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物部東征の道 ~西出雲~ (3) 小田から差海か?

■ 物部神社からどこを通って出雲へ 


富家伝承本によれば、物部・豊連合軍は、物部神社を本陣として、小田を通り、神門水海の東岸で、

真幸が丘公園北方の多聞院辺りにあった西出雲の王宮を攻めていったそうです。

しかし、陸路で行ったのか海路で行ったのか何も記述がありませんので、様々な神社の祭神や、(旧)

市町村誌を調べて、自分なりに推理してみたいと思います。

推理というのは偉そうで、想像といったほうがいいのかもしれません。


(旧)市町村誌や神社の由緒をいろいろと調べて見ましたが、

物部・豊軍が、西出雲の王都を攻め滅ぼしたような伝承は一切発見できませんでした。

それは、記紀が「国譲り」で、出雲の方が自主的に国を譲ったということが書かれているわけですか

ら、それに反するような話は、許されず、まあ書かれていなくて当然と思われます。


しかし、司馬遼太郎氏が、物部氏が出雲大社の「兵器庫」の鍵を管理していたという話は、『簸川郡

誌』(1940年)という書物に書かれていました。


物部神社を本陣として出立して、どの道を通ったのだろうか?

大田市から出雲市までというのは、仙山峠などあり、なかなか険しい道です。一番たやすいのが、海

岸へ出て、船で出雲平野を目指す道です。

そうなると、大田市の波根港だろうか。波根港には、立神岩、立神島なる景勝地があります。

立神(たてがみ)は、海の遥かかなたから神霊が依りくる意味らしいのですが、

逆に神が出立したところではないのかしらなどと、想像してみました。まあ、そういう伝承もありま

せん。


しかし、出雲と石見という行政区は、かなり後代のことなので、石見と云っても出雲勢力の中を堂々

と行くのはかなり危険な道、物部神社がかなり大田市の南方なので、山間の谷川の険しい道をたどっ

て、田儀港まで出て、船に乗ったとも思えます。

田儀には、「手引ヶ浦」の伝承があります。もしや、物部氏の手引き?と思いきや、多伎芸神社の祭

神、大国主命の娘ー阿陀加夜怒志多伎吉比売命の伝説です。以下『田儀村史』(昭和36年、多伎村

役場発行)からの要約です。

  

  姫が、ある朝、父の杵築の宮に行こうとすると、海神が出立を惜しんで、津波を起こし引きとめ

  ようとしました。姫は、「私は今父君のおめしをうけて杵築の宮にまいろうとここまで来たので

  ある。早く波をしずめ潮をひかせて道を開かせたまえ」と言って浜辺を通ろうとされると、大波

  がピッタリ止んでしまい美しい白浜にかえりました。それで、お供の者たちの手を引いて真一文

  字に稲佐の浜にお急ぎになりました。そのいわれで、手引き浦というようになったそうです。


■ 小田神社


さて、なぜ海路からか、出雲へと私が思ったのかですが、田儀からまた東に行った所に、小田神社

という古社がありまして、元々は、社は海の中の鸕鵜島(うのしま)に鎮座していたという話から

です。なぜに、神社が海上の小島に? なにかのメモリアルとしか思えません。


小田海岸

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ここの神社の祭神は、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。
配祀神は、豊玉姫命、鵜葺草葺不合命、玉依姫命で、日向神話の祭神たちです。
富家伝承によれば、彦火々出見尊は、饒速日命と市杵嶋姫命の御子です。

改めて、日本書紀を確認しました。
ニニギノミコトー彦火火出見尊(またの名火遠理命、山幸)ーウガヤフキアエズノミコトー神武天
皇という系譜ですが、神武天皇の別名、「彦火火出見尊」とも書かれていて、混乱する記述となっ
います。

小田神社 拝殿と本殿 
島根県出雲市多伎町小田503


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■ 差海から神西湖ー神門水海へ

そして、海で西進し、湖陵町差海辺りにかけて上陸したのではないか…と。
湖陵町の差海川を上って行くと、現在の神西湖(出雲風土記時代の「神門水海」)につながります。
ここの差海に鎮座する神社の祭神は、建御雷神、経津主神で、社伝によれば、国譲りに際して、「
須々美降リ玉ヒシ地ナルヲ以テ須々牟トイフベキヲ、後世佐志牟ト云へルナリ」ということです。

当地に上陸し、「須々美」(すすみ)が「須々牟」(すすむ)となり、「佐志武」(さしむ)とな
ったらしい。出雲地方の神社名は、「ほとんど意味不明」なので、こういう現代語の転訛で説明さ
れるとなんか違う気がします。また、この神社名の「佐志武」から地名の「差海」(さしうみ)に
なったそうです。

佐志武神社 
島根県出雲市湖陵町差海891

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佐志武神社 本殿と拝殿

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この差海から対岸の方向から(東北方向)から写した現在の「神西湖」(じんざいこ)の姿です。
神西湖は、古代の「神門水海」(かんどのみずうみ)の名残りです。
弥生時代には、斐伊川は宍道湖ではなく神門水海を流れていました。

出雲大社の前は、今のような広い平野ではなく、神門水海という大きな湖があったようです。
 
神門水海の名残 神西湖 

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差海からいったん上陸し、また船で知井宮の真幸ヶ丘(旧 山崎ヶ丘)の裏手に回ったのではない
のだろうか。そこから、智聞院遺跡の辺りにあったとされる西出雲の王宮に侵入したのではないか
しら。まあ、想像の域を超えることはありません。

弥生時代の神門水海
「神西湖親水公園」の看板に、私が黒字の地名を加工したものです。 


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その後どうなったかについては、過去記事へ。→神門臣の拠点はどこだったか? (4)西出雲王国滅亡の時

真幸ヶ丘から見える古志の街並み

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真幸ヶ丘に鎮座する智伊神社

元々は、神宮寺の智聞院にあったという。
富家伝承本によれば、宇佐家の菟上王が建てた神の宮とは、出雲大社ではなく、出雲王宮跡に建てた智伊神社だそうで
ある。


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Commented by 名無し at 2017-02-03 15:31 x
攻め滅ぼすとか邪推が激しいですね。
戦力的にも簡単に攻め滅ぼせるとは思いませんし。
妄想でネガキャンする人が居るので困ります。

出雲も後の方の話ですし歴史的には後から作った地方ですからねえ。
出雲被害史観は何なのかと。
Commented by valmalete2 at 2018-01-11 00:40
こんばんは 冨家伝承でも、菟上王のくだりは富家に伝わっていなかった分家の情報なので
不正確だと思います。菟上王と曙立王は、磯城富王家の人でホムチワケ伝説に関わった兄弟
です。古事記に大和師木登美豊朝倉曙立王と書かれていて、富さんが言う分家の磯城富家の
人たちです(笑)
Commented by yuugurekaka at 2018-01-13 15:38
> valmalete2さん
西出雲を滅ぼした張本人が、今度はホムチワケ伝承で、神門臣家を頼り、和邇家のホムチワケ皇子や沙穂姫を宇佐国方面に逃すという話は、頭の中を混乱させます。
本を読んだ限りでは、神床家の伝承も加わっているんでは?という気もしました。
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by yuugurekaka | 2017-01-28 20:41 | Trackback | Comments(3)