■ 延喜式神名帳の記載

式内社とよく言い、いかにここの神社が古くから格式がある神社であるかを示す言葉があるが、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十に記載されている官社である。
ここの神社の記載がさらに頭を混乱させる。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)能義郡にあるはずの野城神社や意多伎神社が意宇郡に記載され、能義郡にある神社は、天穂日命神社だけ載っている。

能義神社 鳥居 島根県安来市能義町366 

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意宇郡 48座(大1座・小47座)の式内社抜粋 
社名           比定社 
野城神社        能義神社  島根県安来市能義町366
同社坐大穴持神社    合祀:能義神社同上
同社坐大穴持御子神社  合祀:能義神社同上
意多伎神社       意多伎神社  島根県安来市飯生町679
         (論)愛宕神社   島根県松江市外中原町54阿羅波比神社境外末社
同社坐御訳神社     意多伎神社  島根県安来市飯生町679

能義郡  1座(小)
社名           比定社 
天穂日命神社      支布佐神社  島根県安来市吉佐町365


和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、承平年間(931年 - 938年)に成立したと言われる。と、なれば①現在の能義神社辺りは、
延喜式神名帳の時代は、意宇郡であり、927年から4年間の間に、能義郡が地域として拡大したと思える。
あるいは②延喜式神名帳に載っている野城神社や意多伎神社は、意宇郡にあり、現在の比定される能義神社や意多伎神社は、能義郡に存在し、意宇郡に現在の比定社とは別の神社があったと思われる。
また、あるいは、③神社の存在する地域は、能義郡であるが、過渡期であり、神社そのものは、意宇郡の管理下にあった。そういう①②③の3説が思い浮かぶ。
こういう経緯を踏まえると、能義郡が、野城大神の名前から由来するという説が怪しくなってくる。

それゆえ「天穂日命神社」の比定を巡って、能義神社は、吉佐村の国津大明神(現 支布佐神社)との間に正徳年間と明治初期の2回にわたり論社争いがあった模様である。(→ ウィキペディア 能義神社 

支布佐神社(きふさじんじゃ)拝殿  島根県安来市吉佐町365  
『日本文徳天皇實録』によれば、仁寿元年(851年)九月丁亥【十八】
青幡佐草壯丁命。御譯命。阿遲須伎高彦根命。與都彦命。速飄別命。天穗日命神等並授從五位下とある。

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■ 『日本三代実録』 「能義神」の記載

『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、延喜元年(901年)に成立した歴史書である。

《卷十四貞觀九年五月二日庚子》○二日庚子。出雲國從五位下能義神。屋神並授從五位上。

《卷二十貞觀十三年十一月十日壬午》○十日壬午。雷電。』授武藏國正五位上勳七等秩神從四位下。從五位下椋神從五位上。飛騨國正五位下水無神正五位上。出雲國正五位上湯神。佐往神並從四位下。五位上能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並正五位下。從五位下斐伊神。智伊神。温沼神。越中國從五位下楯桙神並從五位上。(太字は 私)(八六七)

貞觀9年(867年)に「五位下能義神」、貞觀13年(871年)に「五位上能義神」とある。この「能義神」が、能義神社の「野城大神」か、支布佐神社の「天穂日命」を表わしたものか、あるいは、切川神社の「野見宿禰」なのか、定かではない。


能義神社の境内社に「野美社」がある。「野見社」とは書かずに「野美社」と書かれてある。
これは、「能美」→「野美」ではなかろうか?ちょっと悩ましい表記だ。
        
祭神は、時代によって変わるものである。現実の祭神をもって、歴史を語ることはできない。
ただ、能義郡の地域も、出雲臣の勢力が強かった地域であることは間違いない。
出雲臣といっても、おそらく一系ではなく、何系もあったと思われる。

能義神社 境内社  野美社 

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by yuugurekaka | 2017-12-03 16:02 | 野城大神

■肥前国の能美郷の由来

因幡国以外の能美郷には、どんな意味があるのか。『肥前国風土記』には、『能美』の由来が書かれている。

 "能美の郷。 郡の役所の東にある 昔、纏向の日代の宮で天下を治めになった天皇(景行天皇)が、行幸になった時に、この里に土蜘蛛が三人いた。兄の名は大白、次兄の名は中白、弟の名は少白である。この人らは、とりでを造って隠れ住み、降服を承知しなかった。そのとき、天皇の従者、紀の直らの祖先の穉日子(わかひこ)を遣わして、罰し全滅させようとなさった。それで大白ら三人は、ただ、頭を地につけて、自分達の罪を述べて、ともに命乞いをした。これによって能美の郷という。"(中村啓信 監修・訳注『風土記 下 』角川ソフィア文庫)

纒向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)  奈良県桜井市

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それで肝心の能美であるが、「頭を地につけて」という所が、「叩頭(のみ)て」で、「能美」の由来だそうだ。
一般的には叩頭(こうとう)と読み、高度な忠誠と尊敬の念を表す礼儀作法の儀礼のようだ。

「肥前国風土記」の他の地名由来を見ると、景行天皇の巡行ー土蜘蛛の制圧というのが多いのに気づく。「出雲風土記」では、景行天皇に由来するのは、出雲郡建部郷だけのように思う。
土蜘蛛は、朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。出雲族も、崇神ー垂仁天皇時代においては、似たような立場であると思う。
もしや、国の盟主から滅ぼされて、ついには頭を下げて、忠臣になるという、そういう意味あいが、「のみ」にあるのかな?などと思いが浮かんだ。


by yuugurekaka | 2017-11-29 22:50 | 野城大神

■切川神社の御由緒

『神国島根』(島根県神社庁 発行 昭和56年4月29日発行)の切川神社の御由緒を読んでいて、おやっと思えるところがあった。
「もと能美神社と称し祭神は野見宿禰命菅原道真公の二神なり。」「此の辺地名を天神原と申して野見宿禰命の霊所と言い伝う。昔御領地にて能義郡と言う説古書に見えたり。

切川神社(きりかわじんじゃ) 島根県安来市切川町1150番 
主祭神 野見宿禰命・菅原道真
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これだけの文章だと、「御領地」は、だれの御領地(直轄地)と解するかわからないが、文書の流れから考えると野見宿禰の御領地で、野見郡→能義郡となったのではないかと、思える。

切川神社本殿

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『出雲鍬』(18世紀中頃)の能儀郡の箇所で「能儀郡ト云ハ 或書二能美郡トカケリ、予按二義ト美トハ同内相通ナレハニヤ、但両字の形ヨク相似タレハ後写ノ誤カ、然共延喜式ニモ須カ和名抄ニモ能義郡ト書タリ、去ハ義ノ字二シタカハンモノ也、古者意宇郡ノ中也ト見タリ」
また、『雲陽誌 巻之四』(1717年)には、「能義郡 或書に能美之郡に作、義と美と相通なれはにや、按に兩字の形よく相似たれは後寫のあやまりならむか」「古老相傳松井村に野城明神の社あり、是をもつて郡の名とせり」

つまり、能美郡(のみぐん)は、「のぎぐん」とも読む、「美」と「義」の両方の字は、似ている、能義は写し間違いなのかとの説もある。また、古老の伝承では、能義神社の野城大神(のきのおおかみ)から、のぎぐんになったということとも。

『和名類聚抄』の郡名の記載

平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の能義郡記載の箇所を見ると、出雲国の郡名のみ表記のところには、「能義郡」と記載してあり、読みなのか?小さく「乃木」と書かれてある。ああ やっぱり能義郡なのかなと思いきや、郷名記載の場所には、「能美郡」と書かれてある。ええっ? 国立国会図書館デジタルコレクション 和名抄
四巻第七にはこのようになっている。

能美郡

  舎代 安來 楯縫 口縫 屋代

  山國 母理 野城 賀茂 神戸


郷名に「野城郷」がある。それが郡名の由来なら、郡名は「野城郡」のはずだと思う。なぜならば、「出雲郡」「飯石郡」には、郷名にそれぞれ「出雲郷」「飯石郷」がある。郡名と名を違う漢字で書く必要もない。おそらく別の意味があったのだろうと思う。


出雲

  建部 漆沼 河内 出雲 許筑

  伊勢 美談 宇賀

飯石

  能石 三屋 草原 飯石 多禰

  田井 須佐 波多 


■各地の能美郡・能美郷

能美郡は、出雲国だけではなく、石川県南部の加賀国にもある。加賀国は、弘仁14年(823年)に越前国から分離したものだ。

能美郡

  野身郷・加美郷・也万加美郷・也万之多郷・兎橋郷


ここも野身郷から由来して能美郡となったとする説があるが、はたしてそうなのであろうか。

ここの野身郷にしても能美郡にしても、野見宿禰に関係しているとは式内社の祭神からもどうも思えない。


他に、この「能美」の漢字を当てた郷名が古代地名に存在する。   


因幡国高草郡能美郷   現 鳥取県    

安芸国豊田郡能美郷   現 広島県

肥前国藤津郡能美郷   現 佐賀県


それで、野見宿禰に由来しているかと調べると、確認できるのは式内社大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)が存在する因幡国高草郡能美郷のみである。だから、ここ出雲国能美郡が、野見宿禰に由来しているという説があっても不思議はないと思うのである。


by yuugurekaka | 2017-11-19 08:26 | 野城大神

■野城の大神

安来市の能義神社(のきじんじゃ)であるが、出雲路幸神社以上に、謎の神社である。
そもそもの能義神社の祭神、野城大神という出雲国四大神(所造天下大神・熊野大神・佐太大神・野城大神)の一柱であるが、どういう神なのかはっきりしない。旧能義郡だけではなく、現在の松江市市街地の西部の野白(のしら)神社、野代神社などの、「野白」「乃白」「乃木」の地名もあり、古は、おそらく「野城大神」(のきのおおかみ)を祭っていたのだろう。当然、現在の神社の祭神は、猿田彦命であったり、もともとの祭神とは違う。

旧能義郡の安来市 能義神社の現在の祭神は、天穂日命である。
しかし、昔からずっとそうかと言えば、違うようである。江戸後期の『出雲神社巡拝記』には、「たかみむすび命」とある。むむっ、出雲路幸神社の宮所は、元は天神社で、菅原天神ではなく、少彦名命を祭っていたという話だから、その父神ということで、高皇産霊尊なんだろうか?

また、『出雲鍬』(18世紀中頃)には、〝出雲風土記鈔曰、大穴持命ト記セリ、俗伝二曰、此社野見宿祢ト云人アリ〟と、あり、表向き天穂日命であるが、実にいろいろな説がある。

能義神社本殿  島根県安来市能義町366

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富家伝承本『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、野城大神は、サイノカミ三神のうちの女神(つまり幸姫)というらしい。
となれば、幸姫に由来する場所に、「のしろ」あるいは「のき」の類の地名があっても不思議はない。

出雲と石見の境界に三瓶山という山がある。出雲国風土記では「佐比賣山」と云う女神山である。いわゆる幸姫だ。だとしたら、三瓶山の周りに、野城に由来する地名があるのではないか?と、調べると、「野城」(のじろ)という地名があった。

日御碕方面から見た三瓶山  

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が、しかし、この「野城」という地名は、明治8年(1875年)、円城寺村・市野原村が合併して野城村となったものである。たいへんがっかりしたが、気を取り直して、『角川日本地名辞典』を見ると、ここの合併して発生した「野城」とは別に、中世に「野城」といった地名があったと書かれていた。


by yuugurekaka | 2017-11-12 08:00 | 野城大神