出雲四大神  能義神社

出雲風土記(733年)には
出雲四大神が記載されています。

四大神とは、どの神様でしょうかか?

○ 熊野大神(くまのおおかみ)=スサノオノミコト
 
○ 所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)=大国主命
 
○ 佐太大神(さだのおおかみ)=神様の別名は風土記には記載なし=サルタ
   ヒコノミコトとされる
 
○ 野城大神(のぎのおおかみ)=神様の別名は風土記には記載なし=アメホ
   ヒノミコトとされる

そして、733年当時 四大神を祀った社として 
熊野大社、杵築大社、野城社、佐太御子社があり
現在まで続いています。

さて、その四大神の野城大神を祀っている現在の能義神社ですが
安来市内に流れる飯梨川の東岸にあります。
入り口が わかりにくく 何度も道に迷いました。

能義神社近くの橋の上から  飯梨川
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能義神社 入口  「出雲四大神 能義神社」の看板が見えます。
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やはり昔の神社は、石段が急です。

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能義神社 拝殿
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能義神社 本殿
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本殿と拝殿がつながっていません。

能義神社 本殿 左から
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現在の主祭神は天照大神の第二子、天穂日命(アメノホヒノミコト)です。
天穂日命は大国主大神の国譲りの際高天原からの使者として派遣された
出雲国造家(千家家・北島家)の祖神です。

室町時代末期(一五六三年)に天災で焼失しています。
現在の本殿は、慶長十八年(一六一三年)
初代松江藩主、堀尾吉晴公の孫に当たる堀尾忠晴公が再建したもので、
以来十一回の御造営を経たものだそうな。

本殿の裏手には円墳を中心とする能義神社奥の院古墳群が
あるとインターネットで知り 裏をあるいてみましたが
全くわかりませんでした。

神社の周りには、空き家が多かったです。
長い歴史の中で すたれた感じがしました。 

小山の裏(南側)は、田んぼでした。
コハクチョウが、一羽 飛んでいました。
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by yuugurekaka | 2014-09-30 20:17

昨日は、秋分の日でした。
私は、ある出雲西部の豪族の古墳を探していました。
出雲西高校の裏の方にある「宝塚古墳」はどこだろうか。
あれ 墓地がある。お墓参りに来ておられるご家族が二組。

もしや、ここが「宝塚古墳」では?
その通りでした。「宝塚古墳」の周りにたくさんの御墓があります。
写真ではわかりにくいですが、表示板の左にお墓が見えます。

宝塚古墳 出雲市下古志町 出雲西高校のグラウンドの東にあります。


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宝塚古墳は円墳で 古墳時代後期(6~7世紀)のものと云われています。

宝塚古墳墳丘 石室の天井石が露出しており 墳丘はかなり削られています。


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ここの石室は、柵が無く入ることができます。

横穴式石室  全長で7m以上あります。右側に家形石棺が置かれています。


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しかし、出雲西部の大きな古墳は、現在の墓地の中にあるものが多いです。
と、いうよりも古墳の周りに、墓地ができているということですね。

この近くにある 妙蓮寺山古墳も 日蓮宗の妙蓮寺というお寺の墓地を通り抜けた
ところにあります。古墳時代後期に造られているそうです。

妙蓮寺山古墳  全長約49m 後円部経約25mあります。


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前方後円墳で 墳丘がわかりにくいですが、丸く光っているところが後円部で
木が生えている盛り上がった所が、前方部です。
そばで見ても後円部しか よくわからなかったです。

妙蓮寺古墳 横穴式石室 


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玄門は、2枚の板石を観音開きになるようになっている珍しい造りになっていました。
また、出雲市今市町には 今市大念寺古墳という出雲で最大規模の前方後円墳があります。
これまた、古墳を取り囲んで墓地があります。

大念寺 浄土宗の古いお寺。このお寺の後ろが、古墳の後円部。


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大念寺横穴式石室  右手の墓地を通っていくと入り口がありますが、柵がしてあります。


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大念寺古墳を南から写真を撮る  中央部の木が生い茂ったところが古墳で、左側が後円部。


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大念寺古墳は、墳丘の北側半分が壊れていますが、全長約92m
後円部径 推定約45m高さ約7mあります。

弥生時代は、東部(安来市方面)も西部(出雲市方面)も 
同じく四隅突出型墳丘墓だったのに、
古墳時代になると
東部は、方墳や前方後方墳が多くなり
西部は、前方後円墳や円墳が多くなるのです。


by yuugurekaka | 2014-09-24 01:08 | 古代遺跡

長浜神社は、国引き神話に出てくる、島根半島を引っ張ってくる際に
三瓶山にくくりつけた綱とされている 「薗の長浜」にある神社です。
神話めぐり 国引き

長浜神社拝殿
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今は、陸地となっていて 綱?と想像ができませんが
733年当時は、周りが「神門水海(かんどのみずうみ)」という海で囲まれていており
出雲大社の方から南西に伸びていく、弓のように長い浜でした。

大社造りの立派な本殿です。

長浜神社 本殿
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この神社の祭神は、八束水臣津野命 【やつかみずおみつののみこと】
国土創世の神話として、出雲風土記冒頭に書かれています。→ウィキペディア 国引き神話
古事記には、淤美豆奴神(おみずのかみ)として、スサノオを出雲王初代として
四代目とかかれており、大国主命の祖父として記述があります。
(古事記では、6代目の大国主命が、初代の娘 スセリ姫を嫁にもらうという
 よくわからない展開となっています。)


日本史リブレット 勝部昭「出雲国風土記と古代遺跡」(山川出版社) より引用
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この国引き神話ですが、出雲の国は狭く、ここの神様が
いろいろなところから 
土地を引っ張ってきて、縫い合わせたのが、島根半島という神話です。

縄文時代は、島根半島は島であり、陸続きではありませんでした。
1万年前から6千年前頃にかけて温暖化し、縄文海進が起き
海水面が上昇し、陸地が狭くなりました。

その後 斐伊川と神門川が運んできた土砂が少しずつ堆積して
出雲平野ができ 陸続きとなったわけです。

国引き神話は、このことを反映したものではないかと言われています。
となれば、八束水臣津野命というのは、弥生時代前期頃なのでしょうか?


ここの八束水臣津野命 ですが、
出雲風土記では、「出雲」という国の命名をした神様
としても書かれています。
“出雲と名づけるわけは、八束水臣津野命 がおっしゃったことには、
 「八雲立つ」とおっしゃった。だから、八雲立つ出雲と言う。”
(島根県古代文化センター[編] 解説 出雲風土記 今井出版 より)
 
しかし、全く意味がわかりません。
そもそも、古事記ではスサノオノ命が、
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
と詠ったとされています。

うーん。わからんと思ったら、境内にこのような表示が・・・。

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え、忌が明けると、藻を持ってきて、お祓い、これが厳藻(いずも)かけ
これが「出雲」の言葉の起源?
本当でしょうか?うーん。
なぜそう思うかといいいますと、死という事象が「穢れ」と捉えられたのは
神道では後代になってと、どこかの本で読んだからです。→ウィキペディア 穢れ

それと、私が知らないだけかもしれませんが、
藻をかける所は、神社では、松江市の佐太神社ぐらいしか 見た覚えがありません。

佐太神社  藻汐祓
 
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インターネットで調べて見た所
出雲の言葉の由来には、いろいろな説があるらしいのです。

・柳田國男の弟、松岡静雄氏の説では「美しい藻」という説。

・「五面(イツオモ)」・五つの面から出雲国が出来た説
 国引き神話は、4つの土地を引っ張ってきて縫い合わせた島根半島を作った
 という神話ですが、合わせて五つの地域を縫い合わせて出雲の国を創世したという
 神話から来た説

・「イヅモ」は「夕つ方〔も〕」の説
 白鳥庫吉氏の説。大和中心に考えると 東国は、「あずま」
「アヅマ」とは「朝つ方〔も〕・アサツモ」のこと。
これに対して「イツモ」というは「夕つ方〔も〕」で西の国という意味。

・「イデクモ〔出雲〕」の「デク」が縮まって「イヅモ」なったという説。
 これは本居宣長の説ですが、
 もともと日本には漢字が無くて
 後からの当て字の世界だから、私は何か違うように感じます。
 雲が多いから、出雲
 でも、この説が一番多く思われている説なのかもしれません。

長浜神社の双体道祖神
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さて、ここの境内の後ろの方に祀ってあった双体道祖神です。
出雲地方では、ほとんど見たことがありません。珍しいです。
長野県や、山梨県、鳥取県、関東地方には 
双体道祖神が多数存在しているそうです。

民俗学では、猿田彦神(サルタヒコノカミ)と、
その妻といわれる天宇受売命(アメノウズメノミコト)とされていますが
そうなのでしょうか。

三浦佑之氏訳 「古事記」(文春文庫)126ページの補入された
「大国主命とスセリ姫」とした方が、自分はしっくりします。
妻問婚で 全国展開している大国主命ですから
スセリ姫ではなくて そこの土地の姫神なのかもしれないですが…。



by yuugurekaka | 2014-09-23 12:16

神庭 諏訪神社の本殿です。

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ここの境内にある天神様。
ちょっと見たことのない天神様ですよ。


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とても懐かしい、土で作った人形がたくさんあります。
うちの実家にたくさんありました。
うちの実家では、女の子がいないのに
桃の節句していました。

男の子一人一人に、人形がありました。
父やおじさんや兄たち みんなに確か 大きな天神様の
人形があったと記憶しています。
しかし、おばさんの人形はなかったと思います。

私は人形が買ってもらえず (もう 土人形を売ってなかったのかもしれません。)
代わりに掛け軸を買ってもらって 飾ってもらいました。

そういえば、近所の他所の家では、女の子のいる家では
「普通」のひな壇のある、ひな祭りをしていました。
子どもの頃、うちの家だけ ひな祭りの仕方が違うとは、
なぜか疑問に思いませんでした。


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あれ、「身代わり天神由来」が書いてあります。
「出雲地方では」ということになると
もしかして、あの風習は、ひな祭りではなく、
天神様の祭りみたいな物だったのでしょうか。

出雲地方の人形店のホームページを見たら
江戸時代の土天神は、米子・松江・出雲地方では
3月3日に天神様を男の子の幸せを願って 飾るそうです。

でも、父やおじさんのまで、置いてあったから
大人になったら奉納するという風習は、うちの実家ではなかったように思います。
ああいう祭りも、たぶん、自分が子どもの代で 終わったんだろうと思います。
ああやって 時代と共に、風習が変わっていくんでしょうね。

身代わり天神由来

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“身代わり天神由来

出雲地方では、桃の節句のひな人形や端午の節句の
武者人形を「天神様」と呼び子供の身代わりになって
病気や災難を防ぐという信仰がある。
子どもが成長し古くなった人形を奉納してまつるのが
「身代わり天神」である。

例祭日
四月二十三日”



by yuugurekaka | 2014-09-03 19:42

荒神谷遺跡を観ようと車を走らせようとしていると
諏訪神社が偶然見えて来ました。
何か荒神谷遺跡と関係があるかもしれないと 参拝しました。

この諏訪神社、諏訪神社と云えば 健御名方命(タケミナカタノカミ)ですが、
この神社も、健御名方命を祀っています。
残念ながら、出雲風土記(733年)に載っている古社ではありません。

この近くに、学頭諏訪神社、庄原佐支多神社、神庭諏訪神社、武部字西諏訪神社の
4つの健御名方命を祀る社を、高瀬山城主・米原綱広が
16世紀に造ったのが、その始まりとか。
1500年代ですから、かなり古いではないですか。

出雲地方には、神社に下記のような荒神さんがあります。


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ここの荒神さんは、荒神谷遺跡の近くにある荒神さんと
同じ形式です。大きな石に、大きなわらの蛇が巻き付いています。
グオーっという感じで、迫力があります。


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しかし、説明というか解説を聞いたことありません。
ここの神社には、詳しい説明板があり、ありがたいです。


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“荒神さんには、屋敷荒神、講荒神があります。
屋敷荒神は、かまどの神とか土地の守り神で、
大体宅地内に祀ってあります。

また、同族荒神は、その名の通り、一族一統で祀りますが、
斐川町にはほとんどありません。

地域荒神は、総荒神といって、その土地の人が神木に
幣串や赤飯などの志を供え、藁で作った大きな龍蛇神を巻いて祀るものです。

しかし、神庭の弓原地区や原鹿等に残る総荒神には、
それこそ大きな大蛇が祀られているところから、
収穫感謝の祭りであると同時に、あの「おろち」~つまり川の氾濫に
に代表される大自然の恐ろしさに対する崇拝もあろうと思われます。”
(境内の説明文より)



by yuugurekaka | 2014-09-02 17:26