『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)で、白兎神社はどう書かれているかと云いますと、
以下のよう書かれています。

祭神 白兎神、豊玉姫命、保食神
由緒 大兎大明神又は兎の宮とも称す、其の創立年月は詳らかならずと雖も、祭神白兎神は、古事記
に「此稲羽之素莵者也於今者謂莵神也」と記し頗る著名なり、其の神代より縁故深き此の地に社殿を
創立し奉斎せる處にして、今も尚當時の淤岐島、水門、気多前、高尾山、戀坂、身千山、伏野等の遺
近隣に現存し頗る歴史に富む古社たり、往古兵燹に罹り社殿焼失し、境内亦頗る荒廃せしが、慶長
中氣多郡鹿野城主亀井武蔵守茲矩社殿を再興し、社領二十石二斗を寄進す、池田氏國主となるに及
びて亦尊崇篤く社領を寄付す、降りて、明治元年保食神を合祀し、同四年村社に列格せらる。大正元
年十二月二十六日末恒村大字内海字杖突下神ヶ岩鎮座無格社川下神社(祭神豊玉姫命)を合祀す、川下
神社は古來氣多ヶ前なる神ヶ岩に鎮座せられたりしが、白兎神社と等しく兵燹に逢ひ、寶暦十四年七
月三日再興したるものなり、尚当社は古來疱瘡麻疹傷痍縁結び等に霊験著しきを以て著名なり。

※下線は私。


『古事記』になった舞台は、ここなんだという書き方です。

しかし、内海の白兎神社が、古事記の伝承地として半ば定説となったのはいつのことなのでしょう。
また、白兎神が、「縁結びの神」に加えて、「疱瘡麻疹」の神になったのはいつのことなのでしょ
う。


参道脇のうさぎ
白兎に道案内されて、白兎神社に着くという感じである。

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砂で作られた八上姫・大国主命と白兎神

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勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』(大元出版)の「白兎神社と大黒歌碑」を
見ていて、ちょっと驚きました。大元出版なので、富家伝承なのかもしれませんが、私は斎木雲州
氏が書かれたものだけを『富家伝承』として記述しています。

白兎神社拝殿


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〝物部イクメ王の東征の際、出雲を攻略した菟上王は、因幡国西部の伏野にしばらく滞在した。菟上
王は豊王国・宇佐家の御子だったから、宇佐のウサギ神(月神)を信仰していた。
 月の中にウサギがいるので、「月読みの神」をウサギ神とも称した。ウサギ神宮の「ギ」を省略し
た言葉が、ウサ神宮の名前になったと言う、だから、宇佐王家の人は、名前に「菟」の字を付ける仕
来りがあった、菟はウサギの意味に使い、ウと発音した。菟上王の名が一例である。〟

 〝ヤマトのワニ王家・彦イマス王の御子・日子立彦はその頃、稲葉国(後で字が変わった)方面に
勢力を養っていた。かれは菟上王軍に降伏し、菟上王軍に降伏し、菟上王に協力することになった。〟 

〝豊王国軍の一部は占領軍として、稲葉国の伏野に残り、そこに宇佐社を建てた。祭神はウサギ神(
月神)と豊玉姫命である。〟
              (勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』大元出版 )
  

白兎神社本殿

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鳥取県の日本海沿岸に菟佐族、和邇族が分布し、敵であったり、味方になったり、長い歴史でいろ
いろな局面があったのだろうと思います。
九州豊国の宇佐神宮の創始にも、出雲族の末裔「大神比義(おおがの ひき)」が関係しており、
んだかよくわからない複雑な様相です。

by yuugurekaka | 2017-05-21 08:00 | 因幡の素兎

白兎神社 大鳥居   鳥取県鳥取市白兎603番地
この大鳥居は、昭和42年に建てられました。

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さて、白兎神社に来るのは何年ぶりでしょう。
過去記事 ⇒ 縁結びの神様 因幡の白兎 

■ 因幡鹿野藩初代藩主  亀井茲矩(かめい これのり)

角川日本地名辞典(昭和57年12月8日)によれば、
〝「因幡志」に「土人口碑に中比の乱世にや神光衰へ神祠も跡形なく、里諺も絶失ぬ事年久し」
 と、中世以降は社殿もないほどに衰微した。慶長年中にいたって気多郡鹿野城主亀井蔵守茲
 矩が夢に白兎の示現を見たのがきっかけとなり社殿を再興、社領も寄進した。〟とあります。

さて、白兎神社を再興させた亀井氏ですが、後に島根県の津和野藩主となる亀井氏です。 
 ⇒ ウィキペディア 亀井氏 
ウィキぺディアを見ると、〝亀井氏は紀伊国亀井を発祥とし、宇多源氏の佐々木氏の流れを汲む
されるが、信憑性に乏しく、穂積姓藤白鈴木氏流の亀井重清の流れとする説もある。〟と系譜は
のようですが、確実なことは、亀井茲矩の義理の父親である亀井秀綱は尼子経久側近として仕えた
事だそうです。

亀井茲矩自身は、尼子氏の家臣・湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉
湯町)に生まれ、山中幸盛(通称は鹿介)と出会い、毛利氏に敗れた尼子氏再興を目指す闘いに
加します。17歳の時には、現八頭郡八頭町市場の私部城(きさいちじょう)を任されます。
大菟明神を奉祭していた、あの八頭町です。

そして茲矩は、山中鹿介の養女(亀井秀綱の次女)をめとり、亀井姓を継ぎます。
詳しくは ⇒ ウィキペディア 亀井茲矩
尼子氏忠臣で有名な山中鹿介ですが、島根県民にとっては、日本酒の宣伝で「月山」(がっさん)
真っ先にに浮かびます。「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が、有名
です

尼子氏の居城富田城があった安来市広瀬町の「月山」ですが、元々は「勝日山」と呼ばれていま
た。月が登る山は、当然ながら、太陽も登ります。
元々は太陽信仰であったものが、月信仰に代わったのではないかと思います。

この尼子氏(あまごし)ですが、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家です。近江国甲良荘
尼子郷(滋賀県甲良町)に居住したのが、由来とか。
尼子氏が、月読命を奉祭していたのかどうかは、調べて見ましたが、よくわかりません。
     
大国主命と白兎の石像 
西方には道の駅が、あり、東方に石像がある。

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今は、恋人たちの聖地のように演出されています。このようにきれいに整備されないと、観光客は
まらないもののようです。
行った日は日曜日でしたが、若い男女のペアで賑わっていました。

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by yuugurekaka | 2017-05-17 14:46 | 因幡の素兎

■ 伏野

白兎海岸にある有名な白兎神社の東に行った小山に、「伏野神社(ふしのじんじゃ)」があります。
この「伏野」という地名は、古くは鎌倉時代には既に書物で見られるらしい。
「伏野」をグーグルで検索すると、下記のグーグル地図が出てきます。

現在の伏野 グーグル地図

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白兎神社の近くの神社で、前から気になっておりまして、この度参拝しました。
西からの(たぶん)参道は、木製の鳥居でした。

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伏野神社    鳥取県鳥取県鳥取市伏野2255番

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祭神 須佐之男命、猿田彦神
 由緒 起源沿革詳かならず、神代の昔に於て白兔神伏し給ひし野なるを以て、大字名を伏野と称し
    次いで社名となす、正徳四年本殿屋根の葺替をなす、明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供
    進神社に指定せらる。〟      (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )


「白兔神伏し給ひし野なる」が、「伏野」の起源と書いてあります。

現在の祭神は、須佐之男命、猿田彦神で
、宇佐族ではないですが、
おそらくこの伏野にも、
菟佐族
が住んでいたに違い
ありません。

伏野神社  本殿と境内社

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■ 高草郡の老兎

ここの伏野という集落は、古代「高草郡」の中だったようです。高草郡とは⇒ ウィキペディア 高草郡
因幡国造の本拠地は、ウィキペディアによると、高草郡、八上郡と書かれています。

因幡国造は、『国造本紀』では、彦坐王の子、つまり和邇氏系と思われますが、宇部神社祠官伊福
部氏の系の方が、栄えているように見えます。しかし、高草郡の式内社や八上郡の中心地が土師郷
であったことを合わせて考えると、土師氏の一族がかなり力を持っていたように思えます。

さて、この高草郡ですが、因幡国風土記 逸文だとされる話が、『塵袋』(ちりぶくろ)という鎌
倉時代中期の書物にっています。

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※竹林の写真は、高草郡の中ではなく、八頭町の船岡竹林公園のものです。

〝白兎

  因幡の記を見ると、この国に高草の郡がある。その名の由来に二つの解釈がある。その一つは、
 野の中の草が高く生えているので、高草の野という。その野を郡の名とした、というものである。
 もう一つは、竹草の郡とする説である。ここには昔竹林があった。それで竹草というのである。竹
 は草が長いという意味で竹草というのであろうか。その竹の事を説明すると、昔この竹の中に老い
 た兎が住んでいた。ある時、急に洪水が起こって、その竹原が水没した。浪にあらわれて竹の根も
 掘られ、皆崩れて抜けてしまったので、兎は竹の根に乗って流れてしまったところ、おきの島につ
 いた。水嵩(みずかさ)が減って後に、本の所に帰ろうと思うけれども、海を渡る方法がなかった。
 その時、海
の中にワニという魚がいた。この兎がワニに言うことには、「お前の仲間はどれぐらい
 多いのか」。
ワニが言うことには、「我々の仲間はとても多くて海に満ちている」という。
後略
 …
    (『塵袋』第十  現代語訳 中村啓信監修・訳注『風土記 下』  角川ソフィア文庫)
  
後略のところは、古事記の『稲羽の素兎』とほとんど同じです。
菟佐族は、八上郡だけでなく、高草郡にも分布していたのかもしれません。


by yuugurekaka | 2017-05-15 07:00 | 因幡の素兎

福本の白兎神社  鳥取県八頭郡八頭町福本 

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宇佐家伝承の云う大国主命に与えられた土地とは、八上郡全てではなく、この土師郷を中心とした
場所だったのではないでしょうか。

〝 このような条理遺構を残している因幡国は、隣国の伯耆国(鳥取県の西半分)とともに、古くから、
豪族の出雲族が、統治して開けていて、その統治下に、菟狹族や和邇族が生活していた。和邇族が、そ
の祖神をワニ神として祀っていたように、菟狹族は、ウサ神を氏神として祀っていた。〟

そして、オオクニヌシノミコトが、菟狹族に無償で与えた因幡国八上の地に移住して、この地を開拓
して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・北九州・東九州地方にまで発展し、古の菟狹国をつ
くって繁栄するに至った。〟     (宇佐公康著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 木耳社)

縄文~弥生時代に移り住んで、宇佐族はいつまでここにいたのでしょうか。
因幡国八上郡から美作国へ、そして山陽の安芸国へと移り住んでいったのか、奈良時代には既に、
土師氏に明け渡してしまったのか。確かめる手段はなにもありません。

はたまた土師氏が、兎神を奉祭していたのでしょうか?
土師氏系図を見ると、大江氏祖に「土師兎」なる名前が見えます。野見宿禰より数えて10代目で
宇佐族と同族化したのでしょうか。八上郡には土師郷と大江郷もあります。何か関係があるのかも
しれません。

土師氏系図

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江戸時代初期の鳥取藩医・小泉友賢(1622-16919)著 『稲葉民談記』(1688)には、

土師百井  大菟明神
福本    大菟明神
池田    大菟明神
内海    大菟明神

と、あります。内海(現在の鳥取市白兎)を除いて、3か所が土師郷に集中しています。
土師郷の3つの神社を回ってみました。


福本の白兎神社  鳥取県八頭郡八頭町福本 
第55代仁明天皇(833~850年)の時代に位を戴いたと伝えられる。
明治元年に村社となり、大正3年に同町宮谷(みやだに)の賀茂神社に合祀された。

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池田神社 鳥取県八頭郡八頭町池田

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土師百井神社は、なかなか見つかりませんでした。車でおんなじ場所往ったり来たりしてました。
神社の鳥居をすぐ探そうとしていたのが、間違いでした。「慈住寺」というお寺の境内にあったか
らです。
そういえば、『慈住寺記録』なる文書があり、大日霊尊(天照大神)が、この中山に降臨した際、
うさぎが道案内し、道祖白兎大明神として、祀神(ししん)としてこの中山の四か村の氏神として
崇めたと云います。

土師百井(はじももい)神社 鳥取県八頭郡八頭町土師百井 
 
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成田山青龍寺 鳥取県八頭郡八頭町下門尾46

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下門尾にある青龍寺には、江戸時代に造られた
福本の白兎神社の本殿が、厨子(ずし)として安置
されています。大正時代に白兎神社が、宮谷の賀茂神社に合祀されたため、大正3年にこちらに引
き受けられたとのことです。
あいにく、私が行ったときはお留守だったので、その本殿を見ることができませんでした。
正面上部には、波兎(なみうさぎ)の木彫りがなされているそうです。

青龍寺ですが、710年天明天皇の命によって、開かれた古寺であり、古くは「花喜山浄光寺」と
呼ばれていました。ここのお寺にもまた、天照大神が中山に降臨した際、うさぎが道案内をしたと
いう江戸時代に書き写された「城光寺縁起」があります。

霊石山を含めた中山の西麓が、猿田彦命ーサイノカミが、天照大神を道案内したという最勝寺縁起
り、この中山の南麓の「慈住寺」、「城光寺」には、その猿田彦命ではなく、道祖白兎明神が
道案内をしたということは、たぶん、中山の西麓には出雲族が住んでおり、南麓には、宇佐族が住
んでいたということになるんでしょうか。
西麓ではサイノカミ信仰、南麓では、兎神信仰だったのではないでしょうか。

by yuugurekaka | 2017-05-11 15:56 | 因幡の素兎

中山の南麓を訪ねました。
霊石山を含めて 「中山」と云うらしい。「此山国の中央にありて最も勝れたるの地」(最勝寺
縁起 写本)ということで、因幡国の中央だということからのようですが、伯耆の素兎伝承の神
社も中山神社で、「中山」という名そのものが、宇佐族に何か関係があるのかしらと、思ったり
します。そういえば、岡山県美作にも「中山神社」があることが思い起こされます。

さて、その中山の展望台から、現・八頭町(やずちょう)の街を眺めてみました。

展望台 周辺案内図

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字が小さくて読めないと思いますが、白兎伝説のゆかりの地が表示されています。


展望台から見える街並み



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中山の南側の平野を国中平野といいます。現在は、中山の側の麓というよりは、平野部の八頭町役
場付近が中心なのかもしれませんが、奈良時代は、万代寺遺跡(郡家跡と推定される)や、土師百
井廃寺跡が、中山の麓にあることを考えると、中山の麓が中心地であったように思います。

現在の街の姿をもって、古代の都市を想像するのは、大概間違った先入観をもたらします。たとえ
ば、松江市ですが、今まで出雲国の政治の中心地がどこだったかを考えると、奈良時代は、大庭町
・大草町付近だったのに、中世においては、安来市富田城などということを、現在の街の姿から、
だれがすぐ想像できるのでしょうか。

現在の私都川(きさいちがわ)や八東川(はっとうがわ)の川筋も、古代は当然違ったはずで、そ
れゆえ発展している場所は違ったのでしょう。


土師百井廃寺跡 鳥取県八頭郡八頭町土師百井

7世紀中頃から8世紀初めの白鳳時代に建てられた慈住寺跡と推定される遺跡です。
中門、金堂(東西18m、南北18m)、講堂(東西30m、南北19m)、回廊(幅5.4mの基壇)、塔、南門等で
構成されている法起寺式の大伽藍だったようです。

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さて、古代の中心地であったであろう八上郡・土師郷ですが、角川地名辞典で調べると、〝近世の
土師郷(はじのごう) 寛文年間 稲村・門尾(上門尾)・福本・池田・土師百井5ヶ村 「稲葉
民談記」、「因幡志」と「因伯郷村帳」はこれに下門尾を加えた6ヶ村〟と書かれております。
古代も概ねここら辺だったのでしょう。

古墳が多い地域なので、土師部の人達が多く住んでいたのでしょうが、近くに大江郷も見られるこ
とを考えると、八上郡自体が、野見宿禰の後裔の豪族が力をもっていた地域だったのかもしれませ
ん。

国土地理院地図 中山の麓

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by yuugurekaka | 2017-05-05 10:38 | 因幡の素兎

続いて樋口神社から南方の曳田郷の近くの神社を歩いてみました。渡一木神社の
鳥居から、霊石山
が見えます。

渡一木神社(わたりひとつぎじんじゃ) 鳥取県鳥取市河原町渡一木31

〝祭神 素盞鳴尊
 由緒 創立沿革詳かならず、往古より荒神宮と称す。明治元年八月渡一木神社と改称し郷社久多美
    神社の摂社なり。〟        (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )

※下線、赤字は私。



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元々は、「荒神宮」だったと云います。山陰では、荒神=須佐之男命とされるのが多いから、祭神
須佐之男命
となる例が多いと思います。また、記紀では、
須佐之男命
が出雲の祖神と描かれてい
すの
で、荒
神は、いわゆる祖霊信仰の古い形態だったのかもしれません。

一氏族の奉祭する荒神信仰が、集落として発展して、地主神、産土神、村の氏神さまとなっていっ
ったのではないか。
また、斎の木に藁蛇を巻き付けるという形が、祠、神社いうように発展した、ある一つのパタ
―ン
だったのではないか。古代豪族の首長の館が、神社になったというパターンもあったと思われます
が、荒神祭祀という所から、神社に到る回路もあったのだろうと思います。

袋河原神社 鳥取県鳥取市河原町袋河原207

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祭神  帯中津日子命、品田和気命、息長帯比売命、素盞鳴命、罔象女命
 由緒 創立年代明かならず、古くより素盞鳴命(一に大国主命と称す) を祀りて氏神となし荒神宮
 称せしが、當村の対岸に片山村あり、曾つて洪水の際河身東に移動したるより片山村民の当地に
 移住せる者夥しく終に其の片山時代に氏神なりし片山字宮原鎮座八幡宮を村の氏神として崇敬し
 古来より当村鎮座荒神宮を摂社となせり、因幡誌に「氏神分八幡宮在片山村」と記せり之なり、
 文化四年十二月十五日終に八幡宮を勧請して荒神宮と相殿に奉祀し世々産土神八幡宮と称せり、明
 治元年十月二十九日村字下平鎮座岩瀧神社祭神 罔象女命を合祀す、此の時荒神宮は再び社殿を
 新築して境内に別に奉祀せり、次いで袋河原神社と改称し明治五年三月村社に列格せらる、降りて
 明治四十三年十一月二十三日再び境内鎮座荒神宮を合祀す。 
                     (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )

次に
樋口神社
の北方の袋河原の神社に行きました。角川地名辞典では、佐井郷ではない気がします
けれど…。

ここの神社も、元は荒神宮だったようです。
千代川が東から西に移動したので、集落も移動したようです。それに伴って、
片山神社の氏神の八
幡様が移ったように由緒に書かれています。渡一木神社と違うのは、同じ荒神宮ですが、
須佐之
だけではなく、「一に大国主命と称す」と荒神=大国主命とも書かれているところです。

袋河原神社に移ってきたという片山の神社に行ってみました。現在は、「大山津見神」が祭神のよ
うですが、明治10年の「鳥取県神社誌」当時は、八幡様を祀っていたけれど、どういう経緯があっ
て、祭神が変わったのかわかりません。

片山神社 鳥取県鳥取市河原町片山729

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祭神 帯中彦命、誉田別命、気長足姫命
 由緒 古老の口碑に建保年中同村鎮座國英神社の御分霊並みに帯中彦命を勧請奉祀し八幡宮と称せ
 しが明治元年八月片山神社と改称し同五年三月國英神社の摂社となす。
                     (『鳥取県神社誌』昭和10年 鳥取県神職会 編 )

「建保」といったら、鎌倉時代の1213年から1219年頃のことです。
しかし、その前は、どのような祭神を祭っていたのでしょう。ここも、もしや荒神宮であったの
はないかしら。「大山津見神」は、山の神です。日本書紀に登場する山の神は、概ね蛇です。

“駿河国風土記には、荒神こうじんは他の大社の末社ですなわち、その神の荒魂あらたま(註:神の荒々しい側面、

 荒ぶる神)であるとの説が記録されておりますが、末社ではない独立した荒神が極めて多い以上

 は、成立しない説であり、社寺の境内に荒神を祀るのは、地主神の思想に基づくものであるのは、

 疑いが無いと思います。雲陽誌(註:享保二年=1717年に松江藩士、黒澤くろさわ長尚ながひさが編纂した島

 根の地誌)や東作志とうさくし(註:正木輝雄が編纂した美作国=今の岡山県、東部の地誌)を見れば荒神

 は、正しくは山野の神であり、その数の多い事はなお東国の山神と同じでございます。特に注意

 すべきは出雲の美作に限った事ではなく、多くの荒神にはまったく社殿が無い事です。〟

                           (柳田国男 著『石神問答』)


『荒神は、正しくは山野の神』、そこを考えると、太古、霊石山の「山の神」を各集落で荒神様と

して祭ったのではなかろうか…という思いが浮かんできます。

塞ノ神=幸ノ神⇒荒神という転訛か、あるいは、吉野裕子説である「顕(あら)波波木神」⇒荒波

波木⇒荒神という転訛か、いろいろな説が考えられますが、ともかく、自分には神社祭祀以前の信

仰のような気がします。


※ここでは、竈の神や三法荒神の話ではなくて、地荒神の話です。



by yuugurekaka | 2017-04-29 22:09 | 因幡の素兎

江戸時代の文献でもって、弥生時代・古墳時代のことを推し測るということは、当然無理がありま
すが、現代の神社の祭神でもってそれを推し測るのはもっと無理があると思うのですが、とりあえ
ずは祭神を調べてあれこれ頭をめぐらすのです。

菟神を奉祭する氏族分布も当然時代によって違ったものであろうし、神社の栄枯盛衰というものが
時の権力によって左右されたのではないかと思います。
霊石山の西の麓の神社を歩いてみました。


まずは、河原城に上がってみました。
足を運べば、新しい気づきがあるものです。
ここにも、八上姫たちの新しい像がつくられていました。

河原城にあった因幡の素兎・八上姫と大国主命の像


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河原城から見える霊石山

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霊石山も見る場所から形が変わって見えます。吉野裕子氏によれば、カンナビ山は蛇がとぐろをま
いたような円錐形であるという。

まずは、河原城山の麓の樋口神社に行ってみました。

ここの祭神は、市杵島姫命です。宇佐氏伝承の本を読んだところ、「母祖 市杵島姫命」と書かれ
ていました。もしや、宇佐族?と思いましたが、樋口神社の由緒を見ると違うようです。
後代に習合した水の神様「弁天様」から来ているように思えます。

樋口神社 鳥取県鳥取市河原町河原2番



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祭神 市杵島姫命、保食神 
由緒 天正の頃亀井鹿野城主当町より旧高草郡中一円の潅漑用大水路を掘鑿せしが、次いで明暦年間
其の取入れ口なる大樋の傍に水路守護の神として市杵島姫命を奉祀す、現社地是なり、世々弁財天社
と称す、降りて明治元年八月境内鎮座稲荷大明神(祭神 保食神) を合祀し、樋口神社と改称す、然
して郷社久多美神社の摂社となす。
                      『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)

樋口とは、
「樋」(とい)の入口という意味。 ここの神社の裏手の西側は、「
大井手用水」という
因幡鹿野藩初代藩主 亀井が1602年(慶長7年)から、7年の歳月をかけ開削したもので、
農業用水等として地域に欠かせない用水路となっており、疎水100選にも選ばれています。
→ 疏水百選 千代川から大井手用水に取り入れ水路がここに造られていました。

なおこの亀井公(亀井 茲矩)は、高草(鳥取県鳥取市白兎海岸)の白兎神社を再興したお殿様です。

樋口神社の位置  グーグルの地図

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この樋口神社の前には、六地蔵さんが祀られていました。六地蔵は、ウィキぺディアによれば、
〝これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基
づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。〟
また〝他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に、多く建てられた。また道祖神信仰と結びつき、町
外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。これを本尊とする祭りとして地蔵盆
がある。〟 

サイノカミが、習合したものなのか、あるいは、水害によって供養された場所なのか、わかりません
が、案外神社よりも「起源」が古いのかもしれません。

樋口神社前のお地蔵さん

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by yuugurekaka | 2017-04-26 20:33 | 因幡の素兎

八上郡12郷の中に『佐井郷』があります。名前からして、「サイの神」を奉祭した氏族から由
する郷名でないかと想像できます。出雲族は、サイの神 三神(クナドの大神・幸姫神・猿田彦命)
を奉祭していたそうなので、ここに大国主命の後裔の出雲族が住んでいたのかもしれません。

どこが、その『佐井郷』の比定地なのか、調べてみましたら、
霊石山の西の麓、河原城の前の千代川流域の周辺ではないかとされているようです。
ここは八上姫の郷ー曳田郷の北隣に位置しています。

霊石山中腹の御子岩の方から河原城を眺める

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以下『角川日本地名大辞典31巻 鳥取』からの引用です。

〝「稲葉民談記」の中世の郷保庄の記載順、「因幡志」のこの記述から推定すると、佐井の位置は
河原町渡一木【わたりひとつぎ】から河原町河原付近一帯となる。古代の佐井郷も千代【せんだい】
川左岸域の河原町河原付近一帯であったのであろう。「稲葉民談記」は「河の中に小き島あり。之を
サ井と名く。此所昔の村の跡なるや、此所何如なる大水にも流されすして、久しく残りしかは,犀は
水中に棲みて水の害を受けす。此所実に犀のすみかなる故に、かくの如く云ふならむとて土人相伝へ
しか」と地名の由来を記している。しかし,このあたりに犀が生息していたとは考えられないので
一考を要する。佐井の「井」の文字から考えると水に関係する地名に由来しているのかもしれない。
式内社久多美神社が河原町谷一木【たにひとつぎ】に祀られている。〟
                         『角川日本地名大辞典31巻 鳥取』

※ 犀は、動物のサイ。
※ 『因幡民談記』(いなばみんだんき)は、江戸時代初期の1688年成立の地誌。
  鳥取藩の侍医の小泉友賢(1622―1691)の著作  

ただ文禄2年(1593年)の洪水前は、千代川の川筋は、もっと西の山際の方だったようです。
(参考→ 古事記の倭ごころ )だから、大水に流れ去れない小さき島という由来が、そうだったのか
疑わしい気がします。

江戸時代初期には、既に「サイの神」(一般的には賽の神と書かれる。道祖神と習合したとされる。
→ ウィキペディア 道祖神 )は、忘れられた神だったのかもしれません。
このサイの神は、「佐斐」(境港市)、「狭井」「斎」「妻」「幸」「西」とも書かれたようで、
全国に地名として残っています。大和の三輪山にも大物主命の荒魂を祀った狹井神社があります。

狹井神社(狹井坐大神荒魂神社) 奈良県桜井市大字三輪狭井

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改めて、八上郡の地名を見ると、「西御門」という地名があることにも、気になります。この「御
」、という地名も出雲地方や石見地方の、大国主命に由来する場所の地名にあり、もしや、大国
命の御殿があったところではないか…などと妄想が浮かびます。

ところで、この『佐井郷』がどこまでの範囲かはわかりませんが、おおむね霊石山の西麓だとは思
いますが、北の方に「袋河原」「布袋」という集落があります。
この「袋」というのは、大国主命が、背負っていた袋を置いたことに由来すると云われています。

国土地理院地図 霊石山の西麓

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河原城から見える河原、袋河原の集落

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千代川の川岸の道路を歩いて霊石山が眺めてみました。歩いていて思いましたが、奈良の三輪山の
西の麓を歩いたときを思い出しました。この山も、カンナビ山で東から山から登る太陽神を奉祭し
ていたのではないかと。
今では、太陽神=皇祖神・天照大御神というように体系化されて、国津神VS天津神の象徴のように
思われていますが、出雲族はもともと、太陽神を奉祭していたそうです。

上袋河原のバス停留所から見える霊石山

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山の中腹に御子岩が肉眼でも見えます。
実際に近くまで行きました。下記は御子岩の説明。

天照大神が行臨の時、道案内の神として猿田彦命が先導し、この岩に「冠」を置かれたので御
 岩とも云った。猿田彦命は、道祖神であり、この岩はその御神体として道行く人の目標であった。
 古歌に
「因幡なる神の御子岩しるしあらば、過ぎ行く秋の道しるべせよ」とある。

                                    河原町観光協会〟  
御子岩 

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なぜ猿田彦命のことを「御子神」と云うのか、だれの「御子」なのか、長い間わかりませんでした
が、父 クナドの神、母 幸ノ神の御子ということで「御子神」と云うらしいです。

この霊石山の頂上近くに、天照大神がこの山に降りてきたということで「伊勢が平」といわれる場
所があり、皇居石、夫婦石と呼ばれる石があるそうです。私は、頂上付近を歩き回ったが、その場
所がわかりませんでした。

この霊石山の西南の麓には、猿田彦命が天照大神(大日霊女尊)を先導したとする、『最勝寺縁起』
の存する最勝寺があります。
ちなみに古事記、日本書紀では、猿田彦命が瓊瓊杵尊を先導する話がありますが、天照大神を伊勢
地に導したのも、猿田彦命の末裔の宇治土公(うじつちぎみ)の遠祖・大田命とも云われてい
ます。

最勝寺 鳥取県鳥取市河原町片山29

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by yuugurekaka | 2017-04-21 22:10 | 因幡の素兎

■因幡の八上郡とは

霊石山

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大国主命が八十神(異母兄弟達)と八上姫に結婚を申し込みに行ったとされる八上郡に行きました。
本を読んでイメージした八上郡とは全然違っていました。小さな一つの盆地のように思っていまし
たが、霊石山の麓に流れる3本の川(曳田川、千代川、八東川)に分かれた谷間のような地域でし
た。

菟佐族が分布したのは、おそらく、右手(東側の)の八東川流域の開けた地域だと思えました。
八上姫を初めとする豪族が住んでいたのは、左手の(西側)曳田川の流域だったのかな。

八上郡をウィキぺデイアで調べると

〝古事記神話因幡の白兎に登場する八上姫(やかみひめ)が地名由来である。12郷を有する因幡
 国内で最大規模の郡であった。郡家の所在地は万代寺遺跡(現・八頭町)とされるほか、同町福
 井にある西ノ岡遺跡も一時期、郡家であったとする説もある。『延喜式』などに見える莫男(ま
 くなむ)駅は八上郡家付近に所在したと考えられる。〟

Google Earthで見る八上郡の一部

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平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』に記された八上郡の12の郷は以下の通りです。

若桜郷
丹比(たじひ)郷
刑部郷
亘理(わたり)郷
日部(くさかべ)郷
私部(きさいべ・きさいちべ)郷
土師郷
大江郷
散岐郷
佐井郷
石田郷
曳田(ひけた)郷

この丹比(たじひ)郷は、たぶん第28代宣化天皇の裔なる多治比氏に由来する郷でしょう。

全体的には、品部に由来する郷が多いですね。日下部、私部、刑部、土師郷…。
土師氏と、その後継の大江氏は、霊石山の麓から南方に分布していったようにも見えます。
霊石山中腹には、猿田彦命を祀った磐座があります。

この亘理(わたり)とは、隠岐島の由良姫神社の祭神に由来するのか、あるいは品部の渡部なの
か。古代の八上郡は「因幡国内で最大規模の郡」で、ヤマト中央と密接な関係にあったと思われ
ます。

品部とはなんだったか、改めて調べてみます。以下、ウィキぺデイアの記事。

〝職業部
 具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。海部(あま
 べ)・錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)・麻
 績部(おみべ)・渡部(わたりべ)・犬養部(いぬかいべ)・馬飼部・鳥飼部・解部(ときべ)
 などの例がある。
 子代(こしろ)・御名代(みなしろ)王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)
 ・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例が
 ある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の
 回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。
 豪族部
 諸豪族の名を帯びる部。例として畿内の有力豪族巨勢臣の巨勢部・尾張連の尾張部・大伴連の
 大伴部・蘇我臣の蘇我部などがある。
 これらを総称して、部ないし品部という(品は「しなじな」、すなわち「諸々」の意)。

 こういった分類は便宜的なもので、このように截然と区別・区分されるわけではない。例えば
 土師部は、土師器を作るという職業部であると同時に、土師氏という豪族の名を帯びる豪族部
 でもある。〟 (以上 ウィキペディア 部民制 

河原城  鳥取県鳥取市河原町谷一木1011
霊石山の反対側の山に築城されている。正式名称は「丸山城」。

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■八上姫を祀る神社

売沼(めぬま)神社 鳥取県鳥取市河原町曳田字上土居169

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〝式内社 賣沼神社
 一、祭神 八上姫命
 由緒「延喜式神名帳」に「八上郡賣沼神社」とある神社でありまして、中世より「西日天王」とい
 っておりましたが、元禄年間よりもとの賣沼神社という名にかはりま  した。御祭神は「八上姫
 神」でありまして 御祭日は十月一日を大祭としております 「古事記」の伝えるところによると、
 出雲国の大国主神は八上姫神をオキサキになさろうとしてこの因幡国にお出になりま した。途中
 で白兎の難をお救いになりま して、この白兎神の仲介で八上姫神と首 尾よく御結婚になりました。
 この神話伝説は漂着した外地の舟人たちが千代川を さかのぼって、まずこの曳田郷をひらいたこと
 に間違はありません。対岸山麓の前方後円墳を神跡とするのも決して単なることとは云えないようで
 あります。〟(説明板より)


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曳田川のせせらぎの音が聞こえ、とても安らかな気持ちになる境内でした。

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境内前を流れる曳田川

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本殿

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古代の川辺で祭祀が行なわれたのかなと想像しましたが、元宮は対岸の梁瀬山の方だったらしいの
です。梁瀬山の中腹には、前方後円墳(全長50m、幅19m、高さ4m)があり、嶽古墳という八上郡最大
古墳があります。
八上姫は、大国主命と同時代の人なので、弥生時代の姫様だから、古墳は、八上姫と云われている
けれど後の子孫の墓ではないでしょうか。

八上姫公園から見える梁瀬山 

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嶽古墳の説明板

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■曳田氏 中央に進出?

八上姫の後裔の豪族ですが、曳田郷を治めていたということだから、曳田氏だったのだろうと思い
ましたが、なかなか、古代の因幡にそういう文献が見当たりません。
インターネットで検索したら、後代の、平安時代末期に因幡の尾張氏ー八上郡司を務める豪族で佐
治氏の分家の曳田氏が出てきます。(→ ウィキペディア 佐治氏 


大和国城上郡にも、曳田邑があり、『延喜式』神名帳に「曳田神社」が見えます。(比定神社 乘
田神社(ひきた)神社 桜井市白河285 )
この曳田氏ですが、匹田(ひきた)・辟田(へきた)・引田(ひきた)・疋田(ひきた)とも書か
れるようです。漢字が後代になって入ってきたからそういうことなったと思いますが、それゆえ、
かなり古い豪族だと類推できます。

この曳田(ひきた)を拠点とした引田氏ですが、古代豪族として、三輪引田君、大神引田朝臣とし
て、名が見えます。
三輪氏の族のようで、大国主命の裔の一族らしいですが、なぜだか、二重の複氏を名乗っていま
す。
三輪氏・大神氏だけかと思いきや、阿部引田氏、物部引田氏…などの複氏もあります。
また、『新撰姓氏録』でも調べて見ました。これまた額田部氏との複氏。

 大和国神別
 額田部引田連――同神十三世孫、意富伊我都命の後

よほど母族の名を残さなければならない事情があったと思えますが、残念ながら、始祖が父系なの
で、たとえば、『母祖 八上姫命』というのは出てきません。

『姓氏家系大辞典 』(太田亮 著 角川書店)で、引田氏を一つ一つ調べて見ましたが、因幡八
郡の曳田氏と大和の引田氏との関連性を何も見つけることはできませんでした。

しかし、因幡・八上郡から大和に進出するということがあったとしてもなんら不思議はなかろうと
思います。


by yuugurekaka | 2017-04-05 23:47 | 因幡の素兎

■「因幡の白兎」というが…

『古事記』には「稲羽の素兎」となっており、毛の色に言及していません。そもそも日本在来の「

二ホンノウサギ」は、褐色等の毛を有しており、積雪地帯では体毛が白に変化するそうです。

→ ウィキペディア ニホンノウサギ

ちなみに、隠岐島には「オキノウサギ」という固有種がいます。オキノウサギは白くならないと書

かれていましたが、あるブログでは、オキノウサギも白く生え変わったとの記事も見受けられます。


では、素兎(しろうさぎ)とは何か。本居宣長は、素はもしかしたら裸(あかはだ)の意味か…な

どと考察しています。


伊吹山のニホンノウサギ (画像出典→ ウィキペディア ニホンノウサギより)

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■ 古伝 宇佐家の伝承 


ウサギと鰐の話なので、菟神を奉祭する宇佐家の伝承本を読んでみようと、アマゾンで宇佐公康著

『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』を注文しましたが、品切れの様子で、いつまで経っても送られ

てこずあきらめていましたが、県立図書館にあることがわかり、昨年末から借りて読んでいます。


私は、菟狹族というのは九州の北東部の豊国周辺にばかり分布しているとばかり思っていましたが

本を読んでみて、中心は山陽の方だと書かれており驚きました。そして、元々は隠岐島にいたけれ

ど、和邇族との取引で、財産や領地を失ない(身ぐるみはがれて)、大国主命に与えられた因幡国

八上の地で再出発したといいます。以下、『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』の引用です。

※ 下線は私。


「稲羽」は因幡国で、現在の鳥取県の東半分の旧国名である。山陰道八ヵ国の一つで、因州ともいっ
 た。今の鳥取市と、岩美・八頭・気高の三郡が、この国にふくまれていた。古代の住民、縄文時代か
 ら弥生時代には、日本海に面した海岸地域に住み、三世紀の中頃から、六・七世紀ごろまで古墳時代
 には、その周辺の奥地に移り住んでいた。したがって、広い地域にわたって、条里制の遺構を残して
 いる。…中略…
 このような条里遺構を残している因幡国は、隣国の伯耆国(鳥取県の西半分)とともに、古くから、
 豪族の出雲族が、統治して開けていて、その統治下に、菟狹族や和邇族が生活していた。和邇族が、
 その祖神をワニ神として祀っていたように、菟狹族は、ウサ神を氏神として祀っていた。『古事記』
 に見える「稲羽の素菟」とは、実はこの菟狹族の族長をさしていったのであって、動物の白ウサギで
 はない。〟 

〝 白ウサギが、ワニザメに皮をはがれて、赤裸になったという伝説は、経済上の取引で、菟狹族が和
 邇族に、玄人くさい駆引を使って失敗し、和邇族から資産を押えられ、全部没収されて、赤裸になっ
 てしまったことを物語るものである。〟

〝この隠岐諸島に、菟狹族は石器時代から住みついて、自給自足体制による農漁業をいとなんでいたこ
 とは、島後の西郷町から、石器時代の遺物が発見されたことによって実証される。そして、その生活
 の九○%は、アマ(海士)による漁労・採取であったことは、菟狹族はウサ神、すなわち、ツキヨミ
 ノミコト(月読尊)をアマ(天)の神とするアマ(海)族であるという伝承によっても明らかである。〟

〝 菟狹族は、この教示を実行にうつし、隠岐諸島の領有権はもとより、物品貨幣の全財産の所有権を
 和邇族に移譲して、長年住みなれた島を去った。そして、オオクニヌシノミコトが、菟狹族に無償で
 与えた因幡国八上の地に移住して、この地を開拓して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・
 北九州・東九州地方にまで発展し、古の菟狹国をつくって繁栄するに至った。〟
           
                 (宇佐公康著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 木耳社)

■ 隠岐島と伯耆

宇佐家伝承を念頭において隠岐島と伯耆を考えてみようと思います。
まずは、隠岐の国造はだれであったのか。

意岐国造(おきのくにのみやつこ)は、国造本紀(先代旧事本紀)によれば、応神天皇(第15代)の
時代、孝昭天皇(観松彦香殖稲命、みまつひこかえしね)の弟とも言われる観松彦伊呂止命(みまつ
ひこいろとのみこと、観松彦色止)の5世孫である十挨彦命(とおえひこのみこと)を国造に定めた
ことに始まるとされています。

孝昭天皇といえば、第五代天皇で、大和葛城の出雲族と縁の深い天皇です。第一皇子が天足彦国押人
命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)で、和邇氏の祖とも云われる皇子です。
→ ウィキペディア 孝昭天皇 あながち、和邇族と無関係ではないと思われます。

ちなみに隠岐の国造は、大国主命の後裔を称する意岐(隠岐・億伎)氏が世襲して、古くから隠岐国
の玉若酢神社の神職を務めているという。

さて、宇佐家が関係した地域であれば、それらしい地名「豊」とかがあるはずです。そういう目で、
隠岐の地名を探しますと、島前海士町に「豊田」という地名がありました。江戸時代は、豊田村だっ
たようですが、ただ平安時代の『和名類聚抄』を見ると、隠岐の4郡12郷の地名にはありません。
ここ豊田の地では、「奈伎良比賣神社(なぎらひめじんじゃ)」という神社があります。式内社の
神大社となっています。

隠岐郡海士町豊田 周辺の国土地理院地図

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ここの伝承によれば、往昔伊予国から船出していた奈伎良姫は、日本海に入った折、暴風雨にあい、
途方にくれていたとき、遥か遠くに見える一点の灯火を頼りに進み、この豊田の地に、上陸し永住
したといいます。

伊予国から渡来した神です。宇佐族の系統の神とも思えますし、和邇族の系統の名前のようにも思
えます。何も証拠はありません。
なぜだか伯耆にも「なぎら」の名が同じ「奈喜良(なぎら)神社」があります。祭神は、あいにく
奈伎良姫ではなくて、大国主命です。まあ祭神は、変わるものです。

それと伯耆に「由良(ゆら)」という地名がありますが、島根県隠岐郡西ノ島町浦郷にある「由良
比女神社」(式内社の名神大社)と関係がないのでしょうか。由良比女は、元名「和多須神」とも
云われており、海童神あるいは須世理比売命ではないかと云われていますが、豊玉姫との説もあり
す。『古事記』では、豊玉姫は海神大綿津見神の娘で、出産の際、八尋和邇(やえひろわに)に
ります。

鳥取県(因幡・伯耆)には、菟狹族、和邇族が近接して分布しているようです。隠岐の神様も、ど
っちの系統の神かよくわかりません。おそらく長い歴史の中で、敵であったり味方であったり、ま
た同族化したり、いろいろなことがあってわかりにくいのだと思います。

奈喜良(なぎら)神社 鳥取県米子市奈喜良356番 
現在の祭神は、大国主命、天照大御神です。天照大御神は明治元年神社改正の際、合祀されたという。

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by yuugurekaka | 2017-03-25 22:01 | 因幡の素兎