ここの仁摩町には、御門(みかど)という地名があったようである。(今もあるのかもしれないが)

その近くにはスサノオ一族の上陸地の伝承のある韓島があり、大国主命もまたその島と高麗と往来

したとの伝承があるようである。


もしや、その御門(みかど)とは、雲南市三刀屋町の「御門」の類の、つまり大国主命の王宮があ

ったのでは?などと一瞬考えがが浮かんだ。

そして、そこを拠点として、大国主命は、阿多伽耶主のところを行き来したのかなと妄想を膨らま

した。


しかし、ここは、よく考えてみれば、国分寺霹靂(びゃくりゃく)神社の元宮があったところで、

そもそも、石見国の国分寺があったという印としての「御門」なんだよなと思い直してみた。

石見国の国分寺は、浜田市国分町の金蔵寺境内だが、その前に仁摩町に国分寺があったようでそれ

が浜田市に移転したようである。


さて、仁摩町には現在も大国という地名があり、奈良時代にはすでに大国郷があった。そこの神社

はどこなのだろうと探してみるに八千矛山大国主神社であることがわかったが、インターネットで

いくら探しても出てこない、観光の名所にも載っておらず、地元の人に聞いてなんとかわかった。

ここのバス停の手前を左手に(東に)行くと、すぐそこは八千矛山だった。


     バス停


     

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かなり急な坂を登っていくと、お宮に着くことができた


     八千矛山大国主神社  島根県大田市仁摩町大国1137番地1

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大きな岩が境内にいくつもあります。磐座信仰の山なのかな。



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    八千矛山大国主神社 拝殿


                      

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     八千矛山大国主神社 本殿


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大国郷の八千矛山大国主神社なのに、どうして、ここの場所がインターネットの地図にも載ってい
ないのか。その理由は、神社の歴史にありそうだ。社伝によると

“八千矛山に御鎮座大国主神とて、出雲の国より高麗に渡り給い、帰途当村のつづき邇摩の海、唐島に着き給

い、此里に来り給い、大樹の松に雨露を凌ぎの由にて、其地を今に笠松と申伝え、蒼生尊崇奉りて、仮に殿を

奉遷し候処となす。それより八千矛山に宮居を定め給うによって大国と申す由、大国主神御鎮座の所を氏宮と

申して、往古より此の神を氏神と尊仰奉り候、其後足利家より八幡宮を氏神に祭る可しと御布令これ有候云々”


かなり古い神社で 昔の大国村の氏神さんだったものが、室町時代?には氏神が石見八幡宮にすり

替わってしまったようである。

なんとも悲しい感じがするが、長い歴史の中で、神社の祭神が変わったり、政治権力の影響を受け、

栄枯盛衰はつきものである。


実際、江戸時代の終わりには、小さな祠が森の中にひっそりとあったようである。


“近世に到っては小祠僅かに森中にかくれて久しく荒廃にまかせていた。文久の頃、津和野藩士野之口隆正が

此地に来たって深くこれを憂い、広く宣伝して大いに復興を計った。大国村安井好尚、これに感激して境内を

拡張、社殿の改築、村社列格等のことを主唱し、これにより諸般の問題が達成されたのは明治八年の頃であっ

た。”

                (昭和8年島根県教育会原編 小林俊二 修訂編纂「石見六郡社寺誌」)


つまり、八千矛山大国主神社は古くて新しい神社というわけである。神社再建の契機となった野々

口隆正は、この神跡に感動して、姓を大国と改めた程であったという。その時、72歳だった。

→ ウィキペディア 大国隆正


その再建されたお宮は、この場所ではなく、ここから山をさらに登っったところにある、御籠り岩

こもりいわ)のところだった。旧境内は風害にかかりやすく、参詣者の危険、祭儀執行困難等

り、明治38年3月10日に現座地に移されたようだ。


境内の右手に、石段があり案内の木柱が立っていた。



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本殿の上をだいぶ登ったが、いまだ御籠り岩に着かない。

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かなり山道を登ったが、いまだ旧境内地に着かない。ここを踏み外したら、確かに危険だ。

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平坦な道になった。どうやら、御籠り岩に着いたようである。


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御籠り岩は、この巨岩かと思っていたが、この巨岩の下の巨岩が積み重なった空洞というか、

岩窟だった。


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     御籠り岩~みこもり穴~


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中をのぞき込んだら、岩を削った石段が見えた。降りてみようかなと思ったが、戻ってこれな

い気がした。そういうことになったら、人様にご迷惑だろうと思い、降りるのは止めた。


御籠り岩の前に、大国隆正の歌が刻まれていた。


この山に まつりたたえん 行くすえを

萬代とやいわむ 八千矛の宮


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全国に大穴持命と少名彦命の巡行伝説として、志都乃石室(しづのいわや)伝承地があるが、巡行
の仮の住まいとして天然の岩窟が使われたのではないかというのが通説であるが、この二神が岩
に閉じ込められてお隠れになってしまったという悲しみからも、伝説となったのだろうと思い、祈
った。

参考文献      昭和47年 仁摩町役場発行 「仁摩町誌」
          昭和8年 島根県教育会原編 小林俊二 修訂編纂「石見六郡社寺誌」


by yuugurekaka | 2016-03-11 01:11 | 大国主命の国づくり

鳥取県米子市彦名町にある粟島神社のある小山は
昔は 中海にある小島だった。
江戸時代宝暦期(1751年~1763年)に粟島周辺が干拓され
「彦名干拓地」一帯と地続きになったようである。 

粟島神社の杜  右手に見えるのは、大山(だいせん)。

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『伯耆国風土記』(733年)には、スクナビコナ(少彦名命)がこの地で粟を蒔いて、
実ってはじけた粟の穂に乗って常世(とこよ)の国へ渡り、
そのために粟島と呼ばれている、と書かれているそうだ。

この常世であるが、あの世、つまり、黄泉の国と同一視されているが
古神道における 現世(うつしよ)の対立することば、
永久に変わらぬ神域で、
死後の世界と言うよりは、現実の世界とは異なる次元の世界のようである。
また民俗学者 折口信夫氏によれば 海のかなたの理想郷であるらしい。

粟島神社の鳥居をくぐり、杜の右手に回ると、大岩神祠がある。
「難病苦難の守り神 お岩さん」の旗が立っていた。
この「お岩さん」の祭神のスクナビコナであるが
医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造の神様であるようだ。
ウィキペディア スクナビコナ
それを知っておれば、真っ先に参拝していたのに
などと思った。

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古事記では大国主命が美保の岬で出会ったと書かれているが、ここでは
大国主命が大岩に立っている時にスクナビコナが空豆の船でやってきて
上陸したという伝承があるようだ。

カミムスビの指の間からこぼれ落ちるほどの一寸法師のような
スクナビコナであるが、天界から落ちて
(古事記ではカミムスビの御子となっているが
 日本書記ではタカミムスビの御子となっている)
大国主命の国造りのパートナーになっていくわけであるが
高度な文化を持った渡来人であったのかもしれない。

またあるいは、親子で
共に国づくりに励んでいた象徴なのかもしれない。
そういうことを考えれば スクナビコナというのは
常世の大国主命の分身だったという説も成り立つ。

三輪山の神さんは大物主命であるが
そもそもスクナビコナを三輪山に祀る話が、古事記に載っていることを考えると、
大物主命は、大国主命と同神と云われているが
そうではなくて大国主命の息子であったのではないか…。
神様なので 親子とかという次元ではなくて
分身で 一心同体ということだったのではなかろうか。

大岩祠(おおいわし)
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さらに小山を奥に歩いていくと 
万葉集の歌に二神がいると歌われた「志都(しず)の岩屋」とされる
「静の岩屋」がある。

さらに 漁師が獲った人魚の肉を食べて
八百歳まで この洞窟で生きたと云われる
八百比丘尼(やおびくに)ー八百姫の言伝えもある。

八百姫宮

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さて この長い石段を登って行くと境内があるのだが
粟島神社は、元々は、山麓にあったようだ。
山頂にあった神社が、山麓に遷ったという話はよく聞くが
ここは 逆のようだ。

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粟島神社 本殿 境内には 椎の実が一面に落ちていた。

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本殿の裏手には、水鳥公園が見える。
眺めがいい。
遠くの海から スクナビコナがガガイモの実の船で(→ウィキペディア ガガイモ
やってきそうだ。

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by yuugurekaka | 2014-11-22 01:18 | 大国主命の国づくり