『止屋の淵』のことを図書館でいろいろ調べていましたら、斎木雲州著『出雲と蘇我王国』という本を見つけました。
読んでいくと、これは⁉ 司馬遼太郎氏がいつぞや書いていた出雲神族の末裔の富當雄氏(詳しくは前述の記事→生きている出雲王朝 司馬遼太郎さん)の息子さん(司馬遼太郎氏の本では名前は不明だが)が書いておられる本ではないですか。
読んでいくうちに、古事記や日本書紀に書かれている事柄と全然違うではないですか?
出雲は、西出雲の王と東出雲の王が交代で、主王(オオナムチという役職名)と副王(スクナヒコという役職名)を決めており
八代目のオオナムチが、「大国主命」で、スクナヒコが「事代主命」(正しくは八重波津身)であったそうです。
そうかあー。妙に納得してしまいました。
人によっては、「トンデモ」本ですが、整合性があり、たいへん面白く読みまして、斎木雲州氏の他の著作の
「出雲と大和のあけぼのー丹後風土記の世界」「古事記の編集室ー安万侶と人磨たち」も続けて読みました。

「止屋の淵」に出てくる登場人物のことも書かれており、出雲振根は神門臣の人物、飯入根は弟ではなく向家の
人物、甘美韓日狹(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかづくぬ)は天穂日命の子孫だそうです。
出雲王国滅亡後、鸕濡渟が初代出雲国造となり、出雲の国を治めていくことになります。

そして、出雲振根は崇神天皇の時代の話ではなく、垂仁天皇の時代、物部十千根(とおちね)を将軍とする物部軍に討死にしてしまいその時、西出雲も東出雲も滅ぼされてしまったといいます。

さて、下記の系図は、『北島国造家文書』の出雲国造世系譜にある系譜に北島家のホームページの情報等を参考に書き加えたものです。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
出雲国造家系譜

始  祖 天穂日命
第 2世 武夷鳥命(たけひなどり)
第 3世 伊佐我命
第 4世 津狭命
第 5世 櫛瓺前命(くしみかさき)
第 6世 櫛月命
第 7世 櫛瓺鳥海命(くしみかとりみ)
第 8世 櫛田命
第 9世 知理命
第10世 世毛呂須命
第11世 阿多命  別名 出雲振根
第12世 氏祖命(おほし)—初代出雲国造  別名 鵜濡渟(宇迦都久怒)
第13世 襲髄命(そつね)—野見宿禰・・・相撲の元祖 
第14世 來日田維命(きひたすみ) 別名 岐比佐都美
第15世 三島足奴命(みしまそまぬ)
第16世 意宇足奴命(おうそまぬ) 
別命:游宇宿禰
第17世 国造出雲臣宮向  出雲姓を賜わる
第18世 国造出雲臣布奈
第19世 国造出雲臣布禰
第20世 国造出雲臣意波久
第21世 国造出雲臣美許
第22世 国造出雲臣叡屋
第23世 国造出雲臣帯許
第24世 国造出雲臣千国
第25世 国造出雲臣兼連
第26世 国造出雲臣果安  松江市大庭町より杵築の地(出雲大社のある地域)に移る
第27世 国造出雲臣広島  出雲風土記 編纂責任者  
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
しかし、斎木雲州著『出雲と蘇我王国』によれば、出雲振根は、西出雲の王家ー神門臣家であり、
さらには野見宿禰と淤宇宿禰は、東出雲の王家ー向家(富家)の先祖だそうです。
つまりは、この系譜は少なくとも3家(神門臣家・向家・天穂日命家)習合した系譜であるということです。

山代神社 
祭神の山代彦命が向家の先祖の豪族で、山代二子塚古墳は、山代彦命の古墳であるという。

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向家(富家)自体、天穂日命を祖とする出雲国造と同じように、奈良時代までは、「出雲臣」を名乗っていたようです。
また、神門臣家は、『新撰姓氏録』(815年)→ウィキペディア 新撰姓氏録によれば
 「出雲臣、天穂日命十二世孫 ウカズクヌミコトの後なり、神門臣、同上」となり、出雲臣の分家のようになっています。

 大国主命の子孫である神門臣家も、事代主命の子孫である向家も、出雲国造と同系として習合するするしか生きる道はなかったのかなあと想像しました。

 しかし、古墳時代末期に、大きな古墳があるところを考えると、出雲王朝はつぶされても、いまだ地方豪族として力は厳然として残っていたのではないでしょうか。


 向山1号墳のある向山 北側に山代神社があり、南側に向山古墳群があります。
 

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 古墳は、見れませんが、山代二子塚古墳の前の「ガイダンス山代の郷」で向山1号墳のレプリカをみることができます。

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  天穂日命を祖とする出雲国造が東出雲を全権掌握していて、それが西出雲にも及ぶようになるという通説を自分も信じこんでいたので、斎木雲州氏の本は、衝撃でした。




by yuugurekaka | 2015-12-07 08:00 | 出雲国造

イズモタケルは どちらか?

出雲市大津町に「止屋の淵」という伝承地があります。昔は、斐伊川の淵のようです。

止屋の淵近くの斐伊川

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しかし、今は斐伊川の淵ではなく斐伊川の近くにある平野の小山となっています。小山には、祠が二つ祀られていました。                                   

止屋の淵伝承地

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ここの「止屋の淵」は、日本書紀ではこのように記述されています。

 日本書記  巻五 崇神天皇  抜粋
 
六十年秋七月十四日、群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)の、天
から持ってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」と
いわれた。 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の先祖の武諸隅(たけものろすみ)を遣
わして奉らせた。

このとき出雲臣の先祖の出雲振根(いずもふるね)が神宝を管理していた。
しかし筑紫国(つくしのくに)に行っていたので会えなかった。
その弟の飯入根(いい入りね)が皇命を承り、弟の甘美韓日狹(うましからひさ)
と子の鸕濡渟(うかづくぬ)とに持たせて奉った。

出雲振根(いずものふるね)が筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差し出したと
いうことを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めて、「数日待つべきであった。
何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と。
これから 何年か経ったが、なお恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思った。

それで弟を欺いて、
「この頃、止屋(やむや)の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲し
い」と言った。弟は兄について行った。
これより先、兄は密かに木刀を造っていた。形は本当の太刀に似ていた。
それを自分で差していた。弟は本物の刀を差していた。淵のそばに行って兄が
弟にいった。
「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」 と。
弟は兄の言葉に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端におき水にはい
った。後からの弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合うことになったが、
弟は木刀抜くことができなかった。兄は弟の 飯入根(いい入りね)を斬り殺した。
時の人は歌に詠んで言った。

ヤクモタツ、イズモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサハマキ、サミナシニ、アハレ。
出雲健(いずもたける)が 侃(は)いていた太刀は、 葛(つづら)を沢山巻いて
あったが、中身がなくて気の毒であった。
 ここに甘美韓日狹(うましからひさ)・鸕濡渟(うかづくぬ)は朝廷に参って、詳し
くその様子を報告した。
そこで吉備津彦と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを遣わして、出雲振根を殺さ
せた。出雲臣等はこの事を恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。
 — 後略 —      
            日本書記(上)  宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より

さて、歌にある出雲健(イズモタケル)は、兄の出雲振根のことなのか、弟の飯入根のことなのか
ではわかりづらい。歌は、飯入根を哀れむ歌なのですが、木刀の持ち主は、そもそも出雲振根のものなのです。
だから、どちらが、出雲健なのか厳密にはわかりません。兄だから出雲の国を代表するのだから、出雲健なのかも
しれませんが、古事記にも、おなじ止屋の淵の話がありますが、そこではヤマトタケルが、出雲健を謀殺する話に
なります。となれば、出雲健とは、飯入根のことなのでしょうか?景行天皇のころには、出雲郷に神門臣古禰に
健部臣」を与えるという話もでてきます。うーむよくわからない話です。

通説的では、出雲振根が、出雲健(イズモタケル)であり、このことを契機に西部出雲が、ヤマト王権に迎合する
東部出雲によって西部出雲を滅ぼしてしまうという話であり、そして、やつけられた西出雲の豪族がヤマトの直轄の
軍隊に編入されてしまった話のようですが、本当にそうなんだろうか? 

止屋の淵 説明書

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続く

by yuugurekaka | 2015-12-04 08:00 | 出雲国造

出雲国造は、スサノオノミコトとの誓約の時に生まれた天照大御神の子どもである
天穂日命を初代とした系譜です。
高天原より、大国主命に国譲りを迫るために派遣されましたが、大国主命に恭順し
国譲りの後には、大国主命を奉斎する役割を担います。
これが、古事記、日本書紀に共通する事柄です。

天穂日命の墓との伝承のある神代塚古墳   安来市吉佐町神室

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しかしながら、実際は出雲国造は、出雲国庁のあった松江市東部に居て
出雲大社ではなく、熊野大社を奉斎していたといいます。
ではだれが日常的に出雲大社を祀り守っていたのでしょうか?

出雲風土記(733年)の楯縫郡(たてぬいぐん)の記述を見ておやっと思いました。
楯縫(たてぬい)の地名由来として、神魂命が 大国主命が住む天日栖宮の建設を命令し
天御鳥命(あめのみとりのみこと)を「楯部」(→ウィキペディア 盾縫)として、天から派遣された
とのことが書かれています。それで、今(奈良時代)に至るまで、楯や桙を造っていると書かれています。

曽枳能夜神社(出雲市斐川町神氷823) の祭神  
「出雲国造の租、伎比佐都美」 (古事記 垂仁天皇の条) はどのような系譜なのか   


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この神魂命(カミムスビノミコト)ですが、古事記では出雲の神を守る高天原の母神とも言うべき存在ですが
日本書記には登場してきません。存在を消されているように思います。
少彦名命(スクナビコナノミコト)の親神も古事記ではカミムスヒになっているのに
日本書記では、タカムスビノミコトになっていますし、出雲大社の建設のこともタカミムスビが
大国主命に語っています。(一書 第二)

天穂日命の子ども武夷鳥命とこの天御鳥命は同神説がありますが
仮にそうだとすると、どうして天穂日命と一緒に出雲の東部に降臨しないのだろう。
楯縫郡は、出雲大社のある出雲郡の隣の郡なのです。
ここを読んだ限りでは、高天原(ヤマト王権)につながる系譜は2経路あるように私には感じられます。
一つは、天照大御神・タカムスビノミコトから派遣された天穂日命,
もう一つは、カミムスビノミコトから派遣された天御鳥命と、いうようにです。

それと、出雲風土記にはこういう記述もあります。

 “健部郷(たてるべごう)。

 ー前略ー 後に改めて健部と名づけたわけは、纏向檜代宮御宇天皇(景行天皇)がおっしゃられたことには、
 「わたしの御子、倭健(やまとたける)命の御名を忘れまい」と健部をお定めになった。
 そのとき神門臣古禰(かんどのおみ こみ)を健部とお定めになった。
 健部臣たちが古から今までずっとここに住んでいる。だから、健部という。” 

                              解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版


ヤマト王権の軍事集団とも言うべき建部(→ウィキペディア 建部氏が、西出雲にあるということです。
そして、それは出雲臣ではなく、神門臣ということです。
となれば、出雲東部の出雲臣だけではなく、出雲西部の神門臣も
ヤマト中央と「景行天皇の時代は」つながっていたということです。
ヤマト中央と言っても、連合政権なので、こういう経路が
いくつかあっても不思議ではありません。

ヤマトタケルと出雲タケルを祀った波迦(はか)神社(出雲市斐川町武部)

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全長約92mある出雲西部最大の前方後円墳 今市大念寺古墳 (出雲市今市町鷹の沢)

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物部氏もからんで、出雲国造の系譜といっても
さまざまな系譜が習合しているのではないでしょうか。
古墳時代の「西部出雲」が、「円墳・前方後円墳」
「東部出雲」が、「方墳・前方後方墳」というように 古墳の作り方まで
ヤマト王権との関係性から変わっていると言われています。


全長約94mある出雲東部最大の古墳  山代二子塚古墳  (松江市山代町二子)
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続く


by yuugurekaka | 2015-10-27 21:09 | 出雲国造

出雲大社 北島国造館

うちの実家は、正月に出雲大社を参拝した後 
北島国造館を参拝するのが習わしでした。
北島国造館の庭園には、天満宮があり 
いつも学問の神様の天神様にお参りしていました。

出雲大社には、出雲国造の二家があります。
出雲大社の西側ー神楽殿のある方が、千家さんの方で
東側が 北島さんです。


家の名前の北島さんの由来ですが
出雲国造家が、杵築に移ってきた頃
出雲大社のある島根半島は、
離れ小島のような有様だったそうで
出雲国造家を始めは「北根島の国造」と呼ばれていて
やがて「北島の国造」と呼ばれるようになったと
云われているそうです。

なぜ2家あるのか詳しくは →ウィキペディア 出雲国造

天満宮  学問の神様 菅原道真を祀っています。右に合格祈願の絵馬が見えます。

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しかし、この実家の「習わし」と云うものは、いつの頃からか
何の疑問も無くこの年まで、生きてきました。
いつの時代からだったのでしょう。

父が今年の1月 しりもちをついて骨をおり入院しました。
高齢になって入院したりすると、せん妄という
一時的に 幻覚が見える意識障害をかなりの確率で
起きるそうで、
父が骨が折れているのにも関わらず、歩き危険なので
病院側から付き添いを頼まれました。
私も一晩付き添いました。

付き添いを終え寝ずにそのまま出雲大社へお参りに行き
父の病状の改善を祈願しました。

その後、父の意識が戻り
なぜ、うちの家は北島さんを参るのだろうかを父に訊ねますと
祖父が病気になり
知人から北島さんが御利益があることを聞き
祈祷をお願いしたことが始まりだと言っていました。
代々のことと勝手に自分が思っていたことが
この年になって 初めて知りました…。


出雲大社北島国造館は、出雲大社宝物殿のところの
東の門を出たところにあります。詳しくは→ウィキペディア 出雲教
外に出ると川があります。

能野川(吉野川)
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説明版は、
“川幅 2間、出雲大社寛文の御造営にあたり
右岸の荒垣左岸の北島国造邸土居の石垣とともに整備された。
約350年前、江戸時代初期の河川景観を今に伝えている。”
と書かれてあります。

この川を渡ると北島国造館 出雲教の表示が見えます。

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北島国造家四脚門
出雲大社神域内の建築物の中では最も古く、
島根県の文化財に指定されているそうです。
出雲大社の寛文(1661-73)の造替で、寛文四年(1664)
本殿の後方にあった北島国造家の屋敷をが現在の位置に移動し
この時、二つあった国造家の門のうちの一つが移築されたようです。

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前方に3社見えます。左から稲荷社、天穂日命社、荒神社です。

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天神社と「亀の尾の滝」です。ここをお参りするのが子どもの頃不思議な感覚でした。
天神社は、少名毘古那神を祀っています。

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神殿 

「幽冥(かくり)のこと」をつかさどられる神
つまりは目に見えない世界の王  大国主命を祀っています。

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by yuugurekaka | 2014-11-11 09:39 | 出雲国造

神代塚(かみしろづか)古墳の近くの神社
支布佐神社(きふさじんじゃ)は、
天穂日命(アメホヒ ノミコト)を祭神として祀っています。

結構急な石段です。


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支布佐神社は、出雲風土記(733年)に載っている古社です。
また、出雲風土記 意宇郡屋代郷(おうぐんやしろごう)の所で

“屋代郷。郡家の正東三十九里一百二十歩の所にある。
天乃夫比(あめのほひ)命の御伴(おとも)として
天から降ってきた、社印支(やしろのいなぎ)らの遠い祖先の
天津子(あまつこ)命がおっしゃられたことには、
「私が清浄の境として鎮座したいと思う社である」と
おっしゃられた。だから、社(やしろ)という。
(神亀三年に字を屋代と改めた。)”
 「解説 出雲風土記」   島根県古代文化センター【編】より 

と、あります。

支布佐神社 

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天穂日命ばかりでなく
御伴の天津子命—稲置(いなぎ)というカバネの豪族の祖先ーが
天から降ってきたそうです。

天から降ってきたというと、天から人間が降ってくることなど無い、
神様だから降ってくるのだという論理なのですけど、
そう簡単な話ではないと思います。

出雲の大神ー大国主命は天から降っては来ない。
それは、国津神ということもあるでしょうが
大国主命はもともと出雲の国に居たからでしょう。
そういう観点でいけば、天から降ってくる神様というのは
すべて他所から来た神様ではないでしょうか。

「来訪神崇拝」というのがあり、神様というのは
基本的に他所から来るものなのでしょうか?
民俗学の折口信夫氏は、異界からの訪問者を
「まれびと」(稀人・客人)として神の本質として定義しているらしいです。
まれびと Wikipedia
そして、常世という海の向こうから来るもの、後に山岳信仰の影響から
天から降ってくるものへと変容したそうな。

また、葦原の中つ国ー地上界、高天原ー天上界という
展開で、国譲り神話が進んでくるので
神様が、船に乗って海から来たというのや
馬に乗って来たというのでは、神話としては
成立しないのでしょう。

支布佐神社 本殿


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出雲の国の攻略地点として
鳥取県との県境近くに、大和から移り住んだのでしょうか。
中海にある「穂日島」(ほひじま)など、天穂日命にかかわる伝承が
多い地域のようです。


by yuugurekaka | 2014-08-27 18:04 | 出雲国造

腰痛は少しずつですが、良くなっています。
ふくらはぎでも痛めたら、10日ぐらいは治すのにかかったので
それぐらいの時間は要るのではないかと思われます。

神代塚(こうじろづか)古墳に行ったのは、腰痛発生前です。

「天穂日命の墓」との言い伝えがある遺跡があると知り
行ってみたくなりました。
天穂日命(あめのほひのみこと)とは、アマテラスオオミカミの第二子で
大国主命に葦原の中つ国を国譲りさせようと
高天原から最初に派遣された神様です。→アメノホヒ Wikipedia

確か何年か前は、国道9号線の道路の脇に
「神代塚古墳」の表示がありましたが、現在は無くなっています。
この安来市吉佐町の町内にあるのは
わかっていましたが
2度訪れて 場所を発見することができませんでした。
インターネットで場所を確認するも失敗。

一つは、古墳と言うものは小山の上にあるものだという先入観が
邪魔していたのと、古墳が見つけずらい場所にありました

大学病院の帰りに、場所がようやくわかりました。
山陰道(高速)の下を走っている道から横に降りたところにありました。

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鳥居も立てられ、きれいに整備されていました。
鳥居というと、変な感じもしますが
神様の墓ということで後から建てられたんではないでしょうか。

しかし、神社自体が、古墳の上にあるケースは神社巡りをしていると
たまにあります。神様の墓をお参りするという神社の形態として
一つの類型としてあるのかな。

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ここの古墳は、弥生時代のものです。
上の大きな石は、横穴式石室の天井石です。
鳥取県と島根県の境界の島根県側の方にあります。

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墓となると神様も死ぬのか…と大きな疑問を持たれる方も
おられるでしょうが、安来市伯太町にはイザナミノミコトの陵墓さえあります。
日本の神様というのは大部分 古代の豪族の祖先なので
墓があっても不思議はないです。


by yuugurekaka | 2014-08-26 12:20 | 出雲国造

曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ)拝殿

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さて、この神社の祭神 伎比佐加美高日子命でありますが
出雲国造の祖とありますが
出雲国造の祖といえば 天照大御神の第二子である
天穂日命(アメノホヒノミコト)のはずではないですか、うーん。
いろいろ調べたら、ウィキペデアの出雲国造に書いてありました。→ウィキペデア 出雲国造

第14代の出雲国造 来日田維穂命と同一人物と書かれています。
第11代 垂仁天皇の頃なので、既に国造制度があったと思います。
2000年以上前の話らしいです。
だとしたら、ここの里の首長というよりは、出雲国の首長(今の県知事のような地位)
ではないかと思うのですが、ここの里をあえて 「キヒサの里」と云うのは
ここら辺が祭祀と政治の中心地だったのでしょうか。
となれば、松江の神魂神社の当たりは、その後ということになるのでしょうか。 

神社の境内に磐座があります。


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説明板があります。

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この磐座の祭神は、神魂伊能知奴志之命 とあります。
この神様は、出雲大社境外者の命主神社の祭神と同神カミムスビノカミです。
そして、出雲国造の祖である伎久佐加美高比子之命の祖神と
書かれています。

造化三神と一神は、神様の大元なわけなので
全ての神が、カミムスビノカミの子孫と言えるわけですが
あえて、祖神と表現されるのは
カミムスビノカミという神が、出雲の国では
大国主をずっとサポートしてきた神様ということで
特別な意味があったのではないかと思いました。

しかし、なぜ 遥拝の磐座なんでしょう。
ここから、出雲大社を拝むという理由はなんでしょうか。
ここで拝めば、出雲大社で拝殿したと同じ意味を持つというのは
出雲大社に参拝できない時代があったのではないかと、
勝手に想像しました。
なんらかの事情があって 出雲大社が禁足地であった時代が
あったのでは?

ここの神社が、古事記の垂仁天皇の条に出てくる
「石硐(いしくら)の曾の宮」であるというのが 今一つ
ピンときません。

“アシハラシコヲノ大神を敬(うやま)い祭っている神主の祭場”というのは
出雲国造の先祖なので あてはまりますが、大国主命を参拝した後に、
肥川の河下の青葉に茂った飾り物の山を見て、
垂仁天皇の御子が話したわけですので、
場所からして、今の出雲大社方面のことを指しているように思えるのです。
ここの磐座群が、かつての出雲大社の原初形態だったと考えるには
今の出雲大社と比較して
あまりにも宮の規模が、小さすぎるのではないか。
それで、今一つピンとこないのです。

ちなみに江戸の国学者 本居宣長は、石硐の曾宮は杵築大社ではなく
むしろ那売佐神社ではないかと書いているそうです。
2千年以上前のことなので よくわかりません。

→ 岩坪とスセリ姫 那売佐神社



by yuugurekaka | 2014-08-05 11:45 | 出雲国造

荒神谷遺跡を後にして、西に進みますと
右手に小山があり 神社がありました。

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曽枳能夜神社と書いて そきのやじんじゃと読むらしいです。
説明板には 下記のことが書いてあります。

【御祭神】 伎比佐加美高日子命(きひさかみたかひこ)
当社は、延喜式内社で、出雲風土記に「神名火山(中略)曾 枳能夜社に
坐す伎比佐加美高日子命社、即ちこの山の嶺 に在り。故れ神名火山と
云ふ」と記されてあります。
 御祭神はこの地方(キヒサの里)一帯を守ります首長神 であり、出雲大
神の祭り主でありました。
 古事記垂仁天皇の条に見られます「出雲国造の祖、伎比佐都美」は当
社の御祭神であり、同条「石硐の曾の宮」とは 当社であると考えられます。
 明治五年二月郷社に列せられています。
例祭日 十月十九日


これに書かれていることをまとめると
①もともとは 神名火山の山頂の上にあった
②御祭神は、出雲国造の祖であり ここら辺の首長
③古事記に出てくる「石硐(いしくら)の曾の宮」がこの神社

①山頂にあったと言うならば 今も何か名残があるはずです。
神名火山は、現在の仏教山です。

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神名火山→詳しくはウィキペデア神奈備 という神道の神が宿る山の名称が
なぜ仏教山というのか。戦国武将尼子経久が12の寺を立て薬師22体を安置し
名を仏教山に改めたそうです。

出雲に行った折、突然 登って見たくなりました。
標高366メートルの山ですが、
結構しんどいものでした。突然思いついたように
上ったので、展望台を山頂と勘違いしてしまい
曾枳能夜神社奥宮の跡地や
大きな磐座群(いわくらぐん)を見ることもなく 下山しました。
他の方のブログを後で 見てがっくりきました。

供養塔がありました。
この展望台から南に降りて 山頂につながる道を登らないと
いけなかったのです。展望台の仏教山のいわれに書かれていることを
良く読めばわかるはずなのですが
そういうことを見る体力さえもう 残っていなかったのかもしれません。

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展望台といいますが、出雲大社方面は、
木が邪魔して、良く見えませんでした。 

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曽枳能夜神社には、本殿がありました。
奈良の大神神社のように→ウィキペデア 大神神社
三輪山そのものが神体であり、本殿がない と、いうのとは違うようです。


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by yuugurekaka | 2014-08-04 12:26 | 出雲国造

神魂神社と出雲国造

松江市大庭町にある神魂神社です。
神魂と書いてカモスと読みます。
神魂の名の由来ですが、神坐所(カミマスドコロ)が
カンマス、カモスとなっていったのではないとと 云われています。

古く由緒ある神社ですが、
延喜式神名帳(927年) 出雲風土記(733年)にも記載がありません。
出雲国造の私的な神社ではなかったかと云われています。

神魂神社 入口

現在の本殿は、天正11年(1583年)の再建と言われます。
天正11年と書かれるとピント来ませんが、
豊臣秀吉の大阪城の築城が始まった年です。

現存する本殿は「大社造りの中では、最も古い建築物」で
昭和27年3月に国宝に指定されています。

神魂神社 本殿 正面

この神社は、案内板によれば
「出雲国造の大祖アメノホヒがこの地に天振られ出雲の守護神として創建」
となっており、女神イザナミを祀っており、女千木です。(男神イザナギ合祀)

神魂神社 本殿1

同じ境内にある貴布祢稲荷両神社。
この社殿も天正11年の建立で重要文化財となっています。
社殿は珍しい二間社流造だそうです。
「珍しい」と言われても何が珍しいのかわかりません。
ウィキペデアを調べてみました→ウィキペデア流造(ながれづくり)

“正面の柱間が1間(柱が2本)であれば一間社流造、
3間(柱が4本)であれば三間社流造という。”
柱が3本である流造(ながれづくり)はあまりないということなんですね。

お稲荷さん

下記の写真は、本殿の天井に書かれている
「五色の九重雲の図」です。
社務所で、本殿の壁画の葉書が売られており買いました。
「出雲国造神火相続式を終え社務所にて鶴山亀山と呼ぶ
祝相撲観覧の図」「当社の神在祭に因む佐太神社及加賀
の潜戸の図」などの壁画の写真も入っていました。

出雲大社本殿の天井には「八雲の図」と言いながら
七つの雲の絵しか描かれていません。
“もう一つの雲は、ここ神魂神社に飛んでいったのかもしれません”
などと云われていますが、神魂神社には九つの雲が描かれています。

かもす神社 壁画 

出雲国造と言えば、出雲大社に参拝された方はわかると思いますが、
出雲大社の東側に、北島国造館、西側に千家国造館があります。
北島・千家 の出雲国造家はいまでこそ 出雲大社のある杵築に住んでいますが
昔は、神魂神社の参道から出た所に、住んでいたようです。
一説によれば、716年第26世のころから、杵築に移ったそうです。

参道の先に説明板が、ありました。

出雲国造館跡推定地

出雲国造が住んでいた頃は、出雲大社のある杵築ではなく
現在の松江市東部が、政治や祭祀の中心地だったようです。




by yuugurekaka | 2014-07-31 15:56 | 出雲国造