2016年 05月 29日
出雲風土記 ヤマタのオロチ
出雲風土記(733年)には、記紀にある素戔嗚尊(スサノオノミコト)のヤマタのオロチ
退治が無いと云われます。
それから考えると、ヤマタのオロチ退治は、国が考えた創作だったように思えます。
私は、20代ごろから、この話は高天原を追放された素戔嗚尊が出雲神族を征服した話であ
ると思うようになりました。さらに具体的には、出雲国古志郷を拠点に持つ神門臣を平定し
たのではないかなと想像しています。
しかし、出雲風土記は、地元の伝承を載せるわけですから、そういう出雲を平定するような
話は載せられなかったのかな。
しかし、素戔嗚命ではなく、大国主命の「越の八口平定」の話が、意宇郡の2つの郷名由来
(母里郷、拝志郷)にでてきます。
母理郷は、現在の安来市伯太町の北部を除いた地域です。
母理郷(もりごう)。郡家(ぐうけ)の東南三十九里一百九十歩の所にある。
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の大穴持命(おおなむち)が、高志の八口
(こしのやぐち)を平定なさってお帰りになる時、長江山においでになっておっしゃられた
ことには、「わたしが国作りをして治めている国は、皇御孫命(すめみま)が平和に世をお
治めになるようお任せ申し上げる、ただ、八雲立つ出雲国は、わたしが鎮座する国として、
青く木の茂った山を垣の如く取り廻らし、玉の如く愛でに愛で正して守りましょう。」とお
っしゃられた。だから、文理という。〔神亀三年(726)に字を母理と改めた。〕
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)
拝志郷(はやしごう)。郡家の正西二十一里二百十歩の所にある。所造天下大神命が、越
の八口を平定しようとお出かけになったときに、ここの林が盛んに茂っていた。そのとき
おっしゃられたことには、「わたしの御心を引き立てるものである。」とおっしゃった。
だから林という。〔神亀三年に字を拝志と改めた。〕この郷には正倉がある。
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)
布宇神社(ふうじんじゃ) 島根県松江市玉湯町林1204
拝志郷にある大己貴命を祀る社。元宮は、宍道湖湖畔の正倉だったという。
この「越(高志)の八口」というのは何か?初めは地名だと自分にも思えていたのですが、
実際、新潟県岩船郡関川村八つ口という地名があるわけです、
しかし、よくよく考えてみますと、大国主命は越の奴奈川姫と婚姻関係を結んでおり、
(富家伝承では、大国主命ではなく事代主命が夫)
ことさらに「越の平定」を書く必要もありません。
記紀では八岐大蛇が毎年越の国からやってくることになったり、奴奈川姫の御子の建
御名方神(御名方富命)が、最後まで国譲りに反対して、敗北して諏訪まで逃げる…
など、越が悪者として描かれているような気がします。
もしかしたら、八岐大蛇とは、越に基盤をもっていた豪族ー蘇我氏(あるいは阿部氏)
をやっつけた話の隠喩なのではないか、そんな考えが浮かんできました。
出雲風土記では八束水臣津野命ー所造天下大神(大国主命)の系に強調されているよ
うな感じをうけます。その意図はなんなのでしょう。
母里郷も拝志郷も東部出雲ですが、前方後円墳や円墳ばかりで、方墳・前方後方墳が
ほとんどありません。東部は方墳・前方後方墳、西部は前方後円墳や円墳というおお
ざっぱな図式があてはまりません。なんででしょう。勉強不足でわかりません。
古代に興味を持ちはじめたのはつい最近のことで、司馬さんのエッセイで「出雲王朝」という言葉にであってから、この半年弱なのですが、、、実際、神話の世界や神様とは実在したのだと感じることが多々あります。
私は、素戔嗚尊の大蛇退治は、山合いに原住の所謂縄文人に対しての侵略話ではないかと、、、西出雲の神門家の始祖が素戔嗚尊ではないかと。
出雲王朝の頃からが、弥生時代と呼ばれる時代ではないかと思います。
これからも楽しみに拝見させていただきます。