2017年 01月 28日
物部東征の道 ~西出雲~ (3) 小田から差海か?
■ 物部神社からどこを通って出雲へ
富家伝承本によれば、物部・豊連合軍は、物部神社を本陣として、小田を通り、神門水海の東岸で、
真幸が丘公園北方の多聞院辺りにあった西出雲の王宮を攻めていったそうです。
しかし、陸路で行ったのか海路で行ったのか何も記述がありませんので、様々な神社の祭神や、(旧)
市町村誌を調べて、自分なりに推理してみたいと思います。
推理というのは偉そうで、想像といったほうがいいのかもしれません。
(旧)市町村誌や神社の由緒をいろいろと調べて見ましたが、
物部・豊軍が、西出雲の王都を攻め滅ぼしたような伝承は一切発見できませんでした。
それは、記紀が「国譲り」で、出雲の方が自主的に国を譲ったということが書かれているわけですか
ら、それに反するような話は、許されず、まあ書かれていなくて当然と思われます。
しかし、司馬遼太郎氏が、物部氏が出雲大社の「兵器庫」の鍵を管理していたという話は、『簸川郡
誌』(1940年)という書物に書かれていました。
物部神社を本陣として出立して、どの道を通ったのだろうか?
大田市から出雲市までというのは、仙山峠などあり、なかなか険しい道です。一番たやすいのが、海
岸へ出て、船で出雲平野を目指す道です。
そうなると、大田市の波根港だろうか。波根港には、立神岩、立神島なる景勝地があります。
立神(たてがみ)は、海の遥かかなたから神霊が依りくる意味らしいのですが、
逆に神が出立したところではないのかしらなどと、想像してみました。まあ、そういう伝承もありま
せん。
しかし、出雲と石見という行政区は、かなり後代のことなので、石見と云っても出雲勢力の中を堂々
と行くのはかなり危険な道、物部神社がかなり大田市の南方なので、山間の谷川の険しい道をたどっ
て、田儀港まで出て、船に乗ったとも思えます。
田儀には、「手引ヶ浦」の伝承があります。もしや、物部氏の手引き?と思いきや、多伎芸神社の祭
神、大国主命の娘ー阿陀加夜怒志多伎吉比売命の伝説です。以下『田儀村史』(昭和36年、多伎村
役場発行)からの要約です。
姫が、ある朝、父の杵築の宮に行こうとすると、海神が出立を惜しんで、津波を起こし引きとめ
ようとしました。姫は、「私は今父君のおめしをうけて杵築の宮にまいろうとここまで来たので
ある。早く波をしずめ潮をひかせて道を開かせたまえ」と言って浜辺を通ろうとされると、大波
がピッタリ止んでしまい美しい白浜にかえりました。それで、お供の者たちの手を引いて真一文
字に稲佐の浜にお急ぎになりました。そのいわれで、手引き浦というようになったそうです。
■ 小田神社
さて、なぜ海路からか、出雲へと私が思ったのかですが、田儀からまた東に行った所に、小田神社
という古社がありまして、元々は、社は海の中の鸕鵜島(うのしま)に鎮座していたという話から
です。なぜに、神社が海上の小島に? なにかのメモリアルとしか思えません。
戦力的にも簡単に攻め滅ぼせるとは思いませんし。
妄想でネガキャンする人が居るので困ります。
出雲も後の方の話ですし歴史的には後から作った地方ですからねえ。
出雲被害史観は何なのかと。
不正確だと思います。菟上王と曙立王は、磯城富王家の人でホムチワケ伝説に関わった兄弟
です。古事記に大和師木登美豊朝倉曙立王と書かれていて、富さんが言う分家の磯城富家の
人たちです(笑)
西出雲を滅ぼした張本人が、今度はホムチワケ伝承で、神門臣家を頼り、和邇家のホムチワケ皇子や沙穂姫を宇佐国方面に逃すという話は、頭の中を混乱させます。
本を読んだ限りでは、神床家の伝承も加わっているんでは?という気もしました。