■ 高草郡の式内社

鳥取県の八上郡に訪れた時、湖山池の南西のほとりのホテルに一泊しました。
湖山池は、「池」という名がついていますが、広いし、美しい。小さな島々が遠くに見えますが、
大昔は、海だったのだろうなあと思わせます。

湖山池  鳥取県鳥取市
古代は海の湾であったが砂丘の堆積によって、海と別れた海跡湖。

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この湖山池の西南方面が、「高草郡」でありました。
高草郡の式内社(927年)を記述しますと、①伊和神社、②倭文神社、③天穂日命神社、④天日
名鳥命神社、⑤阿太賀都建御熊命神社、⑥大和佐美命神社、⑦大野見宿祢命神社の7社。

倭文神社を別にしても、祭神名が神社名となっていて、なんとわかりやすい。その倭文神社にして
も祭神とは違うのかもしれないが倭文氏の神社ということは間違えようがない。
だから、たぶん祭神は平安時代より、変更されることなく、今日まで至っていると思います。

ここ高草郡には、天穂日命系統の神社が3社あります。「天日名鳥命」は、天穂日命の御子、「
熊命」は、天日名鳥命」の別名です。
それも、湖山池の西南のほとりに集中しています。湖山池が昔は海だったことを考えると、ここは
太古港で海上交通の要だったのだろうなどと想像します。

単純に考えれば、天穂日命一族が太古ここに住んでいたのだろうと思いますが、島根県東部が、天
穂日命直系の出雲国造家の本拠地と言われているのに、これぞ天穂日命を祀ったと言われる神社が
多くありません。出雲大社の祭神が、素戔嗚命に変わったことや、熊野大社の祭神が素戔嗚命であ
ることを考えると、天穂日命一族そのものは先祖の天穂日命そのものよりも、素戔嗚命を祀った感
じがします。

だから、ここの天穂日命系統の神社も、その直系の氏族というよりも、後継の氏族ではないのかと
思ってしまうのです。

湖山池公園の駐車場に車を停め、天穂日命神社へ行きました。

天穂日命神社拝殿  鳥取県鳥取市福井字宮ノ谷361

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天穂日命神社説明板

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〝ふるさと文化探訪
 天穂日命神社

 古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祭る式内社である。
 古代の因幡に大社は国府町にある宇部神社であるとされているが、格式から見ると9世紀中頃まで
 は、天穂日命神社が宇部神社よりも上位にあった。すなわち、因幡国内における中心的勢力はこの
 高草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。
  なお、天穂日命神社が、元は現在の布勢日吉神社の社地にあったという一説もあり、社地の決定
 には疑問視する向きもある。

 平成四年三月  
                                   鳥取市教育委員会  "
 ※ 下線は私。

この説明板の下線のところにうん?と思ってしまいました。「因幡国内における中心勢力はこの高
草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。」というところです。その前提となる因幡国造氏は、彦多
都彦命を創始とする和邇氏系、また宇部神社の神主家の伊福部氏系だと自分は思い込んでいたので、
どちらの氏族も、大国主命は奉祭するであろうと思いますが、天穂日命が氏神ではないのだろうと
する違和感です。

どうだったかなと改めて調べてみました。
まずは、『先代旧事本紀』。"稲葉国造 成務朝の御世に、彦坐王の子の彦多都彦命を国造"とあり
ます。

この彦多都彦命ですが、父、日子坐王が崇神天皇時、丹波に派遣されたの古事記の記述あり、
丹波道主命=美知能宇斯王は派遣先の丹波で生まれた男子であるから 丹波彦立王であるといい、
丹波道主命=彦立王という説があります。

ちなみに、富家伝承本によれば、"磯城王朝最後の大王の名前が、旧事本紀に表れている。その中
の国造本紀では、大王・彦道宇斯は、「彦多都彦命」と名が変わっていた。かれは稲葉国(のちの
因幡国)に追われて、稲葉国造となった。彦多都彦命の娘・ヒバス姫は、望まれてイクメ大王の后
となった。武内宿祢は彦多都彦命を守るために、イナバ国の宇部(鳥取市)に移り住んでいた。"

高群逸枝著『母系制の研究』(講談社文庫)によれば、"(1)彦多都彦命…(2)伊其和斯
彦命、大己貴命十四代孫武牟口命の子伊布美宿禰の命の児なり…。(3)若子臣(汗麻宿禰の子)
系図に云ふ…、…中略…因幡国造は、彦坐系を外にしても、大国主系、武内宿禰系、尾張系の三系
を内包している。"

また、宇部神社宮司家、伊福部氏は通説では物部氏の一族とされ、「伊福部氏系図」を見ると、「
饒速日命」は出てきますが、「天穂日命」はどこにも見当たりません。

むむむ…これはどういうことなのか、改めて国造を、調べて見ます。
以下 ウィキペディアの抜粋です。

"大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味し、この国の範囲は令制国整備前の行政区分である
ため、はっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。また定員も
1人とは限らず、1つの国に複数の国造がいる場合もあったとされる。"

考えてみるに、国造というのがずっと一つの血統、氏族のみであるという考え方があるが、弥生時
代の末期から大化の改新まで、ずっと同じ氏族と言うのがそもそも不自然です。
複数の国造がいたかも知れないし、また争いで国造の系統が取って代わったこともあるでしょう。

説明板の出典は何かわかりませんが、国造の系譜として、天穂日命系統の一族か、あるいは野見宿
禰の一族ー土師氏の系統もあったのかもしれません。時代時代で、国造の系統が変わっていたこと
もあるのでしょう。

天日名鳥命神社 鳥取県鳥取市大畑字森崎874

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■ 自然の造形  阿太賀都健御熊命神社  

『日本書紀』では、崇神天皇の項では、武日照命(武夷鳥命とも天夷鳥命ともいう)ですが、国譲
りの項では、天穂日命の御子は、大背飯三熊大人(おおそびのみくまのうし)、別名・武三熊之大
人(たけみくまのうし)と書かれています。

阿太賀都健御熊命神社(あたかつたけみくまのみことじんじゃ)は、その「武三熊之大人」を祀っ
ています。「たけみくま」の前に付いている「阿太賀都」(あたかたつ)はなんでしょうか?美称
なのか、『新撰姓氏録』に「和仁古、大国主六世孫 阿太賀須命之後也」というのがありますが、
和邇氏の祖神と天穂日命の御子を同時に奉祭したのかしら?よくわかりません。

よくわからないと言えば、神社の場所がなかなかわかりませんでした。
カーナビをつけていたら、すぐわかったのかどうかわかりませんが、ゴルフ場の近くをぐるぐる彷
徨っておりました。

あっ、道しるべを発見。ここを左折しないといけませんでした。

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地図がありました!

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地図の通りに歩いていきますと、山の小道に鳥居が見えます。

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ついに神社が、見えるところまで来ました。
しかし、急な坂が続いています。右手には、自然石の80段の石段だそうです。

阿太賀都健御熊命神社  鳥取県鳥取市御熊612 

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この自然石の説明書きがありました。

”鳥取市指定文化財
 御熊神社 玄武岩柱状節理  昭和四十九年四月四月指定
 御熊神社社殿一帯にみられる玄武岩は、径約五十センチ、長さ百五十~二百センチの六角状の玄
 武岩で形成されており、その数量及び範囲については確かなところ不明である。社殿への参道階
 段や民家の石垣などにはこれたの玄武岩が多く利用されている。
 玄武岩の産地は市内にもみられるが、そのほとんどが縦型柱状節理のものであって、当御熊神社
 にみられる横型柱状のものは珍しいものである。

「節理」とはなんぞや?
ウィキペディアによれば
「節理(せつり)とは、岩体に発達した規則性のある割れ目のうち、両側にずれの見られないもの
 をいう。マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じる。なお、割れ目の両側にずれが見ら
 れる場合は断層になる。」

そうですか。石になって割れたのではなく、石ができる時割れたのですね。不思議です。

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なんとか神社に到達できました。

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神社の裏山には、玄武岩柱状節理が見れます。自然の造形物とはにわかに思えません。まるで石切
りの工場がどこかにあって、積み上げたように思えます。

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健御熊命神社は昔、柱大明神とも呼ばれ、石を切り出す鉄を鍛えた「鍛冶屋谷」、石の切屑を捨て
た「石屑(こけら)谷」、「細工谷」などの地名が残り、摂社に鍛冶殿社を祀ったのだそうです。

# by yuugurekaka | 2017-06-26 18:30 | 出雲国造

鳥取県の中山神社に向かう国道9号線に「木の根まんじゅう」の大きな看板に出会います。
木の根は、木の根神社の御神体を模した形のようです。
買って食べてみましたが、程よい甘さでおいしかったです。


                       木の根饅頭
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木の根饅頭のお店の北側に「木の根神社」があります。「木の根さん」「への子松」とも云われ、
子宝、縁結びなどにご利益があるとされて、今でも全国から参拝客があるそうです。

木の根神社鳥居  鳥取県西伯郡大山町松河原

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ここの神社の由緒ですが、鳥居横に説明板に書かれていました。

"生まれつき身体が弱く、元気のない松助という若者は、結婚すればすぐお嫁さんに逃げられてし
まいました。
母親は、何とかならぬものかと八幡さんにお参りすると「山の中ほどにある大きな松の根にあやか
りなさい。」とお告げがありました。
そこで、母親は、その松の根を持ち帰り、朝夕一心にお祈りすると、数日たって松助は見違えるほ
ど立派な男になり、後に5人の子供にも恵まれ、長者になったということです。"

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の説明板

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、明治二十四年にセツ夫人と再びこの地を訪れ、紀行文に木
の根神社の事を書いたそうです。
どんなことを書いているのかと思い、本を借りて、読んでみました。
下記は、その本の抜粋です。

上市という、眠ったような小さな村の近くで、名高い神木を見るというので足を止める。神木は、街
道ぎわの小高い丘の森の中にあった。木立をはいると、三方を低い崖に囲まれた、小さな窪地みたいな
ところへひょっこり出た。―崖の上には、樹齢いくばくともしれぬみごとな老松が、亭々と群ら立っ
ている。太い磐根が岩を割って崖の表面に這いだし、さしだす枝と枝が低いそこの窪地に、昼なお暗い
緑陰をおとしている。そのなかの一本が、太い三本の根を妙な形に突き出していて、その根元のところ
に、なにやら祈願の文句を記した紙のお札だの、奉納の海草だのが巻きつけてある。なにか言い伝えに
よるというよりも、その三本の根そのものの形が、民間信仰から、この木を神木に祀り上げた、といっ
たものであるらしい。…中略… いったい、樹木崇拝―もしくは、その樹木に宿っていると考えられ
神の崇拝、これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していた
ものだ。それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。 …後略…"

                   "小泉八雲著・平井呈一訳『日本督見記 下』 恒文社 " 
※下線は私

木の根神社

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樹齢いくばくともしれぬみごとな老松が、亭々と群ら立っている。」とのことだったが、そびえ
立つ大きな松は見当たりません。今は、大きなその根だけが、拝殿の中に納まっているようです。
拝殿の中にまた祠があり、石棒がお供えしてあります。
小泉八雲が描いている太い三本の根がどれなのか、よくわかりませんでした。

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"これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していたものだ。
それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。"
原始共同体時代の信仰として、ホト岩や石棒信仰は世界共通のものであったようですが、"一時、
社法制定のころ淫祠として廃棄をすすめられたこともあるという。" 鳥取県立米子図書館編
『郷土史跡めぐり(西伯耆編)』米子 今井書店発行)事のようです。
江戸時代には、あちこちの神社であったようですが、明治時代の神社再編の中で、廃棄されたり
祠の中で陰をひそめたものと思われます。

この神社の裏の丘に登ってみました。
ん?この石は、磐座なのか、石棒のモニュメントなのかしら。


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それと、このピンクの鳥居は、逆さ鳥居というのでしょうか?


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鳥取県立米子図書館編『郷土史跡めぐり(西伯耆編)』(米子 今井書店発行)によれば、"一方
木根神社の前から南上したところにある香取の「ほととぎす橋」の傍らには「甫登(ほと)神社」
がある。谷あいにある天然の大石が女性を象徴し、ともに原始信仰の姿を伝えている。"と。

しかし、この丘から、逢坂八幡さんの方向に歩いて行くと、甫登(ほと)神社の鳥居が…。

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甫登(ほと)神社

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饅頭屋さんで、聞いたところ、香取の甫登神社を勧請したものらしい。
甫登(ほと)神社の隣には、やきもち神さんが石室の中に、鎮座していました。

この後、香取の甫登神社に参拝しようと思い向いましたが、大山の麓なので雪で通行不能でした。
一月中旬のことです。

# by yuugurekaka | 2017-06-13 21:45 | ラフカディオ・ハーン

■鵜鷺(うさぎ)の地

黄泉の穴の伝承地として有名な「猪目洞窟」をさらに西に行くと、鵜峠(うど)という地域に入り
ます。鵜峠をさらに西に行くと、鷺浦(さぎうら)という地域に到達します。

鵜峠(うど)浦
『出雲国風土記』(733年)には宇太保浜(うたほはま)と記されています。中世に宇道、宇峠とも呼ばれ、江戸時代に
鵜峠になったという。

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鵜峠+鷺浦で明治22年、「鵜鷺村(うさぎむら)」が誕生し、昭和26年(1951年)に大社町と
合併するまで存在しました。

鷺浦については、奈良時代より「鷺浜」なる地名があり、起源の古い地名であると思います。

鷺浦港  向こうに柏島が見える。
『出雲国風土記』(733年)には、すでに鷺浜(さぎはま)と記されている。

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伊奈西波岐神社

ここの鷺浦港に面したお宮が、出雲大社摂社「伊奈西波岐神社」です。式内社「大穴持伊那西波伎
神社」に比定されている神社です。鷺社とも呼ばれています。
祭神は、社名の通り稲背脛命(いなせはぎのみこと)です。

この神ですが、日本書紀の「国譲り神話」の所で出てまいります。

 "このときその子の事代ことしろ主神ぬしのかみは、出雲の美保みほの崎にいって、釣りをたのしんでおられた。
 あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。そこで、熊野の諸手船もろたふね(多くの手で漕ぐ早船か)
 に、稲背いなせはぎ諾否いなせを問う足)をのせてやった。そして高皇産霊尊の仰せを事代ことしろ主神ぬしのかみに伝
 え、その返事を尋ねた。" 
        ( 『日本書紀(上)』全現代語訳 宇治谷 猛 講談社学術文庫 )
 
古事記では稲背脛命ではなく「アメノトリフネ」が登場します。稲背脛命は、天穂日命の御子「
夷鳥命(あめのひなとりのみこと)」と、同神とされていますが、日本書紀では、同段に、大背おおそ
びのみ熊之くまの大人うし(またの名は武三たけみ熊之くまの大人うし)と書かれており、ここがそのように書いてないところを
見ると
武三たけみ熊之くまの大人うし=稲背脛命とは読み取れないように思えるのです。ともかく国譲りを承諾する
かどう
かを問う使者という役割を与えられた神には間違いがありません。

ここの
大穴持伊那西波伎
神社が、鷺社に呼ばれるにいたった背景がなんだったのでしょう。
鷺浦に鎮座しているというこ
ことなのでしょうが、天日名鳥⇒鷺ということからも、きているんで
しょうか?
古事記では、鷺(さぎ)は
天若日子の葬儀のときの、箒持ちの役割を担います。この箒は、「伯耆
耆」の由来とも
云われ、(伯耆風土記逸文では、「母来」となっています。)伯耆国造は、天穂日
命の系統ということになっているので、そういうこと
が関係しているのかしら

昭和41年御由緒調査書によれば「往古佐木といへる社号は延喜式神名帳に伊奈西波伎神社とあるを
以って神号を蒙り波伎と言ふべきを「は」と「さ」を通音を以て佐木と万葉書に記し来り一浦の名
も此社号より佐木浦といへり神号を象り(かたどり)社号とする例多し
…中略…防州岩国の住人某
奇想に出雲国佐木大明神と称し玉ひて疱瘡安全を守護し給ふとの託
宣有て夢覚ぬ翌朝家内へ白鷺一
羽翔入りて暫時有て飛去方を見れば出雲国の空に当れり誠に奇異の思いをなして速かに大社へ詣り
来り件の瑞夢を語りしより鷺の文字に改め書すと。」

ここに書かれているのは、「
伊奈西波伎社
」⇒「
波伎社」⇒「佐木社」⇒「鷺社」という転訛のよ

うです。

伊奈西波岐神社  
祭神稲背脛命   所在地 出雲市大社町鷺浦102  


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ところが、江戸時代の地誌、黒沢石斎著『懐橘談』(前編1653,後編1661)の「鷺の宮」の段では、
鷺社の祭神が、「素戔嗚命の妾」となっています。国譲りの段の登場する神とは、まったく縁の無
いものなっています。

"出雲国鷺宮は何れの神を祀り侍るやと牧童に尋ね侍れば是れは素盞鳴命の妾にてましましけるが天成
の霊質にて御契浅からざりしが後に天瘡を患ひ給ひ花の顔、忽に変じて悪女とならせ給ひ素戔嗚命と御
中もはやかれかれにならせ給ふ
かくて妾女我身の色衰へたる事を悲み、天神地祇に深く誓ひ給ひて末世の人民我に祈る事あらば疱瘡の
患を免れしめんと誓約し給ひし故に今に至る迄此の宮の石を取りて子児の守り袋に入れてかけぬれば痘
疹の病を脱ぐといひ伝へたりとぞ
年老ひたる社司の語りしは是は瓊瓊杵尊なり伝記にいふ所は昔神託童而祈我者免瘡之患爾来為痘瘡守
護神云々殊勝にぞ覚へ侍る」と"

「素戔嗚命の妾」とはいったいだれなのか?
弥生時代は対偶婚であって、そもそも「妾」なる概念そのものが無いはずですが、ともかく、疱瘡
を患って素戔嗚命と不仲になってしまいます。そこから、
稲背脛命=疱瘡に罹った
「素戔嗚命の妾」、
あるいは瓊瓊杵尊、というように別の伝承が組み合わさったような感じがします。

伯耆・南部町の鷺神社が、祭神 稲背脛命 磐長姫命としているところを見ると、瓊瓊杵尊と磐長姫
命が関係しているのかと思いましたが、そこは、元々別の神社の祭神で合祀されたもののようで違う
ようです。

ここの伊奈西波岐神社は、江戸時代、鷺大明神として全国的に有名だったようで、日向佐土原の修験
野田泉光院の『日本九峰修行日記』に"これ疱瘡の守護神日本第一也と云ふ"と書かれています。
ここの神社の石が「ご利益」があったということなのですが、宗教上の理由以外にも何か理由がある
のではと、ここの石の意味を考えてみました。
鷺浦には昭和10年代初頭に閉山するまで銅山があったようです。
銅は殺菌作用のある鉱物らしい。⇒一般社団法人 日本銅センター
それが関係したかどうかわかりません。

伊奈西波岐神社の灯籠の波乗り兎
鵜峠の大宮神社本殿にも波乗り兎の彫刻が施されています。

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■「素戔嗚命の妾」は、だれか?

伊奈西波岐神社から出雲大社までの山道を車で運転していると、突然道路下に大社造の神社が現れ
てびっくりします。大穴持御子神社、通称三歳社(みとせのやしろ)です。
富家伝承本によると、大和の葛城御歳神社が出雲に里帰りしたものという。

高比売神(高照姫命)、事代主命の兄妹は、出雲の神であると同時に、大和(葛城)の神でもあり
ます。

大穴持御子神社( 三歳神社 )   島根県出雲市大社町杵築東 
祭神 事代主神 高比売神 御年神

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長野県諏訪市大和に先宮神社(さきのみやじんじゃ)というこの高照姫命(高光姫命)を祀った神
社があります。古くは「鷺宮」さぎのみや、「鵲宮」さきのみやと呼ばれたようです。そして、こ
この祭神「光姫命」は、またの名を「稲背脛命」とされているとのことです。

社伝の一説によれば、高光姫命を首領に頂く大和の原住民は、建御名方神が諏訪に攻め入った時、
抵抗したがついには服従して、現在の社地から出ることを許されず、現在も境内前の小川に橋を架
けられていないそうです。
しかし、富家伝承によれば、高照姫命は、建御名方神のおばとなっています。

それはともかく、素戔嗚命は、富家伝承本によると彦火明命(=饒速日命)と同神であり、高光姫
命と結婚して丹波の海部王朝をつくり、その後、市杵島姫命と婚姻して、筑紫王朝をつくるという
ことになっています。海部氏勘注系図、先代旧事本紀でも、下記の系図となっております。
稲背脛命=素戔嗚命妾説ですが、高照姫命離縁説の伝承が背景にあるのかななどと思ったりもしま
す。

鳶大明神の本源地は、出雲の伊奈西波岐神社であると思いますが、白兎神と習合するにいたったこ
とは、その名の「さぎ」にあるのかもしれませんし、「皮が剥げる」といった疱瘡と素兎との共通
項からなったのかもしれません。ただ、太古からそうだったとは、自分には思えないのです。

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参考文献   
杉谷 正吉著『伊奈西波岐神社(鷺大明神)疱瘡守護神由来記』
                  (大社史話会発行『大社の史話第23号』)
       石破 洋著『イナバノシロウサギ総合研究』(牧野出版)
       宇佐 公康著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社
        斎木 雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話』 (おおもと新書)
       勝 友彦著『山陰の名所旧跡―地元伝承をたずねて』(大元出版)

# by yuugurekaka | 2017-06-03 16:16 | 因幡の素兎

国学者 本居宣長は、古事記伝(1798)神代八之巻【稲羽ノ素菟の段】にて「鷺大明神」(さ

ぎだいみょうじん)について述べています。


伯耆ノ国人の云く、本国八橋郡束積(ツカツミ)村に、鷺(サギ)大明神と云あり。須佐之男ノ命を
祭ると云。同村に大森大明神と云あり。大穴持命を祭ると云。件の両社の神主細谷(ホソヤ)大和と云。
さてその鷺大明神を疱瘡(モガサ)の守護神なりと云て、そのわたりの諸人あふぎ尊みて、小児の疱瘡
の軽からむことを祈る。(中略)此れ因幡の気多の前とあるには合ハざれども、若シは菟神は此の社に
て、鷺とは、菟を誤りたるならむか。疱瘡を祈るも、此の段の故事に縁あることなり。(後略)
※下線は私。 
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店)

伯耆の束積の鷺大明神は、現 束積の中山神社の境内地の摂社としてあるわけですが、須佐之男ノ
命を祭ると云い、疱瘡の守護神なのだそうです。そして、この「鷺大明神」を、「菟(うさぎ)を
誤ったのではないか?」と書いているのです。「うさぎ」⇒「さぎ」へとの転訛というわけです。

転訛というので、自分がふと浮かんだのが、ここ
束積
に建てられた「素菟神社」ですが、
須佐之男
が祭られる「
素鵞(すが)神社
」の文字です。須賀神社とも書かれます。
誤ったという可能性のひとつとして思い浮かんだだけです。

しかし、鷺大明神を祭っているから、白兎神伝承の地であるというようには、本居宣長は書いては
いません。私は、
元々は
白兎神伝承と
鷺大明神は別物だと思います。

そもそも、
この
疱瘡(ほうそう)=天然痘の概念が、弥生時代には存在せず、日本に伝染していた
ことが後代のこととされています。⇒ ウィキぺディア 天然痘

ウィキぺディアからの引用です。
〝日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発に
なった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られた
 と考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が
送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来
 の神をないがしろにした神
罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。
 『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)
かるるが如し」とあり、
 瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録
と考えられる(麻疹などの説もある)。585年
 の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。〟

鳥取県・伯耆地方には、
束積以外も、鷺の神を祭る神社があります。
 
鷺神社  鳥取県西伯郡南部町倭3番 賀茂神社境内社

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南部町の賀茂神社境内社 鷺神社ですが、『鳥取県神社誌』(昭和10年)によれば、
もと雲伯の

国境渡太ノ峠と称する所に鎮座し古来疱瘡神として信仰厚く旧藩主池田氏の祈願所なりしと云いま
す。 ※
雲伯は、出雲国と伯耆国。

賀茂神社 本殿の「波乗り兎」  
鳥取県西伯郡南部町倭3番 

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南部町の賀茂神社本殿には、波乗り兎が彫られています。境内社鷺神社との関係なのか、あるいは
関係なく白兎神伝承地なのか、定かではありません。

鳥取県・因幡の国にはないのか調べて見ますと、高草郡に
天日名鳥命神社 という式内社があり、「
天鷺の宮」と呼ばれているらしい。
天日名鳥命は、天穂日命の御子で、日本書紀での
稲背脛命と同
神とされています。
ただ、ここの
鷺(サギ)は、
天三祇宮(アマサギノミヤ)=
天日名鳥命、天穂日命、天日鷲命の三神
を祭ることから由来するという説もあるらしい。

天日名鳥命神社  鳥取県鳥取市大畑字森崎874

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天日名鳥命神社 拝殿


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賀茂神社のように白兎に関係する彫り物がないか見てみましたが、何もありませんでした。

さて、本居宣長は、古事記伝
神代八之巻で、鷺大明神が白兎神に関係がないのか考察しながらも、
最後の追加考察で、そのことを否定する現・松江市の神魂神社神主から聞いた話を載せて
います。

"おひつぎの考

 菟神。出雲ノ国意宇ノ郡大庭神魂ノ社ノ神主秋上ノ得國云ク、素菟神は、今も因幡ノ國高草郡の海
 邊内海村に、白兎ノ社とてあり。今は高草ノ郡なれども、氣多ノ郡に並ビて、氣多の崎の内なり。か
 の伯なる鷺大明神と云は、出雲ノ大社にも同ジ名の社有て、疱瘡を祈る神なり。菟神は其れには非
 ず、といへりき。"        ※下線は私。                
                 (本居宣長撰 倉野憲司校訂『古事記伝 (三)』 岩波書店

神魂神社神主秋上氏が云うところの出雲大社の社とは、
大穴持伊那西波岐神社(
出雲市大社町
鷺浦)
のことで、現在も
鷺大明神とも呼ばれています。
「菟神は其れに非ず」ということですけれど、稲背脛命が主祭神ですが、白兎神も
配祀されています。
うーん。
しかし、おそらく、さぎ⇒うさぎか、うさぎ⇒さぎのどちらかわかりませんが、長い歳月を
かけて、
習合したんではないのかなあと思います。

出雲地方にも鷺神社があるかと思い出しますと、そんなに見かけません。近代医学の発展で、
「疱
瘡の守護神」がいまや必要なくなったためか、元々少ないのかわかりませんが、松江市の忌部神社
の境内
社にありました。

忌部神社境内社 鷺神社   
島根県松江市東忌部町957


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# by yuugurekaka | 2017-05-29 07:00 | 因幡の素兎

『鳥取県神社誌』(昭和10年 鳥取県神職会 編)で、白兎神社はどう書かれているかと云いますと、
以下のよう書かれています。

祭神 白兎神、豊玉姫命、保食神
由緒 大兎大明神又は兎の宮とも称す、其の創立年月は詳らかならずと雖も、祭神白兎神は、古事記
に「此稲羽之素莵者也於今者謂莵神也」と記し頗る著名なり、其の神代より縁故深き此の地に社殿を
創立し奉斎せる處にして、今も尚當時の淤岐島、水門、気多前、高尾山、戀坂、身千山、伏野等の遺
近隣に現存し頗る歴史に富む古社たり、往古兵燹に罹り社殿焼失し、境内亦頗る荒廃せしが、慶長
中氣多郡鹿野城主亀井武蔵守茲矩社殿を再興し、社領二十石二斗を寄進す、池田氏國主となるに及
びて亦尊崇篤く社領を寄付す、降りて、明治元年保食神を合祀し、同四年村社に列格せらる。大正元
年十二月二十六日末恒村大字内海字杖突下神ヶ岩鎮座無格社川下神社(祭神豊玉姫命)を合祀す、川下
神社は古來氣多ヶ前なる神ヶ岩に鎮座せられたりしが、白兎神社と等しく兵燹に逢ひ、寶暦十四年七
月三日再興したるものなり、尚当社は古來疱瘡麻疹傷痍縁結び等に霊験著しきを以て著名なり。

※下線は私。


『古事記』になった舞台は、ここなんだという書き方です。

しかし、内海の白兎神社が、古事記の伝承地として半ば定説となったのはいつのことなのでしょう。
また、白兎神が、「縁結びの神」に加えて、「疱瘡麻疹」の神になったのはいつのことなのでしょ
う。


参道脇のうさぎ
白兎に道案内されて、白兎神社に着くという感じである。

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砂で作られた八上姫・大国主命と白兎神

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勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』(大元出版)の「白兎神社と大黒歌碑」を
見ていて、ちょっと驚きました。大元出版なので、富家伝承なのかもしれませんが、私は斎木雲州
氏が書かれたものだけを『富家伝承』として記述しています。

白兎神社拝殿


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〝物部イクメ王の東征の際、出雲を攻略した菟上王は、因幡国西部の伏野にしばらく滞在した。菟上
王は豊王国・宇佐家の御子だったから、宇佐のウサギ神(月神)を信仰していた。
 月の中にウサギがいるので、「月読みの神」をウサギ神とも称した。ウサギ神宮の「ギ」を省略し
た言葉が、ウサ神宮の名前になったと言う、だから、宇佐王家の人は、名前に「菟」の字を付ける仕
来りがあった、菟はウサギの意味に使い、ウと発音した。菟上王の名が一例である。〟

 〝ヤマトのワニ王家・彦イマス王の御子・日子立彦はその頃、稲葉国(後で字が変わった)方面に
勢力を養っていた。かれは菟上王軍に降伏し、菟上王軍に降伏し、菟上王に協力することになった。〟 

〝豊王国軍の一部は占領軍として、稲葉国の伏野に残り、そこに宇佐社を建てた。祭神はウサギ神(
月神)と豊玉姫命である。〟
              (勝 友彦 著『山陰の名所旧跡 -地元伝承をたずねて-』大元出版 )
  

白兎神社本殿

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鳥取県の日本海沿岸に菟佐族、和邇族が分布し、敵であったり、味方になったり、長い歴史でいろ
いろな局面があったのだろうと思います。
九州豊国の宇佐神宮の創始にも、出雲族の末裔「大神比義(おおがの ひき)」が関係しており、
んだかよくわからない複雑な様相です。

# by yuugurekaka | 2017-05-21 08:00 | 因幡の素兎

白兎神社 大鳥居   鳥取県鳥取市白兎603番地
この大鳥居は、昭和42年に建てられました。

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さて、白兎神社に来るのは何年ぶりでしょう。
過去記事 ⇒ 縁結びの神様 因幡の白兎 

■ 因幡鹿野藩初代藩主  亀井茲矩(かめい これのり)

角川日本地名辞典(昭和57年12月8日)によれば、
〝「因幡志」に「土人口碑に中比の乱世にや神光衰へ神祠も跡形なく、里諺も絶失ぬ事年久し」
 と、中世以降は社殿もないほどに衰微した。慶長年中にいたって気多郡鹿野城主亀井蔵守茲
 矩が夢に白兎の示現を見たのがきっかけとなり社殿を再興、社領も寄進した。〟とあります。

さて、白兎神社を再興させた亀井氏ですが、後に島根県の津和野藩主となる亀井氏です。 
 ⇒ ウィキペディア 亀井氏 
ウィキぺディアを見ると、〝亀井氏は紀伊国亀井を発祥とし、宇多源氏の佐々木氏の流れを汲む
されるが、信憑性に乏しく、穂積姓藤白鈴木氏流の亀井重清の流れとする説もある。〟と系譜は
のようですが、確実なことは、亀井茲矩の義理の父親である亀井秀綱は尼子経久側近として仕えた
事だそうです。

亀井茲矩自身は、尼子氏の家臣・湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉
湯町)に生まれ、山中幸盛(通称は鹿介)と出会い、毛利氏に敗れた尼子氏再興を目指す闘いに
加します。17歳の時には、現八頭郡八頭町市場の私部城(きさいちじょう)を任されます。
大菟明神を奉祭していた、あの八頭町です。

そして茲矩は、山中鹿介の養女(亀井秀綱の次女)をめとり、亀井姓を継ぎます。
詳しくは ⇒ ウィキペディア 亀井茲矩
尼子氏忠臣で有名な山中鹿介ですが、島根県民にとっては、日本酒の宣伝で「月山」(がっさん)
真っ先にに浮かびます。「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が、有名
です

尼子氏の居城富田城があった安来市広瀬町の「月山」ですが、元々は「勝日山」と呼ばれていま
た。月が登る山は、当然ながら、太陽も登ります。
元々は太陽信仰であったものが、月信仰に代わったのではないかと思います。

この尼子氏(あまごし)ですが、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家です。近江国甲良荘
尼子郷(滋賀県甲良町)に居住したのが、由来とか。
尼子氏が、月読命を奉祭していたのかどうかは、調べて見ましたが、よくわかりません。
     
大国主命と白兎の石像 
西方には道の駅が、あり、東方に石像がある。

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今は、恋人たちの聖地のように演出されています。このようにきれいに整備されないと、観光客は
まらないもののようです。
行った日は日曜日でしたが、若い男女のペアで賑わっていました。

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# by yuugurekaka | 2017-05-17 14:46 | 因幡の素兎

■ 伏野

白兎海岸にある有名な白兎神社の東に行った小山に、「伏野神社(ふしのじんじゃ)」があります。
この「伏野」という地名は、古くは鎌倉時代には既に書物で見られるらしい。
「伏野」をグーグルで検索すると、下記のグーグル地図が出てきます。

現在の伏野 グーグル地図

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白兎神社の近くの神社で、前から気になっておりまして、この度参拝しました。
西からの(たぶん)参道は、木製の鳥居でした。

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伏野神社    鳥取県鳥取県鳥取市伏野2255番

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祭神 須佐之男命、猿田彦神
 由緒 起源沿革詳かならず、神代の昔に於て白兔神伏し給ひし野なるを以て、大字名を伏野と称し
    次いで社名となす、正徳四年本殿屋根の葺替をなす、明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供
    進神社に指定せらる。〟      (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )


「白兔神伏し給ひし野なる」が、「伏野」の起源と書いてあります。

現在の祭神は、須佐之男命、猿田彦神で
、宇佐族ではないですが、
おそらくこの伏野にも、
菟佐族
が住んでいたに違い
ありません。

伏野神社  本殿と境内社

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■ 高草郡の老兎

ここの伏野という集落は、古代「高草郡」の中だったようです。高草郡とは⇒ ウィキペディア 高草郡
因幡国造の本拠地は、ウィキペディアによると、高草郡、八上郡と書かれています。

因幡国造は、『国造本紀』では、彦坐王の子、つまり和邇氏系と思われますが、宇部神社祠官伊福
部氏の系の方が、栄えているように見えます。しかし、高草郡の式内社や八上郡の中心地が土師郷
であったことを合わせて考えると、土師氏の一族がかなり力を持っていたように思えます。

さて、この高草郡ですが、因幡国風土記 逸文だとされる話が、『塵袋』(ちりぶくろ)という鎌
倉時代中期の書物にっています。

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※竹林の写真は、高草郡の中ではなく、八頭町の船岡竹林公園のものです。

〝白兎

  因幡の記を見ると、この国に高草の郡がある。その名の由来に二つの解釈がある。その一つは、
 野の中の草が高く生えているので、高草の野という。その野を郡の名とした、というものである。
 もう一つは、竹草の郡とする説である。ここには昔竹林があった。それで竹草というのである。竹
 は草が長いという意味で竹草というのであろうか。その竹の事を説明すると、昔この竹の中に老い
 た兎が住んでいた。ある時、急に洪水が起こって、その竹原が水没した。浪にあらわれて竹の根も
 掘られ、皆崩れて抜けてしまったので、兎は竹の根に乗って流れてしまったところ、おきの島につ
 いた。水嵩(みずかさ)が減って後に、本の所に帰ろうと思うけれども、海を渡る方法がなかった。
 その時、海
の中にワニという魚がいた。この兎がワニに言うことには、「お前の仲間はどれぐらい
 多いのか」。
ワニが言うことには、「我々の仲間はとても多くて海に満ちている」という。
後略
 …
    (『塵袋』第十  現代語訳 中村啓信監修・訳注『風土記 下』  角川ソフィア文庫)
  
後略のところは、古事記の『稲羽の素兎』とほとんど同じです。
菟佐族は、八上郡だけでなく、高草郡にも分布していたのかもしれません。


# by yuugurekaka | 2017-05-15 07:00 | 因幡の素兎

福本の白兎神社  鳥取県八頭郡八頭町福本 

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宇佐家伝承の云う大国主命に与えられた土地とは、八上郡全てではなく、この土師郷を中心とした
場所だったのではないでしょうか。

〝 このような条理遺構を残している因幡国は、隣国の伯耆国(鳥取県の西半分)とともに、古くから、
豪族の出雲族が、統治して開けていて、その統治下に、菟狹族や和邇族が生活していた。和邇族が、そ
の祖神をワニ神として祀っていたように、菟狹族は、ウサ神を氏神として祀っていた。〟

そして、オオクニヌシノミコトが、菟狹族に無償で与えた因幡国八上の地に移住して、この地を開拓
して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・北九州・東九州地方にまで発展し、古の菟狹国をつ
くって繁栄するに至った。〟     (宇佐公康著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 木耳社)

縄文~弥生時代に移り住んで、宇佐族はいつまでここにいたのでしょうか。
因幡国八上郡から美作国へ、そして山陽の安芸国へと移り住んでいったのか、奈良時代には既に、
土師氏に明け渡してしまったのか。確かめる手段はなにもありません。

はたまた土師氏が、兎神を奉祭していたのでしょうか?
土師氏系図を見ると、大江氏祖に「土師兎」なる名前が見えます。野見宿禰より数えて10代目で
宇佐族と同族化したのでしょうか。八上郡には土師郷と大江郷もあります。何か関係があるのかも
しれません。

土師氏系図

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江戸時代初期の鳥取藩医・小泉友賢(1622-16919)著 『稲葉民談記』(1688)には、

土師百井  大菟明神
福本    大菟明神
池田    大菟明神
内海    大菟明神

と、あります。内海(現在の鳥取市白兎)を除いて、3か所が土師郷に集中しています。
土師郷の3つの神社を回ってみました。


福本の白兎神社  鳥取県八頭郡八頭町福本 
第55代仁明天皇(833~850年)の時代に位を戴いたと伝えられる。
明治元年に村社となり、大正3年に同町宮谷(みやだに)の賀茂神社に合祀された。

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池田神社 鳥取県八頭郡八頭町池田

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土師百井神社は、なかなか見つかりませんでした。車でおんなじ場所往ったり来たりしてました。
神社の鳥居をすぐ探そうとしていたのが、間違いでした。「慈住寺」というお寺の境内にあったか
らです。
そういえば、『慈住寺記録』なる文書があり、大日霊尊(天照大神)が、この中山に降臨した際、
うさぎが道案内し、道祖白兎大明神として、祀神(ししん)としてこの中山の四か村の氏神として
崇めたと云います。

土師百井(はじももい)神社 鳥取県八頭郡八頭町土師百井 
 
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成田山青龍寺 鳥取県八頭郡八頭町下門尾46

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下門尾にある青龍寺には、江戸時代に造られた
福本の白兎神社の本殿が、厨子(ずし)として安置
されています。大正時代に白兎神社が、宮谷の賀茂神社に合祀されたため、大正3年にこちらに引
き受けられたとのことです。
あいにく、私が行ったときはお留守だったので、その本殿を見ることができませんでした。
正面上部には、波兎(なみうさぎ)の木彫りがなされているそうです。

青龍寺ですが、710年天明天皇の命によって、開かれた古寺であり、古くは「花喜山浄光寺」と
呼ばれていました。ここのお寺にもまた、天照大神が中山に降臨した際、うさぎが道案内をしたと
いう江戸時代に書き写された「城光寺縁起」があります。

霊石山を含めた中山の西麓が、猿田彦命ーサイノカミが、天照大神を道案内したという最勝寺縁起
り、この中山の南麓の「慈住寺」、「城光寺」には、その猿田彦命ではなく、道祖白兎明神が
道案内をしたということは、たぶん、中山の西麓には出雲族が住んでおり、南麓には、宇佐族が住
んでいたということになるんでしょうか。
西麓ではサイノカミ信仰、南麓では、兎神信仰だったのではないでしょうか。

# by yuugurekaka | 2017-05-11 15:56 | 因幡の素兎

中山の南麓を訪ねました。
霊石山を含めて 「中山」と云うらしい。「此山国の中央にありて最も勝れたるの地」(最勝寺
縁起 写本)ということで、因幡国の中央だということからのようですが、伯耆の素兎伝承の神
社も中山神社で、「中山」という名そのものが、宇佐族に何か関係があるのかしらと、思ったり
します。そういえば、岡山県美作にも「中山神社」があることが思い起こされます。

さて、その中山の展望台から、現・八頭町(やずちょう)の街を眺めてみました。

展望台 周辺案内図

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字が小さくて読めないと思いますが、白兎伝説のゆかりの地が表示されています。


展望台から見える街並み



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中山の南側の平野を国中平野といいます。現在は、中山の側の麓というよりは、平野部の八頭町役
場付近が中心なのかもしれませんが、奈良時代は、万代寺遺跡(郡家跡と推定される)や、土師百
井廃寺跡が、中山の麓にあることを考えると、中山の麓が中心地であったように思います。

現在の街の姿をもって、古代の都市を想像するのは、大概間違った先入観をもたらします。たとえ
ば、松江市ですが、今まで出雲国の政治の中心地がどこだったかを考えると、奈良時代は、大庭町
・大草町付近だったのに、中世においては、安来市富田城などということを、現在の街の姿から、
だれがすぐ想像できるのでしょうか。

現在の私都川(きさいちがわ)や八東川(はっとうがわ)の川筋も、古代は当然違ったはずで、そ
れゆえ発展している場所は違ったのでしょう。


土師百井廃寺跡 鳥取県八頭郡八頭町土師百井

7世紀中頃から8世紀初めの白鳳時代に建てられた慈住寺跡と推定される遺跡です。
中門、金堂(東西18m、南北18m)、講堂(東西30m、南北19m)、回廊(幅5.4mの基壇)、塔、南門等で
構成されている法起寺式の大伽藍だったようです。

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さて、古代の中心地であったであろう八上郡・土師郷ですが、角川地名辞典で調べると、〝近世の
土師郷(はじのごう) 寛文年間 稲村・門尾(上門尾)・福本・池田・土師百井5ヶ村 「稲葉
民談記」、「因幡志」と「因伯郷村帳」はこれに下門尾を加えた6ヶ村〟と書かれております。
古代も概ねここら辺だったのでしょう。

古墳が多い地域なので、土師部の人達が多く住んでいたのでしょうが、近くに大江郷も見られるこ
とを考えると、八上郡自体が、野見宿禰の後裔の豪族が力をもっていた地域だったのかもしれませ
ん。

国土地理院地図 中山の麓

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# by yuugurekaka | 2017-05-05 10:38 | 因幡の素兎

続いて樋口神社から南方の曳田郷の近くの神社を歩いてみました。渡一木神社の
鳥居から、霊石山
が見えます。

渡一木神社(わたりひとつぎじんじゃ) 鳥取県鳥取市河原町渡一木31

〝祭神 素盞鳴尊
 由緒 創立沿革詳かならず、往古より荒神宮と称す。明治元年八月渡一木神社と改称し郷社久多美
    神社の摂社なり。〟        (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )

※下線、赤字は私。



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元々は、「荒神宮」だったと云います。山陰では、荒神=須佐之男命とされるのが多いから、祭神
須佐之男命
となる例が多いと思います。また、記紀では、
須佐之男命
が出雲の祖神と描かれてい
すの
で、荒
神は、いわゆる祖霊信仰の古い形態だったのかもしれません。

一氏族の奉祭する荒神信仰が、集落として発展して、地主神、産土神、村の氏神さまとなっていっ
ったのではないか。
また、斎の木に藁蛇を巻き付けるという形が、祠、神社いうように発展した、ある一つのパタ
―ン
だったのではないか。古代豪族の首長の館が、神社になったというパターンもあったと思われます
が、荒神祭祀という所から、神社に到る回路もあったのだろうと思います。

袋河原神社 鳥取県鳥取市河原町袋河原207

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祭神  帯中津日子命、品田和気命、息長帯比売命、素盞鳴命、罔象女命
 由緒 創立年代明かならず、古くより素盞鳴命(一に大国主命と称す) を祀りて氏神となし荒神宮
 称せしが、當村の対岸に片山村あり、曾つて洪水の際河身東に移動したるより片山村民の当地に
 移住せる者夥しく終に其の片山時代に氏神なりし片山字宮原鎮座八幡宮を村の氏神として崇敬し
 古来より当村鎮座荒神宮を摂社となせり、因幡誌に「氏神分八幡宮在片山村」と記せり之なり、
 文化四年十二月十五日終に八幡宮を勧請して荒神宮と相殿に奉祀し世々産土神八幡宮と称せり、明
 治元年十月二十九日村字下平鎮座岩瀧神社祭神 罔象女命を合祀す、此の時荒神宮は再び社殿を
 新築して境内に別に奉祀せり、次いで袋河原神社と改称し明治五年三月村社に列格せらる、降りて
 明治四十三年十一月二十三日再び境内鎮座荒神宮を合祀す。 
                     (『鳥取県神社誌』 昭和10年 鳥取県神職会 編 )

次に
樋口神社
の北方の袋河原の神社に行きました。角川地名辞典では、佐井郷ではない気がします
けれど…。

ここの神社も、元は荒神宮だったようです。
千代川が東から西に移動したので、集落も移動したようです。それに伴って、
片山神社の氏神の八
幡様が移ったように由緒に書かれています。渡一木神社と違うのは、同じ荒神宮ですが、
須佐之
だけではなく、「一に大国主命と称す」と荒神=大国主命とも書かれているところです。

袋河原神社に移ってきたという片山の神社に行ってみました。現在は、「大山津見神」が祭神のよ
うですが、明治10年の「鳥取県神社誌」当時は、八幡様を祀っていたけれど、どういう経緯があっ
て、祭神が変わったのかわかりません。

片山神社 鳥取県鳥取市河原町片山729

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祭神 帯中彦命、誉田別命、気長足姫命
 由緒 古老の口碑に建保年中同村鎮座國英神社の御分霊並みに帯中彦命を勧請奉祀し八幡宮と称せ
 しが明治元年八月片山神社と改称し同五年三月國英神社の摂社となす。
                     (『鳥取県神社誌』昭和10年 鳥取県神職会 編 )

「建保」といったら、鎌倉時代の1213年から1219年頃のことです。
しかし、その前は、どのような祭神を祭っていたのでしょう。ここも、もしや荒神宮であったの
はないかしら。「大山津見神」は、山の神です。日本書紀に登場する山の神は、概ね蛇です。

“駿河国風土記には、荒神こうじんは他の大社の末社ですなわち、その神の荒魂あらたま(註:神の荒々しい側面、

 荒ぶる神)であるとの説が記録されておりますが、末社ではない独立した荒神が極めて多い以上

 は、成立しない説であり、社寺の境内に荒神を祀るのは、地主神の思想に基づくものであるのは、

 疑いが無いと思います。雲陽誌(註:享保二年=1717年に松江藩士、黒澤くろさわ長尚ながひさが編纂した島

 根の地誌)や東作志とうさくし(註:正木輝雄が編纂した美作国=今の岡山県、東部の地誌)を見れば荒神

 は、正しくは山野の神であり、その数の多い事はなお東国の山神と同じでございます。特に注意

 すべきは出雲の美作に限った事ではなく、多くの荒神にはまったく社殿が無い事です。〟

                           (柳田国男 著『石神問答』)


『荒神は、正しくは山野の神』、そこを考えると、太古、霊石山の「山の神」を各集落で荒神様と

して祭ったのではなかろうか…という思いが浮かんできます。

塞ノ神=幸ノ神⇒荒神という転訛か、あるいは、吉野裕子説である「顕(あら)波波木神」⇒荒波

波木⇒荒神という転訛か、いろいろな説が考えられますが、ともかく、自分には神社祭祀以前の信

仰のような気がします。


※ここでは、竈の神や三法荒神の話ではなくて、地荒神の話です。



# by yuugurekaka | 2017-04-29 22:09 | 因幡の素兎