孝霊山   鳥取県西伯郡大山町・米子市

 古くから、香原山・瓦山・高麗山・韓山・唐山・光霊山などとも 称されてきました。
右に見えるは大山。詳細は → ウィキペディア 孝霊山
孝霊山の麓の西北に日本最大の高地性集落の遺跡「妻木晩田遺跡 」があります。


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“キビ王国のフト二王の勢力は、伯耆町の宮原からさらに北に進んだ。尾高から後世に吉備式土器が出土したのは、キビ
の兵が残したものであろう。竜神が住むという赤松の池の北方に、コニーデ型の丸山があった。フト二王の勢力それを
ぐるっと回って、その東北の宮内(大山町)に留まり住んだ。フト二王は、孝霊という諡(死後の贈り名)となった。それで
コニーデ型の丸山はフト二王にちなんで、後世には孝霊山と呼ばれた。
                            斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)より   

※ フト二王…第七代天皇 孝霊天皇のこと。
  和風諡号は、日本書紀では、「大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこ・ふとにのすめらみこと)」、古事記で
  は、「大倭根子日子賦斗邇命」と記述されている。



高杉神社 社号標・鳥居


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高杉神社拝殿

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“フト二王は晩年を、宮内で過ごされた。今、高杉神社が建っているところが、その屋敷跡である。そこには、大和の都か
らは后細姫と妃福姫が付いて来られた。ところが、フト二王は伯耆地方で若い美人を見つけて、屋形に迎え熱愛されたと
いう。かえり見られなくなった細姫は、息子オオキビツ彦がまだ住んでいた日野の樂樂福神社の西宮に移り住んだ。”
                            斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)より  

ここの神社では4年に1度、「うわなり(後妻)神事」が行われています。
この神事の起こりの由緒として、以下のように伝わっています。

“・雄略天皇丙辰(476)年、近郷で次々と災難が起こった。
・託宣(神のお告げ)によって、孝霊天皇(紀元前342年~紀元前215年:『古事記』『日本書紀』に記される第7代天皇)
 に仕えた2人の官女「松姫命」と「千代姫命」の霊魂が、本妻である「細姫命」に対して嫉妬していることが原因とわかっ
 た。
・3人の姫の社をつくって祀り、祭日には神事を行ったところ、災難は治まり幸せに生活することが出来る様になった 。”
                                      鳥取県公文書館 ブログ記事 より
神事の様子が、鳥取県公文書館 ブログ記事に詳しく載っていました。

先日 NHK「タイムスクープハンター」の再放送で「うわなり(後妻打ち)」をドラマ化したものをやっていましたが、
中世から江戸時代には、「うわなり(後妻打ち)」というものが一般的に習俗として存在していたようです。


by yuugurekaka | 2015-12-19 08:00 | 出雲・吉備戦争

溝口町と書きましたが、平成の大合併で岸本町と合併して 現在 伯耆町となっています。
溝口町といえば、「鬼」をテーマとした町おこしで有名でした。詳しくは→日本最古の鬼伝説と鬼がいる風景
「おにっ子ランド」の大きな鬼「大牛蟹」が、溝口の町を見下ろしています。

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近くで見ると迫力があります。昔 大鬼が鎮座している「鬼ミュージアム」にお訪れたことがありますが、閉館になって寂しいですね。

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鬼住山(きずみやま)

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兄の「大牛蟹」、弟の「乙牛蟹」を頭領とする鬼の集団がが住み着いていたと言われる山です。



笹苞山(さすとやま)

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孝霊天皇が陣取っていた山です。まず人々から献上された笹団子を3つ置いて鬼を誘い出して、弟の「乙牛蟹」を射殺し
ました。そこから、「笹苞山」の名前があるようです。桃太郎のキビ団子みたいな話です。

しかし、「大牛蟹」は降伏するどころか、さらに激しく暴れまわりました。
孝霊天皇は夢を見ました。「笹を刈って山のようにしなさい。風が吹いて鬼は降参するでしょう。」というお告げでした。
その通りにすると、笹の葉が鬼の体にまとわりついて狼狽しました。そこに火をつけて、孝霊天皇は、鬼との戦いに
勝ったのです・・・というような伝承があるようです。


樂樂福神社鳥居


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笹の葉で葺いた屋根で社殿を造って、鬼退治に成功した孝霊天皇を祀ったのが、樂樂福神社の起こりだそうです。


樂樂福神社拝殿

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ここの境内には、孝霊天皇の陵墓との伝承がある前方後円墳があります。

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溝口の日野川には鬼守橋がかけられています。鬼のブロンズ像が10体四方に鎮座しています。

鬼のブロンズ像
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この橋を渡って鬼ランドの大鬼の方に近づきましたら、神社を発見。
大守神社だそうです。もともとは出雲大社の分霊を祀ったの伝承があり、大己貴命の神社らしいです。
明治以降、玉依姫命、大山祇命が合祀されたようです。
ここら当たりで、吉備軍の侵攻を食い止め、出雲の国を守らんとしていた名残なのかなあと、勝手に想像しました。

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“劣勢となった出雲兵は、永く隠っていた鬼住山から西に敗走した。溝口の先住民を追い払って、そこを占領した吉備軍は、
出雲兵を鬼と呼んだ。
 出雲兵が隠った山はその時から鬼住山と呼ばれた。日野川にできた橋は鬼守橋と呼ばれている。樂樂福神社の近辺では、フ
ト二王と鬼の話が伝承されている。
 次に出雲兵は、西方の要害山(西伯郡南部町天万)に移り、その付近でも防衛した。ここでも激戦があった。
 この溝口・要害山の攻防戦が、約六百年にわたる出雲王国時代での最大の戦いであった。東出雲王国兵士の三分の一が、
このとき戦士したと伝えられる。向王家の分家の人々も多く亡くなったと伝えられる。” 
                             斉木雲州著 「出雲と大和のあけぼの」(大元出版より)

「出雲と大和のあけぼの」にも書かれていましたが、大国主命の死と再生神話は、出雲軍が吉備軍に敗れた話が変化した
ものなんでしょうね。つまりは八十神とは、異母兄弟ではなく吉備軍ということになります。(参考→http://yomiagaeru.exblog.jp/i4/ )
また、島根県境(鳥取や広島)に多く伝承が残るイザナミの陵墓の山は、この時亡くなった出雲兵の墓なのかもしれません。
そう考えると、出雲東部地区の神在祭とは、もしや、イザナミに対する物忌みではなく、
このとき亡くなった出雲兵を弔うということなのかなどと、思ってしまいました。



by yuugurekaka | 2015-12-15 22:10 | 出雲・吉備戦争

鳥取県の日野川流域には、孝霊天皇の鬼退治伝承の神社が多いです。
崇神天皇の出雲征伐のからみで、四道将軍として吉備津彦がでてきますが、神社の伝承から考えると、
崇神天皇時代の話ではなくて、出雲と吉備との戦争は孝霊天皇の時代の話としか思えません。

日南町に着きますと、思いの外、スサノオが天から降っていた船通山(鳥上山)が近い、ということにびっ
くりしました。帰り道自動車で、行ってみますと30分もかかりませんでした。

斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、スサノオの八岐大蛇退治の話は、孝霊天皇
か、吉備津彦の鬼退治(出雲への侵攻)の話が転化したものではないかということですがそうなのかもし
れません。

日野川は、カタカナで書けば「ヒノカワ」です。島根県の斐伊川は、「簸の川」(ヒノカワ)ともいいます。
朴 炳植著『出雲族の声なき絶叫』(新泉社)によれば「斐伊川の語源は『ピイガワ=血の川』という古代韓
国語である。」ということなので、多くの出雲・吉備兵士の血が日野川に流れたのではないのでしょうか。
(参考 坂本屋三郎『古代出雲で何が起こったか』 ―不比等のおそるべき謀略の全容を解明する― 
青山ライフ出版株式会社)


遠くに見えるのが鬼林山(きりんざん)だと思うのですが、(西))樂樂福神社の方から写しました。
孝霊天皇に退治される鬼が陣取っていたと云われています。

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“孝霊天皇が当地に巡幸された折に鬼林山(きりんざん)に蟠踞(ばんきょ)する「牛鬼(ぎゅうき)」の名で恐れら
れる一団が里人を悩ます由を聞し召され、皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。”
                                                              樂樂福神社由緒略記より)
出雲族は無茶苦茶 悪者の鬼として、描かれています。


(東)樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 社号標



  • (東)樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 本殿



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“樂樂福神社の「ささ」は砂鉄をあらわし「ふく」は溶鉱炉への送風をあらわしたものであると伝わっており
「たたら」の文化を今に伝える由緒あるご社名”(樂樂福神社由緒略記より)です。

スサノオは、たたら製鉄の伝えた神と言われていますが、孝霊天皇も鉄の神であるらしい。
ますます、孝霊天皇の鬼退治が、スサノオの八岐大蛇退治のモデルのように思えてきます。


“ヒボコの勢力を追い払ったカツラギの軍勢はこともあろうに、出雲王国領のキビ地方に侵入した。カツラギ王家を親戚
と考えていた出雲王家は、大きな衝撃を受けた。予想もしないことで、その防戦の準備が遅れた”
“吉備王国から、出雲王家に遣いが派遣された。要件は、二つの要求であった。その一つは、イズモの仁多の郡と飯石の
郡を譲ることであった。”

“吉備軍は生山から川に沿って北に進軍し、印賀(日南町)に陣取った。そこは砂鉄の多いところであり、砂鉄の採れる
谷に、宝谷の名をつけた。すぐに製鉄の技術をもつ兵士が、野ダタラで刄金を造ったと伝わる。”
“矢戸(日南町)に達すると、そこの西方(宮内)に本陣を築いた。道を挟んで東にワカタケキビツ彦が住んだ。
 西には、オオキビツ彦が住んだ。後には、その地に社が建てられた。それらの社は日野大社樂樂福大明神と称されたが、
明治になって樂樂福神社と改称された。それが、樂樂福神社東宮と樂樂福神社西宮である。”
(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)より)




(西)
樂樂福神社(ささふくじんじゃ)社号標
                           
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(西)
樂樂福神社随神門

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(西)樂樂福神社へも行ってみましたが、随神門のみで、すでに拝殿も本殿も無くなっていました。
どうやら、平成16年11月3日から、東の樂樂福神社に合祀されたようです。




by yuugurekaka | 2015-12-14 22:17 | 出雲・吉備戦争