出雲国造は、スサノオノミコトとの誓約の時に生まれた天照大御神の子どもである
天穂日命を初代とした系譜です。
高天原より、大国主命に国譲りを迫るために派遣されましたが、大国主命に恭順し
国譲りの後には、大国主命を奉斎する役割を担います。
これが、古事記、日本書紀に共通する事柄です。

天穂日命の墓との伝承のある神代塚古墳   安来市吉佐町神室

e0354697_20340632.jpg

しかしながら、実際は出雲国造は、出雲国庁のあった松江市東部に居て
出雲大社ではなく、熊野大社を奉斎していたといいます。
ではだれが日常的に出雲大社を祀り守っていたのでしょうか?

出雲風土記(733年)の楯縫郡(たてぬいぐん)の記述を見ておやっと思いました。
楯縫(たてぬい)の地名由来として、神魂命が 大国主命が住む天日栖宮の建設を命令し
天御鳥命(あめのみとりのみこと)を「楯部」(→ウィキペディア 盾縫)として、天から派遣された
とのことが書かれています。それで、今(奈良時代)に至るまで、楯や桙を造っていると書かれています。

曽枳能夜神社(出雲市斐川町神氷823) の祭神  
「出雲国造の租、伎比佐都美」 (古事記 垂仁天皇の条) はどのような系譜なのか   


e0354697_20343206.jpg


この神魂命(カミムスビノミコト)ですが、古事記では出雲の神を守る高天原の母神とも言うべき存在ですが
日本書記には登場してきません。存在を消されているように思います。
少彦名命(スクナビコナノミコト)の親神も古事記ではカミムスヒになっているのに
日本書記では、タカムスビノミコトになっていますし、出雲大社の建設のこともタカミムスビが
大国主命に語っています。(一書 第二)

天穂日命の子ども武夷鳥命とこの天御鳥命は同神説がありますが
仮にそうだとすると、どうして天穂日命と一緒に出雲の東部に降臨しないのだろう。
楯縫郡は、出雲大社のある出雲郡の隣の郡なのです。
ここを読んだ限りでは、高天原(ヤマト王権)につながる系譜は2経路あるように私には感じられます。
一つは、天照大御神・タカムスビノミコトから派遣された天穂日命,
もう一つは、カミムスビノミコトから派遣された天御鳥命と、いうようにです。

それと、出雲風土記にはこういう記述もあります。

 “健部郷(たてるべごう)。

 ー前略ー 後に改めて健部と名づけたわけは、纏向檜代宮御宇天皇(景行天皇)がおっしゃられたことには、
 「わたしの御子、倭健(やまとたける)命の御名を忘れまい」と健部をお定めになった。
 そのとき神門臣古禰(かんどのおみ こみ)を健部とお定めになった。
 健部臣たちが古から今までずっとここに住んでいる。だから、健部という。” 

                              解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版


ヤマト王権の軍事集団とも言うべき建部(→ウィキペディア 建部氏が、西出雲にあるということです。
そして、それは出雲臣ではなく、神門臣ということです。
となれば、出雲東部の出雲臣だけではなく、出雲西部の神門臣も
ヤマト中央と「景行天皇の時代は」つながっていたということです。
ヤマト中央と言っても、連合政権なので、こういう経路が
いくつかあっても不思議ではありません。

ヤマトタケルと出雲タケルを祀った波迦(はか)神社(出雲市斐川町武部)

e0354697_08131497.jpg

e0354697_08140031.jpg

全長約92mある出雲西部最大の前方後円墳 今市大念寺古墳 (出雲市今市町鷹の沢)

e0354697_20342311.jpg

物部氏もからんで、出雲国造の系譜といっても
さまざまな系譜が習合しているのではないでしょうか。
古墳時代の「西部出雲」が、「円墳・前方後円墳」
「東部出雲」が、「方墳・前方後方墳」というように 古墳の作り方まで
ヤマト王権との関係性から変わっていると言われています。


全長約94mある出雲東部最大の古墳  山代二子塚古墳  (松江市山代町二子)
e0354697_20341379.jpg

続く


by yuugurekaka | 2015-10-27 21:09 | 出雲国造

多伎神社 拝殿   出雲市多伎町多岐字笠無639

e0354697_16150212.jpg



出雲風土記に記載される神門郡多伎郷の由来となっている
阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやたききひめ)です。

多伎神社 本殿

e0354697_16150344.jpg


“ 所造天下大神の御子、阿陀加夜努志多伎吉比売命が鎮座していらっしゃった。
 だから、多吉(たき)という。(神亀三年に字を多伎と改めた。)”

                         解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版

奈良時代以前より、地名が替わっていないのですね。
漢字の表記は、替わっていますけれども。
大国主命の御息女である「阿陀加夜努志多伎吉比売命」
古事記、日本書記に出てこないので 聞きなれない祭神です。

しかし、出雲風土記(733年)記載の神門郡の神社では、「タキ」の名前が入った神社が

多吉社2社(神祇官社5番目と22番目)
多支枳社1社(神祇官社14番目)
多支社1社(不在神祇官社10番目)
多支々社1社(不在神祇官社11番目)

計5社あります。かなりの勢力です。
大国主命の御息女で、西出雲の最西部ではかなり祀られている神様であることは
間違いありません。
それに、東出雲の源郷ともいうべきところに(阿太加夜神社)祀られているということは
かなり重要な神様であると思います。
そこで、その神様を調べてみました。

ありましたー。
島根半島のちょうど中間どころに位置する内神社(うちじんじゃ)の由来にここの神様の記載が。

内神社 (高野宮)  松江市大垣町746

e0354697_16150418.jpg


祭神は、大国主命の御子ー和加布都努志命と下照姫命です。

奥原碧雲著 島根県秋鹿村誌(大正11年)によれば、

“二、御鎮座 当社は風土記ニ所謂、女嵩野山ノ山腹二存リテ、天下造ラシ
大国主神ノ御子、和加布都努志命ノ此山ニテ御狩シ給ヘリシ御由緒二拠リテ鎮座シ給ヘリ。
又、同ジ大神ノ御子高姫命(亦名下照比売 亦名雅国玉神 亦名阿太加夜奴志多岐喜比賣
亦名大倉比売)ハ素ヨリ此山二座シ、神ナルカ故二、同シク當社二祀レルナリ。”


そして、この内神社が鎮座する山を高野山あるいは芦高山と呼び
当神社を高野宮又は芦高宮とも呼ばれるようになったと書いてあります。

内神社 本殿

e0354697_16150518.jpg


阿陀加夜努志多伎吉比売命は下照姫命だったのです。
「たき」は、宗像三女神のうちの母である「タギリ姫」(古事記では多紀理毘売命)の「タキ」だったのですね。
そして、実際は、大国主命の御息女であっても、北九州に住んでいたのではないでしょうか。
(妻問い婚の時代だから、母方に居たと思われます。と、いうか 鎮座する拠点がいくつもあったのでは?)
しかし、名前からは安羅伽耶の女王(→ウィキペディア 伽耶)でもあった時代が
あったのかもしれません。

当時、宗像神族は、朝鮮半島南部をも拠点にしていたのかもしれません。
神功皇后の三韓征伐(→ウィキペディア 三韓征伐)を思い出しますが(史実ではないという説もありますが)
倭人が朝鮮半島南部に住んでいたということは明らかなので
そこの女王が、下照姫命であったとしても不思議な話ではないと思います。

そういえば、下照姫、神功皇后は似ていると、書いておられた作家の人がおられたような気がします。

関 裕二氏著 「天孫降臨の謎」(PHP文庫)によれば
“すでに多くの拙著のなかで、賀夜奈流美命が下照姫と同一であると主張してきた。
それは、『先代旧事本紀』や『出雲国造神賀詞』に示された系譜から割り出される答えであった。
 とするならば、下照姫は伽耶と強い接点をもった女神であったことがわかる。
そして、下照姫が伽耶から逃れて来た比売語曾と混同されていることが、「間違い」ではなく、
根拠のある混同だったのではないかと思えてくるのである。”

※賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)・・・『出雲国造神賀詞』に登場。飛鳥坐神社・加夜奈留美命神社の祭神。
                           →ウィキペディア カヤナルミ

※比売語曾(ひめごそ)・・・新羅の王子とされる天之日矛(あめのひぼこ)が日本の難波に探しにき日本の妻神。

許曽志神社 (こそしじんじゃ)  松江市古曽志町466  

e0354697_16150598.jpg


現在は、猿田毘古命 天宇受売命が祭神ですが、白石 昭臣 著『島根の地名辞典』 (ワンライン発行)によれば
ここの地名は、天之日矛伝承から由来しており逃亡して石になったとされる姫許曾(ひめこそ)伝説の石があるそうです。


東出雲町の阿太加夜神社の祭神は、蘆高明神と言われていましたが、
内神社も芦高宮ですが、この「あし高」というのは、
海女さんが、さかさまになって海に潜る、つまり、足が体より高いという「足高」というところから
由来してないのでしょうか?
なぜなら宗像神は、海人の神様だからです。
それと、神功皇后の別名、息長帯比売命(古事記)も 「息が長い」ということで
これもまた、海女さんの神様だったのではないでしょうか。
by yuugurekaka | 2015-10-22 16:20 | 阿陀加夜努志多伎吉比賣命

阿太加夜神社 (あだかやじんじゃ) 松江市東出雲町出雲郷587

e0354697_16350323.jpg


今は 松江市ですが、合併前は八束郡東出雲町出雲郷。
どうして松江市の近くに東出雲があり、大字が出雲郷なんでしょうか。
「出雲風土記」(733年)に記載されるのは、西の出雲、
出雲郡出雲郷で、今の斐川町富村付近です。

ここの地域がいつから出雲郷になったかわかりませんが
文献の初見は、文永8年(1271)の
杵築大社御三月会(現在の例大祭)の相撲舞の記事で
「出雲郷内九十二丁一反半」とあります。

それと「出雲郷」の呼び方は、「いずもごう」「いずものさと」ではなく
「あだかえ」です。

なぜ「あだかえ」と呼ぶのか、それは出雲風土記(733年)に記載される
「阿太加夜(あだかや)」神社があるからです。

e0354697_10540303.jpg



神社の祭神は、阿太加夜奴志多岐喜比賣命(あだかやぬしたききひめ)です。
ちなみに配祀神は、國之底立命 須佐之男命 淑母陀流命。
江戸時代には、足高明神とよばれており、
『雲陽誌』(1717年)は出雲江の項にみられるの説明の中で、
「此則阿太加夜社なり」として、さらに、
「大穴持命の御子阿陀加夜怒志多伎吉比売命は
神門郡多岐に坐となり、今此里に阿太加夜社勧請なるへし」と
現在の出雲市多伎町の鎮座する多伎神社から勧請したというような説明をしています。

阿太加夜神社 本殿

e0354697_16350477.jpg


神紋は、二重亀甲に有文字紋。
つまりは、出雲国造とつながりのある神社です。

出典 ウィキペディア ホーライエンヤ

e0354697_16350533.jpg


ここの神社は、日本三大船神事の一つ 「ホーライエンヤ」で有名な神社です。 →2009 ホーランエンヤ特集 - しまね観光ナビ
ホーライエンヤは12年に1度開催される松江城の稲荷神社式年神幸祭(式年祭)の祭事です。
城山稲荷神社の御神体を載せた船団が大橋川から意宇川を通って阿太加夜神社に運び往復します。

e0354697_16350688.jpg


「ホーライエンヤ」で船団が行きかう意宇川と支流の須田川です。
中海に面する入り江がすぐ近くです。
入り江のことを「カヤ」「可也」と示す場合も多く
そこから、神社の名前の「加夜」が来ているかもしれません。

ここら一帯の地域は、縄文時代より集落があり
「阿太加夜神社境内遺跡」(弥生時代)、春日遺跡(縄文時代)
などの遺跡があります。
いわゆる出雲国府があった地域に連なっている意宇平野の
開拓は5世紀頃であったと言われるので
それよりもはるか昔の「意宇の原郷」ともいうべき地域だったのかと想像します。

面足山(おもたるやま )万葉公園

e0354697_16350634.jpg


ここの神社の杜は、「意宇郡」の名前の由来になった
「意宇の杜」の比定地でもあります。→出雲神話とゆかりの地 意宇の杜
 
なぜ、面足山というのか初めわかりませんでしたが、
配祀神の淑母陀流命 は、別名 面足尊(おもだるのみこと)と書くんですね。
しかし、配祀神がスサノオノミコトを除くと、イザナギ・イザナミより古い
神世7代の一代目と六代目です。
六代目の淑母陀流命(男神)と阿夜訶志古泥神(阿志古泥命)(女神)の名前を
組み合わせると 主祭神の阿太加夜と名前が似ていそうな気が・・・。

ここの意宇川を少し登っていった所に出雲の国府跡があります。→ウィキペディア 出雲国府跡
律令国家になってからの、出雲国の中心地ですので
そこから、中世期に「出雲郷」と呼ぶようになったのではないかとする説が多いのです。
しかし、律令国家よりも前にここの辺りが、宍道湖~大橋川でつながる西出雲とつながる
海上交通の玄関口みたいなものではなかったのかなあ などと思いました。

しかし、祭神の阿太加夜奴志多岐喜比賣命は、どんな神様でしょう。
古代朝鮮半島の南部の一国 安羅伽耶と関係があるのでしょうか? →ウィキペディア 伽耶

続く
by yuugurekaka | 2015-10-12 10:35 | 阿陀加夜努志多伎吉比賣命

出雲大社本殿と筑紫社

e0354697_01350230.jpg


出雲大社は背後に 八雲山、西側に鶴山、東に亀山があります。
古くは古事記に、出雲大社と思われる大国主命の宮の以下の記述。

…前略… おのれが葦原の中つ国を統べ治めてオホクニヌシとなり、またウツクシクニタマとなりて、そこにいるわが娘スセリビメを正妻として、宇迦(うか)の山のふもとに、
土深く掘りさげて底の磐根に届くまで宮柱を府と太々と突き立て、高天の原に届くまでに屋の上のヒギを高々と聳やかして住まうのだ、この奴め。

                   ~三浦佑之 訳・注釈 『口語訳 古事記』(文春文庫)~

この宇迦(うか)の山の麓ということなんですが、現在の八雲山を宇迦の山というのか
宇賀郷から連なる現在の北山山系を宇迦の山というのか
はっきりとしたことはわかりませんが、宇賀郷の「ウカ」と同義語ではないのかと思ったりします。

神戸川(かんどがわ)から見える北山山系の弥山

e0354697_01350202.jpg


「宇迦」と言えば、だれしも宇迦之御魂神(→ウィキペディア ウカノミタマ)を思い浮かべると思います。
宇迦之御魂神というと、『日本書紀』では倉稲魂命・・・そうなるとお稲荷さんとだんだん話がひろがっていきます。

ちなみに初代出雲国造 氏祖命(天穂日命より12代)の別名は、鵜濡渟、宇迦都久怒(ウカツクヌ)と言います。
ウカツクヌの「ウカ」は、「受け継ぐ」・・・出雲大社の祭祀を受け継ぐという意味らしいのですが
他にも意味があるのではないか と穿って考えたりもします。

例えば『出雲風土記』の加賀郷の「加加(カカ)」の由来として「輝き」のことばが意味としてでてくるのですが
輝きのもととなる黄金の矢とは、セグロウミヘビの話のようにしか思えません。
「カカ」は、「輝き」という意味だけではなく、「蛇」の同義語のようです。

               出雲地方で龍蛇様として信仰される セグロウミヘビ 
                           出典 ウィキペディア セグロウミヘビ   
e0354697_02043672.jpg

それと同じように「ウカ」というのは、「海蛇」を表すものらしいです。
そのことが顕著に書かれている書物がないのか調べました。

民俗学者 谷川健一氏の『蛇: 不死と再生の民俗』の本の中にありました!

ところで、『出雲風土記』によると、出雲郡に宇賀の郷がある。ここは「御崎」(日御碕)の海子(あま)の活躍したところで、海子と海蛇(ウカ)との関係が浮かび上がる。出雲の古社は、杵築大社、佐太神社、日御碕神社、美保神社のすべてが、海蛇を神とあがめ、「龍蛇さま」と呼んで祀っており、海蛇と神とのつながりがきわめてふかい。
宇賀神といえば、福を授ける仏教の神の弁天のことで、そのかぶっている宝冠のなかに白い蛇がいるところから、白蛇を神として祀ったものを指すが、音が似ているところから、食物の神である「ウカの御魂」の異称であると辞書には説明されている。 私は、仏教の宇賀神とウカの御魂の習合したものではなく、海蛇のウカ(またはウガ)と食物の神のウカ(またはウガ)の合体したものが、宇賀神の正体であると推考”  

           ~ 谷川健一著 『蛇: 不死と再生の民俗』(冨山房インターナショナル)~

宇賀神といえば、弁天様の頭の上の神様です。老翁や女性が頭となった蛇神です。

                        宇賀神 出典 ウィキペディア 宇賀神
e0354697_01350252.jpg


宇賀神というのは、出雲郡宇賀郷を由来するのではないかと思いました。
そして、その宇賀神を頭に載せている弁才天を考えると、
出雲大社から西に向かう「稲佐の浜」の弁天島が思い浮かびます。

稲佐の浜の弁天島

e0354697_01350308.jpg


この弁天島は、古くは「沖御前」といい、 今のように陸続きではなく沖にあったと言われています。
昔は「弁才天」が 祀られていましたが、明治以降は豊玉毘古命(とよたまひこのみこと) が祀られています。
弁才天と言えば、海上神である市杵嶋姫命が習合したものとされています。(→ウィキペディア 弁才天
これまた、宗像三女神です。

稲佐の浜で行われる神迎えの神事ですが
龍蛇神(セグロウミヘビ)が神の先導役を荷うようです。
もしかしたら、宇迦之御魂=海蛇=カミムスビの神の使いだったのではないか?

by yuugurekaka | 2015-10-06 09:00 | 出雲風土記