『稲羽の素兎』(3) 八上姫の郷

■因幡の八上郡とは

霊石山

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大国主命が八十神(異母兄弟達)と八上姫に結婚を申し込みに行ったとされる八上郡に行きました。
本を読んでイメージした八上郡とは全然違っていました。小さな一つの盆地のように思っていまし
たが、霊石山の麓に流れる3本の川(曳田川、千代川、八東川)に分かれた谷間のような地域でし
た。

菟佐族が分布したのは、おそらく、右手(東側の)の八東川流域の開けた地域だと思えました。
八上姫を初めとする豪族が住んでいたのは、左手の(西側)曳田川の流域だったのかな。

八上郡をウィキぺデイアで調べると

〝古事記神話因幡の白兎に登場する八上姫(やかみひめ)が地名由来である。12郷を有する因幡
 国内で最大規模の郡であった。郡家の所在地は万代寺遺跡(現・八頭町)とされるほか、同町福
 井にある西ノ岡遺跡も一時期、郡家であったとする説もある。『延喜式』などに見える莫男(ま
 くなむ)駅は八上郡家付近に所在したと考えられる。〟

Google Earthで見る八上郡の一部

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平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』に記された八上郡の12の郷は以下の通りです。

若桜郷
丹比(たじひ)郷
刑部郷
亘理(わたり)郷
日部(くさかべ)郷
私部(きさいべ・きさいちべ)郷
土師郷
大江郷
散岐郷
佐井郷
石田郷
曳田(ひけた)郷

この丹比(たじひ)郷は、たぶん第28代宣化天皇の裔なる多治比氏に由来する郷でしょう。

全体的には、品部に由来する郷が多いですね。日下部、私部、刑部、土師郷…。
土師氏と、その後継の大江氏は、霊石山の麓から南方に分布していったようにも見えます。
霊石山中腹には、猿田彦命を祀った磐座があります。

この亘理(わたり)とは、隠岐島の由良姫神社の祭神に由来するのか、あるいは品部の渡部なの
か。古代の八上郡は「因幡国内で最大規模の郡」で、ヤマト中央と密接な関係にあったと思われ
ます。

品部とはなんだったか、改めて調べてみます。以下、ウィキぺデイアの記事。

〝職業部
 具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。海部(あま
 べ)・錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)・麻
 績部(おみべ)・渡部(わたりべ)・犬養部(いぬかいべ)・馬飼部・鳥飼部・解部(ときべ)
 などの例がある。
 子代(こしろ)・御名代(みなしろ)王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)
 ・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例が
 ある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の
 回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。
 豪族部
 諸豪族の名を帯びる部。例として畿内の有力豪族巨勢臣の巨勢部・尾張連の尾張部・大伴連の
 大伴部・蘇我臣の蘇我部などがある。
 これらを総称して、部ないし品部という(品は「しなじな」、すなわち「諸々」の意)。

 こういった分類は便宜的なもので、このように截然と区別・区分されるわけではない。例えば
 土師部は、土師器を作るという職業部であると同時に、土師氏という豪族の名を帯びる豪族部
 でもある。〟 (以上 ウィキペディア 部民制 

河原城  鳥取県鳥取市河原町谷一木1011
霊石山の反対側の山に築城されている。正式名称は「丸山城」。

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■八上姫を祀る神社

売沼(めぬま)神社 鳥取県鳥取市河原町曳田字上土居169

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〝式内社 賣沼神社
 一、祭神 八上姫命
 由緒「延喜式神名帳」に「八上郡賣沼神社」とある神社でありまして、中世より「西日天王」とい
 っておりましたが、元禄年間よりもとの賣沼神社という名にかはりま  した。御祭神は「八上姫
 神」でありまして 御祭日は十月一日を大祭としております 「古事記」の伝えるところによると、
 出雲国の大国主神は八上姫神をオキサキになさろうとしてこの因幡国にお出になりま した。途中
 で白兎の難をお救いになりま して、この白兎神の仲介で八上姫神と首 尾よく御結婚になりました。
 この神話伝説は漂着した外地の舟人たちが千代川を さかのぼって、まずこの曳田郷をひらいたこと
 に間違はありません。対岸山麓の前方後円墳を神跡とするのも決して単なることとは云えないようで
 あります。〟(説明板より)


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曳田川のせせらぎの音が聞こえ、とても安らかな気持ちになる境内でした。

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境内前を流れる曳田川

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本殿

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古代の川辺で祭祀が行なわれたのかなと想像しましたが、元宮は対岸の梁瀬山の方だったらしいの
です。梁瀬山の中腹には、前方後円墳(全長50m、幅19m、高さ4m)があり、嶽古墳という八上郡最大
古墳があります。
八上姫は、大国主命と同時代の人なので、弥生時代の姫様だから、古墳は、八上姫と云われている
けれど後の子孫の墓ではないでしょうか。

八上姫公園から見える梁瀬山 

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嶽古墳の説明板

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■曳田氏 中央に進出?

八上姫の後裔の豪族ですが、曳田郷を治めていたということだから、曳田氏だったのだろうと思い
ましたが、なかなか、古代の因幡にそういう文献が見当たりません。
インターネットで検索したら、後代の、平安時代末期に因幡の尾張氏ー八上郡司を務める豪族で佐
治氏の分家の曳田氏が出てきます。(→ ウィキペディア 佐治氏 


大和国城上郡にも、曳田邑があり、『延喜式』神名帳に「曳田神社」が見えます。(比定神社 乘
田神社(ひきた)神社 桜井市白河285 )
この曳田氏ですが、匹田(ひきた)・辟田(へきた)・引田(ひきた)・疋田(ひきた)とも書か
れるようです。漢字が後代になって入ってきたからそういうことなったと思いますが、それゆえ、
かなり古い豪族だと類推できます。

この曳田(ひきた)を拠点とした引田氏ですが、古代豪族として、三輪引田君、大神引田朝臣とし
て、名が見えます。
三輪氏の族のようで、大国主命の裔の一族らしいですが、なぜだか、二重の複氏を名乗っていま
す。
三輪氏・大神氏だけかと思いきや、阿部引田氏、物部引田氏…などの複氏もあります。
また、『新撰姓氏録』でも調べて見ました。これまた額田部氏との複氏。

 大和国神別
 額田部引田連――同神十三世孫、意富伊我都命の後

よほど母族の名を残さなければならない事情があったと思えますが、残念ながら、始祖が父系なの
で、たとえば、『母祖 八上姫命』というのは出てきません。

『姓氏家系大辞典 』(太田亮 著 角川書店)で、引田氏を一つ一つ調べて見ましたが、因幡八
郡の曳田氏と大和の引田氏との関連性を何も見つけることはできませんでした。

しかし、因幡・八上郡から大和に進出するということがあったとしてもなんら不思議はなかろうと
思います。


by yuugurekaka | 2017-04-05 23:47 | 因幡の素兎