出雲市奥宇賀町に 綾門日女が、隠れた「黄泉の穴」があると知り
行ってみました。この黄泉の穴のことが雲陽誌(1717年)に載っています。

雲陽誌によれば(以下抜粋)
 
 ・・・古老伝に大己貴命と綾門姫 夫婦睦からざるにより
 綾門姫大社を忍出たまひたり。
 大己貴命 籠守(かごもり)明神を伴たまひて
 綾門姫を追たつねたまひ、奥宇賀布施の山に到ぬ、

 山の半腹に穴あるを見て此穴のほとり人の通たるとおほしくて
 草靡(なびき)たり、綾門姫もし此穴に隠居たまふにや、
 籠守明神は、爰(ここ)に守居たまへとて此谷を布施者にたまはりたるによりて、
 今所の名として布施とはいふなり、

 大己貴命口宇賀を窺たまふに綾門姫出たまふに逢たまへり・・・・


出雲風土記当時(733年)は、大国主命が綾門姫に妻問うて 綾門姫に「伺う」=訪問する話であったものが
江戸時代には、結婚して出雲大社で一緒に住んでいたものが、
夫婦仲が悪くなって、綾門姫が里に逃げ帰り、大国主命が隠れた様子を「窺う」=様子を見る 話に
転化しています。

さて、私は、まず十六島湾まで行き、そこから、黄泉の穴がある奥宇賀町布勢に車で登っていきました。

十六島湾(うっぷるいわん) 
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向こうに見える側が 風土記時代(733年) 楯縫郡で、手前が出雲郡宇賀郷(いずもぐんうがごう)になります。
ああ 道路標示がありました! 向こう側が、北方面(海の方向)です。

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この道を歩いて登っていきます。

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鹿のバリケードを開けて入り、 いよいよ黄泉の穴のある谷に到着。

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ここの階段を下って行きます。

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谷に降りたら今度は、登って行きます。あと 130mと書かれていました。

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結構 急です。落ちたら、一巻の終わりです。

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ああ やっと 綾門姫を祀っている祠が見えましたー。

夜見神社と黄泉の穴

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黄泉の穴 「めいどさん」
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これが黄泉の穴ですか。地元の人には「冥土(めいど)さん」と呼ばれているそうです。
人が入れそうな大きな穴ではないです。
本居宣長「玉勝間」(1793 年~1801) の「出雲国なる黄泉の穴」の項によれば
言伝えとして、「穴から毒気がのぼることがあり、ふれればたちまち息絶える」
「昔は石が次々と岩に当たって落下する音が響いていたが、ある者が大きな石を落してから
音がしなくなった」のだといいます。

「玉勝間」の話ではないのですが
昔はこの穴が出雲大社方面までとつながっていたという伝承もあるとのことです。

黄泉の穴と言えば、たいへん怖いイメージがありますが
実際行ってみると そんな怖くはありませんでした。
急な段々から、滑って落ちるのではないかと、いう恐怖はありますが…。

そもそも、『出雲国風土記』出雲郡条の宇賀郷の項には黄泉の坂・黄泉の穴と呼ばれる
洞窟の記載があり、そこから派生した話ではなかったのでしょうか。

それとも、島根半島の北西部は、見知らぬ渡来人が来訪する場所で
うかつに近づいてはならぬ、禁足のような場所だったということなのかもしれません。
(これは私の勝手な想像です。)


by yuugurekaka | 2015-08-29 23:59 | 出雲風土記

1万年前から6千年前頃にかけて温暖化し、縄文海進が起き
海水面が上昇し、陸地が狭くなりました。
それで、島根半島は、本土と陸続きではありませんでした。
さらに、出雲大社がある島根半島の最も西の部分も
宇加川で切断された、さらに小さな一つの島のようにも 思えます。

つまりは、出雲風土記(733年)に記載されている国引き神話の一番左の部分です。
(下記の地図は、733年当時であり、既に島ではなくて 本土とつながっています。)

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出典 島根県:出雲国の村々

その島のような半島の東側を 出雲郡宇賀郷(いずもぐん うかごう)と言いますが
現在の出雲市国富町の北側、口宇賀町(くちうがちょう)、奥宇賀町(おくうがちょう)、
河下町、猪目町、別所町、唐川町辺りだったそうです。


出雲風土記によりますと、

 所造天下大神命(大国主命)が神魂命の御子である
 綾門日女命(あやとひめのみこと)に求婚された。
 その時 綾門日女命は承諾せずに、逃げ隠れなさった。
 大国主命が、伺い求められたがこの郷である。
 だから、宇加(うか)という。 

宇賀神社社号標  出雲風土記(733年)では、 「宇加社」 と書かれている。

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出雲大社の目と鼻の近くに住むお姫様が、大国主命から
逃げたのか・・・と思ってしまいますが、
求婚された女性が身を隠し、男性の神が探すのは当時の習わしだったようで
播磨風土記の大帯日子命(景行天皇)と印南別嬢(播磨稲日大郎姫)の話にも
姫が逃げ隠れる様子が でてきます。→Wikipedia 播磨国風土記 


現在 宇賀郷の東南方を口宇賀町、西北方を奥宇賀町、となっています。
口宇賀には、大国主命と綾門日女命を祀った宇賀神社があります。
奥宇賀町には、綾門日女命が逃げ隠れた黄泉の穴があります。

宇賀神社 境内

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宇賀神社 本殿

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鳥居をくぐると、まず目に付くのが、人型に彫った道祖神です。
出雲地方では、あまり目にすることがありません。

鳥居入って右側の道祖神

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鳥居入って左側の道祖神

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男女の神を彫った双体道祖神や男神が鳥居近くに集められています。
道祖神は、猿田彦命とアメノウズメノミコトだと、一般的には云われていますが
宇賀郷では、大国主命と綾門日女命にしか思えません。

さて、「雲陽誌」(1717年 享保二年)には、
大国主命と綾門日女命の他の話も載っていました。

 楯縫郡猪目浦と神門郡宇峠浦との界巌(さかひいわお)の上に
 馬と牛との蹄(ひづめ)の跡あり、俚人(さとびと)語けるは綾門姫と大己貴命
 馬と牛とに乗て此所にて行合たまふ時の蹄跡なりとて今にあり

結ばれて 逢い引きをしたという話でしょうか。
そもそも縁結びの神様が 振られるということはないでしょう。

しかし、「伺う」から 「宇加」という地名説話ですが
出雲風土記時代は、そうだったのかもしれませんが、
私は別のことが、いろいろ浮かんできました。


by yuugurekaka | 2015-08-27 01:00 | 出雲風土記

須我神社から約2キロ離れたところに須我神社 奥宮がある八雲山があります。

八雲山入り口

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参道には、「文学碑の径(みち)」として、須我神社や八雲山にちなむ
60基の歌碑、句碑がを囲んでいます。

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この狭い参道を登っていきます。右手には田んぼが見えます。

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少し歩いて行くと「禊ぎ場」が現れました。
山の湧き水が、手水とは、水道水の蛇口より風情を感じますね。
「不老長寿」の「神泉坂根水」の説明書きがあります。

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この木の鳥居もいかにも古い神社と云う感じで、いい雰囲気です。

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「禊ぎ場」から急な坂道を200m登っていくと、大岩が見えて来ました。

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夫婦岩(めおといわ)と呼ばれている磐座(いわくら)です。
大・中・小の三体の磐座で、
それぞれ

須佐之男命(スサノヲノミコト)
櫛名田比売命(クシナダヒメ)、
二神の子である清之湯山主三名狭漏彦八島野命(スガノユヤマヌシミナサロヒコヤマノミコト)


です。この子どもの神が、古事記では、大国主命の系統の祖先として書かれています。
ちなみに、「先代旧事本紀」においては、大国主命と同神とされています。

また、スサノヲノミコトは、稲田姫以外とも結婚しており
カムオイチヒメを妻として大年神(オホトシ)、宇迦之御魂神(ウカノミタマ)が
生まれています。

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参拝するのは 2度目ですが、この大岩には圧倒されます。
磐座(いわくら)祭祀は、古代よりあったということですが
村井康彦著「出雲と大和」によれば、磐座祭祀は出雲系神社に多く
鉄生産の仕事と深い関わりがあったのではないかと、述べられています。
神の依代としての巨石ということだけでなく 
実際の現世利益としての石そのものがありがたい(鉄を生む)とする信仰だったのかもしれません。


by yuugurekaka | 2015-08-14 15:10 | スサノオノミコトと稲田姫

須我神社は 島根県雲南市大東町須賀260にあります。

神社の前にある池の祠があります。
その昔、川中三湯の一つとして、温泉が湧く池だったそうです。
水中に松が自生しているのは珍しく、さらに一つの株から
男松と女松が生えているのは例が無いとのこと。
縁結びのマナがあるのかな、
まずは須我神社の前に参拝しました。

縁結びの夫婦松

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『古事記』によれば、
“須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、
当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、
そこに宮殿を建てて鎮まった。
これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、
この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、
「和歌発祥の地」とされて”います。(ウィキペデイア 須我神社より)

須我神社 拝殿

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その和歌ですが、石段の右手にその歌の石碑があります。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

<通釈>雲が何重にも立ちのぼる——雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。妻を籠らすために、俺は宮殿に何重もの垣を作ったけど、ちょうどその八重垣を巡らしたようになあ。
須佐之男命 千人万首より引用)

この八重垣ですが、弥生集落遺跡の環濠のごとく、環濠と垣根が
宮殿を幾重にも雲海のごとく囲んで 守っていたのではないでしょうか。

たとえば、愛知県の朝日遺跡の環濠ですが、(下記の写真と説明図は朝日遺跡 インターネット博物館より引用。)
土塁、環濠、より内側に幾重にもバリケードが造られています。

私は古代において、
「他の男神の妻問いを絶対に許さない」ということが
宮殿や集落を守ること以上に
重要な意味合いがあったのではないかと、想像します。

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一般的には、神籬や磐座の発展形態が、本殿だと言われていますが
私は、実際神々が住まれていた宮殿だったのではないかと 思っています。

須我神社 本殿

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新婚さんの宮殿だと長らく思っていましたが
改めて 古事記や日本書紀を読んでみますと
稲田姫を守るために八重垣をつくった、稲田姫の宮殿であり
日本書記では、大己貴神をつくると
(古事記では大国主命はスサノオノミコトの6世になっていますが・・・)
スサノオノミコトは根の国に行かれます。
そして、アシナズチ、テナズチの両親神は、宮殿の長官となり
「稲田の宮主スガノヤツミミ」の名をもらうのです。

つまり、稲田姫は親と一緒に暮らし、
スサノオノミコトが通ってくる婚姻の形態 妻問い婚(→ウィキペデイア 妻問婚 )
だったわけです。

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境内の東側に「社日神社」「御祖(みおや)神社」の鳥居があります。
ここから参道が、山に向かって登っていき250mで「社日神社」「御祖(みおや)神社」があります。
また 300m先には義綱神社(祭神は、菅孫三郎義綱か 14世紀の武将) があります。
御祖神社は、稲田比売命の父母にあたる足名椎命(あしなづちのみこと)、
手名椎命(てなづちのみこと)が祀られています。

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参道が整備されていますが、250mとはいえ 少しきついです。
やっと、御祖神社にたどりつきました。
(ここは、須我神社の奥宮ではありません。)

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稲田姫の親神の足名椎命(アシナヅチ)・手名椎命(テナヅチ)ですが
名前だけ聞くと、蛇神のように感じます。
「チ」は、霊力を表す語とされていますが、ミズチ、オロチなど
ヘビや虫類を指す語でもあります。
さらには、“「脚無し蛇」「手無し蛇」という手足を持たない蛇の造形を示した蛇神を
示しているとする説” まであります。(→ウィキペデイア アシナヅチ・テナヅチ

ヤマタノオロチも大蛇ですから(通説は 斐伊川を表していると言われます。)
ヤマタノオロチとの闘いは
「同族婚」と「族外婚」の闘いだったのかもしれません。
婚姻が共同体の存立そのものを揺るがすことだったのでしょうか。


by yuugurekaka | 2015-08-10 22:32 | スサノオノミコトと稲田姫


富能加神社(ほのかじんじゃ)   島根県出雲市所原町3549

祭神 本牟智和気命(ほむちわけのみこと)

    肥長比売命(ひながひめみこと)

    (配祀)伊弉諾尊・伊弉冉

「出雲風土記」(733年)の神門郡の「保乃加社」として比定されています。

出雲市内から県立自然公園立久恵峡へ向かう途中の所にある神社です。

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古事記の本牟智和気命の話
本牟智和気命は、垂仁天皇と沙本毘売命(さほびめのみこと)との間にできた皇子です。
沙本毘売は、実兄の沙本毘古王(さほびこのみこ)とともに天皇に反乱を起こします。
そして、兄の稲城にこもった沙本毘売命は、その城が火に包まれた中で、本牟智和気命を出産し、亡くなります。

本牟智和気命は、垂仁天皇に鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することは無かったのです。
天皇は皇子をしゃべらせようと、いろいろ手を尽くしていたが、ある晩 夢を見ます。
何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう。」と述べました。
夢で現れたものは何かと占わせると、物言わぬは出雲大神の祟りとわかりました。

天皇は、皇子を曙立王、菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させました。
その帰り、肥川の中州の仮の宮で休んでいると、出雲国造の祖先 岐比佐都美が来て
青葉の山を飾りてその河下に立てて神に食事を捧げようとしていた。
それを見て皇子は、「この河下の青葉の山のようなのは山のようで山ではない。
もしや石くまの祖宮に鎮座されている葦原色許男大神(あしはらしこおのおおかみ)を祭るために仕えている神官の祭場ではないのか」と問われました。

言葉を初めて話されたのです。御伴は喜び、皇子は檳榔(あぢまき)の長穂宮で泊まることになります。
そこで、出雲の肥長比売(ひながひめ)と一夜の契りを結びます。覗いてみると蛇だったので驚いて逃げます。
肥長比売は、船を輝かせて追って来たので、船を山に引き上げて、倭に逃げ帰りました。

皇子がしゃべれるようになったことを天皇は大いに喜び、菟上王を出雲に再び送り、神宮を造らせます。
また、この御子のために、鳥取部(ととりべ)・鳥甘部(とりかいべ)・品遅部・大湯坐(おおゆえ)・若湯坐(わかゆえ)を定めました。

                       100段以上ある富能加神社の石段
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ここの神社が「檳榔(あぢまき)の長穂宮」だったという言伝えもあるようです。
でも、ここは斐伊川の上流ではなく、神戸川の上流に位置します。

この古事記に述べられている話が、興味深いです。
ヤマト王権が出雲大社を造ったものの、その後 遷宮は行なわれず
出雲大神の祟りを招いたということです。

それと、いつも出雲の神様は、対 ヤマトの話では
蛇神として登場してきます。
ここでも 覗くと蛇だったというオチです。

きちんと祀っておれば
ヤマト王権の守り神になるが、
おろそかにしていると祟るという そういう展開です。

それと、古事記の中には
コノハナサクヤヒメの誓約(うけい)の火中出産の話があります。
妻問い婚の時代、生まれてくる子どもが
天皇の子どもであるということを証明するのに
産屋に火をつけるというのが、もしや慣例化されていたんでしょうか。


富能加神社拝殿 
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神社参道にあった由緒書

創立年代は不詳であるが、永久二年二月再建の棟札の ある処から見れば、
鳥羽天皇以前に斎祀された事は明 らかである。社伝によれば延喜の御世には
社殿も壮厳 にして朝廷の崇敬の篤かったのであるが、
後兵乱の為 衰微し何時の頃からか安谷の星神山の中腹の厳窟に鎮め奉り、
麓に拝殿を設けて祭事を執行した。
明治四年 十二月小野神社に代って所原、見々久の産土神社に指 定された
(見々久は明治十七年六月御崎神社を産土神 社に定められ分離)
又明治四十四年十二月、現在の小野 山麓に移転し小野神社を合祀することになった。


富能加神社 本殿
                          
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星神山ということで、安来の清水寺の前の星神神社を思い出しました。
安来の星神神社は「ほのか姫」を祀っていたと思います。
このほのか姫は、「出雲神社巡拝記」(1833年)で
「星宮大明神は保能加神社で祭神はほのかひめの命」だと書かれています。

星神さんは、ここの地方では、
日本書記に登場する天香香背男(あめのかがせお)ではありません。

星は、「ほのかに光る」ということで、「ほのか」なのでしょうか。
火中出産で「火(ほ)のなか」で ほのか説もあるようですが
よくわかりません。


富能加神社 石段 下り 
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急な石段です。
行きはよいよい 帰りは恐い。


by yuugurekaka | 2015-08-01 21:06 | 出雲と大和