田和山史跡公園の外観です。
左の階段を上っていくと 田和山遺跡の頂上に行けます。

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田和山遺跡の特徴は、3重の環濠の中には集落が無いということです。
3重の環濠の外に 竪穴住居や掘立柱建物があることです。

竪穴住居(復元)

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掘立柱建造物(復元)

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弥生時代は、稲作の普及と「倭国大乱」に見られるような戦乱の時代です。
環濠は、敵や獣から集落を防衛するという用途で造られたと言われています。
その他にも、灌漑、貯蔵庫、あるいは、階級差の区分として用途を持っていた
との説もあります。 
詳しくは→ウィキペディア 環濠集落

3重の環濠 右側の建物は松江市立病院です。

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田和山遺跡の頂上は、東西10m、南北30mの平たん地で
5本柱遺構(弥生時代前期末~中期初頭)と
9本柱遺構と柱穴列(弥生時代中期後半)があります。
また山頂は柵で囲まれていました。

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9本柱遺構

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この山頂部がなんなのか、主に二説あります。

①お城のような場所と考えられる説
たくさんの武器と考えられる遺物(石鏃200個以上、つぶて石3000個以上) が
 ※石鏃(せきぞく)・・・石でつくったやじり
周囲の環濠から出土しているのは、戦があった証拠。

②お祀りをした場所と考える説
祭祀に関係した遺物(銅剣形石剣・分銅形土製品・土玉など)が
周囲の環濠から出土している。山頂の柱穴には神様の依代が立てられており、
たくさん出土した石鏃は本当の戦ではなく、儀礼的な模擬戦に使われた。
(出典 松江市教育委員会 発行 2005年版 田和山史跡公園パンフ)

9本柱で、私が真っ先に思い浮かぶのが、出雲大社などの大社造りの神社です。

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自分が思うに、9本柱は、高床式住居であり、神社でなかったのかな。 
その神社には、当時の首長が生活していたのでは?と思います。
首長は、卑弥呼のようなシャーマンがなり 
祭祀施設に住んでいたと想像します。

神社の起源として、磐座とか祠とか一般的には言われていますが
もともとは、石とかではなくて
アメノウズメノミコトのような女性が、神の依代であって
その女神が住む宮殿が、神社の起こりではないかなと 勝手に思っています。

その仮説から考えると、環濠は神と人との「境界」で
今でいう、神社の石段みたいなもののように思えます。
神社の敷地を「境内」と言ったり、
境界そのものが、
首長を守るものであると同時に
宗教的な意味合いとして 
重要だったのではないかと、思ったりもします。

つぶて石のある環濠

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by yuugurekaka | 2015-07-22 18:00 | 野白神社と田和山遺跡

田和山の南の頂から見える史跡公園 

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写真は、田和山史跡公園ですが
野白神社跡地はこちらの山ではなく
写真を撮っている場所 「田和山の森」の中にあります。→島根県:松江市田和山の森自然観察モデルコース

しかし、どこか良く分かりません。
田和山の森の最も高い所かしら?
最も高い所に写真を写した展望台と
田和山1号墳がありました。

田和山1号墳


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この古墳は、全長20mの前方後円墳で
横穴式石室があり、
古墳時代後期(6世紀後半)の
当時の豪族の長の墓と考えられています。

野白神社は、ここの辺りなのでしょうか?
古墳の上に 神社がある場合もあります。
しかし、神社のことはここの説明板には書かれていません。
たぶん、別のところでしょう。

それで、森の中を歩き回りましたが、どこにも野白神社跡地の
表示はありませんでした。
結局わからなかったので、ガイドの方にお聞きしました。

ああ。そうですか、この古墳の所ではなく
上から二つ目の円墳の手前の辺りですか。


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散歩道の東側に 石段の名残りのようなところがありますね。

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しかし、野白神社の石段なのか、尼子の砦のものか
厳密にはわからないそうです。
この石段の名残りを下って 竹やぶの中の参道だったところを歩いてみました。


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参道を下っていくと この岩。なんでしょうか?
磐座というよりは、人の手で加工して積み上げたもののように見えます。

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今は、参道の出口まではいけませんでした。


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田和山の南側には、鳥居があったのだろうとの話でした。
道路沿いから見た写真ですが、入ることができません。

しかし、この石はなんでしょう。
私には、手水舎の水を溜める石のようにも見えました。
戦国時代にも手水舎はあったのでしょうか。



by yuugurekaka | 2015-07-08 23:13 | 野白神社と田和山遺跡

2000年当時の田和山  松江市教育委員会発行パンフより(2005年8月版)   
※ 野白神社跡地は、後方の樹木におおわれた場所にあります。

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尼子・毛利の戦国時代まで 野白神社のあった田和山は、
江戸時代までは、舳田(ともた)山と呼ばれていました。
それゆえ、野白神社の神様は、友田大明神あるいは舳田大明神とも言われています。
舳とは、今 船首の意で「へさき」に使われていますが、昔は 船体全部を意味していたようです。
しかし、船尾を艫(とも)と書きますが、舳田を「ともた」 と読ませるんでしょうか。

現在は、史跡 田和山と、「自然学習の森」の二つの山になっていますが
パンフレットの写真のように、元々は一つの山です。
真上から見ると、船首のような形に見えます。回りを水田がおおっています。
一説では、その形状から、舳田山と呼ばれるているらしいのですが、
ヘリコプターのような上から見れば 、確かに船の形ですが
地上から見ると、よくある小山にしか見えません。
だとすれば、他所にも舳田山という山があってもいいような気がします。

史跡公園のガイドさんになぜ田和山は
昔 舳田山と呼ばれたのか お聞きしました。
大昔、田和山の周りは、田下駄を履くような湿田、深水田で 
宍道湖とつながっており、船が水田や宍道湖を行き来したのではないかと。
(近くの雲垣遺跡で、弥生中期後半の稲刈り田下駄も出土しています。)
この話が山の形状の話より、しっくりします。

夕暮れの入海(宍道湖)

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この田和山は、ちょっと北に行くと、すぐ宍道湖の南側です。
宍道湖の対岸の北側の西方に「艫田(ともた)大明神」(艫取大明神とも云われる}を祀る社が
二つあります。ここでは、船尾の「艫(とも)」の字になっています。
そして、二つの神社共に 猿田彦命を祀っています。

艫田神社(ともたじんじゃ) 多太神社 飛地境内社
 松江市岡本町友田1090  松江警察署秋鹿駐在所 隣 

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神社の前の説明書きに 国譲り神話での由緒が書かれていました。
以下 抜粋。
「— 前略 —
 その時、事代主命は出雲国三穂ノ崎(美保関)にて釣りなどを
 業(なりわい)としておりました。そこで熊野の諸手船を以って
 大己貴命(大国主命)は使者 稲背脛命(いなせはぎのみこと)を
 三穂ノ崎に遣わします。
 猿田彦命はその熊野の諸手船に乗り、その御船の艫(とも)取りて
 この所に着きました。故にこの地を艫田(ともた)というとあります。」

猿田彦命は、ここでは、船頭さんのような役割です。
そして、船着き場のようなところが、艫田のようです。

奴多之神社(ぬたのじんじゃ) 松江市大垣町名原   内神社境外社

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ひっそりと 田んぼの奥の小山の麓にありました。
山陰では珍しい両部鳥居でした。
大昔の神社が そのままあるのではないかと錯覚するような
神秘的な雰囲気がただよう境内です。

奥原碧雲著 島根県秋鹿村誌(大正11年)によれば
“由緒 
 社記二古老傳トテ曰ク、高姫命女嵩野山二降臨ノ時 
 猿田彦命ハ躬ラ船ノ艫ヲ取リ給ヒテ、
 大神ヲ導キ給ヒタリ、カクテ高姫命ハ女嵩野山二命ハコノ地二
 鎮リ座セリ ー後略ー”

高姫命とは、出雲攻略として高天原より遣わされたアメノワカヒコと結婚した
大国主命とタキリビメの娘で
古事記では下照比売命と呼ばれる姫神です。

猿田彦命はここでも船の艫(とも)をとり
大神をお導きになられて(大神とは、ここでは高姫命か?)
後に 高姫命は嵩野山に、猿田彦命はこの地に鎮座されることになったと言います。

奴多之神社 お猿様

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ここでは、柏犬(こまいぬ)ではなくて お猿様でした。

奴多之神社 猿坐像

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本殿の下には、たくさんの猿坐像がありました。
猿田彦命を祀っているので、猿ということなのでしょうが、
そもそも、猿とは、伊勢大神の使いなのです。(日本書紀 皇極天皇記)

松江市では、
艫田大明神あるいは舳田大明神は、イコール猿田彦命であり
船で導く神様であったのです。


by yuugurekaka | 2015-06-30 21:48 | 野白神社と田和山遺跡

野白神社本殿

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野白神社の拝殿の右横には、いわゆるオカメ、お多福こと、
アメノウズメ(古事記では天宇受賣命)のお面があります。
概観としては→wikipedia アメノウズメ

最古の踊り子で芸能の神として祀られていると同時に、元祖巫女とも
言われております。

古事記、日本書紀では、天の岩戸神話と
天孫降臨神話に出てきます。
天の岩戸神話とは、
“天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、
神々は大いに困り、
アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、
背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、
女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし、
力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。
その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、
戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」と
ウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。”
という話です。(Wikipediaアメノウズメ より引用)

この神話は、一般的に、日食や冬至、などと解釈されております。
しかし、アメノウズメの、本来的役割の「ウズメ」は何なのでしょう。

葬儀のウズメ

還し矢で果てた天つ神 アメノワカヒコの葬礼で
ウズメの役割分担が出てきます。
“カワカリをきさり持ちとしての、サギをははき持ちとしての、カワセミを御食人としての
スズメを碓女(ウズメ)としての、キジを哭き女としての、それぞれの鳥たちの受け持ちを
定めて”(「古事記 神代篇 」 三浦佑之  訳・注釈)

葬儀の分担で なぜ鳥なのだろう。
古代 風葬であったようで もしや 鳥が巫女のごとく見えたのではあるまいか?

この葬礼は何か?
“古代人は生から死へ移行する境目に死者の復活儀礼をおこなった。
 死体が腐敗してはじめて、魂は死の国に旅立っていく。それまでは死者は
生き返る可能性を持っていると考えられていた。”

“これについては松前健が『日本神話の新研究』の中でー中略ー『折口先生は、これ等の葬礼の儀式には鎮魂の意味が
あると言われている。即ち掃持は、玉ハハキ(霊魂用の箒)で離散した魂を掃き集める者、
春女は生成の呪術として臼をつく女、御食人は食物の有する活力で死者の蘇生を図ろうとする者(枕飯の起源)で
また八日八夜の遊びは、魂の蘇生を図る手段であると説かれる』”
(谷川健一 『日本人の魂の行方ー古代日本と琉球の死生観』より)

つまりは、(アメノ)ウズメのいる所 死者の復活儀礼のようです。
天の岩戸神話も、アメノウズメの踊りによって、お隠れになった天照大神が
復活した話と読むことができるのではないでしょうか。

拝殿のアメノウズメ
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猿女の鎮魂

今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、
すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられていますが、
元々は、
生者の魂を体に鎮める(安定させる)儀式を指すものです。
神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまい
魂が弱くなると考えるのです。
これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが「たましずめ」であり、
「たまふり」は魂を外から揺すって魂に活力を与えることです。(Wikipedia 鎮魂より)

死者のみならず、魂の活力を高めるために行われる儀式です。
これが宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である鎮魂祭です。(→ウィキペディア 鎮魂祭

この鎮魂祭の宇気槽(うきふね)の儀は、猿田彦の名前を受け継いだ
アメノウズメの後裔である猿女君の女性が担ってしました。
宮中のみならず、物部氏ゆかりの神社でも執り行われます。
(たとえば島根県 石見一之宮 物部神社 →物部神社の鎮魂祭

マナ(外来魂)を集め、神に附ける

さらに“折口信夫の『上世日本の文学』によれば、カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である。”(→Wikipedia アメノウズメ

このことを拡大解釈すると、天孫降臨神話の時、
アメノウズメが猿田彦命と応対した話は、
ニニギノミコト(天孫)に外来魂としてマナを付けるために
猿田彦命の御魂をアメノウズメが呼び寄せたという話ではないのかなと、
思いました。
この時点で 既に 猿田彦命は、大国主命より代理執行を任せられているので
国つ神 最大の神です。

大国主命の復活儀礼

さて、猿田彦命に全権委任した大国主命ですが
2度の死と再生神話があります。
(根の国に行ってスサノオの神の試練もいれると3度の復活のように思います。)
大国主命 死と再生の地を訪れる--赤猪岩神社 手間山

その一度目の、赤貝の女神とハマグリの女神が出てきて 
あれも巫女さんの復活の儀礼のように感じます。
なぜ 女神は貝だったのでしょう?

古代出雲には風葬の他に水葬という葬礼方式があったようです。第82代出雲国造千家尊統氏は、『出雲大社』という著書で、出雲大社の国造の葬礼方式が平安時代くらいまでは水葬ではなかったかと書いておられるようです。
そういえば、事代主命も猿田彦命も海で「お隠れ」になります。

あと、猿女の君の一族が、稗田氏ですが
ふっと思い浮かぶのが、古事記の暗誦者  「稗田阿礼」の名前です。
むむむ・・・、アメノウズメを調べて行けば行くほど 深みにはまっていきます。


by yuugurekaka | 2015-06-01 17:30 | 野白神社と田和山遺跡

野白神社鳥居

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野白神社は、松江市の田和山遺跡のある松江市乃白(のしら)町にあります。
『出雲国風土記』(733)年に 「野代社」として比定されている古社です。
もとは現社地の東方のトモタ山(田和山と比定)に鎮座していたが
毛利尼子の戦で焼失し、慶長16年(1611)、現社地に遷座されたといいます。
江戸時代は「野白大明神」「友田大明神」「舳田大明神」とも称されていました。

随身門

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祭神は、猿田彦命・ 天鈿女命 です。
この猿田彦命ですが、天孫降臨神話のニニギノミコトを導く伊勢の神様として
古事記で登場してきますが、岐の神・塞ノ神・道祖神・岬(鼻)の神等
同一の神とされていますが、神道以前の信仰や様々な神々と習合したものなのだと
私は思います。

野白神社のちょうど北の方に、猿田彦命を祀っている佐太神社がありますが
出雲風土記に見られる島根県加賀での誕生神話と
古事記に見られる伊勢地方の話を考えると、私は同一の神には
どうしても思われません。

古事記の天孫降臨神話での猿田彦命の記述は
出雲(王朝)の国譲りの話と、伊勢地方の太陽信仰ー
もともとあった土着神(猿田彦命)信仰から天照大神信仰への移行を象徴的に表している
のではないか?と思います。

陽石

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神社の境内の右手にあった一対の陽石。猿田彦命は道祖神と同神とされているから
祀られているかもしれませんが、島根県東部で、陽石を祀っている神社は
たいへん珍しいです。私が知っている神社では、ここと八重垣神社しかありません。
30年前に、ここの宮司さんにお話を聞きましたが
昔はどこの神社にもあったけれど、政府に撤去を命ぜられて無くなってしまった
とのこと。

インターネットで調べてみましたが、これは
明治初年の淫祠邪教(いんしじゃきょう)の禁令によって 姿を消したのでしょう。
道祖神(→ウィキペディア 道祖神)と一般的に言われていますが、本来は神社の境内に祀られるものではなく
あちこちの村の境界や道の分岐点で祀られたものです。

道祖神と習合した岐の神、塞ノ神の起源は古く、縄文時代の石棒信仰までさかのぼれると
いいます。(→縄文時代の石棒祭祀 

猿田彦命は、先住民の神々の総体として、象徴だったのではないかと
自分は思います。


by yuugurekaka | 2015-05-17 23:48 | 野白神社と田和山遺跡