2016年 04月 22日
神門臣の拠点はどこだったか? (4) 西出雲王国 滅亡の時
現在は公園として整備され、スポーツ施設もあり、まことに幸いな公園ですが、弥生時代の末期
ではそうでもなかったようです。
“その付近は平野なので、王宮の西側と東側に幾重にも堀を作って防衛線とする決意であった。
イワミ国の静間川中流の川合(大田市物部神社の地)に集結した物部・豊連合軍は、多伎の小田
を通って出雲平野を目指した。……中略……西出雲軍の大部分は、あわてふためき南方(古志町)
に敗走し久那子の丘に集結した。”
( 斎木雲州『出雲と蘇我王国』 大元出版 46頁より)
久奈子神社 島根県出雲市古志町2254
“そこはサルタ彦大神のこもる鼻高山を遥拝するイズモ王国の祭りの場であった。久那子の丘の
攻防戦も死闘を繰り返したが、両軍ともに苦戦した。最後に西出雲王家が支配権を失う形で、講
和となった。講和を締結したのは、出雲王朝最後の主王・山崎帯(たらし)であった。講和締結
の場・久那子の宮は、そののち中世まで「和評宮(わはかりのみや)」と呼ばれた。”
( 斎木雲州『出雲と蘇我王国』 大元出版 46頁より)
久奈子神社境内から望む鼻高山
“東征軍の将軍の一人である宇佐家出身の菟上王は、焼けた神門臣家宮殿跡に九州式の建物を建
てて、占領軍として滞在した。その建物は後に知井宮になった。”
( 斎木雲州『出雲と蘇我王国』 大元出版 46頁より)
智伊神社 島根県出雲市知井宮町1245
祭神 高皇産霊神 元々は1.5km東北にある多聞院(智伊神社の神宮寺) 南に隣接していたそうです。
弥生から古墳前期にかけて多聞院遺跡があり、智井神社は、古くは、神門水海に流れる神門川河口に位置し
ていた神社だったようです。
久那子の丘は、現在の久奈子神社の元宮があったと言われる南西に2キロほどの上新宮の辺りなのでしょうか?
真幸ヶ丘公園は、元は山崎ヶ丘と言われていたのですね。皇室の方がお寄りになって、名前までか変えられた、、、
斎木先生の本も読ませていただきましたが、出雲(杵築)大社は今年ちょうど1300年なのですね。
和評宮の地図は、確か勝友彦著『山陰の名所旧跡』~地元伝承をたずねて~大元出版に載っていたような気がします。
神在祭ですが、自分の「今のところの」説ですが、東出雲のイザナミ御忌み祭が、西出雲に持ち込まれ、それが大国主命に集まる…に転化したのではないか?…全国から神々が集まる理由がそこにあるように自分は思います。あくまで異説です。