古い神社へ行ったとき、鳥居の近くにお地蔵さまがあり、なぜ、こんなところにお地蔵さんが?もしや、
サイノカミが担っていた「結界」のお地蔵さんかしら?などと思うのだが、有名な京都の宮津市の籠(
この)神社の奥宮である真名井神社へ行った時にも、参道に地蔵堂があった。これも、結界のお地蔵さ
か?などと勝手に思った

しかし、この地蔵さんの説明板を読むと、全くの見当違いということがわかる。真名井社の参道の
蔵さまは、「波せき地蔵」と言って、大宝の大地震(約1300年前)に大津波が起きて、ここで波が切り
返したというお地蔵さんだったのだ。 (→ ウィキペディア 波せき地蔵堂 

標高40メートルの地らしいが、もともとは大木に寄りかかるように置かれていて、1996年神社が地
堂を建てたようだ。
なんで、お地蔵さまなのだろう。地震や津波で亡くなった人たちの供養で建てられたのだろうが、あの
世とこの世の境界の石仏としての役割もお地蔵さんにはあるようだ。

波せき地蔵堂  京都府宮津市大垣 

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ウィキペディアで、お地蔵さま、つまり、地蔵菩薩を調べると、このように書いてある。

〝地蔵菩薩(地蔵菩薩)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。サンスクリット語ではクシティガルバ
(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])
と言う。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して
「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き
流しを付けた荘厳具)、錫杖。種字は ह (カ、ha)。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人
々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。日本における民間信仰では
道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供え
られている。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。
サイノカミが、たいへん習合度の高い神様で、「境界の神」「悪霊や疫病などを防ぐ神」「縁結びの神」
「子供の神」という多様な役割を持つように、お地蔵さんも「子供の守り神」以外にも多様な役割をもつ
ものと思われる。

西出雲のカンナビ山、仏経山の麓にたくさん見られるお地蔵さまの一つだが、番号が彫ってあり、なん
番号なのか、わからなかったが、「出雲三十三番観音霊場」への道標としての「丁地蔵」であることが
わかった。一丁ごと(約109メートル)に、建てられているから、多いはずだ。
現存する地蔵さまは、18世紀半ば~19世紀の半ばに製作されたもののようだ。


丁地蔵  曽枳能夜(そきのや)神社 島根県出雲市斐川町神氷823番地 
三十四丁と書かれている。

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出雲札所(観音霊場)の起源だが、約一千年前、花山法王(花山天皇)が、出雲の地に観音霊場を開き、
順拝されたのが始まりと伝えられている。
しかし、観音さまなのに、なぜ道標が、地蔵さまなのだろう。
他県の三十三番観音霊場をインターネットで見ると、丁石が観音像の場合も多いからだ。
地蔵さまが「道の仏さま」だからなのかしら。


賽の河原 加賀(かか)の古潜戸 
島根県松江市島根町加賀

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猿田彦大神とされる佐太大神が誕生したとされる加賀の潜戸の「新潜戸」に隣接している、賽の河原の
「旧潜戸」である。中世の仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」と思われるが、幼くして父母より先立った子
どもらがあの世で父母を思って積み石をしている、そこに鬼が来て、その積み石を壊す。そこへ地蔵さ
まが現れて子どもを救うという「賽の河原」である。

「賽の河原」というけれど、山にある場合が多い。加賀の潜戸の場合は、海岸の洞窟である。
洞窟は、黄泉国への入り口という信仰がある。
黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが投げた杖から岐神(クナド)の神が
生まれたという話があるが、あの世とこの世の境界神のサイノカミ(クナドの神も総じてサイノカミと
も呼ばれる)が、地蔵さまに転化したのかなあと思わされる。

『石の宗教』(五来 重 著 講談社学術文庫)という本がある。なぜ地蔵さまにサイノカミが習合す
るに至ったか、様々な理由が書かれていた。私はたいへん納得できた。

〝このような霊魂の往来を塞るための積石の代わりに、石棒を立てることもあって、石棒が男根形(コ
ケシ形)の石棒となり、これが道祖神の起源であることはすでに述べた。男根形の道祖神は明治維新の
「淫祠邪教の禁」で大部分撤去されたので、男神女神抱擁像の道祖神や文字碑だけが残ったに過ぎない。
ところが男根形の道祖神は、顔や袈裟衣を彫刻すれば、そのまま石地蔵になってしまう。石地蔵という
ものは、けっして図像や仏画や木彫の地蔵菩薩を石像化したものではなく、もともと石の宗教性から地
蔵が造形されたものであることを、私は主張するのである。〟
                          
〝そこで原始的な石の造形が、男根、女根であったことは、これが祖先のシンボルだったためである。
それを近代になるにつれて、祖先であることをわすれて、性的な興味をもつようになったので、恥ずか
しいという羞恥心をおこしたり、道徳的価値判断から「淫祠邪教」といったのである。明治維新の宗教
政策の一つに「淫祠邪教の禁」があって、撤去処分された石棒は莫大だったという。いま各地の考古資
料館などで、石棒や石杵として陳列されている完形品には、そのときの撤去物が多いと言われる。
                         (五来 重 著『石の宗教』講談社学術文庫)


by yuugurekaka | 2017-09-22 21:52 | 塞の神

ラフカディオ・ハーンは、木の根神社の訪問の際、このように述べている。
「これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していた
ものだ。それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。」
              "小泉八雲著・平井呈一訳『日本督見記 下』 恒文社 " 

では、ギリシャはどうだったのだろう。
ネットで調べると、〝ヘルマ〟という古代ギリシャには道の神としての石棒とした造形物がある
ことを知った。以下のヘルマは、ポリュエウクトス が造った古代ギリシャの政治家デモステネス
をかたどったヘルマである。
原始時代ではなく、古代ギリシャの紀元前280年頃のものである。

画像出典 ウィキペディア ヘルマ

〝ヘルマ(ギリシャ語ἕρμα, herma, 複数形:hermai, ヘルマイ)は、石もしくはテラ
ッタ、青銅(ブロンズ)でできた正方形あるいは長方形の柱。柱の上にはヘルメースの胸像
が乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性の生殖器がついている。古代ギ
リシャの神ヘルメースの名はこのヘルマに由来するという説があり、一説には、ヘルメース神
は商人および旅行者の守護者としての役割を担う前は、生殖力・運・街道と境界と関連した、
ファルス(男根)の神であった。( ウィキペディア ヘルマ より)

石柱に写実的な彫刻。それだけでよさそうなのに、なぜ男性の性器を描く?と思うが、この性
器が、この石棒神の本質であったから描かざるを得なかったのだろう。

高群逸枝氏の文章が、頭に浮かんだ。
〝交通の神が性の神でもあるというのは、族外婚段階のヒロバのクナドを考えればわかろう。
クナドは文字通り神前共婚の場所であるが、またそのことによって他群と交通し、結びつくこ
とになる場所でもある。  
原始時代では、性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性
器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でも
あった。
大国主命の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかならない〟
(高群逸枝 『日本婚姻史』至文堂 )

つまりは、ギリシャの「道祖神」ヘルマも、共同体と他の地域の共同体を「結ぶ神」だったの
かなあと思うのである。
それはまた異界なる共同体の接点として、攻めてこないような、悪霊を封じる塞神としての役
割をもつようになったのではないかと思う。

道の神は、性神であり、また交通の神ー交易の神ー商業の神へと変容したのではないか。


by yuugurekaka | 2017-09-02 22:31 | 塞の神

1)伯耆のサイの神まつり 
まずは、淀江町教育事業団発行「未来にヒントを!! 伯耆のサイの神さん」からの抜粋です。(番号は、私がつけています。)

① 昔は、淀江町や中山町では、竹やむしろで子供がこもる小屋を作られたり、淀江町では小型のサイの神さんを宿に迎えて絵具などで採食し化粧することも行われました。

② 一二月十五日午前0時をすぎるとサイの神さんの前で火がたかれます。サイの神さんは縁結びの神さんで早くまいるほど良い縁があり、遅くなるほど縁遠くなるといわれ暗いうちからきそっておまいりするのです。

男の子はわらづとをせおわせた「わら馬」を、女の子は「わらづと」を持ってまいります。わら馬は尻尾を焼いて供えるか、木につるしたり木の上に投げかけます。

※ 藁苞(わらづと)とは、いわゆる、納豆をくるむ藁でつくった入れ物です。

④「カタ焼き」といって米の粉や小麦粉だんごの中にあんを入れ両面を焼き上げたもの、小豆飯、米なども供えます。中山町岡ではかならず塩けご飯の「くじら飯」が供えられます。

⑤中山町御崎では小屋ごと焼いたり、名和町塚宮神社には大塚と塚根の二体のサイの神さんがあって、お互いにきそいあって火をたきました。また、江府町尾上原では、サイの神さんのご神体はありませんが、村の入り口の祭場で火をたくといわれます。サイの神祭りは火祭りであったと言えるようです。

中山神社のサイノカミさん

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2)サイの神祭り・とんどさん

伯耆町のサイの神まつりの特徴を見て、思ったのは、これは「とんどさん」ではないか?と、思ってしまいました。
でも、出雲地方の「とんどさん」ではなくて、双体道祖神が多い地域で行われる小正月、1月15日に行われる行事のとんどさんです。
「とんどさん」と呼ばれておらず、「サイノカミさん」「道祖神祭り」と呼ばれているようです。

伯耆地方で行われるサイの神祭りは、12月15日ですが、もしや、旧暦の12月15日が、新暦に移って、1月15日に行われるようになったのではないか?などとも想像したりもします。でも伯耆地方では、サイノカミ祭りと別に、とんどさんは1月に行われます。

1月15日の小正月の行事は、南インドでも行われているようです。
「一月十五日の夜…、コダンダラマン教授の親戚の人たち十数人が立ち上がり、小さい子供が先頭に立って『ポンガロー ポンガル』と大声で叫びながら家の周りを廻り始めた。」「タミルでもポンガルの前日(つまり年末)に、大きな箱、着物、莚など古した物を焼く。現在はこの行事をBokiといっている。これは雷の神インドラの名である。年の初めに雨を乞う行事と見られるようになったわけである。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より) 

昨今では、出雲地方では1月15日ではなく、1月7日前後の日曜日に行うところも多いです。大正月を終えるための儀式に変容しているように思えます。しかし、「本来は一月十四日が年末なのでその年の使い古した物を焼く行事だった。」(大野 晋著『日本語の源流を求めて』 岩波新書より)なのかもしれません。

しかし、なぜ、馬のしっぽをこがすのだろう。
新潟県のサイの神祭りでは、木でサイノカミさんを造り、いっしょに燃やすところが多いのだそうです。神様を燃やす!?いったいどういう意味があるのだろうと思いましたが、ふと、縄文時代の祭祀のことが思い浮かびました。

3)縄文時代の石棒信仰

縄文時代の遺跡からは、様々な石棒が発見されてもおりますし、日本だけではなく、古代の性器信仰は万国共通のことです。

一口に石棒祭祀と言っても、時代によって変化しているようです。

「中期末以降は、住居の廃絶にともなう儀礼行為の一環として、石棒を火にくべるという祭祀行為が盛んにおこなわれるようになり、それが発展して後期前葉以降に廃屋儀礼が活発化するという、おおまかな変化が指摘されるのである。」(山本暉久『住居跡出土の大型石棒についてーとくに廃屋儀礼とのかかわりにおいてー』,谷口 康浩編『縄文人の石神~大型石棒にみる祭儀行為~』 六一書房 )

神のしるしであった石棒は役目を終えると燃やされ破砕されたのです。
現代のサイの神祭りで、木のサイノ神さんが、燃やされるいう事例から、これももしや、縄文時代の石棒祭祀のことが何か関係がないのかしらと思った次第です。

ある説では、近世から始まったサイノカミ祭りと言われていますが、私には、民衆の間において、古代から脈々と受け継がれたのではなかろうかと思えます。

by yuugurekaka | 2017-08-25 23:30 | 塞の神

1)出雲地方に少ない 

ウィキペディア道祖神には、「全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。
甲信越地方や関東地方に多く、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野では、文字碑と双体像に大別され、
庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い。」と書かれています。

『雲陽誌』(1717年)を見ると、「荒神」とは別に、「幸神」として記載があります。
たとえば、意宇郡東岩坂の記載を見ると

「荒神三十五
 幸神二ヶ所
 山神二ヶ所 …」と、なっており、荒神さんの圧倒的な数にはおよびません。「幸神」ではなく「道祖神」との記載のある集落もありますがやはり数は少ないです。
                      
同族荒神というように奉祭する集落の単位そのものが、違っていたのかもしれません。

都我利神社の双体道祖神  島根県出雲市東林木町672

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2)近世の双体道祖神の分布状況

さて、下記は「日本の石仏、五七号」(1995)に載っている、長野県の道祖神研究家、若林栄一氏が
調査された全国の双体道祖神の数です。

      調査数     推定数
長野県  2584    2600 
群馬県  2228    2300
神奈川県  320    1300
新潟県   341     400
県   166     300
静岡県   307     300
岐阜県    69      70
愛知県    36      50
富山県    14      30
埼玉県    40      50
東京都    22      30
栃木県    20      30
福島県    10      30
千葉県    10      10
茨城県     1      10 
山形県     1      10 
青森県     1      10
鳥取県   347     360
岡山県     6      10
島根県    78      50


ここの数は、あくまで「双体道祖神」の道祖神塔の数であって、単体道祖神、文字塔、祠、丸石、木など
の形態は入っていません。
この表で見ると、長野県、群馬県が他を圧倒して多く、神奈川県、新潟県、県、静岡県が多く、本州
西部では、鳥取県が、抜きんでて多いようです。
しかし、なぜ、この地域のみに多いのか、原因がよくわかりません。

島根県は、極端に少ないというよりも、上位の県のように多いとは言えないが、かといって少ない地域で
なさそうです。

3)赤屋のサエの神

島根県出雲地方の道祖神は、概ね「境の神」として、主に樹木を神木として、藁馬などを奉祭するようで
す。しかしながら、旧能義郡赤屋村( 上小竹村、下小竹村、赤屋村、下十年畑村、上十年畑村、草野村)
においては、「境の神」というよりは、ほとんど、集落の中にあって、「縁結びの神」のようです。

山陰民俗会発行『山陰民俗』掲載の井塚 忠氏の昭和53年(1978年)の調査ですが、赤屋村だけで、
実に34ヶのサエの神(道祖神が確認されています。祭祀施設が、いわゆる道祖神塔ではなく、神木とし
ています。小宮(幸神社)や立石の彫字は、「才之神」「さえの神」「幸ノ神」と、あります。

『雲陽誌』で、旧赤名村の集落を見てみましたが、「幸神」のことは一切記載がありませんでした。おそ
らく、「荒神」や「幸神」そのものの厳密な把握自体が、困難だったのではないでしょうか。

赤屋のサエの神の祭日は、すべて12月15日としており、鳥取県伯耆地方と同じです。奉納物は、藁馬
で、子どもの数だけ作って奉納するのだそうです。
奉祭集団の単位は、荒神さんのように、多くは二、三十軒、小さくは一軒で、サエの神さんを祀っている
そうです。
赤屋村は、伯耆・出雲の境に位置するので、伯耆地方のサイの神と同じような性格を持っていると思われ
ますが、双体道祖神塔の築造ということに到らなかったようです。

《参考文献》石田 哲也(文)・椎橋 幸夫(写真・調査)著 『道祖神信仰史の研究』 名著出版 
      山陰民俗学会 『山陰民俗叢書6 家の神・村の神』 島根日日新聞社     


by yuugurekaka | 2017-08-20 22:55 | 塞の神

■ 亀甲神社の道祖神
鳥取県米子市淀江町の「上淀白鳳の丘展示館」の展示物の中に、亀甲神社(かめのこうじんじゃ)の
道祖神の写真がありました。歴代の道祖神の姿の変容が面白く感じました。
神社の場所を職員さんに聞いて、直接見に行きました。
※ 道祖神とは ⇒  ウィキペディア 道祖神

米子市指定有形文化財の標示がありましたー。
〝サイノカミともよばれ、子どもの守り神、縁結びの神様として親しまれている。白亀がこの近くの
海岸に上陸し、「亀甲」の地名の由来になったと伝えられる。〟

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亀甲神社の鳥居の方から、入らないと。


亀甲神社鳥居      米子市淀江町中間642番地

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〝亀甲神社 鎮座地 西伯郡大和村大字中間字海道ノ上
 祭神 須佐之男命
 由緒 創立年月不詳、神木を以て荒神宮と稱す、大神山神社の摂社たり、明治元年神社改正の廢社とな
 りしを、同十二 年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改む。〟
                       (鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』昭和10年より)

これが、9体の道祖神さまか。あれ、数えると、11体あります。


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いわゆる男女の双体道祖神が8体、男根型が1体で9体らしい。
右前のおかめが描かれたものと(アメノウズメか?)、その後ろのタキシードとウェディングドレスを
身に着けたカップルが描かれたものは、平成2年に新たに付け加えられたもののようです。
男根型の左にある線彫りの双体道祖神は、文化13年(1816年)のものだそうです。

ここで多くみられる男女の双体道祖神ですが、鳥取県では、伯耆の西部にしか見ることができないそう
です。東は赤崎町から西は米子市、溝口町、江府町までに348が数えられているそうです。
(伯耆の東部(倉吉市など)はというと、石に一人の男の神像をほった単体の道祖神(サイノカミさん)
がほとんどだそうな。)

伯耆では、江戸時代の中頃から、石に男女の神様を彫って、御神体とすることが流行しました。伯耆で
最も古いものは、米子市尾高の安永5年(1776年)だそうです。

ここの つまり近世の、双体道祖神の歴史が古くないからと言って、道祖神(サイノカミさん)信仰そ
のものが新しいわけではありません。たぶん、もともとあった道祖神信仰が、時代時代によって、性格
が変わり、再編成、拡大再生産されてきたのではないかと私は思うのです。

ちなみに伯耆では、道祖神(サイノカミさん)の役割は、「縁結び」「子供の神」の性格が強いのが特
徴のようです。
一般的に云われる悪霊を封ずる塞の神、境界神としての道祖神とは、江戸時代の伯耆の地域ではまた違
たものだったのでしょう。

《参考文献》  淀江町教育文化事業団 『ザ・淀江 ―伯耆のサイの神さん―』


by yuugurekaka | 2017-08-15 18:34 | 塞の神

クナトの大神・サイの神・サルタヒコの神

富家伝承によれば出雲族が元々奉祭していた神は、大国主命や事代主命ではなく、クナト大神とそ
の姫神幸ノ神と子神のサルタヒコの命の3神であったようです。
クナト大神とは、聞きなれない神の名前ですが、そもそも出雲族の起源は、3千500年以上前に
アーリア人の侵攻によって、日本に民族移動してきたインドの先住民ドラビダ人だそうで、クナト
の大神はクナ地方に支配していたクナト王です。

          (参考 斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版)

しかし、クナトの神といって聞きなれないのは無学な私のような者だけのようです。

“折口先生の歌、
 村の子は、女夫(めお)の道祖神(くなど)の肩だきています心を、よく知りにけりなどの歌は、
たぶん、酒匂川流域の、小田原在のもののようだ。男女のふるまいについて、十分にわかっていな
いはずの村の子供たちが、不思議な知恵で、なにをしているところかを知っていて、知った上での
笑いと騒ぎをしているのを、民族学者である詩人が見ているところだ。道祖神をくなどという。そ
のくなは、もともと男の性器の名だ。そして、これを動詞にしたくなぐは、行為そのものをいう古
語である。”
                      (池田弥三郎『性の民俗誌』講談社学術文庫) 


平濱八幡宮・武内神社の幸の神   松江市八幡町303


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布志名の才の神さん     
玉造と松江市内との境にあります。

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また、女性史研究家の高群 逸枝(ウィキペディア 高群 逸枝 )によれば、 縄文時代中期以降の婚姻と
して、「クナド方式」なる形態が出現するという。そのクナド方式の説明です。

“これらを考えると、クナドの神なるものは、数ヶ村共有のヒロバや、入会山や、交通の要路(い
わゆるヤチマタや物々交換の市場)や、村の入り口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が
交通の神、他面が性の神という複雑さをもっている。
 交通の神が性の神でもあるというのは、族外婚段階のヒロバのクナドを考えればわかろう。クナ
ドは文字通り神前共婚の場所であるが、またそのことによって他群と交通し、結びつくことになる
場所でもある。  
原始時代では、性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の
見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあった。
大国主命の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかならない。”                                               (『日本婚姻史』至文堂 )


今年の初詣は、出雲族のもともとの信仰とも考えられる、サイノカミの名残ともいうべき宍道町女
夫遺跡、大森神社、才神社に行きました。


女夫遺跡(めおといせき)松江市宍道町白石3313-1

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“県指定史跡 女夫岩遺跡 八束郡宍道町白石
この遺跡は二つの巨石からなり、地元で信仰の対象として「女夫岩さん」とも「宍岩さん」とも呼ばれている。
巨石の大きさは、北側のものが長さ9m、幅2.5m、高さ4m以上、南側のものが長さ6m、幅3m、高さ4.5m
以上を測る。平成6年(1994)に中国横断自動車道の建設予定地となったことから、平成8年(1996)に県教
育委員会と宍道町教育委員会が巨石周辺の調査を実施した。その結果、占墳時代中期から後期5-7世紀頃の祭祀に使
われたと思われる土器片が出土し、巨石信仰が古代にさかのばる可能性か高くなった。巨石周辺の平坦地や石垣がつく
られた時期は不明であるが、遺物の中には近世から近代のものもあり、古代から現代まで祭祀の対象となっていたと考
えられる。また、巨石は天平5年(733)に編纂された出雲国風土記の意宇郡宍道郷についての地名伝承に書かれた
「猪像」(ししのかた)にあたるとする考えがあり、宍道町白石の石宮神社の巨石とともに風土記の伝承と現存する遺
跡との関わりを考えるうえでも貴重な遺跡である。
このような経緯から、平成9年(1997)に遺跡は県指定史跡となり、現状のまま保存されることとなった。 平成9
年3月28日指定 平成12年3月 島根県教育委員会 宍道町教育委員会 ” (説明版より)


JA島根中央家畜市場の前の道から入っていきました。
遺跡は、高速道路のトンネルの上にあります。
高速道路建設の折に、取り壊される危機にあり、住民団体の保存運動の結果、残ることになりま
した。


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家畜市場とは反対側の北西側登り口です。


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少なくとも、古墳時代中期以降には、斎場として存在していたのです。
女夫岩遺跡の南側には弥生時代後期の墳墓と古墳からなる清水谷遺跡や、弥生時代から古墳時代に
かけての集落跡である矢頭遺跡があります。
時代をさらにさかのぼれば、神前共婚のクナドのヒロバだったのかもしれません。


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大森神社 松江市宍道町佐々布738
祭神 大穴牟遅命

社地は昔は宍道川西側の神籬坪というところにあったといいます。
女夫岩遺跡は、今もなお 大森神社で祭祀が行われています。


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佐為神社 松江市宍道町白石1464
祭神 猿田彦命

この神社の参道の一直線上に女夫岩遺跡があります。
もしかしたら、大森神社のムラと佐為神社のムラの結節点として、女夫岩のヒロバがあったのかなと勝手な想像をしました。

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共同体を結ぶ神 クナトの神

通説的には、クナトの神( ウィキペディア 岐の神 )は、「外敵の侵入や悪霊を封ずる、さえぎる」
神と言われていますが、本来は、そういう否定的な神ではなく、異なる共同体と結んでいく、肯定
的なおおらかな神だったのではないかと、私には思えます。

それが国造りの礎にはなったけれども、そういうおおらかな神の子孫の王朝だからゆえ、渡来の神
々の前では、お人好しで 滅んでしまったのではないか。


by yuugurekaka | 2016-01-07 00:41 | 塞の神

鳥取県の妻木晩田(むきばんだ)遺跡へ行った帰り道に
「天の真名井」の道路標示板を見つけました。
何なのだろうと、道路標示に従って行きました。

天の真名井は、名水百選に選ばれている地下より湧き出ている水です。→天の真名井 Wikipedia
「天の真名井散策遊歩道」の小道を登っていくと
水流が激しくなってきました。

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あれれ 水車小屋があります。
これは後代に建てられたもののようです。

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天の真名井に到着しました。
女性の方が1名、2Lのペットボトルに湧き水を入れていました。
以下 そこに書かれている説明板。

“環境省指定「名水百選」
 天 の 真 名 井

この泉は、米子市淀江高井谷泉川にあり、「天の真名井」と呼んでいます。「天の真名井」とは、「古事記」「日本書紀」において、高天原の「神聖な井戸」を意味し、神聖な水につけられる最高位の敬称です。高井谷の氏神である下津守神社の古棟札にも、「天乃真名井乃清久潔畿与(あめのまないのきよくいさぎよき) 元水於降玉布(もとつみずをくだしたまふ)」と古くから記されております。
その湧水量は、一日二千五百トンに及び、夏は冷たく、冬は温かく、実に味わい深い天然水です。
この「天の真名井」泉川下流の宇田川平野には、弥生時代の角田遺跡があり、すでに二千年もの昔から、人々の生活と耕作の水源として大切にされてきたことを物語っております。昭和十九年に完成した「昭和用水」の水源もこの清水です。文字どおり、郷土の文化と産業を興し、歴史を築いてきた清水であり、地元「高井谷集落」では、四季折々に「底ざらえ」をして、水神を祀り、今も古代そのままの神聖な域として。その姿を保っています。  米子市”

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天の真名井のすぐ隣の小池に祠がありました。
秋葉三尺坊大権現さんでした。
神社にも時折 見かけますが 詳しく知りませんでした。→秋葉権現 Wikipedia
秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神様で
「火難除けの神」として広く知られているそうです。

秋葉三尺坊大権現

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サイノカミさん


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その隣には、樫の木の前にサイノカミさん。

“ 高井谷には、元治元年(一八六四)作の神像と、小型の持ち回り用の神像があります。小型のものは良縁を願って、今期の近づいた跡取りのいる家に持っていき、めでたく婚礼が終わると次の家に持ち運んでいくという風習があります。 米子市教育委員会”(説明版より)

淀江町には80体もの サイノカミさんが存在しているようです。
ここのような石神さんというより
男女を形どった双体道祖神の石神さんが多いとのことです。

島根では、サイノカミさんをあまり見たことがありません。
サイノカミさんの起こりを見ると、
文献では古事記・日本書記の岐の神、猿田彦などの記述がありますが
民俗学者 柳田国男によれば、もとは大和民族に対する先住民の信仰で
神社神道以前の信仰だそうです。→ミシャグジ Wikipedia

このサイノカミさんの学術的な書物は 柳田国男「石神問答」しかないらしく
陰陽石信仰、百太夫信仰、猿田彦、道祖神…と
長い歴史の中で様々なものが習合して今日に至っています。

しかし、淀江町のサイノカミさんは特別な由緒があるようです。
“その昔、サイノカミさんの生活が苦しい様子を見かねた大黒様(オオクニヌシノミコト)は
 お金を貸した。サイノカミさんは12月14日までにお金を返す約束をし、準備をしていたが
 火事にあってしまった。大黒様は気の毒に思い「借金は返さなくても良い、その代わりに
 人間界の仲人を引き受けるように」と言った。こうして、サイノカミさんは縁結びをするようになった。”

(共済公報 とっとり 2014.№621より引用)

それで今でも 12月の第2日曜に
サイノカミさんの日として
しめ縄を新調して わら馬をお供えする自治会があるようです。


by yuugurekaka | 2015-04-02 21:31 | 塞の神