伯耆国(ほうきのくに)の「伯耆」ですが、箒神(ほうきがみ)から、名前の由来が来て
いるのではないか?ということが、真っ先に浮かびます。
箒とは、掃除に使うそれですが、古事記の天若日子の「もがり」の記述のところで、魂を掃き
集める係「帚持」が、話として出てきます。

“菷は掃除の道具ではあるが、前述のように祭祀等にて用いられてきた神聖な道具でもあり、日
本の庶民の間においても菷神(ははきがみ・ほうきがみ)という神が宿るとされた。
菷神は産神(うぶがみ)のひとつである。掃除の行為である「掃き出す」ということが出産と
結びついたためといわれるが、古名である「ははき」が「母木」に通じるところからともいわ
れる。また箒の形が依代(よりしろ。神道において神事の際に一時的に神が宿るもの。たとえ
ば榊の束)に似ているために信仰対象になったともいわれる。
妊婦の枕もとに立てて安産を祈ったり、産気づいたときに燈明を点けて妊婦に拝ませる、そし
てその箒で妊婦の腹をなでるということも行われた。新品の菷で妊婦の腹をなでることが安産
につながるとも信じられた。
このように、菷は神聖なものであるため、それを跨いだり踏みつけるなどのことを忌み、罰が
あたるなどと考える風習は各地に伝わっている。” ( ウィキペディア 箒 より ) 

箒(ほうき)そのものが、古代において 掃除の道具であったかどうか、わかりません。
本来は、祭祀の道具だったのかもしれません。

さて、「伯耆国風土記」逸文に「伯耆国の由来」が書かれていました。
“或書に引る風土記には、手摩乳(てなづち)、足摩乳(あしなづち)が娘、稻田姫、八頭(やまた)の
蛇(をろち)の呑まむとする故に、山中に遁(に)げ入りき。
時に、母遲く來ければ、姫、「母來ませ、母來ませ」と曰ひき。
故、母來の國と號(なづ)く。後に改めて伯耆の國と為す。云々。”
                              (『諸国名義考』 1809)

ヤマタのオロチ伝説の話から、「ヤマタのオロチが来るから、お母さん来て。ははきませ」とい
うことから名前が付いたということになっています。
出雲風土記の中に「ヤマタのオロチ退治」の話が無くて、伯耆国風土記にあるとは。
ますます、ヤマタのオロチ退治が、日野川流域の孝霊天皇の鬼退治の話をモチーフにしたものか
あるいは、大国主命や事代主命の守り神が退治されるような失礼な話を地元の風土記には書くこと
が困難だったのかわかりませんが、ともかく、「伯耆」とは「ははき」から来ているということは
間違いのないことのようです。

六所神社の荒神さん    松江市大草町496 
出雲国府の跡地に鎮座している神社です。藁でつくった蛇が、口をぱっくり開けています。

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それと私が、「ははき」から思い出すのは、「アラハバキ神」です。→ ウィキペディア アラハバキ
アラハバキ神が何なのかいろいろな説がありますが、吉野裕子「蛇神説」が興味深いです。
吉野裕子さんによれば、“「はは」は「蛇の古語」であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるい
は「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
―中略― 伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、
つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われ
るというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつ
く。ちなみに、
「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」
になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説” 
                             (ウィキペディア アラハバキより)

この荒神さんですが、出雲地方の神社の裏の山でよく見ますが、元々は集落の山などで奉祭されていたと
聞きます。今や荒神さんは、スサノオノミコトだというのが通説になっていますが、元々は塞ノ神と同じ
ような出雲の古代の祖霊信仰だったのではないかと思います。


さて、鳥取県倉吉市に「波波伎(ははき)神社」という古来からある神社があるというので参拝してみました。
参道の雰囲気が、すでに古社という雰囲気でした。


波波伎(ははき)神社 参道  鳥取県倉吉市福庭654

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石段の下の古木
スダジイを中心に巨木がたくさんありました。巨木を見ているだけで、長い歴史の重みを感じさせられる気持になります。


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波波伎神社 拝殿



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写真ではそんな感じはしませんが、かなり大きな拝殿でした。
祭神は、八重事代主神です。
国譲りの際に、「天逆手(あるいは天栄手)」を打って、
青柴垣に籠ったというのが、ここの宮であると云います。
当社の西800mには、祭神の上陸地に「ワタガラヒ」と伝えられる場所があるそうです。
もしかしたら、古代では、海がすぐ近くだったんでしょうか。

波波伎神社 本殿

全国的には一般的な流れ造りの本殿です。出雲地方では、大社造がほとんどなので新鮮です。

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巨大なタブの木のそばにある荒神様・稲荷様
倉吉駅近くの上井神社にも「荒神稲荷様」の境内社がありましたが、ここらの地域では、荒神さんとお稲荷さんを一緒に
祀るようです。
波波伎神社だから、いわゆる藁蛇の荒神さんがあるとばかり思っていたのですが、そうではありませんでした。

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福庭古墳

“古墳時代後期の古墳で、横穴式石室を埋葬施設としている。墳丘は直径35m、高さ4mの円墳。石室は、全長9.5
m、幅2.2m、高さ2.3mの規模。奥壁と側壁に大きな切石を立て、一枚石の天井石を置いている。遺体を安置す
る玄室に入ったところに石を横長に立てているが、これは安置場所を区画する石障と考えられている。石室入口(玄門)
の天井石には、扉を観音開きに開閉する時に都合のよい感じの段がつけられているが、装飾のためと思われる。なお、
奥壁の一部などに赤色顔料が残り、装飾古墳の可能性がある。7世紀前半代の築造と推定され、鳥取県における古墳の
終末段階を代表する古墳である。”(境内 説明版より)


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山陰の神社の杜に古墳がある確率は大変高い気がします。
昔は、古墳のある杜に神社があると漠然と思っていましたが、いわゆる古墳は、古墳時代のものが大部分です。
出雲王朝は、弥生時代に全盛期で、弥生時代にほろんだ王朝なので、むしろ神社の創建の方が、古墳よりも古いのではな
いかなどと思ってしまいます。ここの波波伎神社もいつからあるのか、不詳です。


「波伯国造は、志賀高穴穂(成務天皇)朝御代に牟邪志(武蔵)国造と同祖の兄多毛比命の児の大八木足尼(おおやきの
すくね)を国造に定め賜いき」 (国造本紀より)

伯耆国造(ほうきくにのみやつこ)の祖が、牟邪志(武蔵)国造と同じく、天穂日命なのに、なぜか事代主命を祀ってい
るのかという疑問があります。しかしながら、天穂日命の一族は、そもそも出雲神である「祟り神を遷し却る」役割を担
った一族でもあり、またあるいは、富家伝承によれば、大国主命や事代主命の一族は、出雲王国崩壊後、天穂日命の子孫
として名乗るしか生き延びる手段がなく、景行天皇の関東派兵の際、関東に進出して、関東の国造となったらしいので、
本当は、事代主神が祖先なのかもしれません。
どちらの理由にせよ、天穂日命を祖とする国造が、事代主神を祀っても不思議はないと思います。

by yuugurekaka | 2015-12-31 20:44 | 伯耆

国道181号線を米子市内から走っていると宗像の地名に気づきます。
どうして、筑前の宗像氏の神社がここにあるのだろうか・・・。
山陰では宗像氏の神社は珍しいです。→ ウィキペディア 宗像氏
地名は宗像なのに、神社は「宗形」と書きます。

出雲の西の王家ー大国主命と親戚関係にある宗像氏が、出雲の東の王家の隣の地域「伯耆」にある
のはどうしてなのでしょうか?


宗形神社 鳥居

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往古、宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に船で来着し、
これを祀ったのが起源と伝えられています。
大昔は、大山が一つの灯台のような目印で、海人である宗像氏が漂着しやすかったのかな。


神社前に流れる四反田川 中海に流れています。

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“祭神御着船の地は、米子市長砂町小林(当時この辺りは入江であった。)であって祭神の御
乗船はのちに石に化したと伝えられ、この所を御船塚と称していた。” 
                       (全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁)

大昔は、米子市内が昔は海で、米子南高校あたりが入り江だったということは海辺に海に近
い神社だったのですね。


石段から見える宗形神社拝殿

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宗形神社 本殿

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弘治2年(1556年)に尼子晴久が、現社地に奉遷するまでには、北330mの宮ノ谷にあっ
たようです。
神社の裏山に「宗像古墳群」があるようですので、上ってみました。
神社はもともとは、ここに無かったわけですので、古墳とは直接関係ないのでしょう。


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3つの前方後円墳と22の円墳が見つかっているらしいのですがどれが古墳なのかよく
わかりません。円墳のように見えました。

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右手に前方後円墳らしき古墳がありました。石室らしきものが露出しておりました。

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裏山から見える宗形神社本殿

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気品の感じられる神社でした。
紅葉のシーズンだとさらに美しいでしょう。



by yuugurekaka | 2015-12-28 08:00 | 伯耆

孝霊山   鳥取県西伯郡大山町・米子市

 古くから、香原山・瓦山・高麗山・韓山・唐山・光霊山などとも 称されてきました。
右に見えるは大山。詳細は → ウィキペディア 孝霊山
孝霊山の麓の西北に日本最大の高地性集落の遺跡「妻木晩田遺跡 」があります。


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“キビ王国のフト二王の勢力は、伯耆町の宮原からさらに北に進んだ。尾高から後世に吉備式土器が出土したのは、キビ
の兵が残したものであろう。竜神が住むという赤松の池の北方に、コニーデ型の丸山があった。フト二王の勢力それを
ぐるっと回って、その東北の宮内(大山町)に留まり住んだ。フト二王は、孝霊という諡(死後の贈り名)となった。それで
コニーデ型の丸山はフト二王にちなんで、後世には孝霊山と呼ばれた。
                            斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)より   

※ フト二王…第七代天皇 孝霊天皇のこと。
  和風諡号は、日本書紀では、「大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこ・ふとにのすめらみこと)」、古事記で
  は、「大倭根子日子賦斗邇命」と記述されている。



高杉神社 社号標・鳥居


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高杉神社拝殿

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“フト二王は晩年を、宮内で過ごされた。今、高杉神社が建っているところが、その屋敷跡である。そこには、大和の都か
らは后細姫と妃福姫が付いて来られた。ところが、フト二王は伯耆地方で若い美人を見つけて、屋形に迎え熱愛されたと
いう。かえり見られなくなった細姫は、息子オオキビツ彦がまだ住んでいた日野の樂樂福神社の西宮に移り住んだ。”
                            斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)より  

ここの神社では4年に1度、「うわなり(後妻)神事」が行われています。
この神事の起こりの由緒として、以下のように伝わっています。

“・雄略天皇丙辰(476)年、近郷で次々と災難が起こった。
・託宣(神のお告げ)によって、孝霊天皇(紀元前342年~紀元前215年:『古事記』『日本書紀』に記される第7代天皇)
 に仕えた2人の官女「松姫命」と「千代姫命」の霊魂が、本妻である「細姫命」に対して嫉妬していることが原因とわかっ
 た。
・3人の姫の社をつくって祀り、祭日には神事を行ったところ、災難は治まり幸せに生活することが出来る様になった 。”
                                      鳥取県公文書館 ブログ記事 より
神事の様子が、鳥取県公文書館 ブログ記事に詳しく載っていました。

先日 NHK「タイムスクープハンター」の再放送で「うわなり(後妻打ち)」をドラマ化したものをやっていましたが、
中世から江戸時代には、「うわなり(後妻打ち)」というものが一般的に習俗として存在していたようです。


by yuugurekaka | 2015-12-19 08:00 | 出雲・吉備戦争

溝口町と書きましたが、平成の大合併で岸本町と合併して 現在 伯耆町となっています。
溝口町といえば、「鬼」をテーマとした町おこしで有名でした。詳しくは→日本最古の鬼伝説と鬼がいる風景
「おにっ子ランド」の大きな鬼「大牛蟹」が、溝口の町を見下ろしています。

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近くで見ると迫力があります。昔 大鬼が鎮座している「鬼ミュージアム」にお訪れたことがありますが、閉館になって寂しいですね。

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鬼住山(きずみやま)

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兄の「大牛蟹」、弟の「乙牛蟹」を頭領とする鬼の集団がが住み着いていたと言われる山です。



笹苞山(さすとやま)

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孝霊天皇が陣取っていた山です。まず人々から献上された笹団子を3つ置いて鬼を誘い出して、弟の「乙牛蟹」を射殺し
ました。そこから、「笹苞山」の名前があるようです。桃太郎のキビ団子みたいな話です。

しかし、「大牛蟹」は降伏するどころか、さらに激しく暴れまわりました。
孝霊天皇は夢を見ました。「笹を刈って山のようにしなさい。風が吹いて鬼は降参するでしょう。」というお告げでした。
その通りにすると、笹の葉が鬼の体にまとわりついて狼狽しました。そこに火をつけて、孝霊天皇は、鬼との戦いに
勝ったのです・・・というような伝承があるようです。


樂樂福神社鳥居


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笹の葉で葺いた屋根で社殿を造って、鬼退治に成功した孝霊天皇を祀ったのが、樂樂福神社の起こりだそうです。


樂樂福神社拝殿

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ここの境内には、孝霊天皇の陵墓との伝承がある前方後円墳があります。

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溝口の日野川には鬼守橋がかけられています。鬼のブロンズ像が10体四方に鎮座しています。

鬼のブロンズ像
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この橋を渡って鬼ランドの大鬼の方に近づきましたら、神社を発見。
大守神社だそうです。もともとは出雲大社の分霊を祀ったの伝承があり、大己貴命の神社らしいです。
明治以降、玉依姫命、大山祇命が合祀されたようです。
ここら当たりで、吉備軍の侵攻を食い止め、出雲の国を守らんとしていた名残なのかなあと、勝手に想像しました。

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“劣勢となった出雲兵は、永く隠っていた鬼住山から西に敗走した。溝口の先住民を追い払って、そこを占領した吉備軍は、
出雲兵を鬼と呼んだ。
 出雲兵が隠った山はその時から鬼住山と呼ばれた。日野川にできた橋は鬼守橋と呼ばれている。樂樂福神社の近辺では、フ
ト二王と鬼の話が伝承されている。
 次に出雲兵は、西方の要害山(西伯郡南部町天万)に移り、その付近でも防衛した。ここでも激戦があった。
 この溝口・要害山の攻防戦が、約六百年にわたる出雲王国時代での最大の戦いであった。東出雲王国兵士の三分の一が、
このとき戦士したと伝えられる。向王家の分家の人々も多く亡くなったと伝えられる。” 
                             斉木雲州著 「出雲と大和のあけぼの」(大元出版より)

「出雲と大和のあけぼの」にも書かれていましたが、大国主命の死と再生神話は、出雲軍が吉備軍に敗れた話が変化した
ものなんでしょうね。つまりは八十神とは、異母兄弟ではなく吉備軍ということになります。(参考→http://yomiagaeru.exblog.jp/i4/ )
また、島根県境(鳥取や広島)に多く伝承が残るイザナミの陵墓の山は、この時亡くなった出雲兵の墓なのかもしれません。
そう考えると、出雲東部地区の神在祭とは、もしや、イザナミに対する物忌みではなく、
このとき亡くなった出雲兵を弔うということなのかなどと、思ってしまいました。



by yuugurekaka | 2015-12-15 22:10 | 出雲・吉備戦争

鳥取県の日野川流域には、孝霊天皇の鬼退治伝承の神社が多いです。
崇神天皇の出雲征伐のからみで、四道将軍として吉備津彦がでてきますが、神社の伝承から考えると、
崇神天皇時代の話ではなくて、出雲と吉備との戦争は孝霊天皇の時代の話としか思えません。

日南町に着きますと、思いの外、スサノオが天から降っていた船通山(鳥上山)が近い、ということにびっ
くりしました。帰り道自動車で、行ってみますと30分もかかりませんでした。

斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、スサノオの八岐大蛇退治の話は、孝霊天皇
か、吉備津彦の鬼退治(出雲への侵攻)の話が転化したものではないかということですがそうなのかもし
れません。

日野川は、カタカナで書けば「ヒノカワ」です。島根県の斐伊川は、「簸の川」(ヒノカワ)ともいいます。
朴 炳植著『出雲族の声なき絶叫』(新泉社)によれば「斐伊川の語源は『ピイガワ=血の川』という古代韓
国語である。」ということなので、多くの出雲・吉備兵士の血が日野川に流れたのではないのでしょうか。
(参考 坂本屋三郎『古代出雲で何が起こったか』 ―不比等のおそるべき謀略の全容を解明する― 
青山ライフ出版株式会社)


遠くに見えるのが鬼林山(きりんざん)だと思うのですが、(西))樂樂福神社の方から写しました。
孝霊天皇に退治される鬼が陣取っていたと云われています。

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“孝霊天皇が当地に巡幸された折に鬼林山(きりんざん)に蟠踞(ばんきょ)する「牛鬼(ぎゅうき)」の名で恐れら
れる一団が里人を悩ます由を聞し召され、皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。”
                                                              樂樂福神社由緒略記より)
出雲族は無茶苦茶 悪者の鬼として、描かれています。


(東)樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 社号標



  • (東)樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 本殿



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“樂樂福神社の「ささ」は砂鉄をあらわし「ふく」は溶鉱炉への送風をあらわしたものであると伝わっており
「たたら」の文化を今に伝える由緒あるご社名”(樂樂福神社由緒略記より)です。

スサノオは、たたら製鉄の伝えた神と言われていますが、孝霊天皇も鉄の神であるらしい。
ますます、孝霊天皇の鬼退治が、スサノオの八岐大蛇退治のモデルのように思えてきます。


“ヒボコの勢力を追い払ったカツラギの軍勢はこともあろうに、出雲王国領のキビ地方に侵入した。カツラギ王家を親戚
と考えていた出雲王家は、大きな衝撃を受けた。予想もしないことで、その防戦の準備が遅れた”
“吉備王国から、出雲王家に遣いが派遣された。要件は、二つの要求であった。その一つは、イズモの仁多の郡と飯石の
郡を譲ることであった。”

“吉備軍は生山から川に沿って北に進軍し、印賀(日南町)に陣取った。そこは砂鉄の多いところであり、砂鉄の採れる
谷に、宝谷の名をつけた。すぐに製鉄の技術をもつ兵士が、野ダタラで刄金を造ったと伝わる。”
“矢戸(日南町)に達すると、そこの西方(宮内)に本陣を築いた。道を挟んで東にワカタケキビツ彦が住んだ。
 西には、オオキビツ彦が住んだ。後には、その地に社が建てられた。それらの社は日野大社樂樂福大明神と称されたが、
明治になって樂樂福神社と改称された。それが、樂樂福神社東宮と樂樂福神社西宮である。”
(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)より)




(西)
樂樂福神社(ささふくじんじゃ)社号標
                           
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(西)
樂樂福神社随神門

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(西)樂樂福神社へも行ってみましたが、随神門のみで、すでに拝殿も本殿も無くなっていました。
どうやら、平成16年11月3日から、東の樂樂福神社に合祀されたようです。




by yuugurekaka | 2015-12-14 22:17 | 出雲・吉備戦争

奥出雲町の景勝地として名高い「鬼の舌震」(おにのしたぶるい)に行ってきました。
「鬼の舌振」は、島根県奥出雲町にある峡谷。斐伊川支流の大馬木川上流に位置するV字谷で、1927年(昭和2年
)4月8日に国の名勝及び天然記念物に指定された。正式指定名称は鬼舌振(おにのしたぶる)。

地名は『出雲風土記』の一文にある「和仁のしたぶる」が転訛したものと”(ウィキぺディア 「鬼の舌震」より)

言われています。


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写真では今一つですが、巨岩が川底に幾重にも連なり、節理(マグマが急速に冷却してできた割れ目)や長い年月の流水に
よって削り取られた不思議な石の造形に神秘的なものを覚えました。
およそ2.4キロの範囲で、不思議な形の巨石がさまざまな造形を楽しませてくれます。
詳しくは→奥出雲観光文化協会公式サイト 奥出雲ごこち

2013年に完成した高さ45m、長さ160mの“舌震❛恋❜”吊り橋



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自分にとってここが一番難所でありました。実際は車いすでも歩行可能なバリアフリー遊歩道の入り口にあり、
安全ですが、私は高いところが大の苦手なので、恐怖を感じました。


橋に迫りくる巨石群


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さて、「鬼の舌震」の名の起こりですが、出雲風土記(733年)には、こう記してあります。
 

“恋山(したいやま)。郡家の正南二十三里のところにある。古老が伝えて言う
には、和爾(わに)が阿井村にいらっしゃる神、玉日女命(たまひめのみこと)
を恋慕って、川を上ってやってきた。そのとき、玉日女が石で川をふさいでしま
われたので、会うことができないまま慕っていた。だから、恋山(したいやま)
という。”
        解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版  

ここに登場する鰐ですが、『解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]』には

“意宇郡安来郷条にも登場するシュモクザメで、現在でも中国地方山間部におい
て、ワニザメとして食されている。このような神話が成立する際の歴史的背景
として、シュモクザメが古代においても貴重な食物として出雲山間部で消費さ
れていた可能性を想定できよう。”

と解説されており、現在 ワニは、鮫であるということが半ば通説となっています。

玉日女社

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しかしながら、実は、戦前から和邇は、鰐か鮫かという論争が絶えず、出雲風土記にも鮫と鰐が別々に記載されている
ことなどから、和邇は鰐(ワニ)で鮫ではないという説も、いまだ有力です。
かの、本居宣長は、『古事記伝』で、平安時代中期の辞書『和名類聚抄(和名抄)』(わみょうるいじゅしょう)を引用して
ワニ説をとっていたそうです。詳しくは “ウィキペディア因幡の白兎”の後半に。

姫様にワニが通うという話が、日本書紀にもあります。               
事代主神が八尋鰐と化して、玉櫛媛(たまくしひめ)のもとに通い、結ばれて
生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)が神武天皇の皇后になっ
たという話です。
ウィキペディア 玉櫛媛        
日本書紀では、出雲の神様は、蛇や和邇に化身して上手に妻問うのに、出雲風土記の和邇の神様はなんと哀しい存在なのでしょうか。


子天狗岩

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鬼の落涙岩

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by yuugurekaka | 2015-12-10 08:00 | 出雲風土記

『止屋の淵』のことを図書館でいろいろ調べていましたら、斎木雲州著『出雲と蘇我王国』という本を見つけました。
読んでいくと、これは⁉ 司馬遼太郎氏がいつぞや書いていた出雲神族の末裔の富當雄氏(詳しくは前述の記事→生きている出雲王朝 司馬遼太郎さん)の息子さん(司馬遼太郎氏の本では名前は不明だが)が書いておられる本ではないですか。
読んでいくうちに、古事記や日本書紀に書かれている事柄と全然違うではないですか?
出雲は、西出雲の王と東出雲の王が交代で、主王(オオナムチという役職名)と副王(スクナヒコという役職名)を決めており
八代目のオオナムチが、「大国主命」で、スクナヒコが「事代主命」(正しくは八重波津身)であったそうです。
そうかあー。妙に納得してしまいました。
人によっては、「トンデモ」本ですが、整合性があり、たいへん面白く読みまして、斎木雲州氏の他の著作の
「出雲と大和のあけぼのー丹後風土記の世界」「古事記の編集室ー安万侶と人磨たち」も続けて読みました。

「止屋の淵」に出てくる登場人物のことも書かれており、出雲振根は神門臣の人物、飯入根は弟ではなく向家の
人物、甘美韓日狹(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかづくぬ)は天穂日命の子孫だそうです。
出雲王国滅亡後、鸕濡渟が初代出雲国造となり、出雲の国を治めていくことになります。

そして、出雲振根は崇神天皇の時代の話ではなく、垂仁天皇の時代、物部十千根(とおちね)を将軍とする物部軍に討死にしてしまいその時、西出雲も東出雲も滅ぼされてしまったといいます。

さて、下記の系図は、『北島国造家文書』の出雲国造世系譜にある系譜に北島家のホームページの情報等を参考に書き加えたものです。
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出雲国造家系譜

始  祖 天穂日命
第 2世 武夷鳥命(たけひなどり)
第 3世 伊佐我命
第 4世 津狭命
第 5世 櫛瓺前命(くしみかさき)
第 6世 櫛月命
第 7世 櫛瓺鳥海命(くしみかとりみ)
第 8世 櫛田命
第 9世 知理命
第10世 世毛呂須命
第11世 阿多命  別名 出雲振根
第12世 氏祖命(おほし)—初代出雲国造  別名 鵜濡渟(宇迦都久怒)
第13世 襲髄命(そつね)—野見宿禰・・・相撲の元祖 
第14世 來日田維命(きひたすみ) 別名 岐比佐都美
第15世 三島足奴命(みしまそまぬ)
第16世 意宇足奴命(おうそまぬ) 
別命:游宇宿禰
第17世 国造出雲臣宮向  出雲姓を賜わる
第18世 国造出雲臣布奈
第19世 国造出雲臣布禰
第20世 国造出雲臣意波久
第21世 国造出雲臣美許
第22世 国造出雲臣叡屋
第23世 国造出雲臣帯許
第24世 国造出雲臣千国
第25世 国造出雲臣兼連
第26世 国造出雲臣果安  松江市大庭町より杵築の地(出雲大社のある地域)に移る
第27世 国造出雲臣広島  出雲風土記 編纂責任者  
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しかし、斎木雲州著『出雲と蘇我王国』によれば、出雲振根は、西出雲の王家ー神門臣家であり、
さらには野見宿禰と淤宇宿禰は、東出雲の王家ー向家(富家)の先祖だそうです。
つまりは、この系譜は少なくとも3家(神門臣家・向家・天穂日命家)習合した系譜であるということです。

山代神社 
祭神の山代彦命が向家の先祖の豪族で、山代二子塚古墳は、山代彦命の古墳であるという。

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向家(富家)自体、天穂日命を祖とする出雲国造と同じように、奈良時代までは、「出雲臣」を名乗っていたようです。
また、神門臣家は、『新撰姓氏録』(815年)→ウィキペディア 新撰姓氏録によれば
 「出雲臣、天穂日命十二世孫 ウカズクヌミコトの後なり、神門臣、同上」となり、出雲臣の分家のようになっています。

 大国主命の子孫である神門臣家も、事代主命の子孫である向家も、出雲国造と同系として習合するするしか生きる道はなかったのかなあと想像しました。

 しかし、古墳時代末期に、大きな古墳があるところを考えると、出雲王朝はつぶされても、いまだ地方豪族として力は厳然として残っていたのではないでしょうか。


 向山1号墳のある向山 北側に山代神社があり、南側に向山古墳群があります。
 

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 古墳は、見れませんが、山代二子塚古墳の前の「ガイダンス山代の郷」で向山1号墳のレプリカをみることができます。

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  天穂日命を祖とする出雲国造が東出雲を全権掌握していて、それが西出雲にも及ぶようになるという通説を自分も信じこんでいたので、斎木雲州氏の本は、衝撃でした。




by yuugurekaka | 2015-12-07 08:00 | 出雲国造

イズモタケルは どちらか?

出雲市大津町に「止屋の淵」という伝承地があります。昔は、斐伊川の淵のようです。

止屋の淵近くの斐伊川

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しかし、今は斐伊川の淵ではなく斐伊川の近くにある平野の小山となっています。小山には、祠が二つ祀られていました。                                   

止屋の淵伝承地

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ここの「止屋の淵」は、日本書紀ではこのように記述されています。

 日本書記  巻五 崇神天皇  抜粋
 
六十年秋七月十四日、群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)の、天
から持ってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」と
いわれた。 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の先祖の武諸隅(たけものろすみ)を遣
わして奉らせた。

このとき出雲臣の先祖の出雲振根(いずもふるね)が神宝を管理していた。
しかし筑紫国(つくしのくに)に行っていたので会えなかった。
その弟の飯入根(いい入りね)が皇命を承り、弟の甘美韓日狹(うましからひさ)
と子の鸕濡渟(うかづくぬ)とに持たせて奉った。

出雲振根(いずものふるね)が筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差し出したと
いうことを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めて、「数日待つべきであった。
何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と。
これから 何年か経ったが、なお恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思った。

それで弟を欺いて、
「この頃、止屋(やむや)の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲し
い」と言った。弟は兄について行った。
これより先、兄は密かに木刀を造っていた。形は本当の太刀に似ていた。
それを自分で差していた。弟は本物の刀を差していた。淵のそばに行って兄が
弟にいった。
「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」 と。
弟は兄の言葉に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端におき水にはい
った。後からの弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合うことになったが、
弟は木刀抜くことができなかった。兄は弟の 飯入根(いい入りね)を斬り殺した。
時の人は歌に詠んで言った。

ヤクモタツ、イズモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサハマキ、サミナシニ、アハレ。
出雲健(いずもたける)が 侃(は)いていた太刀は、 葛(つづら)を沢山巻いて
あったが、中身がなくて気の毒であった。
 ここに甘美韓日狹(うましからひさ)・鸕濡渟(うかづくぬ)は朝廷に参って、詳し
くその様子を報告した。
そこで吉備津彦と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを遣わして、出雲振根を殺さ
せた。出雲臣等はこの事を恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。
 — 後略 —      
            日本書記(上)  宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より

さて、歌にある出雲健(イズモタケル)は、兄の出雲振根のことなのか、弟の飯入根のことなのか
ではわかりづらい。歌は、飯入根を哀れむ歌なのですが、木刀の持ち主は、そもそも出雲振根のものなのです。
だから、どちらが、出雲健なのか厳密にはわかりません。兄だから出雲の国を代表するのだから、出雲健なのかも
しれませんが、古事記にも、おなじ止屋の淵の話がありますが、そこではヤマトタケルが、出雲健を謀殺する話に
なります。となれば、出雲健とは、飯入根のことなのでしょうか?景行天皇のころには、出雲郷に神門臣古禰に
健部臣」を与えるという話もでてきます。うーむよくわからない話です。

通説的では、出雲振根が、出雲健(イズモタケル)であり、このことを契機に西部出雲が、ヤマト王権に迎合する
東部出雲によって西部出雲を滅ぼしてしまうという話であり、そして、やつけられた西出雲の豪族がヤマトの直轄の
軍隊に編入されてしまった話のようですが、本当にそうなんだろうか? 

止屋の淵 説明書

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続く

by yuugurekaka | 2015-12-04 08:00 | 出雲国造