出雲郡出雲郷の朝妻の里の出雲積は、どの系譜の出雲姓なのでしょうか?

お隣に神門臣の分れた(神門臣古彌(かんどのおみこみ)を健部とお定めになった。)健部郷があ

り、出雲積とは、神門臣のもともとの姓氏なのかしら…とも思いが浮かびます。


「新撰姓氏録」(815年)では、

神門臣は、右京・天孫で、 「天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也」となっておりまして、「天穂日

命」が祖とは全く思われませんが、もともとは出雲姓を名乗っていたんでしょうか?


出雲郷の朝妻の里の神社の祭神を探っていきますと

朝妻の里には、稲田姫を祀った祠の存在する稲城の森があります。

朝妻の里 稲城の森の祠

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また、出西の八幡宮と同じ境内の「久武神社」があります。

「久武神社」(江戸時代は久茂大明神)は、ここが4度目の遷座地らしいですが、出雲風土記(7

33年)には、「久牟社」と記載されており、素戔嗚尊が稲田姫を稲城の森にかくまって妻問いし

た時に、雲が立ち上り、「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに」と謳われたというのがご由緒のよう

です。


久武神社・出西八幡宮

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稲田姫と素戔嗚尊の須賀の宮は、雲南市大東町の須賀神社が有名ですが、その同じ伝承をもつのな

ら、東出雲の出雲氏が 持ち込んだのではないかと私には思えます。

ちなみに富家伝承では、元々は初代オオナムチの菅之八耳と后・稲田姫の話で、菅之八耳が素戔嗚

尊に変えられてしまっということですし、富(とび)神社の祭神は、現在は祭神が違うけれど、

最初は、菅之八耳と后・稲田姫だったようです。


さて、この富神社ですが、斎木雲州氏以外で富家との関係を書いたものがないか図書館で調べまし

たが、斐川町発行の書物では発見することはありませんでした。富神社の由緒を見ても、富家のこ

とは一言も書いてないし、郷土史家の書かれた本でも、富神社は、飛び地から富(とび)というな

どと書かれており、キツネにつままれたような気持になりました。


富神社 

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出雲大社の上官(じょうがんと読むらしい)家であり、中世に富郷(斐川町富村)、阿吾郷(斐川

町阿宮)、林木荘(東 林木町、西林木町)が知行地だった富家の存在すら書かれていないとは、い

ったい全体どういうことなのでしょうか。


いろいろ探して一冊ありました。島根県古代文化センター発行の「富家文書」(1997年3月3

1日発行)です。

あって ほっとしましたが、出雲国造家(北島家)の分家だと書かれていて、(出雲国造家から婿

を入れたりはしていますが)またもや がっくりきました。


いまだ出雲王朝説も古代史の中では少数派でしかないし、出雲王家の末裔の豪族が実在していると

いうのは異説でしかないのです。



曽枳能夜神社の前のお地蔵さん

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この富家が中世に関係があったであろう地域の鼻高山の麓や仏経山の麓の道をあるいてびっくりし

たのは、路傍のお地蔵さんの 多さです。峠や道の分岐点というレベルではなく半端なく多いのです。

地蔵菩薩はいろいろな説がありますが、豊作や治山、治水などの役割を持ち、サイノカミと習合し

たとも言われていますが、さてどうなのでしょう。


来阪神社参道のお地蔵さん


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by yuugurekaka | 2016-05-21 02:06 | 出雲臣の西進

現在の出雲市の鼻高山の麓に日下町という所があります。

(全国に日下部氏は展開しているので、そういう地名は各地にあると思います。)

出雲風土記時代(733年)、「出雲郡伊努郷」であり、その頃に既に日下部氏由来の神社が

あります。


ホムチワケ伝承で、なぜ突然日下部氏なのか…と思われるかもしれませんが、垂仁天皇の御子

ホムチワケの母は、そもそも、日下部氏の系譜であるからです。

 →ウィキペディア 日下部氏


日下部と書いて、なんで「くさかべ」と読むのか、

和歌の枕詞、「日の下の草加(ひのもと くさか)」から来ていると言われていますね。


ウィキペディアから抜粋すると2説あって

1.開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。

2.孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。

古い氏族なので、いろいろな説があって然るべきなのかもしれません。


ホムチワケと出雲の旅に同行する曙立王 と菟上王は、開化天皇のひ孫なので、日下部氏と同

族です。


久佐加神社 出雲市日下町上筋731-1  

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ホムチワケの母(狭穂姫)は、開化天皇の孫で、狭穂彦王の妹です。
古事記、日本書紀で語られる狭穂彦王の叛乱ウィキペディア 狭穂姫命 )は、
“「崇神 - 垂仁」に対立する「彦坐王 - 狭穂彦」の皇統があったとする説もある。”
ウィキペディア 彦坐王 より)ようです。

崇神天皇は、ハツクニシラススメラミコトとも称され、開化天皇以前との系譜からは、不連続性
があるように思えます
出雲王朝と同じように、崇神・垂仁天皇時代に滅ぼされた葛城王朝の怨念というものが、日下部
にもあったであろうし、日置部(へきべ)氏族の天甕津日女命鎮魂説話(尾張国風土記)とつ
ながって、国主命の鎮魂ー出雲大社の創建になったのかもしれぬと、一つの考えが浮かびまし
た。

出雲風土記時代(733年)の出雲郡では、大領が出雲臣ではなく、日置部臣です。「出雲国大
税賑給歴名帳」(739年)を見ても、臣の姓ではトップです。日下部氏はどうかというと、
日下部氏由来の神社のある伊努郷や隣の美談郷などの資料がないので、よくわかりません。


来阪神社 出雲市矢尾町799  

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あと、斐川町の都牟自神社(2社あり)の祭神、神魂命の御子「天津枳値可美高日子命」を「岐比
津美」と同神とする説があるらしいですが、天の「枳値可」美・高日子・命…三重の美称がつけ
られており、残った名前が「枳値可」(きちか)で、名前が似ていてそうなのかもしれませんが、
そこの「漆治郷」は、斐川町平野の中間のところに位置し、奈良時代頃の新開地にしか思えないの
ですが、出雲国造の祖といえば出雲臣もいて、そうなのかもしれません。

この神社の名前「都牟自」というのが、一般的につむじ風、風神を意味するのでしょうが、先の日
下部表米の御子の名前が、日下部都牟自なので、なにか日下部氏と関係があるのかしら…と頭の中
が混乱してしまいます。

都牟自神社 出雲市斐川町直江町520番 

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都牟自神社 出雲市斐川町福富133番


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by yuugurekaka | 2016-05-17 18:31 | 出雲臣の西進

過去に出雲市の神戸川の中流にある富能加神社で、ホムツワケ伝承のことを記事にしましたが、

→ 富能加神社 ~ ホムチワケノミコト 出雲大神の祟り ~

神門川の出雲市所原町の富能加神社は、ホムチワケとヒナガヒメが一夜を共にした場所との伝

承ですが、話の舞台はそこではなく、『古事記』では、斐川平野で話が展開しています。


しかし、このホムチワケ伝承は、どのような氏族たちに支えられて記紀に載るまでの話になっ
ていったのでしょうか?

鵠神社(くぐいじんじゃ) 出雲市斐川町求院 八幡宮境内社

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旧千家村の南方に、求院(ぐい)というところがあります。

昔は、求院村があり、明治22年(1889年)に出西村に含まれるようになりました。

この地名の求院(ぐい)ですが、白鳥を示す古名の「白鵠(くぐい)」からきているそうです。

日本書紀の記載では、垂仁天皇の御子ホムツワケは、30歳になって髭が長く伸びているのに

言葉がでませんでした。天皇の御前で、空を鳴きながら飛んでいく白鳥を観たホムツワケ皇子

が、「是何物ぞ」と言ったので、天湯河板挙に命じて後を追わせ、出雲国、あるいは但馬国で
白鳥を捕獲し献上しました。その功績により、湯河板挙は、姓をもらい鳥取造というようにな
りました。鳥取部・鳥養部・誉津部が定められたのもこのときであったといいます。

 大人になっても髭ぼうぼうで言葉がしゃべれないという記述は、『出雲風土記』神門郡高岸郷、 仁

  多郡三澤郷に見えるアジスキタカヒコの説話にかなり似ています。


曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ) 出雲市斐川町神氷823番地
出雲国造の祖と云われる岐比佐都美を祀っています。

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しかるに、『古事記』における垂仁紀のホムチワケの話は、簡単ではありません。

白鳥を捕らえても、御子は結局しゃべることはありませんでした。

垂仁天皇が寝ていると夢にお告げがありました。

「わが宮を、天皇の大殿と並ぶほどに作り直したならば、御子は必ず言葉をはなすだろう。」

出雲の大神の祟りであるということがわかりました。

記紀の話の上では、国譲りの時、タカムスビや天照大神との約束の出雲大社は結局建てられて

いなかった、あるいは修造されなかった…だから、祟ったという展開です。


 似たような話が、『尾張風土記』吾縵(あづら)の郷にあります。祟るのは、出雲大神ではなく、阿麻乃
 弥加都比女 (天甕津日女命)です。垂仁天皇の御子ホムチワケが、7歳になっても話さない…とあり
 ます。 そして、垂仁天皇は、日置部らの祖建岡君に、その神が誰で、どこにいるかを占わせます。

それでホムチワケを出雲に行かせ、出雲の大神(ここでは葦原色許男大国主命)のお宮に拝み

にいくことにしました。

お伴には、曙立王(あけたつのおう)~開化天皇の皇子である彦坐王の孫~と、弟の菟上王に

しました。

出雲の大神を拝み終えたホムチワケを肥の川(斐伊川)の中州ににわか作りの宮をつくり籠ら

します。出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が、川下に青々とした木々を山の

ように飾り、お食事を献上しようとした時に、御子は

「青葉の山に見えるのは山に見えるけれども山ではない。もしや、出雲のいわくまの曾の宮に

います葦原色許男の大神 の祭場ではなかろうか。」と言葉を発しお尋ねになったのでした。

この垂仁天皇の御子に応対した岐比佐都美とは、どのような氏族なのでしょう。

出雲国造は、大庭の地から西出雲に移動してくるのが716年ということなので、東出雲の出

雲国造家の系譜にはどうしても思われません


by yuugurekaka | 2016-05-13 15:52 | 出雲臣の西進

まずは、昭和43年3月の斐川町役場発行の町誌編集委員会の論文、

美多 実「『記紀』出雲神話に見えたる古代出雲小国家」の引用です。


朝妻里 稲城の森


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“『正倉院文書』としての天平十一年の『出雲国大税賑給歴名帳』をみると、当時の氏族配置

一班が知られる。その他で出雲名を冠するものに

出雲臣 出雲部 出雲積首

があり、特に「出雲積首」という奇妙な卑姓のものが出雲郡朝妻里に格別多く存在している。

 この歴名帳は賑給保護の対象となる様な要保護氏族のみあげてあるので、之でもって奈良時

代の全氏族配置を云々する訳にはゆかない。それでも朝妻里と出雲積首とは前記の如くある関

連があるのである。問題は「積」と「首」の解釈である。Tumi=Tomi=Tobi で

ある。

積の転訛は富である。(出雲では富をトビと発音している。)積富は理解不能でも富=飛一寸

理解できないかも知れない。

 しかし「富田林」が「とびたばやし」と読まれるのと同例であり、やはり転訛である。

 したがって、出雲積首は正しく出雲富首であり、「出雲の富村の首族」であり、その守護神

である富明神こそ正に出雲神社に該当するのである。”


この積が富に転訛という説はちょっと強引な気もしますが、ともかく出雲郷には出雲積という
家が集中していたということです。

この「出雲積」とはなんでしょう?

インターネットで検索すると、なぜか、ウィキペディア穂積氏が出てきました・・・。下記は

その引用ですが、


“「穂積(穂は「火」の意味とも)」の氏は、出雲積、鰐積(
和珥氏の原始的姓氏)、津積(尾張
氏の原始的姓氏)、阿曇(阿曇氏)などの例から見て原始的姓氏であり、物部氏ももとは穂積氏で
宗は穂積臣であって、豪族系の臣姓をもっていた。”(→ウィキペディア 穂積氏

そうかあ、物部氏も、もとは穂積氏か。

と、なれば天穂日命を祖とする出雲国造家も、本来、穂積の一系統になるんではないだろうか…
と思いが浮かんできました。だけれども、出雲臣を名乗るから、頭が混乱してきます。

加藤義成氏もまた、「『津見』の考」(1978年1月)の論説の中で、出雲積に着目しておら

れます。


“この表にみられるように「出雲積」は、この出雲郷周辺に集中し、出雲大社の膝元杵築郷に

も見えないし、神門郡にも神戸里に一戸あるだけで、他郷にみえない。しかも首(おびと)姓

を持つものは出雲郷だけに限られ、その大部分は朝妻里にあった。律令制の施行に当たって出

雲郡の郡家がここに置かれたのは、この氏と深い関係があると思われる。思うに「出雲積」は、

この出雲郷辺の集落の統合主宰者として、出雲大社の司祭者でもあったため、大和王朝から誅

罰を受けたという崇神紀の出雲振根や、景行紀の出雲健の伝承は、おそらくこの「出雲積」家

の衰退を物語るものであろう。そして国譲り伝承に見られるように、全国的に信仰基盤を広げ

た出雲大社の司祭権が、熊野大社の司祭者として東出雲の総合主宰者であった意宇氏(崇神紀

の呉信仰基盤を広げた淤于氏)に移り、意宇氏は出雲臣を称して出雲国造に任ぜられたのであ

った”


元々の「出雲積」の姓氏発生源が、この斐川町出西であった、(それを名乗っていたのは、た

ぶん神門臣であろう)しかしながら、西出雲の勢力の衰退とともに、「出雲臣」として東出雲

の勢力が名乗るに至った。そういう話です。


しかし、東出雲の勢力が西出雲まで勢力下に置いたというのが通説になっておりますので、そ

ういう論になるのはしかたないのかもしれません。富家と出雲国造家の2家が出雲姓を名乗り、

そして2家が、共に西に移動してきたということなど、思いもよりませんでしたから。


しかし、出雲積は、西出雲だけではありませんでした。

1999年度から、島根県教育委員会が、30年ぶりに始めた出雲国府跡の発掘調査では、井

戸の下層から、「東殿出雲積大山、伊福部大」と書かれた木簡が出てきました。

出雲積の一族は、東出雲にもいたのです。


出雲国府跡 


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by yuugurekaka | 2016-05-08 01:18 | 出雲臣の西進

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出雲市街を通り抜け、斐伊川の上の神立橋を抜けると、9号線バイパスと9号線が一本の道に見え
ます。そこには、「千家」の看板が見えます。そこは、出雲市併川 千家地区の場所です。
「千家」とは出雲大社の、つまり出雲国造家の千家さんです。
そして、その北西には、北島(出雲国造家の北島さん)、右手には富村(とびむら)(出雲大社
旧上官家の富さん)の地名が見られます。

明治
初年時点で、出雲郡(しゅっとうぐん)には、富村(とびむら)、千家村、北島村が存在し
ており、出雲大社の社領でした。明治8年(1875年神立村・千家村が合併して併川村となり、
北島村・別名村が合併して名島村となり、千家村・北島村は無くなります。(現在は、出雲市斐
川町併川千家、斐川町名島北島として地名が残っています。)明治22年(1889年4月1日
富村、名島村、鳥井村、上直江村が合併して、伊波野村となり富村は無くなります。(現在は、
斐川町富村として地名が残っています。)→ウィキペディア 出雲郡

ここらあたり(斐伊川東側)は、案外新しいです。東部出雲を拠点とする出雲臣(富家・出雲国
造家)が西部出雲に移動して新たに開拓してきた所のようです。出雲国造家は、霊亀二年(71
6年)、本拠地の松江市の意宇平野から大社の杵築の地に移動してきたといわれています。それ
まで、出雲大社の前の平野や、斐川の東側の平野は、大部分が湿地帯でしたが、斐伊川の土砂の
堆積で開けてきたそうです。 参考→おおだwebミュージアム 斐伊川・神門川と出雲平野

古事記に見られる「葦原の中つ国」の表現は、もしかしたら、出雲平野・斐川平野の湿地帯をイ
メージしたものかもしれません。

※古代史専門家では、富家と神門臣家は、天穂日命を祖とする出雲国造家の分家とする説が圧倒
です。そうなると、出雲国造家が奉祭する、国津神の創始王家は、そもそも居なかった、出雲
王朝は嘘っぱちだった…古事記は全くの作り話だったという論理展開につながる話で嫌なのです。
そうやって、出雲王朝否定論が主流だったのです。

by yuugurekaka | 2016-05-04 00:28 | 出雲臣の西進