神代塚(かみしろづか)古墳の近くの神社
支布佐神社(きふさじんじゃ)は、
天穂日命(アメホヒ ノミコト)を祭神として祀っています。

結構急な石段です。


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支布佐神社は、出雲風土記(733年)に載っている古社です。
また、出雲風土記 意宇郡屋代郷(おうぐんやしろごう)の所で

“屋代郷。郡家の正東三十九里一百二十歩の所にある。
天乃夫比(あめのほひ)命の御伴(おとも)として
天から降ってきた、社印支(やしろのいなぎ)らの遠い祖先の
天津子(あまつこ)命がおっしゃられたことには、
「私が清浄の境として鎮座したいと思う社である」と
おっしゃられた。だから、社(やしろ)という。
(神亀三年に字を屋代と改めた。)”
 「解説 出雲風土記」   島根県古代文化センター【編】より 

と、あります。

支布佐神社 

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天穂日命ばかりでなく
御伴の天津子命—稲置(いなぎ)というカバネの豪族の祖先ーが
天から降ってきたそうです。

天から降ってきたというと、天から人間が降ってくることなど無い、
神様だから降ってくるのだという論理なのですけど、
そう簡単な話ではないと思います。

出雲の大神ー大国主命は天から降っては来ない。
それは、国津神ということもあるでしょうが
大国主命はもともと出雲の国に居たからでしょう。
そういう観点でいけば、天から降ってくる神様というのは
すべて他所から来た神様ではないでしょうか。

「来訪神崇拝」というのがあり、神様というのは
基本的に他所から来るものなのでしょうか?
民俗学の折口信夫氏は、異界からの訪問者を
「まれびと」(稀人・客人)として神の本質として定義しているらしいです。
まれびと Wikipedia
そして、常世という海の向こうから来るもの、後に山岳信仰の影響から
天から降ってくるものへと変容したそうな。

また、葦原の中つ国ー地上界、高天原ー天上界という
展開で、国譲り神話が進んでくるので
神様が、船に乗って海から来たというのや
馬に乗って来たというのでは、神話としては
成立しないのでしょう。

支布佐神社 本殿


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出雲の国の攻略地点として
鳥取県との県境近くに、大和から移り住んだのでしょうか。
中海にある「穂日島」(ほひじま)など、天穂日命にかかわる伝承が
多い地域のようです。


by yuugurekaka | 2014-08-27 18:04 | 出雲国造

腰痛は少しずつですが、良くなっています。
ふくらはぎでも痛めたら、10日ぐらいは治すのにかかったので
それぐらいの時間は要るのではないかと思われます。

神代塚(こうじろづか)古墳に行ったのは、腰痛発生前です。

「天穂日命の墓」との言い伝えがある遺跡があると知り
行ってみたくなりました。
天穂日命(あめのほひのみこと)とは、アマテラスオオミカミの第二子で
大国主命に葦原の中つ国を国譲りさせようと
高天原から最初に派遣された神様です。→アメノホヒ Wikipedia

確か何年か前は、国道9号線の道路の脇に
「神代塚古墳」の表示がありましたが、現在は無くなっています。
この安来市吉佐町の町内にあるのは
わかっていましたが
2度訪れて 場所を発見することができませんでした。
インターネットで場所を確認するも失敗。

一つは、古墳と言うものは小山の上にあるものだという先入観が
邪魔していたのと、古墳が見つけずらい場所にありました

大学病院の帰りに、場所がようやくわかりました。
山陰道(高速)の下を走っている道から横に降りたところにありました。

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鳥居も立てられ、きれいに整備されていました。
鳥居というと、変な感じもしますが
神様の墓ということで後から建てられたんではないでしょうか。

しかし、神社自体が、古墳の上にあるケースは神社巡りをしていると
たまにあります。神様の墓をお参りするという神社の形態として
一つの類型としてあるのかな。

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ここの古墳は、弥生時代のものです。
上の大きな石は、横穴式石室の天井石です。
鳥取県と島根県の境界の島根県側の方にあります。

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墓となると神様も死ぬのか…と大きな疑問を持たれる方も
おられるでしょうが、安来市伯太町にはイザナミノミコトの陵墓さえあります。
日本の神様というのは大部分 古代の豪族の祖先なので
墓があっても不思議はないです。


by yuugurekaka | 2014-08-26 12:20 | 出雲国造

松江市八雲町東岩坂に星上山(ほしかみやま)があります。
星の神が降り立ったという伝説の山です。
東出雲町の揖屋神社と八雲町の熊野大社
ちょうど真ん中あたりに位置しています。

星上山は、標高454メートルで
展望台があり、松江市の街の夜景が美しく
観れるところです。

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頂上には、「星上山スターパーク」という
オリオンなど星座の名前がついたバンガローや共同炊事棟
やバーベキューができる休憩室がある
満天に光り輝く星が楽しめるキャンプ地です。詳しくは→星上山スターパーク

この星上山には、星上寺というお寺があります。

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展望台とは、逆の方の道を登っていくと すぐ星上寺があります。
曹洞宗のお寺で、十一面観音の伝説のある星の池が
この寺を下った所にあります。

その星の池を探していたら、東の展望台に着きました。
東の展望台から見た風景。中海の方面が見えます。

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星の池は見つかりませんでした。
それで、お寺の方に戻りました。そうすると鳥居が見えました。
那富乃夜(なほのや)神社です。

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那富乃夜神社は、出雲風土記(733年)に載っている古社ですが
現在は、星の神こと 星神加加背男命((ほしのかがせおのみこと)を祀っています。
出雲地方には、星神加加背男命を祀った神社がほとんどありません。
星神加加背男命は、またの名前を天津甕星(あまつみかぼし)と言います。
ウィキペディア天津甕星(あまつみかぼし)

那富乃夜神社 拝殿
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本殿  出雲地方では、大社造の本殿に見慣れているせいか
流れ造が新鮮に見えました。

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星の神は、古事記には出てこない神様ですが、
日本書紀の国譲り神話に出てきます。

“そこで二神(経津主神・武甕槌神)は、もろもろの従わない神たちを
 誅せられ、−あるいはいう。二神は邪神や草木・石に至るまで
 皆平げられた。従わないのは、星の神の香香背男(かかせお)だけとなった。
 そこで、建葉槌神(たけはつちのみこと)を遣わして服させた。” (1)

星の神なのに、国津神のような扱いです。
また、日本書紀一書(第ニ)では、

“ときに二柱の神(経津主神・武甕槌神)がいわれるのに、
「天に悪い神がいます。名を天津甕星(あまつみかぼし)といいます。
 またの名は天香香背男(あまのかかせお)です。
 どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平らげさせて
 頂きたいと。」このとき甕星を征する斎主(いわい)をする主を斎(いわい)の
 大人(うし)といった。この神はいま東国(あずま)の香取の地においでになる。”(2)

   ※ (1)(2)も 「『日本書紀』  宇治谷 孟 」 より 引用。

と書かれており、こちらは高天原の内紛的な書き方です。
星の神なので、太陽の神のコントロール下に置くこと自体が
そもそも無理だったように思います。


by yuugurekaka | 2014-08-20 20:31

出雲大社のある弥山(みせん)山と神戸川(かんどがわ)

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今は 神戸川の下流ですが、出雲風土記成立頃は
「神門水海」(かんどのみずうみ)でした。
そこまで行かず、神戸川であった所の西側に
古志郷(こしごう)がありました。
現在の出雲市古志町、知井宮町を含む地域です。

神門郡の郡家(ぐうけ)−つまり郡の役所があった所で
出雲国西部方面の中心地であったと思われます。

この古志郷の地名の由来ですが、出雲風土記(733年)では
“郡家に属する。伊弉那彌命の時に、日淵川を利用して
池を築いた。その時、古志国の人々がやってきて
堤を造った。その時彼らが宿としているところである。
だから、古志という。”

また、狭結(さよう)駅の記述では、
“郡家と同所にある。古志国の佐与布(さよふ)という人が
来て住んでいた。だから、最邑(さよう)という。”
(解説 出雲国風土記 ~島根県古代文化センター[編]より)

※ 古志国…北陸地方の国。高志国ともいう。

うーん。この「イザナミの時」って、どういうことでしょう。
国生みの時なら、もはや、「やってきて」という表現ではなく
既にそこに居るということではないでしょうか。

「かなり昔」という表現で、イザナミの時としているのでしょうか。
それとも、古志郷とイザナミの縁というのを強調したいがための挿入なのでしょうか。
そう私が思うのは、古志郷にはイザナミを主祭神としている神社が多いためです。

久奈子神社 出雲市古志町2254  本殿

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久奈子神社は、イザナミノミコトを主祭神として祀っています。
女神ですが、本殿は男千木でした。
久奈子神社の境内から、出雲市内が展望できます。
遠くに、出雲ドームが見えます。横一線に見えるのは、神門川です。

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比布智神社(ひふちじんじゃ) 出雲市下古志町1374


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久奈子神社から、北の方の広い道に出て、
西方に向かうと、比布智神社が見えます。
出雲風土記に出てくる日淵川の「ひふち」から来ています。

現在の祭神は、伊弉冉尊 伊弉諾尊 大日霊貴神の三神ですが
出雲風土記の頃は、伊弉冉尊(イザナミノミコト) だけ祀られていました。

陰陽石
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比布智神社の本殿東側にある陰陽石。
「ー前略ー比布智神社の旧跡地  日淵川の天ヶ淵に鎮座。
元は標石らしく、当神社陰陽二神のご神徳を
あらわしたものである。ー後略ー」と、
神社の説明文に書いてありました。


by yuugurekaka | 2014-08-18 10:52 | 出雲風土記

出雲市斐川町の田んぼの中の鳥屋神社。
ここにたどりつくまで
かなり日数を要しました。

自分は、カーナビや地図をたよりに
古社を探すわけではありませんので
感だけが、たよりです。

斐川町の田園地帯というのは
築地松という防風林で囲まれた大きな農家が多いので
どこも神社のように見間違えてしまうのです。

それで、さすがに今回は、地図で調べて行きました。
ありました!
向こうに見える川土手は、斐伊川下流で
近くに古事記で有名な多芸志(たぎし)の浜が
あります。

鳥屋神社

この鳥屋神社は、長野県の諏訪大社の祭神
「建御名方命」(たけみなかたのかみ)を祀っています。
建御名方命は、国譲りに反対して、
建御雷神(たけみかずちのかみ)と対決した神です。

古事記では、弱っちくて逃げ回って惨めに命乞いをする神
として描かれていますが
本当は、勇猛果敢で強かったのではないでしょうか。
そして、出雲で戦ったのではなく、越の国の方面で戦ったのではないでしょうか。

なぜならば、沼川姫の子なら、当時は妻問い婚の時代なわけですから
母方の一族の御子となるはずだと思うのです。
でも、ここの神社には、「出雲国国譲り決戦地」と
書かれた表示板が掲げられています。
誤解が生じるといけませんので、
正確に言うと「葦原中津国」を国譲りする
出雲国での 「決戦地」です。

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斐川町が作成した説明文には、下記のことが書かれていました。

鳥屋社と建御名方命
 古事記、国譲りの条に「国譲りに最後まで反抗された、
出雲国唯一剛勇の神 建御名方命は、高天原からの国譲り交渉の使者 建御雷命に対して、
千引きの岩を両手で捧げ“我が国に来てわけも無いのに国を譲れとはけしからん”と、
その岩を投げつけられた。
しかし、建御雷命は巧みにそれを避けて反撃。二神の争いはしばらく続いたが、
建御名方命の力及ばず信濃の国の諏訪まで逃げられ、
ついに降参され国譲りを認められた」とある。
 投げられた千引きの岩は内海に立ち、そこへ多くの鵠(白鳥)が群がった。
里人達はその風景がまさに鳥小屋のように見えたので、
この地が鳥屋という地名になった。
そしてその岩の上に建御名方命ご鎮座の鳥屋社が造営されている。”

拝殿

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神紋は、 丸に立梶(かじ)の葉
諏訪大社と同じ梶の葉でした。


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神社の境内で 聞いたことのない動物の声。
クエーッ クエーッ
なんだろうと思って見たら、白鳥です。
田んぼを見渡したら、白鳥が少なくとも5羽いました。
神代から 何も変わらず 白鳥が この宮を守っているかのようです。

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飛び立つ写真を撮りたかったのですが、
難しい。連写すれば良かったもしれませんが
ワンタッチのデジカメでは、ピントがあいません。
50メートル近寄ろうとすると、すぐ飛び立って居なくなるのです。
出勤時間が近づいたので写真を撮るのは、あきらめました。



by yuugurekaka | 2014-08-16 23:14 | 国譲り

安来市内の古墳を見た後
突然 長江山の稚児岩を見たくなりました。

大国主命が、越の国の八口を平定した後
伯耆の国(鳥取県西部にある出雲国の隣の国)を通って
長江山の稚児岩に鎮座して 岩の上に
水取の玉(水精、水晶)を置き
「自分が造り治めた他の国は皇御皇孫にゆずるが
 出雲の国だけは、青垣をめぐらして
 大切に守り育てる」と出雲統治を宣言したという
云い伝えの場所です。
(玉神社の案内版を参考に書きました。)

安来市内から、30分以上南下しないといけません。
突然見に行くのですから、地図も無く、迷いました。
迷って、ため息をついたところで神社の鳥居が見えました。

玉神社です。
もしかしたら、稚児岩に関係する神社ではないか。

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この玉神社、稚児岩を祀ったのが、神社の前身と書かれていました。
さて、この伝説は、出雲風土記に書かれています。

出雲風土記
母里郷(もりごう) 郡家の東南三十九里一百九十歩
のところにある。
所造天下大神の大穴持命(おおなむちのみこと)が、高志(こし)の八口(や
くち)を平定なさってお帰りになる時
長江(ながえ)山においでになっておっしゃられたことには、「わたしが国作り
して治めている国は、皇御孫(すめまの)命が平和に世をお治めになるよう
お任せ申し上げる、ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、
青く木の茂った山を垣の如く取り廻らし、玉の如く愛でに愛で正しく守りま
しょう。と、おっしゃられた。だから、文理(もり)という。”
ー島根県古代文化センター編ー

高志(越の国)の八口というとヤマタノオロチを思い出してしまいます。
平定と書いてありますので
越の国では、当時反乱が起こっていた模様です。

古事記の国譲り神話の所でも
越の国のヌナカワヒメの御子 建御名方神(たけみなかたのかみ)が
高天原の建雷命(たけみかずちのかみ)との対決が書かれています。

しかし、国を譲るという話が決まっているのに 
越の国(北陸地方)を平定しにいくのでしょうか?
もしかして、越の国が、最後まで国譲りに反対したのを収めにいったのでしょうか。

越の国を平定した帰りに
出雲の国を守るという宣言、国の統治権は譲るけど
出雲だけの統治権をなんとか守ろうとしたという交渉あるいは戦いが
あったのでしょう。

玉神社 拝殿

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境内社を一つ一つ拝しているうちに
すっかり暗くなっていました。
なんとか、露出を調整して 神社の写真はとりました。

良く知らない 山奥の道ほど心細いものはありません。
長江山の稚児岩を見るのは また別の日にして
その日は、家に帰りました。


by yuugurekaka | 2014-08-14 13:00 | 出雲風土記

稲佐の浜2
ここは、稲佐の浜です。
写真は、出雲大社に初詣した折、写したものです。
この島は、弁天島。
過去 弁才天を祀っていたものだそうですが
弁才天は、仏法を守る神仏習合の神様だったようで、→ウィキペデア 弁才天
現在は、豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)を祀っています。

豊玉毘古命は、海の神で→ウィキペデア ワタツミ
いわゆる「山幸 海幸」神話の山幸と結婚した トヨタマヒメの親神です。

ここ稲佐の浜に、高天原からの使者 武御雷命(タケミカヅチノミコト)が降り立ち
「葦原の中つ国」の国譲りが、始まったのでした。

人と話していて、よく勘違いが発生していると感ずるのですが、
「葦原の中つ国」の国譲り、つまり、当時の日本全体をヤマト王権に渡せという話なのですが
「出雲の国」の国譲りだと狭く考えられている方が多いと思います。

屏風岩 この岩陰で 国譲りの交渉が行われたと云われています。

屏風岩

国譲りでは、第1段階 天照大神の第二子 天穂日命が派遣されました。
しかし、大国主命に心酔して、
3年経っても 高天原の命令を実行せず 帰ってきませんでした。
ついには、土着化してしまいました。
 
 次に、その子 武三熊之大人(たけみくまのいし)が派遣されますが、
父におもねって帰ってきませんでした。

第3段階に天雅彦(あめわかひこ)を派遣しましたが、
大国主命の娘の下照姫を妻として 
大国主命の後を継ごうとしました。

それで、次は二神 経津主神(フツヌシ)・武甕槌神(タケミカヅチ)
が 派遣されました。
タケミカヅチノカミは、軍神ですので
最終的には、力で 交渉に臨んできたということでしょうか。

それで、大国主命に問います。
「お前は、この国を天神に奉るかどうか」と。

答えて言うには
「あなた方二人の云われることはどうもおかしい。
 私が、元から居るところやってきて、何を偉そうに言うのか。許さん。」

そこで、戻って このことを報告した。
高皇産霊尊(タカムスビノミコト)は、
「今 お前の言うことを聞くと、深く理にかなっておる。
 それでは、条件をそろえてもうしましょう。
 あなたが行われる現世の政治のことは、
 皇孫がしましょう。あなたは幽界の神事をしてください。
 あなたが住む宮居は、今お造りいたしますが
 
 千尋もある栲(たく)の縄でゆわえて、しっかり結び
 造りましょう。その宮を造るきまりは、柱は高く太く
 板は広く厚くいたしましょう。ー中略ー
 また、あなたの祭祀を掌るのは、天穂日命が
 いたします。」

 そこで、大国主命は、その条件を受け入れ
 永久にお隠れになりました。
  ~日本書紀 一書(第二)より~

古事記と日本書紀と書いてあることが
いろいろ違っています。

出雲大社の起源について ヤマト側からの申し出として
書かれているのは、日本書紀 一書第ニです。
古事記では、大国主命からの申し出として書かれています。

稲佐の浜の近くにある因佐神社(いなさのかみやしろ) タケミカヅチノミコトを祀っています。

因佐神社

日本書紀の一書 第一から第八まであります。
出雲大社と、出雲国造の起源は、一書第ニに書いてあります。

あれこれ、読んでいるうちに 更新が遅れました。



by yuugurekaka | 2014-08-11 10:21 | 国譲り

カミムスビの神に派遣された2女神の一神の
蛤の神 ウムギヒメ は ウグイスになって 法吉神社に祀られていますが
一方のキサガイヒメは、松江市島根町にある加賀神社(かかじんじゃ)に祀られています。

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出雲風土記によれば、
“加賀(かか)郷。−略ー。佐太大神のお生まれになった所である。
 御母である神魂命の御子、支佐加比売命(きさかひめのみこと)が
 「暗い岩穴である。」とおっしゃって、金の弓をもって射られた時に、
 光りかがやいた。【原文…光加加明きき】だから、加加という。”
(島根県古代文化センター 編 より)

この佐太大神というのは、出雲四大神の一神で、
松江市鹿島町の佐太神社に祀られています。→母神イザナミをしのぶ神在月 佐太神社

加賀神社 本殿。
キサガイヒメは女神なので、千木が女千木です。

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加賀神社は、日本海に面した加賀漁港のすぐ近くにあります。
この加賀には、二つの潜戸(くけど)があります。 →ウィキペデア 加賀の潜戸

潜戸というのは、洞窟であり、新潜戸は佐太大神が生まれたという
加賀神社の旧社地があった所です。
だから、加賀神社のことを潜戸太神宮とも言います。
 旧潜戸は、仏になった子供らが親を慕い小石を積み上げたと伝えられる
「賽の河原」があります。

二つの潜戸は、遊覧船で見ることができます。
詳しくはこちらに→潜戸観光遊覧船

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加賀神社 拝殿。
ここの拝殿には、6つの絵馬が奉納されています。 →NHK 新日本風土記 島根・加賀神社の絵馬

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私が、加賀神社を参拝した時は遊覧船がでていませんでした。
機会あれば、二つの潜戸を見てみたいと思います。



by yuugurekaka | 2014-08-10 01:12 | カミムスビ

松江市法吉町の市街地に法吉神社(ほっきじんじゃ)があります。
主祭神は、宇武加比比売命(うむかひひめのみこと)で、ウムギヒメと同神です。

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ウムギヒメというのは、古事記では 大国主命が鳥取県西伯郡南部町で
異母兄弟に焼けた大きな石を抱きかかえさせられ 亡くなった時→赤猪岩神社
大国主命を蘇らせるため
カミムスビの神に派遣された2女神の一神です。
キサガイヒメは赤貝の神、ウムギヒメは蛤の神です。→ウィキペデア 「キサガイヒメ・ウムギヒメ」

本殿を後ろから見た所です。女神なので、女千木ですね。
神紋が、菊です。出雲地方では、私はあまり見たことありません。

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下記は、古事記の話ですが、出雲風土記ではカミムスビ(神魂命)の御子と
なっています。

“大国主の神話で、たくさんの兄神たちである八十神から嫉視された
大国主神が、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き
止めて焼け死んだところへ、神産巣日之命の命令によって両神が
派遣され、キサガイヒメが「刮(きさ)げ集め」、ウムギヒメが「持ち承
(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て[2]治療を施すと大国
主神は蘇生したとある。” (ウィキペデア 「キサガイヒメ・ウムギヒメ」より)

出雲国風土記では、その後 宇武加比売命(うむがひめ)が
ウグイス(法吉鳥 ほほきどり)になって飛んできて、ここに鎮座したため
この地を法吉と呼ぶ様になったと云うそうです。→ウィキペディア 法吉神社
なお いまでこそ ウグイスといえば 「ほーほけきょ」ですが
仏教伝来後の聞き倣し(ききなし)から、「法、法、法華経」と
置き換えられるようになったらしいです。
大昔は、ほう、ほうききょう 「法、法吉郷」だったのかもしれません。

旧社地は現社地の北東にあるうぐいす台の団地の北側の奥だそうで
「伝宇武加比売命御陵」とされた方墳があります。

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さらに上に登って、山の中に入ったら、小さな祠がありました。ここが、旧社地なのでしょうか。

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by yuugurekaka | 2014-08-08 22:59 | カミムスビ

曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ)拝殿

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さて、この神社の祭神 伎比佐加美高日子命でありますが
出雲国造の祖とありますが
出雲国造の祖といえば 天照大御神の第二子である
天穂日命(アメノホヒノミコト)のはずではないですか、うーん。
いろいろ調べたら、ウィキペデアの出雲国造に書いてありました。→ウィキペデア 出雲国造

第14代の出雲国造 来日田維穂命と同一人物と書かれています。
第11代 垂仁天皇の頃なので、既に国造制度があったと思います。
2000年以上前の話らしいです。
だとしたら、ここの里の首長というよりは、出雲国の首長(今の県知事のような地位)
ではないかと思うのですが、ここの里をあえて 「キヒサの里」と云うのは
ここら辺が祭祀と政治の中心地だったのでしょうか。
となれば、松江の神魂神社の当たりは、その後ということになるのでしょうか。 

神社の境内に磐座があります。


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説明板があります。

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この磐座の祭神は、神魂伊能知奴志之命 とあります。
この神様は、出雲大社境外者の命主神社の祭神と同神カミムスビノカミです。
そして、出雲国造の祖である伎久佐加美高比子之命の祖神と
書かれています。

造化三神と一神は、神様の大元なわけなので
全ての神が、カミムスビノカミの子孫と言えるわけですが
あえて、祖神と表現されるのは
カミムスビノカミという神が、出雲の国では
大国主をずっとサポートしてきた神様ということで
特別な意味があったのではないかと思いました。

しかし、なぜ 遥拝の磐座なんでしょう。
ここから、出雲大社を拝むという理由はなんでしょうか。
ここで拝めば、出雲大社で拝殿したと同じ意味を持つというのは
出雲大社に参拝できない時代があったのではないかと、
勝手に想像しました。
なんらかの事情があって 出雲大社が禁足地であった時代が
あったのでは?

ここの神社が、古事記の垂仁天皇の条に出てくる
「石硐(いしくら)の曾の宮」であるというのが 今一つ
ピンときません。

“アシハラシコヲノ大神を敬(うやま)い祭っている神主の祭場”というのは
出雲国造の先祖なので あてはまりますが、大国主命を参拝した後に、
肥川の河下の青葉に茂った飾り物の山を見て、
垂仁天皇の御子が話したわけですので、
場所からして、今の出雲大社方面のことを指しているように思えるのです。
ここの磐座群が、かつての出雲大社の原初形態だったと考えるには
今の出雲大社と比較して
あまりにも宮の規模が、小さすぎるのではないか。
それで、今一つピンとこないのです。

ちなみに江戸の国学者 本居宣長は、石硐の曾宮は杵築大社ではなく
むしろ那売佐神社ではないかと書いているそうです。
2千年以上前のことなので よくわかりません。

→ 岩坪とスセリ姫 那売佐神社



by yuugurekaka | 2014-08-05 11:45 | 出雲国造