多伎神社 拝殿   出雲市多伎町多岐字笠無639

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出雲風土記に記載される神門郡多伎郷の由来となっている
阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやたききひめ)です。

多伎神社 本殿

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“ 所造天下大神の御子、阿陀加夜努志多伎吉比売命が鎮座していらっしゃった。
 だから、多吉(たき)という。(神亀三年に字を多伎と改めた。)”

                         解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版

奈良時代以前より、地名が替わっていないのですね。
漢字の表記は、替わっていますけれども。
大国主命の御息女である「阿陀加夜努志多伎吉比売命」
古事記、日本書記に出てこないので 聞きなれない祭神です。

しかし、出雲風土記(733年)記載の神門郡の神社では、「タキ」の名前が入った神社が

多吉社2社(神祇官社5番目と22番目)
多支枳社1社(神祇官社14番目)
多支社1社(不在神祇官社10番目)
多支々社1社(不在神祇官社11番目)

計5社あります。かなりの勢力です。
大国主命の御息女で、西出雲の最西部ではかなり祀られている神様であることは
間違いありません。
それに、東出雲の源郷ともいうべきところに(阿太加夜神社)祀られているということは
かなり重要な神様であると思います。
そこで、その神様を調べてみました。

ありましたー。
島根半島のちょうど中間どころに位置する内神社(うちじんじゃ)の由来にここの神様の記載が。

内神社 (高野宮)  松江市大垣町746

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祭神は、大国主命の御子ー和加布都努志命と下照姫命です。

奥原碧雲著 島根県秋鹿村誌(大正11年)によれば、

“二、御鎮座 当社は風土記ニ所謂、女嵩野山ノ山腹二存リテ、天下造ラシ
大国主神ノ御子、和加布都努志命ノ此山ニテ御狩シ給ヘリシ御由緒二拠リテ鎮座シ給ヘリ。
又、同ジ大神ノ御子高姫命(亦名下照比売 亦名雅国玉神 亦名阿太加夜奴志多岐喜比賣
亦名大倉比売)ハ素ヨリ此山二座シ、神ナルカ故二、同シク當社二祀レルナリ。”


そして、この内神社が鎮座する山を高野山あるいは芦高山と呼び
当神社を高野宮又は芦高宮とも呼ばれるようになったと書いてあります。

内神社 本殿

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阿陀加夜努志多伎吉比売命は下照姫命だったのです。
「たき」は、宗像三女神のうちの母である「タギリ姫」(古事記では多紀理毘売命)の「タキ」だったのですね。
そして、実際は、大国主命の御息女であっても、北九州に住んでいたのではないでしょうか。
(妻問い婚の時代だから、母方に居たと思われます。と、いうか 鎮座する拠点がいくつもあったのでは?)
しかし、名前からは安羅伽耶の女王(→ウィキペディア 伽耶)でもあった時代が
あったのかもしれません。

当時、宗像神族は、朝鮮半島南部をも拠点にしていたのかもしれません。
神功皇后の三韓征伐(→ウィキペディア 三韓征伐)を思い出しますが(史実ではないという説もありますが)
倭人が朝鮮半島南部に住んでいたということは明らかなので
そこの女王が、下照姫命であったとしても不思議な話ではないと思います。

そういえば、下照姫、神功皇后は似ていると、書いておられた作家の人がおられたような気がします。

関 裕二氏著 「天孫降臨の謎」(PHP文庫)によれば
“すでに多くの拙著のなかで、賀夜奈流美命が下照姫と同一であると主張してきた。
それは、『先代旧事本紀』や『出雲国造神賀詞』に示された系譜から割り出される答えであった。
 とするならば、下照姫は伽耶と強い接点をもった女神であったことがわかる。
そして、下照姫が伽耶から逃れて来た比売語曾と混同されていることが、「間違い」ではなく、
根拠のある混同だったのではないかと思えてくるのである。”

※賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)・・・『出雲国造神賀詞』に登場。飛鳥坐神社・加夜奈留美命神社の祭神。
                           →ウィキペディア カヤナルミ

※比売語曾(ひめごそ)・・・新羅の王子とされる天之日矛(あめのひぼこ)が日本の難波に探しにき日本の妻神。

許曽志神社 (こそしじんじゃ)  松江市古曽志町466  

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現在は、猿田毘古命 天宇受売命が祭神ですが、白石 昭臣 著『島根の地名辞典』 (ワンライン発行)によれば
ここの地名は、天之日矛伝承から由来しており逃亡して石になったとされる姫許曾(ひめこそ)伝説の石があるそうです。


東出雲町の阿太加夜神社の祭神は、蘆高明神と言われていましたが、
内神社も芦高宮ですが、この「あし高」というのは、
海女さんが、さかさまになって海に潜る、つまり、足が体より高いという「足高」というところから
由来してないのでしょうか?
なぜなら宗像神は、海人の神様だからです。
それと、神功皇后の別名、息長帯比売命(古事記)も 「息が長い」ということで
これもまた、海女さんの神様だったのではないでしょうか。
by yuugurekaka | 2015-10-22 16:20 | 阿陀加夜努志多伎吉比賣命

阿太加夜神社 (あだかやじんじゃ) 松江市東出雲町出雲郷587

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今は 松江市ですが、合併前は八束郡東出雲町出雲郷。
どうして松江市の近くに東出雲があり、大字が出雲郷なんでしょうか。
「出雲風土記」(733年)に記載されるのは、西の出雲、
出雲郡出雲郷で、今の斐川町富村付近です。

ここの地域がいつから出雲郷になったかわかりませんが
文献の初見は、文永8年(1271)の
杵築大社御三月会(現在の例大祭)の相撲舞の記事で
「出雲郷内九十二丁一反半」とあります。

それと「出雲郷」の呼び方は、「いずもごう」「いずものさと」ではなく
「あだかえ」です。

なぜ「あだかえ」と呼ぶのか、それは出雲風土記(733年)に記載される
「阿太加夜(あだかや)」神社があるからです。

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神社の祭神は、阿太加夜奴志多岐喜比賣命(あだかやぬしたききひめ)です。
ちなみに配祀神は、國之底立命 須佐之男命 淑母陀流命。
江戸時代には、足高明神とよばれており、
『雲陽誌』(1717年)は出雲江の項にみられるの説明の中で、
「此則阿太加夜社なり」として、さらに、
「大穴持命の御子阿陀加夜怒志多伎吉比売命は
神門郡多岐に坐となり、今此里に阿太加夜社勧請なるへし」と
現在の出雲市多伎町の鎮座する多伎神社から勧請したというような説明をしています。

阿太加夜神社 本殿

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神紋は、二重亀甲に有文字紋。
つまりは、出雲国造とつながりのある神社です。

出典 ウィキペディア ホーライエンヤ

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ここの神社は、日本三大船神事の一つ 「ホーライエンヤ」で有名な神社です。 →2009 ホーランエンヤ特集 - しまね観光ナビ
ホーライエンヤは12年に1度開催される松江城の稲荷神社式年神幸祭(式年祭)の祭事です。
城山稲荷神社の御神体を載せた船団が大橋川から意宇川を通って阿太加夜神社に運び往復します。

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「ホーライエンヤ」で船団が行きかう意宇川と支流の須田川です。
中海に面する入り江がすぐ近くです。
入り江のことを「カヤ」「可也」と示す場合も多く
そこから、神社の名前の「加夜」が来ているかもしれません。

ここら一帯の地域は、縄文時代より集落があり
「阿太加夜神社境内遺跡」(弥生時代)、春日遺跡(縄文時代)
などの遺跡があります。
いわゆる出雲国府があった地域に連なっている意宇平野の
開拓は5世紀頃であったと言われるので
それよりもはるか昔の「意宇の原郷」ともいうべき地域だったのかと想像します。

面足山(おもたるやま )万葉公園

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ここの神社の杜は、「意宇郡」の名前の由来になった
「意宇の杜」の比定地でもあります。→出雲神話とゆかりの地 意宇の杜
 
なぜ、面足山というのか初めわかりませんでしたが、
配祀神の淑母陀流命 は、別名 面足尊(おもだるのみこと)と書くんですね。
しかし、配祀神がスサノオノミコトを除くと、イザナギ・イザナミより古い
神世7代の一代目と六代目です。
六代目の淑母陀流命(男神)と阿夜訶志古泥神(阿志古泥命)(女神)の名前を
組み合わせると 主祭神の阿太加夜と名前が似ていそうな気が・・・。

ここの意宇川を少し登っていった所に出雲の国府跡があります。→ウィキペディア 出雲国府跡
律令国家になってからの、出雲国の中心地ですので
そこから、中世期に「出雲郷」と呼ぶようになったのではないかとする説が多いのです。
しかし、律令国家よりも前にここの辺りが、宍道湖~大橋川でつながる西出雲とつながる
海上交通の玄関口みたいなものではなかったのかなあ などと思いました。

しかし、祭神の阿太加夜奴志多岐喜比賣命は、どんな神様でしょう。
古代朝鮮半島の南部の一国 安羅伽耶と関係があるのでしょうか? →ウィキペディア 伽耶

続く
by yuugurekaka | 2015-10-12 10:35 | 阿陀加夜努志多伎吉比賣命