神門臣の拠点はどこだったか?  (4) 西出雲王国 滅亡の時


神門川(現在の神戸川)の西方の知井宮町に「真幸ヶ丘」という丘があります。
昔は、「山崎ヶ丘」と言われていましたが、明治40年5月29日、時の皇太子様(後の大正天皇)
行啓の折に、この公園に立ち寄られ、それを機に「真幸ヶ丘」(まことにさいわいなおか)と改
名されたそうです。


真幸ヶ丘公園(まさきがおかこうえん) 出雲市知井宮町1327-1

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真幸ヶ丘公園 名前の由来


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現在は公園として整備され、スポーツ施設もあり、まことに幸いな公園ですが、弥生時代の末期

はそうでもなかったようです。


“その付近は平野なので、王宮の西側と東側に幾重にも堀を作って防衛線とする決意であった。

ワミ国の静間川中流の川合(大田市物部神社の地)に集結した物部・豊連合軍は、多伎の小田

を通って出雲平野を目指した。……中略……西出雲軍の大部分は、あわてふためき南方(古志町)

に敗走し久那子の丘に集結した。”

                 ( 斎木雲州『出雲と蘇我王国』 大元出版 46頁より)


久奈子神社 島根県出雲市古志町2254



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“そこはサルタ彦大神のこもる鼻高山を遥拝するイズモ王国の祭りの場であった。久那子の丘の

戦も死闘を繰り返したが、両軍ともに苦戦した。最後に西出雲王家が支配権を失う形で、講

和とった。講和を締結したのは、出雲王朝最後の主王・山崎帯(たらし)であった。講和締結

の場・那子の宮は、そののち中世まで「和評宮(わはかりのみや)」と呼ばれた。”

                 ( 斎木雲州『出雲と蘇我王国』 大元出版 46頁より)


久奈子神社境内から望む鼻高山


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“東征軍の将軍の一人である宇佐家出身の菟上王は、焼けた神門臣家宮殿跡に九州式の建物を建

て、占領軍として滞在した。その建物は後に知井宮になった。”

                 ( 斎木雲州『出雲と蘇我王国』 大元出版 46頁より)


智伊神社 島根県出雲市知井宮町1245 

祭神 高皇産霊神 元々は1.5km東北にある多聞院(智伊神社の神宮寺) 南に隣接していたそうです。

弥生から古墳前期にかけて多聞院遺跡があり、智井神社は、古くは、神門水海に流れる神門川河口に位置し

いた神社だったようです。



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智伊神社拝殿
智伊神社は、貞観13年(871年)に従五位上に神階を叙位されています。
出雲大社との関係も深く、大社遷宮の折、下付された古材をもって、神社の造営がされていたと伝統がある
うです。


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神戸川の西方面…古志郷が、弥生時代から奈良時代にかけては、神門郡の中心地のような感じが
ます。

by yuugurekaka | 2016-04-22 01:30 | 神門臣