出雲風土記(733年)には、佐太大神の誕神話が記されています。


加賀神崎かかのかんざきいわやがある。高さは一十丈ほど、周りは五百二歩ほどである。東と西

と北とに貫通している。


[いわゆる佐太さだの大神おおかみがお生まれになった所である。お産まれになろうとするときに、

弓矢がなくなった。

そのとき御母である神魂かみむすひ命の御子、枳佐きさ加比かひ命(きさかひめ)が祈願なさった

ことには、「わたしの御子が麻須ます羅神らかみの御子でいらっしゃるならば、なくなった

弓矢よ出て来なさい。」と祈願なさった。


そのとき、角の弓矢が水のまにまに流れ出た。その時弓を取っておっしゃったこ

とには、「これはあの弓矢ではない。」とおっしゃって投げ捨てられた。また金

の弓矢が流れ出て来た。そこで待ち受けてお取りになり、「暗い窟である。」と

おっしゃって、射通しなさった。


そこで御母の支佐加比売命の杜がここに鎮座していらっしゃる。今の人はこの窟

のあたりを通る時は、必ず大声をとどろかせて行く。もし密かに行こうとすると、

神が現われて突風が起こり、行く船は必ず転覆するのである。] ”


       (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)



加賀の潜戸から遠くに見える的島


潜戸を射通した金の矢は、勢いのあまりその先の沖ノ島まで射通し穴があいたという。

成長した猿田彦命が、この穴を的に弓の稽古をして故、「的島」と呼ばれるようになったそうだ。


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マスラ神の黄金の矢が、暗い窟屋を、射通し、加賀の潜戸が輝くように穴が開けたとの神話ですが、

三輪山の大物主の丹塗矢型の神婚神話を思い出します。(ホトタタライススキヒメ誕生神話)大物

主の赤く塗られた矢と同じように、マスラ神の黄金の矢は、マスラ神の〝男〟そのものでしょう。

そういう交合や性器そのものが、信仰の対象だった時代から、風土記の時代には、すこし隠喩や具

象化されているように思います。

また、〝黄金の矢〟からもうひとつ頭に浮かぶのは、佐太神社や出雲大社で奉納されるセグロウミ

ヘビのことです。この海蛇は、背中は黒いけれど、腹が黄色で、海を照らして泳いでいるように見

えるそうです。

たいへんな猛毒を持ち、恐ろしい海蛇ですが、南洋から対馬海流に乗って、はるばる島根半島に漂

着してきます。


海を照らして島根半島にやってくる龍蛇様 セグロウミヘビ 

                                  出典 ウィキペディア セグロウミヘビ 
  



このマスラ神ですが、益荒男(ますらお)の益荒(ますら)、立派な男神という一般的な神名でど

ういう神なのかよくわかりません。また、一説には、

猿(古語でましら)ということから、猿田彦命は猿と関係があるという誤解につながったのだ

とか…、いろいろな説がありよくわかりません。

それに、この潜戸(くけど)という言葉尻を考えると、久那土(くなど)と名前が似ていて、元々

性的な結合を信仰する縄文時代の信仰の場所だったのかもしれません。


谷川健一氏は、『黒潮の民俗学』(筑摩書房)の中で、加賀の潜戸のことを述べられています


“加賀の潜戸をつらぬく黄金の矢とは、的島の東から射しこむ太陽の光線に他ならないことを、理

解した。黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞窟に矢をはなつ、とは太陽神と、それをまつる巫女の交

合の儀式を意味するのである。


そうした伝承をもとにした祭式がおそらくここに生まれた。それには、加賀の潜戸と的島の二つの

洞窟の穴が東西に一直線に並んで見透かされるという自然の舞台を必要としたのに違いない。

それは私が沖縄で見た『太陽の洞窟』のひとつにほかならなかった。


かつて、沖縄では、『太陽(てだ)(あな』の終わりの日に洞窟内の鍾乳石(石筍)に向かって自分の下腹部

をこすりつけ、それで神との交合の儀式をおこなったというが、それは太陽神の子を産むための儀

礼にほかならなかった。こうして誕生した太陽神の子は、東にあるその洞窟から登って、西の洞窟

に沈むと考えられたのある。”


加賀の潜戸の中から見える的島   中から見ると小さく見える

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by yuugurekaka | 2016-07-16 15:37 | 出雲風土記

新潜戸

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現在、潜戸で誕生した神様は、「猿田彦命」とされていまして、いろいろなパンフレットや説明板

には佐太大神=猿田彦命と説明されています。

しかし、それはあくまで明治以降からだと思われます。


出雲風土記(733年)に書かれる加賀の潜戸は、誕生する神は、佐太大神であり、生んだ母神は神

魂命の子ー支佐加比売命となっています。

だから、「猿田彦命」とはどこにも書かれていません。


ともかくも奈良時代は、母神ー支佐加比売命、誕生神ー佐太大神あったものが、中世以降(どこが

始まりは正確にわかりませんが)には母神ーイザナミのミコト、誕生神ー天照大神、佐太大神ーイ

ザナギノミコト・イザナミノミコトになった模様です。


それも、江戸時代まで続き、明治の国家による神道の再編の中で、現在の支佐加比売命・猿田彦命

に変わったもののようです。


『潜戸縁起』

加賀大津の代官家(よこや)に『潜戸縁起』という本が3冊あるそうです。そのうちの一冊は、

代がわかりませんが、一冊は宝暦三年(1753年)八月吉日金津真治とあり、もう一冊は宝暦九

年十二月初五日之写 金津八坡と記してあるそうです。

宝暦というのは、江戸幕府第9代将軍徳川 家重の時代です。


なお『潜戸縁起』のことが、雲陽誌(1717年)にも書かれているので、『潜戸縁起』の原本そ

のものはかなり古く書かれていたものと思われます。


その内容ですが、

“伊弉諾尊と伊弉冉尊は、淡路島に天下られてから、一万二千年の間、陰陽のことは、知られなか

ったが、あるとき、川すずめの振舞を見てやっとわかられ、和合されて、十か月目に、お産のひも

を解かれ、そこを潜戸と名付けられた。お生まれになったのが、天照大神で、幼名は、宇宝童子どうじ

その後、すめらみことと名付けられ、のちに天照大神と申し上げるようになった、と記されています。”


“天照大神がお生まれになったとき、イザナキは、加賀よしよしと言われ、お二方とも加賀よろびよろこばれた。この

地を加賀かかと名付けられたのは、こんなめでたい意味があり、赤ん坊が生まれると今でも、よろこび

というのは、これからはじまったのだ。と、そして、母のことを、かか、というのもこれがもとだ、

と記されています。” 

                 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)より

 
新潜戸の鳥居
           
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元々の『潜戸縁起』が、いつの時代かはっきりしませんが、それに先立つ(?)佐陀大社(現在の

佐太神社)の『佐陀大社縁起』(明応四年)にも、『潜戸縁起』と同じような内容が記されていま

す。明応四年は、1495年で室町時代です。


『佐陀大社縁起』

抑南瞻部州大日本国出雲州嶋根郡佐陀大明神者、即天地開闢曩祖、陰陽最初元神、
伊弉諾・伊弉冊尊也

そもそも、南贍部州(なんせんぶしゅう)の大日本国の出雲国島根郡の佐陀太明神とは、 すなわち、

天地開闢の祖である、陰・陽の最初の神である伊弉諾・伊弉冊の尊です。


一 伊弉冊者為伊弉諾尊妃。妃有妊、別居於加賀潜戸。 於是天照太神誕生。 是故
彼岩窟中有御乳房形作石。 于今其露滴不断故海中草依受此乳味潤其味皆甘矣。

伊弉冊は伊弉諾尊のお妃となり、妊娠されました。「加賀の潜戸」に別に住まわれました。 この

場所で天照大神が誕生しました。あの岩窟の中には乳房の形をした石があるそうです。

今も、その露の滴は途切れていないので、海草はこの乳味の潤を享受し、皆甘いのです。 

一 加賀者伊弉冊尊棲潜戸而未出時天下暗、出潜戸時天下忽明。于時伊弉諾言赫々、
是故其地名加賀也。

『加賀』は、伊弉冊尊が潜戸にお棲みになり、外にお出にならない時には、天下は暗かったが、

潜戸をお出になると、天下はたちまち明るくなりました。

その時、伊弉諾尊が「赫々(かくかく)たり」(光り輝くさま)と言われました。このため、其

の地を「加賀」と名付けられたのです。



神社の祭神でも長い歴史の中で、神道の変化に伴い、すり替わったりするものですが、加賀の潜

戸の祭神も変わっていたのです。


             参考文献 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)


by yuugurekaka | 2016-07-10 14:20 | 出雲風土記

旧潜戸

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旧潜戸(きゅうくけど)こと古潜戸(ふるのくけど)にまず観光船は着きました。

旧潜戸には、「賽の磧」(さいのかわら)がありまして、「仏」の潜戸とも言われています。

船着き場に着きました――。


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まずは、水子のお地蔵さまに拝みました。

水子地蔵  

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造られたトンネルの中を通って、賽の磧へ向かいます。


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外から見えた大きな洞門を内側から見ると、こうなっていました。

昔はここが船着き場だったようです。



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賽の磧(さいのかわら)

幼くして亡くなった子供の霊が集まるところで、親よりも先だって亡くなった子どもたちが親不孝

の報いで、来る日も来る日もここで石積みをして塔を作ります。そして、せっかく石塔ができあが

ると大きな鬼が出てきて塔を無茶苦茶にこわしてしまいます。子どもたちは、泣きながら、また一

から石を積むという続きます。

果てのない永遠の苦行に、地蔵菩薩が現われて、子どもたちが救われるという話があります。


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地蔵菩薩というと仏経と深い関係があるように思われるのですが、民間信仰で、仏教の地蔵信仰と

民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説だそうです

 ウィキペディア 三途川


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ここの賽の河原の説明版がありました。

海部人族といえば、宗像氏でしょうか。


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ここで生み育てたとありますが、

こうして賽のかわらがあるところを見ると、猪の目洞窟のように、そもそもお墓があった所ではな

いのだろうかと思いました。洞窟というのは、出雲風土記の宇賀郷にある「黄泉の穴」のように黄

泉の世界につながっているところだし、「賽の」というからには、元々はお地蔵さんではなくて、

死の世界(黄泉の国)と生の世界の境界神としての「賽の神」だったのではないのでしょうか。


江戸時代まで神仏習合の時代でした。そもそもが、賽の神、道祖神自体が、神道のなかであえて体

系づけられているわけでもないですし、神道の神様そのものが「権現さん」と言われ、仏様の仮の

姿と言われていた時代が長いのです。

仏の潜戸といいますが、もともとは神仏習合したところだったのではないかしら。


昔は「古(ふる)の潜戸」と呼ばれたようですが、もしかしたら、仏教とは最も遠い物部氏の「布

留」(ふる)だったのではないかしら。何の証明もできませんが…。

「布瑠の言(ふるのこと)」とは、「死者蘇生の言霊」といわれます。幼くして亡くなった子供で

すが、できれば生き返ってほしいと願っても不思議はありません。



それから、加賀の潜戸は、遠く離れた松江市の比津神社の西側にある瀑戸(たきど)の池」(滝戸池)とつ

ながっていて、潜戸から大鯛がおよいでくることがあるとの言い伝えがあります。

「音に聞こえし 瀑戸の池は 加賀の潜戸の潮がさす」という俗謡が残っているそうです。


滝戸池

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by yuugurekaka | 2016-07-08 07:00 | 出雲風土記

松江市島根町の日本海に面した潜戸鼻には、「加賀の潜戸」(かかのくけど)という景勝地があり

ます。ウィキペディア 加賀の潜戸  

その潜戸には、出雲風土記(733年)に載っている、佐太大神(さだおおかみ)の誕生の地である

新潜戸と賽の河原がある旧潜戸の二つがあります。


行った時には気づきませんでしたが、地図で見ると、新潜戸は、なんだか象の口みたいなところに

ありますね。


新潜戸と旧潜戸の位置


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出雲風土記に載っているような潜戸なのに、「新」潜戸とはこれいかに?

旧潜戸が「仏の潜戸」とも言われており、新潜戸は神が誕生したので「神潜戸」で、音読みの「シ

ン」で神→新になったという語呂合わせのような気もしますが、さて、どうなのでしょう。


寛政4年(1792年)の「島根(しまね)郡西組(ごおり     )(よろず)差出帳(さしだしちょう」には、「潜戸一か所、古潜戸ふるくけど一か所」と

記載があるところを見ると、新潜戸は「潜戸」、旧潜戸は元々は、「古潜戸」と言われていたようで、

それが「古→旧」に転化したのではないかと思えます。


また、旧潜戸は、「ふうくけど」とも呼ばれていたそうなので、「ふう」とか「ふる」に当て字で

「古」が当てられたんではないか?などとも思ったりします。


ところで、新潜戸と旧潜戸の違いは、構造的にはどういう違いがあるのでしょうか。


コトバンクの地名辞典による説明では 

“ 島根県の島根半島北岸、島根町潜戸鼻にある景勝海岸。海食を受けた洞門の新潜戸と洞窟(どう

くつ)の旧潜戸からなる。 国指定の名勝・天然記念物。大山隠岐(だいせんおき)国立公園に属し、遊

覧船で探訪できる。加賀(かか)の潜戸ともいう。”


どちらも海食を受けた洞窟なのですが、新潜戸は、海中の向こう側は明るく見える「洞門」であるの

に対して、旧潜戸は奥が見えない黄泉の世界の境界線のような「洞窟」なのです。


加賀の潜戸  新潜戸

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出雲風土記では、このように書かれています。

“郡家の北西二十四里一百六十歩の所にある。佐太大神のお生まれになった所であ
る。御母である神魂命(かみむすび)の御子、支佐加比売命(きさかひめ)が「暗
い岩穴である。」とおっしゃって、金の弓をもって射られた時に、光りかがやいた。
【原文…光加加明きき】から、加加という。〔神亀三年に字を加賀(かか)と改
 めた。〕” 
        (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


加賀の潜戸  旧潜戸(きゅうくけど)

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参考文献  『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)

続く     

by yuugurekaka | 2016-07-04 10:21 | 出雲風土記

“松江の宍道湖はアイヌが命名したシシヂ湖の訛りである。シシヂとは大きい陰門(shish拡
がれる、chi 陰門)。アイヌ語chitの訛りが「膣」で、chi部(恥部)の恥は漢字に
表現したときの当て字である。chiは陰茎をも意味したからである。” 
                   (北村博則著 『歯・口・舌のはなし』 文芸社) 

まず こういう説にも一理あると思うのは、漢字が中国から入ってきたのはかなり後のことであり
奈良時代においては、前からある日本語に、読みが同じ漢字を当てている場合が多いからです。
たとえば神社名や神名です。熊野大社の「熊野」は、動物の熊とは全く関係がないし、猿田彦命も
猿とは本来関係がないことなどです。

縄文時代は、縄文言語なるものがあって、現在の日本語とは違い、その駆逐された縄文言語がアイ
ヌ語に残存しているという説もあるからです。
縄文時代の後期にインドより、ドラヴィダ系の民族が日本に渡来して、ドラヴィダ系の言語(タミ
ル語)が入り、弥生時代の言語として、日本語の起源となったとする大野晋氏の説(かなり異説と
して否定されたらしい)もありますから、奈良時代よりも昔は、また違う言葉をつかって、地名を
つけていたのではないかと思うのです。

つまりは、縄文時代や弥生時代に使われていた地名が、漢字を当てることによって、別の意味に転
化した例は多いのではないかと思うわけです。
そのように考えていくと、「ししぢ」は、「宍道」の漢字が当てられて、本来の意味が変わったの
ではないかと思いが浮かぶのです。

宍道町 宍像岩 (ししかたいわ)
猪の岩というよりは、古代のホト岩信仰の祭祀場に見えます。


ただ、いわゆる言語学の本というのは、なにか語呂合わせのようにも感じますし、膨大な言語の理
解がない私は、本当かしらとつい思ってしまいがちです。
なにか他の著者でそういうような主張をしていないか、様々な本を探してみましたが、ありません。

『アイヌ語古語辞典(平山裕人著 明石書店 2013年12月20日発行)で調べてみました。

アイヌ語自体が、たぶん現代のものと古代のものとは変化しているのではないかと思いました。
中世の文献に残っている言葉だけ載っていました。

それで 「陰門」を調べると 
陰門
ボッキ(ホッキの項)『蝦夷拾遺』(1786年)
ボキ 『蝦夷方言藻汐草』(1792年)

あれれ ありません。
しかし、
チー が、 陰茎 『蝦夷方言藻汐草』(1792年)とありました。

ついでに陰茎で調べると、
ヌキで「陰」、タケリ『蝦夷拾遺』です。
またノキが 陰嚢 『蝦夷方言藻汐草』と書いてありました。
もしかしたら、野城大神の「ノキ」は、これではないかしら。

さて、この宍道郷が、なぜ「ししぢ」と呼ばれるに至ったのでしょうか。
グーグルアースを角度を変えて、加茂岩倉遺跡のある加茂町につながる宍道町の画像です。
この谷あいに国道54号線が走っています。この谷から来ているのでしょうか?

谷には、日本だけではなく、ヨーロッパでも、古代から女性の体が名づけられます。
アイヌ語と言わずとも、谷地(やち)は、明治時代の隠語として残っていたようです。

宍道町 国道54号線を中心に グーグルマップの画像

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宍道町の宍像岩(女夫岩)から、下に降りていくと溜池があります。
もともとの参道は、溜池の方からだったのだと云われています。

夫婦岩溜池 

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谷戸貞彦著 『幸の神と竜』(大元出版)には、こう書かれています。

“ここの地形を地図で見ると妙だ。甫登岩の西に大きな溜池がある。池の両側に足の形の岡が、甫
登岩のある腰の岡に続いている。腰からさらに、胴体が東に伸びる。
 そして、女神の腹の部分は、妊婦のおなかのように、丸く高くなっている。何という、ことだろ
う。古代人は女体そっくりな地形を、発見し選んだことになる。
 そして、彼女の股の所にピッタリ、甫登岩が鎮座している。これは偶然にしては、巧く出来すぎ
ている。私はこの甫登岩は、古代人たちが佐為神社の信仰の熱意で以って、他の所から引っ張って
きたものと考える。”

女岩遺跡を中心に谷間 グーグルマップの画像 
上が東方、下が西方面です。

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by yuugurekaka | 2016-06-23 20:54 | 出雲風土記

この宍道の由来として、出雲風土記にこう記載されています。


宍道郷(ししぢごう)。松江市宍道町宍道・白石・佐々布一帯の地域

郡家の正西三十七里の所にある。所造天下大神命が、狩りで追いかけなさった猪
の像が、南の山に二つある〔一つは長さ二丈七尺、高さ一丈、周り五丈七尺。一
つは長さ二丈五尺、高さ八尺、周り四丈一尺。〕。猪を追う犬の像〔長さ一丈、
高さ四尺、周り一九尺。〕、その形は、石となっているが、猪と犬以外のなに
ものでもない。今でもなお、存在している。だから、宍道という。
       
       (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


その所造天下大神命(あめのしたつくらししおほかみ)(大国主命の尊称)が狩りで追いかけた
猪の二つの石と犬の石が、石宮神社に今もあるようです。

石宮神社 島根県松江市宍道町白石638

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この宍道の由来として、出雲風土記にこう記載されています。鳥居をくぐって右手に見える大きな石がその猪の石の一つのようです。

鳥居をくぐって右手の猪石

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さて、もう1つの猪石はというと、鳥居をくぐって左手の手前の石が猪石のようです。

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拝殿が石垣のぎりぎりのところに建てられています。
どうやら、ご神体の犬石の位置を変えずに拝殿を作るしかなかったという感じがします。


石宮神社 拝殿

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石宮神社の犬石(ご神体)
ここの神社は、本殿はなく、ご神体が拝殿のうしろにあります。

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猪の石が、存在する出雲風土記記載の「宍道社」の論社は、この石宮神社と、女夫岩のある大森神
社です猪石はこの女夫岩でなかったのかとの考えもあります。
詳しくは→ 出雲の祖霊信仰 クナトの神
地元では、「ししいわ」とも呼ばれているようです。



この猪の道ということから、宍道(ししぢ)となり、それが、転じて「しんじ」となったそうな。
「宍」(しし)で検索すると 
 
宍、肉 - 古語で、食肉のこと。またそのために狩猟の対象となる動物のことで、
とりわけ鹿と猪を指す。 ( ウィキペディア 「シシ」

食肉にするための動物を宍(しし)と言い、鹿と猪を区別するときは、それぞれ「かのしし」「ゐ
のしし」といったのです奈良時代は、家畜ではなく鹿と猪を主に食べたんでしょう。

なんの因果か、女夫岩のすぐそばの南側には、島根中央家畜市場 がありました。
まさか、奈良時代からずっと「食肉」で上書きされているわけではないでしょうが


島根中央家畜市場  松江市宍道町白石1720 

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さらに宍道をあれこれ検索していたら、こういう本にヒット。
“アイヌ人は陰部の名称を地名にしたがる。松江の宍道湖はアイヌが命名したシシヂ湖の訛りであ
る。シシヂとは大きい陰門” (北村博則著 『歯・口・舌のはなし』 文芸社) 
えー!?…でも、そういう可能性もあるのではと思い、図書館に行き「アイヌ語古語辞典」やら
ミル語の本やら あれこれ調べてみます。

by yuugurekaka | 2016-06-12 08:19 | 出雲風土記

島根県の東部に位置するこの宍道湖。

宍道湖(しんじこ)は、日本の湖沼では六番目の大きさです。

流出河川は、中海につながる東側の大橋川、天神川であり、日本海につながる北東岸の佐陀川(1785年開削)。

汽水湖であり、宍道湖から獲れるシジミは、平成27年度漁獲高島根県全国一位(4,006トン)。


奈良時代は、「入り海」と呼ばれていますが、中海も「入り海」です。

また出雲風土記(733年)では、ばくぜんと「入り海」と呼ぶ以外に、

野代川の河口付近を「野代の海」と呼ばれていました。

万葉集でも、中海の意宇川の河口付近を「飫宇(おう)の海」と呼ばれている

ところを見ると、宍道湖・中海というような固有名詞は当時はなかったように思われます。


宍道湖ふれあいパークから宍道町方面  松江市玉湯町445-2


梅雨前の穏やかな宍道湖でした。

湖面がきらきら光り美しかったのですが、それを写真に収めるのは難しい。


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宍道湖ふれあいパークから松江市街方面 

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その入り海にどうして、宍道湖と名づけられたのでしょう。

出雲市と松江市のちょうど中間どころの宍道町(奈良時代は宍道郷)から

この汽水湖の名前が、宍道湖となったわけですが、その理由がわからない。

例えば「松江湖」や、「秋鹿湖」「玉造湖」でも良かったはずです。

奈良時代の表記から考えると、宍道川の河口付近が宍道の海と呼ばれたんでしょうが。


インターネットの検索では何も出てこなかったので、図書館で調べました。

平凡社発行 『島根県の地名』~日本歴史地名体系33巻~によれば


“近世以降宿場町宍道(現宍道町)の沖を宍道の海と呼んでいたのが定着して宍道湖となったという。

 文献上の初見は承応二年(1653年)成立の「懐橘談」上巻。意宇湖・松江湖とも称され、雅称として

 近世末の文人菅茶山が用いた碧雲湖がある。”


と、あります。

そうですかー。宍道郷が海上交通の要所で、宿場町だったのですね。

江戸時代には、松江藩主が領内視察や出雲大社参拝に向かう途中に休憩する場所である

3つの本陣(小豆沢家・木幡家・葉山家)がありました。

現在は木幡家のものが八雲本陣として(国の重要文化財)残されています。

詳しくは→出雲と松江に挟まれた小さな町の宿駅本陣~八雲本陣~ Travel.jp


現在は、観光遊覧船「白鳥号」とシジミ漁船しか見えませんが

当時は、宍道湖はたくさんの船が行き交う湖で、宍道郷は港町・宿場町として栄えていたのです。



宍道湖大橋から 嫁が島・宍道湖 

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夕日が沈む宍道湖 

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by yuugurekaka | 2016-06-10 13:18 | 出雲風土記

出雲風土記(733年)に描かれる世界と

記紀に書かれる世界が違うとよく問題にされます。

そして、出雲風土記に描かれる世界の方が地元の人が書いたもので素朴で

記紀の世界が虚構の世界であるとよく聞かれるのですが、自分にはそうは思えません。


私が出雲風土記と記紀を比べて最初に思うことは、

出雲風土記では、なぜ八束水臣津野命が出雲の祖神がごとく何度も登場してくるのだろうか

ということです。


次に思うことは、事代主命が全く登場しないことです。

また播磨風土記では、オオナムチとコンビで何度も登場するスクナヒコが、

飯石郡多禰(たね)郷に一度しか記載されていないことです。

他にもいろいろ感じることはありますが、ここでは八束水臣津野命について書いてみます。


記紀では、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の祖神となっているのですが、

出雲風土記では素戔嗚尊が登場するものの祖神としての立場は、

八束水臣津野命に奪われています。



意宇杜の比定地 ① 客の森

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まずは総記。出雲国の地名起源について


“出雲と名づけるわけは、八束水臣津野命[やつかみずおみづぬ]がおっしゃった

ことには、「八雲立つ」とおっしゃった。だから、八雲立つ出雲という。” 

      (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


次に出雲国府がある、出雲国造の拠点でもある意宇郡の地名起源について有名な国引神話を述
べた後で、

“「今は国引きを終わった。」とおっしゃられて、意宇杜(おうのもり)に杖
突き立て、「おえ【原文…意恵】」とおっしゃられた。それで、意宇という。
(ここにいう意宇杜は、郡家の東北のほとり、田の中にある小さい丘がそれであ
って、周りが八歩ばかりあり、その上に木が茂っている)”
      
       (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

意宇杜の比定地 ② 面足山  阿太加夜神社の杜です。

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そして、出雲郡杵築郷の地名起源について


“八束水臣津野命[やつかみずおみづぬ]が国引きをなさった後に、所造天下大神[あ

めのしたつくらししおおかみ]の宮をお造り申し上げようとして、諸の神々たちが宮

の場所に集まり築きなさった。だから寸付という。(神亀三年に字を杵築と改めた。)

        

        (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


杵築大社の創建の呼びかける役割となっています。ちなみに楯縫郡で、神魂命が杵築大社の創建を
支援をする話もあります。

意宇杜の比定地 ③ 八幡様  出雲国庁跡地から東方にある。


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さて、この八束水臣津野命ですが、富家伝承 大名持の系図ですが(大名持は、固有名詞ではなく
役職名です。)、6代目で、西部出雲の神門臣家の出身です。

※ aは、向家(富家)、bは、神門臣家

①菅之八耳(a)―②八島士之身(b)―③兄士之身(a)―④布葉之文字巧為

(b)-⑤深渕之水遣花(a)―⑥臣津野(八束水臣津野命)(b)―⑦天之冬衣

(a)―⑧八千矛(大国主命)(b)⑨鳥鳴海(事代主命長男)(a)―⑩国押

富(a)…以下略

                (斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版 185頁より)


東出雲地方に、八束水臣津野命を主祭神として祀る神社が私の記憶ではほとんどないように思いま
す。じゃあ西出雲に多いかというと、思いつく神社は、長浜神社、富神社、国村神社(他にもある
かもしれませんが…)で、そう存在感があるようには思えないのです。

大国主命の祖父神なので、出雲の祖神として確かに間違いはないのですが、あえて「八束水臣津野
命」を出雲風土記に持ってくるのがどうもしっくりしないのです。
いわゆる事代命の系譜の東出雲の神が全く登場しないのと(神魂命の系譜がそうなのかもしれませ
んが?うーん、そういうようにはどうも読み取れないのです。)
なんらかの政治的意図があったとしか自分には思えないのです。
日本書紀成立の720年から733年の間の何か政治的な環境の変化が影響しているのでしょうか。

by yuugurekaka | 2016-05-24 20:38 | 出雲風土記

奥出雲町の景勝地として名高い「鬼の舌震」(おにのしたぶるい)に行ってきました。
「鬼の舌振」は、島根県奥出雲町にある峡谷。斐伊川支流の大馬木川上流に位置するV字谷で、1927年(昭和2年
)4月8日に国の名勝及び天然記念物に指定された。正式指定名称は鬼舌振(おにのしたぶる)。

地名は『出雲風土記』の一文にある「和仁のしたぶる」が転訛したものと”(ウィキぺディア 「鬼の舌震」より)

言われています。


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写真では今一つですが、巨岩が川底に幾重にも連なり、節理(マグマが急速に冷却してできた割れ目)や長い年月の流水に
よって削り取られた不思議な石の造形に神秘的なものを覚えました。
およそ2.4キロの範囲で、不思議な形の巨石がさまざまな造形を楽しませてくれます。
詳しくは→奥出雲観光文化協会公式サイト 奥出雲ごこち

2013年に完成した高さ45m、長さ160mの“舌震❛恋❜”吊り橋



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自分にとってここが一番難所でありました。実際は車いすでも歩行可能なバリアフリー遊歩道の入り口にあり、
安全ですが、私は高いところが大の苦手なので、恐怖を感じました。


橋に迫りくる巨石群


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さて、「鬼の舌震」の名の起こりですが、出雲風土記(733年)には、こう記してあります。
 

“恋山(したいやま)。郡家の正南二十三里のところにある。古老が伝えて言う
には、和爾(わに)が阿井村にいらっしゃる神、玉日女命(たまひめのみこと)
を恋慕って、川を上ってやってきた。そのとき、玉日女が石で川をふさいでしま
われたので、会うことができないまま慕っていた。だから、恋山(したいやま)
という。”
        解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版  

ここに登場する鰐ですが、『解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]』には

“意宇郡安来郷条にも登場するシュモクザメで、現在でも中国地方山間部におい
て、ワニザメとして食されている。このような神話が成立する際の歴史的背景
として、シュモクザメが古代においても貴重な食物として出雲山間部で消費さ
れていた可能性を想定できよう。”

と解説されており、現在 ワニは、鮫であるということが半ば通説となっています。

玉日女社

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しかしながら、実は、戦前から和邇は、鰐か鮫かという論争が絶えず、出雲風土記にも鮫と鰐が別々に記載されている
ことなどから、和邇は鰐(ワニ)で鮫ではないという説も、いまだ有力です。
かの、本居宣長は、『古事記伝』で、平安時代中期の辞書『和名類聚抄(和名抄)』(わみょうるいじゅしょう)を引用して
ワニ説をとっていたそうです。詳しくは “ウィキペディア因幡の白兎”の後半に。

姫様にワニが通うという話が、日本書紀にもあります。               
事代主神が八尋鰐と化して、玉櫛媛(たまくしひめ)のもとに通い、結ばれて
生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)が神武天皇の皇后になっ
たという話です。
ウィキペディア 玉櫛媛        
日本書紀では、出雲の神様は、蛇や和邇に化身して上手に妻問うのに、出雲風土記の和邇の神様はなんと哀しい存在なのでしょうか。


子天狗岩

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鬼の落涙岩

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by yuugurekaka | 2015-12-10 08:00 | 出雲風土記

出雲大社本殿と筑紫社

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出雲大社は背後に 八雲山、西側に鶴山、東に亀山があります。
古くは古事記に、出雲大社と思われる大国主命の宮の以下の記述。

…前略… おのれが葦原の中つ国を統べ治めてオホクニヌシとなり、またウツクシクニタマとなりて、そこにいるわが娘スセリビメを正妻として、宇迦(うか)の山のふもとに、
土深く掘りさげて底の磐根に届くまで宮柱を府と太々と突き立て、高天の原に届くまでに屋の上のヒギを高々と聳やかして住まうのだ、この奴め。

                   ~三浦佑之 訳・注釈 『口語訳 古事記』(文春文庫)~

この宇迦(うか)の山の麓ということなんですが、現在の八雲山を宇迦の山というのか
宇賀郷から連なる現在の北山山系を宇迦の山というのか
はっきりとしたことはわかりませんが、宇賀郷の「ウカ」と同義語ではないのかと思ったりします。

神戸川(かんどがわ)から見える北山山系の弥山

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「宇迦」と言えば、だれしも宇迦之御魂神(→ウィキペディア ウカノミタマ)を思い浮かべると思います。
宇迦之御魂神というと、『日本書紀』では倉稲魂命・・・そうなるとお稲荷さんとだんだん話がひろがっていきます。

ちなみに初代出雲国造 氏祖命(天穂日命より12代)の別名は、鵜濡渟、宇迦都久怒(ウカツクヌ)と言います。
ウカツクヌの「ウカ」は、「受け継ぐ」・・・出雲大社の祭祀を受け継ぐという意味らしいのですが
他にも意味があるのではないか と穿って考えたりもします。

例えば『出雲風土記』の加賀郷の「加加(カカ)」の由来として「輝き」のことばが意味としてでてくるのですが
輝きのもととなる黄金の矢とは、セグロウミヘビの話のようにしか思えません。
「カカ」は、「輝き」という意味だけではなく、「蛇」の同義語のようです。

               出雲地方で龍蛇様として信仰される セグロウミヘビ 
                           出典 ウィキペディア セグロウミヘビ   
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それと同じように「ウカ」というのは、「海蛇」を表すものらしいです。
そのことが顕著に書かれている書物がないのか調べました。

民俗学者 谷川健一氏の『蛇: 不死と再生の民俗』の本の中にありました!

ところで、『出雲風土記』によると、出雲郡に宇賀の郷がある。ここは「御崎」(日御碕)の海子(あま)の活躍したところで、海子と海蛇(ウカ)との関係が浮かび上がる。出雲の古社は、杵築大社、佐太神社、日御碕神社、美保神社のすべてが、海蛇を神とあがめ、「龍蛇さま」と呼んで祀っており、海蛇と神とのつながりがきわめてふかい。
宇賀神といえば、福を授ける仏教の神の弁天のことで、そのかぶっている宝冠のなかに白い蛇がいるところから、白蛇を神として祀ったものを指すが、音が似ているところから、食物の神である「ウカの御魂」の異称であると辞書には説明されている。 私は、仏教の宇賀神とウカの御魂の習合したものではなく、海蛇のウカ(またはウガ)と食物の神のウカ(またはウガ)の合体したものが、宇賀神の正体であると推考”  

           ~ 谷川健一著 『蛇: 不死と再生の民俗』(冨山房インターナショナル)~

宇賀神といえば、弁天様の頭の上の神様です。老翁や女性が頭となった蛇神です。

                        宇賀神 出典 ウィキペディア 宇賀神
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宇賀神というのは、出雲郡宇賀郷を由来するのではないかと思いました。
そして、その宇賀神を頭に載せている弁才天を考えると、
出雲大社から西に向かう「稲佐の浜」の弁天島が思い浮かびます。

稲佐の浜の弁天島

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この弁天島は、古くは「沖御前」といい、 今のように陸続きではなく沖にあったと言われています。
昔は「弁才天」が 祀られていましたが、明治以降は豊玉毘古命(とよたまひこのみこと) が祀られています。
弁才天と言えば、海上神である市杵嶋姫命が習合したものとされています。(→ウィキペディア 弁才天
これまた、宗像三女神です。

稲佐の浜で行われる神迎えの神事ですが
龍蛇神(セグロウミヘビ)が神の先導役を荷うようです。
もしかしたら、宇迦之御魂=海蛇=カミムスビの神の使いだったのではないか?

by yuugurekaka | 2015-10-06 09:00 | 出雲風土記