島 
和田珍味本店という水産加工品店に遥拝所が作ってありました。その店に休憩によりましたら、スサノオ一族の伝承地の地
図があり,、そこを基に伝承地を見て回ってみました。


e0354697_00102282.jpg

太古、宅野港や大浦港が、朝鮮半島や大陸との重要な玄関口だったに違いないと思いました。
潮の流れなのか、三瓶山(佐比売山ーさひめやま)が、灯台のような目印になったのか、素人考えですが、そんな気が
しました。


by yuugurekaka | 2016-01-14 08:00 | スサノオ一族 上陸地

クナトの大神・サイの神・サルタヒコの神

富家伝承によれば出雲族が元々奉祭していた神は、大国主命や事代主命ではなく、クナト大神とそ
の姫神幸ノ神と子神のサルタヒコの命の3神であったようです。
クナト大神とは、聞きなれない神の名前ですが、そもそも出雲族の起源は、3千500年以上前に
アーリア人の侵攻によって、日本に民族移動してきたインドの先住民ドラビダ人だそうで、クナト
の大神はクナ地方に支配していたクナト王です。

          (参考 斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版)

しかし、クナトの神といって聞きなれないのは無学な私のような者だけのようです。

“折口先生の歌、
 村の子は、女夫(めお)の道祖神(くなど)の肩だきています心を、よく知りにけりなどの歌は、
たぶん、酒匂川流域の、小田原在のもののようだ。男女のふるまいについて、十分にわかっていな
いはずの村の子供たちが、不思議な知恵で、なにをしているところかを知っていて、知った上での
笑いと騒ぎをしているのを、民族学者である詩人が見ているところだ。道祖神をくなどという。そ
のくなは、もともと男の性器の名だ。そして、これを動詞にしたくなぐは、行為そのものをいう古
語である。”
                      (池田弥三郎『性の民俗誌』講談社学術文庫) 


平濱八幡宮・武内神社の幸の神   松江市八幡町303


e0354697_23120247.jpg

布志名の才の神さん     
玉造と松江市内との境にあります。

e0354697_23113201.jpg



また、女性史研究家の高群 逸枝(ウィキペディア 高群 逸枝 )によれば、 縄文時代中期以降の婚姻と
して、「クナド方式」なる形態が出現するという。そのクナド方式の説明です。

“これらを考えると、クナドの神なるものは、数ヶ村共有のヒロバや、入会山や、交通の要路(い
わゆるヤチマタや物々交換の市場)や、村の入り口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が
交通の神、他面が性の神という複雑さをもっている。
 交通の神が性の神でもあるというのは、族外婚段階のヒロバのクナドを考えればわかろう。クナ
ドは文字通り神前共婚の場所であるが、またそのことによって他群と交通し、結びつくことになる
場所でもある。  
原始時代では、性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の
見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあった。
大国主命の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかならない。”                           (『日本婚姻史』至文堂 )


今年の初詣は、出雲族のもともとの信仰とも考えられる、サイノカミの名残ともいうべき宍道町女
夫遺跡、大森神社、才神社に行きました。


女夫遺跡(めおといせき)松江市宍道町白石3313-1

e0354697_23145206.jpg

“県指定史跡 女夫岩遺跡 八束郡宍道町白石
この遺跡は二つの巨石からなり、地元で信仰の対象として「女夫岩さん」とも「宍岩さん」とも呼ばれている。
巨石の大きさは、北側のものが長さ9m、幅2.5m、高さ4m以上、南側のものが長さ6m、幅3m、高さ4.5m
以上を測る。平成6年(1994)に中国横断自動車道の建設予定地となったことから、平成8年(1996)に県教
育委員会と宍道町教育委員会が巨石周辺の調査を実施した。その結果、占墳時代中期から後期5-7世紀頃の祭祀に使
われたと思われる土器片が出土し、巨石信仰が古代にさかのばる可能性か高くなった。巨石周辺の平坦地や石垣がつく
られた時期は不明であるが、遺物の中には近世から近代のものもあり、古代から現代まで祭祀の対象となっていたと考
えられる。また、巨石は天平5年(733)に編纂された出雲国風土記の意宇郡宍道郷についての地名伝承に書かれた
「猪像」(ししのかた)にあたるとする考えがあり、宍道町白石の石宮神社の巨石とともに風土記の伝承と現存する遺
跡との関わりを考えるうえでも貴重な遺跡である。
このような経緯から、平成9年(1997)に遺跡は県指定史跡となり、現状のまま保存されることとなった。 平成9
年3月28日指定 平成12年3月 島根県教育委員会 宍道町教育委員会 ” (説明版より)


JA島根中央家畜市場の前の道から入っていきました。
遺跡は、高速道路のトンネルの上にあります。
高速道路建設の折に、取り壊される危機にあり、住民団体の保存運動の結果、残ることになりま
した。


e0354697_23135617.jpg

家畜市場とは反対側の北西側登り口です。


e0354697_23151817.jpg

少なくとも、古墳時代中期以降には、斎場として存在していたのです。
女夫岩遺跡の南側には弥生時代後期の墳墓と古墳からなる清水谷遺跡や、弥生時代から古墳時代に
かけての集落跡である矢頭遺跡があります。
時代をさらにさかのぼれば、神前共婚のクナドのヒロバだったのかもしれません。


e0354697_23140881.jpg

大森神社 松江市宍道町佐々布738
祭神 大穴牟遅命

社地は昔は宍道川西側の神籬坪というところにあったといいます。
女夫岩遺跡は、今もなお 大森神社で祭祀が行われています。


e0354697_23154325.jpg

佐為神社 松江市宍道町白石1464
祭神 猿田彦命

この神社の参道の一直線上に女夫岩遺跡があります。
もしかしたら、大森神社のムラと佐為神社のムラの結節点として、女夫岩のヒロバがあったのかなと勝手な想像をしました。

e0354697_23143223.jpg

共同体を結ぶ神 クナトの神

通説的には、クナトの神( ウィキペディア 岐の神 )は、「外敵の侵入や悪霊を封ずる、さえぎる」
神と言われていますが、本来は、そういう否定的な神ではなく、異なる共同体と結んでいく、肯定
的なおおらかな神だったのではないかと、私には思えます。

それが国造りの礎にはなったけれども、そういうおおらかな神の子孫の王朝だからゆえ、渡来の神
々の前では、お人好しで 滅んでしまったのではないか。


by yuugurekaka | 2016-01-07 00:41 | 塞の神