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因幡国高草郡 天穂日命一族を祭る社

■ 高草郡の式内社

鳥取県の八上郡に訪れた時、湖山池の南西のほとりのホテルに一泊しました。
湖山池は、「池」という名がついていますが、広いし、美しい。小さな島々が遠くに見えますが、大昔は、海だったのだろうなあと思わせます。

湖山池  鳥取県鳥取市
古代は海の湾であったが砂丘の堆積によって、海と別れた海跡湖。

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この湖山池の西南方面が、「高草郡」でありました。
高草郡の式内社(927年)を記述しますと、①伊和神社、②倭文神社、③天穂日命神社、④天日名鳥命神社、⑤阿太賀都建御熊命神社、⑥大和佐美命神社、⑦大野見宿祢命神社の7社。

倭文神社を別にしても、祭神名が神社名となっていて、なんとわかりやすい。その倭文神社にしても祭神とは違うのかもしれないが倭文氏の神社ということは間違えようがない。
だから、たぶん祭神は平安時代より、変更されることなく、今日まで至っていると思います。

ここ高草郡には、天穂日命系統の神社が3社あります。「天日名鳥命」は、天穂日命の御子、「御熊命」は、「天日名鳥命」の別名です。
それも、湖山池の西南のほとりに集中しています。湖山池が昔は海だったことを考えると、ここは太古港で海上交通の要だったのだろうなどと想像します。

単純に考えれば、天穂日命一族が太古ここに住んでいたのだろうと思いますが、島根県東部が、天穂日命直系の出雲国造家の本拠地と言われているのに、これぞ天穂日命を祀ったと言われる神社が多くありません。出雲大社の祭神が、素戔嗚命に変わったことや、熊野大社の祭神が素戔嗚命であ
ることを考えると、天穂日命一族そのものは先祖の天穂日命そのものよりも、素戔嗚命を祀った感じがします。

だから、ここの天穂日命系統の神社も、その直系の氏族というよりも、後継の氏族ではないのかと思ってしまうのです。湖山池公園の駐車場に車を停め、天穂日命神社へ行きました。


天穂日命神社拝殿  鳥取県鳥取市福井字宮ノ谷361

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天穂日命神社説明板

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〝ふるさと文化探訪
 天穂日命神社

 古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祭る式内社である。
 古代の因幡に大社は国府町にある宇部神社であるとされているが、格式から見ると9世紀中頃まで は、天穂日命神社が宇部神社よりも上位にあった。すなわち、因幡国内における中心的勢力はこの高草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。
  なお、天穂日命神社が、元は現在の布勢日吉神社の社地にあったという一説もあり、社地の決定には疑問視する向きもある。

 平成四年三月  
                                   鳥取市教育委員会  "
 ※ 下線は私。

この説明板の下線のところにうん?と思ってしまいました。「因幡国内における中心勢力はこの高草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。」というところです。その前提となる因幡国造氏は、彦多都彦命を創始とする和邇氏系、また宇部神社の神主家の伊福部氏系だと自分は思い込んでいたので、どちらの氏族も、大国主命は奉祭するであろうと思いますが、天穂日命が氏神ではないのだろうと
する違和感です。

どうだったかなと改めて調べてみました。
まずは、『先代旧事本紀』。"稲葉国造 成務朝の御世に、彦坐王の子の彦多都彦命を国造"とあります。

この彦多都彦命ですが、父、日子坐王が崇神天皇時、丹波に派遣されたの古事記の記述あり、丹波道主命=美知能宇斯王は派遣先の丹波で生まれた男子であるから 丹波彦立王であるといい、丹波道主命=彦立王という説があります。

ちなみに、富家伝承本によれば、"磯城王朝最後の大王の名前が、旧事本紀に表れている。その中の国造本紀では、大王・彦道宇斯は、「彦多都彦命」と名が変わっていた。かれは稲葉国(のちの因幡国)に追われて、稲葉国造となった。彦多都彦命の娘・ヒバス姫は、望まれてイクメ大王の后
となった。武内宿祢は彦多都彦命を守るために、イナバ国の宇部(鳥取市)に移り住んでいた。"

高群逸枝著『母系制の研究』(講談社文庫)によれば、"(1)彦多都彦命…(2)伊其和斯彦命、大己貴命十四代孫武牟口命の子伊布美宿禰の命の児なり…。(3)若子臣(汗麻宿禰の子)系図に云ふ…、…中略…因幡国造は、彦坐系を外にしても、大国主系、武内宿禰系、尾張系の三系
を内包している。"

また、宇部神社宮司家、伊福部氏は通説では物部氏の一族とされ、「伊福部氏系図」を見ると、「饒速日命」は出てきますが、「天穂日命」はどこにも見当たりません。

むむむ…これはどういうことなのか、改めて国造を、調べて見ます。
以下 ウィキペディアの抜粋です。

"大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味し、この国の範囲は令制国整備前の行政区分であるため、はっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。また定員も1人とは限らず、1つの国に複数の国造がいる場合もあったとされる。"

考えてみるに、国造というのがずっと一つの血統、氏族のみであるという考え方があるが、弥生時代の末期から大化の改新まで、ずっと同じ氏族と言うのがそもそも不自然です。
複数の国造がいたかも知れないし、また争いで国造の系統が取って代わったこともあるでしょう。

説明板の出典は何かわかりませんが、国造の系譜として、天穂日命系統の一族か、あるいは野見宿禰の一族ー土師氏の系統もあったのかもしれません。時代時代で、国造の系統が変わっていたこともあるのでしょう。

天日名鳥命神社 鳥取県鳥取市大畑字森崎874

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■ 自然の造形  阿太賀都健御熊命神社  

『日本書紀』では、崇神天皇の項では、武日照命(武夷鳥命とも天夷鳥命ともいう)ですが、国譲りの項では、天穂日命の御子は、大背飯三熊大人(おおそびのみくまのうし)、別名・武三熊之大人(たけみくまのうし)と書かれています。

阿太賀都健御熊命神社(あたかつたけみくまのみことじんじゃ)は、その「武三熊之大人」を祀っています。「たけみくま」の前に付いている「阿太賀都」(あたかたつ)はなんでしょうか?美称なのか、『新撰姓氏録』に「和仁古、大国主六世孫 阿太賀須命之後也」というのがありますが、
和邇氏の祖神と天穂日命の御子を同時に奉祭したのかしら?よくわかりません。

よくわからないと言えば、神社の場所がなかなかわかりませんでした。
カーナビをつけていたら、すぐわかったのかどうかわかりませんが、ゴルフ場の近くをぐるぐる彷徨っておりました。

あっ、道しるべを発見。ここを左折しないといけませんでした。

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地図がありました!

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地図の通りに歩いていきますと、山の小道に鳥居が見えます。

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ついに神社が、見えるところまで来ました。
しかし、急な坂が続いています。右手には、自然石の80段の石段だそうです。

阿太賀都健御熊命神社  鳥取県鳥取市御熊612 

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この自然石の説明書きがありました。

”鳥取市指定文化財
御熊神社 玄武岩柱状節理  昭和四十九年四月四月指定
御熊神社社殿一帯にみられる玄武岩は、径約五十センチ、長さ百五十~二百センチの六角状の玄武岩で形成されており、その数量及び範囲については確かなところ不明である。社殿への参道階段や民家の石垣などにはこれたの玄武岩が多く利用されている。
玄武岩の産地は市内にもみられるが、そのほとんどが縦型柱状節理のものであって、当御熊神社にみられる横型柱状のものは珍しいものである。”

「節理」とはなんぞや?
ウィキペディアによれば
「節理(せつり)とは、岩体に発達した規則性のある割れ目のうち、両側にずれの見られないものをいう。マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じる。なお、割れ目の両側にずれが見られる場合は断層になる。」

そうですか。石になって割れたのではなく、石ができる時割れたのですね。不思議です。

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なんとか神社に到達できました。

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神社の裏山には、玄武岩柱状節理が見れます。自然の造形物とはにわかに思えません。まるで石切りの工場がどこかにあって、積み上げたように思えます。

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健御熊命神社は昔、柱大明神とも呼ばれ、石を切り出す鉄を鍛えた「鍛冶屋谷」、石の切屑を捨てた「石屑(こけら)谷」、「細工谷」などの地名が残り、摂社に鍛冶殿社を祀ったのだそうです。






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by yuugurekaka | 2017-06-26 18:30 | Trackback | Comments(0)