■ 4弦?の琴 

4突起の琴 一式(弥生時代 中期後葉)

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青谷上寺地遺跡展示館にはいくつかの弥生時代の琴が展示してあった。下の写真のように〝ほぼ完全
な形
で出土〟〝天板には日・月・星を表わすように共鳴の孔が開けられている〟と書かれていた。
突起が4つある。一つの突起に一本の弦を括り付けると仮定すると4弦の琴であろうか。

家に帰って、インターネットで調べたところ、4突起=4弦とは言えないようで様々な説があるそう
だ。たとえば、一
つの突起に、2本の糸を回すこともできるし、そうなると8弦の琴となる。また、
突起ではなく、凹
部の凹んだところに弦を通したと仮定すると、3弦の琴になる。

琴そのものの起源はかなり古いようで、縄文時代の琴が青森県の八戸で、3,000年前の琴が出土してい
る。その使い方がYOUTUBEで投稿されていたが、2突起に各々弦を括り付けて2弦あるいは、1突起に2
弦の糸で4弦の琴とも想定される。

どんな糸を張ったのだろう。中国の古琴のように、絹糸だったのだろうか。
絹糸は、九州の
吉野ヶ里遺跡の絹織物の出土から、弥生時代には既にあったのである。

この箱型の琴、共鳴槽付きと云われるそうだが、ギターの箱のように音量の増幅を目的したと思える。
弦を突起に括り付けたとすると、その弦を集弦
孔に集めて(星形あるいは月型のところの穴?)、糸
引っ張ったようだ。

このままでは天板と弦がくっついているのでよく鳴らないわけなので、弦を浮かせるためのブリッジ
が必要となる。( 現代の筝でいえば、雲角・《
》角 )
それと、古墳時代の出土した琴には、琴柱(ことじ)という弦を支え音の高低を調節するものも出土
しているが、弥生時代にはどのように調律していたのだろうか

ただ素朴に、手で引っ張って音を整えていたであろうと想像しまいがちだが、実際は琴柱が合った方
が調律しやすいのではないかと思う。
琴柱がいっしょに出土していないので、そういうものは無かっ
たと考えるのは簡単だけれども、じゃあ
琴柱がないときは、どのようにしていたのだろうかというこ
とが疑問だ。

1弦、2弦という少ない弦だと、調律なるものはそれほど必要はないのかもしれないが、4弦、6弦
7弦と弦を増やすのなら、弦が同音を出すよりも、違う音階の音を出していたのだと想像される。
となれば、音の調整は当然やっていたと思われるので、どのようにやっていたのかが気になる。

■ 様々な弦数の琴 

上記の画像の琴のだけ出土していれば、この地域の琴は4弦(または3弦あるいは8弦)と思いがちであ
るが、展示されている他の琴の天板を見ると、4突起ではなくて、6突起だった。

天板に魚の絵が描かれた6突起の天板(弥生時代 中期後葉)

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また、青谷上寺地遺跡出土データベースを見れば、7突起の琴板があることがわかる。
この地域によって、琴の弦数の決まりごとはそもそもなかったのかなあと、思える。

多弦であれば、やっぱり調律が重要であって、ポロロ…ンとつま弾いて、美しい音が出たのではない
かと想像する。

琴は、琴を弾く埴輪がほとんど男性なので、祭祀では首長層の男性が弾く役割を担ったと云われてい
る。男性が琴を弾き、女性が巫女として神がかり託宣したのかな。
祭祀場は、山の磐座の前とか川辺等の水辺だと云われているが、ここの青谷の地域はどこが祭祀場だ
ったのか。

琴弾山神社 島根県飯石郡飯南町佐見 
出雲風土記に この山の峰に窟があり、大国主命の御琴があると書かれている。

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by yuugurekaka | 2017-03-13 12:00 | 弥生時代の遺跡

蛇のような線の絵が描かれた差物箱(弥生時代中期後葉)

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青谷上寺地遺跡展示館で土器や木工品に様々な生物が描かれているのを見た。
弥生時代は、蛇はまだ嫌われる存在ではなく神様だったのだろう。

様々な線が刻まれた

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上の長い線刻板は、船が描かれていると説明板に書かれていた。
右下の琴の天板や左下の指物板には、魚が描かれていた。
琴は6弦のようだ。魚というより、サメのようにも見えた。ここでの出土品で最も多いモチーフが
魚だそうだ。

サメと思われる絵が描かれた土器(弥生時代中期後葉)

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動物線刻琴側板(弥生時代中期後葉)

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3種類の動物が5匹描かれている。右側の角が巻いている動物は、羊との説があるそうだ。日本に
は当時はいなかったが中国にはいたようである。
しかし、うさぎの絵画が見当たらない。ここが因幡の国だから、うさぎの絵があってもよさそうな
気がして、展示してあるものを探したがそれらしい絵は無かった。

弥生時代の銅剣の絵に刻まれたサメの絵 鳥取県立博物館所蔵(安富コレクション)
銅剣の写真が展示してあった。

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どこで出土したか不明の弥生時代の銅剣であるが、サメの絵が一筆書きされた特徴から青谷上寺地
遺跡や周辺から出土した可能性が高いとのこと。
詳しくは→ 毎日新聞 弥生時代の銅剣 サメの絵画 サメ信仰、裏付け 地域色強い祭祀存在か /鳥取

銅剣も、琴も当時は祭祀の道具であったわけだし、それにサメが刻まれているとなると、サメは青
谷周辺に住んでいた氏族のトーテムだったのであろうか。
因幡の白兎のワニは、実は鮫であるという説が強いが、もしや、和邇氏の一族が住んでいたのか?
古代氏族の和邇一族は、大和国添上郡和邇が本拠地でそんなところに居ないという反論が聞こえて
きそうだが、2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説もあるよう
だ。→ ウィキペディア 和珥氏 



by yuugurekaka | 2017-02-23 22:27 | 弥生時代の遺跡

鳥取県の大山の麓
妻木晩田(つまむきばんだ)遺跡に行ってきました。詳しくは→Wikipedia 妻木晩田遺跡
行ってきましたといっても、10日以上前です。
(遺跡・神社の記事は、時系列とは無関係です。)

妻木山地区 集落(復元) 2世紀後半の住居跡が多い。

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うわー、弥生のムラが復元されていました。
弥生時代の家がたくさんあります。
まずは、洞ノ原(どうのはら)地区西側丘陵の方へ行ってみます。
弓ヶ浜半島や米子市、日本海が見えます。
あいにく小雨でしたので、ぼやけて見えます。

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西端にある高床式倉庫(復元)

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山陰から日本海沿岸に多く分布する 独特の四隅突出型墳丘墓。


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復元された竪穴住居と掘建柱建物
実に900棟以上の建物跡があるといいます。

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どのように弥生時代の住居が作られたかという過程が
見れます。

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まずは穴を掘って 柱を組み立て

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木を組んでいきます。

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そして、草を葺き土をかけます。

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中にも入って見ました。
昔は この中で火を焚いて、家族が肩を寄せ合って住んでいたんでしょうね。

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しかし、こんなに広いとは思いませんでした。
ざっと公開されている地区を観るだけで 3時間30分以上かかりました。
たぶん20キロは 歩いたと思います。
まだ10分の1しか発掘されていない様子ですので
全部発掘されたら どんなものが出てくるのでしょう。
古代遺跡をあまり知らなくても
弥生時代を体験する教室なども企画されているようです。詳しくは→鳥取県立むきぱんだ史跡公園

そういえば、こんなに歩いても 指のしびれが強くなったりはしていません。
年末より 良くなっているようです。


by yuugurekaka | 2015-01-18 17:30 | 弥生時代の遺跡

雲南市加茂町岩倉にある
加茂岩倉遺跡ですが、
私があれこれ書いても 切り貼りみたいな記事になるので
詳しくは→加茂岩倉遺跡のホームページ

1996年10月 農道の工事のため 重機で谷を掘削作業中
銅鐸が発見されました。発見された物は製作されたのが
弥生中期~後期頃の銅鐸で、
1か所から39口の銅鐸の発見は、全国最多です。

今まで出雲は、記紀神話だけの創作の世界だけで
古代文明が発達した場所ではないというのが通説だったので
荒神谷遺跡と合わせ
それを見直す事件になったと言われています。

さて、入り口に入っていきます。ここからは車では入れません。


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銅鐸が発見された谷に来ました。あっ 急な階段が…。

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ひーはーしながら、なんとか上にたどり着きました。
発見当時のレプリカが、丁寧に作ってありました。
ふーん、このような形で発見されたんなあ。

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銅鐸を入れる土坑も再現されていました。
なお、この土坑には、銅鐸が1口も入ってなかったそうです。


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この谷を削っている最中、銅鐸が発見されました。
この谷に回廊が設置してあり、いろいろな角度から、この谷が眺められます。

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さて、加茂岩倉遺跡を出て 一番遠くの駐車場から大きな岩が見えます。
まるで加茂岩倉遺跡の方を見つめているような感じです。
この岩にも、金鶏の伝説があります。


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この大岩の裏手に、細い道があり、矢櫃(やびつ)神社跡へつながっています。
つまり、元 参道です。

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森の中に突き進んでいきました。
道があっているのか不安になりましたが、10分後到着。

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たて約5メートル、横約6メートルの大きな岩です。
見ようによっては、大きなガマの口にも見えました。
古い神社には、こういう巨大な岩があります。
神霊がやどる岩を 磐座(いわくら)と言います。→ ウィキペデア 磐座

こういう巨岩が多いので、ここの地名を岩倉というらしいです。


by yuugurekaka | 2014-07-22 22:30 | 弥生時代の遺跡

荒神谷遺跡に行ってきました。
行ったのは先週の6月12日(木)の夕方です。
史跡公園を入って行くと2千年ハスが大きく広がっています。

このハス、1951年(昭和26年)に千葉市花見川区朝日ケ丘町で
故・大賀博士が発見された2千年以上も前の種子を
発芽させたものです。→大賀ハス wikipedia

ハスの池を右手に見ながら、弥生時代の銅剣358本等が出土した
荒神谷遺跡に向かって歩いて行きました。

2000年ハス


荒神谷遺跡の説明ですが
あれこれ考えても、引用した方が、わかりやすいと思いまして
ホームページより引用させてもらいました。

荒神谷博物館 ホームページより
引用
“荒神谷遺跡は昭和58年(1983年)
広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう
遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜ道で
一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事が
きっかけとなり発見されました。
遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から
荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年、谷あいの斜面を
発掘調査したところ、358本の銅剣(どう
けん)が出土しました。”

荒神谷遺跡

さて、来ました!ここから銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土したのです。
すぐ近くまで観れますが、中には、立ち入り禁止の看板があり、入れません。
向かい側の谷から、いろいろな角度で見れます。

出土したものは、残念ながら、入り口の荒神谷博物館にはなく
出雲大社の近くの島根県立古代出雲歴史博物館に
常設展示されています。

ハス池の北側に古代米(赤米等)の田んぼがありました。→古代米 Wikipedia
2000年ハスのように、発掘された種ではなく
「古代から栽培していた品種」「古代の野生種の形質を残した品種」
を古代米というらしいです。
まだ食べたことはありませんが、また買って食べてみたいと思います。

古米 田んぼ

弥生時代の家屋の復元されたものも設置されていました。

古代の住居

あいにく2千年ハスは、つぼみでした。もうちょっとで、花が次々に開いていきます。
7月上旬には、「荒神谷ハスまつり」というのが催されるらしいです。

ハス 蕾


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by yuugurekaka | 2014-06-17 00:48 | 弥生時代の遺跡

さきおととい 出雲市大津町にある西谷墳墓群を見に行きました。
なぜ突然見に行きたいと思ったかというと
テレビで「出雲と大和ー古代国家の原像をたずねて」(岩波新書)の
著者 村井康彦さんの講演を聞いたからです。

自分にとって 子どもの頃習った日本の歴史は、
大人になるにしたがって 本当だろうか…と小さな疑念がありました。
皇国史観からの反省として 戦後の歴史は「古事記」「日本書紀」に
記述していることには懐疑的です。
出雲王朝からヤマト王権への国譲りの神話など
デタラメみたいに言われてきました。
→詳しくは MSN 神話の世界 考古学界騒然「出雲王朝VS大和王権」裏付ける〝物証〟次々

出雲地方には、出雲王朝を証明づける古墳や遺跡がないと
言われています。巨大な前方後円墳がないと。
でも出雲地方独自の古墳があるではないですか。

古墳とかは 自分はあんまり関心がありませんでしたが
村井さんのお話を聞いて、見に行ってみたくなりました。

西谷古墳群

ここの墳墓群は、出雲市の街中にあります。
左手に、出雲商業高校のグラウンドが隣接しています。
下記のwikipedeaからの地図の引用写真ですが
大小のこんなにたくさんの墳墓があります。

西谷古墳画像 WIKIより

ウィキペディアの説明はこちら  西谷墳墓群 wikipede

中でも2,3,4,9号墓は弥生時代に造られた
全国最大級の四隅突出型墳丘墓(よすみ)で
代々の出雲の王が葬られたのでないかと言われています。

これが2号墳です。約46m×約29m×約3.5mあります。
昔はこうであったろうと復元されています。
西谷2号墳

これが3号墳(約52m×約42m×約4.5mあります)の頂上です。

西谷3号墳 頂上 2

上記の古墳群は、史跡公園「出雲弥生の森」と整備されており
古墳の上に登ったりできました。

この公園から外れて、最大の9号墳(約62m×約55m×約5m)に行きました。
この9号墳、なんと神社となっています。

三谷神社

古墳の上に「三谷神社」が、あります。
三谷神社の境内は、古墳の頂上なのです。
古墳であるというのは、後からわかったことです。

三谷神社 境内

三谷神社の本殿です。小さな神社です。
三谷神社 本殿

その後、有名な荒神谷遺跡を観に行きました。




by yuugurekaka | 2014-06-16 00:17 | 弥生時代の遺跡