さて、下照姫といえば、記紀に載っている歌が頭に浮かぶであろう。

古事記には1首、日本書紀には、2首載っており、「ひな振り」(田舎風の歌)と云われている。その、記紀ともに載っ

ているこの一首。下照姫の夫アメノワカヒコに親族が、弔問に訪れたアヂシキタカヒコネを親族が、アメノワカヒコと

間違えて、「生き返った」と思われアヂシキタカヒコネが怒り、喪屋を切り伏せ、蹴とばしてしまった。その時、阿遅須

枳高日子の名をアメノワカヒコの親族に明らかにしないといけないと思い歌ったのである。


      壹宮(いちみや)神社 鳥取県西伯郡大山町上方1124

      主祭神は、アマノオシホミミであるが、下照姫とアメノタカヒコが一緒に暮らした場所との伝承がある。



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     拝殿が修造中であった。

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天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に

        穴玉はや み谷 二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ

(あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに

              あなだまはや み谷 ふたわたらす あぢしき たかひこねの神ぞ)


この歌の訳は、

“高天の原にいます 若い織姫が 首にかけたる 玉の首飾り

その首飾りの 穴玉よ、輝くごと 

深い谷を 二つまたいで輝きわたらせる 

アヂシキタカヒコネの神にいますぞ ”       『口語訳 古事記  三浦佑之訳・注釈』(文春文庫)より


1)七夕の織女と下照姫


いわゆる七夕を「たなばた」と呼ぶのは、古来機を織る女性を棚機女(たなばたつめ)」と呼んだらしい。

(本居宣長『古事記伝』)。

この歌がどのような意味を持つかであるが、それ以上、よくわからない。民族学者折口信夫氏にその解説があった。

折口信夫によれば中国から伝来した七夕の風習と、日本古来の川辺で機を織りながら神を待つ棚機女の話が融合

したようだ。→青空文庫 折口信夫 『たなばたと盆祭りと』


付随して、柳田国男氏の『日本の伝説 機織り御前』→青空文庫 柳田国男 『日本の伝説』では、もともとは、若

い男神に新しい神衣を織ってさしあげる話が、近代になっての伝承として山姥の話に転化していることが興味深い。

また、この中国伝来の七夕説話~織姫星と牽牛星~であるが、中世に到っては、牽牛星を天雅彦、織姫星→長者

の娘という設定に代わる「天雅彦草子」が作られている。→ウィキペディア 天雅彦草子  


下照姫命がこういう棚機女の歌をうたうから、機織りの氏族 倭文氏が下照姫を奉祭している理由の一説な

かもしれない。



     阿須伎神社 (出雲大社 境外摂社) 島根県出雲市大社町遙堪1473


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2)阿遅須枳高日子と天香香背男


そもそもこの歌は、アメノワカヒコをうたったものではなく、アヂスキタカヒコを歌った歌である。なぜに七夕の星の歌?

と思うが、思いつくのが星神 天香香背男の存在である。またの名を天津甕星(あまつみかぼし)と云う。

ウィキペディア 天津甕星


天香香背男は、高天原が出雲平定(古事記では『国譲り』)に乗り出す前に、やつけておかないといけない神とされ

ている。“「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香香背男です。どうかまずこの神を除

いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。”(『日本書紀 一書 第二』 宇治谷 孟 現代語訳  

講談社文庫より)  


外の敵に向き合うために、まず内部の矛盾を解決しないといけないということなんだろう。名の「天香香背男」という

のが、「天背男」に出雲神を表す蛇の古語である「カカ」を挿入していること(通説では星神だから 「かか」は輝くと

いう意味)を考えると、出雲族と婚姻関係を結んで、出雲族とは戦争をしたくない氏族であったのだろう。


天津甕星(あまつみかぼし)と聞いて、また浮かぶのが、阿遅須枳高日子の祖父神 赤衾伊努意保須美彦佐倭気

(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ)の妻神の天甕津日女(あめのみかつひめ)です。「天の…」と、いうからには、

出雲族ではなく高天原の系譜であろう。また、阿遅須枳高日子の妻神は、天御梶日女(あめのみかじひめ)でこれ

また、「天」と「みか」の名前がついている。(名前が似ているから、同じ神かはどうかわからないが、仮に同神であ

ったとしても弥生時代だと対偶婚なので、祖父神と孫神の妻が同じであっても問題はなかろう。)


もしや、天津甕星と天甕津日女命は同族であったのではないだろうか?

この天甕津日女命は、出雲風土記の出雲郡伊農郷や秋鹿郡伊農郷に登場してくる。また、天御梶日女命は、

縫郡神名樋山にて「阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多宮の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。」

との記載あり。

                      

     伊努神社  島根県出雲市西林木町376 

   

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     天甕津日女命の夫 赤衾伊努大住比子佐倭氣命 が主祭神で祀られている。

     ここの神社は風土記の出雲郡伊努郷にあり、出雲市美野町382番地にある伊努神社は秋鹿郡伊農郷にあり、

     天甕津姫命が主祭神である。


                       

     島根県松江市鹿島町南講武602 多久神社 



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     天甕津日女命が主祭神である。ここは風土記の嶋根郡である。




出雲の神門臣家と婚姻関係を結んだ天甕津日女命であるが、なぜだか尾張国逸文の丹羽郡吾縵郷(愛知県一

宮市)にも登場する。


尾張国 風土記逸文  (『釈日本紀卷十)

吾縵(あづら)郷

 尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品

津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋

ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、

多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者

が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。

天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか

否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行

き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必

ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこ

の地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建ててt神を祀った。(「吾が作

った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世

の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”

                 『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  (角川ソフィア文庫)


     多久神社 島根県出雲市多久町274



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     楯縫郡多宮村にあり天御梶姫命 多伎都彦命 を祀っている。



この多具(たく)国というのが、秋鹿郡島根郡多久川周辺をさすのか、楯縫郡多宮の村なのかわからな

いが、ともかく出雲国に登場する神が、ホムツワケ伝承の出雲大神に代わって、祟り神として尾張国にも登

場するのである。尾張の国で祀りなさいということは、もともと、天甕津日女命の氏族は、この尾張が本拠

地だったのかもしれない。


尾張国大国霊神社神職家の系図によると始祖が天背男命で尾張氏の遠祖であるという。また、先代旧事本紀

で饒速日が天下った時に随行した32人衆の中に天背男命(天神立命):山背久我直等祖、天背斗女命(天背男

命):尾張中嶋海部直等祖(どうも書籍によって天背男命の記述が違うらしい。インターネットの記述も混乱が見られ

るようだ。)の名が見られる。


さて、下照姫の歌に戻るが、阿遅須枳高日子は、「み谷 二渡らす」というところだが、折口信夫氏では、「長大

体」を表すということだが、私が思いついたのが、この二渡らすとは、一つは葛城の鴨氏、もう一つは尾張氏で、

二つの天津神の系譜をもつ氏族と婚姻関係をもって、氏族の隆盛に一役買ったのではないかという考えだ。(尾

氏の系譜には阿遅須枳高日子は出てこないが…)


出雲族は、結び付くと「悪神」と揶揄されるネガティブな面と、ジョーカーのごとく切り札としても使わ

れる族でもあったのではないだろうか。


by yuugurekaka | 2016-03-06 07:00 | 下照姫

倭文氏の祖である建葉槌命(天羽槌雄神)は、下照姫とどんな関係があるのか?

全国の倭文神社をインターネットで調べてみるが、倭文神社で必ずしも下照姫を祀っていないようである。

そうかと思うと、奈良県の葛城市のホームページに以下の記載がある。→葛城市役所 棚機神社


棚機神社  奈良県葛城市太田小字七夕
画像 出典 葛城市役所 棚機神社

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5世紀頃、葛城山麓の(北端に位置する當麻町)周辺では葛城氏(葛城地方を本拠として四世紀

末~五世紀に活躍した古代豪族)を中心とする有力豪族が存在し、その中には、染色技術を生業

とする置始(おきそめ)氏や、機織技術に富んだ倭文氏などの伴造(とものみやつこ)(大和政権

に職能奉仕をした技術者集団の長)がおり、中国南朝や朝鮮半島(百済・新羅)などから我が国にい

ままで伝来していなかった機台付の機(タナバタとは棚のある機、機台に組み立てられた立体的

な機のこと)やそれを織る織女、オトタナバタの説話や七夕儀礼(中国では機織り技術の向上を

願う儀式)が三者一体となってもたらされました。

これを置始氏や、倭文氏が最初に受容していたので、七夕儀礼を天羽槌雄神(あめのはづちの

おのかみ)(機織の術を教え授けられた神)やシタテルヒメ(渡来系の機織り集団に奉斎された

女神)を祭神とする、本来の鎮座地である(當麻町)葛城市太田で、日本最初の棚機の儀式が行

われていたと考えられます。”


新撰姓氏録(815)によると

 「大和国神別(天神) 委文宿祢 出自神魂命之後大味宿祢也」

 「摂津国神別 (天神) 委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」

という記述も見られる。委文も倭文も同じ意味らしい。


倭文氏は、カミムスビ系の氏族のようである。同じカミムスビ系の氏族として、県犬養連・瓜工連・

多米連・間人連・紀直・額田部連等が見られる。タカムスビ系とどう違うのか、今のところ知識がな

くてわからないが、系譜とは大半父系でつながっているので、もしや母族だとか関係しているのか

しら。


この新撰姓氏録と符合しているように洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、

神魂命─角凝魂命─伊佐布魂命─天底立命─天背男命─天日鷲命という

ような系譜となっている。

そして、その後が天羽雷雄命とつながるようである。(この天背男という名は、星神の天香香背男に名

前が似ている!?)


 さて、鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』(講談社学術文庫)を読んでいたら、天平11年(739年)

「出雲国大税賑給歴名帳」(いずものくにたいぜいしんごうれきめいちょう)が載っており、そ

の当時の出雲郡と神門郡の二部の扶養を要する高年の者や年少者の属す戸主の姓氏が記述され

ていた。



下照姫とされる(神社や風土記にその記載はないが)阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祀っている

多伎神社のある神門郡多伎郷であるが、40名記載のうち倭文部臣族二戸、倭文部一戸の名が

見える。

倭文部の名が見えるのは、神門郡滑狭郷の二戸と、多伎郷にしか見えない。



多伎神社 島根県出雲市多伎町多岐字笠無639



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それと、多伎郷には、伊福部十戸もある。伊福部も神門郡滑狭郷二戸、出雲郡漆沼郷一戸以外

には他の郷には見られない。伊福部は、鳥取県東部―因幡の国に勢力を持っていた豪族である。


このことを考えて思ったことだが、元々は阿陀加夜努志多伎吉比賣命=多岐津姫(宗像)だった

ものが、因幡から伯耆以東に基盤を持っていた下照姫に祭神がすり替わって、阿陀加夜努志多伎

吉比賣命=大国主命の御子(下照姫)になってしまったのではないか。

(富家伝承による阿陀加夜努志多伎吉比賣命=多岐津姫、八上姫の娘神=下照姫という前提の

考えに基づく)



倭文神社 夫婦岩

鳥取県東伯郡 湯梨浜町大字宮内754


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さて、話は戻るが、建葉槌命は下照姫とどういう関係があるのか。機織りの神というのだから、たぶん

秦族だと思われる。(ちなみに倭文氏の祖 角凝魂命は、大阪府阪南市石田の波太神社に祀られて

いる。)下照姫と結婚したと仮定するならば、建葉槌命=天若彦ではないか。


多久神社 島根県出雲市多久町274

    天御梶姫命 多伎都彦命 を祀っている。



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出雲族と同族化平和路線に走ったために、徐福(饒速日)に誅されてしまったのではないだろうか?

古事記で下照姫の兄とされる味鋤高彦命であるが、后の名は、天御梶姫であり、「天の」というだか

ら、天津神であり、この姫も同じ秦族であったのではないだろうか?

この神の系譜もまた出雲族と同族化して、誅されるにいたったのではないだろうか?




by yuugurekaka | 2016-03-01 01:32 | 下照姫


鳥取県の東部にある東郷池である。(→ウィキペディア 東郷池)あいにくの雨で美しい池が、青色一色になってしまった。
この池は、池の中心から温泉が湧くという全国的にも珍しい池で、西側に「はわい温泉」、南側に「東郷温泉」という有名な
温泉がある。(詳しくは→はわい温泉 東郷温泉旅館組合

この池は、太古日本海とつながっていた入り江であって天神川から流れてくる花崗岩の砂が堆積して入り江をふさいでしまっ
ったできた潟湖であるらしい。
池の東北のあたりで、宮戸弁天という磐座が、見えた。下照姫が魚釣りを楽しんだという伝承地のようだ。

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この池の東北側に、伯耆国一之宮 倭文(しとり)神社がある。詳しくは→ウィキペディア 倭文神社(湯梨浜町)
倭文氏の祖神 建葉槌命(たけはづちのみこと)を祀っている。 
建葉槌命は、天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)とも云い、機織りの祖神とされており、倭文(しどり)氏の祖神で
ある。

倭文(しとり)神社 鳥居

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建葉槌命は、日本書紀では、葦原中津国平定に従わない星神・香香背男(かかせお)を服させる神として登場してくる神
だ。

その神とともに、大国主命の息女、下照姫が祀られている。
出雲より着船し(羽合町宇野と柏村宇谷の中間の仮屋崎に着き化粧直しに使った水が伝えられているようだ。)倭文神社
の社地に住居を定め、亡くなるまで安産の指導や農業開発、医薬の普及にも尽くされたという。

倭文神社 拝殿

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倭文神社 本殿
     昭和53年に本殿裏にあった神木であったタブノキは、腐朽のため倒壊した。昔は、直径2.2メートル、枝張りは南北10
     メートル、東西8.8メートル、樹齢は六〇〇年と推定された古木だった。
     タブノキ特有の乳房状の突起物があったことから、「乳神さん」と呼ばれ親しまれていた。その倒壊した木から新しい木
     が生えていた。


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当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、下照姫命だけが主祭神であるかのように思われた
ようである。その昔、常に難産で苦しむ婦人が願をかけていると、下照姫が夢に現れ、参詣の帰途、ここの安産岩で簡単
に出産し、それ以来「安産岩」と呼ばれるようになったという言い伝えがある。
こういう伝承から、安産祈願の霊験ある神社としてにぎわっているようだ。

安産岩



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しかし、下照姫の生んだ御子の話は、記紀にはない。
アメノワカヒコとの間で子供はなんというのだろう。もしや、実際は倭文氏が、その末裔ではなかったろうか?

社殿の南南東180メートルいったところに下照姫の墓ではないかと長い間云われていたところがあった。しかし、大正4
年(1915年)の発掘により、経塚(きょうづか)遺跡であるということが判明した。→ウィキペディア 経塚
平安時代初期の銅経筒を始め仏像、銅鏡、るり玉などが発掘されており、全て国宝に指定されている。

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神社に仏像というと、現代は違和感を感じるが、神仏分離の時代の方が歴史としては短いのだ。


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しかるに、なぜここが下照姫の終焉の地なのだろう。
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、下照姫は大国主命と多紀理毘売命の娘ではなくて、因幡の
白兎の八上姫との娘である。妻問婚の時代(→ウィキペディア 妻問婚)一般的にこどもは母方の一族で育てられるゆえ
母方の一族が住む因幡の国のすぐ隣のここが、富家伝承の方が理にはかなっておるように思う。
しかし、「木俣神」として、斐川町の御井神社に取り残され、大国主命の一族に育てられたのかもわからないが・・・。

ちなみに富家伝承では、阿陀加夜奴志多岐喜比賣命は下照姫ではなく、多岐津姫であり、出雲風土記における阿陀加夜奴
志多吉比賣命は所造天下大神(大国主命)の「御子」とは間違いで「御妃」であるようだ。


by yuugurekaka | 2016-02-20 23:18 | 下照姫